• 検索結果がありません。

中東イスラム世界における「聖者」発生の社会的・

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中東イスラム世界における「聖者」発生の社会的・"

Copied!
51
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中東イスラム世界における「聖者」発生の社会的・

認識的メカニズム : エジプト・南シナイ地域の事 例研究

著者 西尾 哲夫

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 25

号 4

ページ 487‑536

発行年 2001‑03‑30

URL http://doi.org/10.15021/00004072

(2)

西 尾    中 東 イ ス ラム世 界 に おけ る 「聖 者 」 発 生 の 社 会 的 ・認 識 的 メ カ ニズ ム

中 東 イ ス ラ ム世 界 に お け る 「聖 者 」 発 生 の      社 会 的 ・認 識 的 メ カ ニ ズ ム

     エジプ ト・南 シナイ地域の事例研究一

西   尾   哲   夫*

Social and Cognitive Background for the Genesis of So-called Sainthood

Tetsuo Nishio

  社 会 人 類 学 者 の堀 内 正 樹 氏 は,イ ス ラ ム世 界 の 「聖 者(聖 人)」 に 関 す る こ れ まで の 内 外 の 研 究 に ふ れ た 最 近 の 論考 「現 代 モ ロ ッコの 廟 参 詣      『聖 者 』 を 『偉 人 』 とす る提 案 を 添 え て 」(歴 史 学 研 究 会 編 『地 中海 世 界 史4    巡 礼 と民 衆 信 仰 』 青 木 書店1999年)の な か で,主 と して現 代 モ ロ ッコ で の事 例 を も とに,こ れ まで に 「聖 者 」 と少 な く と も学 術 的文 献 の な か で 呼称 され て きた こ とに 対 して い くつ か の 大 き な問 題 点 を 指摘 しなが ら,「 偉 人 」 と呼 び換え る こ とを提 案 して い る。 本論 文 は堀 内 氏 の提 案 に 直接 答 え る もの で は な い が,南 シ ナ イ で の事 例 を も とに そ の 問 題 意識 を さ らに考 察 しよ うとす る もの で あ る。

  南 シナ イ は 西暦 六 世 紀 に聖 カ トリー ヌ修 道 院 が創 建 され て 以来,イ ス ラム勃 興 に よる ア ラ ブ系 部 族 の流 入や イ ス ラム世 界 の政 治 的変 動 の なか で,同 修 道 院 を精 神 的 支 柱 と して社 会 経 済 的 に も一 つ の ま とま った地 域 と して歴 史上 存 在 し て き た と言 え る。 と くに十 六 世 紀 以 降 の オ ス マ ン帝 国 に よる 中東 支 配 は大 規 模 な住 民 移 動 と も重 な っ て南 シ ナ イ地 域 に大 き な社 会 経 済 的変 動 を も た ら した 。 こ の よ うな社 会 変 動 の なか で聖 カ トリー ヌ修 道 院 とア ラブ系 諸 部 族 の あ いだ に あ っ て地 域 編 成 の重 要 な鍵 的 要 素 と な った のが,修 道 院 創 建 と時 を 同 じ く して 修 道 院 の世 話 のた め に南 ヨー ロ ッパ よ り農 奴 的 役 割 を も って 強 制 移 住 させ られ

て きた ジバ ー リと よぼ れ る部 族 で あ った 。

  南 シ ナ イ には 起 源 に おい て も呼 称 にお い て も さ ら にそ の社 会 的 機 能 や 重 要 性 に お い て も さ ま ざ ま な 「聖 者 」 が み られ るが,彼 らは 一 見 す る と モ ー ゼ の よ う に超 有 名 な も のか ら 由来 の よ くわ か らな い もの まで,ま るで 何 の 一 貫 性 もな く 存 在 してい る よ うに み え る。 た だ,現 在 み られ る 「聖者 」 や そ れ を め ぐる伝 説

*国 立民族学博物館民族文 化研究部

Key Words : saint, Islam, Egypt, Sinai, Bedouin

キ ー ワ ー ド:聖 者,イ ス ラ ム,エ ジ プ ト,シ ナ イ 半 島,ベ ド ウ ィン

(3)

国立民族学博物館研究報告  25巻4号 や 儀 礼 的 行 為 が 昔 か ら変 わ らず 存 在 して きた も ので は な く,歴 史 文 献 を も とに 南 シナ イ 地 域 内 で の 集 団 関 係 の 変 化 や 同 地 域 を め ぐる国 際 的 な社 会 経 済 的 変 化 に て ら しあ わ せ な が ら仔 細 に な が め て み る と,時 宜 に 応 じて 「聖 者 」 を め ぐる 言 説 や 行 為 が 過 去 の 記 憶 か ら再 生 され た り新 た に創 造 され た り して きた ので あ り,結 局 の と こ ろそ れ ぞ れ の 「聖 者 」 が 一 定 の 集 団 関 係 維 持 と地 域 編 成 原 理 の た め に 機 能 して い る こ とが わ か る。 特 定 の 「聖 者 」 は そ の聖 性 の度 合 い では な く,集 団 関 係 維 持 に お け る役 割 の有 用 性 の度 合 いに 応 じて ま さ に地 域 住 民 か ら そ の 存 在 意 義 を 認 め られ た もの で あ り,そ の 有 用 性 の度 合 い をは か る民 俗 的 概 念 と して の バ ラ カの 力 が ど の程 度 で どれ だ け の幅 広 い住 民 に 信Lら れ て い るか に よ っ て,「 聖 者 」 の存 在 形 態 が 異 な っ て くる 。 部 族 内 部 の小 集 団 の 維 持 や さ らに 複 数 集 団 の 維 持 のた め であ れ ぽ,素 性 の知 れ た 部 族 の ま さ に 「偉 人 」 的 存 在 が 「聖 者 」 と して 機 能 す る し,複 数 の大 き な集 団 を ゆ るや か に統 合 し地 域 編 成 の 原 理 と して 機 能 す るた め で あれ ぽ,土 地 神 話 と して 機 能 す る モ ー ゼや ア ロ

ンの よ うな 超 「偉 人」 的 「聖 者 」 が必 要 に な る。

In his recent article on the state-of-affairs concerning the studies of so-called "Saints" in the Islamic world, Prof. Horiuchi proposed that in academic discussion about Islamic sainthood, at least in its popular set- tings, we should use the term "great person" instead of "saint" and other related words. My discussion here is not meant to answer his proposal, but to develop his standpoint on the basis of another case-study of a related matter in Southern Sinai, Egypt.

Historically speaking, Southern Sinai can be regarded as one socio-political and economic area, where the Monastery of St. Catherine functions as a pivotal entity both in the spiritual and socio- economic/political senses. Another key entity in this area is the Jibali tribe, thought to have been sent by the Byzantine Emperor Justinian from Southern Europe to serve as serfs in the middle of the 6th century.

After the advent of Islam, a majority of Arab tribes moved into this area. With the increasing political influence of the Ottoman empire, the area underwent radical social change from the 16th century onward.

In modern Southern Sinai, we can discern many "saints" of various

origins, names and social functions. Seemingly, they exist without any

social and cognitive background for their functions, but this proves not

to be the case, when we look into their origins with the help of historical

documents and oral traditions. In the present discussion, I propose one

principle to explain the seemingly unrelated "saints" of Southern Sinai in

terms of their cognitive origin, which might contribute to the general

discussion about "sainthood".

(4)

西 尾    中 東 イ ス ラム世 界 に おけ る 「聖 者 」 発 生 の 社 会 的 ・認 識 的 メ カ ニズ ム

1問 題 の 所 在

2地 域 と して の 南 シ ナイ の歴 史 の再 構 成   2.1聖 カ ト リー ヌ修 道 院 とジバ ー リ部 族   2.2  ジ バ ー リ部 族 の起 源

  2.3聖 カ ト リー ヌ修 道 院 を め ぐる地 域 情       勢

  2.4聖 カ ト リー ヌ修道 院 と ジバ ー リ部 族       の関 係

  2.5南 シ ナ イ の べ ドウ ィ ン社 会 と ジバ ー       リ部 族

  2.6聖 カ トリー ヌ修 道 院 を め ぐ る他部 族       と の関 係

  2.7  ジバ ー リ部 族 と他 部 族 との 関係   2.8両 義 的 な ジパ ー リ部 族 観 とジ バ ー リ       部 族 の 選 民 意識

3南 シ ナ イ にお け る 「聖 者 」 の 類 型 とそ の   基 本 機 能

  3.1  イ ス ラ ム世 界 の 「聖 者 」   3.2  「聖 者 」 へ の社 会 史的 ア プ ローチ   3.3  聖者 崇拝 とス ー フ ィズ ム

  3.4  土 地 神 話 と し て の 聖 者 ム ー サ ー         (モー ゼ)

  3.5  部 族 だ け の聖 者

  3.6  出 自不 明 の大 聖 者 ナ ビー ・サ ー レフ   3.7  境 界 を演 出す る装置 と して の聖 者 祭   3.8  超 部 族 的 聖 者 ナ ビ ー ・ハ ール ー ン        (ア ロ ン)

  3.9  複 数 集 団 を 統 合 す る聖 者   3.10  集 団 関 係 を 演 出 す る聖 者   3.11介 在 者 と して の 聖 者 の機 能 4  「聖 者 」 発 生 の 社 会 的 ・認 識 的 メ カ ニ ズ   ム

5  おわ りに

1問 題 の所 在

  社 会 人 類 学 者 の堀 内 正 樹 氏 は,イ ス ラム世 界 の 「聖 者(聖 人)」 に 関 す る これ まで の内 外 の 研 究 に ふ れ た最 近 の論 考 の なか で,こ れ まで に 「聖 者 」 と少 な く とも学 術 的 文 献 の なか で無 造 作 に 呼称 され て きた こ とに対 して,「 聖 者 」 とい う言 葉 自体 が も と も と英 語 や フ ラ ソス語 のSaintの 訳 語 に 由来 す るた め に生 じる,次 の 三 つ の 問 題 点 を 指 摘 しな が ら,「 聖 者 」 を 「偉 人 」 と呼 び換 え る こ とを 提 案 して い る(堀 内1999)。

  最 初 の 問題 点 は,主 と して カ トリ ック世 界 でSaintと い う言 葉 が 担 って きた 含 意 が イ ス ラ ム世 界 の事 象 に投 影 され て しま うこ とで あ る。少 な くと もカ ト リッ ク世 界 の「 人(Saint)」 はバ チ カ ン とい う権 威 的 な機 関 に よ って承 認 され た公 的 制 度 で あ る の に 対 して,イ ス ラム世 界 で は そ の よ うな 中心 的 権 威 機 構 が 存 在 しな い ば か りか,サ ウジ ア ラ ビア の ワ ッハ ー ブ派 の よ うな厳 格 な正 統 的 イ ス ラムで は 「聖 者 」 の存 在 自体 が否 定 され て い る。 二 番 目の 問 題 点 は,「 聖 者 」 とい う言 葉 が指 示 す る人 物 群 の 範 囲 に関 わ る。 「聖 者 」 に は,預 言 者 ムハ ソマ ドの 血 を 受 け 継 い だ シ ャ リー フ と よぼ れ る 由緒 正 しい人 物 や,政 治 的 権威 を持 ち 国家 的 英 雄 とみ な され る人物 が い る一 方 で,ま った く素 性 が 知 れ な い 人物 まで 多種 多 様 な人 物 が 含 まれ て い る。 これ らの 人物 を指 す 用 語

(5)

      国立民族学博物館研究報告  25巻4号 も多 数 で あ り,「聖 者(Saint)」 に 相 当 す る上 位 概 念 を 示 す 言 葉 は な い 。 三 番 目の 問 題 点 は,「 聖 者(Saint)」 の 持 つ 聖 性 とい う属 性 に 関 わ る も の で,キ リス ト教 世 界 で の 「聖 」 と 「俗 」 とい う区 別 が 必 ず し もイ ス ラム世 界 で の 「聖 」 と 「俗 」 の 区別 と同 じで は な く,そ の 意 味 で 「聖 者 」 を め ぐる 「聖 」 な る概 念 の再 検 討 が 必 要 で あ る。 堀 内氏 は 以 上 の 問 題 点 を あ げ た の ち,主 と して モ ロ ッコ の事 例 の 分 析 を も とに,「 聖 者 」 が 日常 的 対 人 行 動 の 延 長 と して理 解 す る こ とが可 能 で あ る と して,暫 定 的 で は あ るが 問 題 点 の多 い 「聖 者 」 とい う言葉 に代>xて 偉 人 」 とい う言 葉 を 提 案 した1も

  本 論 文 は 堀 内 氏 の あ げ た特 に二 番 目の問 題 点 をめ ぐっ て,南 シ ナイ で の事 例 を も と に考 察 を くわ え る。 一 見 す る と起 源 に お い て も呼 称 に お い て も何 の一 貫 性 もな く存 在 して い る よ うに み>xる 「聖 者 」 が,南 シナ イ地 域 内で の集 団 関 係 の変 化 や 同地 域 をめ ぐる 国際 的 な 社 会 経 済 的 変 化 に て ら しあわ せ なが ら仔 細 に な が め て み る と,そ れ ぞれ の 「聖 者 」 が 一 定 の 集 団 関 係 維 持 と地 域 編 成 原 理 の た め に 機 能 して い る の で あ り, Saintの 訳 語 と して の 「聖 者 」 とい う言 葉 の 妥 当 性 は と もか く,「 聖 者 」 とい う一 つ

の整 合 的 な社 会 シス テ ムが機 能 して い る こ とを 示 した い 。

2地 域 と して の南 シナ イ の歴 史 の再構 成

2.1聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 と ジ バ ー リ部 族

  西 暦 三 世 紀 ごろ か ら聖 地 を含 む パ レス チ ナや エ ジ プ トな どの キ リス ト教 世 界 で は, 人 里 は な れ た 砂 漠 や 荒野 に 隠棲 して修 行 生 活 を お くる修道 僧 が増 えた が,南 シ ナイ に お い て も,モ ーゼ が十 誠 を授 か った シ ナイ 山 と考 え られ た モ ーゼ 山や,パ ラ ン とい う 名 で 聖 書 中 に 登場 す る ワー デ ィ ・フ ェイ ラ ー ンの 周辺 に相 当数 の修 道 僧 が 宗 教 的 静 誰 を も とめ て 庵 を む す ん だ。 南 シ ナ イ の過 酷 な 自然環 境 と土 着 住 民 に よる襲 撃 な どの た め,多 くの 修道 僧 が命 を お と した が,や が て 彼 らは共 同生 活 を は じめ る よ うに な り,

コ ン ス タ ンテ ィ ヌス大 帝 の母 親 聖 ヘ レナに 後援 を懇 願 した。 彼 女 は そ れ に 応 え て 修 道 僧 の た め に 小 さな教 会 と身 を護 るた め の 塔 を 建設 した。

  聖 カ トリー ヌ修 道 院 が 建 て られ る ころ まで に は,聖 カ ト リー ヌをめ ぐる奇 蹟 謳 が 伝 説 と して 広 く人 び との あ いだ に知 られ る よ うに な って い た。 聖 カ トリー ヌあ るい は カ タ リナは も と の名 前 を ドロ シア と言 い,西 暦294年 に ア レキサ ン ド リア で生 まれ た 。 貴 族,一 説 に よれ ば王 族 の 出 で あ った と も言 わ れ る。 学 識 ゆ たか な美 しい 娘 で あ った カ タ リナ は,あ る時 シ リア 出身 の 修 道士 に 出会 い,キ リス ト教 に改 宗 して 洗 礼名 を カ

(6)

西 尾    中東 イ ス ラ ム世 界 にお け る 「聖 者 」 発 生 の 社 会 的 ・認 識 的 メ カ ニ ズ ム

タ リナ と した 。 ロ ーマ皇 帝 マ クセ ンテ ィ ウスが キ リス ト教 を 弾 圧 す る と,彼 女 は偶 像 崇 拝 に反 対 して 公然 と皇 帝 マ クセ ンテ ィ ウスを 非 難 した 。 皇 帝 は五 十 人 の哲 学 者 を彼 女 の も とに送 って論 戦 を挑 ませ た が,彼 らは わ ず か 十 八 才 の カ タ リナ に こ とご と く打 ち 負 か され,し か もキ リス ト教 に改 宗 させ られ て しま った 。怒 った皇 帝 は哲 学 者 た ち を 生 きな が ら焼 い て しま った 。 一 計 を 案 じた 皇 帝 マ クセ ンテ ィ ウス は カ タ リナに 結 婚 を 申 し込 ん で彼 女 を誘 惑 し よ うと した が,カ タ リナ は 自分 は キ リス トとす でに 婚 約 し た 身 で あ る と述 べ て,皇 帝 の求 婚 を断 わ った 。 皇 帝 は 彼 女 を 投獄 した が,そ れ で も意 に 従 わ ぬ カ タ リナ を釘 のつ いた 車 輪 で 処 刑 しよ うと した 。 と ころ が彼 女 の祈 りで車 輪 は バ ラバ ラに砕 け散 り,見 物 して いた 群 衆 に 傷 を 負 わ せ た とい う。 だが カ タ リナ も最 後 に は首 を はね られ て殉 教 した 。 伝 説 に よれ ぽ,天 使 が そ の遺 体 を シ ナ イに あ る山 の 頂 に運 ん だ とい う。 そ の 山 が 現 在 の カ トリー ヌ山 で あ るa>0

  ジノミー リ部 族 には,聖 カ トリー ヌ修道 院 の創 建 に関 わ る次 の よ うな 出 自伝説 が 語 り 伝 え られ てい る。

  い まか ら八 百 年 ほ ど まえ,バ ル バ ル とい う名 の部 族 が い て,聖 カ トリー ヌの 修 道 院 を 襲 っ て は,略 奪 を ほ しい ま まに して い た 。 そ こ で,修 道 士 た ち は ジバ ー リ部 族 に た す け を も と め た 。 ジバ ー リ部 族 は ギ リシ アか ら エ ジ プ トにや って きた 人 た ち で あ り,ず っ と修 道 院 の 警 護 の任 に あ た って い た 。 しか し ジバ ー リの者 た ち は,泥 棒 た ち を 追 い は ら うこ とが で き なか った 。 そ こで修 道 士 た ち は エ ジ プ トか ら兵 隊 をつ れ て き て,警 護 の 任 に つ け た 。 か れ らは 泥 棒 た ち を追 い は らい,ほ うび と して 修 道 院 で作 られ る もの の半 分 を も らえ る こ と と な った 。 か れ らは,ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ンデ ィー と よぼ れ た 。 これ に 腹 を た て た ギ リシ ア人 の警 護 人 た ち は,エ ジ プ ト人 の 兵 士 た ち と仲 たが い した が,や が て 品 物 を 等 分 す る とい う こ とで 争 い は お さ ま った 。

  西 暦 九 世 紀 に ア レキ サ ソ ド リア の 大 司 教 を つ と め た エ ウ テ ィキ ウ ス(ア ラ ビ ア 語 名, イ ブ ン ・ア ル バ ト リ ー ク)の 『年 代 記 』 や 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 所 蔵 の 関 連 文 書 が 史 実

と し て 伝 え る と こ ろ で は,西 暦 六 世 紀 に ビ ザ ン ッ 皇 帝 ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス1世 (527〜566年)が 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 を 創 建 した と き,修 道 僧 た ち の 警 護 や 身 辺 雑 事 に あ た ら せ る た め に,現 在 の ボ ス ニ ア(旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア 南 西 部)と ワ ラ キ ア(ル マ ニ ア 南 部)の 農 奴 か ら首 人 の 男 子 を 妻 子 同 伴 で エ ジ プ トへ 送 っ た 。 当 時 の エ ジ プ ト 総 督 テ オ ドシ ウ ス は,さ ら に エ ジ プ トの ア レ キ サ ン ド リ ア か ら妻 子 同 伴 の 百 人 の 男 子 を 付 け 加 え て,合 計 二 百 家 族 ほ ど の 農 奴 を シ ナ イ 半 島 へ 送 り と どけ た 。 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 か ら の 要 請 で,1517年 か ら1520年 に か け て オ ス マ ソ 朝 の セ リム1世 は,ナ

(7)

国立民族学博物館研究報告  25巻4号 ル の デ ル タ 地 域 の 北 東 部 に 位 置 す る ア ル マ タ リ ー ヤ か ら,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 を 警 護 す る と い う名 目 で イ ス ラ ム 教 徒 の 一 団 を 派 遣 した 。 彼 ら の 末 高 は 現 在 ア ウ ラ ー ド ・ ジ ュ ン デ ィ ー と よ ぼ れ る ジ バ ー リ部 族 の 一 支 族 と な っ た 。 ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ン デ ィ ー と は 「兵 士 の 子 ど も た ち 」 と い う意 味 で あ る 。

  ジ バ ー リ部 族 の 名 前 に あ る ジパ ー リ と は,も と も と ア ラ ビ ア 語 で 山 を 意 味 す る 言 葉 ジ ャバ ル の 複 数 形 ジ バ ー ル か ら派 生 し た 形 容 詞 で あ り,文 字 ど お りに 訳 せ ぽ 「山 や ま の(人 び と)」 と で も な ろ う。 現 在 の ジ バ ー リ部 族 は,ウ ヘ イ バ ー ト,ヘ イ マ ー ト(以 前 は サ ラ ー イ メ あ る い は ア ウ ラ ー ド ・サ リー ム と よ ぼ れ た),ハ マ ー イ デ,ア ウ ラ ー

ド ・ジ ュ ン デ ィ ー の 四 つ の 支 族 か ら構 成 さ れ て い る 。こ の 四 支 族 の な か で,ウ ヘ イ バ ー トの 構 成 員 が も っ と も 多 く,次 に ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ンデ ィ ー と 続 く。 ま た,所 有 し て い る 土 地 や 農 園,家 畜 な ど の 面 で は,ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ン デ ィ ー が も っ と も め ぐ ま れ て い る3)。

  出 自伝 説 の な か で は,ジ バ ー リ部 族 の 祖 先 が 「ギ リ シ ア 」か ら や っ て 来 た こ と に な っ て お り,ギ リ シ ア を 指 す ア ラ ビ ア 語 の 表 現 と し て は,比 較 的 新 しい 言 葉 で あ る 「イ グ リー ク」 と い う単 語 と 「ル ー ム」 と い う単 語 の 両 方 が 使 わ れ て い る。 ル ー ム と い う ア ラ ビ ア 語 の 単 語 は ロ ー マ と い う言 葉 に 由 来 し て い る が,近 代 以 前 の ア ラ ブ ・イ ス ラ ム 世 界 で は,ル ー ム と は 小 ア ジ ア か ら バ ル カ ン半 島 の 一 帯 の 旧 ビザ ン ツ 帝 国 地 域 を 指 し て い た 。

  ジ バ ー リ部 族 の 系 譜 に つ い て 語 られ て い る と こ ろ を 総 合 す る と,現 在 の ジ バ ー リ部 族 の 四 支 族 は す べ て,ギ リ シ ア 出 身 の バ ヒ ー ト(Bakhit)と い う名 前 の 人 物 と 彼 の 兄 弟 で あ る ジ ュ ソ デ ィ ー を 祖 先 に も っ て い る 。 バ ヒ ー トの 墓 は ワ ー デ ィ ・ア ス バ イ ー ヤ に 現 存 し て お り,彼 に は ス ラ イ ム と フ マ イ ド と い うふ た りの 息 子 が い た 。 フ マ イ ドは ハ マ ー イ デ 支 族 の 始 祖 と な り,彼 の 息 子 の ウ ハ イ ブ と サ リー ム は,そ れ ぞ れ ウ ヘ イ バ ー ト支 族 と ア ウ ラ ー ド ・サ リ ー ム(=ヘ イ マ ー ト)支 族 の 始 祖 と な っ た 。 た だ し,も 一 つ の 支 族,ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ン デ ィ ー と他 の 支 族 と の 系 譜 関 係 に つ い て は,今 も な お 各 支 族 内 で 語 り伝 え ら れ て い る 内 容 に 微 妙 な 違 い が み ら れ,三 通 りに 分 け られ る 。 前 出 の 出 自伝 説 の よ うに,エ ジ プ ト起 源 で あ る こ とを 積 極 的 に み と め る も の,血 縁 関 係 は な い が,バ ヒ ー トの ふ た りの 息 子 ス ラ イ ム と フ マ イ ドに 追 随 し た ア フ マ ド と い う 人 物 の 子 孫 で あ る とす る も の,バ ヒ ー トの 兄 弟 の ジ ュ ソ デ ィ ー こ そ が,ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス1世 が 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 建 設 の 際 に 労 働 者 と と も に 送 っ た 一 隊 の 兵 士 た ち で あ り,彼 ら の 子 孫 が ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ソ デ ィ ー だ とす る も の で あ る。 こ の よ う な 違 い は,歴 史 的 に 異 な っ た 起 源 を 持 つ ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ン デ ィ ー が 血 縁 関 係 を 持 つ 支 族 集

(8)

西 尾    中東 イ ス ラ ム世 界 に お け る 「聖 者 」 発 生 の社 会 的 ・認 識 的 メカ ニ ズ ム

団 と して ジバ ー リ部 族 に取 り込 まれ て い った 系 譜 操 作 上 の過 程 を反 映 して い る と考 え られ る。

2.2  ジ バ ー リ部 族 の 起 源

  ア ウ ラ ー ド ・ジ ュ ン デ ィ ー を 除 く,他 の 三 支 族 に 属 す る ジ バ ー リ部 族 の 人 び と の 祖 先 の 出 身 地 が,ギ リ シ ア 近 辺,よ り正 確 に は ボ ス ニ ア(旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア 南 西 部)と

ワ ラ キ ア(ル ー マ ニ ア 南 部)に あ る こ と は,歴 史 的 事 実 の よ うだ が,そ の 民 族 的 起 源 は ま だ 謎 の 部 分 が 多 い4)0ジ バ ー リ部 族 に 関 す る 古 い 記 録 に は あ い ま い な 点 が 多 い と い う の も あ る が,い ち ぽ ん の 障 害 は,ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス1世 が 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 を 建 設 した,西 暦 五 世 紀 か ら六 世 紀 に か け て の バ ル カ ン半 島,こ と に ボ ス ニ ア や ワ ラ

キ ア な ど の 地 方 の 歴 史 が,ス ラ ブ民 族 が バ ル カ ン半 島 に 南 下 して く る 直 前 と い う事 情 も あ っ て 詳 し く わ か ら な い と い う こ とだ ろ う。 東 欧 史 の 専 門 家 は こ の 時 代 を 史 料 の 暗 黒 時 代 と 呼 ん で い る ほ どだ 。

  ジ バ ー リ部 族 の 起 源 の 問 題 に つ い て 民 族 考 古 学 の 観 点 か ら研 究 し て い る,ロ ソ ドン 大 学 考 古 学 研 究 所 の ジ ョ ン ・G・ ナ ン ド リス 博 士 に よ る と,ジ バ ー リ部 族 の 祖 先 は ト

ラ キ ア 系 の 先 住 民 族 で あ り,現 在 ギ リ シ ア の 山 岳 地 帯 に 住 ん で い る ア ル ー マ ニ ア あ る い は ア ロ ム ン(単 数 形Arom穗,複 数 形Arom穗i)ま た は ヴ ラ フ(Vlah)と よ ば れ

る民 族 集 団 と近 い 関 係 に あ る ら しい(Nandris  l990)。

  ダ ニ ュ ー ブ 河 南 域 出 身 の ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス1世 は ラ テ ソ語 を 母 語 と し て お り,最 後 ま で ギ リ シ ア 語 が 苦 手 だ っ た 。 そ の た め,彼 と 同 郷 か そ れ に 近 い 地 域 出 身 で ラ テ ン 語 系 の 言 語 を 話 す 集 団 を,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 警 護 役 に あ て た と 思 わ れ る。 黒 海 南 部 地 域 か ら バ ル カ ン半 島 一 帯 の 住 民 の な か で,ト ラ キ ア 系 先 住 民 の 一 部 が ロ ー マ 化 し て ラ テ ン語 を 話 す よ うに な っ て い た 。 彼 ら の 子 孫 が,現 在 ア ル ー マ ニ ア ま た は ヴ ラ フ と よ ば れ て い る 人 び と で あ り,ジ バ ー リ部 族 も そ の 末 喬 ら し い 。

  本 来,ヴ ラ フ と い う民 族 名 は ダ ニ ュ ー ブ 河 南 域 の バ ル カ ン半 島 や ギ リ シ ア に 先 住 し て い た ラ テ ン 語 系 言 語 を 話 す 人 び とを 指 す 他 称 で あ る 。 これ ら の ラ テ ン語 系 言 語 を 話 す 人 び と 自身 は 自 分 た ち の 集 団 を ア ル ー マ ニ ア/ア ロ ム ソ,ロ マ ー ン(Rom穗),ア ル ミ ー ン(Arm絜),ロ マ ー ル(Rom穩)な ど と 呼 ん で い る。 こ れ ら は す べ て 基 本 的 に 「ロ ー マ 系 の 人 び と 」 と い う意 味 で あ る。 一 方,ヴ ラ フ と い う言 葉 は,も と も と 異 邦 人 を 指 す ゲ ル マ ン 系 の 単 語 で あ り,ゲ ル マ ン民 族 の 一 派 で あ る チ ュ ー ト ン人 が 異 邦 人 の 総 称 と し て 使 っ て い た 。 西 暦 四 世 紀 な い し五 世 紀 に な る と ス ラ ブ 系 言 語 を 話 す 人 び とが,ロ ー マ の 属 領 に 住 む 人 び と の 総 称 と し て ヴ ラ フ と い う言 葉 を 使 う よ うに な っ

(9)

      国立民族学博物 館研究報告  25巻4号 た 。現 在 で も 主 に ヨ ー ロ ッパ 東 南 部 で は,ヴ ラ フ に 起 源 を 持 つ 言 葉 が 民 族 名 と して 残 っ て い る 。 ス ラ ブ 系 に 属 す る ス ロ ヴ ェ ニ ア 語 のLahやLas,同 じ く ス ラ ブ 系 の ポ ー ラ ン ド語 のWloch,ゲ ル マ ン系 に 属 す る ア ソ グ ロ ・サ ク ソ ン 語 のWelshな ど は ヴ ラ フ 起 源 で あ る5)0

  ジ バ ー リ部 族 の 故 郷 の 一 つ と され る ワ ラ キ ア(Wallachia)と い う地 名 も ヴ ラ フ 起 源 の 言 葉 で あ る 。 こ の 言 葉 は ジ バ ー リ部 族 の 出 自 を 記 録 し た 聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 文 書 に も ア フ ラ ー フ(al‑Afl疚h)と い う ア ラ ビ ア 語 に な っ て 登 場 す る 。 ア フ ラ ー フ と い う 名 称 自 体 は トル コ語 経 由 で ア ラ ビ ア 語 に 入 っ た も の だ ろ う。 中 世 の ワ ラキ ア 地 方 は トル コ語 でKara  Iflak(黒 い イ フ ラ ク の 意 味)と よば れ て い た か ら だ 。 な お,隣 す る モ ル ダ ヴ ィ ア 地 方 はAk  Iflak(白 い イ フ ラ ク の 意 味)と よ ば れ て 区 別 され て い た 。   エ ウ テ ィ キ ウ ス は 『年 代 記 』 の な か で,ジ バ ー リ部 族 の 一 集 団 を 指 し て Lachmiensesと 呼 ん で お り,ナ ン ド リ ス は こ れ を ヴ ラ フ(Vlah)の 転 説 と 断 定 し て い る(Nandris  1990:60)。 ま た,十 九 世 紀 中 頃 に シ ナ イ 半 島 を 踏 査 した イ ギ リ ス 人 言 語 学 者 エ ド ワ ー ド ・H・ パ ー マ ー は,調 査 の 案 内 役 と して ジ バ ー リ部 族 の ガ イ ドを 雇 い,そ の 時 の 旅 行 記 『出 エ ジ プ ト の 砂 漠 』 の な か で,ジ パ ー リ部 族 が ク ラ フ

(K'lah)と よ ぼ れ る 国 か ら や っ て き た と い う 彼 ら の 伝 承 を 記 録 し て い る(Palmer l871:74)。 こ の ク ラ フ と い う言 葉 も ヴ ラ フ の 変 化 形 だ ろ う。 ジ パ ー リ部 族 の 初 期 の 居 住 地 の 一 つ と推 定 され る,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 近 く に あ る ワ ー デ ィ ・ トラ フ(Wa‑

di Tlah)の トラ フ も ヴ ラ フ 系 の 言 葉 が 変 化 し た 可 能 性 が 高 い 。 さ ら に,ジ バ ー リ部 族 の 始 祖 で あ る バ ヒ ー ト(Bakhit)あ る い は バ ヒ ド(Bahid)と い う名 前 も ヴ ラ フ と 何 ら か の 関 係 が あ る の か も しれ な い 。

  西 暦570年 ご ろ,殉 教 者 ア ン トニ ヌ ス(ピ ア ケ ン ザ の ア ン トニ ヌ ス)が シ リ ア ・パ レス チ ナ か ら エ ジ プ トを 旅 行 し,旅 行 者 と し て は 初 め て 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 に つ い て 書 き残 し た 。 彼 の 記 述 に よ れ ば,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 修 道 士 た ち は 「ラ テ ン語,ギ

リ シ ア 語,シ リア 語,エ ジ プ ト語,そ し て ベ ッ サ(Bessas)語 」 の 言 葉 を 用 い て い る と あ る(Nandris  l 990:65;Mayerson  1978)。 シ リア 語 は ア ラ ム語 系 の 言 葉 で あ り, 初 期 キ リス ト教 文 書 の 多 くは シ リ ア語 で 書 か れ て い た か ら,聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 に も 非 常 に た く さ ん の シ リ ア 語 文 書 が 現 存 し て い る 。 ま た こ こ で エ ジ プ ト語 と よ ぽ れ て い る 言 語 は,エ ジ プ トを 中 心 と す る コ プ ト教 会 の 典 礼 語 の コ プ ト語 を 指 し て お り,フ ラ オ 時 代 の 古 代 エ ジ プ ト語 で は な い 。 問 題 は べ ッサ 語 で あ る 。 ア ン トニ ヌ ス の 記 述 に 関 連 し て,ト マ シ ェ クは 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「ト ラ キ ア 語 は 話 さ れ な くな っ て 久 し い 。 ベ ッ サ(Bessae)の 人 び と は ロ ー マ 人 系 の 言 葉 を 話 し て お り,シ ナ イ 巡 礼 の 通

(10)

西尾   中東イス ラム世 界における 「聖者」発生 の社会的 ・認識的 メカニズ ム

訳 兼 ガ イ ドを す る 者 も い た 。 … … ベ ッサ の 人 び と は,彼 ら の 子 孫 で あ る ワ ラ キ ア の 人 び と と 同 様 に,自 分 た ち の こ と を 誇 りを も っ て ロ マ ー 二(ル ー マ ニ ア 人)と 呼 ん だ 」 (Tomaschek  1893‑4:77‑79;Nandris  1990:65)。 今 は 残 っ て い な い が ジ バ ー リ部 族 の 支 族 に ア ウ ラ ー ド ・ ビ ズ ヤ ー(Bizya)と い う も の が あ り,こ の 名 前 は 中 世 の 聖 カ ト

リー ヌ修 道 院 文 書 に も 登 場 す る。 こ の ビ ズ ヤ ー と い う支 族 名 は ナ ン ド リス に よれ ぽ, 現 在 も ト ゥ ー ル に あ る聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 の 農 園 を 管 理 す る 一 族 の 名 称 と し て 継 承 さ れ て お り,ア ン トニ ヌ ス の 記 述 に あ る ベ ッサ と ま ち が い な く関 係 が あ る だ ろ う。

  い ず れ に せ よ,ジ バ ー リ部 族 の 一 部 は ワ ラ キ ア か ら ボ ス ニ ア に か け て の 地 域 に 暮 ら して い た ラ テ ソ語(の 方 言)を 話 す よ うに な っ た トラ キ ア 系 先 住 民 の 末 喬 で あ り,さ ら に ア ル ー マ ニ ア(ア ロ ム ン)あ る い は ヴ ラ フ と い う民 族 集 団 が ジ バ ー リ部 族 と 同 系 統 の 末 喬 で あ る の は ど うや ら ま ち が い な さ そ うだ 。 現 在,ア ル ー マ ニ ア 系 の 人 び と の 居 住 地 は トラ キ ア 地 方 や ダ ル マ チ ア 地 方 の 山 岳 地 を 中 心 に,ギ リ シ ア,ブ ル ガ リ ア, 旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア な ど の ダ ニ ュ ー ブ 河 南 部 の 諸 地 域 に 分 散 し て い る 。

  ア ル ー マ ニ ア(ヴ ラ フ)人 は 牧 畜 を い と な ん で お り,季 節 に よ っ て 居 住 地 を か え る 。 夏 は 高 山 地 帯 に あ る 村 で 過 ご し,冬 に な る と 低 山 地 帯 に 分 散 す る 。 彼 ら は 屈 強 な 傭 兵 で あ り商 人 で あ る とみ な さ れ て い た 。 ラ バ に 荷 物 を 載 せ て 隊 商 を 組 み,バ ル カ ソ半 島 全 域 で 商 取 り引 き を 行 な っ て い た 。 こ の よ うに ア ル ー マ ニ ア 人 は,シ ナ イ 半 島 に 送 ら れ た 集 団 が 有 して い た あ ら ゆ る 機 能 を 備 え て い た 。 カ ル パ チ ア 地 方 の ル ー マ ニ ア 人 牧 畜 民 は,ア ル ー マ ニ ア 系 の 人 び と と言 語 ・文 化 的 に 最 も 近 い 関 係 に あ っ た が,こ の よ

う な 機 能 は 備 え て い な い 。 ア ル ー マ ニ ア 人 は 代 々,ア トス 山 に あ る ギ リ シ ア 正 教 会 の 修 道 院 で,労 役 や ラ バ 飼 養 に 従 事 し て い た 。 ア トス 山 に あ る 大 修 道 院 の うち,最 も初 期 の もの は 十 世 紀 に ア タ ナ シ ウ ス が 創 設 した 大 ラ ヴ ラ 修 道 院 だ が,こ れ に 先 だ っ て 隠 者 の 集 団 が 定 住 し て い た の は 間 違 い な い 。 シ ナ イ 半 島 で も 事 情 は 同 じだ っ た 。

2.3聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 を め ぐ る 地 域 情 勢

  先 述 の ジ バ ー リ部 族 の 出 自伝 説 に も あ る よ うに,初 期 の こ ろ に 南 シ ナ イ に 住 み つ い た 修 道 士 た ち の な か に は,砂 漠 の 住 民 の 手 に よ っ て 命 を お と し た も の も あ った 。 西 暦 250年 ご ろ に ア レキ サ ン ド リア の 主 教 デ ィ オ ニ シ ウ ス は,迫 害 を 逃 れ て 砂 漠 に 逃 げ 込 ん だ キ リス ト教 徒 の 「多 くが ア ラ ビ ア の 山 の な か で 異 教 徒 の サ ラ セ ン人 に 捕 ま り,囚 わ れ の 身 と な っ た 」 と 述 べ て い る(Eckenstein  1921:95)。 正 確 な 時 期 は わ か ら な い が,西 暦373年 か ら410年 の あ い だ の あ る 時 に,今 も聖 カ ト リー ヌ修 道 院 で 語 りつ が れ て い る 大 量 殺 害 が 起 こ っ た 。 ア レキ サ ン ド リア 近 く の カ ノ プ ス 出 身 の 修 道 士 ア ン モ ニ

(11)

      国立民族学博物館研究報告  25巻4号 ウ ス は こ の 事 件 を 目 撃 し,次 の よ う に 記 録 し て い る(Dobson  1925:49;Har‑El 1983:181)。 彼 は エ ジ プ トか ら の 巡 礼 団 と と も に エ ル サ レ ム を 出 発 し,十 八 日 後 の 一 月 十 四 日 に モ ー ゼ 山 に 着 い た 。 ち ょ う ど そ の 時,一 群 の 「サ ラ セ ン人 」 が 彼 ら の 首 長 の 死 の 腹 い せ に シ ナ イ 山(=モ ー ゼ 山)の 修 道 士 た ち を 襲 撃 し た 。 サ ラ セ ン人 の 襲 撃 者 た ち は 三 十 八 人 も の 修 道 士 を 殺 害 し,そ の 場 か ら逃 げ 出 し て い た ア ン モ ニ ウ ス ー 行 に も せ ま っ て きた の だ が,ま さ に そ の 瞬 間,山 頂 か ら 大 き な 火 柱 が 立 ち の ぼ っ た 。 神 の 怒 りで あ る そ の 火 に 驚 い た 襲 撃 者 一 団 は,武 器 を す て ラ ク ダ ま で も 残 し て 逃 げ て い っ た 。 こ の 時 の 殉 教 事 件 の 様 子 は,現 在 も 聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 南 チ ャペ ル に 碑 文 と な っ て 残 っ て い る 。 ジ バ ー リ部 族 の 言 い 伝 え で は,修 道 士 殺 し の 集 団 は バ ニ ー サ ー

リ フ と い う イ ス ラ ム 以 前 の ア ラ ブ 人 集 団 で あ り,彼 ら を 追 い 散 ら す た め に 神 が ラ ー ス サ フ サ ー フ ァ と い う場 所 に 火 を 出 現 さ せ た の だ と い う。

  さ ら に 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 に 伝=わ る 文 書 に よ れ ぽ(Lewis  1971:7),こ の 事 件 と相 前 後 し て,ラ イ ス(Raithu)つ ま り現 在 の ト ゥ ー ル に,ブ レ ン ミス と よ ば れ る異 族 集 団 が 上 陸 し て き た 。 こ の た め,フ ァ ラ ン び と(Pharanites)つ ま り ワ ー デ ィ ・ フ ェ イ ラ ー ソ の ア ラ ブ 系 住 民 二 百 人 が ラ イ ス に 直 行 し た 。 ブ レ ソ ミ ス は,修 道 士 の み な ら ず, 女,子 ど も も 含 む ラ イ ス の 住 民 を 殺 害 した が,フ ァ ラ ン び と の 手 で 全 員 が 諌 殺 さ れ た 。   ジバ ー リ部 族 が 伝 え る バ ニ ー サ ー リ フ と い う集 団 は,お そ ら く 『コ ー ラ ン』中 に ア ッ

ラ ー の 罰 を うけ て 滅 び た 過 去 の 民 族 と し て 登 場 す る サ ム ー ド族 の 一 集 団 と 関 係 が あ る の だ ろ う。 こ れ ら の 集 団 と つ な が りが あ っ た と思 わ れ る,ナ ビ ー ・サ ー リ フ の 聖 者 廟 や モ ー ゼ 山 頂 の 岩 に 残 さ れ た 雌 ラ ク ダ の 足 跡 な ど は,現 在 で も ジ バ ー リ部 族 を は じめ とす る 周 辺 諸 部 族 の 信 仰 の 対 象 と な っ て い る 。 ま た,ブ レ ン ミス と よ ば れ る 民 族 集 団 は,ナ イ ロ ・サ ハ ラ 系 の 民 族 集 団 で あ り,現 在 の ス ー ダ ン 北 東 部 に 住 む ベ ジ ャ人 で あ っ た と考 え ら れ て い る(Skrobucha  1966:26)。 彼 ら は 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 が 建 設 さ れ た 時 期 を 中 心 に,シ ナ イ 半 島 南 部 を 含 む 紅 海 沿 岸 地 域 を 襲 っ て は 略 奪 行 為 を 繰 りか え

し て い た 。

  周 辺 の ア ラ ブ 系 住 民 や 他 の 集 団 が 修 道 士 を 襲 撃 した と い う記 述 は,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 記 録 や 巡 礼 者 た ち の 記 述 の な か に 頻 繁 に 登 場 す る。 そ の よ う な 事 実 は 否 定 で き な い と して も,こ の よ う な 記 録 は 「野 蛮 な 砂 漠 の 略 奪 者 で あ る ベ ド ウ ィ ン(砂 漠 の サ ラ セ ソ人=ア ラ ブ 遊 牧 民)」 と い う イ メ ー ジ を こ と さ ら に 強 調 し,ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス 1世 か ら援 助 を と りつ け る た め の 方 便 と して 利 用 さ れ た 色 あ い が 濃 い 点 を 忘 れ て は な ら な い 。 七 世 紀 に イ ス ラ ム 教 が 興 り,イ ス ラ ム 教 徒 と な っ た ア ラ ブ 遊 牧 民 が 大 量 に シ ナ イ 半 島 南 部 に 入 っ て き て,聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 が イ ス ラ ム 世 界 の な か の 孤 島 の よ う

(12)

西 尾    中 東 イ ス ラ ム世 界 に お け る 「聖 者 」 発 生 の社 会 的 ・認 識 的 メ カ ニズ ム

な 存 在 に な る と,こ の よ うな イ メ ー ジ戦 略 的傾 向 は,時 の権 力 と保護 関 係 を結 ぶ た め に 強 化 され て い った 。

 十 五 世 紀 末 か ら十 六 世 紀 に か け て 急激 に ベ ドウ ィ ンに よ る襲 撃事 件 の記 録 が 増 え て くるが,そ の理 由 と して は 次 の 二 つ が あ げ られ る。 一 つ には,ち ょう どそ の ころ ア ラ ビア半 島 で多 くの部 族 が 大 移 動 を 開始 した た め に南 シ ナ イで も現在 の部 族 分 布 に つ な が る よ うな部 族 関 係 の 激 変 が あ り,南 シナ イ全 体 が 不 穏 な状 況下 に あ った。 さ らに, イ ス ラム世 界 の覇 者 と して 新 た に オ ス マ ソ帝 国が エ ジ プ トに も支配 を拡 大 して きた た め,聖 カ トリー ヌ修 道 院 側 で は,新 た な 国際 情 勢 のな か で 南 シナ イ 内 で の地 位 を 確 立 して お く必 要 が あ った 。

2.4聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 と ジ バ ー リ部 族 の 関 係

  こ の よ うな 歴 史 的 起 源 を 持 つ ジ バ ー リ部 族 が 南 シ ナ イ に 強 制 移 住 さ せ ら れ た と き, 彼 ら と 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 の 関 係 は ど の よ うな も の だ っ た の だ ろ うか 。

  ジ バ ー リ部 族 は い く ぶ ん 誇 りを も っ て 自 分 た ち の こ と を 今 で も,ア ウ ラ ー ド ・ア ッ デ イ ル と 呼 ぶ 。 「(聖 カ ト リー ヌ)修 道 院 の 子 ど も た ち 」 と い う意 味 で あ り,自 分 た ち と 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 と の あ い だ に 存 在 す る特 別 に 親 密 な 関 係 が 表 現 さ れ て い る 。 ま た 一 方 で,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 と の 隷 属 的 な 関 係 を 表 現 す る もの と して,ジ バ ー リ部 族 は ス ィバ ー イ ェ ト ・ア ッ デ イ ル,つ ま り 「(聖 カ ト リ ー ヌ)修 道 院 の 農 奴 」 と も よ ぼ れ る。 これ と対 照 的 に,聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 と の 契 約 関 係 に よ っ て,聖 カ ト リー ヌ 修 道 院 へ 運 ぼ れ る 物 資 や 巡 礼 の 輸 送 と護i衛 を 受 け 持 つ 他 の 諸 部 族 は,「 番 人 」 と い う 意 味 の ガ フ ィ ー ル と い う言 葉 で よ ば れ る。 現 在 エ レ ガ ー ト,ア ウ ラ ー ド ・サ イ ー ド,

ム ゼ イ ナ,ア ワ ー ル マ の 諸 部 族 が ガ フ ィ ー ル と し て 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 と契 約 を 結 ん で い る 。 と く に ア ワ ー ル マ部 族 は か つ て ジバ ー リ部 族 の 護 衛 の 任 に つ い て い た 。   選 ぼ れ た 民 と い う意 味 も こ め て,ジ バ ー リ部 族 は 自 ら を 「修 道 院 の 子 ど もた ち 」 と 呼 ぶ の だ が,南 シ ナ イ に 関 す る歴 史 書 や 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 の 文 書 な ど で は,彼 ら の 素 性 を 描 写 す る の に 「奴 隷 」 や 「農 奴 」 と い っ た 言 葉 が 使 わ れ る 。 た と え ば 中 世 の 聖 カ ト リー ヌ 修 道 院 文 書 に は,「 王 ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス は 宣 言 す る 。 子 々孫 々 に い た る ま で,彼 ら[=ジ バ ー リ部 族 コ は 修 道 院 の 奴 隷(ア ビ ー ド)と な り,修 道 士 に 従 うべ し。

神 が 地 上 に あ る 全 て を 再 び 支 配 す る ま で 変 わ る こ と な し。 彼 ら が 犯 せ し あ や ま ち は, 修 道 士 の 手 に よ っ て 戒 め られ,罰 せ ら る る べ し」 と あ る(Bailey  l985:34)。

  ギ リシ ア お よ び エ ジ プ トに い た と さ れ る ジ バ ー リ部 族 の 祖 先 が,実 際 に 農 奴 あ る い は 奴 隷 と 規 定 で き る よ う な 境 遇 に あ っ た か ど うか に つ い て は,残 念 な が ら 拠 る べ き 史

(13)

      国立民族学博物館研究報告  25巻4号 料 も な く て よ くわ か ら な い 。 聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 文 書 に ジ バ ー リ部 族 に 関 す る 文 章 が 頻 出 す る よ うに な る の は,十 四 世 紀 か ら十 六 世 紀 に か け て で あ る 。 後 述 す る よ う に こ の 時 期 に は,新 参 部 族 が 大 挙 し て 南 シ ナ イ に お し よ せ て き た り,オ ス マ ン朝 の 台 頭 に よ っ て イ ス ラ ム世 界 全 体 を め ぐ る 国 際 状 況 が 劇 的 に 変 化 した り し た 。 そ れ に 応 じて 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 と ジ バ ー リ部 族 お よび 他 の ア ラ ブ 諸 部 族 を め ぐ る 南 シ ナ イ の 地 域 内 関 係 が 大 き く変 動 し た た め,こ の 時 期 に は ジ バ ー リ部 族 の 起 源 と役 割 を 再 確 認 す る 作 業 が 作 為 的 に 行 な わ れ た と思 わ れ る 。 こ の た め ジ バ ー リ部 族 を め ぐ る 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 の 文 書 は,文 書 ご と に そ の 扱 い 方 が 微 妙 に 違 っ て い る 。

  ジ バ ー リ部 族 と聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 関 係 を 記 した 最 古 の も の は,ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス1世 と 同 時 代 人 だ っ た プ ロ コ ピ ウ ス の 記 述 で あ り,ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス1世 が 修 道 士 の た め の 教 会 と い っ し ょに 「た い へ ん 強 固 な 砦 」 を 建 設 し,そ の な か に 「兵 士 た ち の り っ ぱ な 駐 屯 地 」 を 設 け た,と 記 さ れ て い る(Mayerson  l978;Nandris  l990:

52)。 ま た 西 暦 十 世 紀 に エ ウ テ ィ キ ウ ス が 著 わ したr年 代 記 』 で は,ジ パ ー リ部 族 の 祖 先 に 対 し て 「家 内 奴 隷(召 使)」 と い う表 現 を 使 っ て お り,「(ジ バ ー リ部 族 は)修 道 院 と修 道 士 た ち を 警 護 し,彼 ら の 生 活 物 資 を 供 給 す る … …(彼 らが 集 ま り住 ん だ) 場 所 は 今 日Dir  ol Abidつ ま り奴 隷 の 修 道 院 と よ ば れ る 」 と 述 べ て い る(Mayerson 1978;Nandris  1990:55)。  Dir ol Abidの ア ビ ー ド とは 奴 隷 で あ り,ラ テ ン語 の 訳 と し てservorumが あ て ら れ て い る 。 こ れ と 同 じ地 名 は 残 っ て い な い が,最 有 力 の 候 補 地 は 「奴 隷 の ワ ー デ ィ(澗 れ 谷)」 を 意 味 す る ワ ー デ ィ ・ス ィバ ー イ ー エ で あ る。 ジ バ ー リ部 族 の 伝 承 に よ る と,彼 ら が 最 初 に 住 み つ い た 村 は こ こ に あ っ た と い う。 さ ら に エ ウ テ ィ キ ウ ス は,ジ バ ー リ 部 族 が 「修 道 院 の 子 ど も た ち,あ る い は 奉 仕 者 (pueri【seu servi】monasterii)」 と よ ば れ て い る,と 付 け くわ え て い る 。 エ ウ テ ィ キ ウ ス は ア レキ サ ン ド リア の 総 司 教 に ま で な っ た 人 物 だ か ら,彼 の 記 述 に は 教 会 側 の 立 場 が 反 映 し て い る と 考 え ね ぽ な ら な い が,そ れ で も ジ バ ー リ部 族 の 祖 先 が 妻 子 を と も な っ て 家 族 単 位 で 移 住 した こ と や,修 道 院 そ の 他 の 建 物 の 建 設 に も 関 わ っ た こ と な ど か ら,移 住 当 初 の 彼 ら は,血 縁 や 地 縁 で 結 ば れ た 民 族 集 団 と い う よ りむ し ろ,修 道 院

の 警 護 と修 道 士 の 身 辺 雑 事 の 世 話 の 二 つ を 基 本 的 役 割 とす る,様 々 な 技 術 を も っ た 人 び と の 集 団 で あ っ た よ うだ 。 お そ ら く そ の た め に,集 団 維 持 シ ス テ ム と し て の 部 族 組 織 が 未 熟 だ った と思 わ れ る 初 期 の こ ろ は,彼 ら の あ い だ で 内 紛 が 絶 え な か っ た と エ ウ

テ ィ キ ウ ス は 伝 え て お り,多 くの 人 命 が 失 わ れ た ら し い 。

  六 世 紀 の ビザ ン ツ 皇 帝 の 布 告 に よ り,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 は ラ ク ダ で 三 日 と三 分 の 一 日分 の 行 程 の 範 囲 内 に あ る地 域 を 主 権 の 及 ぶ 場 所 と して 下 賜 さ れ た が,こ れ に よ っ

(14)

西尾  中東 イスラム世界におけ る 「聖 者」発生 の社会的 ・認識的 メカニズム

て 実 質 的 に 南 シ ナ イ 全 土 が 聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 の 管 轄 地 と な っ た 。 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 の 近 辺,シ ナ イ 山(モ ー ゼ 山),ラ ー ハ 平 原,ワ ー デ ィ ッ デ イ ル,ジ ャバ ル ッ デ イ ル に お け る修 道 士 以 外 の 居 住 を 禁 じ,と くに ジ バ ー リ部 族 に 対 して は,聖 カ ト リー ヌ 修 道 院 よ り徒 歩 で 半 日以 上 は な れ た 場 所 に 住 居 を か ま え る よ う要 求 した 。 そ の 上,家 や 農 園 を 作 る場 合 は 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 側 の 許 可 が 必 要 だ っ た し,同 じ場 所 で 増 築 す る 場 合 に も聖 カ ト リー ヌ修 道 院 へ の 登 録 義 務 が あ っ た 。 ジ バ ー リ部 族 が イ ス ラ ム教 に 改 宗 して か ら は,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 許 可 が あ れ ぽ,モ ス ク な ど の 宗 教 施 設 や 聖 者 廟 を 建 て る こ と が で きた が,そ の 場 合 で も,聖 域 と し て の キ リス ト教 的 風 景 を 損 な わ な い と い うの が 必 須 条 件 だ っ た 。 ま た,農 園 の 収 穫 物 の う ち 半 分 を 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 へ 強 制 的 に 献 納 し て い た 。 こ の よ うな 隷 属 的 関 係 は,基 本 的 に 変 わ る こ と な く1967 年 に シ ナ イ 半 島 が イ ス ラ エ ル に よ っ て 占 領 さ れ る ま で 続 い て い た 。

  ジ ・ミー リ部 族 は 聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 に 隷 属 的 に 奉 仕 し て は い た が,修 道 士 た ち に し て も,世 俗 的 な 日常 生 活 で は ジ ・ミー リ部 族 に 依 存 せ ざ る を え な か っ た の で あ り,過 酷 な 自 然 風 土 を 考 え れ ば,両 者 の あ い だ に 共 生 的 な 関 係 が 生 ま れ て き た の は 自然 の 成 り 行 き だ っ た だ ろ う。 そ の よ う な 共 生 関 係 を 象 徴 す る の が,聖 カ ト リ ー ヌ修 道 院 か ら の パ ン の 配 給 で あ る 。 ト ゥバ ー ラ と よ ば れ る パ ン に よ る 施 し は 九 世 紀 ご ろ は じ ま った と 言 わ れ て お り,現 在 で もか た ち を 変 え て 存 続 し て い る 。 エ ケ ソ ス タ イ ソ の 『シ ナ イ 半 島 の 歴 史 』 に よれ ば,1393年 に は パ ン を 求 め る 全 て の べ ド ウ ィ ン と 巡 礼 者 に 毎 日二 斤 分 の パ ン が 施 さ れ た(Eckenstein  1921:163)。1483年 に 聖 カ ト リー ヌ修 道 院 を 訪 れ た フ ェ リ ク ス ・フ ァ ブ リは,八 十 人 か ら 百 人 ほ ど の べ ド ウ ィ ソが 日 々 の パ ン を 分 け て も ら っ て い る場 面 を 目撃 し て い る し(Prescott  1958:79),同 じ く1615年 に は ピ エ ト ロ ・ デ ラ ・ヴ ァ レが,「 夜 に 到 着 す る と,門 は 閉 め ら れ て お り,何 百 人 と い う ア ラ ブ 人 が 壁 の 下 に テ ン トを 張 っ て,パ ン の 施 し を 乞 うて い た 」 と 述 べ て い る(Ritter  l 866:

173)。1658年 に ジ ャ ソ ・テ ヴ ノ は 壁 の 外 で パ ン を 求 め て わ め い て い る 四 百 人 以 上 の べ ドウ ィ ン を 見 た(Eckenstein  1921:178)。 聖 カ ト リー ヌ修 道 院 が 配 給 す る パ ンは 相 当 量 に の ぼ り,1920年 代 か ら30年 代 の 記 録 に よ る と(She且k  1926:14;Jarvis  l932:

230;Golding  l937:131),成 人 男 子 一 人 に つ き パ ン五 斤,子 ど も は 三 斤,と くに 族 長 に は 八 斤 と い う割 合 で あ っ た 。普 通 は 一 日お き だ が,パ ソ の 配 給 が 毎 日 と い う年 もあ っ た 。

  こ れ ら の パ ン の 原 料 は エ ジ プ ト本 土 の ナ イ ル 川 流 域 で 収 穫 さ れ た トウ モ ロ コ シ で あ り,聖 カ ト リ ー ヌ 修 道 院 の 訪 問 者 た ち の 目撃 談 に よ れ ぽ(Tischendorf  l 851:112;

Palmer  1871:61;Dobson  l925:107;Golding  1937:131),修 道 士 た ち が 食 べ て い る

(15)

      国立民族学博物館研究報告  25巻4号 もの と比 べ て も必 ず しも上 等 で は な か った が,旱 魑 とそ れ に 続 く飢鐘 とい う南 シ ナイ の過 酷 な気 候 条 件 に 左 右 され る不安 定 な食 料 事 情 を考 え る と,聖 カ トリー ヌ修 道 院 が 施 す パ ンは 文 字 どお り 「生命 の パ ン」 で あ った と言 って も過 言 で は な い だ ろ う。 そ の 意 味 で,隷 属 的 な 境 遇 に あ きた らぬ ジバ ー リ部 族 を つ な ぎ とめ る 「飴 」 で あ った と同 時 に,と きに は 聖 カ トリー ヌ修 道 院 側 に反 す る ジバ ー リ部 族 に対 す る 「鞭 」 と して 利 用 され た 。 た とえ ば1920年 代 に実 際 に あ った こ とだ が,ジ バ ー リ部 族 の あ る一 家 が 聖 カ トリー ヌ修 道 院所 有 の農 園 をむ りや り自家 の農 園 に して し まお う と した とき,修 道 院 側 は 全 部 族 民 へ の パ ンの 配 給 を や め て し ま っ た(Field  l952:92;Murray  1935:

266)。 こ の と きは エ ジ プ ト政 府 の 仲 裁 に よ り修 道 院側 の 言 い分 を認 め て 一 応 は お さ ま った もの の,ジ バ ー リ部 族 側 の抵 抗 が は げ し くて,修 道 院 に よる配 給 停 止 処 分 が効 を 奏 さな か った と き もあ る。1958年 には,数 人 の 少 女 が妊 娠 して い るふ りを して,余 分 に パ ソを も らお う と した 事 件 が 起 こ った(Hobbs  l995:147)。 聖 カ トリー ヌ修 道 院 側 は,パ ンの配 給 を受 け る婦 人 は そ の 配偶 者 とい っ し ょで なけ れ ぽ な らな い と要 求 した が,そ れ に対 して ジバ ー リ部 族 側 は,こ の要 求 は公 的 場 面 では 男 女 は 基 本 的 に席 を 同 じく しな い とい う部 族 の 社 会 慣 行 を無 視 して い る と し,要 求 の撤 廃 を 求 め て族 長 の 号 令 の も と聖 カ トリー ヌ修 道 院 で働 くジバ ー リ部 族 民 の ス トライキ を 行 な った。 聖 カ トリー ヌ修 道 院 側 は 要 求 を ひ っ こめ,さ らに修 道 院 で奉 仕 活 動 に 従 事 す る労働 者 を 人選 す る権 限 を ジバ ー リ部 族 の 族 長 に ゆ だね る と ころ ま で譲 歩 した 。1950年 代 に な っ て エ ジ プ ト政 府 は,小 麦 粉 ・米 ・紅 茶 ・砂 糖 ・食 料 油 な どの 生 活 必需 品 を支 給 す る と い う経 済 政 策 を 南 シ ナイ地 域 で も実施 したが,同 様 の政 策 は イ ス ラエ ル 占領 下 で も続 行 され,「 パ ン」 を め ぐ って培 わ れ た 聖 カ トリー ヌ修 道 院 と ジバ ー リ部 族 の 歴 史 的 関 係 は 劇 的 に変 化 した 。 パ ソ配 給 は現 在 で も行 なわ れ て い るが,そ れ は 日々 の糧 を施 す とい う意 味 で は な く,聖 カ トリー ヌ修 道 院 とジバ ー リ部 族 の 関 係 を 象徴 す る ため の極 め て象 徴 的 な 行 事 とな って い る。 これ を物 語 るか の よ うに,ジ バ ー リ部 族 はか つ て の パ ンをめ ぐる攻 防 をす っか り忘 れ,む か しは 部 族 民 が 望 め ぽ い つ で も欲 しい ときに 欲 しい だ け 修 道 院 か らパ ンを も らえた とい う昔 ば な しに して し ま って い る し,修 道 士 の 側 で も,パ ンを こね る作 業 が ジバ ー リ部 族 民 と修 道 士 の あ い だ で行 なわ れ る唯 一 の 共 同作 業 で あ る と して,両 者 の 幸 福 な 共 生 時代 を 「古 き良 き時 代」 とな つ か しむ ほ どだ。

  「パ ン」 の 配給 にみ る聖 カ トリー ヌ修 道 院 と ジバ ー リ部 族 の関 係 の変 化 は,も ち ろ ん 一 朝 一 夕 に で は な く,両 者 が 暮 らす シナ イ 半 島 南部 の社 会 変 化 に と も な って 徐 々に 起 こ った もの で あ る。 と りわ け,イ ス ラ ム教 勃 興 以 後 の ア ラブ諸 部 族 の進 入 に よ る地 域 内 社会 関係 の変 化 と,近 代 以 降 と くに 二 十世 紀 に お け る シナ イ半 島 を め ぐる国 際 関

(16)

西尾  中東イスラム世界における 「聖者」発生の社会的 ・認識的メカニズム

係 の 変 動 と貨 幣経 済 の導 入 に よる社 会 経 済 的 変 化 が,大 きな 影 響 を も って いた 。   聖 カ トリー ヌ修 道 院 に と って は,ジ バ ー リ部 族 以 外 の 他 の ア ラ ブ諸 部 族 との友 好 関 係 の 維 持 は,彼 らの生 活 の支 え で あ る ジバ ー リ部 族 を 含 め た修 道 院 の財 産 と彼 ら 自身 の 安 全 の た め に不 可欠 だ った し,南 シ ナ イで の 政 情 不 安 定 は エ ジ プ ト当局 か らの 政 治 的 干 渉 を 招 く結 果 に な ったか ら,地 域 内 に 聖 カ トリー ヌ修 道 院 の権 威 を徹 底 させ て お く必 要 が あ った。 聖 カ ト リー ヌ修 道 院 へ や って くる巡 礼 者 た ち の安 全 確 保 も重 要 で は あ った が,ヨ ー ロ ッパ ・キ リス ト教 世 界 か ら財 政 的 支 援 を 得 る た め に は,聖 カ トリー ヌ修 道 院 が 野蛮 な異 教 徒 の 国 に位 置 す る こ とを 強 調 して お く必 要 が あ っ た。この た め, 聖 カ トリー ヌ修 道 院文 書 を は じめ とす る多 くの 公 式 記 録 の な か に は,ア ラブ部 族 民 の 野 蛮 で残 酷 な略 奪 行 為 を必 要 以 上 に 強 調 して い る場 合 もあ るの を忘 れ ては な らな い 。   一 方 の ジバ ー リ部 族 も,他 の ア ラブ諸 部 族 との 関 係 に は 気 をつ か った。 身 を 守 るた め だ け で は な く,父 祖 の地 とは ま った く自然 環 境 を 異 に す る 南 シナ イ の砂 漠 に 適 応 し て 生 活 しな けれ ば な らなか った か らで あ る。 聖 カ トリー ヌ修 道 院 は,時 宜 に 応 じて 特 定 の部 族 と友 好 関 係 を結 んだ り,部 族 間 の 不 和 を あ お った りとい う攻 略 的 な 動 きを 繰 りか え し,ジ バ ー リ部 族 もそ の中 に 巻 き込 まれ て い った。 しか し同様 に ジバ ー リ部 族 の 方 で も,聖 カ ト リー ヌ修 道 院 の 権 威 と周 囲 の 諸部 族 間 の 関係 をた くみ に 利 用 しな が ら,聖 カ トリー ヌ修 道 院 との 関 係 も含 めた 社 会 的 境 遇 を 改 善 しよ うと努 め た の で あ る。

2.5南 シ ナ イ の べ ド ウ ィ ン 社 会 と ジ バ ー リ部 族

  南 シ ナ イ に 住 む ベ ドウ ィ ン 諸 部 族 は,ト ゥ ー ル(al‑T亘r)の 地 名 に ち な ん で トワ ラ (Tuwara)と 総 称 さ れ,テ ィ ー(Tih)荒 野 に ち な ん で テ ィ ヤ ー ハ(Tiyaha)と よ ぼ れ る北 シ ナ イ の 諸 部 族 と区 別 さ れ て い る 。 現 在,ジ バ ー リ部 族 を 含 む シ ナ イ 半 島 の べ

ドウ ィ ン は イ ス ラ ム 教 徒 で あ る 。

  南 シ ナ イ の 山 岳 地 帯 に は 現 地 語 で 「ナ ワ ー ミー ス 」 と よぼ れ る,紀 元 前 四 千 年 ご ろ の 住 居 跡 が 残 っ て い る が,彼 ら が ど の よ う な 系 統 の 集 団 だ っ た の か 詳 し い こ と は わ か っ て い な い 。 も っ と も,そ の 住 居 構 造 は 現 在 の 中 近 東 に い る 遊 牧 系 諸 集 団 の も の と 類 似 し て い る ら し い 。 フ ァ ラ オ 時 代 に な る と セ ラ ー ビ ト ・ハ ー デ ム な ど の 銅 鉱 山 で は 古 代 エ ジ プ ト人 の 奴 隷 が 働 き,モ ー ゼ の 率 い る ユ ダ ヤ 人 集 団 が シ ナ イ の 砂 漠 を さ ま よ っ た 。 古 代 エ ジ プ ト人 の 鉱 山 労 働 者 が エ ジ プ ト文 字 を ま ね た 文 字 を 記 し た の が 原 シ ナ イ 文 字 碑 文(Proto‑Sinaitic  Inscription)で あ り,現 在 の ロ ー マ 字 系 ア ル フ ァベ ッ トの 起 源 と考 え られ て い る 。 修 道 士 が モ ー ゼ 山 周 辺 に 隠 棲 しは じめ る 三 世 紀 ご ろ ま で に は,ワ ー デ ィ ・ フ ェイ ラ ー ン を 中 心 に ナ パ テ ア 系 の 人 び と が 住 ん で い た こ とが 確 認

参照

関連したドキュメント

[r]

[r]

41 22mm 最大 4 行 (BP84-452 用) 1.入力する負荷名称の選択 入力する負荷名称のラベル位置を指定します。

3 中東航空会社の高い品質(図表9参照)

[r]

完熟期) 試験2として、収穫時期の違いによる影響につ

  中学校社会科に関連する伝統や文化に関する授業開発

<有価証券や金銭のお預りについて> 株式、優先出資証券等を当社の口座へお預けになる場合は、1 年間に