生涯学習と自己形成
宮 坂 広 作 1.はじめに――家郷と人間形成――
人間は、生れることによって人間になる。人間としての生命を得なければ、人間に はなれない。人間にとって誕生とは、人間になるための最初の難関である。「生みの 苦しみ」といって、出生させる側の母親の痛苦を思うことばがあるが、出生の当事者 として産児が味わう痛苦もあるにちがいない。われわれは自分の出生時のことを記憶 していないのだが、意識下に刻み込まれているのかもしれない(1)。
筆者のばあい、出生時に母親にひどく迷惑をかけた、という。母親自身はあまりそ のことを言い立てて筆者に感謝させようとした訳ではないが、祖母や姉がそれを語っ た。そもそも、筆者が生れる数年前、母は腹膜炎を病んで手遅れのため、一時重篤な 状態に陥ったことがある。名医の治療を受けることができて、母は九死に一生の幸運 に恵まれた。しかし、その医者は母に、「こんご出産は無理だと思うので、いまいる 子どもを大切に育てなさい」と助言した、という。母はそれまでに女・男・女と三人 の子を生んだが、あととりの男児が五歳のとき不慮の事故で死んでしまっていた。父 母が百姓仕事をしていたので、この子は姉や遊び相手の子どもたちと鬼ごっこに興じ ていたのだが、高い石垣の上から誤って転落し、頭を強打したのである。子どもたち からの通報も遅れ、市街地まで4キロメートルの坂道を戸板で運ばれて医院に担ぎ込 まれたのだが、けっきょく助からなかった。
父母は、この子が並はずれて聡明だったのにと、その死を深く悲しんでいた。隣家 の藤原光蔵翁は、しょっちゅうわが家に遊びに来て、父と碁を打って楽しんでいた が、この子のことをかわいがり、「大事に育てなさい。見所のある子だから、将来ひ とかどの人物になるにちがいない」と父母に言っていたという。東京帝大理学部教 授・中央気象台長だった藤原咲平博士を育てた人のことばである。父母はこの子を大 切に育てたはずだが、農業に従事している以上、田畑に出なければならず、保育所も なかった当時のこととて、子どもたちの遊び集団に託すしかなかった。村の子ども は、みんなそうして育ったのである。急な傾斜地の多い山村だから、子どもの事故は 多発した。町までたった一里の道は舗装がなく、石ころだらけの急坂であった。救急 車もない時代では、救いようがなかったのだが、父母の悲嘆ぶりは深刻であった。
そのころの家族制度のもとでは、男子の跡継ぎを生むことが嫁の最大の義務であっ
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た。母は医者の忠告にさからって、筆者を生む決意をした。「生命を賭けて」と言っ ても、必ずしも誇張ではない。当然の報いとはいえ、癒着した腹膜などで、出産の痛 みは尋常でなかった。その上、母は小柄な身体だったのに、産児は育ちすぎて過大で あった。母は気丈な人で、「出産時の痛みで悲鳴をあげるのは女の恥」と心得ていた から、苦痛に耐えて、難産の末ようやく筆者を生んだ。この次男が亡くなった長男の ように、心やさしく利発な子であることを期待し、その期待の故に苦痛をこらえた母 に対し、期待はずれだった筆者はまことに申し訳なく思っている。
これが筆者の生れ、育った家郷である。徳川時代の初期に高島藩(諏訪藩)が新田 開発政策をとり、藩内各地に新田がつくられたが、わがむらはそのうちのひとつで、
藩から免許屋敷を与えられた草分けは五戸(六戸とも)だったという。山田の開発に は多大な労力が必要であり、火山灰地を耕すのは容易なことではなかった。谷川の水 を引いたので水温が低く、東西は霧ケ峰から流れ出した溶岩の山地になっているから 日照時間が限られ、米の収穫は毎年少なかった。気象条件の悪い年など、目も当てら れない状況となった。わが家は草分けのひとりであったが、どこから入植したかも分 からない。ここにも四百年以上住み着いて、代々農業に従事して来た。
わが家の祖先がいつから高島藩に出仕するようになったかも分からない。もちろ ん、士ではなく卒の身分だったわけだが、手広く農業を営みながら、隔日にお城勤め に出るという兼業によって、わが家はけっこう裕福になり、所有する土地も増えた。
勤め先の上士がかえって借金を申し入れてきたという話が伝わっている。幕末のころ の当主は、水戸浪士(天狗党)の西上を阻止しようとした高島藩の鉄砲組に編入され、
中山道樋橋の戦いに参加した。戦闘中捕虜になり、打ち首になるべきところ、服装や 佩刀が立派だったことと、撃剣の稽古の際の傷が面や小手にあったこととで、相当の 士分と誤認され、一行に参加するように説得を受けつつ、美濃境まで連行された。彼 はそこで監視の目をくぐって脱走し、木曽から伊那に出て故郷に帰った。
わが家が没落に向かったのは、祖父の代からである。少年時代から、山村には珍し い英才だなどとおだてられた祖父は、農業に従事することを好まず、若いときから政 治的野心を抱いていた。自由民権の思想に共感していたが、板垣退助が信州遊説に来 た折、家人には告げずにその一行に加わり、上京してしまった。慶応義塾に学んでい た祖父を説得して郷里に引き戻す役目は、親戚でもあり、親しくつきあっていた藤原 光蔵に一任された。帰郷した祖父は、農業よりも政治に力を注ぎ、上諏訪町議会・諏 訪郡会の議員などを勤めた。とくに諏訪郡会では若くして副議長となり、郡立病院問 題など多くの難問の解決に取り組み、その才腕を評価された。
祖父はこうして地方政界で名声は得たが、家計はしだいに苦しくなった。当時の議 員は名誉職で給与はなく、役職に就いていれば待合など酒食の費用を負担しなければ ならなかったという。篤農だった曽祖父の時代、かなり資産を持っていたわが家であ
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るが、祖父一代は典型的な井戸塀議員であった。父はこうした借金だらけの家を受け つぎ、借財の整理に苦しんだ。しかも父は病弱で稲作ができなかったので、水田は小 作に出し、養蚕で家計を立てることにした。嫁に来た母は、岡谷の生れで次兄が製糸 工場を経営しているのを手伝い、賄い方を仕切っていたが、養蚕の経験などなかっ た。嫁入り後、母は村の篤農たちに教えを乞い、自分でも工夫を重ねて養蚕の技術を 身につけた。春・夏・秋と年三回の養蚕で、失敗することはほとんどなかった。わが 家を経済的に再興した功績が母に帰すことは明らかである。
父も勤勉に働き、とくに蚕の餌である桑の枝を畑から切って来るのは父の役目で あった。蚕の数が多かったから、その旺盛な食欲を満たすために、父は終日桑を切 り、運ばなければならなかった。かなり強雨の日でもその作業を休む訳にはいかず、
切って来た桑の枝を乾かす作業が加わった。枝から葉を取り、乾燥させ、蚕が幼いと きは桑の葉を細断して供与しなければならない。蚕には夜間にも給桑することが必要 である。父は昼間の過労で夜は起き出すことができず、傭い人にも夜の作業は頼めな いので、母ひとりの仕事になった。筆者は、小学校の三〜四年生ごろから、母の夜間 作業を手伝うようになった。ばあいによっては夕食後いったん就寝し、やがて起き出 して手伝うこともあった。母は筆者の手伝いがあまり役に立たなかったころも、筆者 の気持ちを喜んでくれたし、多忙な母と昼間会話もできない筆者は、手伝いながら学 校であった話などできるのが嬉しかった。母と筆者の絆は、養蚕の手伝いの中でつく られたように思われる。筆者は母から少なくとも勤勉の美徳を学んでいるはずであ る。
父は家父長制時代の男主人であるから、わがままで独善的なところがあった。食事 の際に夫婦のあいだのいさかいが稀に起きたとき、口論では母にはかなわない父が、
食膳を蹴飛ばして激怒するようなこともあった。父は母の勤勉さや判断力を評価し、
母を信頼していたので、そんな振舞をすることはめったになかったが、それでも家計 の運営の上で意見が激しく対立することもあったのである。筆者はつねに母の味方で あったし、母の言い分の方が論理的・説得的なように感じて、父の暴力――といって も、父が母に手をあげたことは一度もなかった――を「大人気ない」と思って見てい た。父は反面教師だった訳である。
父は、当然妻や子に対して「お前を愛している」などと言ったことはない。そうい う父でも、筆者のことは父なりに愛していたのであろう。父は金まわりがたまたまい いとき、町場の方に行く用事があると、筆者に一緒に来るように誘った。駅のそばの 横道にいなりずしだけを商う店があり、父は筆者に「腹いっぱい食べろ」と言うの だった。今から考えるとその代価は信じられないほど安く、腹いっぱい食べたところ で知れたものであった。戦前上諏訪には競馬場があって、年間何回か競馬が開かれ た。父はそこにしばしば筆者を伴ったが、ギャンブルに関心のない父は馬券を買わ
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ず、そこに出店している食べ物屋が目当てであった。父の好物はイカ焼きで、筆者も それを美味と感じた。家庭ではついぞ食べたことのない珍味であった。筆者はそれを ほおばりつつレースの方も観て、サラブレッド――中間種だったのかもしれない――
の筋肉が陽光の中で躍動する美しさに見とれた。父が筆者だけをつれて町に行くこと を、二人の姉は羨ましくて不快に思っていたと、後年筆者に話したことがある。食い 物の恨みか、はたまた男子専制社会への憤りであったか。
筆者がこの狭小な山間地で、そこの自然に親しみ、子ども集団の中で揉まれ、家庭 や学校、地域社会の生活でどのような影響を受け、人間性がどう育てられたか、とき にはどう傷けられたかを克明に記述すれば、きりもないことであるし、そんなことを する必要もない。幼少期の生活の場である家郷というものが、人間の成長・発達に とって重要な働きをしていることは、これまでの記述でもかなり明らかになっている と思う。ここで家郷といっているのは、上諏訪町北郊、霧ケ峰山麓の峡谷、角間新田 という小集落のことであるが、故郷とか郷土といえば、上諏訪町・諏訪市・諏訪郡さ らには長野県(信州)ということになろう。上諏訪が小学校区、諏訪郡が旧制中学の 通学区であった。小学校の一〜二年は山の分教場で、つきあう相手は同じ集落の子ど もたちだけだった。三年生になり、町の本校に通学するようになって、毛色のちがう 町場の子どもと接し、中学に入って郡下のそれぞれの地域性を担っている個性的な少 年たちと知り合った。こちらの成長・発達につれて、コミュニティの範囲も広がって いった(2)。
信州人という意識を持ったのは、県立中学校に入ってからであろう。県下にはいく つも中学校があり、その中には伝統や上級学校への進学成績でわが中学を優越するも のもあることを教えられた。「○○中に負けるな、追い越せ」といったスローガンが しばしば聞かれた。これは競争心や敵愾心を煽るよりも、県下のどこにもひとかどの 人物や学校があり、ともに向上をめざして励んでいる若者同士だという、連帯感・仲 間意識のような心情を生み出した。そういう連中といずれ上級学校で一緒になり、友 情を結ぶことになるだろうという予感や期待があった。わが中学と同じく自治を校風 とする学校には、とくにつよい親近感をおぼえた。
信州人という連帯感を生み出すことに貢献したものとして、「信濃の国」という県 歌のことがよく知られている(3)。この歌は1899(明治32)年に長野県師範学校の教諭 によって作詞され、同校の卒業生が県下の小学校に赴任して生徒たちに教えたことか ら、ひろく県内に普及したものである。戦後にまで歌い継がれ、県内の学校や団体で 歌われる他、他郷に住む信州出身者が、県人会や同窓会の集会で歌って愛郷心を確認 しあっている。これは一種の教育唱歌で、長野県の地理や歴史が読み込んである。御 嶽・乗鞍・駒ケ岳などの山々を「国の鎮め」として、千曲川・木曽川・天竜川を「国 の固め」として誇っており、木曽義仲・仁科五郎信盛・太宰春台・佐久間象山が「文
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武の譽たぐい」なき先人として称揚されている。まさにお国自慢の歌なのである(4)。
「古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い」という終末のフレーズに注目すべき であろう。作詞者浅井烈は、このアイデアを内村鑑三の『地理学考』の中の「英雄出 所山水好」から学んだといわれる(5)。内村は、1899年4月に上田・長野を訪れている が、翌年からは毎年のように信州へ講演・伝道の旅行を行なっている。浅井が内村と 面談したか、内村の著作を読んだか確証はないが、浅井の弟子でのちに長野師範の同 僚になった浜幸次郎(諏訪郡中洲村出身)は、内村の『地人論』から明らかに深い影響 を受けていた。こういうアイデアは、その後長野県の学校の校歌に再三現出する。わ が母校、旧制諏訪中学第二校歌(1903=明治36年)の第八節に謳う。「ああ麗水に金砂 あり 崑岡玉を出すとか 乱麻を断つの英傑は 其の地人士の精粹の 凝りては出づ と知るや君」。旧制飯田中学校歌第四節は、「ああ白雲の谷深く 都の塵も通ひこぬ この山川のうちにこそ 誠の丈夫出づるなれ」である。
秀麗な自然が偉材を生むという原理を具体化すれば、土地の山川草木が黙示する 真・善・美に学ぶということである。旧制松本中学校では、槍が嶽に真理探究の志を 培い、旧制大町中学校歌では「山川の清きを己が心に」と歌う。旧制長野中学校歌で は、白馬の雪峰の「夏澄める姿ぞ我等がいのち」、うずまき流れる千曲川の「とまら ぬ力ぞ我等がいのち」となる。甲府中学の寄宿舎寮歌(1909=明治42年)では白根の雪 の霊が歌われているが、創立四十周年・五十周年記念歌では芙蓉がまっさきに仰ぎ見 られている。日川中学校歌(1901=明治34年)でも「朝日に香ふ富士の雪」が、都留中 学校歌でも「芙蓉八朶の露うけて」が冒頭に出てくる。
山紫水明の郷土を称え、清きこころの人となろうと訴えるのは、校歌のパターンで あり、ステロタイプにもみえるが、土地の人間として毎日親しんでいる山河の名前を 詠み込んだ歌は、生徒たちの心に沁みるものがあった。しかし、美しい自然環境に恵 まれて成育した人間が、すべて偉人となる訳ではないし、真・善・美の人になるとは 限らない。校歌は理念・理想を歌っているにすぎないのである。しかしながら、「信 濃にしるき秀麗の 湖山」のうちに育った筆者は、こんにち地球温暖化などの環境問 題に心を痛め、一市民としてもできる限り問題解決に努めようとしているわが心情を 培ったのは、故郷の自然だと思っている。霧ケ峰でのスキーや諏訪湖のボート練習 は、単なるスポーツではなく、自然(地霊)との交わり・語らいだったのである。
家郷を懐うというのは、ごく自然な感情である。そこに父母があり、旧友がいて、
自然あるが故に、ゴールデンウィークの渋滞にも耐えて、人びとは故里を目ざす。し かし、それに目を付けて「郷土愛」を教育目標にして、しかも「国家愛」の基盤にさ れたりすると、作為や利用の臭いを感じてしまう。戦前の日本で郷土愛が祖国愛に吸 収・拡大され、「郷土教育」がナショナリズムの方向に歪曲されていった歴史を知る 者にとって、教育基本法改変の政治的意図を勘ぐらざるをえないのである。盆に帰郷
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して慰霊の行事をするというのは、習俗として自然な行為であろう。それを「墳墓の 地」だとか「祖先崇拝」だとかいって、「伝統文化」だの「宗教的祭祀」だのと価値 付けようとする言説に対しても、やはり危険な雰囲気を感じ取ってしまう。自己の人 間形成にかかわった人びとや自然に対する感謝や慕情を、黒い手で
まれ、汚される ような不快感を禁じえない(6)。実は戦前の教育学の中に、「郷土の教育的意義」を強調し、「郷土の生活は一切の教 育の基礎であり、一切の教育は郷土の生活から出発し、且つ之に帰着せねばならぬ」
と主張する言説があった(7)。郷土こそは教育の基礎であり、すべての生れていく母胎 であるということをわれわれはまずしっかりと把握すべきであるとまで言って、郷土 の教育への復帰を説いているのである。この論者は、ペスタロッチの「生活は陶冶す る」という命題を信奉し、生活そのものが教育の基礎であることは、すぐれた教育学 者のひとしく認識するところであった、と指摘する。
郷土とは、児童が直観できる手近な生活範囲であり、生活体験が拡まるとともに郷 土の範囲も拡まっていくので、家庭生活から始まって民族的・国家的郷土にまで生活 領域が拡がっていくこと、その拡がり方は同心円の拡大にたとえられるべきだ、と彼 は言う。それ故に、子どもが最初に接する狭い郷土(家・近隣社会)は、民族的郷土 の鏡であり、言語・風俗習慣・衣食住・道徳・社会的秩序・神話伝統・音楽・舞踊・
播種・収穫等々、さらには世界観に至るまで、郷土生活は民族生活の郷土に応じた形 態であるにすぎない、というのである。したがって、子どもの郷土生活の範囲が拡が るにつれて、子どもの郷土感・郷土意識はそのままに民族意識として顕現されていく のだ、と説いている。
戦後の教育改革期にも、コミュニティと結びついた地域教育計画づくりがいっとき 流行した。そこでは戦前とちがって、国家や民族と同心円的な地域社会ではなく、住 民の生活の場としての地域社会における生活の向上と民主化が目ざされた。その目標 と結びついて学校教育の改造が志向されたのであった。こうした運動はおおむね挫折 したとみなされているが、挫折の理由について、社会的変動という外的要因と、教育 計画・実践にかかわる内在的要因の両者について精査されるべきである(8)。
2.人間の社会的形成
人間は社会的存在である。社会の中に生まれ、そこで成長し、職に就き、結婚して 家庭をつくり、子どもを育て、やがて老年期には職を退き、老衰して死んでいく。も ちろん、これは大多数の人のばあいについて言っているのであって、こうした人生 コースを辿らぬ人もいるわけだが、いずれにせよ、人間は社会に生まれ、社会に生 き、死ぬときも社会的な関わりを離れられない。家庭で死のうと、病院で死のうと、
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家庭も病院も社会の一部である。そのように言えば、人は生涯――ばあいによっては 死んだあとまで――、社会にまといつかれ、しばりつけられているような印象を与え るかもしれないが、人は社会から多かれ少なかれさまざまな恩恵を受けている。
人は生れる前から生れたあとまで、家族にめんどうをみられている。胎児は母親の 胎内に10ヶ月前後保護されて、誕生の日を迎えることができる。その母親は社会の中 で生活しているのだから、胎児もまた社会の影響を受けて発達していく。母親が職業 を持っていて職場に勤めているようなばあい、胎児は家庭生活だけでなく職場生活を 間接に体験していることになる。母親が家庭や職場でどんな生活をし、どんな人間関 係を持っているか、それによってどんな心理・意識になっているかが、胎児の発達に 重要な影響を与えるといわれる(9)。
こんな当たり前のことを書き列ねてもしかたがないのだが、一見社会とは直接ふれ 合っていないようにみえる胎児や乳児でも、母親や家族を媒介にして社会と関わり 合っていることを確認したのである。児童期・青年期・成人期と、人間が成長・発達 するにつれて、社会との関係はますます濃密になっていく。人間は社会に生き、社会 によって形成される。この、人間が社会によって人間に形成されていくプロセスを
「社会的形成」とよぶことにしよう。「社会的人間形成」を縮めたものだが、人間形 成が社会的に行なわれるのは自明だと考える人は、単に「形成」といってすますだろ う(10)。
上記の「社会的形成」あるいは「形成」のことを、社会学では「社会化」と呼んで きた。社会化(socialization)とは、「個人が他者との相互行為を通して、諸資質を獲 得し、その社会(集団)に適合的な行動のパターンを発達させる過程」、すなわち「人 間形成の過程」を意味する。社会システムの観点から言えば、個人が自己の役割を獲 得する過程であり、それは社会システムが存続するための条件である。ここであげた
「役割」こそは、社会学の重要な概念であり、これをめぐって研究が発展してきたの で、その所説についてひととおり記述しておくことにしよう(11)。
まず「役割」(role)という概念についてであるが、「特定の社会的場面において行 為者は一定の地位(位置)を占めるが、その地位にふさわしいものとして社会(集団)
が用意し、期待する行動様式を身につけなければならない」ことから構成されたもの である。行為者は、さまざまな社会的場面で自分の地位と関係のある人びととのあい だで社会的相互作用を行なうが、行為者はその際社会(集団)が要求する一定の行動 様式で行為しなければならない、ということである。社会(集団)の秩序をまもろう とすることから、行為者の役割への期待や圧力がつよいと、行為者は役割規範を順守 せざるをえなくなる。このばあい、行為者は自我や主体性を殺して、型にはまった行 動様式に従い、与えられた役割を演技する。
役割理論というのは、環境に個が従属し、主体性を放棄する適応理論のように思わ
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れるが、実はそうでもない。役割規範や役割規定が明確でないばあいや、規範・規定 が複数で相互に矛盾しているばあいは、役割の担い手が行動様式を習得したり、実行 することが困難になる。また、役割を習得したり実行したりする能力・資質が十分で ないばあいもある。こうした環境および行為者の弱点に起因する役割遂行の失敗のほ かに、行為者が自己の主体性によって自覚的に役割を拒否したり、他の役割を引き受 けたりする積極的反抗の例もありうることを役割理論は認めている。反抗とか抵抗ほ ど対立的でなくても、役割の学習過程や実行過程で、役割の内容を自分の能力や個性 に応じて変容させたり、自分なりの動機や欲求によって役割実現の行動を修正させた りすることがあるのも、この理論は視野に収めている。
教育学の立場からすれば、そもそも人間が環境によって完全に支配されるなどとい う考え方を受け入れることはできない。実は、近代の教育思想の流れの中には、人間 形成における環境の決定的重要性を説くものがしばしば出現した。それは「環境か素 質か」という問いの様式で提起されたものであるが、こういう文脈のもとでは、環境 優位説はむしろ進歩的であった(12)。すなわち、人間の能力は生れながらに決まって いるという素質決定説が、教育的努力を無効として、人間を運命のもとに放置する考 え方であったのに対し、環境優位論の方は、環境の変革によって人間を向上させるこ とが可能だとする点で、教育的営為の意義を強調したのである。素質優位論はニヒリ ズムとシニシズムに堕しやすいが、環境決定論は前向きで積極的である。
しかし、進歩的な環境決定論なら、現在の環境を変革し、教育にとって最良・最適 の環境をつくりだすことを目ざしている。現在の環境をそのまま肯定し、その存続を よしとするものではない。役割理論でいえば、既存の社会の秩序や規範を維持するこ とをねらって、そのためのエイジェントを育てたり、実行者たれと要求するのではな いことになる。むしろ、既存の社会の価値基準を順守したり、押しつけられた役割に 甘んじたりしないで、自我や主体性を大切にするような個性を形成しようと志向する のである。そもそも社会変動論の観点からすれば、現存社会の規範や秩序は大きく揺 らいでおり、期待される役割の内容も変わらざるをえない。たとえば政治家や官僚な ど、パワーエリートに対するきびしい批判が行なわれており、若者たちがそこにモデ ルを見いだすことが困難になっている。
教育学――といっても多様な立場があるのだけれども――では、環境と人間形成の 問題について、以下のような見解にほぼ落ち着いているのではなかろうか。新説でも 定説でもなく、常識くらいのところがこうである。人間形成は環境によって規定され る。人間の生活そのものが環境によって規定されているからである。しかし、人間は 環境によって支配されっぱなしでは生きていけない。寒冷地に住んでいた人間は、衣 服や住居について工夫し、凍え死なないために努力した。金を持たない貧民は、金が 無くても生きていく道はないかと考え、金が手に入る方法はないかと知恵をしぼっ
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た。筆者の郷里である信州諏訪の人びとが、江戸時代に生きるためにした工夫とし て、新田を開発し、水路をつくり、特産物を生みだし、江戸への出稼ぎを行なって糊 口を凌いだ。甲州人の行商など、どこの地域でも生存・生活のために環境を変える行 動に出た。
人びとはよその地域に旅することで、生活のための新しい知識を獲得し、地域を訪 れる旅人たち――行商人や行脚僧や芸人・俳諧師など――から耳よりの情報を得た。
こういう学習によって、彼らは環境を変える知恵を身につけた。幕末における伊勢詣 りの流行は、維新の変革への道を直くしたといわれるが、旅人たちは道中で幕藩体制 の腐敗と弛緩を見聞したであろう。川柳や狂歌は、既成の価値基準を尊崇せず、斜め から世間を見て、シニカルに現実を捉える眼力を示した。これも新しいものの見方を 学ぶ教材になったであろう。
幕末のような変動期でなくて、社会体制の安定期のようにみえる現在の社会でも、
環境(スタツス・クオ)による支配と、環境(体制)を変えようとする努力とが、いろ いろな社会場面でせめぎあっている。
「環境と生活主体」という課題にかかわる教育学の常識を書くべきところ、話がそ れてしまったようなので、本題にもどることにしよう。ここでいう環境とは、自然と 社会を意味するのであるが、自然と社会はそれぞれが独立しているのではなく、自然 が社会の基底であり、社会に深い影響を与えているとともに、自然は歴史的自然であ る。つまり、自然と社会は相互に浸透しあっている。人間はかかる自然・社会のうち に生まれる。環境は人間に作用し、人間をつくる。人間は環境によってつくられつ つ、自己を形成する。人間は、環境によって規定されつつ、逆に環境をつくりかえる。
環境を改変する行為をなすことをつうじて、自己をつくりかえていく。人間は歴史に おける創造的主体である。自己形成は同時に世界形成であり、人間は世界形成にかか わることによってのみ自己を形成しうるのである(13)。
世界の形成と自己の形成は、行為をつうじて行なわれる。行為には、客観的対象に 対して直接行なわれるもの――ものづくりの労働のような――と、他者とのあいだの 相互行為――同じ職場で働く労働者のあいだのやりとりのような――とがある。生産 労働や他者とのコミュニケーション行為を通じて、人間形成が行なわれるということ である。生産労働というのは包括的な表現であり、芸術作品を創造したり、社会制度 を改変するような制作行為・社会的実践をも内包する。また、コミュニケーションの 場や機会は、職場だけでなく、家庭や地域や学校や、あらゆるところに遍在している ことも言うまでもない。行為という概念が、シンボルによって媒介された有意味的な 行動をさすのであれば、それは社会的行為であり、社会的相互作用としてのコミュニ ケーション行為になる(14)。
教育学の立場からすれば、人間は環境によって規定されつくすのではなく、必要と
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あればその実践によって環境をつくり変える変革的・創造的主体であり、そうした行 為をつうじて学習し、自己の能力を高めていく存在だと考えられている。運命の前に ひれ伏す受動的存在ではなく、環境と自己を変革すべく能動的に実践する行為者だと 見ているのである。そうした行為をみちびく価値基準や、行為を制御する規範は、既 存社会で形成され、ひろく容認されているばあいが多いので、行為者は既存の目標や 価値様式を脱して、新しい地平を切り拓くことはなかなかむずかしい。しかし、そう した脱出・突破を試みないかぎり精神の安定や幸福感を達成できないのであれば、人 間は一歩を踏み出すことのできる存在だ、と考えるのである(15)。
教育とは、意図的な社会的形成の努力である。教育の主体は社会であり、社会の存 続・維持・発展のためには、教育という機能を必要とする。社会は、その早い発達段 階において教育的機能を発現した。家族の中で、あるいは血縁的集団の中で、年長世 代は年少世代にことばを教え、家族や集団のルールを教え、生活の様式を教えて後継 者を育成した。やがて、教育過程は生活過程から分離され、教育の組織化が進んだ。
近代社会になると、組織化が高度になって、近代公教育制度が成立するようになっ た。近代社会の経済形態は資本主義であるから、それが必要とする労働力の陶冶が、
公教育制度に課せられた任務である。また、近代社会の政治体制は民主主義であるか ら、その運用に参加することのできる公民を、公教育制度は育成しなければならな い。
法のもとでの万人の平等というデモクラシー原則からすれば、「教育の機会均等」
が重要である。国民の子弟すべてにひとしく「教育を受ける権利」が保障されること になる。しかし、この権利は抽象的なものにすぎず、機会の均等はあくまで機会の平 等であって、実質的平等ではない。それ故に、機会を利用できた者と利用できなかっ た者、高学歴者と低学歴者、有名校の卒業生と底辺校の卒業生といった教育格差が生 じる。資本主義的生産様式のもとでの職業構成では、職業の種類や職階による収入や 社会的地位はハイアラーキカルである。それはまた学歴構成とパラレルだ、といわれ ている。いわゆる「学歴社会」である。人間能力の無限の開発をスローガンとする近 代公教育の実態は、労働力の選別と格差付けの機能である(16)。
進学競争・学歴競争で勝ち抜き、中央官庁や大企業に就職できた若者が、勝ち組と しての幸福な人生を保証された訳ではない。職場における出世競争に心身をすりへら さなければならず、企業間のきびしい競争に耐えていかなければならない。競争とい うのは資本主義の基本原理であるが、こんにちの経済のグローバライゼーションのも とでは、外国資本・国際的企業との競争にさらされている。弱みを見せれば、買収・
併呑の危険が迫ってくる。弱肉強食の競争場裡にあって企業をまもり、発展させる力 になることを期待されているエリート社員は、刻苦奮励して実績をあげねばならな い。こころ安まるひまはなく、ゴルフやバーでの遊興も人間性回復にはあまり役立た
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ない(17)。
もし高級官僚やエリート社員の生活が充実しており、日々生きがいを感じることが できるようなものであれば、賄賂を取ってゴルフ漬けになったり、詐欺を企んで大金 を入手しようなどとは考えないであろう。国民生活の向上、国家の安泰などの公的課 題の解決に貢献することが誇りや喜びではなく、権力や金が人生の目的になってし まっているのは、哀れというしかない。しかし、派遣社員としていろいろな会社を流 れ歩いたり、非正規社員として冷遇される人生に、安定や希望があるはずもない。ま ことに生きにくい、難儀な現代社会である。
かつて、利害が共通していることを認識しえた民族や階級が団結し、共通の敵を倒 すために闘争した時代があった。それによって、近代国民国家が成立したり、植民地 が独立したりした。また、社会主義国家が生まれたり、労働組合を基盤とする福祉国 家が登場した。ところが、今の社会ではどこでも敵対的な人間関係が目立っている。
人類の理性の発展に望みを託した近代啓蒙の理念は、「殺す相手は誰でもよかった」
という無差別殺人が横行する現実の前に、空しい夢想と化したかのごとくである。人 類は未だに「自然状態」をどれほども脱しえていないように見える。差別と抑圧の社 会のゆがんだ構造を認識し、問題の解決をはかろうとする知性を開発できず、生産 的・効果的なコミュニケーション能力を欠いた被差別者が、他の市民を暴力的に攻撃 することでうっぷんを晴らそうとする、嫉妬や憎悪の退行した情念が噴き出しつつあ る(18)。
社会的形成とか社会化というのは、社会の側からの視点であるが、個人の側からい えば、個人が生きていくためには環境世界(外界)を正確に認識しなければならず、
さらに環境と自己の関係について理解し、環境の中に自己を定位しなければならな い。人間は生物として生命維持のつよい欲求を持ち、また動物として自己中心の行き 方をしようとする。こうした欲求・欲望こそが人間行動の原動力であり、環境世界に 対して自覚的・主体的に生きていくことを可能にする。人間は外部世界のみならず、
自己をも対象化して自己理解を深め、自己を本能の支配から解放することができる。
社会の規範や自己の欲望から脱却して、より高次な基準による自己決定を行なう自由 を獲得できるのである。
個人に対する社会の規制は、文化・伝統をつうじて行なわれる。家庭における形成 のばあいも、親たちや祖父母が既成の文化・伝統の体現者として子どもたちに影響を 与える。親や祖父母が伝統的な価値の信奉者であり、保守的な傾向がつよいと、子ど もがそこから逸脱することを禁止しようとしがちである。学校というのは伝統文化の 継承を主たる目的とするところなので、規制がつよく働くことになる。生徒管理のた めの校則がきびしく強制されたり、文科省が定めた学力水準に達しえなかった生徒は
「落ちこぼれ」にされたりする。
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近年は国の教育政策が保守的な方向に向かっているので、伝統文化の尊重、ふるい 共同体規範の押しつけなどが目立っている。グローバリズムの経済競争にうち勝つた めには、企業の技術面・経営面ですぐれた能力を発揮する個性・創造性ゆたかな人材 を必要とするはずなのだが、文教政策はそれに逆行する方向を選んでいる。それどこ ろか、教育投資を吝んでいるので、基礎学力の育成というもっとも基本的な目標さえ 危うくなっている現状である。
3.人間の歴史的形成
人間は歴史的存在である。歴史によって規定されて生きている。どんな時代に生ま れたかによって、その人の人生は大きく変わってくる。そもそも社会というもの、文 化というものが歴史的に変遷するのだから、社会や文化によって規定される人間の形 成は、歴史的に規定されている。比較的変化しにくい道徳的規範でも、時代によって かなり変化して来ている。そのことは、戦前の日本社会と戦後の社会という、一世紀 にも満たない時の流れだというのに、かなりくっきりと目に見えるものがある。教育 勅語の中に列挙されている徳目には、通歴史的・基本的というのか、近代市民社会で も通用するものがあるが、「忠・孝」という根幹――封建的・儒教的道徳 ――にお いて、大きく変わらざるをえなかった(19)。
古い時代には、道徳的規範とは神や天によって命ぜられたり与えられたりする不変 の秩序だと考えられ、それに背反することが許されない絶対的権威であった。教育勅 語は現人神である天皇の教育宣言であるが故に、臣民はこれを神の声として遵守しな ければならず、天皇自身もこれを拳拳服膺することを誓ったのである。しかし、近代 的人間というのは、自己の内面の指示にもとづいて行動を選択し、自己自身に対して のみ責任を負うという倫理観を持つようになった。自分の意志に従って生きること、
自己選択・自己決定できるのは人間の特権であると考えられるようになった。
人間がそういう能力を持ちえたのは、神の恩寵だと考えられ、自己決定することの 責任は重大だとされていたのだが、しだいにそういう宗教的意識が薄れ、近代的人権 として自覚されるようになった。かつては共同体の規範から逸脱する者は犯罪者とし て糾弾されたが、近代では伝統による拘束が弱くなり、新しい道を切り拓く個性・創 造性が尊重されるようになった。日本でも世界でも、第一次世界大戦の前後くらいか らいわゆる「新教育運動」が展開されたが、その合い言葉は個性・創造性の伸長で あった(20)。大正期の信州の新教育運動である「白樺派」が、国境を超える普遍的人 間性、芸術的創造性・個性を賛美したのは象徴的である。それは当然天才の中に最高 の創造力を見いだし、敬慕の念を捧げたが、一般の人間・庶民の中にもなんらかの創 造性が潜んでいると考えて、その開発に情熱を燃やしたのであった(21)。
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人間は、どの時代に生れたかによって、幸・不幸がちがってくることは言うまでも ない。帝国憲法下に生きるか新憲法下で生きるかは、基本的人権が保障されるか否か という点で決定的な違いがある。それは、思想・言論の自由権にのみならず、社会保 障上の権利にまで及んでいる。世代による運・不運というこまかい差異についても、
筆者が痛感していることがある。筆者は終戦時に中学二年生だったから、戦争にも軍 関係学校にも行かずにすんだ。いや、すんでのところで行くはずのところ、終戦に よって取りやめになった。しかし、一年上の生徒は予科練に志願して行った者もあ り、勤労奉仕でもわれわれは農家の手伝いですんだが、上級生は軍需工場に動員され た。筆者が属していた中学端艇部の先輩は、海軍の学校在学中に終戦となって復員 し、旧制高校に転学しようとしたが、GHQ の指令による軍学校出身者入学制限によっ てチェックされ、悶々の受験勉強中に結核を発病し、死亡した。
筆者と同学年でも、中学一年で陸軍幼年学校に進んだ者がいる。筆者たちが飢餓に 苦しんでいるとき、軍の学校でとくにエリート養成校である陸幼にいる連中は、十分 な食事にありついていたかもしれないが、八王子に疎開していた東京陸幼は、アメリ カ軍の空爆によって犠牲者を出した、という(22)。戦後、予科練から復員して中学校 に戻ってきた連中が、校内硬派グループを結成して、伝統的道徳いわゆる校風の護持 を主張して校内を横行した。
そのメンバーの中にはのちに高等師範学校に進学した者もいたが、戦後の民主主義 教育の世界にうまく適応できただろうか。筆者は、戦中から戦後へと生きてきて、時 代の変遷というのをリアルに感得した。1945(昭和20)年8月15日の敗戦のあと、世 の中が劇的に変化するのを、日々この目で見た。公民科担当の教師が、9月の新学期 が始まると、「これまで教えて来たことはまちがいであった。これからは真実を教え る」と宣言したのには呆れた。とともに、不信感や軽蔑さえ感じた。夏休みというクッ ションはあったものの、筆者は軍国主義少年からの脱皮を果たしえないでいた。今ま でまったく知らなかった「民主主義」というものをどう理解すべきか、とまどってい た。そういうときに、教師のこの鮮やかな転向ぶりを見て、仰天したのである。この 教師は戦中、軍国主義・国家主義をさかんに唱導し、国難に殉ずべく軍の学校を志願 せよ、とさかんにアピールした。彼の子息二人が中学の先輩で、軍の学校に進学して いたので、彼の言説は単なるプロパガンダではなく、信念から発するものと受け取っ ていたのである。それが一夜にして豹変するとは(23)!
この教師の変節によって、筆者はまず人の心の信じがたきを知った。大声でわが主 張を絶叫する者には近づくべきではない、と悟った。かなり深刻な懐疑主義者になっ てしまった、ということである。その後いろいろ魅力的な思想や宗教に接し、入党や 入信を説得されたこともあるのだが、こんにちまで遂にいずれの党派にも帰属しえな いで来た。優柔不断、われながら情けなく思うときもあるが、そのおかげで致命的な
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誤りをせずにすんだという一面もあるように思われる。性元来魯鈍で、物わかりの遅 い人間として、やむをえず辿って来た道である。
さて、教育理念が歴史的にどう変化して来たかについて、如実に認知する機会が最 近あった。その問題は、戦前の帝国憲法・教育勅語体制から戦後の新憲法・教育基本 法体制への転換ということで、教育史関係の著書などに記述されている。それ故に、
教育関係者のあいだではよく知られているところであり、常識になっているはずであ る。いまさら、改めて言う必要のないことともいえよう。しかし、講演の準備のため の作業として、学校の校歌がどのように変遷してきたかを調査する必要が生じ、その 結果、みごとに歌が「世につれて」変わってきた事実を知ることができたのである。
予想どおりではあったが、校歌が時代の変化に敏感に対応して変容していく事象を目 のあたりにして、大いに考えさせられた次第である。
教育は国家百年の大計であるとしばしばいわれ、教育勅語も自らを「古今ニ通シテ 謬ラ」ざるものと宣言していた。しかし、教育勅語も百年の寿命は保ちえなかった。
教育勅語が通用していた期間でさえ、時代の潮流が変わるとともに教育思潮も変化 し、教育政策も変動を免れなかった。そうしたことも教育史の史実が明証するところ であるが、校歌のような学校文化の上にもそれははっきりした跡をとどめている。校 歌を変更するようにと、当局が指示したわけでなくても、校長などが時流に沿った校 歌にしなければならないと考えて自ら動いたという事例も多い。
今回筆者が調べたのは、長野県と山梨県の旧制中学校を中心とする中等教育機関の ケースに限られたが、そのような限られた情報でさえ、かなりはっきりした例がみら れた。山梨県の甲府中学校は、同県でもっともふるい中学校であり、進学校として知 られていた。明治時代、この学校に校歌があったのか不明なのだが、明治42年につく られた「寄宿寮歌」というのがある。当時は中学校の数が少なかったし、交通も不便 だったので、寄宿舎を備えた中学校が多かったのである。舎監をしていた英語教師で 西洋文学に精しかった人に依頼して作ってもらったという。その第三節に、「時流の 外に虹を吐く 自由の郷土自治の領」ということばがある。二棟の寮の名は南北寮と いったし、この歌は「嗚呼玉杯」の曲譜で歌われた。この教師は一高出身ではないが、
一高寄宿寮の自治の精神を評価していたのであろうし、自由の国を憧れていたのであ る。
ところが昭和初年に制定された校歌は、「我等は日本に生れたり 神の御代より一 系の 皇統戴く我国に 生れしことのうれしさよ 皇国の栄えは天地と 共に窮りな かるべし」(一番)という、強烈な皇国主義を表出した歌詞であった。作詞者は同校 出身の国粋主義歌人であり、当時「原理日本社」に拠って、反国体的異端の思想家・
学者を非難・中傷していた三井甲之である。一高在学中から歌人として聞こえていた 三井のことであるから、敷島の道ふうの歌調はそれなりにととのっているのであろ
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う。終戦後、この歌は禁止されたが、生徒たちは歌いつづけていたといわれる。
昭和23(1948)年に新しい学制が施行され、甲府中学は甲府一高となり、昭和25年 から男女共学となった。校歌問題で、旧甲府中学の校歌をそのまま継承すべきか議論 があったが、国家主義的偏向を非とする校長の意見により、新校歌を生徒・卒業生・
職員から募集し、教員の作品が選ばれた。「古へゆ雄心傳へ 新しき世の鑑とし」(第 一節)とか、「日に新たまた日に新た」(第二節)・「もろともに玉と磨きて 賛くべし 天地の化育」(第三節)とかいうふうに、伝統の継承にやや重点を置いており、戦後の 教育価値をほとんど打ち出していない。作詞者はこの学校の卒業生でもあり、甲府中 学以来長く教職にあったというから、こういう色調になったのであろう。
長野県の岡谷中学校のばあいは、時代による変遷のあとがはっきりしている。この 学校は、諏訪郡内における二番目の中学校であるが、昭和17年に、当時の窪田校長が
「報国団歌」を作っている。各中学や高専の生徒会は、文部省の指令でこの時期報国 団と称されていたのである。「皇国の道厳しくも 行手の空に輝けり」(第四節)・「現 人神のしろしめす 皇国ぶりの御栄えを 永久にかしこみことほぎて いざいそしま ん撓みなく」(第五節)といった調子で、実際にはほとんど歌われなかったという。
戦後、岡谷中学は岡谷南高校に変わったが、新しく制定された校歌は、「明知」・
「高潔」・「真理の道を窮めゆく」・「平和文化に国を成す 理想のもとに学ぶ」といっ た文言を用いており、まさに教育基本法の理念に即しようとしている。新制高校の校 歌は、だいたいこういうパターンになっている。たとえば諏訪実業高校の校歌の作詞 者は、同地出身の国文学者でアララギの歌人であった藤森朋夫であるが、「真理の道 を辿らなむ」・「文化の光 みがきつつ 世界の平和 たたえなむ」と歌っている。
ところが、戦後になっても戦前の校歌をそのまま用いている学校もある。そういう 例は山梨県のばあい少ないが、日川高校が有名である。同校は明治時代に、甲府中学 校に次いで作られた伝統校であるが、校歌は大正五(1916)年に制定された。作詞者 は大須賀乙字で河東碧梧洞門下の三羽鳥といわれながら師を批判して離れた俳人・俳 文芸評論家である。それには、「理 想」・「希 望」・「至 誠」・「質 実 剛 毅」・「進 取」な ど、中学校の校歌としては定番ともいえる文言があるが、「天皇の勅もち 勲立てむ 時ぞ今」(第三節)という歌詞が含まれていた。戦後の同校校長でこの部分を問題にし た人は、同窓会から猛反発を受け、その後同窓会の中でも問題提起が行なわれたが、
まともに取りあげられなかった。ついに一部有志が住民監査請求や住民訴訟をするに 至ったが、勝訴という結果にはならなかった。行政訴訟という手続き上困難の多いか たちを取らざるをえなかったことで、こういう結果になってしまったが、東京高裁で は、こうした異論が出てくることに理解を示した。
長野県の中学、とくに伝統のある進学校では、戦前の校歌をそのまま継承している ところが多い。これは、山梨県のばあいとはきわだった違いである。新憲法・教育基
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本法の理念にいちはやく同調しなかったという点では、信州人の方が保守的だという 批評も出るかもしれない。しかし、真相はそういうことではないと思われる。長野県 の中学の校歌では、国家主義・国粋主義・軍国主義を鼓吹したり、天皇や教育勅語を 賛美していないのである。つまり、戦前の国策や時流に対して便乗した歌が少なく、
戦後になったからといって改訂しなければならない理由がなかったということであ る。つまり、長野県人の方が進歩的で、自律的であった、とみるべきなのである。
典型的な例として、松本中学の例をあげよう。同中学は長野県でもっともふるい中 学で、一高や松本高校への進学で抜群の実績をあげてきた。同校には卒業生で一高英 法科・東京帝大法学部に進んだ人が明治40年ごろに作詞した校歌があったが、あまり 歌われずに埋もれていた。大正11年に作られた新校歌は、5年生の文芸部部員が作詞 したものだが、同じく委員だった臼井吉見も協力している。これには、「自治を生命 の若人」(第二節)・「自治の大旗翻へし」(第五節)・「世の先駆者の名に恥ぢず」(第三 節)・「深き真理を探りつつ」(第四節)などの文言が見られる。松本中学の初代校長は 長く校長の職にあって、生徒による自治を承認し、推進した。そういう伝統をふまえ た進歩的な想念が、歌詞に盛り込まれているのである。
自己形成という観点からすれば、自治というのはきわめて重要なコンセプトであ る。つまり、学校側が生徒を管理・指導するという、上意下達ふうのやり方でなく、
生徒自身が生徒会活動を自主的に運営する自由を認め、生徒の主体性を尊重する方式 であった。これは、教師に代わって上級生・優等生が生徒会を運営するという、権限 の移譲にすぎない面もなかったわけではない。矯風会などの名称で、全校生徒を講堂 や体育館に集め、風紀を乱した生徒をつるしあげるような制度があったし、矯風会委 員である上級生が下級生に暴力的制裁を加えることもしばしばであった。しかしなが ら、とにかく自治というのは学校当局、さらにはそれを支配している教育行政当局に 対して、生徒側の意志・要求を主張し、学校側と折衝すること、また生徒側のさまざ まな意見を取りまとめることが、民主主義のディシプリンになったことは確かであ る。
筆者の母校である旧制諏訪中学は、明治28(1885)年に、郡立実科中学校として設 立された。実科中学校というのは、井上毅文相の実業教育振興策の一環として制度化 されたものだが、実際に設立されたのは全国でもごくわずかであった。諏訪地方は、
岡谷を中心に製糸業がさかんになってきたので、実業界のリーダーを養成する必要が あったのである。諏訪実中の校長は、旧藩校で儒学を学んだ人だったので、すこぶる 保守的で生徒を威圧しようとした。生徒たちはそれに抵抗して生徒の自主権を主張 し、激しい抗争となり、生徒側リーダーは退学を命ぜられたり、自主的に退校したり した。一高に進学した生徒が、後輩に一高自治のすばらしさを鼓吹したこともあっ て、生徒たちは自治をつよく求め、ついにそれを実現した。隣郡の松本中学が開明的
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な校長を戴いて、つとに自治を標榜していたことにも刺激されたにちがいない。
筆者はすでに、旧制中学校の生徒会自治というのは、上級生支配、優等生による教 師権代行という一面があったことを指摘した。しかし、自治は決してフィクションで はなかった。諏訪中学では毎年数回「談論会」が開催され、全校生徒の参加のもとで 意見発表や質疑・討論が行なわれた。教師と生徒はまったく対等の立場ということ で、教師の発言に反対し、批判する自由があった。また、下級生の登壇が極力奨励さ れた。生徒会活動に教師が介入することなどほとんどなかった。生徒は甘やかされた のではなく、責任ある一個の人格として待遇された。筆者はこうした経験からも、自 治が自己形成にとってきわめて重要な環境だったと評価する。その負の側面について 無視したり、神話化するつもりはないが、青年期教育における自己形成は、自治に よってこそ成果があがると考える(24)。
4.生涯学習と自己形成
自己形成というのは、社会や歴史によって規定される人生にあきたりず、自己の意 志、自己の選択と決定にもとづいて、自覚的にわが人生を創造して行こうとすること である。伝統文化によって規制され、常識に支配されて他者と同じような行動をする のではなく、創造的・個性的な人生を送ろうとする営みである。そもそも人間という のは、さまざまな欲求とアイデアを生みだし、多様な生き方ができる存在であり、自 己を変化させることへの願望を持った存在である。環境に適応するために自己を変え るだけでなく、環境を変えるために自己の能力を高める。環境を変えつつ、自己を変 えて行く。
人間は世界に気づき、世界に向き合い、世界の中に自分の居場所を求める。生存 し、生活していくためには一定の様式を身につけなければならないが、状況が変化 し、その様式が不適切になれば、従来の様式を変更し、新しい様式を生み出さなけれ ばならない。状況の変化というのは、環境世界の側の変化のことだけでなく、人間内 部の変化も含まれている。人間の欲望の変化もそのひとつである。人間の欲望は不変 の自然的本質ではなく、歴史的な条件によって変化していく。生産力を高めることで 欲望は増大し、新しい欲求が生れる。物質的欲求が満たされるようになると、欲求は 精神的なものに向かう。それは自己の意識にかかわり、精神的生産による自己実現を 志向する。
人間の欲望こそが、人間生活をより高度なものに向上させてきた。しかし、欲望の 肥大を肯定し、より豊かな生活のための生産力の上昇をひたすら追求することの問題 点がもう見えてきている。地球上にはまだ貧困な地域があり、餓死する人びとさえい るのだから、さらなる生産力の発展が必要だという人がいる。しかし、先進国が輸入
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した食料品が、倉庫や冷蔵庫の中で腐敗し、廃棄されている現実がある。ことは南北 問題であり、先進国が無駄にしている食料を途上国にまわすような仕組みが必要なの である。食糧を燃料に変えるようなやり方が非であることはいうまでもない。資源の 面でも環境汚染・破壊の面でも、もう限界に来ている。先進国が既得権として生活水 準を維持しつづけることは正当でなく、生産と消費の水準はグローバルに決められる べきものであろう。
欲望の制御というのは、仏陀や老子によって提言されたが、それは貧困な人びとの 諦念として受容されたものの、富める者、富まんとする者を説得することはできな かった。しかし、いま人類のサバイバルという観点から省察し、洞察すれば、欲望の 制御、資源の合理的な配分が重要な課題になっている。こういうテーマにかかわる英 知をつくり出すことが、緊急に必要である。自己形成が目ざすべきものは、そうした 英知の創造者として自己を高めることであり、他者と協同する学習活動に取り組むこ とである。
「学習」という概念を広義にとると、人間は生涯にわたって学習している。つまり、
人生の過程・諸段階でいろいろな経験をし、そこからさまざまなことを学ぶのであ る。同じ世代で、同じ歴史的事件にぶつかったばあい、同じ経験になることもあろう けれど、そうでないこともしばしばある。太平洋戦争の終結後しばらくして、天皇の 地方巡幸が始まった。当時筆者は中学二年生か三年生だったが、天皇が当地を訪れる という日は、授業のある日だった。天皇を駅で奉迎したい生徒は行ってよろしいとの ことで、授業は事実上休講になった。行くという生徒の方が多数だったが、その目的 として「拝みに行く」という者も「見に行く」という者もあった。
残った方の者もそうで、「めんどうだから」という無精者もいれば、「天皇には戦争 責任があるのだから、会いになど行くものか」という者もいた。同じ土地の同じ年齢 の人間で、同じ学校に学んでいた少年でも、こんなに態度は多様に分かれた。それか ら半世紀後、同窓会に集まった友人たちの差異は、さらに拡がっていた。そもそも容 貌が同じ年齢には見えないのである。禿げるにせよ白髪にせよ、しょせん老人は老人 だというのも事実だ。しかし、50歳台とさえ見える黒髪まじりの若々しい者もいるか と思えば、老衰の激しい友人もいる。さぞかし苦労の多い人生だったのだろうと、気 の毒に思っていると、鏡に映った自分の顔はさらに老化しているのに愕然とする。外 容よりも内面、意識・思想はもっと大きく違っているのは当然である。
それぞれ進学し、卒業した学校は異なるし、そのあとの職業も住んだ地域も別別で ある。そうした差異が、ものの考え方の差異を生んだ訳である。もともと同じではな かったものが、それぞれのライフコースによって大きく違ってきたのだ、と言うべき であろう。かつて親しかった友人がまったく共通点がなくなってしまったばあいもあ れば、あまり接点のなかった人なのに、今では価値観や生き方が接近してきているば
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あいもある。それぞれの人がどのように生きたのか、途中経過が不明なことが多いの で、その形成過程はほとんど分からない。しかし、その形成に当たって、意識的な自 己形成の努力がなされていたことは疑う余地がない。研究者や医師や管理者などと いった職業や位置にあれば、研究や調査の活動が不可欠である。職業が学習を要求す るということである。サラリーマンだろうと農業だろうと、学習なしではやっていけ ないのが現代社会である。
市場作物というのか、毎日のように作物を市場に送り出している農家は、市場にお ける農産物の価格の変動に敏感である。情報機器を使ってそれを調査し、出荷の量を 調整する。市場経済の中の農家は、日々調査・研究をしなければならない。生涯学習 の必要が提唱され、それが広く受け入れられるようになったのには、職業生活・労働 形態における変化という背景がある。そして、状況の変化は消費生活にもあらわれて いる。商品の表示を読み取り、何が最適の商品か選択できるようでないと、「賢い消 費者」にはなれない。消費者として必要な知識や判断力は、商品の表示関係だけでは 不十分である。輸入食品の安全性や産地擬装の問題に通じていることが、今の世の中 で生きていくのに必要である(25)。
もともと生涯教育が必要だというのは、こんにちのように変動が激しく、未来社会 への見通しがはっきりしない社会では、青少年期の学校教育で習得した知識で対応す ることはできず、生涯を通して新しい知識や情報を積極的に学び取ることが要求され るからであった。職業や労働の上で生じてくる必要だけではなく、消費生活やひろく 社会生活の上での要請への対応としてであった。いまの格差社会では、不本意な不正 規就労を余儀なくされないためには、学業成績を良くしてなるべく「良い学校」を出 ておく必要があると考えられており、それに失敗して敗者復活に挑戦しようとすれ ば、学校時代をはるかに上まわるきびしい学習活動が必要になる、とされている。生 涯学習は再挑戦の機会を得るための必要条件であるとともに、学歴を利して正規就労 を実現した勝ち組も、その地位から転落しないためには、企業の必要とする知識・能 力を、生涯にわたって習得する努力を継続しなければならない。かくして、競争と選 抜は、生涯にわたって持続することになる(26)。
上記のような、職業生活上の「強制された学習」ではなく、ノン・ボケイショナル な教養教育や「生きがい学習」も、生涯学習の重要な内容だ、とされてきた。趣味や レクリエーションの傾向のつよい生涯学習が、若い勤労女性、子育ての終わった中年 主婦、退職後の高齢者などの愛好するところとなった。カラオケ・囲碁・社交ダンス などといったものから、和歌・俳句・書道・手芸などあらゆるジャンルがあり、公民 館の老人大学・市民大学の公開講座が高度な教養学習の場を提供している。それらは 人々に社交の場や娯楽や体力維持や、その他さまざまなベネフィットを提供してい る。それは競争と選別の場から逃避した慰安と癒しの空間になっており、それなりの
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