夏目漱石「猫の墓」論 ─ 愛の円環 ─ 猪 野 はるか
はじめに
夏目漱石に「猫の墓」と題される、その名のようにひっそりと 佇む小さな作品がある。これまで、それが積極的に取り上げられ 研 究 さ れ て 来 た 形 跡 は な い。 そ の さ さ や か な 研 究 史 を ま と め る と、以下のような三つの方向性がみとめられる。
一 つ 目 は 、 作 家 夏 目漱 石 の 生 活 史 の 資 料と し て 扱 う 方 向 で あ る 。 半 藤 一 利 「 稲 妻 の 起 る 宵
─夏 目 漱 石 と 猫 」(「 俳 句 」 二 〇 〇 一 ・ 六 ) は 、 猫 の 命 日 の 夏 目 夫人 の 様 子を 思 い 起 こ し な が ら 、「 生 前 に 何 度 か 会 っ て 、 よ く 知 っ て い る 大 雑 把 で 太 っ 腹 の 夫 人 ら し い 話 で、 思 わ ず ク ス ク ス と な っ て し ま う 」 と 評 し て い る。 そ も そ も「 猫 の 墓 」 を収録した「永日小品」自体、作家と照らし合わされながら取り 上げられることが多い。こうした作家論的な研究の流れと関連す る の が、 「 猫 の 墓 」 に 登 場 す る「 猫 」 を『 吾 輩 は 猫 で あ る 』 の 主 人 公 猫 の モ デ ル だ と し て 取 り 上 げ る と い う 二 つ 目 の 方 向 で あ る。 荒 正 人「 解 説 」(『 漱 石 文 学 全 集 第 十 巻 小 品・ 短 篇・ 紀 行 』 集 英 社 一 九 八 三 ) は、 「『 猫 の 墓 』 は、 夏 目 鏡 子 述 松 岡 譲 筆 録 『 漱 石 の 思 ひ 出 』( 昭 和 三 年 十 一 月 二 十 三 日、 改 造 社 刊 ) に、 『 二 三
に区分したが、ほとんどの「猫の墓」研究は作家の生活史以上に み出たもの」に分類されている。このように研究史を便宜上三つ 店 一 九 九 〇 ) で は、 「 猫 の 墓 」 は「 淡 々 と し て、 深 い 情 愛 の 滲 る。 阿 部 昭「 解 説 」(『 漱 石 文 学 作 品 集 夢 十 夜 他 二 篇 』 岩 波 書 小品群を研究者が分類し、種類ごとに論じ分けるという方向であ 「 猫 」 を 同 一 視 し て い る と 言 え よ う。 三 つ 目 は「 永 日 小 品 」 内 の と し て 扱 わ れ て い る。 す な わ ち 荒 は モ デ ル の 猫 と「 猫 の 墓 」 の の 猫 」 と し て 言 及 さ れ て お り、 『 吾 輩 は 猫 で あ る 』 の モ デ ル の 猫 る 」 と あ る。 『 漱 石 の 思 ひ 出 』 中 で 語 ら れ る 猫 は、 「 有 名 な 初 代 『 猫 』 の 家 』 と『 三 五 猫 の 墓 』 と し て、 経 歴 が 語 ら れ て い
考察が踏み込まれていないのが現状である。
さて、本研究の目的は、生活史資料としての側面をひとまず放 れ て、 「 猫 の 墓 」 を 細 部 ま で て い ね い に 分 析 し 切 り、 一 つ の 独 立 した作品として論考することである。
く過程を明らかにしたい。 の弔いを通して自分自身の〈傷つき〉をひきうけ自己肯定してゆ な る い き も の で あ る「 猫 」 と う ま く 関 わ れ な い 語 り 手 が、 「 猫 」 セスが見出せるからである。本研究の「猫の墓」論では、対象と いきものとの関係を通して一種の自己治癒をおこなってゆくプロ され、初期作品から順を追って読んでゆくと、語り手がかよわい きものと関わる小品群」とも呼びうるような作品がいくつも見出 作品を選び、関連させて論じた。なぜなら漱石作品の中には「い 「 永 日 小 品 」 と「 硝 子 戸 の 中 」 か ら い き も の と 子 ど も が 登 場 す る 「 猫 の 墓 」 を 論 じ る に あ た り、 修 士 論 文 で は「 文 鳥 」 お よ び、
人と共に生活をする中で、動物は人間の心が投影される特別な 〈 存 在 〉 に な る こ と が あ る。 こ こ で〈 い き も の 〉 と 言 い、 〈 動 物 〉 としないのは、単にそれを〈動くもの〉としてとらえるのではな く、 〈 命 を も っ て 生 き、 人 と 関 わ る も の 〉 と い う 意 味 を、 よ り 強 調 し た い か ら で あ る。 〈 い き も の 〉 と の 交 流・ あ る い は 交 流 の 不 可能性を通じて、人は〈自分〉自身の内面と向き合うのではない だろうか。 本論は「猫の墓」を中心に、人一倍「猫」を気にする一人称の 〈 語 り 手 〉「 自 分 」 が、 に も か か わ ら ず 世 話 で き な い の は な ぜ か と いうことに注目しつつ、 〈語り手〉自身が深部に抱える〈淋しさ〉 や〈傷つき〉の様相と、それが救済されてゆく過程を明らかにし ようと試みている。方法論としては、臨床的な視点や民俗学的な 視点などを用いた。
第一章 淋しい猫と「自分」
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アンビバレントな関係
陽 堂 か ら 発 行 さ れ た 『 漱 石 近 什 四 篇 』 に 初 収 録 さ れ て い る 。 六 日 で あ る 。 そ の 後 、 一 九 一 〇 ( 明 治 四 十 三 ) 年 五 月 十 五 日 、 春 二 十 四 日 で 、「 東 京 朝 日新 聞 」( 以 下 「 東 京 」) が 同 二 十 五 日 、 二 十 聞 」( 以 下 「 大 阪 」) が 一 九 〇 九 ( 明 治 四 十 二 ) 年 一 月 二 十 三 日 、 「 猫 の 墓 」 は 上 下 で 「 朝 日 新 聞 」 に 掲 載 さ れ た 。「 大 阪 朝 日 新
ところで、猫が家畜化された起源は、紀元前二〇〇〇年頃、エ ジプトにおいてと言われている。現代の猫は愛玩動物の系譜上に あるが、明治四〇年代においては、猫はネズミを捕るのにとりわ け 重 宝 さ れ た 存 在 で あ っ た
注
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。 し か し「 猫 の 墓 」 で 語 ら れ る「 猫 」
は、身体を病に蝕まれ、衰弱してゆく一方であり、とてもネズミ を捕れる状態ではない。つまり、この「猫」は同時代の読者の猫 イメージに照らし合わせれば、役立たずの猫なのである。病から の回復も見込まれず、既に存在価値を失っている「猫」はこの時 代には必要とされないはずだ。けれども、 「自分」の視線は「猫」 を追い続け、死んで埋められた後も墓を見つめ続けている。一体 「自分」の中には何がうごめいているのだろうか。
早 稲 田 に 引 っ 越 し て き た 語 り 手「 自 分 」 の 目 に 入 っ て く る 「猫」の様子は、身体が痩せて元気を失い、 「自分」の「小供」と も遊ばなくなった姿である。そんな「猫」を家族はとりたててか ま い つ け る こ と は な い が、 「 自 分 」 の 目 に は〈 居 場 所 〉 が な い 寄 る べ な い 存 在 に う つ る
注
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。 例 え ば、 「 家 の 小 供 」 か ら は 存 在 を 認 め ら れ ず、 「 近 所 」 の 三 毛 猫 か ら も「 猫 」 の 取 り 分 で あ る「 食 」 を 奪われてしまう様子が語られている。
「猫」は寝方にも余裕がなく、
「動かなければ淋しいが、動くと 猶淋しいので、我慢して、じつと辛抱してゐる様に見えた」と捉 えられている。そこからは、 〈「猫」は動かないことよりも、身体 が弱って動けない事実を感じることの方が、より淋しい〉と 語り
00手 が 感 じ て い る
0000000こ と が 分 か る。 動 い て 活 き 活 き と し た 活 動 を し な い と 、 傍 目 か ら は 生 の躍 動 は 感 じ ら れ な い 。 し か し 「 猫 」は 身 体 が 衰 弱 し つ つ あ る た め 、 そ も そ も 躍 動 感 な ど あ るは ず も な い の で あ る 。「 猫 」 は 動 こ う と す る と 自 身 が 思 う よ う に 動 け な い 事 実 を 実 感 し て し ま う こ と が 淋 し い 、 と 「 猫 」 で はな く 語 り 手 に
0000思 わ れ て い る の だ 。 つ ま り 、「 自 分 」 は 「 猫 」 の 衰 弱 す る 姿 に 、 自 身 の 感 じ る 死 の 淋 し さ 、 生 き る 淋 し さ を 重 ね て い る の だ と い え よ う 。
い。 いると推測されるのである。このことについては追って詳述した ることで自身から切りはなし、問題にせまるのを無意識に防いで 「 自 分 」 の な か に は 未 解 決 の 問 題 が あ り、 そ れ を「 猫 」 に 投 影 す た」という矛盾する反応にある。やや結論を急ぐなら、おそらく 「 猫 」 を、 ず っ と 気 に か け て い た に も か か わ ら ず「 忘 れ て し ま っ まうのだ。語り手「自分」の問題とは、このように衰弱してゆく 分」は「猫」が死ぬ前の晩には「猫」のことをすっかり忘れてし な く な る。 だ が、 そ れ ほ ど ま で に「 猫 」 を 気 に か け な が ら、 「 自 く る の で あ る。 こ の よ う に し て、 「 自 分 」 は「 猫 」 を 見 ざ る を え は弱るにつれて、むしろ「自分」の生活に侵入し、視界へ入って 心を外すために書見に集中しようとしたりする。けれども、 「猫」 は「 猫 」 か ら 目 を 逸 ら す た め に 外 に 追 い や っ た り、 「 猫 」 へ の 関 「 猫 」 は 衰 弱 す る に つ れ て 見 る も 痛 ま し い 様 子 に な り、 「 自 分 」
と こ ろ で 、「 自 分 」 の 語 り に よ る と 、 家 の 中 で 最 も 「 猫 」 を 気
に 掛 け て い る の は 「 自 分 」 で あ る 。 一 方 、「 妻 」 は 「 冷 淡 」 で あ る と 語 ら れ て い る 。〈 冷 淡 〉 な 「 妻 」 に 対 し 「 自 分 」 が 〈 敏 感 〉 で あ る な ら ば 、 相 対 的 に 「 妻 」 は 「 猫 」 に 対 し て 〈 鈍 感 〉 と い う こ と に な る 。 け れ ど も 、 果 た し て 「 自 分 」 の 言 う 通 り 、「 妻 」 は 「 猫 」 に 対 し て 、 お し な べ て 〈 冷 淡 〉 な の だ ろ う か 。「 妻 」 は 「 猫 」 に 対 し 、「 自 分 」 の 言 い つ け を 守 っ て 宝 丹 を 飲 ま せ よ う と 試 み る な ど 、「 猫 」 の 世 話 を し て い る 事 実 が み と め ら れ る 。 そ れ に 対 し て 「 自 分 」は 、「 猫 」 に 関 心 が あ る も の の 、自 ら 世 話 を す る こ と は な い 。 す な わ ち 、「 自 分 」 の ほ う が 、 余 程 「 猫 」 に 対 し て は 冷 た い 扱 い を し て い る と 言 え る の で あ る 。 以 上 か ら 、「 妻 」 を 「 冷 淡 」 だ と 語 る 「 自 分 」 の 中 に は 事 実 認 識 の ゆ が み が あ る と 考 え ら れ る 。 つ ま り 、「 自 分 」 は 、 病 気 の 「 猫 」 の 世 話 が で き な い 自 己 嫌 悪 か ら 目 を そ ら し 、 そ れ を 「 妻 」 の 「 冷 淡 」 さ の せ い に し て 非 難 す る こ と で 、 自 分 が 傷 つ か な い よ う に 防 衛 し て い る の で あ る 。
こうした不可解な「自分」の心理や行為の原因をこの短い小説 の語りの表層からのみ探ってゆくことはきわめて困難であり、分 析にあたっては深層心理学的視点を呼びこむ必要が生じる。
臨床心理学では、過去の自分と重要な他者との関係を、現在の 自分と特定の対象との関係に投影することを「転移」と呼んで重 要 視 し て い る が、 本 作 の「 自 分 」 と「 猫 」 と の 関 係 に も そ う し た 転 移 を み と め る こ と が で き る。 本 作 で は か つ て の「 自 分 」 が 「 猫 」 に 投 影 さ れ て い る と 考 え て よ い。 そ れ は、 誰 に も 世 話 を さ れることなく死んでゆくのがふさわしい「自分」の像である。現 在 の「 猫 」 と の 関 係 に お け る「 自 分 」 は、 「 猫 」 を〈 本 来 そ う あ るべき「自分」の姿〉と見なすために、気にかけながらも進んで 介 抱 す る こ と が で き な い。 「 猫 」 に 投 影 さ れ る 痛 ま し い イ メ ー ジ は「自分」にとっては無力感すら感じさせるかつての「自分」で あり、自己の一部でもあるのだ。 「
猫 」 の 悲 痛 な イ メ ー ジ は、 重 要 な 意 味 を も っ た 他 者 と か つ て の「自分」との関係におけるトラウマティックな体験を浮かび上 が ら せ る た め、 現 在 の「 自 分 」 に は 忌 避 さ れ る イ メ ー ジ と な る。 「 自 分 」 に「 猫 」 が 忘 れ ら れ て し ま う の は、 こ の よ う な イ メ ー ジ に対して心的防衛機制が機能するからである。重要な意味をもっ た他者との関係で「自分」はもちろん殺されはしなかったから現 在 も 生 き て は い る の だ が、 「 自 分 」 が 投 影 さ れ た「 猫 」 は、 「 自 分」の目の前で日々衰弱し、見殺しにされてゆく。それはあり得 た か も し れ な い 過 去 の「 自 分 」 で あ り、 そ う し た 自 己 存 在 の 否 定 感 は、 「 猫 」 を 見 る こ と で ま す ま す 濃 密 な も の に な っ て ゆ か ざ る を え な い。 そ れ ゆ え、 「 猫 」 か ら 目 を そ む け、 無 意 識 の う ち に そ の 存 在 を 忘 れ よ う と す る の だ が、 そ の 結 果、 「 猫 」 は「 自 分 」
に よ っ て も 見 殺 し に さ れ て し ま う。 そ の 時、 「 猫 」 に 重 ね ら れ た 「 自 分 」 自 身 も 見 殺 し に さ れ て、 そ の 結 果 と し て〈 見 殺 し に さ れ て も 仕 方 の な い「 自 分 」〉 と い う 像 が 実 現 し て し ま う た め に、 自 己否定感はさらに強化されることになるのである。
第二章 居どころをもたない「自分」
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発達心理学を援用して
「自分」の、
「猫」に対するアンビバレントな態度の意味を考え る上で、本節では発達心理学を援用したい。
「猫」に対するアンビバレントな態度・行動からは、
「自分」が 育 て ら れ た 体 験 の 様 子 を う か が い 知 る こ と が で き る の で は な い か。発達心理学では、養育者に愛され足りなかった者が〈親〉に なった時、その〈親〉は、しばしば〈子〉に対しても愛情をかけ ることができないことを指摘している。庄司順一は「親の性格の 問 題、 そ し て そ れ に よ る 自 分 の 子 ど も へ の 拒 否 的 な い し は 両 価 的(アンビバレント)な態度・行動の背景には、親自身の養育体 験 の 問 題 が あ る。 ( 略 ) 虐 待 さ れ た 体 験 が、 子 ど も へ の 虐 待 を も た ら す こ と を 虐 待 の 世 代 間 伝 達 と い う
注
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」 と 述 べ て い る。 本 作 で も、 「 猫 」 を 気 に か け つ つ も そ の 世 話 を ひ き 受 け る こ と が で き な い「自分」に、養育者との関係で世話をされ足りなかったという 体験が潜んでいると推測することは不可能だろうか。 子どもが世話され足りないことで生まれる自己否定的な思いを 別の言葉で言い換えるなら、それは自分を〈養育者から世話をさ れる価値がない〉存在だと思うことである。この自己存在の否定 感 は、 「 自 分 」 自 身 も ひ き 受 け が た い が 為 に 別 の 対 象 に 投 影 さ れ る。 つ ま り、 世 話 を さ れ る 価 値 が な い の は「 自 分 」 で は な く て 「 猫 」 で あ る と い う よ う に、 否 定 の 対 象 を 自 己 か ら「 猫 」 へ 移 す ことで、自己否定感から目をそらそうとするのである。ここで注 意したいのは、このように移動させても「自分」の自己否定感は 消 え る わ け で は な い と い う 点 で あ る。 そ れ ゆ え、 「 猫 」 と 関 わ ろ うとすればこの潜在化した自己否定感が刺激されて、自己が揺さ ぶられざるを得ないのである。そもそも「自分」は、世話をする 以前に、 「猫」という存在には近づきがたいのである。
「 猫 」 を「 自 分 」 の 代 わ り に 大 切 に 扱 っ て ほ し い が、 そ れ を 叶 え ことができない「妻」を責めているのだが、こうした口調からは 嶮どんに叱」る。このとき「自分」は「猫」に適切な世話をする 聞 い た「 自 分 」 は、 「 ぢ や 食 は せ ん が 好 い ぢ や な い か 」 と「 少 し 「 妻 」 が 魚 の 骨 を「 猫 」 に や る と 吐 き 出 し て し ま っ た と い う 話 を は 限 ら な い。 そ こ に は わ ず か な 自 己 愛 も 含 ま れ て い る。 例 え ば、 「 猫 」 に 投 影 さ れ て い る も の は、 「 自 分 」 の 否 定 的 側 面 だ け と
てくれない「妻」に対するいらだちが伺える。また、適切でない 世 話 を 受 け た「 猫 」 の 話 題 を 聞 く こ と は、 「 自 分 」 の 深 層 下 に あ る、傷ついた「自分」のイメージを意識上に思い浮かばせること にもなっているのだ。
ところで、増沢高『虐待を受けた子どもの回復と育ちを支える 援 助 』( 福 村 出 版 二 〇 〇 九 ) に よ る と、 赤 ち ゃ ん に と っ て 初 期 の養育とは「救われる体験」の連続なのだそうである。赤ちゃん は養育者にその生を絶対的に依存している。エリクソンは、〇歳 か ら 一、 二 歳 頃 ま で の 人 生 初 期 の 心 の 課 題 を、 「 基 本 的 信 頼 感 」 の獲得とした。これは、心の中心に不信感を凌駕する信頼の感覚 が宿ることである。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚などの五感がおおよそ備わった赤ちゃ んは、不快な刺激を感じたときには、全身を震わして泣くことで そ れ を 訴 え る。 赤 ち ゃ ん は 不 快 や 苦 痛 を 自 分 で 取 り 除 く こ と は 難 し く、 放 っ て お か れ れ ば 死 に 至 る 存 在 で あ り、 養 育 者 が 絶 対 に 必 要 な の だ。 イ ギ リ ス の 著 名 な 小 児 科 医 で あ る ウ ィ ニ コ ッ ト (
Winnicott, D.W) は、 こ の 状 態 を「 絶 対 的 依 存 」 と 呼 ん だ。 こ の時、養育者と赤ちゃんの二者間には、基本的信頼感をベースに した、 〈世話をする/される〉といった構図が成り立っている。 ところが、泣いても放置され続けた赤ちゃんは、愛着行 動
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が育 ま れ ず、 辛 い 状 況 で も 大 人 に 助 け を 求 め ら れ な く な っ て し ま う。 増 沢 は 同 著 で、 赤 ち ゃ ん が 放 置 さ れ 続 け る と「 命 を 失 わ ず と も、 人や世界に対する安心や信頼の感覚は育まれず、逆に生きること の困難さや世界への不信と恐怖の感覚が心の中に根ざします」と 説 明 し て い る。 ま た、 「 基 本 的 信 頼 と い う 初 期 の 発 達 の 躓 き は、 その後の発達課題の獲得を妨げ」 、「大人への不信感ゆえに助けを 求められない子どもは、辛い状況が生じても一人ぼっちで耐え続 けるという、救われない状況に拍車をかけてしまう」のだとも述 べている。それゆえ、 「『救われる体験』とそこから育まれる愛着 行 動 は、 人 類 の 生 存 の 根 幹 に も 関 わ る 重 要 な 発 達 課 題 」 で あ り、 「 健 康 的 な 依 存 関 係 を 築 く 力、 支 え 合 い の 力 」 を 身 に つ け る こ と こそが、実は自立を促すことになるのだと論じている。
さて、再び「猫の墓」にもどろう。 「猫」は、 「懶さの度をある 所 迄 通 り 越 し て、 動 か な け れ ば 淋 し い が、 動 く と 猶 淋 し い の で、 我慢して、じつと辛抱してゐる様に見えた」と、語られている場 面がある。
前章では「自分」が「猫」の衰弱する姿に、死の淋しさ・生き る 淋 し さ を 見 て い る と 述 べ た。 こ れ に 加 え て、 「 自 分 」 が 深 層 下
で「猫」に投影しているものには、欲求があるのに泣いて訴える ことをせずに、一人でじっと耐える幼子のイメージ(すなわち幼 い日の無力な自己像)も重なっているのではないだろうか。すな わ ち「 自 分 」 は、 「 猫 」 が 周 囲 に 保 護 を 訴 え て も 叶 え ら れ な い た め に 我 慢 し て い る、 と 理 解 し て い る の だ。 「 自 分 」 が「 猫 」 に 見 てしまう悲壮なイメージには、子ども時代に躓いている他者への 基本的信頼感という問題がからんでいると推測される。
また、物語冒頭で、 「猫」はかつての遊び仲間であった「小供」 からも相手にされることがなくなり、関係の網目としての〈居場 所 〉 を 一 つ 失 う。 日 の 当 た る 縁 側 は、 「 猫 」 の 定 位 置 で あ る が、 その寝方にはもう余裕がなく、安心できる〈居場所〉に身体をほ どいているというようには「自分」の目には映らない。
其目付は、何時でも庭の植込を見てゐるが、彼は恐らく木の 葉も、幹の形も意識してゐなかつたのだらう、青味がかつた 黄 色 い 瞳 子 を、 ぼ ん や り 一 と 所 に 落 ち 付 け て ゐ る の み で あ る。彼が家の小供から存在を認められぬ様に、自分でも、世 の中の存在を判然と認めてゐなかつたらしい。
引 用 か ら わ か る よ う に、 「 猫 」 は 周 囲 か ら 存 在 を 認 め ら れ な く な る だ け で は な い。 「 猫 」 自 身 が 自 ら を 定 位 す る べ き「 世 の 中 」 の存在をも認めては居らず、その姿は「世の中」に〈居場所〉を 求 め る こ と 自 体 を 放 棄 し て し ま っ た か の よ う に 見 え る。 し か し、 もちろん「猫」が人間のように居場所や自己というものを意識す るはずはない。したがって、ここではそのようなものとして対象 ( 自 己 が 投 影 さ れ て い る も の ) を 見 つ め と ら え て し ま う 語 り 手 自 身 の 心 の あ り よ う が、 「 猫 」 に つ い て の 語 り を 通 し て 浮 か び 上 が るのである。 北 山 修 に よ れ ば、 自 分 と は「 自 ら の 分 」( 自 ら に 分 け 与 え ら れ る 分 )、 つ ま り〈 居 場 所 〉 そ の も の な の だ と い う。 人 が 発 達 早 期 の 段 階 で「 自 分 が あ る 」 と い う 感 覚 を 得 ら れ る よ う に な る に は、 まずその前提として依存する環境から〈居場所〉が与えられてい るということが不可欠なのである。 「
猫 」 は「 自 分 」 達 一 家 に 飼 わ れ て お り、 そ の 存 在 は 周 囲 に 依 存 し て い る。 し か し、 「 自 分 」 は「 猫 」 に〈 居 場 所 〉 の な さ を 見 ているにも関わらず、自ら〈居場所〉を与えることをしない。そ れどころか「猫」が衰弱する姿を見ることを避けるかのように外 に 追 い 出 す の は「 自 分 」 な の で あ る。 し か し そ の 反 面、 「 猫 」 の 世話を妻に提案するのもまた、同じその「自分」なのである。こ こ か ら は、 「 自 分 」 の 中 に あ る、 「 猫 」 を な ん と か し て 欲 し い が、
その問題を自分では取り扱えないという心のせめぎ合いが見てと れ る。 言 い 換 え れ ば「 猫 」 を 救 っ て 欲 し い と い う 思 い と、 「 猫 」 を 救 っ て し ま っ て は な ら な い( な ぜ な ら、 「 自 分 」 は か つ て そ う いった〈救われ体験〉をしてこなかったから)という矛盾する思 い が 読 み と れ る。 つ ま り「 自 分 」 は、 「 自 分 」 自 身 の 存 在 を 肯 定 しきれない思いを「猫」へと投影しているのである。
このように、 「自分」の、 「猫」へのアンビバレントな関わり方 の 底 に 潜 ん で い る の は、 お そ ら く は、 本 作 に は 描 か れ る こ と の な か っ た「 自 分 」 と そ の 養 育 者 と の 関 係 で あ る。 「 自 分 」 の 自 己 否 定 感・ 無 力 感 を「 猫 」 に 投 影 し て い る が ゆ え に、 「 猫 」 が 気 に なっても、自らは「猫」に働きかけることができないのである。
第三章
「猫」の鎮魂と自己和解 「猫」が死ぬと「妻」は「死態を見に行つた」が、
「自分」はそ の よ う な「 妻 」 の 行 動 へ、 「 わ ざ 〳〵」 と 冠 し て い る
注
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。 こ こ か ら 逆 に 浮 か び あ が っ て く る の は、 〈 敏 感 〉 ゆ え に「 猫 」 の 死 体 を 直 視 で き な い「 自 分 」 の あ り よ う で あ る。 け れ ど も 実 は、 「 自 分 」 に よ っ て〈 鈍 感 〉 と と ら え ら れ る「 妻 」 こ そ が、 「 自 分 」 の 深 層 にある「猫」との、すなわち、現在の「自分」と愛されなかった かつての自己との間の和解を促してくれてもいるのである。
ま た 、 裏 に は 「 此 下 に 稲 妻 起 る 宵 あ ら ん 」 と い う 句 を 認 め る 。 言 葉 を 促 す 。 そ れ を 受 け て 「 自 分 」 は 墓 標 の 表 に 「 猫 の 墓 」 と 、 る 。 そ し て 、「 自 分 」 へ は 、「 何 か 書 い て 遣 つ て 下 さ い 」 と 追 悼 の 「 妻 」 は 墓 標 を 「 車 夫 」 に 頼 ん で用 意 し 、「 猫 」 の 弔 い を 準 備 す
こ の 句 に あ る「 稲 妻 」 に は 三 種 類 の イ メ ー ジ が は ら ま れ て い る。 一 つ は、 「 自 分 」 が 生 前 の「 猫 」 の 目 に「 あ ら は れ る 様 な 気 がした」と見て取ったような、怪しく死を予兆するような不吉な イ メ ー ジ で あ る。 こ の 意 味 で と れ ば、 「 稲 妻 起 る 宵 あ ら ん 」 と い う 句 か ら は、 地 中 に 埋 め ら れ 姿 を 隠 し て い る に も 関 わ ら ず、 「 自 分」の脳裏には見届けられなかった「猫」の断末魔の様子が明瞭 に浮かんでくることになる。二つ目は、言葉通り「猫」に稲妻が 落 ち る イ メ ー ジ で あ る。 「 猫 」 は 死 ん で も な お 稲 妻 に よ っ て 痛 め つけられる。そこには安眠も救いもない。以上はネガティブなイ メージであるが、稲妻のイメージにはよきイメージもある。稲妻 を 天 か ら の 命 と し て 理 解 す る な ら、 そ れ は 死 ん で し ま っ た「 猫 」 へ 再 び 生 命 を 吹 き 込 む よ う な 力 へ の 期 待 だ と も 読 め る。 も ち ろ ん、 死 ん で し ま っ た い き も の が、 実 際 に 蘇 る こ と は 不 可 能 で あ る。だが、そうでもしてなんとか「猫」と和解したい思いが「自 分」の中には隠れていると考えられる。
句 に こ め ら れ た こ れ ら の 思 い は 正 面 か ら 墓 に 向 き 合 っ た と き
の「自分」には見られない。生前の「猫」に対して何も世話をし な か っ た「 自 分 」 が、 こ れ ほ ど の 思 い を 抱 い て い た と い う こ と は、 「 妻 」 に 墓 標 を 依 頼 さ れ な け れ ば 形 と し て 外 に 現 れ る こ と は なかった。墓標の言葉として形を成した「自分」の「猫」への思 いは、書いた「自分」の胸を責めるかもしれない。しかし同時に 「自分」が「猫」の弔いに参加したなによりの証になり、 「猫」を 鎮魂したいという思いを幾らかでも叶えるに違いない。
ここでの〈和解〉とは、自分を責めたてたり怖れされたりする 存在をもう一度思い出し、再びそれと関わり直す中でそれを受け 入れて折り合いをつけようとすることである。死んで土の下に埋 め ら れ た「 猫 」 は、 「 自 分 」 を い た ず ら に 刺 激 し な い 存 在 に 変 わ る。 〈 死 〉 と い う 距 離 が う ま れ た こ と で、 生 前 の「 猫 」 に 否 応 な く見せつけられた衰弱の姿も、もはやそれほど切迫感をもって想 像されなくなったのだ。死んだ「猫」は「自分」の身代わりに死 ん だ と も 言 え る が、 「 猫 」 に 投 影 さ れ て い た 幼 い 日 の 無 力 な「 自 分 」 も、 「 自 分 」 を 脅 か さ な い 程 度 の 距 離 を 保 ち な が ら 思 い 起 こ されるようになる。つまり「猫」が死んで思いがけず墓標づくり に関与したことで、 「猫」 、ひいてはかつての「自分」をおだやか に葬ることができたのである。そして刻みつけられた墓標の言葉 と共に、ゆるやかな自己和解も進行してゆく。 墓 に は「 自 分 」 の「 小 供 」 に よ っ て 萩 の 花 が た む け ら れ、 茶 碗 の 水 が 供 え ら れ る。 「 自 分 」 は「 小 供 も 急 に 猫 を 可 愛 が り 出 し た」と語る。 「猫」が元気を無くして以来、 「他人」扱いするよう に「 旧 友 」(「 猫 」) か ら 遠 ざ か っ た「 小 供 」 だ っ た が、 「 猫 」 の 死 を悼む思いは墓地をうむ。すなわち、死を通して「猫」は再び自 分 の 居 場 所 を 得 た こ と に な る の だ。 「 花 も 水 も 毎 日 取 り 替 へ ら れ た 」 と い う こ と か ら、 「 小 供 」 に よ っ て「 猫 」 の 弔 い が 継 続 し て い る こ と が 分 か る。 中 で も、 「 自 分 」 が と り わ け 注 目 し て い る の は「愛子」の行動である。 三 っ
ママ日 目 の 夕 方 に 四 つ に な る 女 の 子 が
─自 分 は 此 時 書 斎 の 窓 か ら 見 て ゐ た。
─た つ た 一 人 墓 の 前 へ 来 て、 し ば ら く 白 木の棒を見てゐたが、やがて手に持つた、おもちやの杓子を 卸して、猫に供へた茶碗の水をしやくつて飲んだ。それも一 度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝りは、静かな夕暮 れの中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤ほした。
「
愛 子 」 は「 自 分 」 の 娘 で あ る が、 「 小 供 」 で は な く「 女 の 子 」 と呼ばれている。本作では、語り手は他の箇所では子供のことを 一貫して「小供」と呼んでいるのだが、その違いにはどのような
意味があるのだろうか。
「小供」の「小」には〈小さい〉という意味があり、
〈大人〉に 対 し て〈 発 達 し て い な い も の 〉〈 未 熟 な も の 〉 を あ ら わ し て い る。 そ し て「 供 」 に は〈 従 う 〉 と い う 意 味 が あ る
注
注
。 こ の「 小 供 」 と い う 呼 称 か ら 読 み 取 れ る の は、 ( 大 人 に 対 し て ) と る に 足 り な い も の、 劣 る も の と い っ た イ メ ー ジ で あ る。 一 方、 「 女 の 子 」 に は 「子」という文字だけが使われており、 「小供」のようなネガティ ブ な イ メ ー ジ は な い
注
注
。「 愛 子 」 と い う 名 前 に も「 子 」 と い う 文 字 が 使 わ れ て い る が、 テ ク ス ト 発 表 当 時 に は、 女 性 名 に つ く「 子 」 に は 高 貴 な イ メ ー ジ が あ っ た と い う
注
注
。 こ の よ う に「 女 の 子 」「 愛 子」と呼ばれることは特別な意味をもっているのだ。
ま た、 「 愛 子 」 は「 四 つ に な る 」 と 語 ら れ て い る。 数 え 年 で 四 歳なので、満年齢では三歳程の年齢である。民俗学には「七つま では神のうち」という考え方がある。これにはいくつか意味があ り、 ① 生 き 生 き と し た 動 物 に 近 い、 ② そ れ と 同 時 に 死 亡 率 が 高 い
注
注
、③そのため死亡しても人間が死んだとはみなさない葬儀をす る(人間として扱われな い
注注
注
)④生まれる前は死の世界にいてそこ か ら や っ て 来 た、 ⑤ 子 ど も は 感 覚 的 に 死 を リ ア ル な も の に 感 じ る、 な ど で あ る。 す な わ ち、 「 四 つ に な る 」 と い う「 愛 子 」 は、 このように死と生の橋渡しをするような存在なのである。 第四章
「文鳥」との比較を通して
本 作 同 様、 一 人 称 の 語 り 手「 自 分 」 と い き も の と の 関 わ り を 描 い た 漱 石 の 作 品 と し て「 文 鳥
注注
注
」 が あ げ ら れ る。 そ の 末 尾 で は、 「 文 鳥 」 の 呑 み 水 は 涸 れ て し ま い、 「 文 鳥 」 に〈 死 〉 が 訪 れ て い る。 「 文 鳥 」 で は、 語 り 手「 自 分 」 は 世 話 を 通 し て「 文 鳥 」 に 触 れようと試みるも、意図せぬ失敗を重ねる。その都度「文鳥」に 〈 気 の 毒 〉 さ を 感 じ、 自 己 の も つ 加 害 性 へ の 怖 れ や 罪 悪 感 を つ の ら せ て ゆ く。 一 方、 そ れ に 触 発 さ れ る よ う に 思 い 出 さ れ る の は、 か つ て「 女 」 に し か け て 困 惑 さ れ た「 い た づ ら 」 の 記 憶 で あ り、 その時の、相手に触れようとして拒絶された経験である。
このようなよく似たモチーフを孕む作品「文鳥」と比較するこ とで、 「猫の墓」の特性をさらに考えてゆきたい。
島 本 彩「 菫 程 な 小 さ な〈 記 憶 〉 の 物 語
─夏 目 漱 石『 文 鳥 』 論
─」(「 東 京 女 子 大 學 日 本 文 学 」 二 〇 一 二・ 三 ) は、 「 帯 上 」 と い う 媒 介 物 を 必 要 と す る 「 い た づ ら 」 に 、「 〈 触 れ た い / 触 れ て は い け な い 〉、 〈 受 け 入 れ て 欲 し い / 拒 絶 し てほ し い 〉 と い う 二 律 背 反 の 心 理 が 伺 え 」、 「 文 鳥 か ら 『 女 』 の 姿 が 浮 か ん で き た た め 、 眼 前 の 文 鳥 に も 触 れ ら れ な く な る 」 と 論 じ て い る 。〈 触 れ る こ と を 許 し て ほし い / 触 れる こ と を 拒 ま れ て 当 然で あ る ( し か し 、 拒 絶
は 恐 ろ し い の で 直 面 し た く な い )〉 と 、〈 「 自 分 」 の 存 在 を 受 け 入 れ て 欲 し い / 「 自 分 」 の 存 在 を 拒 絶 し て ほ し い 〉 と い う 心 理 的 相 反 を そ こ に み る 時 、 島 本 が 指 摘 す る 倫 理 的 禁 忌 に 加 え て 、「 自 分 」 の 自 己 存 在 の 容 認 の 問 題 が あ ぶ り 出 さ れ て く る 。 島 本 の 「 文 鳥 には 『 自 分 』 の 背 反 す る 感 情 や 〈 記 憶 〉 が 投 影 さ れ て い る 」 と い う 解 釈 に 基 づ け ば 、「 文 鳥 」 に も 語 り 手 に よ る い き も の へ の 投 影 が お こ っ て い る と 考 え ら れ る が 、「 猫 の 墓 」 と の 違 い は 、「 猫 」 が 「 自 分 」 の 自 己 存 在 を 投 影 さ れ て い る の に 対 し 、「 文 鳥 」 で は 「 文 鳥 」 に 他 者 で あ る 「 女 」 の 記 憶 が 投 影 さ れ て い る 点 で あ る 。
と い う 防 衛 機 制 が 防 衛 と し て 機 能 し て は い な い の で あ る 。 な っ て ゆ く 」 と 考 察 し て い る 。 つ ま り 、「 文 鳥 」 で は 、〈 忘 れ る 〉 れ た 』 と 語 られ る 度 に 、 繰 り 返 し そ の 存 在 を 思 い 出 さ せ る も の と や 感 情 を 自 身 か ら 切 り 離 そ う と し て い る と し た 上 で 、「 む し ろ 『 忘 て 、 そ れ に 結 び つ く 自 身 の 淋 し さ や 、 か つ て の 「 女 」 へ の 〈 記 憶 〉 の 点 に つ い て 島 本 は 、「 自 分 」 が 「 文 鳥 」 を 度 々 忘 れ る こ と に よ っ し 、「 文 鳥 」 で は 語 り 手 が 「 文 鳥 」 の 世 話 を 何 度 も 忘 れ て い る 。 こ 語 り 手 が 「 猫 」 の 存 在 を 忘 れ る の が た っ た 一 度 だ け で あ る の に 対 手 が い き も の の 存 在 を 〈 忘 れ る 〉 と い う 点 で あ る 。「 猫 の 墓 」 の 「 猫 の 墓 」 と 「 文 鳥 」 に お け る 二 つ 目 の 共 通 点 と 差 異 は 、 語 り
三つ目の共通点と差異は、死を通してそのいきものを受容でき る よ う に な っ て ゆ く か と い う 問 題 で あ る。 「 猫 の 墓 」 で は、 「 自 分」が「猫」の死体を見に行ったり、直接それに手で触れたりす ることはないが、 「妻」に促されて墓標づくりに貢献することで、 穏 や か に 弔 い に 参 加 し て い る。 そ れ に 対 し て「 文 鳥 」 の 語 り 手 「自分」は、 「文鳥」の亡骸に直接手で触れている。この点に関し て島本は「見ることによってある程度対象化できたその死は、触 ることによって『自分』という主体者を浸食するほどの衝撃」を もたらしたため、 「小女」に「文鳥」を「抛り出し」て、 「『自分』 の脆いこころそのもののような『書斎』という場所から文鳥の死 を 退 け る の で あ る 」 と 考 察 し て い る。 ま た、 「 猫 の 墓 」 の 末 尾 と 同様に「文鳥」にも墓が作られるが、日当たり悪い墓の小さな公 札には「筆子」の手跡によって「此の土手登るべからず」と表に 書かれているだけで、そこに眠る「文鳥」の存在を知らせるもの もなく、供養の句も添えられてはいないのである。
第五章 生命の循環
さて、再度「猫の墓」に話を戻そう。墓は静かな夕暮の光に包 ま れ て お り、 萩 の 花 と 水 が 供 え ら れ て い る。 「 猫 」 に 供 え ら れ た 水は「猫」を鎮魂すると同時に、 「愛子」の「咽喉を潤」し、 「愛 子」の体内に取り込まれ る
注注
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ことで、生命循環のイメージがうまれ
てくるようだ。
供えられた水とは供養の対象に向けられたものであり、本来の 意味では生きている人間が飲むべきものではない。しかし、その ようなことも知らぬまま、あるいは知らぬがゆえに、死に手向け ら れ た 水 は「 愛 子 」 が 口 に 入 れ る こ と に よ っ て、 こ の 世 に 生 き る も の に 作 用 す る の だ。 こ の 水 を 介 し て「 猫 」 は 再 び 現 世 を 生 き る「 愛 子 」 と 同 じ 地 平 に 呼 び も ど さ れ、 ひ い て は 語 り 手「 自 分」の眼前に死後もなお生者と交流する 姿
イメージを現す。この〈水〉は 植 物( 萩 の 花 ) を 活 け る 際 に も 使 用 さ れ、 水 を 通 し た 交 流 は 死 者( 「猫」 )と生者( 「愛子」 )の二者関係にとどまらず自然界にも 広がってゆく。つまり植物と「愛子」 (人間)と「猫」 (いきもの) は豊かな生命の円環を構成しているのだ。
こ の よ う な「 愛 子 」 の 非 作 為 的 で 非 目 的 的 な 行 動 は、 「 自 分 」 ではつくり得なかった生前の「猫」と「自分」との新たな関係性 を、 「 自 分 」 の 見 つ め る 先 に 浮 か び 上 が ら せ る。 そ れ は、 「 自 分 」 がなかなか思い描くことも信じることもできなかったであろう素 朴 な 愛 情 の イ メ ー ジ で も あ る。 こ う し て、 「 愛 子 」 の 行 動 を 見 つ め・ 語 る「 自 分 」 の 深 層 に は 変 化 の と き が お と ず れ た の で あ る。 「 猫 」 の 鎮 魂 は「 自 分 」 の 傷 つ い た 深 層 を も 鎮 魂 し た の だ。 つ ま り、 「 妻 」 や「 愛 子 」 に 執 り 行 わ れ る 一 連 の 弔 い は、 そ れ を 見 届 ける語り手にも作用したのである。 「
猫 の 墓 」 は 死 の テ ー マ が 色 濃 い 物 語 で あ る が、 そ れ は 愛 情 や 生 命 の テ ー マ へ と 開 か れ て ゆ く。 「 自 分 」 は〈 誰 か が 私 の こ と を 気 に 掛 け て く れ る 〉 愛 情 と い う も の へ の 不 信 感 か ら、 「 猫 」 の 死 を見届けることができなかった。
けれども偶然にも我が子の「愛子」が「猫」の水を飲む光景に 出 逢 い、 目 を 奪 わ れ る。 そ れ は、 死 ん だ こ と で か え っ て 存 在 が 尊 ば れ 悼 ま れ る い き も の の 姿 だ っ た。 「 愛 子 」 が「 猫 」 と 同 じ 物 を 口 に す る 行 動 は、 「 猫 」 に 対 す る 異 和 感・ 拒 絶 感 が あ っ て は で き な い。 そ れ ゆ え、 生 死 の 垣 根 を 超 え て つ な が る 愛 の 行 動 と し て「自分」には受け止められるのである。こうした「愛子」の行 動は誰かに強いられたり、ましてや誰かにその姿を見せたくてし た行動ではない。だからこそそこには「猫」への素朴な愛情がこ も っ て い る よ う に「 自 分 」 に は 信 じ ら れ、 「 愛 子 」 を 叱 る こ と も なく、むしろ〈有り難い〉ものとしてそれを見守ることができる のだ。 「愛子」の行為は、 「自分」では「猫」にしてやれなかった 愛情のかけかたであり、おそらくはかつての「自分」自身もそう してほしかった愛情のかけられかたでもあったに違いない。
墓に供えた水を飲む「愛子」は、死んだ「猫」と同じ物を口に す る こ と で「 猫 」 と 交 流 し て い る。 「 愛 子 」 は「 自 分 」 に は で き
な い 方 法 で「 猫 」 に 接 近 し、 「 猫 」 の 魂 を 敬 っ て い る。 こ の よ う な「 猫 」 に む け ら れ た「 愛 子 」 の 鎮 魂 の 行 為 は、 子 ど も 時 代 の 「自分」を鎮魂し、救済する働きも担っていたに違いない。
第六章 継続する弔いと自己和解
最 後 に、 「 愛 子 」 の 行 動 を 見 つ め る「 自 分 」 の ま な ざ し に つ い て 考 察 を 深 め た い。 「 愛 子 」 と は「 自 分 」 の 娘 で あ り、 数 え 年 で 四 歳 に な る 童 女 で あ る。 こ の 血 の 繋 が っ た 童 女 が、 死 ん だ「 猫 」 に供えられた水を飲む。水は茶碗に入っているが、入れ物は地面 に接しており衛生的とは言えない。一方、弔いの為に供えられた 水は神聖なものでもあるから、ままごとの延長上にあると考えら れる「おもちやの杓子」で水を飲むことは、神聖な領域を冒す行 為ともとれる。それゆえ「愛子」は、親である「自分」にその行 為 を 叱 ら れ て も 仕 方 な い の で あ る。 け れ ど も「 自 分 」 は「 愛 子 」 の一挙一動を咎めも中断させることもせず見守っている。その視 線に包まれて「愛子」は心の赴くままに「猫」に供えられた水を 飲 む こ と を 達 成 す る。 つ ま り 養 育 者 に 見 守 ら れ な が ら 子 ど も が の び の び と 活 動 す る こ と が、 こ こ で 叶 っ て い る の だ。 養 育 者 に 見 守 ら れ な が ら 自 由 な 行 動 を す る 「 愛 子 」 の 姿 は 、 か つ て子 ど も 時 代 に お い て 「 自 分 」 が 生 き ら れ な か っ た 姿
イメージを 達 成 し て く れ て お り 、 そ れ を 許 し 見 守 る こ と は 、「 自 分 」 の 内 に 抱 え る イ ン ナ ー チ ャ イ ル ド
注注
注
の 癒 し に も つ な が っ て い る 。
語 り 手 の 眼 前 で、 幼 少 期 の 語 り 手 の 身 代 わ り を 果 た す「 愛 子 」 は、 「 自 分 」 に と っ て 他 者 で あ る と 同 時 に 自 分 自 身 で も あ る と い う 二 重 性 を も っ て 墓 の 前 に 存 在 し て い る。 ま た、 「 自 分 」 へ の 働 き か け も 重 層 的 で、 繰 り 返 し に な る が、 「 自 分 」 が 生 前 の「 猫 」 に対して抱いていた思いとは、 〈「猫」を大切にしてほしい、愛し てほしい、しかしそうしてはならない〉というアンビバレントな も の で あ り、 自 己 存 在 の 受 け 入 れ 難 さ に も 通 じ て い た。 し か し、 「 愛 子 」 が 墓 の 水 を 飲 む こ と で、 「 猫 」 だ け で な く、 「 猫 」 に 背 負 われた「自分」までもが愛情をかけられ、それによって〈他者か らわけ隔てなく愛情をかけられる私〉というあり方がここで達成 される。一方「愛子」は子どもの姿をした語り手自身の身代わり でもある。墓の下の「猫」とは、気になりながらも眼をそむけた く て た ま ら な い 自 己 の〈 傷 つ き 〉 の 象 徴 で あ る か ら、 「 愛 子 」 の 飲 水 場 面 は、 「 愛 子 」 の 姿 を 借 り た 子 ど も の「 自 分 」 が「 猫 」 の 姿をした「自分」の〈傷つき〉の根源を受け入れる場面にもなっ ているのだ。すなわち「愛子」の行動は、傷ついた「自分」を自 らが慈しむという、現実的には叶え難い自己和解の光景を見せて
く れ た こ と に な る。 そ の 象 徴 的 で 創 造 的 な イ メ ー ジ は、 「 猫 」 と 共 に 子 ど も 時 代 の「 自 分 」( イ ン ナ ー チ ャ イ ル ド ) を も 鎮 魂 す る のである。
強してゆくのである。 いは「自分」の深層の傷を時間をかけて癒し慰め、自己和解を補 れない。けれどもその〈鈍感〉さが時に功をなす。続けられる弔 「妻」は、 〈敏感〉な「自分」に比して〈鈍感〉な所があるかもし ら れ る よ う に な っ た。 「 自 分 」 に「 冷 淡 」 だ と 語 ら れ 続 け て き た 上から箪笥の上という、より高い場所へ置きかえられ、大事に祀 よ り、 「 猫 」 の 魂 は 家 の 外 か ら 内 へ と 呼 び こ ま れ、 そ し て 地 面 の ようだ。しかし、それでもなお忘れることなく続けられる行為に 惰性的になり、本来の目的である弔いの思いは薄れていっている れ て い る こ と か ら、 「 妻 」 に お い て は「 飯 」 を 供 え る こ と は 半 ば ずに、大抵は茶の間の箪笥の上へ載せて置くやうである」と語ら 供 へ る 」 こ と で 継 続 し て い る。 「 た ゞ こ の 頃 で は、 庭 迄 持 つ て 出 日の度に「屹度一切れの鮭と、鰹節を掛けた一杯の飯を墓の前に 「 猫 」 の 供 養 は、 墓 の し つ ら え に と ど ま ら ず、 そ の 後 も 妻 が 命
おわりに
語り手の、他者との関われなさが「自分」といきものとの交流 の 不 可 能 性 と し て あ ら わ れ た の が「 猫 の 墓 」 と い う 作 品 で あ っ た。 漱 石 文 学 に お い て 語 り 手 と い き も の と の 交 流 は、 そ の の ち 様 々 に 変 化 し て ゆ き、 「 硝 子 戸 の 中
注注
注
」 第 三、 四、 五 回 に は、 子 犬 「 ヘ ク ト ー」 を 風 呂 敷 で つ つ む よ う な 包 容 の イ メ ー ジ で 愛 情 を 語 ることのできる語り手「私」も登場する。そこでは世話への拒否 反 応 の よ う な も の は 見 ら れ な い。 そ う は 生 き ら れ な か っ た 自 己 の 代 わ り を す る よ う に 無 邪 気 な 愛 情 表 現 を す る「 ヘ ク ト ー」 を、 「 私 」 は 穏 や か に 受 け 入 れ な が ら、 よ き 自 己 イ メ ー ジ( 愛 さ れ る 自分)を抱きしめることができる。
また、子どもが登場する小品を読んでゆくと、何らかの傷を抱 え た 語 り 手 が、 〈 安 心 し て 生 き て い て も よ い 〉 と い う 方 向 に 徐 々 に回復してゆく様子も伺える。
「永日小品」をふりかえれば、語り手は「火
鉢
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」では、 〈存在す ることの侘しさ〉を「男の子」に、 「下宿」 ・「過去の臭 ひ
注注
注
」では、 〈 愛 情 を 受 け ら れ な い 苦 し み 〉 を「 ア グ ニ ス 」 に 投 影 し て い た。 これらの作品には、語り手「自分」には受け入れ難い自己イメー ジに敏感に反応する様子も見られる。
け れ ど も、 「 硝 子 戸 の 中 」 第 六、 七、 八 回 で は、 語 り 手「 私 」 は悩みをもった「女」へ〈あなたは生きていてもよい〉という肯 定的なメッセージをかけることができる。そこでは理想の養育者 と 幼 い「 私 」 と い う イ メ ー ジ 上 の 関 係 が、 現 在 の「 私 」 と「 女 」 との間に再現されており、語り手の自己肯定が進んできているこ とが読み取れるのである。
「硝子戸の中」第三十八回では、
〈償いきれない程に存在の罪を 背 負 っ た 私 〉 と い う 悪 夢 に 苦 し め ら れ た 子 ど も 時 代 の 語 り 手 が、 母の許しによって安心を得た記憶が語られる。それは夢うつつの 出来事ではあったが、今でも「私」を肯定する心の拠り所となっ て現在の「私」の胸を温め続けている。
以上のように、夏目漱石の小品を、語り手といきもの・幼子と の交流の観点から読み直すと、対象と関われない語り手の怯えや 傷つきが、次第に癒され、自己肯定感を育んでゆく展開がみとめ られるのである。しかしこれについては紙幅も尽きたので今後の 研究課題としたい。
注注する箇所をまとめる。 京府公報」(一九〇九年二月六日付け号外)のペストと猫の需要に関 下に、須磨章『猫は犬より働いた』(柏書房二〇〇四)、「警視庁東 注 「猫の墓」と同時代の猫は、ペスト撲滅策として重宝されていた。以
明治二十七年(一八九四)、香港に渡った細菌学者の北里柴三郎博士によりペスト菌が発見され、明治三十二年(一八九九)には日本にペストが初上陸した。明治四十一年(一九〇八)、北里博士とローベルト・コッホ博士によりネズミ駆除のための猫奨励策が出され、各家で必ず猫を飼う制度を設けるなど七項目の方針が示された。十月十五日付「大阪」に「猫貰ひの困難」という記事が載り、「風俗画報」十月号には、猫の需要が増し値が上がるという記事が載った。明治四十二年(一九〇九)には国が猫奨励策を推し進めた。一月二十八日付「読売新聞」は「独逸より猫の輸入」という見出しで、「不日入港の便船にて実に一万五千疋の多くを輸入する」と報じ、二月六日に警視庁は「告論」を発し「家毎に猫を飼うべし」と通達を出した。同年、警視庁は樺太からもネズミ捕りに長ける猫を輸入している。猫奨励策から四年の明治四十五年(一九一二)になると、ピーク時には年間に六七七人の患者が発生していたペスト流行は終息した。注
(岩崎学術出版社一九九三)によると、居場所のなさは、「自分が 注 北山修『北山修著作集日本語臨床の深層第三巻自分と居場所』
ない」という自己危機感を生むという。居場所がないとみなされる「猫」に対し、「自分」は居場所を与えることをしない。この問題に関しては、本文次章で詳述したい。注
注 高橋重宏編『子ども虐待(新版)』(有斐閣二〇〇八)「第
Belsky)の理論を以下に整理して示したい。( こるのかということについては、同著で庄司が紹介するベルスキー ども虐待はなぜ起こるのか」によった。そもそも、なぜ虐待が起 注章子
虐待の発生要因に関して、一九七〇年代には、専門家がそれぞれの立場を強調した理論を提出していた。その主要な理論として、ベルスキーは三つをあげている。①医学的モデル(psychiatric model)は、虐待の加害者と被害者の間でおこる役割逆転などといった、加害者のもつありふれた心理発達的問題を虐待発生の主因として重視する。②社会学的モデル(sociological model)は、虐待の発生要因を、個人の内にではなく、社会に求める考え方である。このモデルでは、例えば、低所得、失業、近隣からの孤立、多子家庭、夫婦不和などが関連しており、社会的ストレスモデルと呼ぶ方が適切だと高橋は論じている。③(the effect of the child on caregiver model)子どもが養育者に及ぼす影響モデルは、虐待の発生要因として子ども自身の要因を重視する。親とその子との関係形成に支障をきたす条件には、未熟児(低出生体重児)、出生後の母子分離、望まない妊娠、よく泣き、しかもなだめにくいなど手のかかるタイプの気質特徴をもつ 子どもであることなどが考えられる。 虐待の世代間伝達は①の精神医学的モデルをもとにする。「自分が育てられた体験は習慣として身につき、わが子への養育に反映されがちである」という。語り手「自分」の場合は、養育者に世話をされ足りなかった体験が、「自分」と世話の対象である「猫」の間に再現されていると推測できるのではないか。注
注 とみなした。 の愛着行動がとれるか否かは人類の生存にかかわる重要な行動様式 標とした。ちょうど人見知りと重なる時期である。ボウルビーはこ Johnn Bowlby()は、こうした行動を愛着行動とよび、愛着形成の指 づいて安心を得ようとする。イギリスの精神科医であるボウルビー か分かるようになり、不安な時や怯えている時など、養育者に近 注 生後六、七カ月頃になると、自分を養育してくれる大切な存在が誰
れる(傍線は論者・猪野による)。 「猫」に対する関わりの中にも「自分も」・「妻も」という語りが見ら 注 「自分」は「猫」に関する判断を「妻」にゆだねており、生前の
おい猫がどうかしたやうだなと云ふと、さうですね、矢っ ママ張り年を取つた所為でせうと、妻は至極冷淡である。自分も其儘にして放つて置いた。
けれども眼の色は段々沈んで行く。日が落ちて微かな稲妻があらはれるような気がした。けれども放つて置いた。妻も気にも掛けなかつたらしい。
明くる日は囲炉裏の縁に乗つたなり、一日唸つてゐた。茶を注いだり、薬缶を取つたりするのが気味が悪い様であつた。が、夜になると猫の事は自分も妻も丸で忘れて仕舞つた。
注 もとれる。 なせてしまった罪悪感を「自分」一人で負うことを回避する語りと ると、「自分」と「妻」を「も」でつなぐ表現の表れは、「猫」を死 「猫の墓」が「自分」による過去の回想の語りということから考え
いった論争が続いている。 注 〈こども〉表記については、以下のように〈子供〉か〈子ども〉かと
子供の「供」は接尾語であるから、たとえば生徒達の「達」と同じで格別の意味はない。「供」には「お供えをする」あるいは「供える」という用例があるために、貴人のお供をする子ども、あるいは貴人に供えられた子ども=召し使われる子ども、という誤解がうまれたのだろう。(森山茂樹・中江和恵『日本子ども史』平凡社 二〇〇二)
引用のように、子供の「供」は接尾語であり、子どもを「子供」と表記してもよいという立場を紹介している。しかし「供」という漢字単体のイメージからか、近年は「子ども」と表記する教科書・新聞などの媒体の方がふえてきている。注
り、字が整理され、やがて現在の「子」の字ができた。象形文字の は襁褓に包まれた赤ん坊の姿をかたどってつくられた象形文字であ 注 森山・中江(前出)によれば、「子」という漢字の由来は、もともと 注 ある。 本来の意味は、赤ん坊が大切に世話をされるイメージからの出発で
によって変遷している。 注 森山・中江(前出)によると、「子」という漢字の使われかたは時代
孔子や老子の「子」は先生の意味である。 が論者補足)のちに有徳の士や師を表す文字として使われ、 (最初「子」という漢字は赤ん坊の姿を表す象形文字であった
また身分の高い人にも使われ、よく知られているのは蘇我馬子や小野妹子である。(略)
われわれが最もよく知っているのは、女性の名前に使う「子」である。平安時代にはすでに身分の高い女性に「子」が使われていて、中宮定子・彰子などにみることができる。その後、長く女性名に使われる「子」は、身分の高い女性に限られていた。庶民階級の女性には「子」は使われず、トメ、マツ、キヨなどと、子の字を使わない名前が一般的であった。
時代が明治になっても、女性名に「子」を使うのははばかりがあったようで、一般化するのはおそらく戦後になってからである。
を再度仲間として受け入れてゆくような水飲みの場面は、「愛子」の う親の願いを背負っているのではないか。「愛子」が、死んだ「猫」 名付けられた女の子は、〈愛の心をもち周囲から大切にされる〉とい であった。「猫の墓」が発表されたのは明治期にあたる。「愛子」と 「子」が名前に使われる場合、漢字が表すのは身分の高さ・高貴さ
アガペーを持つ魂の高貴さが最大に表れた光景として「自分」の胸を打ったはずだ。注
次のように述べている。 注 森山・中江(前出)は明治期の乳幼児死亡率・乳児死亡率について
ところで、堕胎や間引きが多かった江戸時代にも、育てる子どもに対してはかわいがり、注意深く育てており、また育児書には子どもの病気についての注意や漢方薬による治療法なども記されてはいたが、乳幼児の死を防ぐ方法はなく、「七歳までは神のうち」といわれて、人びとはこれに対してはあきらめの感情を持っていた。(略)
下し、三二(昭和七)年には一一八となる。(略) 一八(大正七)年の一八九・七を最高として、その後次第に低 人中約一五〇、明治末から大正期に入って急激に上昇し、一九 らである。明治期中期の乳児(一歳未満児)死亡率は一〇〇〇 は大変高く、減少しだしたのは戦後の混乱が収まりはじめてか (略)明治初期から第二次大戦後の混乱期までの乳幼児死亡率
注
九七)は、子どもが一人前の人間として扱われない例を挙げている。 注0 柳田國男『定本柳田國男全集(新装版)』第十五巻(筑摩書房一九
よくこの子はみず 33子だからと云つて、葬式の場合簡単にする例がいくらもある。みず子と云ふのは生まれて誕生前を云ふ。ごく小さい子の事を云ひ、坊さんを頼まないで葬式をやるのである。沖縄あたりでは未だにそれが見えてゐる。現代では七ツ八 ツになつて、墓場を与へられない子供はないが、然し早産で生まれて二日位して死ぬ子の処理の仕方は大変違つてゐる。又余り愉快な話ではないが、子供が産まれた時これを遺棄する習慣がある。(略)
同著によれば「元服前の人間が、一つの物の生命となつて行く一つの段階」の中で、数え年七つは、「十子」(子どもが十歳になったとき)よりも重要な境目である。注
注 録は『漱石近什四篇』(前出)である。 一日まで掲載され、同年十月に「ホトトギス」に転載された。初収 注注「文鳥」は「大阪」に一九〇八(明治四十一)年六月十三日から二十
ると、禁じる例と、尊重する例がある。 あるのだろうか。大木卓『猫の民俗学』(田畑書店一九七九)によ 注注猫と同じものを口にすることには民俗学的にどのような意味合いが
「猫」の死をものともせずに接近・摂食することができるのだ。 がある。しかし、「愛子」は七歳以下なので、存在自体が死に近く、 る」と考えれば、「猫」のいる死の世界へ取り込まれてしまう危険性 「猫」との共有である。長野県安曇野郡の伝承のように「猫の性移 「猫の墓」の場合は猫と食べ物を共有すると言っても、死んだ
これに対して、猫の食べ残し、或いは猫の食器で食べることを推奨する伝承が山形県の西置賜郡などにある。この例に従えば、「猫の墓」において「猫」に供えられた水もまた神聖な意味をはらんでくる。神聖な水を飲む「愛子」と「猫」と自然が織りなす円環がより厳かなものとして「自分」の目に映るとも解釈できる。
注
注 もの心(ワンダーチャイルド)が傷ついたものだと定義している。 「創造的、快活、明るく生き生きとした心」をもつワンダフルな子ど の自我状態』のこと」であり、「自然な子どもの自我状態」である いた心のことで、交流分析理論の『適応的(または順応的)子ども 一)によると、インナーチャイルドとは「過去の子ども時代に傷つ 訂版]─本当のあなたを取り戻す方法─』(NHK出版二〇〇 注注ジョン・ブラッドショー著/新里里春訳『インナーチャイルド[改
注 正四年三月二十八日、岩波書店から発行された。 回(二月二十二日)である。初版である単行本『硝子戸の中』は大 回(同一八日)、第七回(同十九日)、第八回(同二十日)、第三十八 三回(一月十五日)、第四回(同十六日)、第五回(同十七日)、第六 と「大阪」に三十九回連載された。本論で扱った回の連載日は、第 注注「硝子戸の中」は大正四年一月十三日から二月二十三日まで「東京」
注 注注「大阪」、「東京」ともに明治四十二年一月十八日に掲載。
臭ひ」(「大阪」同二十二日、「東京」同二十四日)。 注注「下宿」(「大阪」同二十一日、「東京」同二十二、二十三日)、「過去の
「付記」本論文は修士論文「夏目漱石研究─小品における〈いきもの〉・〈子ども〉・〈私の生存〉─」(二〇一二年七月)をもとに、その一部を書き改めたものである。引用は全て『漱石全集』第十二巻(岩波書店 一九九四)に拠る。