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返読字の成立について(漢文訓読史研究の一)
著者 鈴木 一男
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 3
号 3
ページ 95‑108
発行年 1954‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/5100
速読 字 の 成 立 について
(漢文訓読史研究の一)
鈴 木 一 男 序
「娼勉学」という三字からなる漢文を訓読すると「スべカラク勉学スベシ∫となるが、この場合須字 は最初スベカラクとよみ貴後にベシとよむのである。かように漢文訓読上同一文字で二回にわけて訓ま れる文字を速読字叉は再読字という。今日返読字は須字の外に未、将、当、応、宜、猶、蓋などがあ
る。これらの文字を速読するのは漢文訓読が始められた初期からであるかの如く論じられているが註1近 時国語史研究が領域を広め平安初期の訓点資料研究の遊動こともない漢文訓読の歴史が明かになるに従 い所謂遵薄読みに関する諸瀾題が解決されてきて返読字は平安初期には見られないことが学界に報告さ れている註㌔しかし今までのところでは速読字の有無の報告にとどまり後世の訓読で必す速読する訓み 方がいつ頃どうして成立するに至ったかという速読字の成立を論及した先学はすくないようである。註3 ただ咋昭和23年秋の国語学会で小林芳規氏が「漢文訓読史上の−問題」として返読字の成立を発表された
ことは注目すべきことであった詐4。小林氏の発表は精緻な研究であって貴重な労作と思われるが成立理 由について言及されることがすくなかったので筆者の見解を述べて大方の示教を仰ぎたいと息う。
なお′J、諭に用いた賛柳ま主として正倉院聖雷蔵尊蔵の御本と東大寺図書酪蔵本とである。謂査研究を御許可下された 宮内庁ならびに東大寺に厚く御礼申しあげる次第である。文部省科学研究費による研究の一一部をなすものである。
謡1、たとえば山田孝雄博士著「漢文の訓読によりて侍へられたる語法.JllO真には「須字を単純に読めることは 古今に例なき処なればJとある。
註2、春日政治博士著r西大寺本金光明最防三経古点の国語学的研究研究欝」289貫−293頁。「要するにこの古点 にあっては後牡の返読字は皆一度読むのみであって始に言売めば路は補説し、終に読めば始は獣するやうである。少
くも二度読んだ明かな例証がないのである。」とある。
註3、遠藤嘉基博士闇l点資料と訓点譜の研究」207頁Cr盾、当、泡、唯をマサニ、マサこ、ナホ(シ)、タダと訓 み、それに呼應するコトノミを補講するかいずれかである。しかし前者の例は目立って少い。ということは漢字に印
した訓をとろうとする傾向を示したもので、この漢字の訓と補講との連合が強くなった結果が、一字で二度の訓を 採るよ.うになったものであろう。」と討調なされていられるのが唯一一の諭であると思われる。
註4、昭和28年10月10日、東京大学文学部に於て。
一、返読字の分類
速読字の記載がある文献で最古のものは作文大体である。しかもこれは作史大体の古写本(東山文 庫本、槻智院本など)にはなく群書類従本である。類従本の本文は流布本的意味に於て価値のあるもの
もあるが作文大体は後人の加筆の多い杜撰なものといわれているので古写本にない返読字の記載を原著 者中御門宗息(保延七年菱)の筆と信することはできない。しかし保延以前の訓点資料に返読字が見ら れるから一往作文大体の記載をもとに論を進める。作文大体所載の速読字は戻、宜、蓋、当、令、将、
教、遣、猶、使、末、縦の十二字で今日のと小異がある。縦字は仮定を示す語でクトヒと訓じ下に助詞
トモをとる語でタトヒとトモとが呼応して用いられるが碇字を二度読む例が管見に入らないのでこ
の著者がいう速読字の内容は今問題にしている意味と必ずしも一致しないようであるから便宜、縦字を
考察外にすることにする。叉令故遣使なども今日では速読されなレ、。しかしこの類は院政鎌倉期か資料
によると返試されているので返読字といいうるのである翻。なお今日の訓読では上述の文字以外近応、
且、背などが速読されるが且、背は夫々将、窮と同音叉は近似音のため通用されて共に返龍字となるの である。上述の各字を山田孝雄博士は「漢文訓読と国文法」(明治雪院国語科学講座)の中で次の如く分顆 していられる。
第一期、はじめのよみ方はいろいろ違うけれど、「べシ」とよむべきもの。頻、宜、当の類 第二類、はじめ「ヲシテ」とよみ終に「シム」とよむべきもの。令、教、陵の類
第三甥、その他,蓋、将、猶、未、縦の類
今日までの所速読字の成立についての研究は小林氏かものがまとまった唯一の論であるから氏の見解 をのべそれに対する私見を述べることから始めることにする。
註1、使役文に用いられる便、令の矧ま被使令者をあらわす漢字にヲシテを逼り栄後に使、令などをシムとよます のが今日の例であるが古くは次の掛こ被便合着の譜の下にヲだけ返り嵐有をシテとよみ再び最後にこの字をシ
シテムとよませるのである。東大寺凝念撃の華最組師博から一例をあげる。令三前巻′禰勒チ虚シク指サ文珠チ
シメ
二、小林芳規氏 の説
小林氏の発表中小論に直倭関係のある部分を氏の示されか要旨話から抄出すると次のようである。氏
タダ アこ
は速読字と呼ばず再読字といっていられるがます再読字の定義をされ「唯」とノミ「呈」とムヤの如く 単に一字に−訓のみが固定しそれに対する補読譜との連合の密なるものは補読語の呼応と考え除くこと にし、本論に入り西大寺本金光明最樽王経の平安初期白点(以下最と略す)と永長二年朱点との訓法を 比較しその相違の中に勿(ナ・ジ)・非(ヌ・ジ)・以(テ)・錐(トモ)・及(ト)・為(ニ)・已(ヌ)の助 動詞及び助詞の辞の訓を有していた字がナカレ・アラズ・モツテ・イ(へ)トモ・オヲビ・タメニ・スヂ
ニと一様に直訳語的詞の訓に移行している。
この傾向は他に今日再読字といわれている将,当,須,末などについてもみられる。即ち自点において将
(ムトス)当(べシ)娼(べシ)未(ズ)と読変れていたものは朱点ではすべて直訳譜なる副詞の訓に 代っている。かつそのある場合は二度の訓をもつようになっている。
焦点を再読字にあて諸点本資料を調べるにつぎのことが判明した。
ィ。再読字は平安初期においては−度しか訓まれていない。即ち直ちに辞の訓に訓むか、副詞の訓に あてて訓ケ補読語をもつかのいずれかであった。
ロ。二度の訓をもつようになったのは平安中期以降でありこの傾向は時代の降ると共に著しくなり院 政中期より一般化してきている。
ハ。再読が行われるその同時代には一般には帝の訓がなくなって副詞の訓がこれに代っている。
ニ。平安初期の訓において一字で辞の訓と副詞の訓とをもっているもののみが再読字になる。道にい うとある字が辞の訓を有っていても副詞の訓を一方に訓まれることがなければ後世再読にならない。ま た副詞の訓をもっていても他に辞の訓をもっていなかった辞は再読されない。
前項より再読字の成立にはその字が辞の訓をもっていたということと副詞の訓もその同一字 に有L かつその副詞の訓と呼応関係にある補講語が辞の訓と⊥致するものであることの二点が必要条件である ことがわかる。平安中期以後に成立したことは漢文読解の実力低下によって漢字に即した訓をとろうと
した結果である。
以上が関係事項の全史であるが、なおプリントに平安初期資料と中期資料にわけ将、当、未、須、応、
猶の6字について用例を列挙した後参考図として呼応の緊密化と辞訓の詞訓化を図式したものをあげて いられる。氏の研究は初期の資料でヌ、ジとよむ非字が中期以後アラズとよまれるという類の考察と速 読字が中期以後に成立しているという実証的報告および速読字の成立条件の列挙にとどまって速読字の
t姻
成立理由については凰こ漢字に即した訓をとろうとした結果であるとしか述べられなかった。副詞訓と 辞の訓とに一漢字をわけてよむという速読字の本質的性格が何故生じたかという説明をかいては主題の 速読字或立論にはならぬと思われる。勿論−の言語現盛の蒲生諭としては徹底的事実調査が発行すべき で軽率な論断は避くべきだが少しく速読字の成立過程について推定を下してみたいと思う。
第二類及び末字は成立事情が異るので他日に譲りここでは省略することにする。
註 国語学第十五観に要旨がある。
三、第一類(べ シで終る)返読字
ベシで結ぶ返哉字は当、応、額、宜などである。それぞれマサニ、マサニ、スべカラク、ヨロシクと はじめをよむのであるが、山田樽士によれば「これらの字の義はいづれも、国語のベシに相当する点が あって、さやうに訓んだものであらうが、ただ単にベシとよむ所の可、容、合といふ字よりは意義が複 雅であるからその意義を明かに示すが為にそれぞれ該当すべき修飾格の語を以て予め訓み、再びベシと 返り読んだもので」註lと説明されている。しかし辞書によるとこれらの字は殆んど同義に使用されるよ うで広韻では応字に当也の注があり劉供の助字弁略では須字に応也宜也とあり宜応を重言也としまた漢 書張寄伝の従萄宜径を引用し師占云宜猶当也をあげている。これらの証を踪合すると当、応、須、宜に は共通の意味を有することが知られる。
一般に漢文を訓読するに際して言語の性格を異にする中国語を日本語に改めることは頗る困難な仕事 であって中国語を文字言語として学習していたと思われる日本人は漢文の表記形態と語序とに拘束され 極めて不自然な日本語を成立させたと思われるが、できる限り各漢字毎に忠実に訓読したことでもあろ
う。しかも語彙の鰻類の極めて貧弱な国語で教寓に達し複雅な意味内容をもつ痍字を訓み分けることは 全く不可能なことであるから微細な意味の差は無視し七大船な同一訳語を充.当した結果彩しい同訓異字 を生じたのである。たとえばミルという国語で表わされるものが見、視、観、覚など類東名義抄には百 七十余もあるのはこのためである。しかるに上述の「べシ」にあたる語は小異はあろうが中国でも互用 されているのにそれぞれ別の訓を有つにいたったのは何か特別な事情が存在したと考えなければならな い。 そのため個々の文字の訓読例を出来るだけ古い例から蒐集し速読の成立過程を精査する必要があ る。謡 明治書浣国語科学講座所収論文。
イ 当字について
名義抄にマサニースベシの訓があるが通常速読字の訓も同様である。聖語蔵御本唐写阿見達磨雑集論 古点に語順を示す一一二点が付いているのでこの字は下の動詞から返って読むことになっている。当二菩 建立_。当三学二般若波羅密多_。初期資料で当字の傍訓例は未見であるがヲコト点こをもつものはマサニ
とよんでよかろう。当字の訓法を分類すると次の三類になる。用例を少しすつ列挙する。
第一一類 はじめマサニとよむもの。(訓はカタカナ・ヲコト点はひらがな補読は()に入れる)
ィ。 下をベシと補読するもの。
我当に不善を以て死(す)へシ(我当以不善而死)成突論巻十五。天長五年点(以下成5とす)当に 善(く)十善菜を修持すへシ(当善修持十善業)地蔵十輪緩元慶元年点(以下地と略す)
ロ。 下をムと補読するもの。
当に還て此の法に依(ら)む(当還依此法)成21。 定(め)て当に仏と成(り)て三界を度さむ
(定当成仏度三界)地七
今当に相のみを説Cか)ム。中観諭吉点 ハ。 下をムトスと補読するもの。
是の経た説諭(せ)む音は当に塀の功徳を獲む(と)す(説諭是故老当獲斯功徳)最l
一。 下をケムと楠読するもの。
必す当に愛子をば失(ひ)てケむ(必当失愛子)薇10 オ。 打消形の場合ジをとるもの。
云何当に阿羅漢死ぬルが後に作せじと説(く)やといへり(云何当説阿羅漢死後不作).成14 へ。 直叙法で結ぶもの。
智服を以(て)衆生の苦を見て決定(し)て心を発(し)て要(す)当に除減す。故に大悲(と)
名(つ)く。(以智眼見衆生苦決定発心安当除滅故名犬悲)成18
当に仏と成(る)こと得(る)こと定(め)て靡無し(当得成仏定無坑)地7
ニ。モノゾをとるもの。
王い法を以て人を化し善ク悪行を調(せ)むtトキには当に好キ名称を得て疎の衆生を安楽(にあら し)メむモノゾ(王以法化人音調於悪行当得好名称安楽諸潔生)黄8
其の同学葦は当に其の屍を昇キて寒林の中に置くモノソト(其同学輩当昇奥尻選寒林中)森本本大 般浬磐経巻33古点
ト。 命令形で結ぶもの。
プーカ
常に当に正法に親ヅキて功徳をモチテ白を荘厳セラ。(常当飼正法、功徳自荘厳)最8 妙撞汝当に知レ疑惑を起す応(から)す(妙憧汝当知不応起靡惑)貴1
チ。 当字を強めてマサニハとよむもの。 当には無量百千億劫に人天にして七宝の宮殿を受 用(せし)メむ。(当於無量百千倍劫人天受用七宝宮殿)衷6
第二顛 はじめをよますにベシとよむもの。当字をベシとよむものと当字は不虎字にして下の字にべ シを補読する場合とある。初期資料では不読字にしてあとで補読する例が多い。
(今若不施云何当得菩提道果、)(菩薩善戒経巻購占点)に得の右傍にへキの附訓があるだけである。
第三項 はじめをマサニとよみ終りに再び同じ字をベシとよむもの。即ち返読字として用いられるも の。初期資料にはないが管見に入った長古の資料は弁中辺論天暦八年点の次の例である。当速除減を
(当に速ク除滅す(へ)し)とよんでいる。百法蹄幽抄高点にも見られる.三界の苦悩をは誰か当に按 済す(へ)を。
以上の調査によると当字は初期からマサニとよまれる例が多かったようである.しかし第一類の如く 下に来る語は必ずしもべシでない。中田・築島両氏の報告によると高山寺本禰勒上生経費古点ではマサ
音の結びはセムか叉は直叙法である由である謀。当字にマサニの訓が固定したのは速読字でない場合も マアユとよむ例がある0金剛般若経講述嘉祥点の当無我相送還如故を(当に我相無かりLをモチテ遂に退
りて故の如クナリキ)(霊宝誓士)とよむ当がそれである註2。為当はモシハタと訓ぜられる語であるが小 川本掌珍論天暦九年点では当字を速読字にしているのもこの例に入ろうか。
モ ナル7
我が所立ノ宗ハ為シバ当二日相統ノ中ノ新生ノ現量タルニ遠害セル 00 ベシ、為シハ当工他 相続ノ中ノ所立ノ増量タルニ達害セル○○ベシ(芸濃霊)
勿論第二頬の如くはじめをよますにただべシとだけよむ例も多い。当知となる場合は殆ど知ルべシとよ む。当字が単字の時は教訓あるが応当、当娼となる時の当字はマサニとよみ応,須をペシとよむのであ って他のよみがないことは注目しなければならない。成案諭11の我先有苦今昔当苦を(我備に苦有り今 も苦なり当も苦なるへシ)と訓じているがこの当字は常の意であろうか。成実論写本と版本では当と常 とが交替する例が多い。法華経巻四の巳説今説当説の当字も同例である。
註1国語学第十二輯所載論文 謹 2 国語学論集所載論文
誌 3 回語国文昭和19寧3月号か論文
リ8
P。 応字について。
応字は速読字でないが当字に通じて準用される例がある。成業論に応字の右に当地の箕字訓とヲコト 点昌が付した例がある。
ー柏とは応に是(れ)禅定なり(−欄者応是禅定)棒稜相とは応に是(れ)知見なり(種種相着応是 当・也 知見)成18
−殿に応字は不義字でTにべシを補説する。此の定に依(り)て酔こ防法を来(む)へシ(応依此定 求隣法)成15
普(く)三乗の法を弘く護るヘシ(普応弘謹三乗法)地7
初期資料のうち貴簡王径は応字にシの点がある。応当の場合は二字にヲコト点があるのが常だが西大 寺本大概慮遼郊成仏経長保二年点では応当を不議にし下にべシを禰託する。この点では応字当字すべて 不乾字である。が応字をヨロシクとよんだ例がある。
ヨIJシク
無量寿を得て応殊特身を喝せよ(当得無量寿応現殊特身)(語頭の当字は訓不明)巻3
大矢透博士の仮名遣及仮名字体唐草史料所載の蘇摩呼責了・請閉経平治元年点には応当にヨPシクゐ訓が あるが未調査である。院政期の資料でも応字の速読字は成立していないので発生は最も寒いものと思わ れる。
ハ。 須字について。
第一額 副詞訓を初めにもつもの。
平安時代の苗辞書や訓点資料によって知られた須字の副詞訓はカナラズ、シバラク、ソヱこ、スベカ テク等であるが返読字としての訓はスベカラクの一語のみである。諷1しかし初期資料にスべカラクの訓 は痴見できない。後述するがスべカラクの発生は他の速読字の訓よりも遅れてレ、るものと思われる。
第二類 副詞訓を初めにもたす、終りに助動詞またはこれに代るものによむもの。これにはベシとモ チヰルとがある。
イ。ペシと訓不るもの。
老イクル時ヲ待チテ乃チ梵行ヲ幡ス須シトイフ0(斯道文庫本願経四分律古点)儒是琵)
皆等(し)ク分して一処に和合す須し。貴G。時に准(し)て病を識(る)へシ(准時須隷病)最勝子経註釈9古点 遠(。)て後得智む起(し)て他の為に広く演(ぶ)へシ(朋頓得智為地相)雫慧慧慧綴即
日。モチヰルと動詞によむもの。
須字にモチヰルの訓のあることは雅楽論の毛細為亘の例をはじめ多い。しかも後世速読字によまれる 字でモチヰルとよむものが多い。興福寺本国明大正理論疏九摺古点では倶不須説の説字にコトヲの点が あるので説クコトヲモチヰズアレと訓むものと思われる。打消形の場合は後世もモチヰズと読むようで 倭点法華経版本には止止不項復説と止止不須説(巻つを説クへカラスとも説クコトヲモチイスとも読 んでいる。成実論ではべシの例は一字もなくその1、1の字にヲ格をもつ語が多いがこの場合は須字を動詞 訓にすべきである。春日博士は長路王経巻六の次の例をモチヰルと読んでいられる。何故須喚我父を
(何ガ故ゾ我が父を喚ぶことを須(もちゐ)る。)従って成業論の例もモチヰルとよむべきであろう。
叉此行者必須開法を叉此の行者は必(す)法を聞(く)ことを須(ゐよ)巻21。
叉説戒為菩提樹棍無根則無樹故須浄戒。を:叉説かく戒をは菩捉樹の根と為す、棋無(き)ときは則(ち)
樹無し、故に浄戒を須(ゐよ〕同上
中田釦は禰劫上生経費占点の調査扱告に(畳他をもちて造(ら)シムること須ヰむや)の例を示されヲ 助嗣を伴わぬことを注意されたが、さすれば聖語蔵本法華諭琉中巻占点の要須内借諸徳が(要(す)内に
諸徳を傭すること須(ゐ)て)とよまれるのも同じ例かと見られる。
謡三類 スペカテクとよみスベシと結ぶもの。
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既述の如く詔: 欺資料にスべカラクの訓は存在せす従ってスベカラクーペシの速読法は存在しなかつな と思われるが、しかるに山田孝雄博士は「誤文の訓読によりて伝へられたる語法」の中でこの訓の 存在を論ぜられた。博士は大矢透博士の「撤経四分律古点」の摘要から須字を論ぜられてレ、られる。大 矢博士の摘要は客比丘須依止者の本文中須字の右傍にへクアラ、者字の右下にハの訓があるのをとられ 依止スべクアラノヾとこの部分をよまれているがこれに対し山田博士は「娼字を単純に読めることは古今 に例なき処なれば、これはなはスべクアラクハ依止スベクハとよむべきものなるべきなり」と訂されて いる。顧寝四分樽は畢語戯御本で大矢博士の紹介された部分は巻三十四受戒耀度の四にある語句であ
る。
シマこの巻には須字は十三箇所使用されていてその一箇所は「汝等小樽須我白父母」でぐ汝等′J、ラク 待て、我父母に白(す)須(く)して)と読まれ他は「諸比丘語言汝小待須天明」(諸比丘語て言(は く)汝小‡ラク待(て)天明を須(ま)て)の例でこれを除いて他の十一ヶ所すべて「須依止」
の形で出ている。巻三十四は白点が極めて不明瞭な点本である為正確に読解することは極めて国難であ るが辛うじて判読し得た所は須字にへクアラの傍訓がある例が二ヶ所、へクが一ヶ所クが一ヶ所ある。
ヲコト点がモ、テ、ノと判読される。これらから須字の訓を決定することは容易でない。しかも須字を 動詞とするか助動詞にするかは次に来る語によって決定されるが下に来る依止にはヲコト点ヲが附され ている例が多いので依止は名詞叉は準体言に訓すべきであろう。依止は仏教辞典によると「力あり徳あ る処に依頼し止住して離れざること」とあり、「新に度せられた比丘が依止して其監督を受ける億葦の 比丘」を依止阿閣梨といい叉「人に依止を与う」とは人の依止となり師として教授することである。さ すれば須依止は「依止ヲモトムル」と訓すべきではなかろうか。須字は石山寺本大般若綴字抄の須食 の証に須者求也とあり東大寺本大股浬襲経院政点に若須衣時の傍訓にモトムルとある(国訳一一切経で はモチフルと訓じている)。須字の訓に成巽論巻22の「夏 須備具精油浄蛙」の須字に待字と思われる
カナラフて マ
実字訓がある。(要備に清浦と浄性とを具すときを須ちて)と訓すべきであろう。が四分律の訓は依止
モト
を須ムへクアラバと訓するのが無難であって大夫、山田両博士とも須字の傍のへクアラバを碩学そのも のの訓と考えられた為の誤読であってこの場合は須字は動詞とすべきである。この例の傍証と見倣すべ き例が成実論巻十八にある。著蘭則不復須耳等諸根農事不可。の文に於て須字か訓を示すべきものは 何等なく須字の右に可の白書がある。ここは(若し爾らは則ち復耳等の諸梶を須(ゐる)へカラすある
に是の事は不可なり。)と訓変れる。即ち須を動詞としそれにべシをつけるのである。
以上述べた如く今まで発見された資料に於ては初現にはスベカラクの訓は成立していないと思われる のであるがここに問題になるのは前掲書に於て山田博士は「スベカラクの国文に見えるものの古き例と して統日本後紀東和九年七月戊午の詔の相随人等堪罪不障埋須法乃随爾罪之給倍之、文徳実鼠斉衡元年十 二月申寅の簡文の但理須波億川中賜天後離転行倍伎物奈利、三代実録貞観十二年九月の宣命の須大波塔由 車責勘天法乃任紺罪奈倍給倍久有札止毛」などを示され「以上の諸例中須とあるも須波とあるも共に須久波 とあると同じく、すべからくはとよみたるものなるべき」といわれていることである。これらの資料と 同時代の加点本が極めて少いために断言はできないが、十一巻も完全に存在する成業論天長点にも、元 慶元年点の七巻残存する十輪径にも後世スべカラクとよまれる瀞にこの訓がなレ、ことから考えるとこれ らの諸例をただちにスべカラクと訓じたものと断定することは出来ないだろう。「坪須云云」の文の形 式について山田博士は「恐らくは当時の法家常用の例文なりしものなるべし」といわれたが、この語は
中国の典筒にまま見られる所であって空海の性寄集にも3ヶ所見える。〔理須l勇終如始(醍醐寺本の訓 では理ハ須ク終ヲ慣(ム)コト始ノ如クスへシ。となり須字は返統している)巻七。理須左右更無所求
〔茸須カラク左石ヲシテ更二求ムル所口無力ルヘシ)巻五。その中二ヶ所に理字に附訓がない。〕日本
100
書紀仲代巻の二伸唱和の条の吾是男子理当脚昌も同一用法である。しかるに雄略紀には既為天下、事須 割情の例があるがこの事須も野須と同義である。東大寺本百法顕幽抄には事須の例が数例ある。次の如 く事須出定散心中死也を(事須は定を出て敬一心の中には死(す)べし)とよみ故事須結集也を(故(に)
事項は結集すべし)とよんで事須を音読しているようである。この書の加点年代はまだ断定は出来ぬが 識語の貞観云々よりさほど後のものでもあるまいからこの訓読は参考になろう。事頚、理須を同義と考 え真鯛を去ること遠くない年代加点の鋸幽抄に事須の音読例を見出したことから文徳実録の例も音読し たものと考えることも出来るのではなかろうか。初め音読して後にベシを禰託したといいえよう。しか し三代実成員観十九年の宣命は須人波とあるのでスベカラクハとよんだものと認めなければならないが どうしてこの訓が成立したかということについて発学の説を見ない。ただ春日博士が況字の訓を論ぜら れた御高説の中で名字阿咄達磨薙集論古点の唯仏所蛍、錦非得静慮者静慮境界、況尋思者を(唯シ仏ノ 前党ノミノ、佃シ慮ラ静ニスル膏ノ静ナル慮ノ境界ダニモ得ルコト非ズ沈思ヲ尋ヌル者ノ下イハムヤ)と 訓んでいるのを見出されイノ、ムヤの訓の起源について古く或は況字を支首に黙して交尾に回してトイハ ムヤと訓んだものではないか。殊に何況の如きは何字を文首にイカニと訓み況字を文尾へ回してトイハ ムヤと訓むこともあり得るのである。或は叉況字を文首に他の副詞形(仮にマシテという如き)で訓ん でおいて交尾に更にトイノ、ムヤと補託したものかなど考えられる。前者であると古く文尾にイハムヤと 訓じた況字を後に接続的.副詞に還したことより今の形が成立ち、後者であると、古く況字に呼応して禰 試されたトイハムヤが後に況字の訓に取って代ったことから、今の形が成立ったと考えるのである。」と 述べられている。(2)これを理須叉は事須にあてはめると理をコトバリハ叉はコトハとよみ後に須をべシ
とよんだと見ることができよう。
項字は打蘭点でベシと助動詞によむのであるから副詞訓の成立は後であるが文尾に用いたスベシを文 首に裡して恐るらくは、麒はくはなどの類推によってスべカラクハの形が生じたことは想像されるが何 故副詞訓を作るに至づたかの理由は別に考察する必要があろう。こ抽⊂ついては後に述べることにす
・1、°、0
罰三(1)景字のカナラブの訓:ま法重責疏長保四年点、同海富局内ジ博詣笛木にある。
(ウ)国語と国文学昭和十三年十月号古点の況字をめぐって。
(⊃ 宜字につい て
歳繁名義抄に宜字にヨロシクースべシの訓がある。筆者の調査では宜字の単字例が祝期にはないので 確言は出来ぬがこの訓も成立は遅れたと恩われる。郎暮王経巻十の王子何在宜共振求を古点で(王子は 何に在すラむ。宜L共に推来せむ)と読んでいるがこの宜字は経伝釈詞に助語詞也とあるものに近く当、
応などのもつ速読字的用法ではないとみるべきではあるまいか。百法損幽抄の言不堪者衆生宜聞少法即 少説、宜聞少乗即説宜乗少也を(璃せしめ(す)と言ふいし(は)衆生少の法を聞く、宜きには即(ち)少に 説き少乗を聞くに宜(きに)は即(ち)少乗を説(く)なり)と訓じている例の宜字も同一だとは思われな い。十輪径には宜応の形で用いられているが−は「宜として」とよみ下の動詞の次にベシを補読してあ り一は宜応の応の字にトのヲコト点があるだけであり残り一一一つは宜字にシ叉はキの点あるのみである。
1.汝ナ疑慮(する)ことヲモフコト、宜として速に心を扱(る)へシ(汝勿懐嚢慮宜応速執心)4
2.此の法衣を被(ぶる)人は宜応と定(め)て仏に帰するなり(被此法衣人宜応定帰仏)4
宜応を音読したと思われないし十輪笹では応字は不託にするのが常であるので応字に付したトは宜に
加えるべきものを誤ったと推定すれば1の例と同様に宜トシテとよむことができ他の例も同様に取扱う
ことが辱き。東大寺本法華義琉中期点¢)宜須供養の宜字にトの点があるのも同様に宜トシテとよみ得
よう。しかし石山寺本法華養琉長保四年点では宜須用之に宜字にベシの点があり須字にハの点があるの
で(スベカラクハ之を用(ゐる)べシ)とよんだものと患われる。ともかく宜字の速読字は初期には存在せ
すヨPシクの訓も発生は遅れたものというべきであろう。
以上べシで結ぶ返読字の訓読例を調査したが初期点では返読の例が見出せないようである。当字にマ サニの副詞訓が見出される以外他の須、応、宜などの副詞訓はすべて後の衆生であると思われる。
四、 第三類の返読字について の 猶字について。
猶字は「ナオーゴトシ」と訓むが法華経単字にも名義抄にもこの訓が記されている。しかし国語のナ ホは上代語にはナオシの形で用いられることもあり万葉集中に数例仮名書の例がある(412,轟TO)。初期 資料ではナオ∵シと訓する例が多い。しかし速読字になる用法に於て初期資料では副詞によまれた例は少
レ、。
第1類 副詞訓を有して助動詞を補読する。
初めナオ叉はナオシとよんで下にゴトシと補読する例はない。
キヒク
第2璃 初めをよますに後にゴトシとよむもの。歯は白きこと斉ク密 して珂と雪との新し。
(歯自賛密猶珂雪)最。
第3頸 ナオーーゴトシとよむもの。
初期資料で第1類の用例がないので当然速読例はない。注意すべきは如字が重なり猶如となる場合に 上字をナナシとよみ後に下をゴトシで結ぶ例が仏典に極めて多いことである。成業論より古い羅摩伽雀 巻二に一切身分諸理路東璃加須輔のと礪加をゴトシと−訓によんだ例がある。
 ̄し ・
(司 将字について。
今日の訓読では将字はマサニームトスとするのが普通である。名蓑抄や法華経単字にこの形が出てい る。将字にこのつく副詞訓はマサニしか管見に入らない。初期資料に将字の副詞訓が見当らないが「に」
と訓むヲコ主点をもつものはマサこと訓んだと見倣して菱支なかろう。将字の訓読法を分類すると次の ようになる。
第一瑚 マサ二と訓んで下に助動詞叉はこれに準する連語で禰読するもの。
第二瑚 副詞訓をもたす助動詞叉はこれに準する連語の訓を有するもの。
第三喝 マサ二と訓み再び功助詞叉はこれに準する連語で訓むもの。即ち速読するもの。
次に各項の用例を初期資料より引用する。
第一周  ̄下の簡読語はふとムトスの二類があるようである。
ィ。補講語ムをとるもの。
〔於〕此の林の中に将に猛キ獣ありて〔於〕我を韻語すること無ケむや。(於此林中将無確証婚儀於 我)最10
ロ。禰読語ムトスをとるもの。
作
叉若〔し)人数(しばしば)は善を為らぬときは将に命終せむとする時に善心生(する)こと難し。
(叉若人下汝為善将命待時善心難生)成11 第二頬 ムトスの訓のみである。
す
身形兢し痩セて死(な)むと将ること久(しく)あるてじキを(身形巌痩将死不久)最
ナ
衆生は嫁力を以ての故に顕倒の心生す。命終せむと将る時に造(に)地獄を見、(衆生以療力故願倒 心生将柊 命時蓮見二地獄)蝿lG
t第三頬 てサニームトスの訓を有するものは葡託したものには見られるが、返詑字は初期資純こは未 発見である。大坪酵治氏の調査された石山寺事法華義疏長保四年点に見られろものが古い例である。
将二究竜ノ乗ヲ説(き)たまはむとするときに(将説究貴之束)。
102
初期食料では弟一類と弟二項の用法が見出されるわけであるが補読語ムの例は成業論には存在せす、
すべてムトスのみである。成美論には将命終時の用例が4箇所あるが上述の一類の訓法とともに二項の 如き訓法も見られる。即ち将字にスル、終字にセムトのヲコト点をつけた例がある。成業論では将字がマ サニとムトスの両様に訓ぜられているわけである。又これ以外には訓ぜられていないということも注目
しなければならぬのである。 成美論よりも年代の下った十輪笹には将命終時の例が数例あるがすべて
(命終せむとする時には)と訓み将字を不託にしてセムトスルは補読してある。ただ将来互此を(将に 此に来至せむトス)(巻−)と訓じて第一期ロ、の如き訓が見られる。したがって癖字を副詞訓によむ ときには必サムトスで結ぶという呼応関係は成実論及び十輪怪の加点時代には成立していたものとみる ことが可能であろう。
十輪怪では将字を副詞訓によむのは前述の例のみであるが欲字と連なり将欲の形になると必す将字に ヲコト点二が加わっているのでこれはマサニと訓じたものと思われる。その際欲字は不読字としヲコト 点も傍訓もなくその下の語にムトスの補議が加わるのである。将欲戟時を(将に〔欲〕戦(は)む(と)する 時に)の如くである。元慶点の加点態度は不、従、及,未など助動詞、助詞に訓する字はすべて不義にし
て下の語にそれぞれの助動詞助詞を補説するのであるから欲字をムトスと訓する場合も欲字は不読字に して下の字に神託するわけである。したがって欲撲於地を(地ニタタカムトスル)と加点して欲字は不 読にしている。この態度は成業論にも見られる。将軟投(巻11)の三字のうち将と乳こそれぞれヲコト 点二、ムトスがあり欲字は不読字となっている。十輪経で将をムトスと訓する場合も補諒の形式をと る。最借主経の将字の不読例は少いがそれでも将水死門(巻九)の場合は入学にリナムトシテの補議が あり将字は不義である。
裾現質料に於て将字はマサこと訓する場合とムトスと訓む場合とが存在することは前述の如くである が、将欲の場合は必ず将字はマサニとよみ欲字はムトスと訓することは十輪怪ばかりでなく成業諭、最膵
工程など初期資料の管見に入ったものはすべて同一である。従って次の如き最棒王経の訓も春日博士は 欲字を欲すると動詞に訓じて患られるが筆者は同一に見て、(将に其の子を食(ま)むとするを)(将飲食其
子)。と訓ずるのである。
古書には欧字が将字と同義に使用されている例が少くない。貴膵王経に「見有一地名日野生其水飲
ヽ
潤。」が別の所では「見有大池名目野生其水帝尽。」と書かれてその訓は一方は(其の水滴きナむとする に)とあり他方は(其の水尽(き)ナむとするに)とあって全く同一である。日本書紀雄略前記にも皇 子軋耳秋芳喋坐不語と皇子亦知将苦境坐不語とが同一華中に見られる。 助字弁略には「欲将也凡云欲 者皆願之而末得故叉得為将也」とあって将字と欲字が同義に使用されることを示している。将欲各字が単 字としての用法と重言となった通史の場合もほゞ同義のようである。しかも既述の如く将欲と達文あ場 合の訓は初期資料より固定してマサニームトスという形になっていることは注目しなければならない。
現存の初期資料は点数も少いし更に筆者の調査し得た資料は極めて少ないのであるが今までの諸家の説 にも例外は見られないようである。
将欲の達文は老了遺徳経に 使用例があり法華経や東隣王経などの漢訳仏典に極めて用桝の多いもの である。従って奈良朝の述作にか1る文献に将欲の文字も多く見られるものである。
平安初期の資料の訓が早くから固定していることから推定すると奈良時代にも略々同様な訓が行われて いたと推定することは可能であろう。従って漢文を離れて訓読文を考察すると、マサニーームトスとい
う形式が成立していたことも推定できる。
筆者は速記字の成立を考察す馴こ当って上述の如き事項に注目したいと思う。既述の如く小林氏が速
読字成立の条件として−の文字の同一用法に副詞訓と虚字訓の存在をあげ、しかもその二訓の問に呼応
関仔の存在をあげられたが、小林氏はそういう条件の考察に止まられその条項の発生理由について言及
されなかったが筆者は各字の個々の訓の調査を試みたが単字の場合には訓に教訓あるものでも達文とな った場合は必す後世の速読字と同じ訓を用いて殆ど例外が見られないという事実を見出すことが出求
た。しかも速読字になるものは必す蓮文としての用法が存在するという事実によって、これらの発生理 由についての試案を提出してみたいと思う。
五、達 文 に つ い て
達文(重言とも連語ともいう)とは西田太一郎氏の漢文法要説によれば「字義に伸縮のある多義語の意 味を明確にするため共通した意味を媒介にして二字あるいは稀に二字以上の字を結合して作った熟語を
いう」のであるが、叔凱点本に見られる達文の読み方を調査すると次の三種がある。(蕨膀王経から用例 をあげる。)
1。字音で読むもの。
鮮一汝 飽一帯、波一尺、楽一欲、寂一腰、評一訟 2。−訓で読むもの。
昔一骨(ムカ)シ、成一志(コトゴト)ク、仮一命(タト)ヒ、碗帝トドコホ′レ、宛転モトホル、嗟一歎ナ ケキテヽ
3。逐字訓みするもの。
ィ。同訓を反復するもの
照耀 チリテルコト、其供トモト壬、倍増マスマス、倍率モトメモトムル、岩畳ハカリノ、カル、総務 イ
ソギイソグ(禦言禦悪意吾苦大)
ロ。苅義語をならべるもの
荊称ウパラオドロ、箋噂タバカリノ、カル、戦癖ヲノノキクゴク、屠割ホプリキル、媚故トクサカシ済 弁 ナシノ、タス
以上の三種四類のよみ方のうち後期の資料になるに従って逐字訓が少くなり−訓でよむか字音読が多 くなる傾向が見られる。最勝壬経高点では3期の場合は逐字訓が附してあるかヲコト点によって逐字訓 が示されているが1顆2頚の場合は字と字との閲にローロの如き連合符があって達文であることを示し てある。しかし達文であっても使用例の多いものには連合符は用いられていない。(仮使、仮令など)
0
同じ長持王径の朱点になると高点で連合符がなかったものに連合符が附せられたものが多い。連合符の あるものは音読か訓読か明瞭でないものもあるが傍訓のあるものは訓読語だと知られるしすべて−訓で ある。
これによって二字からなる語は音読か叉は一訓によまれる傾向が多くなったことが知られる。ます速 読字が通史される例を類集すると次の如きものがある。(一の点本から一例だけあげる)
1、応 当
(1)欲拾諸慨怠、応当職此経(法華寝巻凶)
(2)汝今応当善持是在文字章句所有功徳(大般浬無経巻3)
(3)汝等応当劾心流布此妙経王則令正法久住於世(最樽王経巻二)
㈲ 汝今応当住不放逸(大目経巻六)
(5)応当諌喩(菩薩善戒経巻四)
(6)応当覚加熱求捨離(成冥論巻22)
(の 汝今応当随名而作(東隣王経註釈巻九)
㊥)以寝言吾為汝等造作此事故 応当等心各各与之故(金剛般若経費速巻下)
㈲ 欲得大覚応当学諸仏自証之教(性霊集九)
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2、当 応
(1)又安着屈分当応消尽(成業論版本は応当)
(2)此中但遮禅定必当応有少時摂心乃至一念(同上)
(3)対日罪当応死(後漢書劉盆手伝)
㈲ 諸官物当応7\私(唐律)
当ノ志も当店も同義と思われる。当字をマサニ応字をベシとよむのが常であるが(砂の菩薩善戒廣高点は 成業論より古いがすでにこの形が成立している。㈲の長保二年点では応当ともに不読で下にべシを補読 している。初期点で二訓によんだものを後に−訓にした例である。蘇磨呼童子語間経平治元年点にヨロ シクの訓がある由沿革史料にあるが未調査である。
3、当 宣
非徒応坐預協亦当宜詔単著ぐ汝漢書第五倫)
4、宣 当
宣当修菜仁義由於無為(後漢書魯恭伝)
5、当 須
当須独処浄窒駄香而臥(貴勝王経巻六)
後漢書の訓は不明であるが最揮三拝同様当字をマサニとよみ他をべシとよんだものと思う。
G、宣 応
(1)彼即是汝身宜応日欧慶(法華経巻二)
(2)各相謂言今f]宜応至饗横間(大般浬磐経巻一)
(3)我等宜応其祥建立令復王位統囲洲渚(十輪寝巻2)
7、応 宜
・物皆者新吉唯大著旧之応宜(万葉集1885)
十輪窪の訓によってヨロシクの訓が成立していないことを論じたが万葉にカナ書例があるので決定的 なことはいえぬ。応字にヨロシクの訓があるのは名義抄によって知られる。
8、宜 須
の 出家之衆理宣須作(南海寄帰内法伝)
(2)宣須用之、宣須供養。(法華義疏)
9、応 須
(1)応須衣制(蘇悉地径、遠藤博士御調査による)
(2)我今為臨此適応須裁舌、方得謝過也(百法頼幽抄)
(3)著吏表者応須蟹言大泉也(百法新幽抄)
9の(2)はモチヰテースべキナリとよまれ(3)は音読である。(1)は東館五年点では二訓によむよしであ る。8の(2袖ま前述した。
10、宜 可
(1)宜可門徒井相検察(南海寄席内法伝)
(2)尭舜之隼宜可与比治夫(漢書東方朔)
11、可 宜
今寧可宜往問訊沙門贋曇(律蔵初分巻一)
12、応合、蓬莱足雲気応合総従者(杜子美詩)
13、応可、14容可(これについては後述する)
15、将 欲
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(1)将欲取天下而為之吾見耳不得巳(老子)
(2)披后土面無徴、訴皇天而不弔、将欲麦託棒菜(東大寺献物帳)
(3)世尊将欲浬襲(実般津磐経巻一う
㈲ 命将欲尽(仏頂尊隣陀羅尼径)
川、欲 将
天帝若人命欲蒋終(仏頂尊勝陀羅尼霹)
伊藤東涯の用字烙によると欽将と将欲は意義を異にしていると説明してあるが正智院本の玄防の疇経 では同義に使用しているし応当、当応、などの諸例も全く同じのようである。これらの達文の訓み方は 特殊なものについては既に説明したが大体の傾向として逐字訓みを行ったのである。そのため極めて不 自然な訓読も行われたしその影響が日本人の述作の上に及ぼした破格などが発見される。速読字の訓法 もそうした傾向の所産であることを次に考察してみよう。
達文を逐字読みするため不自然な訓の一例を侵棒王経からあげると巻三の応見覚如、応可通達を苗点 では見し覚L知す応ク、通達す可クある応キとよんで怠る。次の容可の訓読も不自然である。(1)如是智
者量無辺、容可知彼微塵数
(ぺ)
是(の)如キ智者の量すること無辺なるいは、彼の微塵の数をば知ル容し可クあるも、(巻五)
(2)斯学希有物或容可転変世尊之舎利尊貴不可得0 ,
.斯レ等の希有の物は或トキには転変シヌ容し可クあるも世尊の舎利は尊意して得可(から)す。(巻−)
しかるに永長点Pは容可の中間に連続符があり、彼の徴庫の数をば知(る)容一可(く)とも、
或は転一変しぬ容一可(く)ともとあって、容可が連文であることを意識して一一訓によんでいるよう である。春日博士の貴樽王経古点の国語学的研究の197頁の御高説は容字に対して橙々御配慮になって いられるが助字弁略に容可一也とある如く容・可同義として上の如く読んで解決されるのではなかろうか。
次に中国人の漢文に多い蓮文を逐字訓した為に日本人の述作の中に漢文としては破格と思われるよう な文章が発生したのも注目しなければならない。しかし筆者は中国語史に全く無知であるため中国に行 われている用法であるかも知れないので大方の示教を賜りたい。次の例は珍しい例である。
(1)常陸風土記久慈郡の項、
埋不含坐、宜避移可鋲高山之浄境。
(2)歌経模式の求駒の項
当於唱歌可用之。(武田博士は上代文学集にこの訳文を「当に唱歌に於きて之を用ゐるべし」とさ れていられるが・頭証に於て「この旬の前後の部分をいまだその意を知らない。」と述べていられる。)
この二例の可字宜可、当可と用いられるが逐字読みされることから述作の場合その訓読の語順に従って 互に離ればなれになり終りに読む語の前に一字が:書き加えられたものと見るか叉は誤写(充とえば而 字の)とみるべきものではなかろうか。前者とすると連文の逐字訓によって生じた誤記の例となり得
よう。
天平写経である東隣王経巻十にも、速報′ト子今何在、我身熟悩遍焼燃、悶乱荒迷失本心、勿使我抱合 破裂。とあるが大蔵経では勿使我的今破裂とあって令字は今の誤写と見なされるが令と今とは誤り易い 文字であるが写経生の誤写を生じた原因の一に前述諸例に見られるような意識が働いたためではなかろ うか。何これに近い例で乗除王経の是人当沸浴、応着鮮潔衣(巻−)、成業論の教多人命墾非法(巻十一)
法華経の開示故人令住浬奥(巻七)などに見られる応、令、令などが今日の漢文では術字の如く見倣さ れるがともに偶の一部であるため修辞上許される破格であろう。
適文を逐字読みする傾向のあったことを述べたが速読字の単字の場合と連文の場合とを比較してみる と意義上多少の差異はあろうが実質的に大差はないと思われる。べシで結ぶ速読字は高名凱氏の漢語語
1(粥
法論によると応然性ま如ま必然性表示の語で命令命題にもl転用されるとあるが通俗文法では副詞とみ・る 説と助動詞とみる説とがあるが藤堂明保氏はこれらの語を主体的な話手の情意を表わす虚詞として情意 詞という範疇に入れていられる。
法華経の次の例によると各例ともに略同義であると思われる。()内は応永刊倭点本の訓によこる0 1。 諸比丘衆。宙一心囁 3(諸ノ比丘衆皆心ヲーニシテ聴ケ)
2。 如是今当説、汝等一心聴 5(是ノ如ク今当二説クへシ汝等心ヲ一二シテ聴ケ)
3。儀儲比丘衆、今告汝等、皆当一心聴我所説 3(…皆当二一心二我ガ所説(ヲ)聴クへシ)
4。 応当一心広此経世陛隆弘疾仏道.T(当二心ヲーニシテー疾ク仏道ヲ成スへシ)
上の1,2は情意詞がないが呼格が前に来て命令文になっている。3は単字の速読字があり4は達文の速 読字の例である。速読字の使用とその重言によって命令の意図を明確にし話手の情意を強調したものと
日本人は解したのではあるまいか。そこで運文を逐語読みするにあたり強調の語としてマサニなる副詞 を添えることが始められ,一方の字にマサ二が固定し他の字に助動詞訓が使用されるに至ったのではな かろうか。かくして連 ̄史を逐語読みすることにより二訓の間に呼応関係が発生したとみるべきではなか ろうか。しかも達文であるから単字と佼ゞ同義に用いられるため達文の場合二字の訓であったものを後 には単字にあてて単字にその訓をそのまま適用したのであるが、最初は助動詞訓は禰議の形式であとに つけ加えていたものと思われる。初期資料に当字と将字とが副詞訓と助動詞訓との呼応関係が成立して いるのは将字の遵文は欧字と重なる場合だけであり当字は多くの速読字と達文する頻壇が一番大である ためなどで当字と将字に副詞訓が一致しているのではあるまいか。猶字も猶加と用いられるだけである から返読字の成立は早いのではなかろうか。宜、須、応字は初期資料には副詞訓はなくすべて後の発達 によるものである。フこべカラクの発生は他の返読字に副詞が成立後通交の逐字訓として工夫されたもの であろうが語形は文末にスベシと用いるものを変形し副詞訓語尾クをつけて作られたものと見るべきで あろう。と変れ小林氏によって速読字の成立条件としてあげられた一字に副詞訓と辞の訓とをこれらの 字が有するに至ったのはこれらの字はすべて連文現象があり得たからであってこれをおいては成立条件 が説明出来ないと思われる。
達文ではないが二字につけた訓がこれと同義に使用される一字の訓にあてられることは虚字の中に珍 しいことではなくたとえば胡、安をナニスレゾとよむのは胡、麦、胡為、実為、ともに何為と同義に使用 されるために何為をナニフ=/ゾと訓じたことから始変り、然字をシカレドモとよむのは然字が躍然と同 義に使用され著をカクノゴトシとよむのは著が若是と同義に用いられるからであろう。蓋は何不也と字 書にあるので何不の訓ナンノーザルから返読字になった。何一言加えるならば剰如、誓加は極めて近似 した内容を有する語であり前者がナオシーゴトシと逐語読みされると同機に後者もタトへバーノゴトシ と読まれる。しかも猶は速読字になっているが誓字は速読されない。それは猶も桝加も全く同義に使用 されているのに対し讐字は誓如と用法が仝同でないためではなかったろうか。讐加は達文として使われ たのでなかったためであろう。国訓の上でタトェノヾとゴトシとが呼応関係を生する程緊密に二語が使用 されていても連文と単字とが同義に使用されるのでなければ副詞訓と助辞訓とを一字で有するに至らな かつ妄ものと考えられる。ここに返読字成立の根本鋤性格が存在していると思われる。
結 び.
以上考察した如く速読字の成立は虚字の近文を逐字的に訓じた結果、語としての呼応関係が成立した ものをその虚字の単字に同じ訓み方をあてることによって速読字が成立したのであって表記の面では黄 初は禰読の形式をとったものが小林氏の言の如く虚字訓の巽字訓への移向傾向につれて同一文字の二回 読みという特殊様式を成立させたものであろう。
この説を立てるにあたって今まで触れべくして言及しなかった問題が残っている。筆者の推論は達文
現象は奈良時代人の読書生活に於て最も普通に認知される言語現象であるという仮定の上に立論してい たことである。筆者の利用した資料の大部分が平安初期加点本であるがそれは全て仏典であった。なる ほどこれら漢訳仏典には達文は極めて使用頻度が多大である。しかし仏典は特殊な書籍であって四書五 経という代表古典には虚字の達文は存在しないのである。こういう事実を前にして漢籍読みの起源を仏 典訓読に求めようとすることは無暴な試みというべきであろう。しかしこれは訓読が工夫された奈良時 代の学問に仏典Z)占める意義を考察すれば解決できる問題ではなかろうか 近時比較文学の研究が勃興 し吉川幸次郎博士によって日本書紀に六朝俗文の影響があることや神田秀夫氏によって古事記の文章が 法華経その他の仏典を直倭参考して表記されたことなど論証されている。さすれば奈良時代の知識人の 教養として金光明輝や法華経が不可欧のものであったことを認めそれらの典譜に使用された語句の訓読 法が次第に一般化して行ったと見るのは許される解釈ではなかろうか。
註 外典は現行の活字本によったが内典は詳記以外のものはすべて初期の訓点資料を利用した。ただし印刷の陳を考 え引用例はごくわずかにとどめたし釈文も省略した。
後記 外典の用例は山田博士や西田氏の著書から拝借した。
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