奈良教育大学学術リポジトリNEAR
Daniel Bell 研究 −アメリカ社会学史の一節−
著者 小笠原 真
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 28
号 1
ページ 119‑140
発行年 1979‑11‑15
その他のタイトル A Study On Daniel Bell: A Chapter to the History of American Sociology
URL http://hdl.handle.net/10105/2472
Daniel Bell研究
アメリカ社会学史の一節
事 IV. 真 (社会学教室) (昭和54年4月18日受11)
I は じ め に
「知識人の氾濫」とか「マス・インテリゲンチア現象」と評されている現代アメリカ社会にあ って、 1970年にコロンビア大学のある若い社会心理学者が、アメリカの代表的雑誌20誌の編集責 任者に依頼して、同国の「知識人中の知識人」を選ぶという調査をしたことがある。その時選ば れた234名の知識人のうち、本小稿で取り上げるDaniel Bell (1919‑ は、言語学者であっ てベトナム戦争などの徹底的な批判者としても知られるNoam Chomsky (1928‑ )や、経済 学者として名著『豊かな社会』 (The Affluent Society, 1958)を著したJ. K.Galbraith (1908'
)、さらには文芸・社会批評家であるIrving Howe (1920‑ )などを抜いて第一位に選ばれ ている̀1'。このことは、 ‑ーヴァード大学の社会学教授としてよりは、ジャーナリズムとアカデ ミズムの両世界を生き抜いてきたBellの仕事が、狭い社会学の分野をこえて、広い読者に大き な影響を与えてきた証拠として非常に興味ある出来事である。それかあらぬか、近時日本におい てもBellに対する関心が日増しに高まってきているといわれる(2)。
けれども、ここでは「現代アメリカ知識人」論をオピニオン・リーダーのBellなどを通して 正面から展開することは差し控えたい。それというのも、既にわが国には社会学者高橋徹氏(19 26‑ などの優れた論文を有しているからである(3)。そこで、むしろ本稿では、 1940年代以降 のアメリカの社会学的社会理論が、アメリカ社会の発展の現実に対応させて、 「大衆社会」論‑
「産業社会」論‑ 「脱工業社会」論という段階的発展の軌跡を描いてきたなかで(4)、 Bellが、 19 50年代の「大衆社会」論批判においてどのような所論によって主導的な役割を果たしたかを第m 節で取り上げ、そして、 50年代の終わりから70年代前半の「産業社会」論から「脱工業社会」論 への展開を、具体的にいかなる主張を通してリードしてきたかを第Ⅴ節で検討しようとひそかに 企図している。その外に、われわれは本稿第Ⅱ節でBellの人と業績について簡単に触れ、また 第Ⅳ節では彼の60年代の「イデオロギー終蔦」論の内容を吟味し、さらに第Ⅵ節でBellの70年 代後半の「資本主義の文化的矛盾」論を検討する。それ故、かかる意味においてこの論文のタイ
トルを「Daniel Bell研究‑アメリカ社会学史の一節‑」としたのである。
丑 Daniel Bellの人と業績
さて、偶々の社会学者の学説を理解する際の常道に従い、 Dalliel Bellの人と業績を手短かに 紹介することから始めよう.。
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小笠原 真まず、 Bellの今日までの履歴に簡単に触れてみると、彼は1919年にアメリカのニューヨーク でポーランド系ユダヤ人の子として生を享けた。だが、生後6カ月にして父を失ったBellは、
熱心な社会主義者であった母の手によって育てられることになった。彼の家は極めて貧しく、彼 自身の語るところによれば、家のなかに便所のある家に住めなかった程であり、 6歳頃まで英語 ではなくイディッシ語‑ユダヤ語・ドイツ語・フランス語の混交語であって主として東欧のユ ダヤ人が話す‑を話して育った。けれども、早熟な Be】1は弱冠13歳で既に Karl H. Marx (1818‑1883)やJ.S.Mill (1806‑1873)などの著書に接し、特に後者の『経済学原理』(Princi‑
pies of Political Economy, 2 vols., 1848)を読む過程で、富の公正な社会的分配の問題を考え 始めた時から、彼の社会主義観が結晶化し始めた。それと時を同じくする13歳の若さで、 Bellは
「青年社会主義者達盟」 (Young Peoples Socialist League)にも加入して街頭演説にも立った。
やがて16歳の1936年にBellは、ニューヨーク市立大学で社会学と古代史を勉強し始め、また学 生運動の旗手としても活動し始めた。
だが、翌年の1937年に社会党が共産党との共同戦線を組むか否かの問題をめぐって分裂した時、
彼はマルクス主義とは一線を画する右派に属することになった。そして、 1930年代における歴史 的諸事件、とりわけ国外的にはモスクワ裁判、外国の共産主義者に対する血の粛清、スペイン市 民戦争に対するソヴィエトの国家主義的政策、独ソ不可侵条約といった一連の歴史的事件、国内 的にはアメリカ社会主義の嵯鉄、とをBell自身経験することによって、マルクス主義への懐疑
・不信・幻滅・嫌悪の感情を一層培養していくと共に、社会主義運動にみずから参加する情熱も 次第に冷却していった。 1938年に彼は大学を卒業してコロンビア大学社会学部の大学院に行った が、決して大学院にだけ留まっていたのではなく、ジャーナリストとしても広く活躍し始めた。
つまり、 1939年にBellは社会民主主義系の雑誌<The New Leader^の記者となり、フル・タ イムで働き始めた。そして、 41年から45年にかけては同誌の責任編集者として活躍した。そのか たわら、 44年にはごく短期間ではあったが<CCommon Sense^>誌の編集者をも務め、また同年シ カゴ大学の社会学と経済学の講師に就任し、その後助教授に昇進して48年までいた。
しかしながら、 1948年の秋にシカゴ大学を去って故郷ニューヨ‑クに戻り、雑誌<Fortune >
の労働問題担当編集者に迎えられた。そして、編集者として活躍するかたわら52年には母校コロ ンビア大学社会学部の講師に招かれ、社会学の講義を再び始めた。そうしたなかで、 Bellは欧 米の知識人によって組綴された「文化自由会議」 (Congress for Cultural Freedom)主催による 1950年のベルリン会議や55年のミラノ会議等に出席し報告などをして活躍した。 1957年に入ると そうした活躍が認められて、同会議の責任者としてヨーロッパに行き、一年半パリに住むことに なったが、ここではこの国際知識人会議がBellのその後の強力な跳躍台になった点にわれわれ は注意しておきたい。パリからニ3.‑ヨ‑クに戻った彼は<iFortune^>誌の編集者を辞任して、
カリフォルニアの「行動科学高等研究所」 (The Center for Advanced Studies in the Behavior‑
al Sciences)の特別研究員として、一年間自由な研究生活を送ることになった.この研究を終 えた時つまり59年にBellは社会学の準教授として再び母校コロンビア大学に迎えられ、翌年同 大学から博士号を取得することによって、 61年に正教授に昇進し69年まで教鞭をとった。その間 彼は、学内にあっては1959年より68年までの長きにわたって社会学部長の重責を担い、特に68年 の大ストライキの際には学生と大学当局との調停のために重要な役割を果たすことになったし、
学外においては1965年に古くからの友人で評論家のIrvillg Kristol (1920‑ )と二人で季刊誌 'The PublicInterest]を編集し発行し始め、また同・よりアメリカ芸術科学アカデミ‑の「紀
元二〇〇〇年委員会」 (Commission on the Year 2000)の委員長にもなって活躍した。そして、
1969年にはBellはコロンビア大学を去って‑ーヴァ〜ド大学の社会学部に迎えられ、正教授と して現在に至っている。
なお、 Bellの今日までの足跡のなかにあって見落してならないことに、ニューヨーク市立大 学およびコロンビア大学大学院を通じて以来のよき友人であって、現在スタンフォード大学教 授のS.M.Lipset (1922‑ )、ハ‑ヴァード大学教授のN.Glazer (1923‑ )らのユダヤ系 の社会学者たちと共に、いわゆる「社会学のニューヨーク学派」 (The HNew York School of Sociology )を形成し、シカゴ学派などに伍して、新しい政治哲学の確立を目差して精力的な知
的活動を進めていることがある(5)。
では、こうした経歴のもとにあって、 DanielBellはどのような著作活動を展開してきたであ ろうか。まず、 Bellは1939年から45年にかけて<77ze New Leader^誌の記者・編集者をして いた頃は、同誌には専ら学生運動に関する報告を書いていたが、他誌の<CCommon Sense^>に は例えば41年に「独占はファシズム‑と導く可能性をもっている」 ("Monopoly Can Lead to Fascism")という論文を発表し、アメリカ資本主義の独占化がファシズムへ導く危険性を有し ていることを訴え、注目された。そして、彼が1946年に<CThe New Leader^誌に発表した「変 化しつつあるアメリカの階級構造」 (HThe Changing Class Structure of the U.S.")という論 文は、アメリカの労働組合や組合運動内部にも少なからぬ反響を呼びおこすことになった。それ というのも、この論文のなかでBellがみずから集めた統計によれば左翼のセクト主義者たちの 描くアメリカの階級構造とはまったく別のものが描けるとし、さらに「労働者階級」とか「中間 階級」といった用語が極めて暖味に使用されていることを指摘すると共に、 「プロレタリア化」、
「階級区分の先鋭化」、さらには「階級構造の硬直化」などに関する極端で無謀な一般化が横行 しているのは彼等左翼のセクト主義者たちにその責任があると主張したからである。やがて1952 年に彼は『アメリカにおけるマルクス主義の歴史』 (The History ofMarxian Socialism in the
United States)をまとめ、そして55年には『アメリカの新右翼』 (The New American Right) を編集し、さらに56年には『労働とその不満』 (Work and Its Discontents)を著し、なかでも
『アメリカにおけるマルクス主義の歴史』によってBellはアメリカ社会主義史論の第一人者と して名を成していった。
しかしながら、 Bellの名を世界的に著創こしたのは、何といっても1960年に公にした「1950年 代における政治思想の個渇について」の副題をつけた『イデオロギーの終駕』 {TheEndofIde‑
ology : On the Exhaustion of Political Ideas in the Fifties)という論文集である。ところで、
彼の「イデオロギー終烏」論についてはわれわれは第Ⅳ節で詳述するが、この論文が世界的に大 きな反響を呼んだのは、欧米の社会においてマルクス主義に代表されるイデオロギーが遂にその 影響力を失うに至ったことを強調したばかりか、後の「ソ連邦における『イデオロギーの終烏』
?」 ("The ̀End of the IdeOlogy'in the Soviet Union?")をも大J曲こ主張する契機となった からであろう。その後、 Bellはコロンビア大学の部長時代の1966年に大学教育の改革に関する 書物『一般教育の改革』 (The Reforming of General Education)を著し、今日の大学生は早く から専門に分化するため高度に訓練される反面、知的には貧困な学生をつくり出しているという 認識に立って、伝統的な一般教養つまり歴史と西洋文明の理解を目的とする教養科目の充実を計 ろうとする大学改車案を世に問うo また、アメリカ芸術科学アカデミーの「紀元二〇〇〇年委員 会」の委員長時代における彼の仕事に、 1967年にみずから編集した『紀元二〇〇〇年に向かっ
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小笠原 責て』 (Toward the Year 2000)がある。さらに、季刊誌<The Public Interestsの共同編集者で あるIrving Knstolとの共編によって、 1969年に『対立』 {Confrontation)および70年に『今日 の資本主義』 (Capitalism Today)を出版している。
ところで、 Bellが1959年のオーストリアのザルツブルグ・セミナー以来熱心に説き続けてき たテ‑マに、 「脱工業社会」 (post‑industrial society)論がある.つまり、われわれが癖V節で 具体的に考察するように、彼はトータルな社会を経済的・技術的・職業的制度を含む「社会構造」
と、権力の配分をつかさどり諸要求の葛藤の調整を行う「政治」と、表出的な象徴や意味の儀域 である「文化」の三つの次元に分け、 「脱工業社会」という概念を第一の社会構造の変動にかか わるものとして提唱するOそして、十数年にわたる研究成果を集大成したのが1973年の『脱工業 社会の到来』 (The Coming of Post‑Industrial Society)である。したがって、この著はもちろ ん『イデオロギーの終駕』に次ぐ彼の第二の主著となる。なお、その際Bellはトータルな社会 を既述のように社会構造、政治、文化の三つの次元に分け、それぞれの次元が独自の原理に従っ て動く自律性をもっている点を指摘してはいるが、しかし、その三次元が相互に矛盾することが 現代社会の危機の源泉でありかつ最大の問題であると考えて、三次元の相互間の矛盾対立を正面 から考察するまでには至らなかった。それ故、この課題はBellに残されることになったが、こ れに解答を与えたのがいわゆる1976年の『資本主義の文化的矛盾』 {The Cultural Contradictions of Capitalism)である。したがって、この書物は『イデオロギーの終烏』、 『脱工業社会の到来』
に続く Bellの第三の主著であることは否定出来ない(6)。
Daniel Bellの「大衆社会」論批判
さて、ナチスによって祖国を追われてアメリカに亡命した社会学者 E.Lederer (1882‑1939) や精神分析学者E.Fromm (1900‑ )が、ナチズムを批判的に分析した「大衆社会」論を展開 したのは1940年代の初めである。つまり、前者のLederer が『大衆の国家‑階級なき社会の 封威‑』 (State of the Masses : The Threat of the Classless Society)を著したのは1940年で あり、後者のFrommが名著『自由からの逃走』 {Escapefrom Freedom)を世に問うたのは41 年であるからであるO ところで、わが国の社会学者作田啓一氏(1922‑ )が「大衆社会」論に は二類型、つまり個人と国家との間にある「中間集団」 (intermediate groups)が無力となった ために、ばらばらになった個人が中央の権力によって一元的に操作されるところに、大衆社会の 特徴を求めるいわゆる「中間集団無力説」と、大衆社会においても中間集団は依然として活力を
もち多元的に並存しており、何よりも所属集団への個人の過剰同調のなかに大衆社会の本質を兄 いださんとするいわゆる「過剰同調説」とがあり、前説は政治社会学的アプローチに傾斜し、後 説は社会心理学的アプローチに傾いているというが(7)、 LedererとFromm はまさにアメリカに おける両説の先鞭をつけたといえようoなぜならば, Ledererが前掲書において日を付けたの は近代の市民社会における多様な社会集団の機能であり、この近代的機能集団の無力化が「大衆」
の登場を促し、かかるアモルフな「大衆」を基盤としてナチス帝国の如き「全体主義国家‑大衆 国家」が成立するとし、さらに「大衆国家」を「無階級社会」として規定する(8'。それ故、彼の 理論は中間集団の無力化と大衆社会の特徴とを結び付けた理論であるといえるからである。同様 に、 Froml11も『日南からの逃走』において、第一次的経で結ばれて安定していた中世的人間、
神との関係で内面的動機に動かされていたプロテスタント的人間、そして現代社会にみられる自
動人形、の三種の人間類型を区別する。しかも、現代社会にみられる自動人形を彼自身説明して
「彼は文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを完全に受けいれる。そして他のすべて の人びととまったく同じような、また他の人びとが彼に期待するような状態になりきってしまう。
『私』と外界との矛盾を消失し、それと同時に孤独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズ ムはある種の動物にみられる保護色と比較することが出来る。彼等はその周囲の状態にまったく 似てしまうので周囲からほとんど見極めがつかない。個人的な自己を捨てて自動人形となり、
周囲の何百人というほかの自動人形と同一となった人間はもはや孤独や不安を感ずる必要はな い(9)」といっているところをみると、 Frommが大衆的人間の特徴を自己の喪失と不安感に駆り 立てられた同調過剰な人間に求めていることは明瞭である。それ故、彼の所説は過剰同調説の鳴 矢といえよう。
ところで、その後アメリカではLederer 的な分析枠組をもって中間集団無力説の大衆社会諭 を展開する者として、 『ホワイト・カラー』 (White Collar, 1951)および『パワー・エリ‑ト』
(The Power Elite, 1956)の著者C.W.Mills (1916‑1962)や『大衆社会の政治』 (The Poli‑
ticsofMass Society, 1959)の著者W.Kornhauser (1925‑ )が登場してきた。すなわち、
Millsはまず『ホワイト・カラー』において、ホワイト・カラーが数もふえ機能的にも重要にな ってきたところの現代アメリカ社会を無気力な大衆社会として把捉すると共に、彼等ホワイト・
カラーを政治的には冷淡で後衛(rearguard)の役割しか果たし得ないものとみなした(10)。彼はま た『パワー・エリート』において、アメリカの権力構造の]乱点の構成と機能に科学的メスを入れ、
政治的、経済的、軍事的の諸債域のエリートは今日ますます力を強め、個人と国家との問にある 中間集団が無力となったがために、ばらばらになった個人を上から一方的に操縦するようになっ てきた点を警告した(ll)。同様に、 Kornhauser もその著『大衆社会の政治』において、 「大衆社 会とは、エリートが非エリートの影響を受けやすく、非エリートがエリートによる動員に操縦さ れやすい社会制度である」と規定し、大衆社会の姿を「ェリート‑の接近可能性」 (accessibility to elite)および「大衆の操縦可能性」 (availability of non‑elite)のいずれも高い社会として捉 え、そして「この社会でエリートが接近しやすく、非エリートが操縦されやすいというのは、国 家と家族との間に介在する独立集団を欠如しているからである。このような独立集団は、エリー トもしくは非エリートが互いに他方によって操縦されたり動員されたりすることを妨げる働きを する」と主張するのば12㌧ まさに政治社会学的アプローチによる中間集団無力説の大衆社会一 般論であって、かかる大衆社会論が現代アメリカ社会に必ずしも適応出来るとはみていない。
これに対して、 Fromm流の社会心理学的アプローチによって過剰同調説の大衆社会論を開陳 する者に、 『孤独なる群衆』 (The Lonely Crowd, 1950)のD.Riesman (1909‑ )たちや『組 織のなかの人間』 (The Organization M,〝n, 1956)のW.H.Whyte, Jr. (1917‑ )がいるOま ず、 Riesman らはその著『孤独なる群衆』において、現代アメリカ社会を大衆社会として認識 すると共に、かかる大衆社会においても中間集団は依然として活力をもち多元的に並存している と考える。そして、現代においては第一次集団は学校や職場の同輩集団として強力に作用してお り、現代人は「正漠たる不安」の感情をむしろ他人つまり学校や職場の同輩集団、さらにはマス
・メディア、世論など‑過剰同調させることによって解消させているo このように大衆社会にお ける人間は自己をl附〕巻く周囲に細心の注意を払い、周囲の絶えず流動し変化する期待に鋭敏に 反応し、あらゆる人から好まれようとする傾向をもっている。これがいわゆる Riesman らのい う「他人志向型」 (otheトdirected type)の人間類型であって、かかるタイプはアメリカでは上
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小笠F虫 n層中産階級から新中間層にかけて広くみられるとした。なお、 Riesman らも人びとの社会的 性格として「他人志向型」の外に「伝統志向型」 (tradition‑directed type)と「内部志向型」
(inner‑directed type)とを挙げており、これらの三種を人口成長のカーヴであるS字曲線との 関連で提唱している点には目新しさがみられるものの、三種の人間類型そのものについては、彼 等自身が認めているようにFrommの影響を受けており、前述の彼の三種のタイプと極めて類似 する(13)。同様にWhyte も『組織のなかの人間』において、オーガニゼーション・マンを組織 による人間の疎外を嘆くかわりに、組織によって与えられる精神的物質的安定を恩寵と感じ、そ の組織に忠誠を誓う人間であると規定する。そして、彼は社会の圧力を道徳的に正当化しようと して、個人主義を中核とする伝統的なプロテスタントの倫理にかわる新しい倫理として、官僚制 的倫理ないし組織の倫理とも呼び得る社会的倫理を身につけるオーガニゼ‑ション・マンを指摘 し、今日の人間にとって何らかの組織に所属することなしに生活することは困難になり、かつそ の組織が巨大化するなかで、生活のさまざまな部面に大量のオーガニゼーション・マンが生み出 されつつあることを、現代のアメリカ社会において分析する(14)。それ故、 Whyteのいう「オ‑
ガニゼ‑ション・マン」はFrommの「自動人形」やRiesman らの「他人志向型」と軌を一 にするものであって、いずれも自己を喪失し不安感に駆り立てられた同調過剰な人間を意味する。
ところで、以上みてきたようなアメリカの社会学者たちの「大衆社会」論に対して、 Daniel Bellは次のような痛烈な批判を加えている。つまり、 Bellは1955年の「文化自由会議」のミラ
ノ会議に提出した「アメリカ大衆社会論‑一つの批判‑」 (HAmerica as a Mass Society:
A Critique,")という論文において、多くのアメリカ社会論はヨーロッパ社会学を無条件的にア メリカに適用してきたために多くの誤りを犯しているが、現代アメリカ社会を大衆社会として捉 える議論もその一つである、と主張する。
そして、まずアメリカの現代社会を既述のような中間集団無力説で主張するような大衆社会と して把握するような見解、例えばMillsの如き主張に対して、 Bell は次のように反論する。す なわち、現代のアメリカ社会はマス・コミュニケーションの発達によって伝統的な社会的秤が破 壊されたために、孤独な孤立した諸個人によって構成される「原子的」 (atomized)社会である、
といわれる。けれども、これは「現実世界の複雑にして、豊かな成層された社会関係をほとんど 反映していない」ために、事実ではない。別言すれば、アメリカ人は世界でも最も多く種々の団 体に加入して活動することを好む国民であるとし、その具体的な数字として「今日、米国には少 なくとも20万の自発的組織・結社・クラブ・社会団体・各種団体の支部・親睦団体があって、そ の全会員数(もちろん、重複しているが)は男女あわせて8,000万ちかくである」を挙げる。
そして、アメリカは変化と革新とをみずからの文化に組み込んだ史上最初の「巨大な中流社会」
(a vast middlebrow society)である(15)、と。
要するに、以上のような中間集団無力説の大衆社会論に抗議するBellにとっては、彼等の所 論は保守的な立場からする特権の擁護であり、懐古主義者による現代に対する抗議に過ぎないの であるが、さらに、 EellはMillsの『パワー・エリート』論に対して、 1958年に「パワ‑・エリ ート‑再考察‑」 ("The Power Elite‑Reconsidered,つ という論文を<ZAmerican Journal ofSociology^誌に載せる。そして、 Millsは『パワー・エリート』において、現代アメリカ社会
では、経済的諸決定の鍵を握る200ないし300の相互に密接に関連する巨大社会の会社金持(the corporate rich)、かつては分散していた多くの椎力をそれr'減のなかに集中化Lかつ今や社会 構造のすべての釦ナF lのなかにi,1透している国家付値機構の政柄i‑Vt'1,' (political directorate)、
そして現在の統治構造の最大の特徴であり1リ(なそれ自身の十¥¥i至組織を有し、その政治的社会的 発言権と影響力とを著しく増大させた軍事施設の‑イラーキーの頂点に位置する軍首脳部(war‑
lord)、をパワー・エリートとして捉える。しかも、彼はこれらの領域の各々が拡大し集権化され るにつれ、その活動の諸結果がより巨大になるのみならず、相互間の取引、癒着、連結、したが ってまた各領域のエリ‑ト問の交流のますます増大していることに注意を促すoそして結論的に は、 Millsはパワー・エリ‑トを全能な者、大衆を末定形で無知な存在と認識し、上からの一方 的操縦を説くのである(16)。しかしながら、 Bellのみるところによると、現代アメリカ社会は Millsのいうように少数のエリートによって支配される社会ではなく、むしろ反対に、かつての
「同族資本主義」 (family capitalism)の崩壊によって支配階級が消滅してしまった社会である として、次のように主張する。つまり、 「社会学的にいうと、同族資本主義の崩壊は欧米社会全 体における一連の権力移行と関連している。アメリカの60家族はもはや存在しないo同族資本主 義は経済的支配のみならず、社会的・政治的支配を意味したが、もはやそうではない。 ‑‑‑現代 社会における権力と階級的地位との諸関係をめぐって、二つの静かな革命が進行しつつあるよう に思われる。もはや相続のみがすべてを決定しないかぎり、一つは権力への接近様式における変 化であり、今一つは財産よりも技術的技能、富よりも政治的地位が権力行使の基盤になった点に おいて、権力保持それ自身の本質における変化である。この二つの革命は同時に進行する。政治 的にみて主要な結果は支配階級の崩壊である(17)」と。そして、こうした事実問題のみでなく、
さらにBellはMillsの理論のムードと意図、論理展開、そして用語に至るまで徹底的に批判し 最後に権力の所有者が誰であるかを発見することよりも、政策決定の諸類型という観点から議論 を進める方が、はるかに実り豊かなものになるのではないかといった提言までもする(18)。
だがそうかといって、現代アメリカ社会に過剰同調説の大衆社会論を通用する見解、具体的に は前述のような Fromm, Riesmai一, Whyte の見解に対しても、 Daniel Bell は必ずしも賛成 するわけではない.。つまり例えば、アメリカの大衆社会はその成員に過度の同調性を強いると Riesman らは論じてきたが、しかしながらこうした主張に対して、 Bellは誰が何に同調しつつ あるかを見分けることは難しい、と批判するo そして、 <C̲Fortune^>誌はWhyteの オーガニゼ ーション・マンの成長を非難するけれども、歴史的に展望するならば、アメリカでは過去半世紀 のいかなる時期に比べてみても、今日行動様式全般への同調性は恐らく少ないであろう、と主張 する。そしてまた、 Whyteがアメリカの社会生活特に中産階級の住む郊外住宅地の生活におい ては、驚くほど多くの社交クラブの存在を認めながら、かえってその多元的な中間集団の存在に よって、人びとの生活様式や思考様式が画一化された点を非難するが、この点に関しても Bell は都市に復帰しようとする人びとの新しい最近の傾向は明らかにその反動として、人びとは今一 度防柵を築こうとし、それ故に再びヨーロッパ社会学の見立てによるなら匿身性、孤立性、精神
の喪失、要するにアノミーという非難を引き起こすであろう、と反論する(19)
要するに、 Bellは現代アメリカ社会論を展開する際に、 Millsのような中間集団無力説の大衆 社会論を通用しようと、それともまたRiesman, Whyte らのような過剰同調説の大衆社会論を 援用しようと、どちらも不充分であるとし、さらに「大衆社会論はもはや欧米社会の記述として 役立つものでなく、現代生活‑のロマンチックな抗議のイデオロギーに過ぎない(20)」とさえ主 張する。したがって、 Bellに残された課題は大衆社会論にかわる新たな理論を展開することにあ
るが、それがわれわれが第Ⅴ節で詳述しようとする彼の「脱工業社会」論である。
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小笠原 頁IV Daniel Bellの「イデオロギー終薫」論
さて、 1950年代後半から60年代前半にかけて、欧米の学界や論壇を風摩したテーマに、 「イデ オロギー終鷲」 (end of ideology)論およびそれに対する「ニュー・レフト」からの批判論の、
いわゆる「イデオロギー終駕」論争があったことは周知の事実であろう。
そこでまず、 「イデオロギー終篤」論‑端的にいえば、現代社会は階級対立の消滅した社会 であり、それ故社会階級のイデオロギー問の対立も消滅し、もはやイデオロギーという言葉その
ものが死語となったという主張‑の登場をもたらした現実的基盤として、次のような事象が一 般によく指摘される。第一は、一方に1930年代以降における資本主義の修正、つまり具体的には アメリカのニュー・ディール政策にみられるように、先進資本主義諸国における国家の経済への 関与の増大や計画化、他方に社会主義国ソヴィエトにおける利潤原理や市場機構の導入と「ダイ アマット」の動態的機能の減退に伴って、いわゆる「産業化」を基準としての両体制の接近、換 言すれば、 「産業化」を指標とする限り資本主義と社会主義という体制の相違が、計画化・国有 化・政府の経済‑の関与等に関する合意の成立による「右」 「左」の立場の差違の縮小ないし消 滅によって意味を失ったこと、第二は、 1953年のスターリンの死とフルシチョフの登場による国 際政治における「米ソ協調」 ‑いわゆる「雪どけ」の開始、第三は、欧米における50年代の数々 の技術革新に伴う生産力の飛躍的発展による「豊かな社会」の出現と労働運動に代表される社会 運動の不揮、そして第四は、特に先進資本主義諸国における「新中間層」 (new middle class) の増大による階級対立の緩和、などであるO
では、こうした現実的基盤を踏まえて、 「イデオロギ‑終駕」論者たちは具体的にどのような 所論を展開したであろうか。まず、欧米の社会学者にあって終馬論を展開する者に限っても、管 見の範囲でフランスのRaymond Aron (1905‑ )、アメリカのE.A.Shils (1911‑ )、 Daniel Bell, S.M.Lipsetなどの名前が挙げられよう(2i)。けれども、一口に「イデオロギ‑の終駕」論 者といっても、 Aronに代表されるヨーロッパ系とBellなどのアメリカ系とでは、マルクス主義 あるいは狂信的イデオロギーへの挑戦という共通項をもちながら、それぞれの思想傾向に微妙な 相違がみられる.例えば、 Aronにとって「イデオロギー時代の終烏」は同時に信念と希望の危 機を意味するペシミスティックな内包をもつのに対して、アメリカ系の論者は「イデオロギーの 終竃」を望ましい発展として極めて楽観的に受け止めているように(22)。だが、本稿では個々の論 者の所説を逐一吟味する暇がない。それ放ここではただBellの1960年の『イデオロギ‑の終鳥
‑1950年代における政治思想の洞渇について‑』(The End of Ideology: On the Exhaustion of Political Ideas in the Fifties)を幾分具体的に論考し、その後彼の所論に対する C.W.Mills の批判を紹介するにとどめたい。
さて、 DanielBell は『イデオロギーの終鳥』のエビロ‑グで、 「欧米におけるイデオロギー の終馬」 ("The End of Ideology in the West,つ という論文を書き次のように主張する。まず、
Bellが「1930年から1950年の20年間は有史以来特殊な緊張した時代」であったと述べているよ うに、その間にあって、第Ⅱ節の彼自身の思想的軌跡が示すように、 1930年代のアメリカでマル クス主義に興味をもち社会主義運動家として出発しながら、やがてマルクス主義に対する創傷経 験を得たことと、社会事象の変化したこと、つまり「モスクワ裁判、独ソ不可侵条約、強制収容 所、ハンガリー労働者に対する鎮圧といった不幸な事件はひとつながりの鎖を形づくり、資本主
義の修正や福祉国家の台頭といった社会変動はいまひとつの鎖を形づくっている」こととの相葉 作用によって、登場してきたのが彼のいわゆる「イデオロギ‑終烏」論であるO では、 Bellの
「イデオロギー終鳥」論で問題にするイデオロギ‑とは、具体的にいかなるものであろうかo BellはまずMarxのイデオロギー概念を検討して次のようにいう。すなわち、 Marx の観念す
るイデオロギーは虚偽意識であるが、しかしそれは単なる虚偽意識ではなく、階級利害であるも のに対する普遍妥当性を主張する試みである。したがって、イデオロギーの「仮面を剥ぐ」とい うのは、その思想の背後にある客観的利害をあばき、そのイデオロギーの果たす機能を見分ける ことである。けれども、マルクス主義における「思想の社会的決定」論には多くの難点がある。
なかでも特にMarxの場合、社会における基本的な社会的区分は財産の分配から生じるとした が、現代社会の政治的・技術的世界では、財産は権力の決定要因としての、そして往々にして富 力の決定要因としての力さえますます失ってきたために、階級そのものの概念が不鮮明になって きている、と。次いで、 Bellはイデオロギーの概念の混乱を防ぐために、マルクス主義的なイ デオロギー論の克服をめざして知識社会学の樹立に努めたKarl Mannheim (1893‑1947)にな らって、 「特殊的イデオロギー概念」と「全体的イデオロギー概念」とを区別する。そして、前 者は「ある価値を信じると公言する諸個人は同時にまた利害をもつ」場合であって、例えば、企 業家のイデオロギーとか労働者のイデオロギ‑とかいったものがこれに含まれる。それに対して、
後者の全体的イデオロギーは「JL汎な現実に関する全包括的体系であり、全生活様式を変改しよ うと努める」ものであって、世俗的宗教をその具体例に挙げる。では、イデオロギーの終烏論で 主張するBellのイデオロギ‑とは、両者のいずれであるのかそれとも両者をさすのか。彼自身
「イデオロギ‑はさまざまな社会的転轍機‑の観念の変換である, ・‑・‑それは観念の帰結への実 践的参加である0 ‑‑・イデオロギーにその力を与えるものは人びとの情熱に外ならない。そして イデオローグにとって、真理は実践のうちにあらわれ、意味は『変革的契機』によって経験に付 与される」と記述するところをみると、明らかに全体的イデオロギーである。続いて、 Bellが この論文の末尾に近い箇所で、 「イデオロギーの終鳥とは、思想的にいうなら画期的時代に書か れた書物、つまり社会変動に対する安易な『左翼的』公式の書物を閉じることである」と明言す るように、左翼イデオロギーそれもとりわけマルクス主義の終竃を主張したものである。しかも、
19世紀に現出したイデオロギーはその背後に知識人の勢力をもって政治にかかわっていたが、も はや今日イデオロギーも知識人もその勢力が衰えてきたと彼が述べるところをみると、イデオロ
(Miill
ギー政治‑知識人政治の終烏、さらには広く社会運動の終烏をも示唆している(23)。そして、イデ オロギー政治‑知識人の政治にとってかわって新たに登場してくるものとして、 Bellは『イデオ ロギ‑の終烏』の「日本版への序文」のなかで、絶対的真理と絶対的信念の主張を放棄した「妥 協の政治」である「市民政治」を挙げ、 「イデオロギーの終篤は市民的秩序の始まりである」と 主張する(24)。
(補注) このことは、次のようなBellの立場にもよくあらわれている。すなわち、今日二つの「新しい 労働者階級」論が登場してきているが、 Bellの「イデオロギ‑終鷲」論は、第一の形態の「新しい労働 者階級」論、つまり、これはF.Engels (1820‑1895)などが特にイギリスに関して述べていた労働者階 級のブルジョア化論の現代版であって、例えば、イギリスの労働社会学者J.H.Goldthorpe (1935‑ )
らの『階級構造における豊かな労働者』 {The Affluent Worker in the Class Structure, 1969)における ような、労働者階級の新中間階級化あるいは体制内化という意味での「新しい労働者階級」論であるが、
この立場を支持する。これに対して、第二の形態の「新しい労働者階級」論、つまりこれは大雑把にいえ
128
・Ktt噴 ftばブルー・カラーに比べてホワイト・カラーが量的にみても急速な増加傾向をみせ、漬接的な経済的レグ ェルでも広く一般社会の次元でも、より重要な社会的存在となりつつあり、それ放、現代における根本的 社会変革はむしろホワイト・カラーを中心的担い手として行われるであろう、あるいはこれらの部分こそ が労働者階級全体のなかで前衛的役割を果たす部分であろう、とする主張である。そしてこのような主張 は、フランスの新左翼系社会学者S.Mallet (1926‑ )の『新しい労働者階級』 {La Nouvelle Classe Ouvriere, 1963)やオ‑ストリア生まれのフランスの社会評論家A.Gorz (1924‑ )の『労働者戦略と 新資本主義』 {Stratigie Ouvriere et Niocapitalisme, 1964)などにおいて具体的に展開される。しかしな がら、この立場は新中間層の増大による階級対立の綬和、そして階級政治・社会運動の終馬を説く Bell の見解とは鋭く対立するために、後に出版した『脱工業社会の到来』 (The Comi曙of Post‑Industrial Society, 1973)では、彼はこの第二の形態の「新しい労働者階級」論に真向から反対する(25)‑
ところで、われわれがDaniel Bellの「イデオロギー終烏」論において、特に注意しなけれ ばならないことに次の二点があるO すなわち、一つは「イデオロギーの終m」は先進資本主義諸 国における1950年代の事実であって、第三世界のいわゆる発展途上国においてはかえって「自由 な政治的、経済的制度」を定着させるために、ますます多くのイデオロギーと情熱の力とが必要 とされるということである。この点についてBellは「19世紀のイデオロギ‑は普遍主義的、ヒ ューマニズム的で、知識人によって形成された。アジア、アフリカの大衆イデオロギーは偏狭で 道具的性格をもち、政治指導者によって創出される。古いイデオロギーの推進力は社会的平等と 広義における自由であった。これに対して、新しいイデオロギーの弾みは経済発展と国家権力で ある」と述べる。残る一つは、 Bellが「イデオロギーの終電が同時にユートピアの終nではな いし、そうあってはならない」と主張する点であるO つまり、彼にとっては現代のユートピアは
「信仰の梯子」ではなく「経験の梯子」に、イデオロギーではなく科学に基づくものでなければ ならない。そして、左翼イデオロギーの如く未来を定義することもなく、しかも未来の名におい て現在を犠牲にすることと革命的目的の名においてあらゆる手段を正当化することこそ、絶対に 避けねばならぬとBellは考える(26)。
なお、 Bellは1964年の論文で前述してきた政治的、思想的変化の気流に乗って、 「ソ連邦にお ける『イデオロギ‑の終蔦』 ?」 (HThe ̀End of Ideology'in the Soviet Union?")を大胆に 主張したが、ここではその点に関する具体的な検討を差し控え‑岡田直之訳『イデオロギーの 終烏』の第8章「ソ連邦における『イデオロギ‑の終電』 ?」に譲り(27)、 ‑むしろ彼の前掲 論文「欧米におけるイデオロギーの終駕」に対する新左翼からの批判の声に耳を傾けよう。
さて、 「大衆社会」論で厳しい批判を受けたE.W.Millsは、今度は逆にBellらの終烏論者た ちに次のような鋭い批判を返す。まず、 Millsは「イデオロギ‑の終烏」論を政治哲学としての 自由主義ではなく、政治哲学を拒否しつつ自由主義のポーズをとった修辞学であると批判する。
次いで、彼は混合経済や福祉国家や豊かな社会の出現によってもはや重大な社会問題などはなく、
それ故、現在では階級闘争など消滅してしまったというそれ自体一つの虚偽意識である仮定事象 を終駕論者たちは潜在的にか拓在的にか分有している、とみなす。そして、 Millsはマルクス主 義への何らかの形での参加によって‑'5えられた一定の幻滅感に基づいて、マルクス主義を終鳥し た唯一のイデオロギーに仕立て上げ、引き続き修辞学を利用することによって、すべてのイデオ ロギーの終烏の宣告を下していった多くの終烏論者たちの責任を追及し、結論的に「イデオロギ ーの終電」論を「富裕な諸国における知識人の自分で仲間を選んだサークルに固有のもの」とい う意味で「地方的」であり、かつまた、みずからの政治的、文化的怠慢を正当化しようとするそ
れ自体一つの‑しかも「どんづまり」の‑イデオロギーに過ぎないときめつけるO要するに、
「イデオロギー終鳥」論は「政治的自己満足のイデオロギー」であって、政治哲学を打ち出すこ とを拒否しているのに対して、Mills自身は政治哲学の再建を積極的に提唱しようとしているた めに、まさに立場が逆であって、それだけに終鳥論を激しく批判することになるのである(28)
。
VDanielBellの「脱工業社会」論
さて、前節で記述したように、「イデオロギー終駕」論でマルクス主義への絶縁宣告をした DanielBellは、1950年代の終わりから70年代前半にかけての根本主張の一つとなった「脱工業 社会」論においては、みずからの思考や理論がいかにMarxの理論と異なるかという形で、み ずからの理論を提出し、みずからの理論を明確にするという表現のスタイルをとっている。その 一例がまさにこの節でわれわれが具体的に考察せんとする「脱工業社会」なる概念である。すな わち、Bellは「脱工業社会」論を正面から展開した大著『脱工業社会の到来』(TheComingof Post‑IndustrialSociety,1973)の「日本語版への序文」で、「最近まで西側社会学は、大部分が マルクス主義の影響下にあったため、社会の発展を単に単一の線上の社会変化としてしか考える ことができなかった。そのため困難が起こった。物事の継起は封建主義、資本主義、社会主義と いうふうに必然的になるものと仮定されていたのである。しかしこれらすべては混同から発生し たことである。なぜならMarxは生産の社会的諸関係(すなわち所有)と生産力(すなわち技
術)の両方をとり、それを単一の様式のなかに入れた。しかし、もし経済学の二つの次元‑所 有と技術の次元‑をはっきり区分し、これらを分析的に別の論理としてみるならば、≪二つ の≫違った継起的展開があり、これが作用していくことがわかるはずである。一つの軸、所有の 軸に沿っては、われわれは封建主義、資本主義、社会主義の伝統的なモデルをもつ。他の軸、技 術もしくは知識の軸に沿っては、別の継起、すなわち前工業、工業、そして脱工業社会である(29)」
(第1図を参照されたい)と述べ、Marxの生産関係史観に対する生産力史観から「脱工業社 第1図.国際関係の基本図式
II二装th会もしくは脱工業仕会
130
小笠原 頁会」の概念を引き出しているからであ0‑そして、このような彼の考え方の背後に、ポーランド の経済学者Oskar Lai一ge (1904‑1965)がその署『政拾経済学』 (Ekonomia Polityczna, 1961) 第1巻で、史的唯物論の第一の基本的法則と呼んだ「生産関係は生産力の性格にかならず照応す るという法則(30)Iに、大いに問鑑真があるとBell自身考えていることがあるように私には思わ れる・つ なぜならば、生産関係は生産力の発展水準の一意的な従属変数だ、生産関係は生産力水準 の一価関係だ、という Marxの仮説理論は、 1917年のロシア革命に始まり、 1949年の中国革命、
そして最近のベトナムなどの開発途上国の革命に至るほとんどすべてが、資本主義以前の主に農 耕を営む社会だった、とBell自身記述するように(31)、理論的にはともかく、実証的には反証さ れたといわなければならないからである(32)∩
ところで、 Bellは1959年のオーストリアのザルツブルグ・セミナーで初めて「脱工業社会」
(posトindustrial society)という言葉を口にし、それによって財貨生産社会からサーヴィス社 会への転換を強調したというo次いで、彼は62年に「脱工業社会」に関する長文の論文を書き、
「知的技術」および科学の決定的な役割を力説したという。続いて彼は、 66年の『一般教育改 革』において、脱工業社会の制度としての大学および知的団体の中心性を説き、紀元二〇〇〇年 委員会の仕事を通じて「脱工業社会」の概念体系の重要性に気付いたという(33)。そして、こう
した十数年の歳月を要した研究成果を集大成したのが、いわゆるBellの1973年の大著『脱工業 社会の到来』である。それ故、ここでは『脱工業社会の到来』における「脱工業社会」の概念の 意味内容がいかなるものであるかをわれわれは幾分具体的に問うことにする。つ
まず、 Bellは「予憩」 (prediction)が個々の事件についてされるのに対して、 「予測」 (fore‑
casting)は傾向あるいは趨勢についてされ、技術的予測、経済的予測、政治的予測などと並ん で社会的予測‑社会的枠組みの変化に関する予測が成り立つという。そして、 「脱工業社会」諭 という試論は先進工業社会の未来を取り扱っており、しかも社会的予測に関するものであるとし て、 Bellは「脱工業社会」という概念を次のように規定する(つまり「西洋社会の社会的枠組 みの変化に関する社会的な予測にはかならない」と(34)
次いで、 Bellは「脱工業社会」なる概念を中心に社会の傾向を分析する場合、トータルな社 会を次の三つの次元、つまり(1)経済、技術、職業体系からなる「社会構造」、 (2)権力の分配を規 制し、個人と集団の相対立する主張と要求とを仲裁する「政治」、 (3)表現的シンボリズムと意味
(柚11)
の債域である「文化」、に分割して考えることの必要性を提唱する。そしてBellの場合、 「脱T.
業社会」という概念は彼がしばしば述べているように、第一の「社会構造」の変動にのみかかわ る概念であって、決してトータルな社会の変動を意味するものではない(35)
(補注) Bellがト‑タルな社会を「社会構造」、 「政治」、 「文化」のT:.つの俄城に/分けるこの分析枠組み は、わが国の近代経済学者村上秦亮氏(1931‑ )が『産業社会の病理』 (1975年)において、産業社 会分析の枠組みとして採用する「社会経済構造(socioeconomic structure)」、 「政治(polity)」、 「文化 (culture)」の三分法とまったく同一である。そして、村上氏はこの二分法はアメリカの理論社会学者 T.Parsons (1902‑1979)の有名なAGIL図式とも関係が深い、という。だがしかし、私をしていわしむ れば、 Bellや村上氏のL記の如き三分法は、 Parsonsの四分法のAGIL図式などに比べれば、はるかに
「社会構成体」を生産話力と生産関係の接合体を意味する「土台」 ‑ 「下部構造」と、政治的・法律的要 求の「第一次的上部構造」および宗教・道徳・哲学・芸術などの社会意識形態を内容とする「第二次的上 部構造」とに分割する、いわゆる史的唯物論の分析枠組みに近い、といえよう。もっともMarxの場合 には、社会を動かす原理は一つであると考えられているのに対して、 Bellの場合には第Ⅵ節でみるよう
に三つあって三領域の中軸原則の対立が説かれる点で、両者の問に大きな開きもあることを、われわれは TL目しておかなければならない。
そこで、 Bellは「脱工業社会」という概念を次の五つの次元‑構成要因を明らかにすること によって、その意味内容を理解しようとする。その五つの次元‑構成要因とは(1)経済部門‑財 貨生産経済からサーヴィス経済への変遷、 (2)職業分布‑専門職・技術職階層の優位、 (3伸軸原 刺‑技術革新と政策策定の根幹としての理論的知識の社会にとっての中心性、 (4)将来の方向づ け‑技術管理と技術評価、 (5)意思決定‑新しい「知的技術」の創造、であるo まず、 (1)の経 済の債域における「財からサーヴィスへ」の重点の移行は、イギリスの経済学者Colin G.Clark
(1905‑ 以来繰り返し指摘されてきたことであるが、ただBellの場合、サーヴィスを①対個 人サーヴィス(小売店、クリ‑ニング店等)、 ⑧ビジネス(銀行、保険業)、 ④運輸、通信、公共 事業、 ④保健、教育、研究、政府の四つに分け、脱工業社会にとって決定的なのは④の範鴫の発 展である、と把捉される点が目新しい。次いで、 (2)は職業分布の変化によって脱工業社会の特徴 を捉える試みであって、 Bellは職業構造の上で専門職・技術的階層の増加率、とりわけ科学者と 技術者の伸び率が高いことを、唯一の脱工業社会であるアメリカ合衆国において実証する。そし て、 (3)はBellの「脱工業社会」の概念を理解する際の鍵になるところであると私には思われる が、「脱工業社会」のあらゆる原則の根源的論理となる原則つまり「中軸原則」 (axial principle)
‑ドイツの社会学者Max Weber (1864‑1920)の言葉を借りれば「固有の法則性」 (Eigen‑
gesetzhchkeit) をBellは「経験主義に対する理論の優位、ならびにいかなる公理体系でも そうであるように、多くの異なったさまざまな経験億域の説明に使用できるような抽象的なシン ボル体系への知識の集成である」と述べ、 「理論的知識の中心性」に求める。別言すれば、あら ゆる現代社会は技術革新と変化の社会的管理とによって生存しており、前以ってプランをたてる ため将来を予見しようと試みる。このように社会的管理に拘束されていることから、社会には計 両と予測の必要が生まれてくる.。技術革新の性質について認識を改めれば、理論的知識が極めて 重要になってくる、と Bellは考える。しかも彼は、新しいテクノロジーも経済成長もそして社 会の階級化もすべてこの「理論的知識の中心性」という軸のまわりに組織されるものと考える。
さらに(4圧主脱工業社全にあっては新しい技術予測と評価手法の発展によって、技術の直接的効果 だけでなく二次・三次の波及効果(汚染、環境破壊、公害等)を考慮しながら、テクノロジーの 変化が計画化され吟味され統御されるようになる方向を示すO そして(5)は、脱工業社会において はさまざまな「知的技術」が開発されると、それらがコンピューターと結び付いて、経済・社会 間題の解明に使われるようになることを指す(36)
ところで、以上みてきたように脱工業社会の中軸原則が「理論的知識の申心性」であるとする ならば、それではBellは脱工業社会における階層化体系を具体的にどのようなものとして把握 しようとするのかを、次にわれわれは問わなければならない.さて、 Bellは「階級とは、結局 特定の人の集団を意味するのではなく、差別的な権力とそれに付随する特権を入手、維持、譲渡 する基本的ルールを制度化したシステムを意味する」と規定する。そして現在のアメリカ社会に は、この点からいえば、次の三つの権力の基盤と権力‑の接近様式が混在すると彼はみなす。つ まり、それらは(1)財産(権力の基盤) ‑相続、企業家的能力(接近様式) ‑家族(社会的単 位) 、 (2)政治的地位(権力の基盤) ‑政治マシ‑ンへの加入、編入(接近様式) ‑集団、政 党(社会的単位)、 (3戦術的能力(権力の基盤) ‑教育(接近様式) ‑個人(社会的単位)、
である。そして、 Bellは脱工業社会が発展すれば当然(3)が決定的となると考えるtJ さらに、彼
132
小1W,f 真は脱工業社会の社会構造のアメリカ・モデルを次のように構想する,, I知識を階層化の軸とする
「地位」 (Statuses) 水平的構造」)として、八軒署内、技術的、行政的、文化的専門職階級、
B技術者、半専門職、C事務、販売、 D職人、半熟練工(ブルー・カラー)の四つを挙げる。
そして、知識を階層化の軸とする以上、脱工業社会ではAとB以下との階層化が特に重要とな る、とBellは考える。 Ⅱ職業活動の場所としての「位置」 (Situses) (「垂直的構造」)として、
A企業、会社、 B政府(官僚制‑司法、行政)、 C大学、研究機関、 D社会施設(病院、社会事 業センター等)、 E軍隊、の五つを挙げる。しかも、われわれがここで特に注目すべきは、 Bell が脱工業社会における政治的利害の主要な単位を、 IではなくⅡに求めていることである。つま り、このことは別言すれば、脱工業社会では資本家と労働者の間のいわゆる階級間の闘争・競争 よりも、むしろ人びとが属している職業組合間でおこる競争や対立の方が、本質的なものである
とBell にあっては考えられるために、水平的構造よりも垂直的構造‑ヨコ割り社会よりもタ テ割り社会‑が重視されるわけである(37)。
さらに、 Bellは脱工業社会の特質をより明確に把握せんとして、前工業社会および工業社会 との比較をさかんに試みようとする。なかでも、前工業社会の構図(design)が「自然に対する ゲーム」であり、工業社会のそれが「加工された自然に対するゲ‑ム」であるのに対して、脱工 業社会のそれは「人間相互間のゲーム」であるとして、彼は次のように敷桁する。まず、今日世 界の大部分が依然この状態にある前工業社会では、労働力は圧倒的に鉱業、漁業、林業、農業と いった採取産業に従事する。生活は専ら「自然に対するゲーム」である。人は生身の筋力を使っ て先祖伝来の仕事をし、その仕事のペースは四季と天候によって変化する。それは自然とのゲ‑
ムであるから生産性は低い。次いで、主として北大西洋沿岸諸国にソ連、日本を加えた工業社会 は財貨生産社会である。生活は「加工された自然に対するゲーム」である。世界は技術的になり 合理化された機械が支配し、生活のリズムは機械的なペースで進む。エネルギーが生身の筋肉に とってかわり、生産性の基礎となる動力を提供し、工業社会の特徴である財貨の大量生産を引き 受ける。エネルギーと機械とは仕事の性質を変えるD工業社会は人間と物質と市場が財貨の生産
と分配のために緊密に組み合わされている整合の世界である。また工業社会は職階組織と官僚制 の世界であり、人間より物の調整の方が容易であるから、人間は「物」として取り扱われる。続 いて、こうした前工業社会および工業社会に対して、脱工業社会はサーヴィスに基礎を置く。し たがってそれは「人間相互間のゲーム」である。重要なのは生身の筋力でもェネルギーでもなく
「情報」である。その中心をなす人間は専門職である。なぜなら、教育と訓練によって彼は脱工 業社会でますます必要とされる種類の技能を提供出来るように装置されるからである。もし工業 社全が生活水準の基準として財貨の量によって定義されるものであるとすれば、脱工業社会は今 やあらゆる人びとにとって望ましく可能であるとみられるサーヴィスと楽しみを尺度とする生活 の質によって定義される。そして脱工業社会における人と人とのゲームとしての社会生活は、こ れまでより難しいものとなる。なぜなら、政治的要求と社会的権利が増大し、社会変化と文化的 流行の移りかわりの速さが老人を当惑させ、未来への指向が過去の伝統的な指針と通過概念を損 なうからである。情報が中心的資源となり組織のなかにおける権力の源泉となる。こうした専門 家主義が地位の基準となるが、それはまたより多くの権利と社会へのより大きな参加に対する要 求から生まれる大衆主義と衝突する。工場という場における資本家と労働者との闘争が工業社会 の特質であるとすれば、組織と共同体における専門家と大衆との衝突が脱工業社会における紛争 の特質である,。そして、これら三種の社会つまり前工業社会、工業社会、および脱工業社会の本