• 検索結果がありません。

<4D F736F F D2091E F BD90AC E31318C8E8C8E97E189EF E646F6378>

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<4D F736F F D2091E F BD90AC E31318C8E8C8E97E189EF E646F6378>"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

294 回 平成 26 年 11 月月例会

安政期における開国と幕府外交

橋本 欣之介

はじめに

幕末から明治維新に至る時代に関するこれまでの通説は、「ペリー来航以降対外 圧力に対して因循姑息で弱体化した幕府は定見を持って毅然たる態度を取ることが出来ずその 圧力に屈して不平等条約を結び開国に踏み切り政治的混乱を招いた。一方、憂国の先進開明の 雄藩や青壮な志士等による討幕運動によって明治維新が実現して国際社会に船出、近代化が実 現した。」との歴史観が教科書的理解になっていた。 しかし、実質的な開国となる安政5年の日米修好通商条約締結に至る経緯を辿ってみるとそ こには上記の通説とは逆に、頑迷固陋な朝廷及び攘夷主義者に対し、幕府の開明的な有能な官 吏が当時の緊迫する東アジアの国際情勢の中で外交を適切に処理し日本の植民地化の芽を摘み、 且つ横浜開港などその後の日本の発展の素地を築いていたことが解る。

1安政の外交と幕府官吏

嘉永7年(1854年11月に安政に改元)日米和親条約 は、通商項目が含まれていないので従来の鎖国政策の延長線上にあった。従って此の後は実質 の開国=通商条約が外交の焦点となり、日米修好通商条約に至るまでに幕府は多くの外交局面 に接することとなる。 折衝に当たった幕吏は、次のとおり (年度) (事柄) (主な折衝役の幕府官吏) 嘉永7年8月 日英協約 水野忠徳、永井尚志 安政元年12月 日露和親条約 川路聖謨、筒井政憲 安政2年2月 日露条約改定 川路、水野、岩瀬 安政3年7月 ハリス来日 井上清直、岩瀬忠震 安政4年閏5月 日米下田条約 井上清直 安政4年8月 日蘭和親条約追加条項 水野、岩瀬 安政4年9月 日露和親条約追加条項 水野、岩瀬 安政4年12月 日米修好通商条約交渉 岩瀬、井上 安政5年6月 日米修好通商条約締結 岩瀬、井上 安政5年7月~9月 日蘭、日露、日英、日仏各修好通商条約 水野、岩瀬、井上、

(2)

永井、堀利熙 安政6年 横浜開港交渉 堀、永井、井上、 その都度複雑な国内事情、幕府事情の下で厳しく困難な外交を担っている。

2.日米和親条約締結後の外交交渉の背景

(日英協約と英国の対日動向) 英 シナ方面連合艦隊司令長官スターリングが長崎に入港、その要求は、クリミヤ戦争勃発を背景 に中立国としての義務を日本政府に求めた軍事的取り決めを意図したものであったが、時の長 崎奉行水野忠徳は、誤訳、誤解も手伝って和親条約の範囲内で締結している。日本側にとって この協約は、明らかに通商条項を含まないもので当時の英国の日本に対する通商要求の穂先を 図らずも弛める効果を持つことになり外交的には成功と言えよう。というのは、この時英国の 対日動向は、清国駐在貿易監督官ボーリングが対日強硬姿勢を取っており1954年(嘉永7 年)5月、及び1856年(安政3年)に艦隊を引き連れ日本に向かう準備を完了していたか らである。しかし、クリミア戦争、アロー戦争によりそれぞれ上記艦隊派遣計画が延期されて いたのである。なお、この英国の日本への艦隊派遣計画は、クルシウス(蘭)、ハリス(米)と の折衝で度々脅威として利用されている。

3.開国への始動

3・1 老中阿部正弘の幕吏登用

嘉永から安政のこの時期において困難な対外交渉を 担った上記主役は、老中阿部正弘が外交問題こそが幕政の根幹となる時代と捉えて旧態の幕吏 登用(門閥主義)では対応できないと考え実力主義で登用、起用した人材であった。 昌平黌大試に及第した俊秀から、嘉永6年に永井尚志、堀利熙が、同7年に岩瀬忠震が海防 掛目付に起用されている。大久保忠寛は、同7年海防掛目付、井上清直は安政2年下田奉行(目 付資格)にそれぞれ起用されている。岩瀬は部屋住みに拘わらず養父を超える出世であり、井 上は川路聖謨の実弟で父は旗本株を買った元日田代官所の役人であり兄弟異例の抜擢であった。 目付は、本来旗本、御家人を監視する役目であるが、実際は、幕政における全般的行政を行う 役割と権限を担っていた。安政2年当時の城内目付部屋には、大目付は土岐頼旨、目付筆頭に 鵜殿長鋭、目付に岩瀬忠震、大久保忠寛、出先の長崎に永井尚志、箱舘に堀利熙がおり意気の あったチームワークを築き、安政5年井伊大老出現まで目付部屋は開国をリードしていたので ある。

3・2 対蘭、対ハリス折衝と開国論議

(1)幕府における開国論議 安政3年7月8日に蘭艦メデュサ号艦長ファビウスが長崎に入 り、「緩優(自由)貿易が世界の潮流でありもしこれを拒めば世界の強国との戦争になる。」と 自由貿易を要求する。7月20日に長崎奉行川村修就、目付永井尚志等は、クルシウス、ファ

(3)

ビウス会談の後、国益になるので規則を設けて交易御免とするよう上申する。更に同時期の7 月21日ハリスが下田に来日、これらを受けた幕府では、堰を切ったかのように開国論議が活 発化する。 ①安政3年7月に岩瀬をリーダーとする海防掛目付が、国内海運の変化と共に貿易開始と関税 徴収を念頭に開国通商こそ文武振興の基本と上申、これを受ける形で8月4日老中阿部正弘が 「交易仕法の件」として諮問、「・・・交易互市之利益を以富国強兵之基本と被成候方、今之時 勢に 脇かない可然哉」と初めて貿易を将来の国策として示しその仕法の調査を命じたのである。 ①安政3年8月29日 岩瀬忠震が下田に出張しファビウスと対談し外交、通商に関する知識 を吸収した後、ハリスと対談、ハリスの主張、目的、国際情勢等を聴取の上、9月15日帰府、 阿部正弘に平和裡に開国すべきこと、貿易開始にあたり調査、準備が急務であること等を建白 したものと思われる。岩瀬忠震はこれ以降ハリスの上府を支持し開国に向かって行動を起こす ことになる。 田辺太一『幕末外交談』に、安政3年10月17日 老中堀田正睦外国事務取扱に任じられる に当たり「将軍自ら外国貿易を許す手段を審議すべきことを面命した。・・・幕議が急にここま で発展したのは、時の目付岩瀬修理がハリスと下田で会談して、その説くところを聞き、自分 の平生の抱負と符合したので、江戸に帰ってただちに正弘に報告した。正弘も早くから同じ考 えだったので、水乳相投ずるの想いがあった。時あたかも、正睦も閣中にあったので、開国の 新劇を演ずる役者がやや揃ったことによるものであろう。」と述べている。3人の考えが一致し ていたのである。 ①安政4年2月5日 クルシウスより「アロー号事件」情報が伝えられる。幕府はこれに衝撃 を受け老中堀田正睦は、2月24日「外国人の取扱い」に関して諮問する。この諮問に対する 消極的開国論に対し、4月堀田正睦は次の様に積極的開国論を述べる。 「・・・おいおい異情も相分かり候間、彼らの懇願の有無にかかわらず、いきおい御開相なら ず候ては、叶わざる時節ゆえ、唯今にては、最初余儀なく御開きのかどは打ちすて、以後永世 の御制度に相なり、富国強兵の基本にいたし、ゆくゆくご国力伸長の工夫これありたき儀と存 じ候」と堀田においては、目付の意見と同じく、将来の日本の姿を見据えて開国の決断をして いたことが分かる。 (2)日蘭追加条約、日露追加条約締結 安政4年4月 水野忠徳、岩瀬忠震は長崎出張。ク ルシウスと同8月29日に日蘭追加条約、9月7日プチャーチンと日露追加条約を締結する。 この追加条項は、貿易額、船数の制限を外した形の「脇荷商法」の方式で貿易を拡大すること で合意されたものであった。この交渉は、消極的開国派の勘定奉行と積極派の目付のコンビで 行われたもので両者の妥協点と解釈すべきであろう。 これらの条約の締結により、近々強硬 に通商を迫ってくる米英に対してこの線で対応出来ると幕府は考え歓迎したのである。しかし、

(4)

ハリスがこれに満足する筈は無かったのである。

4.日米修好通商条約締結への道

4.1 ハリスの出府と各層の意見

安政4年6月17日 ハリス上府に慎重派であっ た阿部正弘が他界する。これにより堀田正睦が老中筆頭となりハリス上府に踏み切り10月2 1日登城、将軍謁見が実現する。ハリスは続いて26日に堀田の役宅にていわゆる重大事件演 説をすることになる。その要旨は世界の大勢から鎖国主義は成立しないこと、英国の侵略主義 の警告とアメリカの平和的対日交渉、自由貿易による日本の経済発展を説くものであり、その 演説に基づくハリスの具体的要求は、政府の干渉の無い自由貿易、公使の江戸駐箚、開港場(下 田)の変更、追加の3点であった。 堀田正睦は、ハリスとの会談記録を示して、幕府有司、 大名に対し意見を求めた。 評定所一座、勘定所は、「穏便の処置」=「消極的容認」を述べ、大小目付、筒井政憲等は、世 界の大勢を踏まえて「積極的容認」を上申、いずれにしても幕府有司は開国論に収斂してきて いたのである。 大名諸侯では、ペリー来航時の強硬意見は減り、許容論あるいは消極的容認論が大勢を占めて きている。しかし、御三家が非容認、批判論であることが問題を残していた。 その中で例の攘夷論リーダーの水戸斉昭は、自らアメリカへ乗り込み談判するなど荒唐無稽 なこと、また「交易ニテ一切御国之御益ニ相成事ハ無之、・・・終ニ不残御国を可奪計策ニ御座 候」と相変わらず攘夷論を変えていない。しかも此の後幕府が開国に決定すると、姻戚関係に ある(姉婿)太政大臣鷹司政通を通して京都工作もこの趣旨で行っていたのであった。 岩瀬忠震は、長崎からの帰途上申書を送付する。貿易開始は自明のこととし、下田に替わる 港に関して、大阪への利権の集中を避け江戸の復権を図る「中興一新之御鴻業」ともなる横浜 開港を建言している。これが海外情報、海外新技術に真近に接する富国強兵への基本と主張す る。開鎖議論のレベルを既に越えて貿易開始後の将来の国の形、経済政策に具体的提言をして いるのである。 これらを受けて、堀田正睦は、11月「外国処置の件」として意見書を評定所一座宛に出し ている。 「惣て強兵は富国より生し、富国之術は、貿易互市を以第一となす故、即今乾坤一変之機会ニ 乗し、和親同盟を結ひ、広く万国に航し、貿易を通し、彼の所長を採り、此の不足を補ひ、国 力を養ひ武備を壮にし・・・」 と、富国強兵のため開国が必要であり、今がそのチャンスである。と述べている。 この堀田正睦と岩瀬忠震等の幕府中枢の政策推進者がこの時点で一番の開明論者であったと 言えよう。 因みに有識者と言われる人達が、開国論に移行するのは、横井小楠は万延元年(1

(5)

860年)「国是三論」にて、会沢正志斎は文久2年(1862年)「時務策」にて、佐久間象 山は同じく文久2年「時政に関する幕府宛上申書」においてであった。

3・2 日米修好通商条約の折衝と条約勅許奏上

堀田正睦は、ハリスの圧力もあり12月2日ハリスと会談を設け、終に開国の許諾を通達す る。翌3日井上清直と岩瀬忠震が条約交渉の全権委員に下命される。交渉は、12月11日か ら始まり12月26日に大綱が妥結し翌年1月12日まで計15回の折衝を経て条約案が完成 している。 幕府は、条約締結に向け一部の批判派の大名及び尊王攘夷派を抑えるために条約の勅許を得 ることでこれを乗り切ろうと決断し、堀田正睦は川路聖謨、岩瀬忠震と共に1月21日江戸を 立ち京都に上った。この時点では堀田正睦以下は勅許に関しては楽観的に考えていたが、朝廷 側の反応は、思いがけずも頑なで紆余曲折の末、結局3月20日「御三家大名とも更に協議の 上改めて奏上せよ。」と勅許せずとの勅諚が発せられる。この経緯において、堀田正睦の側は、 世界の大勢を説明して日本の将来を説いた上書も暖簾に腕押しで理解されず、朝廷の無知、固 陋に辟易として「堂上がた、正気の沙汰とは存ぜられず。」と嘆息している。一方朝廷側は、「幕 府は世界の大勢と英国の軍事的圧力1点張りで、大譲歩を強いられている。・・・これでは征夷 大将軍の職を全うしていない。夷荻の脅迫に怯えて良き伝統である祖法を捨て亡国に導いてい る。」という認識であった。中山忠能、大原重徳、岩倉具視等青壮公家達は3月12日「列参事 件」にて幕府側の関白九条忠尚に強訴して上記趣旨の勅許拒否に持ち込んでいる。 この背景には、梅田雲浜、梁川星厳等尊王攘夷論者の入説、水戸斉昭の京都工作などを背景 に孝明天皇の攘夷信奉があったと考えられる。朝廷に世界の情勢と日本の現状を理解する時代 認識があって勅許がなされていれば、日本は別の近代化への道を歩んでいたであろう。

3・3 井伊大老就任と条約調印

(1)将軍継嗣問題 条約勅許と並行して幕府内では将軍継嗣問題の確執があった。一橋慶喜 を嗣子に押す松平慶永を中心とする改革派の一橋派と反水戸(斉昭)で紀州藩主徳川喜福(後 の家茂)を押す井伊直弼を中心とする保守派の南紀派が暗闘していたのである。岩瀬忠震を含 め開明派の有司は一橋派に組して、賢明の世子と雄藩を含めた幕政改革をすべきと主張してい る。しかし、将軍家定は、譲位を前提とした慶喜擁立への不快感、大奥の拒否反応もあったの で、条約不勅許を機に井伊直弼に大老の命を下し(4月23日)嗣子問題も決着をつけさせる のである。 井伊直弼は、就任と同時に実権を掌握、強権政治が始まる。 (2)条約調印 調印延期の申し入れにハリスは、激昂するが結局4月27日に90日の猶予 を受け入れ下田に引き上げた。しかし、丁度この時期に中国では、アロー戦争が終わり5月 16日に天津条約が締結された。これを伝える米艦が6月15日に下田に入港し、併せて英 仏両国艦隊数十隻が近く江戸に渡来するであろうと報じた。ハリスはそうなれば英仏に先に

(6)

条約締結されこれまでの努力が無駄になることを恐れて、17日ポーハタン号に乗って神奈 川小柴沖に来泊する。幕府は直ちに岩瀬忠震、井上清直を派遣しハリスと応対させる。ハリ スは英仏艦隊が来れば非条理の条約を強制されるであろうと、その脅威を利用して調印を迫 り、一方岩瀬忠震等は、英仏来航前にハリスが調印を懇願するのは絶好の機会と捉え、京都 に構わず調印すべきと考えていた。海防掛一同もこれに同意であった。そこで岩瀬忠震、井 上清直はハリスから「米国全権は英仏両国をして日米条約の条項を受け入れさせ、もし両国 がこれを拒否すれば、米国は日本のため調停者になる。」との保証書を取り付け江戸に戻っ た。19日幕府では調印に関する評議が行われ、大勢は調印を主張したが、井伊直弼は勅許に 拘り、岩瀬忠震、井上清直に「勅許を得るまで調印を延期するよう尽力せよ。」と下命する。 井上(岩瀬)が「やむを得ない場合は、調印して良いか。」と迫ったのに対し井伊直弼から「そ の場合は致し方ない。」との言質を取り付ける。両名は、毛頭延期交渉の意図はなく、ポ ーハタン号に戻ると直ちに調印する。安政5年6月19日であった。 この時の岩瀬忠震の心境として、「此調印の為に不測の禍を惹起して、或は徳川氏の安否に係 る程大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、此場合に臨 みては、社稷を重しとするの決心あらざる可からず。」と井上清直に語っている。幕府、朝廷も 無い国家の危機、国益は何かが彼の判断基準であったのである。 条約調印は即日「老中奉書」の形式にて飛脚便で朝廷に報告される。この形式も含め孝明天 皇、朝廷側が激怒、水戸への降勅となり、また違勅調印として尊王攘夷派が台頭、「安政の大獄」、 続いて「桜田門外の変」と幕末の混迷期に入るのである。 (3)外国奉行設置と安政5か国条約締結 7月8日幕府は、従来の海防掛を廃して新たに外国奉行を設置、田安家家老から戻した水野 忠徳、勘定奉行永井尚志、目付岩瀬忠震を専任、下田奉行井上清直、箱舘奉行堀利熙を兼任と した。このことは、岩瀬忠震等幕政全般に意見を言える立場にあった海防掛目付の俊秀達が、 外交のみを扱う専門家になったことを意味する。この外国奉行達により、日米条約に準拠した 形で矢継ぎ早に、日蘭(7月10日)、日露(7月11日)、日英(7月18日)、日仏(9月3 日)と日米条約と合わせて安政5か国条約が締結されるのである。

おわりに

(幕政の転換と海防掛の粛清)

これらの諸条約締結は、日本が自由貿易を受容して世界資本主義国の一員となったことを意 味する。今後は国際化、近代化に向けて一層の政治改革を進めるべき段階に入ったのである。 振り返って見れば、嘉永6年ペリー来航以降、老中阿部正弘がリーダーとなって開国政策に踏 み切り、人材を登用し改革政策を実行し且つ時間をかけて世論を形成してきた結果であった。

(7)

当時列強が日本を植民地化する意図があったと言うことは出来ないが、アヘン戦争、アロー号 事件にみられるように、もし日本側に国内の分裂、外交上の不手際などのつけ入る隙があり仮 に一国が行動に出れば他国も同調し武力を行使し、結果領土の一部を占拠された可能性は否定 できない。この緊張した国際関係の下で日米修好通商条約を皮切りにこの4強と平和裏に条約 を結び植民地化の芽を摘むことが出来たのは、当時幕府に若い優秀な人材が輩出したからであ った。この路線を推進してきたのは異例の抜擢により登場してきた俊才の目付を中核とする海 防掛の諸有司であった。そこには、幕府の旧秩序を離れ自由に議論し現実的政策を推進するエ ネルギーがあった。その中心が岩瀬忠震であり同志の永井尚志、堀利熙、大久保忠寛、井上清 直達であった。 しかし、井伊直弼の登場により、これまで進めてきた外交政策、政治改革の路線は急転回す る。 譜代筆頭の井伊直弼は、封建的名門意識を持ち、封建秩序つまり幕府の権威、家格に固 執する保守且つ幕府独裁回帰主義者であった。この観点から一橋派としての粛清に加え「下級 幕臣の出自でありながら継嗣問題に口を挟み、身分を顧みず上役に強言するなど海防掛の面々 は枢要な要職に誇って傲慢で不遜であり取り除くべし」と海防掛を、特に岩瀬忠震を第一の処 罰対象としていた。9月3日までに各国との条約調印が終了すると、直ちに順次左遷し、翌安 政6年8月27日本格的粛清に入る。つまり、岩瀬忠震を永蟄居に(文久元年病死)、永井尚志 を永蟄居に(文久2年復帰)、大久保忠寛を免職に(文久元年復帰)、川路聖謨を隠居・慎に(江 戸開城時自決)、残る2人の外国奉行の堀利熙、水野忠徳は、処分を免れるが、その後非業に終 わり、復帰した者も幕府の方針の変化、混迷があり十分に力を発揮出来ずに幕府の終焉を迎え ている。

(不平等条約)

日米修好通商条約は、幕府の無力、弱腰のため米国ハリスの脅迫、強要に屈して、領事裁判 制度、関税自主権の放棄などを含む屈辱的条約であり明治になってからも長い間苦しんだ、と の認識が明治以来定説になっているが、不都合なことは、前政権の責めとする新政権の常套手 段と考えるのが公平の様である。 「領事裁判制度」については、「馭外の法」(統治 外)として家康の朱印状以来の祖法であり、外国人を裁く合理的な法体系の無い幕藩体制のこ の時代の当り前の国是であった。明治5年は日米条約の改定時期となったが、明治政府は、日 本の司法制度が未熟であることを認識して条約改正の延期を申し入れている。(領 事裁判権は明治27年に撤廃) 「関税自主権」については、幕府に正しい知識が無かったとは言え、貿易章程に輸入税は高 率の従価税平均20%(35%~5%)で決められており、更に5年後に再協議する権利も決 められていた。しかし、慶應2年攘夷派による混乱に付け込んで英、仏、蘭、米4か国の連合

(8)

艦隊が兵庫に押し寄せ、英公使パークスが主導して安政の条約の勅許、兵庫先期開港、関税率 低減を要求する。上洛談判するとの脅迫もあって朝廷は終に条約勅許を認めたが、兵庫開港は 大久保利通等の反対工作があり認められなかった。これではパークスは収まらず一律5%の重 量税という関税引き下げを認めさせ、翌年5月に「改税約書」を締結している。日本はこれに 苦しんだのである。田辺太一は『幕末外交談』の中で「単にこの一事をもってしても、攘夷党 がその凶暴をほしいままにしたために、国を害することが甚だしかった。」と述べている。(条 約改正し関税自主権を取り戻したのは明治44年(1911年)で ある。(了) (紙面制限のため例会発表レジュメを一部省略および短縮致しました。筆者) (参考文献) 東京帝国大学『大日本古文書』(幕末外国関係文書)明治43年 福地源一郎『幕末政治家』平凡社 1985年 福地源一郎『幕府衰亡論』平凡社 昭和42年 田辺太一『幕末外交談』平凡社 昭和41年 石井 孝『日本開国史』吉川弘文館 1972年 土居良三『幕末五人の外国奉行』中央公論1997年 松岡英夫『岩瀬忠震』中央公論社 昭和56年 宮地正人『幕末維新変革史』岩波書店2012年

参照

関連したドキュメント

[r]

長期ビジョンの策定にあたっては、民間シンクタンクなどでは、2050 年(令和 32

代表研究者 小川 莞生 共同研究者 岡本 将駒、深津 雪葉、村上

当初申請時において計画されている(又は基準年度より後の年度において既に実施さ

平成 29 年度は久しぶりに多くの理事に新しく着任してい ただきました。新しい理事体制になり、当団体も中間支援団

2017年 2月 9日 発電所長定例会見において、5号炉緊急時対策所につい

証明の内容については、過去2年間に、優良認定・優良確認を受けようとする都道府県(政

関西学院大学社会学部は、1960 年にそれまでの文学部社会学科、社会事業学科が文学部 から独立して創設された。2009 年は創設 50