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窺ソトほ周知の如くその判断力批判弧於て自由襲盲eieScgnb憑−pu−cb註udO苫笥︶と附駐英︵an富ng
ゐ已e絆b晋b¢it︸pu−cぎitudOadbae記n豊とを区別して︑ふ削着は多くの鳥類︑貝類予審花成は模様画︑歌詞を
炎ヾ音釆などのやうに︑㌧それが如何なるものでなければなむないかといふ規定︑つ蕊面白的概念が蹄捜せられず︑
従つて売全件といふことが考へられヂ︑それの美的許礫忙際して完全性へ 寸 ‰
1嚢しさであゎ︑後者は例へば或る人物︑或る建物∵それが軍人であつたゎ︑教会であつたゎするやあらうが︑そ
れが対向にあるべきか﹂如何なるものが完全であるかといふ概念が藍ず存して︑その概念の下軋於て美的詐倍が行
はれるやうなもの1美しさでぁるとしてゐ ︻イ 蛛︑利用価値の評価とは違つたものでなければ放らない︒従りてその日的忙対する合自的性︑例へばそⅥ力学的描
法の如きは簡題になり得ない筈である︒が︑それにも拘らす︑力学的構造拭︑たとへそれが知的にではなく直観的
に受容せられると拭いへ︑之を全面的に契約判断から排除することが出来ないのである︒机が美的である箱め虹は
朗謂机らしさが箪求せられるといふのは我々の経験的現実であるが︑此の机らしさこそ︑力学的構造の直観的把握
に他ならないのである︒従つでそこに揉直観的に
られたるもの揉主観的であゎ得る軋もせよ客観に依存せざ各歓得たいが故に︑机の美的評価には客槻的な目的概念
六七 入間実の特貿
Å問 莫 の 特 質
岡 田 貫.
撃‡四毛 筆毒 六八 及びそれへの合目的性が必然的に混入せざる教得ない︒即ちそれ紅於ては道徳性及び認故的要素が混入せざるを柊
い七かくしてか1るもの1美が不純であゎ︑之に反して幾何学的な模様のやうに道徳性及び知性の混入する恐れの ないもの・に於て美が純粋であることは当然と言はなければならない︒之教換言すれば︑美の純粋性は物の形式他に 存するのであつて内容性に存するもので膵ない︒何故かなら丹容とは︑その物が我這意味するものであるか︑若 くはそれに向つての技術的構造であるが故にそれは当然道徳的岩ぐは知的なものであるからである︒かくして純粋 な美を求めようとすれぼ結局窒虚な処の形式的戯れとなつて︑我々が現実に美しいとするもの及び垂術の大部分殊
に近代文畢は背後に現されぎるを得ないとと1なる︒従つてカント美挙の訂正は如何にして実に内容性教輿へるか せ式ふ番に問題が集中したとも考へることが出・裾るであらう︒
例へばフリトドリツヒ・シラーが﹁契約数育に関する書簡﹂空訂巧已e琵琶sc訂E邑ebun的d2SM牒誓どn〜
山口eineぺR2i訂くOn空efe且﹀に於て美を感性衝動︵dersi邑山口訂→ri2b︶と形式衝動︵FO冒−r昏︶との遊戯
的関係転放て求めたことは︑カントが菜を構成力︵Einbi昏n囁打邑t︶と癌性との戯れに於て求めたとと1相改
行し︑之を踏襲するものであるが1彼がそれを人間的生活の意昧を背負として︑或ひは自由国家実現の道程忙於て 塞警芸事芸と道徳性を練合せんとす孟告告て︑此の点カント美学寛服するもので莞た︒更にシュ
サシグがその惑術野暮 ︵Die驚t訂i胃訂苫i冒s虐Ee吻旭丘に於て︑美な′らざる眞は絶対の眞でなく︑琴ならぎ る美は絶対の美甘ないとともに︑美ならぎる蓉は絶対の蕾でなく卜者ならぎる美は絶対の美でないと考へ布ことも 赤実に内容性む与へんとするところの試みであつたであらう︒
かくの如く美紀内容性む輿へるこ七はカント栄拳の訂正であるが同時灯その当然の発展であ︑つたとも考へられる であらう︒即ちカントの判断力批判に於断る儲題は︑美を道徳と認識との間に発散的なものとして繚遼づける寄で
あつたが故成その純粋性を明かにすること革彼の努力の遠点が定かれたのk反し︑美的横倍そのものは問題に放り
得なかつたのである︒盛ってこれに鷺点を毘ぐことがそれ恵後の奏轟の課題となつたのであるが︑しかしそれと同
藤に細枠世の開放教も之灯よづて解決せんとしたので参る︒如ち例へぼ人間美は新鹿の如くカソトに於ては附随美
鳶んて風致の巽の如く純粋でなかったの笹対しそれ以後の莫邸窟は英数理念檻結び付けることによ▲つ′て人間美を扱
高抄位澄灯露ぐと共軋lカントが実の純粋性を確保する禿めの條件として掲げた魔の二つのもの︑即ち無関心性と
無慨念性を飽く患で踏熟し得るものと考へたのである︒美む無関心的満足と考へるカントの考へ方は美を現象身の
造か彼方の理念に基礎ずける場脊何等の困難なく受け入れることが出来たのである︒・だからこそショベンハワーは
美を理念の濃艶と考へると同時にその銀歯心性の故空目目的璽心よむb解膀と考へたのである︵Di爪We−−a訂
Wi−ie巨dく○韻te旨ロg︶だが問題は無敵念性である︒カントが人間夷を不純としたのはそれが目的概念によつて
浅葱せると考へたからであるが︑著し人間美の根粍に理念を温くならば︑そしてその理念がシュニリソグが膏ふ如如
く繹対られ的同叫性にして絶対的掩体性であるところの碑にまでさかのぼるべきであるならば無概念性の問題も亦
解消したと昔はなければなら患い︒何故かなら絶対的なるものは﹂切の概念敬超隠したものでなければならないか ヽ
ら∵理念によつセ温風を典へるといふこと眩決して概念によつて防風を輿へるといふこと藍風味することにはなら
ず︑従つて人間美の純粋性を零し得ないからである︒
しかし乍ら私は美螢のかゝる憤向にも拘らず靡ふのである︒人間が最も美しくあわ得るのは紳︑理念︑いやそう
した顎念主義的暫聾の食冨喪を避けるとしても︑何か最終的価値とのつながゎによつてであることば承認するとし
ても︑むしろ人間突が持つ処の不純鰹によつて最も芙しくあり得るの曾はないかがつ怠りカントの云ふが如き不純
性は承認し︑それ軋も拘ちす︑いやその故にとそ人間が最高に美しい存在であり得ると望一昆得られないかといふ
/
大丸 ⁚入間葉の将軍
七〇 第二十四填 第葛
ことである︒此の事按カント以後の野卑が美的価値と美的純粋性の・血致に努力した寄と全く反対であつて︑愛さに
不壊なる企てであるに違いないのであるが︑しかしむしろ此の事によつて人間美の説明が説契約になると共に︑や
がて自然主義以降の近代董術の美畢朗基礎付けが可能になるのではないかと考へられるのである︒此処に於て私繰
入問美の性質を究明することにしたのである︒
二︑
美は対象の性質ではなく我々の構想する勉申ものである︒従つて我々拭如何放る欝をも美しく見ることが出奔る
セあらう︒拘借でも︑瀕死の清人でも︑これを美しらと見ること捻困難で路ない筈である︒だからこそ近代絵画株
好んでか1るものを措ぐのである︒かくの如く如何警Q蓼をも美しく見ることが出癖るとしたならば所謂美人とい
ふものが存達し得るか︒またそれは他の育と如何なる点に於て興るかといふことが疑問になつで釆るであらう︒常
識紅於て醜い㌧Hせられてゐるもの藍天心く見る場合︑我乍ほそれを紘術的に見てゐることを感ずるであらう︒教師
と白熱との相起璧肌着が或る構想せられた昇であるのに対し︑後者が種々の構想を可能ならしめる処の素材である
といふ点である︒だから後者惚稜々の角度に於て之教如何やうたも見ネことが出奔るのに対し︑覇者に於て蛙或る
構成せられた美が固定してゐる故に拙い作品を艮い作品と協同することは朝来ない︒
塾節約風見るといふ言葉の申に自然的︑常諭的見憲を患えて特殊的に見んとする努力が倉皇れて偽るで協匂う︒
その密力隠二つの困難に遭遇する︒即ちその血.つは或る実の構想にと写不用なものめ省略である︒鼓術は凡でを
写すものでなく或る樺想の下隼不用なもの教省略する審であるが故に︑此の場合は物む自燃に受け取るのでは放く
或る歪曲を以って見放けれ掛ならない︒困難の第ごは褒徴は特殊的見方であるが故に白然の調和に美を求めるより
も不調和む含む所の調和︑即ち不快を含む快を求めることが多いであらう︒かくして性格莫が辟威せられるのであ
竃が︑それは決して容易に構成せられるペきもので放く努力を必薬とするのである︒
以上め如く塾術的に見ること畔二蚤の努力を必要とする処の簡殊的な見方であるが故に多くの人の美的判断に於
町はかゝる努力がなされすその安易さに於て表することにより此処濫美人といふ常放約な敬念が生れて釆るのセ
ある・︒をれ喧放ては莱の構成は安易にして常協約であり︑︑従つて美意識が自己を意識することがないので︑恰も葉
隠その人の素質として考へられる︒如透それ禁固的な印象に放て美しく見えると音ふのに止まらないで︑小鬼時
代から老年時代整油じて存続する処の或る人間の素質として考へられるのであ鳶
南らば如何にして或る人が首級酌転義し.い主剤定せむれるか︒此の場合拘極的條件として生物的な醍︵Specie00︶
の保存本能を絡捜してもよいであらう︒我国の﹁六月の大野に於て血切の不具逐罪汚れと考へてゐるのは︑か1仙
るもの′に対する原始的な水詑的敦盛情で′あつたであらう︒文教の醜さを衆現する馬めに猿とか独とか︑歴々動物が
擬せられることも穣の退行︵謬ta註u息?に対する瞥戒意識め表現と解釈するととが出奔るであらう︒馬のやうな
美人といふことが考へられない以上︑美醜の判定の基礎に程に対すを生物朋感覚が存在してゐることを察知するこ
とが出発るのであ
葱た美人の療準は時代及び入線によつて相違する︒時代的変速は生活理想の変温によつて支配せられる処が多い
であらうが人産的相違は主として観準感の相造に基くものであらう︒例へば鼻の過大又は過小なる軋のを観いと感
ずる場合は其処に或る基準が考へられなけれぽならない︒脚従つてその基準政経験に塞くが散に人醒によつて相違す
べきものである︒しかし此の基準感賜亦実の拘極的傑件であつてそれによ︑つて積極的に美が成立するといふわけの
ものではない︒
いかかる文単作品に於ても︑美人を形容する頃合に揉︑これ教花忙喩へる以外に殆んど富塞がたいやう紅思にれ
七山 入間実の特質
警手四巻 第二督 七二
る︒これに反して醜さ記喩へる場合には欠航動物が引き合ひ払出される乙キは︑前述した通りである︒しかし︑猿
のやうた教といふ場合と花のやうな放といふ場今とは忠嫁が造つてゐる︒綺著忙於ては形が猿に類似するといふ普
▲ 昧であるが︑後者に於ては形が花に顆似するといふ意味ではなく︑それの印象が花に類似するといふ意味である︒
丸ントが美は概念なくして蒲足を輿へるものと定義した事は此の場合に於て適切である︒?署基講義上の如何
なるものに於ても弊似記見出し得ないものである︒だからこそ︑花の如しといふ.より外に雷薬がないのである︒し
かし特に花が他の美しき自然現象に免じて美人の形容比用いられたのは理冶のあるところであわ︑又それを明かに
すること揉美人の奉質を説明する妃役立つ処があるであちう︒
花の美の箪鵬の特徴は色彩が明るく︑且つみづくしいことである︒勿玲
もあらうが・︑しかしそれ政程度の間題であつて︑積極的にこれと反対のものは存しない︒而してか1る特徴が同時
に華人の特徴であることは︑みづくしいといふ言葉が同時に美人の形容に用いちれてゐることノによつても明かで
ある︒そしてかゝる水々しく︑色彩が透明であることは我雪がそれ紅於て健駿にして生命的なものを感ずる処の擦
識である︒フ′ォルタルトはその主著たる美凝大系︵Systbemde∴訝t訂tik︶に於て美を感情移入︵Einf旨どng︶
によつて説明七︑我々が対象に於て感情する際自己に於て骨定的なもしのは凡て莫しく︑之に反するもの.は凡て醜い
と云ってゐるが︑その際︑彼盗円安的なもの1要素として生命的なもの︑発展的なものを特広強調してゐる︒苦し
自己の生命感ほど白己にとつて快適なものはないから︑生命的であるととが美の忽二の瀞捷忙なり得るのである︒
花の第二の特徴は優美頂ことである︒シラーが﹁傑美と威厳ぬ放て﹂︑︷旨er′Anmutu且W賢de︶に於で述べて
ゐる処虹よると優糞とは運動に於ける美である︒しかし彼がAnmu吋と放してゐる処のも▲のが具して日暮語の優美
であをか香かは炭間があるであらうし︑叉同じであるとしても各人がその昔薬に於て理解する処のものは多少異る
のが自然でかる︒しかしシラ﹁がそれを運動の葉とするととはフォルケルトも指摘するが如く彼自身甘於て矛盾
し︑粂少に限局しすぎてゐるやうに思政れるの・であるが︑併有便乗といふ言葉紅は何かある態度といふものが感ぜ
られるのである︒例へば百済観音の水瓶を執る乎の如く︑外界に対しで意志的に働くのでも放く︑といつて外界に
よつて脅かされるので軋悪く︑圧倒せや︑庄倒せざれす和やかに外界との調和が傍突として考へられるのである︒
花のしなやかさと英人の韓つ凡ゆる線はか1るものとレて感ぜられるであらう︒即ちそれは優しさとして我等に感
ぜられるものである︒しかして外界に対するこのしなやかな態度は外界に向つて装はれたものとしてゞなく︑円か
ら溢れ出たものとして感ぜられるのである︒
如ち花の色彩は極めて風流であつて⁚大紋ほ二色であり︑それが白によつてぼかされてゐるのが普通である︒此
処叱﹁匂やかきといふ感じが生じるのであるが︑それこそ紫式部が光漁民を形零した処の言菓である︒′美しい ㌫帥造化の少芝皮膚であ竃︒白粉庭よつセ管ノつぶすとい怠掌れ.む強調する意図に基くものと考hられる
であら /激な変化も︑唐突な対比が存しない場合に便乗が感ぜられる︒芙拭部分と部分との調和的流血であるが︑変化がな
だらかで啓純な場合にぼ統〟が容易に︑行はれるが故に我々の感情も亦和やかであること診来る︒これね反して変
化が急激で極端な場合は統一が多くの小陪賓敬発破しなければならないので︑背痛を含んだ処の快如生じる︒金牌
の美が或る略さをともなふの扱此の篭めである︒以上の如く花に於ても美人に於ても内部的性格としての傑美がま
凍存し︑それが外にあふれで外部的態度としての優美が生れ︑そしてそれがしなやかさとして我々旺盛覚せられる
のセある1
花の第二お特徴は︑それが藍とまりとして一つの個体をなし周囲から際立つてゐるといふことである︒尾虫は色
七ニニ 入間実の緒質
⁝■川川用⁝⁝H川用日日りり■剖川HJ丹日日珂消描小川川吊り■▼丑山肌‖量り叫甘1=り汀ほほ♪ガハ顛トーー1∬庸1・宿り==烏汀‖・‖ i−﹂川7川‖h==∵‖‖■ − ︼∃j≧−−■■.⊆.r■...
′ 第二十四億 第≡写 七飼
育であわ︑殊に美意識といふが如き高庇の心理現象むこれぬ於て前提するこヱか出釆ないから花の突を解するもの
とは考へることが出奔ないのであるが︑顕花栂蛎の撃歴は蟹を漁るものに対して少くともツアイヘンとして役立つ
であらうことだけは想像す&ことが出奔る︒恐らく略その馬めであらうが︑何よわも周囲から際立つてゐる尊が花
の芙の主要孜勢索を放してゐるのである︒そしレてその構造を考へると通常中心をめぐつて親則的に構成せられ︑こ
れが際立つた色彩とともに二偶の個性として我々に訴えるとごろに花が他の自然物と造つた点があるやうに思はれ
る珍である︒孜て美人に放てほそれが美人たるの敵に冒放つのでなく︑むしケ日立つことによつて美人であるのか
のである︒ 以上花の美に就いて︑人間との敏行に於て︑生命的であるこく優美であること︑仝蒜として際立つてゐるこ
/ も知れない︒さきに白粉によつ▲て白山色に恩純化すると言つたが︑これぼまた目立つ薦めの手段といつてよいであ らう︑そして昏を赤く塗ることも亦それによつて同酬効具を期待するが放であらう︒︑かくして日立つことによつ て 美人はそれがよわまとまつねものとして﹂よ句会鰍的なものとして︑そしてまたよ訂何物かとして印象せられ得る とのこ石の特徴を上げたのであるが︑此のこ要路それネし11堅止するので挿なく︑′三者相侠つて仙つの個性を形成し てゐるのである︒他の自然硯象扱多くか1る個性を形成してゐないので︑これを美的に見る場合拭これを個性に藍 でまとめる努力が梯はれなければならないのだが︑花は一つのまと意力として際立つととによゎ備性よしての路担 が典へられ︑内容としては生命力に充たされ︑外には優美であることによつて仙つの尊署き名べき個性として感ぜ られるのであるが︑その特質は人間に似たもめがあるで拭放いか︒何故かせ云へぼ人間賢讐轍として何か意味す るものであるからである︒
シラーは人格莫を峰山美︵einNigeScFぎbeit︶ といふ言秦で硯放した︒脹も鼻も口も︑それ自体恰於て特別
、・/
美しいものでほなく︑それが全体へ統制せられることによつて峰山の美を形成しヽ著し我々がその各部匿独立の芙
を感じるとすれば︑それは重体とのつ急が少に於て︑或はそれを管裁としてのみ美レいのである?発し眼のみを見
七芙しさを感じたとしても︑それほ美しき繋が幻想せられるが故に美︸い︑即ち限を通じて顔全体を見るが故に莫
しぃめ る○
湖上の如く花と人間の額が相並行してゐ/るに拘らす︑変た甚だ神速してゐる点がある︒それは花が永遠に静止し
てゐるのに対し︑人間の繋が運動するといふ寄冥である︒
シラーが較の静止固を美 ︵Scどnbeit︶と呼
も現車のないことでぼなかつ鷲劇ち我々ば共に於て仙般的な心情の快を解釈するのに対し︑優巽に於て咋︑それ
が我々に態度する︑ところのものを感じるからである︒ところで︑我タが物を美的革旦る場合叫つ占して静止して
ゐるものはない︒直線も渦巻検使も凡て越警して感ぜられるが故にこそ美しくあゎ得るのである︒だからこそ静
止せる花をも優美として︑即ちしなやかに訴へるものとして感することが出奔るので︑ある︒しかし事実超勤するも
のと﹂退勤を感情移入する庵のとは差別せられなけれぼなら敷い︒雷ふまセもなく美は後者よりも静翠に於て宿談
である︒脹とか口とか︑欝の可動部分が美人の傑作として静止部分よりも盈要であること隠これを証明するであ
らう︒かくして人間はその感動蜂によつてバ花よゎもよわ切実に訴へることが出奔るのであるが︑しからぼ仙体何
む訴える・のであるか︒
例へ︑ば美しい限を見る︒我々掟それに於て美しい顕を幻想するであらう︒だが更にその昔後に美しい魂を想 す
名のである︒訂ちそれは基板に於て把握せられた処の人間のあり方であり︑生き方でかる︒従つて顔は凝荒す㌃に
人間契の職質 七茄
何か意味する処のものであわ︑それ以外のものではあわ待ない︒そしてその意味と︑それへの合目的的構造に従つ
て褒の許慣が放されるのである︑︒しかし乍らその意味は現実の意味とは異なり得るであらう︒善良なる磯がその殊
によつて予想せられてゐるにも拘らず事実点しき魂が存擁する審も可能である︒しかしながら尊顔の認定躁認識の
問題であつて実のか1ぁる処ではない︒
かく湯が意味する処のものであるが故に︑効は歴と﹁意地憩そうな﹂とか﹁﹁高貴﹂とか︑或はまた﹁善愛撞い﹂
とか﹁食欲﹂とか︑そうした倫理的な音薬によつて把握せられるのである︒しかし膵は倫理そのもので陪ない︒顔
が美的である葛には倫理む超越し計ければならない︑或ひは倫理的概念に束縛せられて拭ならない︒
カントが﹁美しいとは概念なくして普遍的革猫足を輿へるものである﹂と言つたその概念怒くして・︵Obne
習griff︶と云ふ言夷は何を意味するであらうか︒概念とは限定せられたものであり︑避執して人間生成の過去に
葬ちれるべき性質のものである†さきに人間が醜い場合には猿とか狸とかその相似形が求められ︑美しい場合紅綬
相似形がないと貰ったが︑美は望見︑地上的なもの︑柑竺隼以静のものによtつて限定せられ患いところのものであ
る︒其処には広々︑とした人類未森の明るさが支配してゐる如︑併し我々は硯実托よつても観念によつても未だかつ
て歩んだことがないところのノものである︒唯だ人間をして未発へと誘ふところのものである︒従つて我々が或る頴
を慈愛として見るならばそれは美的判断でなく︑認識である︒美的期断である雷めにはそれに於て善愛を感ずるに
しても︑慈愛以上の無限が其処に於て感ぜられなければな鳴ない︒即ち道確も認識も概念とと庵に人間が経衆つた
ところのものであるのに対し︑実は未発の限定すべからざる曙光なのである︒
さき紅述べたやうに顔は我々にとつて意味するところのものであるが︑その意味が牧野とか食欲とかである限五
それ揉概念的である︒葱た男らしさとか高倉恵とか成ひはまた知性的とかといふ言責で硯躍される時玖︑それ揉概念 第二十四幾 筋尊 / 七六
顔が意嫁するところのもの︑それ拭直観せられた性格とでも言ふべきものであらうが︑その中でも優美が最も他の
凡藤る性格実に比べて産も地上的なものから遠ざかつてゐるやう忙感ぜられ︑従って通俗町政優美が美そのものと
海へられ舞わ︑成心は美人と云ふ喜藤が優美なる人のみに限定せられてゐるのである︒勿論々れは安易にして草紙
封夷であるが故に︑芸術的な特殊な実に於けるが如く︑その中に着席を合心処の実に比べで浅薄忙して通俗的なも
のではあるが︑併しおのづからのものとして︑何か永遠のものを食み︑凡ゆる莫の中心に澄かるぺき性質のもので
ある○
以上適べた前庭よつて︑人間美が実として不純である\ことが知られる︒カントが人間美を不純とする理由は︑そ ≡
れの美的評煩が目的概念忙よつで規定せられるといふ点である︒しかし人間の目的とは何か︒或ひは理想とは何
か℃勿論我々は優れ袴芸術品に隠そ︑なにか洒這しいもの︑理想的なものを感じることが出釆るのであるが﹂香︑
そのことによつてのみ︑その芸術品が優秀であわ得るのであるバしかしその神々しいものは概念的に規定出来ない
もので放ければなら謡い︒管し概念的に規定出来るものであれ・ぱも早や勢でない寄は前述した処によつて明かであ
る︒ところ
人問襲の特質 七七 的であることば菟れないとしても︑よ少限定慶が少いことか感ぜられるであらう︒しかし優美といふ言菓に於ては 故も限定度が少い事が知られるのである︒何故かなら︑例へぼ男らしいと言ふ晋菓には叫つの意志的なカが感ぜら れると共に見れぬ抵放するものが感ぜられ︑従って態とそれが当然持たなければならない奥の終末が感ぜられるが 故に地上的な濁のを脱する かな処の調和であるが故に無限に生成蚕展するものとして︑鹿は錮限に通じるものとしで感ぜられる︒かるが故に
簸=十躇唸∵放≡哀
七八 払は目的があ首勺としても︑それは概念ではあり得ないが故に人間に於ては目的概念といふ言葉そのものが香淀せら
れなければならないのではないか︒勿論軍人とか女中とかと限定せられた慧n︑或ひは黒人とか白人とかと限定せ られた場食には︑それがどうなければならないかと云ふことは考へ得られるであらう︒併し契約に見るとはそれを
人間的に見るといふことであ写職菜的或は人線的に見ることでないが故に目的観念をか1る意味に解釈すべきで ないことは明かでぁる︒
しかし人間的に見るといふ寄は︑′例へば貝殻を見る場合とは典ってゐるⅧ後悪疫於ては純形式的な美が問題にな るのであるが︑人間に於ては眠口鼻整還る放と色彩によつて描かれた棋棟として考へることは出塞ない︒即ちそ れらはそれが共同して形成するところの意味によつて美しいのである︒意味とは付か︒人生に於て開放になるのは 結局人間が如何豊きるかといふことだけで豊から︑意味とは当然倫諾なもので窪りれぽならない︒だからカ ントは目的概念といふ音盤の代わにむしろ内容的といふ音楽を用いるべ鳶で′あつたのである︒
と︒ろで内容的なものはカントの言ふが如く不純で驚かといふことが問題昔る︒内容的といふことが倫理的 といふことを意味するとすれぼ︑題徳と巽とを厳別せんとした処わカン†がこれを不純とし警とは当警あつた︒ しかし此処に螢て考へなけれぼ監ないことは︑例へば巻貝の槙棟の如くカントが純粋忙美しいとした勉のものも それが内容里写ることである︒例へぼ我蒜直線に於て叫図慧進行を︑波状形炭て混和巳て快適羞行を 感情し︑その感情の放きそ︑そ瞥警して感ずることが出警としたならば︑食貞の模棲も亦倫理性の故に美 しいと言払得られるであらう︒即ち形式誓つて美しいものも内容賢つて美し訂のも結局挨程慶の問題であら セ本質的区別では鳶︒唯だ人間美と倫琶との関係は直麺的で雪が︑愈貰に於て昼間援的で警︒人間美が倫 理建と直凝相隣接す畠とと誓つて︑それが概念的隼把握せられる危険が空で監うが容見に於て誓れ若い
即ち人間美は男らしいとか︑立直らしいとか倫麺的音楽で表現せらるペき可能性があるであらうが巻貝に於てはか
†る可脂性枚殆どないであらう︒此処に放て想見の実は人間美よわ町美的に純粋であるとするカントの訟は肯定
するとモが出衆るのである.︒
しかし人間美が不純であるこの主たる盤由は他に求めらるべきである︒さきに私は人間の溶は意味するところの
ものであると言つた︑何故それが呂︑一口︑虜紅よつて措かれる桟棟として受け取られないのであるか︒それは人間 は我々′紅とつて死冶的影響を持つ処の奪凄であるからである︒カントは﹁趣味︵美的判断︶とは山切の囲心︵Hn・
爵透Se︶なしして拓足︵Ge荘官︶又は不硲足にはつて対象又は変貌様式を判定する能力である︒′かゝる満足の対
象が兼と呼ばれる︒﹂といひ︑その関心を説明して﹁我々が或る対象の実存の表象と結合するところの満足が関心
と名付けられる﹂と言つてゐるが関心といふ訳語は塵i誤解せられるが傲に質的に利益.或ひほ欲澄田とすれぼ解
ぁ易いかも知れない︒要するに美的広見るとば欲求的に見ない尊であゎ︑そのもの1存轟は観者にとつて関係な
く︑嘩だ・その牒象に於て洛足することの出奔る状態であ鳶ところで人間が人間を見るのは時代の申であり.沈金
の申に於てである︒懇只の橡横腹時代を離れ︑祀呑を離れて之を見ることが出兼るに拘らす︑人間を見る場合には
容易に之を脱却することが出来ないのである︒人憫のうちに於でも裸体は祀金的であるよりもむしろ人間的であ
る︒併し衣装をまとへる人体と醸拭虻・芸西のものである︒祀急が利益の鰐係であゎ︑歴史がその変遷であるとする
ならば︑顔の評価から関心俸を排除す&ことが出癖ないのである︒従つて人間美はその点ぬ於て不純である︒
ところで生清治動は由心に従つて潜勤することであるのに対し︑美的活励ぼ関心老廃や越えて行くことである︒
をのことは内容の世界軋−とまらないで形式︵汝則︒盟念︶をその中に於て直観すること︑或鱒円容む形式によつて
軟序づける審でなけれぼならない︒何故かなら蹄心的である場合に眩凡て′が内容的である︒さきに怨痘の例をあげ 入間黄の特質 七九 −
軍事四金型喜 八C たから︑もう叫密それを以てするならば︑食欲的に見る場合には嗜好はも早や箪なる形式的な襖楼でなくーそれは 幾竃とつて意味する処のもの︑即ち内容である︒しかし袈ら貝類纂芸とつて生活的芸大で監が故に我 牒は容易監⁝関心的態度をとることが出釆︑従・つて容易忙形式的なもの宣してこれを見ることが出来るのである︒ これに反し七人聞捺生活上その避要他に於て他に比鮫し得ないものであるが故に︑関心を離れることが最も困耗 でありー常にそれが意味するところのもの霊である︒唯だその意味が頸限の彼方︑即ち仙切の概念︑劇切の内容 の撃方︑いほぼ形式の彼雷追掌られることによつてのみ純粋の警官得るので雪︒しかしか主夫浣巽 の世界に於ては求めることが出来す︑結厨は幻想岩ぺは整術の番であゎ︑現実の人間は飽く凌で不純さの中佐於で 美し小のである︒
扱て胃頸に槙起した処の問題︑即ち東の純粋性と実の程度との関係︑塵冒すれ′ぼ人間は撃として不純であるに拘 らす最も美しいもの占せられる場合其処忙矛盾がないであらうかといふ問題転帰㊤安いと息ふ︒が︑その薦めに は︑最も美しいとはどういふことであるかが問題にせられなければならない︒
我蒜体験上︑対象に於て輌々しいものをより深く感じるところのものをより美しノいとする︒それは理念といつ で隼形式といつて豊ひは人間のよ農産の慧段階といつてもよいで監うが︑その区別癒しばらく招き︑何 かそうし莞⁝限なものがよわ深く感ぜられる場食我々拭それをよわ美しいとする︒しかし警それだけであらう か︒理念の箪な名証崩文けならば坐繹によつても出来るであらうが︑突に於ては感性的勢素が加はらなければなら ■ ない︒即ち輩然たる感性のせ界に於げる謹念竃撃あ告遊覧へぼ理念の感性雷於望蕗警雪︒それは 妄るもゃ低観では・琴く→ふにして多︑多にして妄るもの姦警雪︒従つて美濃情の静止状願ではなく 多よヱヘ︑丁寧か多への︑心情の羽ばたき笹よつて生や畠ところの盛か霊威的な感情で雪︒従つて︑泉搾董
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
辟︑特鱒水墨画の如く極端に省著したものは︑それが飽食に近づノここと忙よつて︑︼観の紳讃をた1へてゐるもの
阜︑それに於て理念が裸となゎ︑意識の現世的確動が凝結し︑莫であるよセも造に近きものである︒美は即ち理念
紅凌いといふこと.だけで最高に達す牒のではなく︑感性的なもの皐盈かさと︑その統て富士の裾野の広がゎとそ
め冷厳な絶頂︑つ針少雨鹿を乱く慮識潜動のオンデンジテ﹂㌔それが必要なのである︒
シェリソ︑グ蛛納は人間の姿に於てのみ現れるといつてゐるが︑目的をそれ自身のうちに持つ唯二の布達であると
守ろの人間こそ︑それ忙放て理念を直観するのに食も便宜なものであらうが︑しかし人間は同時に常に関心的に眺
めらるべき︑即ち地上的な凡ゆる雑多を含むと︑ころの存在である︒いやそれどころか紳が人間の姿をとると同様に
感憾も亦人間の姿をとる︑即ち人間がまた同時に最も醜悪であゎ得るといふことを忘れてはならない︒関心が完蚤
に排除せられた場食︑醜態といふことはあゎ得ない竿である︒即ちそれは常に我々吟地上生宿と共にあるが故に醜
感であゎ得るのである︒実的に軋るといふこと抵地上を天上忙高めることであゎ︑天上を地上にもたらすことであ
ぁとしたならば︑か1る地上的常索が濃厚であ&ことも亦美の要素でをければならない︒しかしそれが芙である礪
めには天上の火を必要とする︒即ち人間美は不純である︑そのこと佐は聞達ひがないのであるが︑しかし不純であ
為ことそれ自体によつて実しいのではなく︑不純であれぽこそ莫が侵も光恵放ち得るといふ皇でのととである︒
カントば紳に於ても動物に放ても突は存在せず︑それは純然たる人間のものであると普訂︑シラーも自由と必然︑
法則と感性︑即ち紳品物の串間たる人間に於て芙を定位した︒か1る人間現象として芙を考べる場合それは愛に
傲たものがあるであらう︒芙と愛と秒琴先は同一でなければなら放い︒即ち自己と対象との問に働く同一過程む対
象忙於て感じるものが美であも︑それを白己の心意の志向として感じたものが愛である︒放て愛には輌の愛の如く
鹿転輿へるところのものせ︑廟物の愛の如く常に安くる愛とがあるとすれぽ恋愛は受けつ1輿へるものとしてまさ
入間契の樽質 入一
第亭還讐葛 へ二
絶入間的である︒これを黄に適用するとすれば︑感覚的快︑即ちカントの云ふ快適︵dasAnge邑me︶︑例へば味 魔の如きものは常に受用するところの美として動物的な美であゎ︑関心竪切断絶して︑自己忘却に於て対象に熔
ゐする純粋な菜︑即ち美の極北は卦さ紅紳の美であるDそして人間美は常に恋愛的なものと表嘉するものであわ︑
夷処に浣上的潤し手芸止瑠厳が同属することによつて常に人間的なものである冨らう︒ 苗典時代及びロマン主義時代の兼学着装を人間的なものとしつ去常にそれを慧に於て求める傾向が雪 た︒恐らく彼等の眼前町政希臓彫刻が永遠の軌範として彗てゐたから急設いであらう︒しかし近代甚学に於
還彼等妥学はも早や適用せられないので賢いか︒即ち美が更虹不純恵もの覧て求められ︑.その欝の芙学 が必賓なのではなからうか︒その蔑めに揉実意識の落ちつくところ︑それのみが問題にせられるのではなく︑美恵 識の働く距離及びその激しさ︑そうしたものも問題にす急必要が空ので貰いか︒私
ゞある︒︵路︸
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