目次一 はじめに二 用語上の混乱について三 構成要件について四 衝突と比較衡量について 一 はじめに
これまで︑わたしは︑諸論攷において﹁基本権構成要件﹂論について論じてきた︒そして︑その中で﹁基本権構成要件﹂の﹁歴史的・法思想史的背景﹂と︑その理論を論ずる﹁土俵﹂の設定を行ってきた︒以下︑それを受けてロベルト・アレクシー︵Robert Alexy 一九四五年︱︶の定義にならい︑﹁基本権構成要件﹂論を中心に議論を展開していくこととする︒なぜならば︑この﹁タートベシュタントTatbestand﹂という用語
上の混乱が存在するからである に︑少なくともわが国においては翻訳1
Grundrechtstatbestandを﹁基本権構成要素﹂と翻訳したのであるが ︒すなわち︑わたしはかつてこの2
その後︑これを﹁基本権構成要件﹂と翻訳し直した ︑3
Martin BorowskiGrundrechtstatbestandウスキー︵一九六六年︱︶の 紘は︑この翻訳をロベルト・アレクシーの弟子のマルティン・ボブロ ︒一方︑長尾一4 を以って︑﹁広い要件事実﹂と﹁狭い要件事実﹂と使い分けている
論の導入の可否が議論されるようになっている Drei Schritt Prüfung防禦権の審査基準としてドイツの﹁三段階審査﹂ また︑多くのドイツ国法学・憲法学の研究者の間で﹁基本権﹂︑特に︑ ︒5
︒6
もちろん︑その議論の国法学・憲法学への導入の契機となったのは︑シュミット・シュ︱レのベルンハルト・シュリンク︵Bernhard Schlink 一九四四年︱︶とスメント・シューレのボード・ピエロート︵Bodo Pierot一九四五年︱︶による基本書であったことは注目に値しよう
BVerfGE105,252.イツ連邦憲法裁判所判決の﹁グリコール判決﹂ のである︒話を複雑にするのは︑三段階審査論の延長において︑ド Schutzbereich場合においては﹁保護領域﹂なる語が使用されている 本権構成要件﹂に該当するものが使用されているのであるが︑その ︒この場合においては︑その第一段階のステップとして﹁基7
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﹁オショー判決BVerfGE105,279.﹂
域﹂なる語が使われるようになったことである Wolfgang Hoffmann-Riem ム︵一九四〇年︱︶によって﹁保障領 Grimm 一九三七年︱︶の弟子のボルフガング・ホフマン=リー GewäleistungsstaathrDieter 家﹂と捉えるディーター・グリム︵ を経て︑現代国家を﹁保障国9
WinklerGrundrechte in der Fallpruefung: Schutzbereich – Eingriff – ︶の Daniela 査﹂論は︑かの地においてもダニエラ・ヴィンクラー︵ のように本来は︑防禦権の審査基準として展開された﹁三段階審 10︒そして︑前述 「基本権構成要件」なのか、それとも「保護領域」なのか中野雅紀
﹁基本権構成要件﹂なのか︑それとも﹁保護領域﹂なのか 中野三五茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十八号
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Verfassungsrechtliche
解できよう︒ なる語が︑少しづつ語られる次元を変えつつ議論されてきたことが理 本権構成要素﹂︑﹁基本権要件事実﹂︑﹁保護領域﹂および﹁保障領域﹂ も含めたものとなっている︒いずれにせよ︑﹁基本権構成要件﹂︑﹁基 11等の書によって︑この﹁保障領域﹂なるもの 二 用語上の混乱について 以下︑若干長くなるが日本公法学会における討議を記すこととする︒討議の一方当事者がわたしであることからお許しいただきたい
12︒ 中野雅紀会員(茨城大学) 基本権の三段階審査論についてヨーゼフ・イーゼンゼーやボルフラム・ヘーフリングは基本権確定論について﹁保護領域﹂という用語ではなく基本権﹁構成要件﹂という用語を用いていて︑それをさらに広狭二つの﹁構成要件﹂論に分けて議論を展開している︒狭義の﹁構成要件﹂論を採用すれば︑﹁殺人をする自由﹂等の﹁グロテスクな権利﹂を基本権に算定しないことができる︒それは無用な基本権の対立・調整を必要とするハード・ケースを回避することになるので︑思考経済に資するのではないか︒また︑それは刑法理論における﹁構成要件﹂該当性︑﹁違法性阻却事由﹂該当性︑﹁責任阻却事由﹂該当性という法学部出身の我々にとって親しみやすい理論構成ではないか︒
渡辺康行(一九五七年―)会員(九州大学) ﹁構成要件﹂と呼ぶか︑﹁保護領域﹂と呼ぶかは用語の問題である︒狭義の﹁構成要件﹂の採用が思考経済に資すると言われるが︑構成要件を広く解す るか︑狭く解するかは︑保護領域を広く解するか︑狭く解するかの問題でもある︒ドイツにおける保護領域は一般的に広く解される傾向にあるが︑全て保護領域に取り込んでしまうわけではない︒例えば︑よく挙げられる例として﹁アウシュビッツの嘘﹂がある︒連邦憲法裁判所は︑﹁アウシュビッツの嘘﹂のように事実でないことが数えきれないほどの目撃証言と証拠書類などによって証明されている場合には︑そのような主張は意見表明の保護を享受しないと言っている︒あるいは基本法八条一項で︑平穏にかつ武器を携帯せずに集会をする権利を有するという条文があるが︑これが保護領域を限定すると解釈する考え方とそうではないと解釈する考え方がある︒つまり︑保護領域という言葉を使っても︑保護領域を広く解するか︑狭く解するかの立場は分かれる︒また︑中野会員は保護領域という言葉を使った方が法学者にとって馴染みやすいと言われるが︑それはどちらでもよく︑保護領域という訳語が定着しているので私は一応それに従っている︒ 中野会員 渡辺会員はピアノ伴奏事件の藤田宙靖裁判官の反対意見で﹁慎重な考量﹂論が採用されたと報告で指摘したが︑この﹁慎重な考量﹂とは利益衡量をメインにする単純な比較衡量と分けて考えてよいのか︒すなわち︑猿払判決において渡辺会員が指摘したアド・ホックな比較衡量に陥らない︑星野英一氏が説くような価値体系のピラミッドを構築し︑法解釈の手続︵手順︶には一定の優先順位があるというような︑帰納的な意味での利益衡量論と解するのか︒
渡辺会員 藤田宙靖反対意見は比例原則を使っており︑思想良心 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十八号
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の自由の内容をこれまでとは少しずらして読んでいる︒それを踏まえたうえで上告人の考え方は︑一九条で保障される可能性があると言った︒そのうえでピアノ伴奏命令はそれに対する直接的抑圧になっているとした︒したがって︑多数意見は制約の正当性を論じなかったが︑藤田反対意見は制約の正当化について論じた︒そこで﹁慎重な考量﹂論というのがでてきた︒その﹁慎重な考量﹂というのは職務命令の必要性の審査と利益の均衡性の審査という比例原則の第二原則と第三原則を使ったうえで︑その審査密度を自由の直接的な抑圧になっているという侵害の態様を考慮して厳格にしたものだと理解している︒中野会員の理解とは若干のずれがあるかもしれない︒
以上のように︑論者によって︵ここでは︑わたしと報告者︵渡辺︶︶の間で用語の翻訳・選定が異なっている︒
次に︑工藤達朗︵一九五六年︱︶の以下の論攷の記述を記すこととする
13︒
刑法学から見るとすぐに︑違憲審査基準論には欠けているものがある︑と感じられるだろう︒憲法で保障されたいかなる基本権が制限されているのか︑それが明らかになってはじめて︑いかなる審査基準が適用されるかの議論に進むことができるはずである︒その点が自覚的に論じられていない︒つまり︑﹁構成要件﹂の観念が存在しないのである︒けれども︑構成要件は︑刑法学に特有の概念で︑憲法とは無縁のように感じられる︒実際︑法学辞典で﹁構成要件﹂を引いてみると︑そこにあるのはもっぱら刑法理論の説明である︒ これに対して︑ドイツでは︑基本権侵害の有無を審査・判断する枠組みとして︑﹁三段階審査︵Drei–Schritt–Prüfung︶﹂の図式ないし理論が用いられている︒この審査は︑﹁保護領域︵Schutzbereich︶﹂↓﹁介入︵Eingriff︶﹂↓﹁憲法上の正当化︵Verfassungsrechtliche Rechtfertigung︶﹂の順序で行われる︒第一段階は︑問題となっている個人の行為や状態が基本権の保障する範囲に含まれるかどうかの審査であり︑第二段階では︑国家の行為が基本権の保障する行為や状態を制限するものであるかの審査である︒それらが肯定されると︑第三段階として︑そのような国家行為は憲法上正当化されるかどうかが︑形式的および実質的な側面から審査されるのである︒憲法上正当化されない限り︑基本権制限︵基本権の保護領域への介入︶は基本権侵害として違憲となる︒そして︑この審査図式の第一段階︑﹁保護領域﹂は︑﹁基本権構成要件︵Grundrechtstatbestand︶﹂とも呼ばれる︒憲法における構成要件の理論である︒考えてみると当たり前であるが︑構成要件は刑法特有のものではないのである︒この三段階審査が刑法理論と類似していることはすぐにわかる︒基本権は国家の行為を拘束する規範だから︑国家の行為が基本権の﹁保護領域﹂に﹁介入﹂するとは︑基本権の﹁構成要件﹂に﹁該当﹂したことを意味する︵=﹁構成要件該当性﹂︶︒そうであれば︑その国家行為は一応違憲であるとの推定がはたらくので︑その推定を覆すには﹁憲法上の正当化﹂が必要で︑正当化されない限りは違憲と判断されるのである︒ 引用した工藤の文章は︑わたしが渡辺康行に問うた﹁それは刑法理論における﹁構成要件Tatbestand﹂該当性︑﹁違法性Rechtswidrigkeit阻却事由﹂該当性︑﹁責任Schuld阻却事由﹂該当性という法学部出身
﹁基本権構成要件﹂なのか︑それとも﹁保護領域﹂なのか 中野三七
の我々にとって親しみやすい理論構成ではないか﹂に対して︑一部︑渡辺に代わって答えるものである︒すなわち︑基本権構成要件なる語を憲法学に導入するとき︑一日の長のある刑法学の構成要件理論の解釈学を憲法学のそれに転用し︑指針となってくれるれるのではないかということである
14︒ さて︑工藤は︑わが国における基本権構成要件理論を論じた文献として拙稿を引用してくれるのであるが︑それは二〇年前の論文であり︑その評価は以下のようなものになる
15︒ ⁝⁝中野雅紀﹁ドイツにおける狭義の基本権構成要件理論﹂法学新報一〇二巻九号︵一九九六年︶一四三頁参照︒ドイツにおけるその後の論争も含めて︑實原隆志﹁基本権の構成要件と保障内容﹂千葉大学法学論集二三巻一号︵二〇〇八年︶一五五頁︒
すなわち︑このことが意味するのは︑わたしの議論はいささか旧くなり︑その論文には實原論文
ととしよう︒ が︑ここでは自制し︑石川健治の以下の指摘を中心に議論していくこ 本権構成要件﹂と﹁基本権保護領域﹂の使い分けについて論じたい 構成要件理論のその後の発展と︑やはり︑グリコール判決以降は﹁基 ある︒したがって︑その後の論文の屋上屋を築く虞があるが︑基本権 16等の補完が必要である︑ということで 三 構成要件について
工藤達朗が示した通り︑三段階審査︵Drei–Schritt–Prüfung︶﹂の 図式ないし理論が用いられているならば︑この審査は︑﹁保護領域︵Schutzbereich︶﹂↓﹁介入︵Eingriff︶﹂↓﹁憲法上の正当化︵Verfassungsrechtliche Rechtfertigung︶﹂の順序で行われる
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︒ところが︑石川健治︵一九六二年︱︶の説明によれば︑この二番目の﹁介入︵Eingriff︶﹂が第一段階に出て︑第一番目の﹁保護領域︵Schutzbereich︶﹂が二番目に交代する︒その理由として︑石川は︑以下のように言う
18︒ ドイツ憲法学において︑三段階審査の第二段階としてクローズアップされるEingriffはこの要件については︑憲法裁判所の出訴要件としての重要性をもつドイツの場合とは異なり︑あくまで民事・刑事・行政訴訟のなかで︑攻撃防御方法としての違憲主張が行われるに過ぎない日本では︑さほど大きな取り扱いが必要かどうかは疑問である︒それよりは︑違法・行為・責任の構成以来の伝統を踏まえて︑まずもって国家行為から議論をはじめるのが本筋であろう︒
国家行為については︑作為的なそれだけではなく︑不作為による権利侵害を問わなくてはならない︒不作為を﹁行為﹂とみなすためには︑国家が保障人︵Garant︶として保護義務︵作為義務︶を負っているのかどうかが︑ポイントとなる︒いわゆる基本権保護義務論のトポスは︑本来ここであろう︒とりわけ︑侵害行政を例外的にのみ認めるというのが︑従来の公法学の立場であったわけであるから︑不作為による権利侵害を承認するためには︑多くの理論的障害がある︒
つづいて︑石川健治は︑本来的な意味でのSchutzbereichを以て﹁保護領域﹂ではなく︑﹁保護範囲﹂と翻訳すべきとするが︑ここでまた用語が増えることは︑無用な混乱を生む可能性があるかもしれな 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十八号
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い︒ここでは︑学問上の︑特に翻訳上の﹁真摯さ﹂は当然であるけれども︑﹁保護領域﹂と﹁保護範囲﹂の問題は︑これ以上は深追いしない
19︒ ところで︑前述したように︑戦前・戦中の段階でカール・シュミット︵Carl Schmitt 一八八八︱一九八五年︶が使用した﹁タートベシュタント﹂を﹁構成要件﹂と訳した大西芳雄︵一九〇九︱一九七五年︶は︑その部分の参考文献としてシュミットの原著のみならず︑小野清一郎︵一八九一︱一九八六年︶や牧野英一︵一八七八︱一九七〇年︶の論文を参照・引用しているのである︒また︑シュミットが﹁構成要件﹂なる語を用いているところは︑刑法学者のエルンスト・ルートヴィヒ・ベーリング︵Ernst Ludwig Beling 一八六六︱一九三二年︶を引いているのである
ないのである︒ シューレは以下の特別構成要件論との類似性を考えないわけにはいか らば︑われわれ草野豹一郎︵一八八六︱一九五一年︶門下の︑草野 20︒そうすると︑刑法理論の援用で考えるな われわれが学部時代教わった︑草野シューレの俊英・下村康正︵一九二五︱二〇〇九年︶によれば︑行為論概念を中心に犯罪論を展開する理由として以下のように言う
21︒
しかし︑それにも拘わらず︑行為概念を中心に犯罪論を展開する立場は︑形式・実質の両面において︑構成要件概念に指導形相としての地位をみとめる立場に批判的である︒すなわち︑まず︑形式的には︑よし︑犯罪は構成要件に該当する有責・違法の行為である︑としたところで︑それらのうち︑構成要件該当性︑違法性︑有 責性という概念は︑それらのみでは実質的内容をもち得ない内容空虚な︑いわば︑形容詞的な意義・役割しか有しない従属的概念であり︑それらの概念は何かほかの基体となるものに依存して論ぜられるべきものであって︑それらのみを取り上げて論じたところで何の実益もないものである︒要するに︑それらの要素は︑何か基体となるものに結びついて︑はじめて︑その重要な機能を営むべきもので︑単に構成要件該当性を論じ︑違法性・有責性を語ったところで︑それは犯罪概念と直接関連を有しない血の気のない議論になってしまうだけのことである⁝︒従って︑結局︑それらの要素は︑基体たる行為概念︑いいかえれば︑名詞的意義と役割とを担う行為概念に関係づけられて︑漸く︑その価値を評価されるものである⁝⁝︒これに反し構成要件該当性をもって指導形相とすれば︑こうした論理的帰結に全く反することにならざるを得ない︒ つぎに︑実質的には︑構成要件概念を中核とする犯罪論は︑その思想的基盤を人権擁護の点に置くのであるが︑人権擁護の精神はよいとしても︑余りにそれのみに拘泥するは社会規範たる法の本質にそぐわないことになるし︑事実︑犯罪構成要件の中には︑例えば内乱罪︑偽造罪の如く︑一定の目的を必要とするものがあるのであるが︑もし構成要件概念の個別化の機能を重視すれば︑これらの目的を構成要件に取り入れるのは当然のこととなるのに︑他方︑構成要件の有するもう一つの特色たる人権保障の機能の面より考察せんか︑右の様な目的を構成要件に取り入れることは︑そこに裁判官の恣意導入の突破口を開くことを意味し︑従って人権保障の立場からは︑絶対に︑かかる主観的構成要件要素をみとめるべきではないとの結論に到達することになる︒
﹁基本権構成要件﹂なのか︑それとも﹁保護領域﹂なのか 中野三九
四 衝突と比較衡量について 最後に残されたのが﹁Rechtfertigung﹂である︒漸く︑ここまで来て﹁衝突﹂や﹁比例原則﹂︑そこで用いられる﹁比較衡量﹂の問題に入っていくのである︒ここにおいても石川健治の説明を借りることにしよう
22︒ このように︑現行憲法の権利条項は︑基本的に︑留保のない権利として定式化されている︒しかし︑それらは︑内心の自由を除けば︑他者=第三者の存在を想定した権利ばかりである︒憲法上の法人格は︑さしあたり国家との間の主観法=法関係に関わるものであるとはいえ︑他者の法益侵害を厭わない傍若無人の人間像を︑憲法が想定しているとは考えにくい︒
そこで︑他者たる国民=第三者の法益との衝突︵Kollision︶を理由に︑国家が憲法上の権利を制約しようと試みてきた場合なら︑当事者が︑憲法上の権利に内在する制約として︑これを受任することは︑期待可能であろう︵Zumutbarkeit︶︒その意味で︑国家に対する防御権としての憲法上の権利についても︑防衛行為としての相当性︵Angemessenheit︶が要求されることになる︒このようにして︑大多数の憲法上の権利については︑その制約根拠を文字通り﹁内在的﹂に追求していく︒
しかし︑それは︑国家による過剰規制を許容する︑という趣旨ではない︒そこで︑過剰規制の禁止︵Übermaßverbot︶としての比例原則︵Verhältnismäßigkeitsprinzip︶が︑重要になる︒立法目的すなわち法律が実現しようとする交易が正当であることを前提として︑それを実現するための規制が過剰で︑相手方国民の権利を必要以上 に侵害している場合には︑最適な︵optimal︶解決とはいえない︒
そのためには︑第一に︑法律によって得られる利益と失われる利益の均衡性︵Verhätnismäßigkeit︶を前提とした上で︑第二に︑規制手段が立法目的に適合的︵geeignet︶であること︑つまり目的と手段の間の合理的関連性︵Geeignetheit︶確保され︑第三に︑﹁より制限的でない他に選びうる手段﹂が確保くされることによって︑規制の必要最小限度性︵Erforderlichkeit︶確保されていることが︑要求される︒そのことによって︑国家行為による権利侵害を受任しつつ︑同時に︑許容される限度で権利の保障を最大化することができる︒
ここまで論じれば︑本文で線を引いた部分からもわかるように︑比較衡量の問題に入っていくことができるのである︒それは︑前述の﹁三段階審査﹂論を積極的に取り入れた最近の基本書においても以下のように記述されていることからも理解できよう
23︒
基本権制限が内容の点で憲法の要求を満たしているかどうかの論証は︑基本権制限が公共の福祉に適っているかどうかの論証に解消すできないとすると︑基本権制限の正当化の論証手続は別の側面から分析されなければならない︒そこで最高裁の判例を見ていると︑ここにおいては︑基本権制限によって保護しようとする利益と基本権制限によって犠牲にされる利益のバランスをとろうとする姿勢が認められる︵比較衡量の手法︶︒また︑基本権制限は特定の目的を達成するために設定された手段とみなされている︵目的・手段の図式︶︒比較衡量と目的・手段の図式という二つが︑基本権制限の正当化の論証の枠組みとして用いられているように見える︒⁝⁝ 茨城大学教育学部紀要︵人文・社会科学︑芸術︶六十八号
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