日本における中世の射芸
に み る
﹁ 作 物
﹂ 由 来 考
! i
i﹁
吾妻 鏡﹄
太
国
尚 充
え関
一︑文中の漢字訳名交り文の額所は︑永東慶一一監務︑貴志正造訳註
一﹀
より
の引
用で
ある
︒
括弧内の掠仮名︑人名等及び文中の傍点試筆者による︒
日本古典文学金集の叫今昔物語集﹄における振伎名は殆んど省略し︑読み難いと思われる議所にだけ採用した︒ (新人物設来社︑昭五
路次
て は じ め に
二︑﹃吾妻鏡恥における﹁作物﹂
一一
一︑
﹁作
物い
とい
う封
芸名
称に
つい
て
閥︑
射世
話﹁
作物
いの
出来
五︑おわりに
123
124
で は じ め に れ
る 平 よ 安 う 時 に 代
な 末つ 期
7こり)IJミ
む ら こ 武 の 家
社ぷ;,...
~
つふ
あっ
︑やが
口
とか
といわ
の道
﹂
﹁武者の官}とはいかなる気風なのか
(2)
とはもとより︑名を尊ぶこと︑長を知ること︑
不一
一一
日実
行︑
思慮
のある
ふに至るには︑それなりの霊史的経韓があったと考えられるが︑本稿で辻︑このような
の
対
しての思想的考察を試みるのではなく︑中世}の武士たちにとって︑﹁兵の道一として基本的に求められ︑また︑自ら
も求めた広
︑:
︑
しチ んし
武十一訟を重んずることんの︑武芸の中の射芸について︑二︑一ニの考察を試みることである︒
し(3)
、 中 そ 世 の と
ÍJ~
の
であ
った
︒
弓馬のに秀でることこそ中聖武士の面白であった
の
そこで︑本稿の視点も︑この﹁弓馬の芸一に向けてす斗める
と
ふ
とは
︑
の
と︑このの充分な熟練のもとに総合的武芸に
の
の術
は︑
の
IJ¥ ふ
その武士団の
とって欠かせ
また︑騎射街は︑かに
宅まゆみ一一馬射の技能の優劣は︑その頃の戦斗形式からいって︑自己の はあったが︑その
イ〉
で も あ っ
たc
なぜ
なら
︑
の帰趨を決定一するという重大な要素をもっていたからである︒
せ い べ よ う い ち に ん つ わ も の
かくて﹁精丘一一とか二人当千の兵しといわれる武士は︑前れも騎射需に抜群の力量をもった戦斗目︑であり︑そ
にか
ふ
なく
︑
の戦力をになうものであった会 と
iヱ
カミ
る箭である5}の術の諌達が一兵のιも結びつくという︑
いわ
ば︑
った
の
日課の って鍛練を重ねていたであろうこと
つであったに違いないcその鍛錬の 推察できるむお
の
の習熟練達のために︑
中世武士たちじとて︑このして狩猟なども好ま
ーニ
3才
Ai
うであるが︑より数多くのの機会を作るために︑に罵場を求めるようになった︒
鏡﹄で頼朝が
の 諾
に選ぶというのは︑殆んど騎射のためであったや
ところで︑この様式であるが︑大小様々の的とか︑また︑的までの
の遠
近等
は︑
必 ら
てきたふめ
切みられた﹂とい 当然と考えられるずしも同じではなかったよこれは互いに
とであって︑
の様
式は
もと
よれ
ソ︑
の仕方から武具のつくり方まる︒従って︑
る(8)騎
C 射
こ 箭 れ
ら の
︑各々のいた様式で行われ︑その技能を競い
つ物﹂と総称される笠懸︑流鎮馬︑ っていたと
え ら れ
︑次第に統一るようになるが︑の中に︑後年
の騎射能があたcしかし︑この的ιも
三々
九一
四六
な ど
ιおいて
物﹂と総称されるような騎射術も行われていたむ
つ物一と一五われる騎射器については︑すでに幾つかの研究がなされ︑そそこで
本稿では︑中祉の射芸の中から
を選
び︑
を基礎資料としながら︑特にの由来を中心とし
125 て
の考察を試みる次第であるcちなみに︑現在まている日本斧育史の壊説書では︑に関し ていないc
この
︑中世の射誌を広く見た場合︑云わなければ・ならないだろうむ
126
ぬ点があるとしても︑敢えて﹁作物一をとりあげ︑こtAに発表を試みる所以である︒
注設び参考文離
ω
河合正治﹁ω
同右
︒
ゆ高橋品開﹁武士の発生とその性格﹂︑
ω
﹁ 司 馬 の 芸
﹂ と の 関 係 を
︑ 例 え ば
弓馬
の再
芸︑
弓馬の達者
叫門 出本 歴史 中世
ω h
所収
︑
一五
九真
︑
昭毘
六︒
第一一巻第七号所収︑蕊五豆︑雄山関︑昭五
一﹄の次のような用語から誰察できる︒
治承
四年
十一
一月
十日
治承詔年十ニ月十九日
文治
一⁝
一年
十一
月二
十五
日
光勝二年十一足二十五日
建久四年三丹二十五自
一冗
暦二
年六
月五
自
文治六年四月七日
建久
一瓦
年八
月十
六日
建久
平年
六月
一一
一日
建長六年間五月一日
建長六年間六月一E
文治元年八月二十四自
文治三年十一月二十一日
文治五年九月七日
建久三年十一一月十一日
建暦
一一
一年
蕊丹
四日
文泊五年十一月十八百
文治六年四月七百
建久
一一
年八
月一
日
﹂ ろ
弓馬の認詩
ロ勺
馬の
芸
自本紙慢の弓敢
弓懸の友
弓馬に護るもの
弓箭の達者
わが朝無慢の弓矢の達者
127
(9) (8) (7) (6) (5)
弓 馬 の 勘 能 建 久 五 年 十 月 九 日 弓 箭 に 携 わ る の 習 正 治 二 年 二 月 六 日 弓 馬 の 陰 徳 正 治 二 年 十 月 二 十 一 日 弓 馬 遊 牧 の 旧 友 元 久 二 年 六 月 二 十 五 日 武 芸 の 眉 目 元 久 二 年 八 月 七 日 弓 箭 の 道 建 暦 三 年 五 月 三 日
三徳の兼備(譜代の勇士︑弓馬の達者︑容儀神妙)建保六年十二月二十六日
弓 馬 の 道 建 久 三 年 七 月 二 日 武 道 に か な ふ 宝 治 元 年 五 月 二 十 一 日 文 武 の 稽 古 建 長 二 年 二 月 二 十 六 日 器 量 の 土 建 長 二 年 二 月 二 十 六 日
高橋昌明﹁武士の発生とその性格﹂既出︑五五頁︒
﹁男余三郎絵詞﹂﹃図説日本の歴史六﹄所収︑七一頁︑八七頁参照︑集英社︑昭四九︒
河村正治﹁鎌倉武士団の構造﹂既出︑二四四頁︒
﹃吾妻鏡﹄建久五年十月九日︑建久元年九月十八日︑建久四年九月十一日の各記録参照︒
馬上三つ物について
﹁大的拡拝記﹂﹃群書類従第二十三輯武家部一一﹄所収︑七一頁︑酎燈社︑昭二六︒
﹁就弓馬儀大概聞書﹂同右︑一五九頁︒1︑肥後和男﹁中世の射芸﹂﹃東京教育大学体育学部紀要﹄第三号所収︑一J
七頁
︑昭
三八
︒ 2︑丸山哲郎﹁日本武術におけるスポーツ性についての一考察││犬追物競技について││﹂
所収︑一七六頁︒
3︑黒木俊弘﹁佐賀県の稲佐神社流鏑馬馬場の研究﹂﹃体育学研究﹄第五巻第一号所収︑二一頁︒
4︑藤井英嘉﹁鎌倉時代の馬上三つ物と武士に影響を与えられる仏教思想の研究﹂﹃北海道大学紀要(二部)﹄第一号所収︑
六J
一七
頁︒
5︑太田尚充﹁南部家流鏑馬古文書について﹂﹃弘前大学医療技術短期大学部紀要﹄第一号所収︑
6︑今村嘉雄﹃日本体育史﹄八七J九一頁︑不味堂出版︑昭四三︒
(lO
﹃体育学研究﹄第二巻第七号
一 八
J
三七
頁︒
128
7︑水野忠文飽著﹃体育史概説h
8︑川村英男明日本体育史﹄ 九J
二一
一一
頁︑
在林
欝器
︑昭
四回
︒
︑沼遺書民︑昭四七︒
における﹁作物﹂
﹃吾妻鏡句に
と
ている記録は前後七回出現するつこ
立列挙する︒
資 料
1
馬場之儀也︒
々
依ニ事繁↓今年始被
ν分ニ再日
御 出如‑一昨日刊愛流鏑馬射手臨ν顛
有
ν障 合
一之河村三態
也
一斗
記︒
義秀
独非
ν可
ニ沈
論‑
歎︒
召出
仰臼
む
奇異事也︒
程非
‑一
指堪
能
重可ν処
‑一
罪科
刊
品 召 ニ 覧 其 箭 一 之 処
︒ 一 束
︒ 鏡 八 寸 恵 む 仰 日
c
案一一先非叫今更奇佐也5
然 者 猶 可
νAJ
射ニ三流作物叫於
ν者
一一
失礼
一 怒可
ν行
叫‑
其径
約 日 ﹃
荷一
給云
々会
尺手挟八的等也︒
資 料
2
将軍家入コ調小山左衛門尉朝政之家刊朝政兄弟以下
数輩震候去々
於ニ
此一
前一
召コ
棄一
44
馬堪能等吋
相コ
訪先
駁吋
令らず流鏑馬以下得物射様一給︒其故実︒各所ニ相鐸
々
的令下ニ前右京進仲業
是明年御上格之次︒有
ν御
コ参
往・
世間
社刊
為
ν果
‑一
御宿
願︑
刊以
二議
能
之者
叩
日験
︒然
者無
‑一
後難
一様
︒兼
自
一 一 山 々
︒
其衆
下河辺臣司行平 ︒
小山左禽門尉朝政 結城七郎朝光 小笠累次郎長清 榛谷四郎重朝
工藤︐小次郎行光
諏方大夫盛澄
海野小太郎平民 氏家正郎公朝
小鹿島犠次公業 曽我太郎詫信
藤沢次郎清近 宇故美右衛門尉祐政
那 須 太 郎 光
勃(2)
資 料
3
129
除 ︒
小山五郎長村︒駿河次郎泰村︒
向田部家村︒宇都宮四郎在衛門 尉頼業︒氏家太郎
c小霊原六臨時長等射二流鱗馬・将軍家有二出御刊武剤以下人々
並ハ
中小
山一
一一
滞
130
興
泰村四六
将軍家聯翻心神違乱之問︒入得一広々︒
家村八的
c
々
O
々様龍催ニ感
資料
4
小山五郎長村︒ 御J出干杜戸浦ベ是締不例御一千崎山之後調出始品︒
々木八郎日下数輩也︒相以川被ν仰
云︒
駿河次部折節上治
c
ノ を
刊 一 広 々
c
L 十
三(4.)余
疋 又御3覧偶作物刊
日 一五 々
未斜俄暴風起︒少一一其興刊及ニ中斜叩風猶不ν休
之問
︒ 資料
5
口HA口c
一'
ぷ小
相摸四部︒
山 五 郎 三、駿 九、四々、持
部c武間六郎︒小笠原六郎︒
思六
一一
一以
下作
物等
各射
ν之
︒此
嚢朝
夕非
下一
円 ν被
コ御
覧
一浦又太郎︒域太郎︒
々 長 長
々木加地八郎等為ニ射手刊
事一杷州叩内々難ν被ニ諌申叩凡後ν有二御入輿叩不v
及レ
被 ν止v
之 と 々
一 一 広 々
資料
6
日
渡コ御由比滞叩先小笠懸︒次遠笠懸︒
次流鋳馬︒次
犬追物
c廿延︒次小山五部︒
武田六部
c
小笠原六部
c碕ニ別仰叩射ニ作物等↓御入輿無ν他
一広
々︒
資料
7
甲午G
北条五郎時頼︑始可
ν被ν射ニ来月放生会流鏑馬此間初於ω一
鶴岳
馬場
子ν時招二十海野左衛門尉卒氏吋被ν談
一一
子細
叩 為ニ八人射手之内日数︒故実之犠能被ν知ν人之故態︒の見ニ射撃之失礼刊可ν加
一一
風諌
↓
武州
被乞
一小
ν之c
斜別
手之
弊尤
神妙
む
出
武州猶令
ν関
叫一
其失
一結
︒
一一
。 弓
難ν非ν無
‑一
其説
ベ
手一故右大将家調前↓
鏑
矢ヲ
扶之
持︒
告案
︒
此事殊勝也︒
設相
{九
日勺
ヲ引
テ即
可 v射魅
事P
遅キ
姿也
︒上
ヲ少
キ揚
テ
C可ν持
之由
ヲ被
一一
仰下
4
然者是計ヲ可ν被ν直
難者
︒
此事令
ν
関‑
一此
説↓
思出
詑︒
一 五 々
c武州亦入輿︒
向後可
v用
ニ此
説一
一五
々
c
此後
︒ 召コ寄子息等一令v聴ν之︒流鏑馬笠懸以下作物故実︒一向被ν談
ニ弓
馬支
↓
大略
究‑
⁝淵
源二
東燭
以後
吾退
散一
広々
︒
の他
に︑
﹁作物﹂という用語は使われないが︑いかにも﹁作物﹂が演じられたと考えられる記録が次のようにニ
131
ケ一
所あ
る︒
132 資 料
8
武痛令 ν出ニ出井浦一絵c
‑O
一蕗
叫ん
♂射
給︒
和国太郎︒向次能︒三浦次郎︒げハドc
自白
次以
‑一
投解
答↓
差ニ
豆一
以八
五葉射
ν之︒
間武語令
ν打
一一
議馬
耕い
H了
一的
下}
絵之
虎
c其中間為ニ八杖一也︒
罵場
輿宴務 ν魁コ及v晩c
色々
部盛
止コ御潜宴
々(8i
G
資 料
9
日葵
来︒
品御出c
々
, 駿 湾 守慶縞︒小山兵衛尉朝政
c八回右衛門尉知家c
射手五騎♀
諏方大夫盛澄者
c
日 也
来為
ニ国
人一
生︒
市畿
一一
断罪
一
一流永可ニ凌廃刊開︒賢意思会煩G今日 依 被
v召斗出之↓被ν仰
下可
ν射 一
流鏑
馬
盛澄
市中
二領
状吋
盛澄欲 ν令ν騎之刻︒御寵舎人密々
比馬
於日
一的
詰
吋 ・ 也 一
云 々
GHHU
︑ ︑
︑
河 口
fLTHHN‑
三被ν立ν之c
重醇
⁝伸
出 ベ
拝 擁護給
然後︒銭於平仁捻廻天一射v之c
観者莫
ν不ν感9一一品調気合又快然︒忽被v仰
ニ一
車免
133
一 広 々
(8) (7)紛 (5)帥持)似札)ま
び# 弱伊
文考
献
今日琉鎖馬︒
番
一-~
四 番 間 同 開 間 関 問 符
右 吉 右 右 右 右 右
的 射手
立
刑部丞或綱 射 手 的 立 河勾七郎政頼 的 立 勅使河原三郎有産 射 手
山 千 法 踊 丸 的 立 議羽小三郎行光 射手
一一
的 立 横 地 太 部 長
重(9)
出笠宮 支 三口
妻 鏡 第
為抽
八 二 九 八 八 八 五 三
八 o 八 八 六 一 九
頁 O l真 頁 来 四 ‑
G真 九 頁 J
貰 九 京
亡とJ=I
)11 弘
文館
長言
問 え
﹃吾
審議
第一
叫吾
妻鏡
第
134
) 日y︐Jazz
の ︑ ︑ 同
右︒
二六
九!
こ七
O頁 ︒
﹁作物﹂という射芸名称について
tま
﹁作
物﹂
とい
一の
特徴
は︑
れは︑ある特定
て として使われていたという
括して﹁作物⁝
2︑手挟 ー
︑一
一一
尺(
三々
3︑八的
ら︑取止 4
6︑四六︑ヴi
右 の
︑別の史料に試﹁
﹁洋
物﹂
の
し て
と
てい
た︒
の名
称が
︑
る︒前記
いた
れ﹂
︑
上でどの
に対する名称としていA
はな
く︑
の資料を釘にとれば︑次のような個々の の射芸に対し って使われていたかを考察する︒
包括的な名称
てくる︒たいAし︑これらは吋吾妻鏡h
う﹂
(わ
きほ
ー
L っ、
三しω
に対
して
︑
の史
料に
よる
︒ .b
り
ふ〉
り(4;
と う 名
称の
射
射芸にの名称は︑その発生整えられ
し
るc
歩射
︑
の
的の材質︑的の数︑個以上の場合は的と的との
の最装︑さらに
の場
合は
︑
あ
るい
はま
た︑
諸々の
の相
違か
ら︑
る ︒
従っ
て︑
に包括される各種目も︑てわ形式をもち︑回
有のているのでるるつしかし︑それにもかふ
て一
作物
﹂
ている3こ
ふに﹁作物﹂といの特設がある︒
﹁ー
作物
﹂と
して
の
あるいは一;八的﹂と
呼称されるとはあっても︑のようは︑独立し
し
呈皇
室規
﹄に
に対
して
︑
}れを高く評倍するとはあっても︑な笠懸と同格の︑独立した
射十
一声
魯目
とし
めていないようであるGこの理出は当然間われなければならないだろうむ
第笠懸︑犬追物い
射芸
とは
︑
︑判
然と
一区
別し
れているということであるc
再び前記
の資料を例にとれば︑次のように能用されている︒
長 会 資料
2
﹁先
小笠
懸︑
次涜錦馬︑次犬追物(中路)一射コ作物等
資料
8
資料7
135
先にみたように︑
﹁作
物﹂
に
一 尺
一 z八的一等数種目が合められているιもかふわらず︑それ
136
らの単一種目の名称が出てこないで﹁作物
と
しかも︑他の
さ れ て い
るご換言すれば︑単一種自である﹁流鏑馬︑笠懸﹂と︑数種目を合せ含めた﹁作物﹂と︑
ほx
みているという
ことであるむもっとも︑﹁笠懸﹂には﹁小笠懸﹂﹁遠笠懸‑の区別があったし︑笠懸を実施する自的︑方法︑場所な
どから
﹁百
番笠
懸一
﹁七夕笠懸一と呼ばれる場合誌あったが︑こLAでは︑これらの内容に言
はないだろうcの個々の種目が浮かびあがらないで
V }れを
て
し
し、
ているという
と
また︑資料6
にみ
るよ
うに
︑
﹁笠
懸︑
の後
に︑
の停せに随ひて﹂
いる
じ れ
t工
﹁作物﹂を射る時の作法が︑笠懸︑流鏑馬と異なるという点で特徴があるc笠懸や流鏑馬を射るのに
の仰
せ
に随ひて﹂れを実態するという例はなく﹁作物一を射る場合にのみこのような作法があったと考えられるむこれ
み品
︑
ことの意味が︑笠懸︑流鏡罵を射るのと異なるという認識が鎌倉時代にあったと考えられ︑追求
し、
と
ろで
あろ
う︒
たx︑
では
︑
の仰
せ
しと、
部のみ能の史料を求めれば
次の例がある︒
︿ 一一 一
一 一一 九
﹀
延志
一克
年三
見廿
八司
一、
一︑ 叫ん ハ
ノ、
ん?三
( 。 ま
と く の の 心 な る
f ¥
し
るへし
そハ
た ふ し
︺の
やふ
さめ
ハ
り
かけのまとハいハニ寸 くしりなかさ
︑大まと乃す方一一一尺五寸
つゑ
(速 一笠 懸)
︑とをかきかけ
(丸)まろ物
ふ
イ〉 ヨL ..c‑,.
九 イ コ
ー 叫(5)..r¥ イ〉 J¥
の
そ四六三一は︑︺ふでは﹁やぶさ
と称しているが︑この呼称
の梧還はとιかくとして︑
き
tヱ
﹁わきほそ﹂も﹁四六
Jh
u
て名を受け
89一のが﹁第なり﹂と
これはおそらく︑四六一一ごは︑誰でもが射られるとい
はなく︑射 し︑然る後
ιの指名があっ
でき
﹂る
とい
から
︑
主人のもとに︑指名を受けれものだけが実施できるという意味か︑そのどちらか向れにしても︑
料8にあるように
立誰でもが実施できるとい
はなく
の仰せに髄ひて[のみ実施できる る の
ょうでるるc 以 上
の第
つは
︑
﹁流
鏑馬
︑
犬追物﹂等
問と対比的に使われているということ︑もう一つは︑笠懸︑犬追物﹂は異っ
いをもっ
使用されているということ 137
注及び参考文献
138
(5) (4) (3) (2) (1)
﹃群
書類
従第
二十
二一
瞬武
家部
二﹄
所収
︑七
五頁
︒
﹁流
鏑馬
次第
﹂
同右
﹁ ︒
了俊
大草
紙﹂
﹃続
群書
類従
第二
十四
輯上
武家
部﹄
所収
︑三
四九
頁︒
﹁丸
物草
鹿之
記﹂
同右
︑五
二O
︑五
二三
貝︒
太田
尚充
﹁南
部家
流和
馬古
文書
につ
いて
﹂既
出︒
三︑射芸﹁作物﹂の由来
﹂の
項は
﹁作物﹂という射芸の由来を考察するのが目的である︒また︑前項で追求すべき問題として残しておい
た次の二点についても考察を試みたい︒何れも﹁作物﹂の由来に深いか
tA
わりをもっ問題と考えるからである︒
l
﹁作物﹂とは﹁八的﹂等︑数種目を包括した名称である︒
﹁一
二尺
﹂
﹁手
挟﹂
この﹁作物﹂に含まれ︑﹁八的﹂等の各単一種目についてしかも圃有の射芸であるはずの﹁三尺﹂
﹁手
挟﹂
すくなくとも鎌倉武士たちは同格と認めていない︒同じ単一種目である
﹁流
鏑馬
﹂
﹁笠懸﹂等と比較し︑
﹁作物﹂と一括してしまうことによってはじめて﹁流鏑馬﹂﹁笠懸﹂等と比肩し得る射芸と受けとめていた︒
つ】
﹁作物﹂が﹁流鏑馬﹂﹁笠懸﹂等と比肩し得るとしても︑なお両者における射芸としての音山味の違いを認めて
いた︒これは︑射芸としての相互の形式上の違いによるばかりでなく︑一l作物一に対しては﹁別の仰せに随﹂
つてはじめて射ることが許されるという特殊性があったと考えられる︒
さて
﹃吾妻鏡﹄の前記資料2
には
﹁作物﹂という射芸の由来について︑細部にわたってはなお不明の点が多い乙
あ っ と ぷ ら
﹁弓馬の堪能等を召し来め︑旧記を披覧し︑先縦を相訪ひ︑流鏑馬以下作物の射様を談ぜしめ一ている記録がある︒
また︑同じく資料7にみるように﹁作物故実﹂について﹁流鏑馬︑笠懸﹂等とともに一大略淵源を究め一たという
しか
し︑
﹁作物故実﹂の具搾的内容は述べていない他の笛所においても一作物故実﹂の内容に触れる
し、
G
また
︑
︑ ︑︑ ︑ 品 ︑ し 会
の イ 也
︑
l uy
の史料とい
る町
中右
記﹄
円玉
菜﹄
円台
記﹄
当日
錬抄
﹄
には︑相撲︑意弓︑記録は散見
るが
︑
については︑その︑
l uy
ま
﹁作
物﹂
の
にも接す
る
でき
ない
む
ような︑史料不足といふまえて
の
ので
ある
が︑
の
という
名称のついて推認を試みたい︒
最初
に︑
るが︑現在のところ︑
fヘ
八月十六百
の中の﹁作物﹂
る ︒
の辞典類で(を採りあげてい
るの
二十
巻)
﹄
この用例の
/ 、
ているc
カミし
し
のヨ
をも
って
︑
に含められて実施された時期と既定はいであろうcおそら
く︑もっから行われていたいないと考えられるc
これ
は︑
と
一 一 一 一
尺 ﹂
ていたとい
かということとかふわりが品 る ひ
以前に︑すでに鎌金武士
139
たちの問ていたることができよう︒繰り返すようであるが︑
一作
物
z ﹂られる様々
中 で も の
︑最も早くか
親 し
ても
いた
︑
いわ
ば︑
を代表するような種自であったので
140
おろう︒このこように
の次
の
﹂と
が 中 君
上手
也︒
一武者也
c
夜討
︒髄
射︒
摂射
♀
流鏑馬︒八ッ的︒
々
よりも早く成立していた﹁薪猿楽記hに︑すでに
﹁八
的﹂
は
ているの
﹂れ
は
ていたというとにもなろう︒主口妻鏡﹄じみえる﹁作物'一の︑他の種目も実施さ
れていたのかも知れない
刊新
猿楽
記
hからすれば︑すくなくとも容易に脳裡に浮かぶ種自であったから︑
たのであろうc
のよ
うに
︑
一‑‑,
﹁八
的﹂
は︑
﹁建
久一
克年
﹂以
前か
ら行
われ
する機会もおって︑人々の口に謄茨していた種目で島ったと考えられるc
"
で
八的
︑
々
ド ト イ フ
ノ、、
ノ 時 ヨ リ 既
エタレパ
ノ タル事久シ
ソ
よ工.
タ レ ③
む
と述べているひ頼抑制が
たと
い
に含められの射芸を創伶したとしても︑それ以前にすで広行われて
いた
﹁作
物﹂
った
ので
ある
む
しかし︑右のわ記録で︑さらきことは︑この三種目むの名称を付していないとい
うこと
﹂の
こと
は
﹁手
挟﹂
のよ
手安時代末期に︑すでに実接されてい