茨城大学教育学部紀要(教育科学)29号(1980) 135−150 135
デューイ教育思想における生活の原理について
関 勤
(1979年10月17日受理)
On the Principle of Life in John Dewey s Educational Thought
Tsutomu SEKI
(Received October l7,1979)
1 学校教育と社会生活における教育
デューイはその主著『民主主義と教育』の第一章「生活の必要としての教育」,第二節「教育とコ ミ。ニケーシ.ソ」(Education and Co㎜unication)において,「実際,学校は未成熟者の 性向を形成するところの伝達の一つの重要な方法である。がしかし,学校は単に一つの手段にすぎ ない。そして,他のいろいろな働きとくらべれぽ,比較的に表面的な手段なのである。教授のより基
本的かつ持続的な様式の重要性が理解されているときに,はじめてわれわれは間違いなく学校教育的 1)
菇@を正しい文脈の中へ位置づけることができるのである」と述べている。
この論述の趣意は,教育を不当に学校教育的な,あるいは制度的なものとしてのみとらえる考え方 を排除して,教育を広義の概念においてとらえなおし,そのうえで学校教育に正しし位置をあたえる ことにおかれている。当時,教育といえば,それはただちに学校教育を意味するものとしてうけとら れていたようであるが,その間の事情は,現代においてもあまり変わっていないように思われる。現 今,家庭教育や社会教育の必要性や重要性がしきりに強調され,施策としても重点視されてきている ようであるが,それは反面において,従来より,あまりにも学校教育のみが世人の関心のまととなり,
耳目をあつめており,そのことの結果として教育上に生じた種々の歪みを是正することの必要感によ って,あらためて家庭教育や社会教育の必要性や重要性が見直されてきたことを反映するものである ように思われる。いいかえれぽ,現今における家庭教育や社会教育の必要性や重要性の強調は,教育 といえば学校教育のみを意味すると考えてきた一辺倒的な従来の教育認識があやまりであり,そのあ やまった教育認識のために種々の教育上の過誤がおこり,それにたいする反省としてあらわれてきた
ものと考えられる。
それゆえ,デューイは学校教育を教育の単に一つの手段にすぎないもの,むしろ,比較的に表面的 な手段にすぎないものとみているのである。そして,より基本的で,かつ持続的な教授の様式の存在 を学校教育の外のところ,すなわち,社会生活における教育,共同生活における教育にみいだしてい るのである。学校教育的方法は,学校教育の外のところにある教育,すなわち,社会生活における教 育,共同生活における教育(それらはより基本的で,かつ持続的な教授の様式をもつものと考えられ ている)を真に理解し,それとの正しい関係(調和)を保持しておこなわれるときに,はじめて,そ の本質的機能を発揮しうるとされるのである。
デューイはまた,同じ章の第三節「形式的教育の地位」(The Place of Formal Education)
において,「あらゆる人が,ただ生存しつづけるだけでなく,真に生活するかぎり,他の人々ととも に生活することから受ける糖と,年少者にたいする計画的轍育との間には顕翫差異があ溜と 述べたり,または,「われわれはかくして,これまで考察してきた広汎な教育的過程の中から,より
形式的な教育一直接の搬,あるいは学鰍育的な教育一を区別するにいたっ艀と述べること よって,教育における二つの形態,あるいは二つの形式を明確に区別しようとしているのである。一 つは他の人々とともに生活することから受ける教育であり,広汎な教育的過程と呼ばれるものであり,
他は年少者にたいする計画的教育であり,形式的な教育一直接の教授,あるいは学校教育的な教育 一である.前都また「他人との非形式的な共同生激おける訓幽とも呼ばれる楯であり,非
形式的教育(info㎜al education)とも称される教育である。後者は形式的教育(formal education)または形式的教授(formal instruction)と称される教育である。
なお,デューイは第二章「社会機能としての教育」,第四節「特殊な環境としての学校」(The School as a Special Environment)において,「成人たちが未成熟者の受ける教育の種類 を意識的に統制する唯一の方法は,未成熟者がその中で行動し,そして思考し,そして感じたりする ところの,環境を統制することによるのだ。われわれは決して直接に教育することはできないのであ って,環境によって間接的に教育するのである。偶然的な環境のままに放置してなるがままに子ども を教育するか,それとも,教育の目的のために環境を設計するかどうかは,非常に大きな差異を生ず 驕Hと述べて非形式的糖と形式的鮪との根本的差異棚らかにしている.蹴をイ黙的なままセこ 放置して,なるがままに子どもを教育するのが非形式的教育であり,教育の目的のために特別に環境 を設計して子どもを教育するのが形式的教育である。
教育におけるこの二つの形態,あるいは二つの形式について,デューイは,「教育哲学がとり組む べきところの最も重要な問題の一つは,教育の非形式的様式と形式的様式,偶然的様式と意図的様式 ニの間に,正い〉・ランスをもたせる方法の問題である馳言及している.泌の指摘をよ形式鰍育
(意識的計画的教育・学校教育)と非形式的教育(無意図的偶然的教育・社会生活における教育)と は,それぞれ独自の機構を有するものであり,一方をもって他方の代替とすることのできぬものであ
る。いうならば,両者は人間の教育にとって唇歯輔車の関係,車の両輪のような関係にある。両者の 正しいバランスがたもたれて,はじめて人間の教育は全きをうるのである。かく考えることによって,
デューイはこの両者の正しいバランスをもたせる方法の問題こそ,教育哲学が探究しなけれぽならな い最も重要な課題の一つであると説いたのである。
筆者はさきに,デューイのこの指摘は,形式的教育(学校教育)のみを重要視している一般的な考 え方にたいする批判であると考えられると述べたことがある。非形式的教育(社会生活における教育)
の重要性にたいしてまったく認識をもっていない教育研究者および教育実践者(教師)にむかって,
その見識の浅薄さを指摘し,教育の理解のための今後の課題を示した。教育哲学の探究における最重 要課題の一つとして,非形式的教育と形式的教育との調和の問題をとりあげ,この問題提起によって,
非形式的教育の重要性にたいする一般人および教育研究者や教師の注意を喚起しようとしたのである,
ニ述べたこと莇る♂デ_イのこの指摘馳のだれにたいするよりも融龍学の研究を任務と する者にたいしてなされたものであることはいうまでもない。
また,この指摘,この教育哲学の探究課題の提示は,単に非形式的教育の重要性にたいする注意の 喚起にとどまるものではなくて,非形式的教育と形式的教育とが正しいバランスをもつことによって,
学校教育そのものが真の教育力を発揮できる地位をあたえられることになり,その結果として人間の
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教育が総体としてより望ましいものになることをうったえたものである。
デューイは上述の指摘をさらに具体化させて,「知識や専門的な知的技術の獲得が,子どもの社会 的性向の形成に影響をおよぼさないばあいには,日常の生き生きとした経験は意味を深めることがな く,また他方,学校教育もそのかぎりにおいて,単に学問における「専門家」一すなわち,自分本 位の専門家一をつくり出すにすぎないのである。人々が,学習という特殊な仕事によってそれを学
んだことを知っているために,意識的に知っていることがらと,人々が他人との相互交渉を通して自 分たちの性格を形成する過程でそれを吸収したものであるために,無意識的に知っていることがらと の間の分裂を回避することは,すべての専門的な学校教育の発達とともと,ますます取り扱いの至難 な課題となるのであ鴇と論じているカ・,これは非形式的鯖と形式鰍育とが正しし一・ランスを保 持して連続することができなかったばあいの非劇的な教育の姿であり,かつまた,今後の専門的な学 校教育の発達は,非形式的教育と形式的教育との間の分裂を回避することを取り扱い至難な課題とす
るであろうと予見しているのであるが,この予見(60年前の)は的中しているといわざるをえない。
文部省教科調査官 森上史朗氏は,現在の学校教育の根本的かつ緊急の課題として,「小学校の教 9)育課題は教育の生活化ということであり,幼稚園の教育課題は生活の教育化ということである」と述
べられているが,この森上氏の論述は,前述した「非形式的教育と形式的教育との間に,正しいバラ ンスをもたせる方法の問題こそ,教育哲学がとり組むべきところの最も重要な問題の一つである」と いうデューイの指摘と関連させて考察するとき,きわめて示唆にとむ,しかも含蓄のある主張である ように思われる。
小学校の教育は伝統的に教科の系統性を重視し,知識や技能の獲得を目標とした形式的教育の性格 の強いものである。これを現代化(人間化・社会化)するためには,これに非形式的教育の要素を附 加する必要がある。非形式的教育の要素とは社会生活における教育の要素である。したがって,小学 校教育においては教育の生活化が必要である。幼稚園の教育は伝統的に経験や遊びの要素,すなわち,
生活の要素を重視した非形式的教育の性格の強いものである。これをある程度系統化させ,知識化さ せるためには,これに形式的教育の要素を附加する必要がある。すなわち,生活の教育化が必要にな る。このばあい,「教育」という言葉の意味するものは「形式的教育」であり,「生活」という言葉 の意味するものは「非形式的教育」と考えて,大きな誤まりはないであろう。以上の意味から,デュ 一イの指摘は,現在,森上氏の論述するように,大きな教育課題として生きているのである。
今日,教育の近代化,あるいは教育の現代化の必要性がさけばれ,さらには,教育の人間化が緊急 を要するものとして求められている。近代化,あるいは,現代化の必要性というぽあいには,教育の 全面的な近代化,あるいは,現代化(教育の目的と手段,内容と方法の総体の近代化や現代化)とい うよりは,視点をことさらに教育内容・方法に局所化させて,教育内容の現代化,あるいは教育課程 の現代化という形をとるのが一般的のようである。
たとえぽ,広岡亮蔵氏はその著書『中等教育原理』(1965年,国土社)において,教育内容の現 代化の必要性を,「(一)科学技術革新の衝撃,(二)教育内容の立ち遅れ,(三)教育内容の現代科 学化雪)という三点にしぼって説明さ紅いるが,その主張の中心点は現代社会における科学技術鞠 の衝撃による教育内容の現代化の必要という認識である。すなわち,産業社会の変ぼう,科学技術の 躍進,社会生活の高度化,人間の感情の変化,がそれにともなう教育内容の現代化をうながすという 論理である。
もちろん,教育内容の現代科学化の必要性の論述において,科学と生活との間のr方交通に由来す る教育内容の不適切性をあげて,科学と生活とのたえざる対話の結実としての教育内容の組織の必要
性を述べられている。それによれば,「望ましい教育内容は科学と生活との間のどちらかの一方交通 をとる必要はなく,できるだけ相互交通の行き方をとることが望ましい。科学の窓から手を伸ぽして 子どもの生活経験を選択し枠づけをするとともに,つぎにはひるがえって,この生活経験の枠から手 を伸ばして,科学の枠の中味の多少の模様替えをする。こうした往復運動を何回か重ねるほど,すぐ れた教育内容がとり出されてくる。いいかえると,科学または生活の独語としての教育内容ではなく,
科学と生活とのたえざる対話の結実としての教育内容をとり出すことが望まれる」ということが主張 されている。
この広岡氏の主張には,科学と生活とのたえざる対話の結実としての教育内容の組織という意欲,
いいかえれば,教育(内容)の生活化への意欲もみとめられはするが,それはなお微弱である。そこ には,教育の現代化を教育内容の現代化としてとらえ,しかも,その教育内容の現代化を科学化・技 術化を中心としてすすめようとする強い姿勢がみとめられる。科学化・技術化を中心とする教育内容 の改革は,教科の系統性を重視した形式的教育を維持し推進する立場にたつものということができる。
そこには教育の生活化の必要性の認識は,まだ明確な姿をあらわしていないのである。
たしかに,小学校以上の学校の教育は伝統的に教科の系統性や獲得される学力としてのミニマム・
エッセンシャルズを重視してきたのであるが,今日,小学校や中学校等の児童・生徒が,自主的に,
主体的に,創造的に学習活動にしたがい,興味や関心や必要感にささえられて,積極的に生き生きと 学校生活を享受することができるためには,形式的教育としての性格のつよいこれらの学校の教育を 変革して,生活化することがどうしても必要である。非形式的教育(社会生活における教育)のもつ 人間形成のゆたかな要素を学校教育にとり入れることがどうしても必要である。
教育の人間化というばあいには,これは,教育の生活化ということと,ほとんど同義と考えてもよ いように思われる。小学校の教育課題は教育の生活化ということであり,幼稚園の教育課題は生活の 教育化ということである,という森上氏の主張は,デューイの指摘とも一致した教育哲学の根本問題 の一つに該当する重要な内容を意味しているものなのである。
本稿ではデューイの教育思想における生活の原理を探究しようとする。ここにいうところの生活の 原理とは,非形式的教育の原理である。すなわち,社会生活における教育の原理であり,いいかえる
と,社会生活に直接参加することによってなされる人間形成の原理である。さらにそれは,他人との 非形式的な共同生活における訓練の原理と呼ばれても,その本質は変わることがないであろう。この
教育の原理は,形式的教育の原理とは異質のものであろう。学校教育の原理とは異質のものであろう。
がしかし,この学校教育の原理とは異質の教育の原理の性格をできるだけ明確にし,その生き生きと した教育の要素をできるだけ的確に把握し,それをゆたかに学校教育に導入するならば,学校教育を して命のかよったものと変革しえるであろう。また,学校教育と社会生活における教育との間に正し いバランスが保持され,両者が正しい連続をなすときに,はじめて人間の教育は全きをうるので
ある。
皿 社会生活の過程そのものが教育する
(1)社会生活・コミュニケーション・教育の一義性
われわれは,これまで,デューイによって非形式的教育と形式的教育,無意図的偶然的教育と意識 的計画的教育とが識別せられていること,および両者の調和(連続)が求められていることを明らか にしてきた。それは学校教育と社会生活における教育,社会生活に直接参加することによってなされ
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る人間形成との識別および調和の要求と同じことである。デューイはこのように識別することをとお して,非形式的教育と形式的教育との正しい調和(連続)の問題こそ,偶然的教育と意図的教育との 正しい調和(連続)の問題こそ,教育哲学上の重要問題であること,この正しい調和(連続)をとお
してこそ,学校教育そのものが正しい文脈の中に位置づけられること,および,人間の教育が全き をうることを主張したのである。この主張は,学校教育と社会生活における教育との正しい調和
(連続)を求めているが,この正しい調和(連続)を実現するためには,調和(連続)せられるもの の本質を的確に把握することが前提として求められることになる。われわれは,デューイによって,
学校教育と調和(連続)すべきものとしてかくも強調せられている「非形式的教育」,「社会生活に おける教育」とは一体なんであるのか,その本質はいかなるものであるのか,を明らかにしなければ ならないと思う。
デューイによって説かれる社会生活における教育の特質は,社会生活とコミュニヶ一シ.ンと教育 とがまったく同一の意義をもつものとして関連づけられていることにある。社会生活はコミュニヶ一 シ・ソと同一のものであり,コミュニケーシ。ンは教育と同一のものなのである。 「教育とコミュニ ケーシ・ン」論において,かれは結論的な所説として「社会生活がコミュニケーシ。ンと同じことを
意味するばかりでなく,あらゆるコミュニヶ一シ。ン(したがって,あらゆる真正の社会生活)は教 11)育的である」と断言しており,また,「社会生活がそれ自身の永続のために教授と学習とを必要とす
るのみならず,共同生活(li。i㎎t。9,ther)の過程そのものが糖するのである曾)瑚言している のである。デューイが社会生活における教育というとき,それは「共同生活の過程そのものが教育す る」という命題を意味しているのであり,そこではコミュニケーシ。ンが大きな意味をもち,大きな 役割をはたすことになる。
(2)社会の形成・存続とコミュニケーション
・ ■ o ●
まず,デューイは社会とコミュニケーシ。ンとの基本的関係について「社会は伝達によって,コミ
■ ■ ● ●
E二ヶ一シ・ンカそ存在をつづけるセまかりでなく・賭と瑚鮪ミ・二ヶ一シ・ンにおいて存在するのである」と規定している。社会はコミュニケーシ。ソによって存在をつづけるということ
・ ● ・ ●
と社会はコミュニケーシ。ンにおいて存在するということとはどこがどのようにちがうのであろうか。
・ ● o ● ● ● ●
によってとにおいてとはどのようにちがうのであろうか。
● ● 0 ●
そのちがいはつぎのように解釈されるであろう。社会はコミュニケーシ。ンによって存在をつづけ るというばあいは,社会が社会として形成されて以後,その社会の存続の手段としてコミュニケーシ
・ンが役割をはたすということが意味されている。一歩ふみこんでいえぽ,社会の形成そのものにコ ミュニケーシ。ソは関係をもたないということが,反面の解釈として意味されているのである。形成 されて以後の社会とコミュニケーシ。ンとのかかわりの問題である。
● ■ ●
ところが,社会はコミュニケーシ。ンにおいて存在するというばあいは,社会が社会として形成さ れる過程そのものにコミュニケーシ。ンが関与するということである。もっと語調をつよめていえぽ,
コミュニケーシ・ンがあって,はじめて社会が形成されるのだということが意味されている。
石山脩平博士もデューイにおける社会とコミュニケーシ。ンとの関係の論述において,「社会がま ずあって,その中において交通(コミュニケーシ。ンの訳,筆者)が行われることにより社会が存続 するというよりも,交通そのものカ・まさに人々をして社会を成さしめるのである廿)と述べられ,コミ
ユニヶ一シ。ソがあってこそ社会が形成されるという意味を明らかにされている。
デューイによって,あらゆるコミュニケーションは教育(的)であるといわれて,コミュニケーシ ヨンと教育との同一一性が主調されているから,いま述べられた社会とコミュニケーションとの関係の
● ● ● ●
規定はつぎのようにいいかえられるであろう。「社会は教育によって存在をつづけるぽかりでなく,
o ● ● ●
@ ● 教育において存在するのである」と。
これらの文意からただちに連想されることは,クリーク(E.Krieck)によって提唱された教育は
「社会の根本機能」であるという概念である。社会の根本機能とは,政治,経済,芸術,宗教等がそ れに該当するものであって,それらの社会機能は,社会が一定の文化水準に達した後にはじめてあら われるものではなくて,社会が社会と呼ばれるにふさわしい段階に到達したときにすでにあるもの,
あるいは,もっと積極的にそれらの社会機能の働きが存在したがゆえにこそ社会が形成されたと考え られるものである。教育ももちろん社会の根本機能と考えられている。
大浦猛博士は,クリークの教育は社会の根本機能であるとの所説について,『教育概念の拡充と限 定』という論文の中で「現代の教育学者の中で教育観の拡充に最大の寄与をはたした一人といわれる クリーク(E.Krieck)は環境全体の中から自然的要素,風土的条件を明確に除いた意味で「社会」
(ゲマインシャフト)という概念を用いたわけであるが,教育は「社会の根本機能」であると規定し た。すなわちそれは「社会的にいつでも同一の法則によっておこなわれる根本機能」であり,「人間 が永続的に共同生活するところでは,どこでも,いつでもおこなわれる必然的な生活機能」だという 15)のである」と要約して紹介されている。デューイの見解とクリークの見解とにおいて,その表現上の
差異はあるにしても,教育を社会の根本機能とみる基本的認識においては一致していると思われる。
③社会の形成と共通理解とコミュニケーション
以上のようなデューイにおける社会とコミュニケーシ。ンとの関係の規定は,つぎのように具体的 に説明されている。共通(co㎜on),社会(commmity),コミーニケーシ・ン(communication)
という言葉の間には,単なる言語的結合以上のものが存する。人々は物事を共通(common)に所 有することによって一つの仲間に,すなわち社会(communi ty) の中に生活するのであり,しかも
コミュニヶ一シ。ン(co㎜unication)はかれらがものを共通に所有するようになるための方法であ る。では,かれらが社会(community or society)を形成するために共通に所有しなけれぽならぬ ものはなんであろうか。それは目的(aims),信仰(beliefs),抱負(aspirations),知識(㎞ow一 ledge)等であり,それは社会学者のいうところの同心(a common understandi㎎一共通理解),
または類似意識(like−mindedness)である。
これらのもの(同心,類似意識)は,たとえば,煉瓦のように一人から他人へ物理的にうけわたし されるものではなく,また人々が食物のパイを物理的な断片に分割することによって,それを分けあ うように,分けあうことはできないものである。では,これらの同心,共通理解,類似意識を人々に 共通に所有せしめる方法はなにかというと,その唯一の方法こそコミュニヶ一シ。ンである。共通理 解に参加することを確実にするコミュニケーシ。ンは,同じような情緒的および知的な性向一期待 や要求にたいして反応する同じような様式一を確保するものなのである。
ここでデューイの論述は社会の形成とはどんなことなのか,それと関連して社会の本質とはなにか,
その本質からみたとき現実の社会はどのような歪みを具現しているか,などにおよんでいく。まず,
社会の形成に関して,人々がただ物理的に接近して生活することだけでは,社会を形成することには ならないし,また,遠くはなれて住んでいるからとて社会を形成しないのではない,と社会の形成と
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人々の間の空間的距離の大小とが無関係であるとするのである。一冊の書物,一通の手紙が,数千マ イルも離れている人々を,同じ屋根の下に住んでいる人々の間の結合よりも,より親密に結びつける ことがある。社会の形成は人々の間の物理的距離の大小とは関係がない。デューイはさらに,人々が みな共通の目的のために働いているからといって,それだけのことでかれらが社会集団を構成するわ けでもないという。たとえば,機械の諸部分は共通の結果をめざして最大限の協力をしながら働くけ れども,それらの諸部分は社会を形成してはいないというのである。
それでは,デューイのばあいにおいて社会の形成とはどんなことであるのか。かれは「人々がすべ てその共通の目的を知っており・それに関心をもっており・そのためにかれらがその共囎目的を考 カしながら自分たちの特定の活動を調節するならば,かれらは社会を形成することになる」と述べて
いる。ここには,人々の共通の目的のための単なる協働ということ以上のことが求められているので ある。人々が共通の目的にたいして認識と関心をもつことは第一の条件である。つぎに,その共通の 目的を考慮しながら(ということは,その共通の目的をよりよく実現するように配慮しながら)自分 たちのそれぞれの活動を調節することが第二の条件である。以上の説明がデューイにおける社会の形 成ということについての考え方であるが,それは同時に,デューイにおける社会の本質観についての 考え方でもある。
デューイは,1899年の著書『学校と社会』においても,「社会とは,共通の線に沿い,共通の精 神において・しかも共通の目的に関連して働きつつあるがゆえに齢されてし る一轍の人々 ?「う アとである。共通の必要と目的が,思想の交換の増大と共感の統一の増進を要求するのである」と社 会の本質的定義をしているが,その内容は前述した考え方と全く一一致している。
社会の形成ということをこのように考えるデューイは,この社会の形成にはどうしてもコミュニケ 一シ。ンが不可欠のものであると説くのである。社会を成すためには,人々は他人がなにをなさんと しているのかを知らねばならない。そして,なんらかの方法によって自分の目的や自分のしているこ とについて他人に知らせておくことができなければならない。合意(consensus)はコミェニケー ションを必要とするのである。
以上に述べられた社会の形成の理論,あるいは,それにもとつく社会の本質観によって,デューイ は現実の社会集団に批判の眼をむける。そして,最も発達した社会集団といわれるものの中にさえ,
まだ社会的とはいえない多くの関係が存在することをみとめざるをえないとなげくのである。たとえ ば,どんな社会集団をとりあげてみても,非常に多くの人間関係が,いまもなお機械のばあいと同じ ような段階にある。人々は自分が欲求する結果をうるために互いに他人を利用しあうが,そのとき自 分が利用する他の人々の情緒的および知性的性向や同意を顧慮することをしない。このような利用と
いうものは,単に一方が他方にたいして,肉体的能力の優越,または地位や熟練や技術的な優越,お よび機械的ないし財政上の道具の支配をもつがゆえになされるにすぎない。親と子,教師と生徒,雇 用者と被雇用者,治者と被治者の関係がこのような水準にとどまっているかぎり,かれらのそれぞれ
の活動が相互にどんなに密接に接触していようとも,かれらは真の社会集団を形成してはいない。命 令を下したり受けたりすることは,行動や結果を変容するけれども,そのことは,目的の共有や関心
の分有をもたらしはしないのである。ここにみられるものは,デューイによる文明批評であり,また,
社会批判であるが,今日でもその事態はかならずしもあらためられたとは思われないのである。
④社会生活とコミュニケーションとは同じ意味をもつ
われわれは,これまでにデューイによって説かれる社会生活における教育の特質は,社会生活とコ
ミュニケーシ。ンと教育とがまったく同一性をもつものとして関連づけられていることにある,と述 べてきた。また,それを証言するものとしてのデューイの言葉も,「社会生活がコミュニヶ一シ.ン と同じことを意味するばかりでなく,あらゆるコミュニケーション(したがって,あらゆる真正の社 会生活)は教育的である」とか,あるいは「社会生活がそれ自身の永続のために教授と学習とを必要 とするのみならず,共同生活(livi㎎together)の過程そのものが教育するのである」などが引用 されたのである。
まず,「社会生活がコミュニケーションと同じことを意味する」については,デューイにおける社
. o ・ ・ ●
?ニコミュニケーシ。ソとの関係の規定,すなわち,「社会は伝達によって,コミュニケーシ・ンに・ ・ o o ● ● ● ・ o ● ■よって存在をつづけるばかりでなく,伝達において,コミュニケーシ。ンにおいて存在するのである」
の考察において明らかにされたことで,充分な了解にいたるはずである。社会がまずあって,その中 においてコミュニケーシ・ンがおこなわれることにより社会が存続するというよりも,コミュニケー
シ。ンそのものがまさに人々をして社会を成さしめるのである。社会が社会として形成される過程そ のものにコミュニケーシ.ンが関与する。より強調的にいえば,コミュニケーションがあって,はじ めて社会が形成されるということである。この意味で,コミュニケーシ。ンは社会の根本機能である。
デューイにおいては,コミュニケーションは教育と同じことを意味するから,教育は社会の根本機能 であるということになるのである。社会の存続にかかわり,さらにさかのぼって社会の形成にまで関 与するコミュニケーシ・ンは,社会の根本機能であり,社会生活そのものと同じ意味をもつものとし てとらえられたのである。
さきにも引用させていただいた石山脩平博士は,デューイにおける社会生活とコミュニケーシ.ン との同一性について語原的考察をされ,「以上にわれわれはデューイのCo㎜unicationを世間の通 例にしたがって「交通」と訳しておいたが,これは語原的にも知られるように「共に防ぎ」,「共に まかなう」ことであって,むしろ共同生活と訳すべきである。しかし「交通」という漢語を文字通り 解釈して,人と人とが交わり通ずること,すなわち相互にはたらきかけることの意味にとるならば,
交通がすなわち共同生活となるわけである。デー一イ自身もCom㎜icationと共同生活(Livi㎎
together)と社会生活(social l ife)とを同臆味に用いている。だからCo㎜㎜icationを訳語 としては通例にしたがいつつも,意味はむしろ語原的に解釈して,われわれは「交通」の語を用いる アとにす読叙述されている。石山博士のデ_イ鯖思想の解釈においても,コ,。二ヶ一シ.
の意味は語原的に解釈されて共同生活や社会生活と同義とされ,訳のみが交通とされたのである。
たしかに,コミュニケーシ。ンは漢語の「交通」や「通信」と訳されると,語感として共同生活や 社会生活を意味するものとはなりにくいので,本稿ではコミュニケーシ.ンと英語の発音のままに書 きあらわし,共同生活や社会生活の意味をあらわしうる余裕をもたせた。以上の考察の示すとおり,
デューイにおいては,社会生活とコミュニケーシ・ンとは同じことを意味するものである。
㈲あらゆるコミュニケーションは教育的である
つぎに,デューイによって述べられた「あらゆるコミュニケーシ。ン(したがって,あらゆる真正 の社会生活)は教育的である」の意味の解釈にすすむことにする。デューイはコミュニヶ一シ。ンが まずそれを受ける人の経験の変容に影響をあたえることを「コミュニケーシ。ンを受けることは,拡 大され,変化させられた経験をうることである。人は他人が考えたり感じたりしたことを共に考えた
憾じたりする.そしてそのかぎりにおし・て,多かれ少なかれその人自身の態度セ珍正される雪)と表
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現している。コミュニケーションがその受け手の経験を拡大させ変化させ,あるいは,その態度を修 正する機能をもつことについては,われわれの常識としても当然とするところであり,特別デューイ
の指摘をまつまでもなくみとめられるところである。
デューイにおけるコミュニケーシ。ンすなわち教育(的)とする論述の真骨頂は,コミュニケーシ
・ソのおくり手の側における経験の変容にこそ明らかに示されるのである。デューイはいう。「そし てコミュニケーショソをおくる側の人もまたもとのままでいはしない。ある経験を,とくにいくぶん 複雑な経験を,他人に十分にそして正確iにつたえるという実験をしてみると,自分の経験にたいする
自分自身の態度が変化しているのに気づくだろう。さもなければ無意味な言葉を使ったり,さけび声 をあげたりすることになる。経験をつたえるためには,それを系統だててきちんと述べなければなら ない。経験をきちんと述べるためには,その経験から外へぬけ出し,他人がそれを見るようにその経 験をながめ,その経験が他人の生活とどんな点でつながっているかを考察して,他人がその経験の意 味を感得できるような形にしておくことが必要である。常套語や流行語を使うぽあいは別として,人
は自分の経験を他人に理知的に語って聞かせるためには想像力によって他人の経験をいくらか自分の ものにしなければならない。コミュニケーショソはひとしく芸術に似ている。それゆえ,いかなる社 会制度も,それが真に社会的であるかぎり,つまり真に共有されているかぎり,それに関与する人々 にとって,教育的であるといってよいだろう。それは,型にはまって,きまりきった仕方でおこなわ
@ 20)
黷驍ニきにだけ,その教育力を失うのである。」と。
コミュニケーシ。ンがそのおくり手の側の経験を変容する経緯についてのデューイの描写は,いた れりつくせりであって,われわれはこれにつけくわえる言葉をもたない。まさにあらゆるコミュニケ
一シ・ンは教育的である。ただし,それには明白な条件がつけられている。真正な社会生活がおこな われていること,これである。それでは,真正な社会生活とはなんであるのか。それは再三にわたり
くりかえし述べるように,「人々がすべてその共通の目的を知っており,それに関心をもっており,
そのためにかれらがその共通の目的を考慮しながら自分たちのそれぞれの活動を調節する」社会なの である。このような真正の社会においては,あらゆるコミュニケーシ・ンは教育的なのである。
㈲社会生活(共同生活)の過程そのものが教育する
デューイの教育思想においては,より基本的でかつ持続的な教授の様式の存在を,学校教育の外の ところ,すなわち,社会生活における教育,社会生活に直接参加することによってなされる人間形成 の中にみとめている。学校教育は人間の性向の形成にとって,一つの重要な方法である。しかし,一 つの手段にすぎない。そして,むしろ社会生活における教育,社会生活に直接参加することによって なされる人間形成にくらべれば,比較的に表面的な手段にすぎないとされている。
いままでにくわしく述べたように,デューイの教育思想においては,社会生活とコミュニケーシ・
ンと教育とはまったく同一の意味をもつものとして関連づけられている。社会生活はコミュニケーシ
・ソと同じ意味のものであり,あらゆるコミュニケーシ・ン(したがって,あらゆる真正の社会生活)
は教育と同じ意味をもつものなのである。されば結局,社会生活がそれ自身の永続のために教授と学 習とを必要とするのみならず,共同生活(livi㎎together)の過程そのものが教育するのであると 結論されている。
デューイにおいては,社会生活と共同生活とは同義のものと考えられており,その共同生活の過程 のもつ教育機能については「共同生活の過程は経験を拡大し,啓発する。それは想像力を刺激し,ゆ
たかにする。それは叙述や思想の正確さと鮮明さとにたいする責任を生みだす。ほんとうに一人ぽっ ちで(肉体的にだけでなく精神的にも)生活している人は,自分の過去の経験の正味の意味をひきだ すために自分の過去の経験を反省す磯会をほとんど,いやむしろまったくもたないであろず?と論 じられているが,そこに含蓄されている意味は,「あらゆるコミュニケーシ。ンは教育的である」と デューイが述べた命題の意味とまったく同じものである。
なお,前述の石山脩平博士は,「かくして社会生活そのものが教育的機能を有するというデューイ の見解は,いっそう立ち入って言えぽ,人と人とが何等かの活動を共にすること,すなわち共同活動
(associated activity, shared activity, joint activity)の分担者となることによって,その 活動の意味を学習するということである」と叙述して,社会生活における教育機能といっても,共同 活動に参加することにおける教育機能といっても,その意味するところはまったく同じであることを 明確にされている。
皿 社会生活における教育の徹底性
(1)学校教育の基礎としての社会生活における教育
デューイの教育思想においては,「意識的生活に影響をあたえるすべての人間的共同生活と教育と 23)を同一視する」のであり,また,「かかる社会生活への直接的参加(われわれがいうところの間接的
あるいは偶然的教育はそれによって成り立っているのであるが)のあたえる影響」が,未開人や野蛮 人の社会では,その集団の慣行や信念を年少者の身につけさせるほとんど唯一の作用なのだといいな がらも,それらの教育的作用が,今日のわれわれの社会における人間の形成においてもけっして無関 係ではないことを強調して,「今日の社会においても,学校教育の影響を最も強く受けた若者でさえ
も,その基礎的鮪をそのよう鰍会生活への直接鯵加か暖けるのである雪)とその重要性を強調
しているのである。
かれは,人間の性向の重要な構造は学校教育とは無関係に,このような影響力(社会生活への直接 的参加による影響力)によって形成されるものであるとなし,人間形成の最も基礎的基本的な側面で は,社会生活における教育のほうが学校教育よりも重要な役割をはたしていると断定しているのであ る。だから,意識的で計画的な教育(学校教育)がなしうることは,せいぜいのところ,このように して(社会生活における教育によって)形成された諸能力をより完全に働くように解放することであ り,このようにして(社会生活における教育によって)形成された諸能力から粗悪なものを除去する ことであり,それらの諸能力の働きがより多くの意味を産みだすことができるようにしてやることで あると説いている。
ここには,デューイの教育思想における形式的教育と非形式的教育との関係に関する認識が,端的 に表現されているのだが,形式的教育(学校教育)はあくまでも非形式的教育(社会生活における教 育)の基礎のうえに成立するものであり,非形式的教育によって形成された諸能力を素材とし,それ を補充し,純化し,完成させる機能をはたすことになる。たしかに,デューイは形式的教育の重要性 も必要性も充分に認識していたのであるが,われわれがあえて極論すれば,形式的教育がなくても非 形式的教育はありうるが,非形式的教育なくしては形式的教育はありえない,ということができるで あろう。
関:デューイ教育思想における生活の原理について 145
(2)社会生活における教育(環境の無意識的影響)の徹底性
デューイは『民主主義と教育』の第二章「社会機能としての教育」,第三節「教育的なものとして の社会的生活環境」(The Social Medium as Educative)において,環境の無意識的影響はそれ が人間の性格や精神のあらゆる組織に作用するほど精妙で滲透力のあるものだと述べている。このぽ
あい,デューイがいうところの「環境の無意識的影響」(unconscious influence of the enviror ment)とは,われわれがこれまでに述べてきたところの「社会生活における教育」,または「共同生 活における教育」,あるいは「社会生活に直接参加することによってなされる人間形成」,と同じ意 義をもつものである。それは,さらに言葉をかさねるならば,「他人との非形式的な共同生活におけ る訓練」とも呼ばれようし,または「非形式的教育」とか「教育の偶然的様式」とか,さらには「広 汎な教育的過程」とも称されるものと同一の意義をもつものである。
したがって,それは「学校教育」,「形式的教育」,「形式的教授」,「意識的,計画的教育」,
「教育の意図的様式」と呼称されるものとは対立的立場におかれる概念であることはいうまでもない。
われわれは,デューイが「環境の無意識的影響が最も顕著にあらわれる2−3の方面を詳述するこ とは価値のあることである」として例示しているのにしたがって,その具体的なすがたをたどってみ ることにする。
第一 言語の習慣
デューイの例示する第一のものは言語の習慣である。「言葉の基本的様式,語彙の大部分は,日常 的な生活の交わりの中で形成される。その日常の生活の交わりは一定の教授の方法としてではなく,
社会的に必要なこととしておこなわれているのである。われわれはうまいいい方をするものだが,赤 ん坊は母語(mother to㎎ue)をおぼえる。このようにして身についた言葉の習慣は,意識的な教授 によって矯正されたり,あるいは別の言葉によって置き換えられたりするけれども,しかし,興奮し たときには,意図的に獲得された言葉の様式はしぽしぼはげおちて,人々は自分たちの本当のお国詑りに 逆戻りするのである」とデューイは述べているが,言語の習慣の獲得に関しては,なんびともかれの 所説の正しさを素直に実感として肯定できるであろう。
われわれは母国語の初歩を努力して身につけたという記憶をもたない。父や億やその他の家族との 共同生活の交わりの中で,まったく無意識の影響として母国語を獲得しているのである。しかも言語 の習慣が,われわれの性格や精神の組織化にたいしてもっとも基礎的基本的な重要な役割をはたして いることは,あらためて述べるまでもあるまい。
デューイは,前述の『学校と社会』の第二章「学校と子どもの生活」において,古い教育制度のも とでの言語教授の問題点を,「古い制度のもとでは,子どもたちに完全で自由な言語の使用力をあた えることは,疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自 然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては,言語とは思想を表現 する手段であると定義されている。なるほど訓練された精神をもっている大人にとっては,言語は多 かれ少なかれ思想を表現する手段となるが,しかし,言語は根本的に社会的なものであり,それによ ってわれわれが自己の経験を他人にあたえ,逆に他人の経験をうけとるための手段であることは,あ らためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひきはなしてしまうならば,
言語の教授が複雑で困難な問題になることは,あやしむにたらない。言語を言語それ自体として教授 せねばならぬことの不合理を思ってもみよ。子どもが学校へ入る前にみずからすすんでやろうとする
なにかがあるとすれば,それはカ・れにとって興味のあることがらについて人に語ることである雪)と述 べている。
そこに指摘されている古い教育制度のもとでの言語教授の問題点というのは,それが言語にたいす る自然な動機を欠除させていること,言語の自然的目的から切りはなされた言語教授をしていること,
言語を言語それ自体として教授することの不合理などである。
さらに,デューイは「言語本能が社会的な仕方によって触発されるばあいには,そこには現実(γ eality)との不断の接触がある。その結果,子どもたちは,つねに心の中になにか語るべきものを,
口に出そうとするなにかをもっている。それはまた,子どもが発表すべき思想をもっているというこ とであるが,思想というものは,それが自分自身のものでなけれぽ(真に)思想ではないのである。
伝統的な方法(古い制度のもとでの言語の教授)によれば,子どもはかれが単に学習したことがらを いわなければならないのである。およそ,世の中でなにかいいたいことがあるのと,なにかをいわな ければならないのとの間には天地の相違がある。いろいろさまざまの材料や事実をもっている子ども は・それらのものについて語りたいのであり,しかも,その言語は現実の事物によって統制され教え られるからして,ますます洗練され,いっそう充実せしめられる。読み方や書き方も,言語の口での 使用と同じように,この基礎にたって教えることができる。すべてこれらのものは,自己の経験を他 人に語り,他人の経験を自己のものとしようとする子どもの社会的欲求,それにもとついてはじめて 真実が伝達される事実や力との接触をつうじて不断にみちびかれるところのこの社会的欲求,の自然 フ結果として湘互に麟した仕方で翫ることカミできる雪)述べている。
このデューイの論述にあらわれている趣旨は,言語の教授が現実の社会生活の中で,共同生活の内 容を媒介として,自己と他者とのコミュニケーシ。ンとして正しく組織されるべき基本的性格を明確 にしたものである。
社会生活において無意識のうちに言語の習慣が形成されるばあいには,言語にたいする自然な動機 が具備されており,言語の自然的目的と結合した言語教授がなされているわけであり,言語を言語そ れ自体として教授することの不合理性が払拭されているのである。まことにデューイの説くように,
なにかいいたいことがあるのと,なにかをいわなければならないのとでは,その間に天地の相違があ るというべきである。なにかいいたいことがあるというのが,社会生活の中での,他人との共同活動 の中での自然の,無意識のコミュニケーションのばあいであり,なにかをいわなければならないとい
うのが,伝統的な言語教授のばあいの,言語にたいする自然の動機を欠除させた,言語の自然的目的 から切りはなされた,言語を言語それ自体として教授しようとするばあいのコミュニケーションであ
る。デューイは読み方,書き方の教授も,言語教授のばあいと同じように,同じ基礎(社会生活にお ける教育)にたつべきだと主張するのである。
第二 行儀・作法
環境の無意識の影響がもっとも顕著にあらわれるものとして,デューイが例示する第二のものは行 儀作法である。この行儀作法の獲得について,かれは「お手本はかくれもなく教訓にまさるものであ る。よい行儀作法は,いわゆるよい良ちから生ずる。いやむしろ,よい育ちそのものである。そして,
育ちは,知識をつたえることによってではなく,平素の刺激にたいする反応としての平素の行動によ って獲得される。意識的な矯正や教授がいかにやむことなくつづけられたとしても,行儀作法を形成 するのに重要な役割をはたすものは,人間をとりまく社会的な雰囲気や気風である。そして,行儀作
関:デューイ教育思想における生活の原理について 147
法は小さな道徳にすぎない。けれども,根本的な道徳のばあいでも,意識的な教授は子どもの社会的 環境を構成している人々の一般的な平素の言行と一致する度合においてだけその有効性を期待しうる にすぎな書といっているのであるカ㍉その主張の中心点は,行儀作法の形成(獲得)湘常の生活 そのもののなかで,育ちそのもののなかで,平素の起居動作のつみかさねのなかでのみなされるとい
うことである。教訓やらお説教(いわゆる意識的な教授)やらは,この面の形成に無力であるとする立 場である。
清水幾太郎氏は,「偽善の勧め」というセンセィシ。ナルな見出しをつけて,道徳教育についてつ ぎのようなかなり含蓄のある論理を展開されていられる。
後になって意味や理由が判るというのが,言ってみれば「良心」が生れるということである。子 供に向って,良心を持て,と言うのはナソセソスである。良心とは何かを説明するのは,もっとナ
ンセソスである。道徳教育は,美しい魂を育てることから始まるのでなく,美しい行為を強制する ところから始まる。美しし魂の裏づけを欠いた外面的な善行を偽善と呼ぶなら,偽善でよい。とい
@ 29)
うより,偽善だけが,美い魂を作り上げ,真の善へ至る唯一の道なのである。
清水氏は以上のような考え方を,さらにもう少し具体化されて
「優しい心を持ちなさい」,「お行儀よくしなさい」,「公徳心を持ちなさい」………そういう 言葉は,幼い子供にとってはナンセンスである。可能なことは,「優しい心」,「お行儀」,「公 徳心」…………に相応しいと一般に考えられているような行為を子供に強制することである。それ
に従ったら褒め,それに背いたら罰することである。お茶の心得のない人間に向って,お茶の心を 詳しく説明しても,容易に理解されるものではない。教えられた作法に従って努力しているうちに,
何時かお茶の心が少しずつ判って来るものである。学問にも,スポーツにも,そういう側面がある。
それが特に顕著なのが躾である。「優しいb」というものは,「優しい心」の表現として一般に認 められている行為を機械的に繰返しているうちに,少しずつ判ってくるし,少しずつ生れて来る。
しかし,「行為から入る」という方法は,両親の権威を前提とする。権威あるものだけが,或る行 為を説明なしに子供に強制することが出来るからである。けれども,権威を持つためには,両親は,
否応なしに,日常,模範的に行為せねばならない。子供からも,両親からも独立に存在する行為規
則の客観的システムに忠実に振舞わねぽならない。それに堪えられないために,両親は,子供の躾 30)までも一空しく一学校教育に期待するのであろう。
以上に引用した社会学者清水幾太郎氏の道徳教育論,あるいは躾の教育論は,道徳教育が「美しい 行為を強制するところから始まる」,あるいは,躾の教育が「行為から入る」しかないと主張すると ころにその特質がおかれている。単なる教訓や説教が無意味で無力だというのである。この点ではデ
ユーCの道徳教育論や躾の教育論と大きな共通性をもっているとみとめられるであろう。ただし,清 水氏が美しい行為を「強制」するところから道徳教育が始まると主張するのにたいして,デューイは 環境の無意識的の影響と主張するところでは,かなりのへだたりがありそうにも感じられる。
しかし,清水氏の所説は,「行為から入る」という方法は,両親の権威を前提とするものであり,
権威あるものだけが,或る行為を説明なしで子どもに強制することが出来るのであり,しかも,権威 を持つためには,両親は否応なしに,日常,模範的に行為せねばならない,と主張して,両親の日常
的行為と強制内容とのあいだにギャップの介在を容認しないのである。これはデューイのばあいも同 様であって,彼は「根本的な道徳のばあいでも,意識的な教授は子どもの社会的環境を構成している 人々の一般的な平素の言行と一致する度合においてだけその有効性を期待しうるにすぎない」と明言 しているのである。清水氏が道徳教育は美しい行為を強制するところから始まるといい,デューイが 行儀作法(躾・道徳教育)は環境の無意識的影響によって徹底的におこなわれるというとき,そこに は,かなりのへだたりがあるように感じられたが,そのおのおのの主張の真髄においては,両者とも に一致しているのである。
第三 よい趣味と美的鑑賞眼
環境の無意識の影響がもっとも顕著にあらわれるものとして,デューイが例示する第三のものは,
よい趣味と美的鑑賞眼である。「優美な形態や色彩をもつ調和のとれた対象につねに接していれば,
趣味の基準は自然に向上する。いやにはでな,乱雑な,けばけぽしい環境の影響は趣味を悪化させる と同様に,無味乾燥な,趣味のない環境は美への欲求を餓死させてしまうのである。このような弊を 矯めようとして,意識的に美的教育をほどこそうとしても,それはせいぜいのところ,他の人々の感
じたことの二番せんじの知識を,ただつたえるにすぎない。このように意識的な美的教育によって外 部から植えつけた趣味は,決して自発的な趣味とも,しかもその当人自身に深くしみこんだ趣味とも 決してならないのであって,尊敬するように教えられてきた偉い人々がどんなことを考えているかを vい出させる不自然嫡憶にとどまるだけである眺デユーイは述べているが,それは,言語の習慣 の獲得,あるいは行儀作法の獲得とまったく同様に,よい趣味と美的鑑賞眼の獲得も,生き生きとし た社会生活の中で,人と人との無意識の相互作用の影響として身につくものであることを主張してい るのである。意識的な美的教育によっては,ほんとうに自発的な,内在化されたよい趣味とも,よい 美的鑑賞眼ともなりえないのである。
第四意識の深層にある価値判断の基準
デューイは,人間の意識のより深い層によこたわる価値判断の基準は,人が平素入りこむ状況
(situation)によって形成されるのであるが,このことは,あらためて,環境の無意識的影響の第 四点をあげることにはならないという。この点は,むしろ,すでに述べた三つの点を混ぜ合わせたも のを指摘するだけのことであると述べ,人間各自がもつ価値判断の深し基準(無意識にもつ価値判断 の基準)は,環境の無意識の影響としてデューイの論じた三つのもの,言語の習慣,行儀作法,よい 趣味と美的鑑賞眼,という三つのものが混合されてできあがるとしているのである。
かれは,「なにに価値があり,なにに価値がないかについての意識的な評価が,どれほど多く,ま ったく意識されていない基準によっているかに,われわれはほとんど気がつかない。だが,一般に,
われわれが調査したり熟慮したりしないで,当然のことと思っている事柄こそ,われわれの意識的な 思考を限定し,結論を決定するものなのだ,といえるのである。しかも,熟慮の水平面の下によこた
わるこれらの習性こそが,他の人々とのたえ間ないやりとりの関係の中で形成されるものにほかなら 32)ないのである」というように,われわれの価値判断の基準について,具体的に説明している。
われわれは,自分自身きわめて明確な価値判断の基準を所持しているつもりでいる。しかし,なに に価値があり,なにに価値がないかの意識的な評価が,まったく意識されていない基準に基礎づけら れているときかされるのはおどろくべきことである。しかし,これはみとめざるをえない真実の姿で