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『ドイツ・イデオロギー』公刊史に関する覚書(1)

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『ドイツ・イデオロギー』公刊史に関する覚書(1)

その他のタイトル A Note on the Drafts of "Die deutsche Ideologie" and their Publication (1)

著者 重田 晃一

雑誌名 關西大學經済論集

巻 11

号 6

ページ 621‑643

発行年 1962‑02‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15494

(2)

2 & 

﹃ドイツ・イデオロギ1﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ とフリードリッヒ・エンゲルスの遺稿に関する最新の報告﹂の でー公表されるに至ったのである︒ たまま︑生前遂に公刊の機会にめぐまれず︑幾多の迂余曲折を 執筆せられたのは︑一八四五年晩夏から翌四六年秋にかけてのことであった︒だが︑それは種々の事情から筐底深く秘められたどりながら︑ほぼ九十年に近い歳月をけみした一九三二年になって`やっとその全貌がーそれも草稿の今日存在するかぎり

この﹁不運なる﹂草稿の歴史については︑すでにわれわれは︑

リャザーノフの手になる比較的に詳細な二つのモノグラフィを

もつている︒すなわち︑一九二三年十一月二十日︑モスコー社

会主義アカデミーでかれのおこなった講演﹁カール・マルクス マルクス︑エンゲルスによって﹃ドイツ・イデオロギー﹄が き

A

ま え カ

六九

( 1 )  

印刷に付されたものがその︱つであり︑いま︱つは︑一九二六

ス・エンゲルス︑フォイエルバッハ論﹂の表題のもとに︑フォ

イエバッハに関する遺稿をはじめて公表するにあたって執筆さ

( 2 )  

れた﹁編輯者緒言﹂がこれである︒しかしこの二つの論稿は︑

生れている︒

たと

えば

そのいくつかの例として︑日かれが

﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿の篇別構成について下した推定

の訂正︑ロ一九二六年以後ひきつづいてあらわれたこの草稿の

部分的公表についての補正︑国かれの指導下に編輯され︑﹃マ

ルクスーエンゲルス・アルヒーフ﹄第一巻に公表されたフォイ

エルバッハに関する遺稿の構成と︑アドラッキーの指導下に編 後の研究の進展によっていくぶん訂正もしくは補正する必要が それらが執筆された年代からある程度推定されるように︑その 年 ︑

﹃マ

ルク

1

1エンゲルス・アルヒーフ﹄第一巻に﹁マルク

田 『ドイツ・イデオロギー」公刊史に関する覚書〗

ー~ 

(3)

622 

は︑いまなおみられない︒かくてこの歴史的経過を跡づけよう

とすれば︑今日なお︑われわれは︑リャザーノフの二論稿にた

よりながらこれをその後の成果によって補正する︑というはな イデオロギー﹄草稿の複元と公刊の歴史的経過を通観したもの

ツ・イデオロギー﹄草稿の複元と公刊の歴史的経過をたどつ大 るかぎりの文献はいま一度これをあらためなおしつつ︑

﹃ド

れが後学の者の先学に対する礼儀でもあろう︒ どおこなわれているけれども︑その成果にたつて︑

﹃ド

イツ

ところで︑このリャザーノフの二論稿の訂正・補正はそのつ る ︒ 積極面をややもすれば過少評価する傾きが認められるのであ れの先行者達の業績の欠陥をつくに急であって︑それらのもっ リングの編輯にかかる﹃マルクス・エンゲルス・ラッサール遣稿集﹄第二巻(‑九0二年刊︶においているけれども︑わたし

自身の調査によれば︑問題の緒口はすでに一八九六年に開かれ

ており︑したがつて筆をそこから起すのがョリ妥当におもわれ

る︒しかもやや大胆ないいかたをすれば︑リャザーノフのこの

二つの論稿は︑一般に︑この不朽の古典の公刊史上に占めるか むろん︑本稿はこのような要請に︑ただちにこたえうるものではない︒われわれの置かれている文献についての状況からいつても︑それはとうてい不可能である︒だが︑それにもかかわらず︑あえてその一端に近づいてみようとしたのは︑こうであ

きわめて容易に﹃ドイツ・イデオロギー﹄全体を手にしうるよ

うになった︒だが︑かえつてそのために︑それが諸先学の数十

年にわたる血のにぢむような探索と整理の賜物であることを忘

れ去ろうとする傾きはないか?そこでわたしはわたしなりに︑

先学苦闘の跡を追縦してみたかっただけのことである︒またそ

以下︑本稿はもっぱらこのような関心にもとづき︑利用しう る︒周知の如く︑かのアドラッキー版の出現以来︑われわれは れる必要がある︒ った諸家によるこの草稿の複元と公刊の努力の出発点を︑メー きよう︒またリャザーノフ自身は︑エンゲルス死後にはじま されたそれとの︑比較対照と吟味の必要などをあげることがで 輯

され

﹃マルクス・エンゲルス全集﹄第一部第五巻に公表 ﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

はだ面倒な手続をふまねばならない︒だがこのような状況は︑

次の事情を︑つまりアドラッキー版の出現による﹃ドイツ・イ

デオロギー﹄草稿複元と公刊の問題の一応の終結という事態を

考えあわせるとき︑問題をしめくくる意味でも︑早急に克服さ

七〇

(4)

623 

﹃ドイツ・イデオロギーー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ B

d .  

I, 

S.

205 

22

1.

そ の 中 で と く に 本 稿 と 関 係 が 深

( V g l .  

G .

  M a y e r , D   i e   . E n t d e c k u n g "

  d e s   M a n u s k r i p t s   d e r   , , D e u t s c h e n I d e o l o g i e

  ^•

G r U n b e r g s   A r c h i v ,   J a h r g .  

12

19

26

s .  

284‑287.)

(2

D .   R j a z a n o v ,  

E i n f i i h r u n g   d e s   H e r a u s g . e b e r s

  z u ;  

土 居 三 郎 訳

﹃ マ ル ク ス

・ エ ン ゲ ル ス 遣 稿 考

った︒とこるで︑マルクス・エンゲルスの往復書簡や多

M a r x   u n d   E n g e l s i b   i e r   I <

' e u e r b a c h ,   ( E r s t e r   T e i l   d e r   , , D e u t s c h e n   I d e o l o g i e " )  

, M   ̀ a r x ,   E n g e l s   A r c h i v ,  

ンュタインがひとりでこれを意のままにすることにな ロギー﹄草稿をも含めたマルクス︑エンゲルスの遺稿

エ ン ゲ ル ス 死 後 ど の よ う に 処 置 さ れ た か に 関 し

て︑簡単にみておこう︒

G

・マイアーは次のようにしる

ー重田︶ペーペルは死去したが︑そこでいまやベルン 造

稿 を お く つ た の で あ っ た

︒ 先 年

︵ 1 1 ‑

九一三年八月

ペルンンュタインの二人にマルクスとかれとの著作の している︑

﹁エンゲルスはその遺言の中でベーペルと

G

・ マ イ ア ー に よ る 反 論 を さ そ い だ し た

﹄ の 中 に 収 め ら れ て い る

︒ な お こ の 論 稿 は た だ ち に

訳名で︑

( 3 )

以下の本論の叙述の便宜までに︑

1

﹃ドイツ・イデオ

マルクス並にフリードリッヒ・エンゲルスの遺稿﹂の 一八五ー三九一ページまでである︒邦訳は﹁カール・ と

略 称 す る

︶ そ の 中 で と く に 本 稿 と 関 係 が 深 い の は

l

七六ページ︶︒だが氏の推定にも直ちに同じがたい られる︵﹁ドイツ小プルジョア・イデオロギー﹄七四

(1

)

D .

 

Riasanoff•

N e u e s t e   M i t t

e i l u n g e n b   U e r   d e n   l i t e ‑ r a r i s c h e n   N a c h l a s s   E n g e l s ,   A r c h i v   f u r   d i e   G e s c h i c h t e   d e s   S o z i a l i s m

d

d e r   A r b e i t e r b e w e g u n g ,   J a h r g .  

1 1 ,  

H e f t  

3,

 1

92

5,

 

s .  

385400. 

( 3 )  

ものである︒

v o n   K a r l   M a r x   u n d   F r i e d r i c h  

︵以下この雑誌は

G r i i n b e r g s A   r c h i v  

z e i c h n i s B ,   d .

 

13

の記載にしたがつておく︒

l

一八ベージ︶︒

ところで︑この書物には発行年月の記載がなく︑これ を一九二六年とすることには若干の疑問があるようで ある︒例えば︑服部之総氏は一九二五年と推定してお ので︑ここではさしあたり

D e u t s c h e s B i i c h e r v e r

いのは二

0

五ーニ︱

0

ページまでである︵三木訳︑七

(5)

62

ンシュタインー︶﹂<一部の断片はラファルグーの保管

あ る

なおこの点に関連していうと︑本稿のねらいは︑ベル ﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史の幕が切つておとされたので はさきのマイアーの﹃回想録﹄と軌を一にしている︒ 伝え聞いた話として︑遺稿の処置にふれているが︑それ

て ︑

﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿の発見と公刊になってあら

身 は

かれの投じた一石が幾重もの波紋をえがきつつ︑ やが

387. 

邦訳三ー︑六ベージ︶︒また馬葉礼﹁マルクス に迫った頃︑﹃ノイエ・ツァイト﹄一四年号第二巻は︑二七︑ エンゲルスがロンドンの仮寓で死去したのは︑一八九五年八 エンゲルスの草稿﹂があったのを発見した旨︑証言し 人々の記憶からすつかりとおのいてしまつていたのである︒ にローラ・ラファルグのところに﹁大部のマルクス 著者たち生前に公表された唯一の部分でありながら︑いつしか とを述べているが︑かれはそれと並んで︑

( G .   M

a y

e r

,   E

r i

n n

e r

u n

g e

n ,

i   Z

i r

i c

h /

W i

e n

 

1949, 

s .  

20

6.

)

︒リャザーノフもほぽこれとよく似たこ

にフランスに送られたものと考えられる 一九︱一年

ている︒したがつて︑追稿の一部は何かの事情でベー

ペル︑ペルンツュタインの手をすりぬけて︑まつすぐ

( N

e u

e s

t e

 

M i

t t

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l u

n g

e n

,  

G r i i

n b e r

g s   A

r c h i

v ,   J

a h r g

1 1  

.  

̀ 

s .  

385 

エンゲルス文献秘話﹂︵﹃社会評論﹄第九巻第五号︑

九四八年十二月号所収︶も︑

G

・マイアーから直接に けることにある︒

﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿の複元と公刊の歴史は︑﹁グリ

( l )  

ューン﹂稿の発見と覆刻からはじまる︒それはこの草稿の中で

月五日のことであった︒翌九六年︑その一周忌もようやく間近

八号の二回にわたって︑

P.V

・ストルーヴェの﹁カール・マ

ルクス︑四

0

年代の二つの未知の論稿ーー科学的社会主義の成

( 2 )  

立史によせて﹂という表題の論文を掲載した︒ストルーヴェ自

われようなどとは予想だにしなかったが︑はしなくも︑ここに し て い た ﹂ ロギー﹄草稿ー重田︶を暫時自分の家においたままに ュタインはほかならぬこの文書

( 1 1

﹃ドイツ・イデオ

数の草稿は党の文庫がこれを保管したのに︑ペルンツ ﹃ドイヅ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重国︶

な経路をとおつて順次公表されるに至ったかを︑跡づ していた問題の遺稿がいかなるいきさつからどのよう

(6)

62. 5 

ィッ・イデオロギー﹄公刊史に濶する覚書︵重田︶

﹁ ド

党宣言﹄の水準に立つものと認定し︑このような角度からマル

この二つの論稿を﹃共産

七 か︑確かめることができたらいいのだが︒P.V・ストルーヴェ

困﹂にむすびつけ︑さらに進んで︑

ェス・ダンプボート﹄に印刷されたものと同じであるかどう かれはこの二つの論稿の中にマルクスの﹁科学的社会主義の最 初の宣言﹂を読みとることによって︑これを一挙に﹃哲学の貧

の遺稿の中にあるのを知った︒

ろ︑もっぱら︑この二つの論稿を素材にして︑マルクスと真正 社会主義者との関係を論定することにむけられた︒すなわち︑

んでいた︒註

H

はい

う︑

﹁わたくしのこの論稿のできあが

った後で︑わたくしは︑グリューンにたいする論稿がマルクス

それが﹃ヴェストフェーリシ

風変りな註を挿入することによって︑問題前進への契機をはら

ているものであって︑これまた︑

年七月号に掲載されたのであった︒いまにしておもえば︑スト ルーヴェは巨大な鉱脈を掘りあてたといわなくてはならない︒

だが︑かれはそのことにまったく気がつかなかったのである︒

かれの関心はこの二つの論稿の成立事情の考証よりも︑むし

﹃ノイエ・ツァイト﹂一四年号

第二巻第三三号にベルンシ

( 3 )  

ュタインの論文﹁マルクスと真正社会主義﹂があらわれるにお よんで︑問題はさらに一歩前進した︒

これより先︑ストルーヴェの論文は︑第二回分に次のような

﹃ダンプポート﹄の一八四六 つの論稿は︑今日︑

ストルーヴェによって発掘され︑あらためて紹介されたこの

八︑九月号に二回にわたつて発表されたものであった︒いま ン ﹂

それは﹃ダンプボート﹂一八四七年

ちがいを見失い︑それはそれでふたたびかれから前者成立の事 かれは両者の差異を浮彫りにすることには成功したけれども︑

この論文で︑かれは︑

稿だったのである︒

﹃ヴェストフェーリシェス・ダンブボ

ート

( D

a s

W e

s t

p h

a l

i s

c h

e   D a m

p f b

o o

t )

に発表されながら︑

筆者自身によってもまた忘れ去られたかに考えられるマルクス の﹁二つの未知の論稿﹂をひろいだし︑紹介と論評とをおこ なったが︑その︱つが︑はからずも︑すでに述べた﹁グリュー

﹁クリーゲに反対する回状﹂として知られ

クスと真正社会主義者との差異︑対立を強調した︒その結果︑

逆にこの二つの論稿と﹃貧困﹄︑﹃宣言﹄との間に存在する微妙な

情考証への関心をぬきとった︒かくて︑かれはせつかく貴重 な資料を眼前にしながら︑それらがマルクスのものであるとの

︑︑

︑︑

︑︑

推定をくだすだけで満足してしまったのである︒

二つの論稿のうち︑グリューンに関する部分についていうと︑

• ‑ ― ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ -—-- ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ --—---—• ————----

(7)

626 

前述の事実を再確認したあとで︑

載の論稿ー重田︶と同じように︑﹃真正社会主義の歴史叙述﹄と

いう表題がつけられている︒したがつて︑いずれにせよ︑それ

で書かれ︑いくつかのごく僅かのマルクスによる訂正がある︒

だが疑いもなくこの論稿はマルクスに由来する︒スタイルと内

容︑それに周知のマルクスのグリューンにたいする関係︑それ とこれとは本質的な点で一致している︒草稿はエンゲルスの手 る ︒

﹁それ(11遣稿ー重田︶には後者(11﹃ダンプボート﹄掲

続けて次のように述べてい

エ・ツァイト﹄編輯部がストルーヴェの註に付註して確認した この論文をはじめるにあたり︑ベルンシュタインは︑

﹃ ノ

にないので︑目下のところ︑遣憾ながらわれわれもまたこれを

確かめえない︒だがストルーヴェによって引用された箇所はの

こらず問題の草稿の中にある︒したがつて︑ここで論じられて

いるマルクスの記事はこの草稿の印刷されたものか︑さもなぐ

ば︑この草稿からの抜莱であろう︒ねがわくば︑早い機会にこ

( 4 )  

の二つのものの関係を確定したい︒編輯部︶﹂︒

そしてベルンシュタインの論文のねらいの︱つもまたそこに

あったのである︒ ︵﹃ヴェストフェーリシェス・ダンプボート﹄の論稿が手もと ﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

稿の中の真正社会主義に関する部分の公表を晩年に一度は企図 は︑突如としてそこで方向を転じて︑エンゲルスがこれらの遺 ルクスが後で利用するためにとつておいたものとおもわれる﹂

( s .  

216)

︑ ︑

︑ ︑

ストルーヴェによって発掘され︑マルクスのものと推定され

た﹃ダンプボート﹄所収のグリューンに関する論稿は︑いまや

マルクス︑エンゲルスの遺稿そのものと照合されることによっ ︑︑︑︑︑︑︑︑ て︑ストルーヴェの推定の正しかったことが完全に立証された

の で あ る

だが一歩踏みこんで︑

場した問題の遺稿の執策事情の考証と位置づけという点になる

と︑ベルンシュタインは黙して語らない︒

﹁原稿は真正社会主義に関する他の論稿や︑

M

・ シ ュ テ イ ル

ナ ー

B

・バウアーに関する論稿と並んで︑マルクスが死ぬま

では︑かれの手に所有されていた︒ 次いでエンゲルスがこれ

らの文書を保管していたが⁝⁝⁝⁝﹂

( s .

216217)

→ ー

ー す

で に

﹃ドイツ・イデオロギー﹄の全貌を熟知している今日の眼で眺

めれば︑なかなか興味をそそられる陳述である︒だがこの陳述 この新たに脚光をあびて登 らく原稿はエンゲルスによって作成されたコビーであって︑マ らが一斉に示すところでは︑ マルクスが著作者である︒

七四

おそ

(8)

627 

( 5 )  

周知のように︑マルクスは﹃経済学批判﹄の﹁序言﹂で︑また

( 6 )  

エンゲルスは﹃フォイエルバッハ論﹄の﹁序文﹂で﹃ドイツ・イ

デオロギー﹄草稿に言及する機会をもった︒ベルンシュタイン

そうこうするうちに︑問題の遺稿が﹃ドイツ・イデオロギー﹄

草稿の一部分を構成することが別の資料によって立証された︒

﹃ノイエ・ツァイト﹄一四年号

たメーリングの﹁マルクスと真正社会主義再論﹂が︑その資料

( 7 )  

を提供したのである︒

表題が示すように︑メーリングのこの論文のねらいは︑マル クスと真正社会主義との関係を論じたストルーヴェ︑ベルンシ

ュタインの論稿のあとを承けて︑かれらの提出した資料とその

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

った︒この﹁補足と追加﹂の一っとして︑かれはマルクスの筆

七五

評価とに﹁いくつかの補足と追加をする﹂

( s .  

395)ことにあ

( 8 )  

になる一八四七年四月六日付﹃プリュッセルードイツ語新聞﹄

在を指摘した問題の遺稿とくにグリューンに関する草稿が︑﹃ド

イツ・イデオロギー﹄の草稿であることを立証するきめてとな

っ た

﹁ わ た く し は 一 年 来 す で に で き

あがった詳細な評論を草稿のままねかせているが︑それはベル

リンの友人の要請で︑今度はじめて﹁ダン︒フボート﹄へ印刷の

ために送られる︒評論はF・エンゲルスとわたくしとが協同で

執筆した﹃ドイツ・イデオロギー﹂

のである︒﹂

( s .  

397)

いてかつて著者たちが言明した二典拠︵﹃経済学批判﹄﹁序言﹂

と編成とがヨリ明確に示されている︒それがいまあらためて人

々の追憶の中によみがえったのである︒

もしメーリングがその気になれば︑かれはこの﹁声明﹂に依

拠しながら︑さきにベルンシュタインが口にした遺稿が︑この と﹃フォイエルパッハ論﹄︶に較べると︑ここでは草稿の範囲 ﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿につ

第二巻第三九号に掲載され

々な予言者におけるドイツ社会主義との批判︶の追加をなすも パウアー︑シュテイルナーに代表される最近のドイツ哲学と様 ︵フォイエルパッハ︑B のによって確証しただけにおわったのである︒ によってマルクスが執筆者だと推定されたものを︑遺稿そのも は︑はたして︑すでに引用した文章でかれが話題にのぼした遺稿とこれとを結びつけえなかったのだろうか?ともあれ︑匝接︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑の資料に即してみたかぎりでは︑かれの論文は︑ストルーヴェ ﹁声明﹂の一節はいう︑

救い出したが︑意外にも︑これが︑ベルンシュタインがその存 の記事﹁カール・グリュンに反対する声明﹂を忘却の淵から していた︑という追憶談にかわってゆく︒

(9)

62.8 

録された﹁カール・マルクス︑社会主義の歴史叙述家としての

アドラッキーが複元したところによると︑それは次の 註

(1

)

現存の﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿にもとづいて イエ・ツァイト﹂一八年号

カール・グリューン論│ーマルクス

1 1エンゲルス遺稿より﹂が︑

第一巻第一︑こ︑五︑六号に収

二巻においてである︒ 九九年になって︑やっと年来の約束が果されたのである︒

﹃ ノ

編輯部もまた同じ論文の中で註して︑

れを公表する予定である﹂

の編輯による﹃マルクス・エンゲルス・ラッサール遺稿集﹄第 の履行は案外にてまどった︒このときより三年を経過した一八い︒そしてわれわれがこの点の確認に出会うのは︑メーリング (S 219)と約束していた︒だがそという視点を欠いているのは︑不思議といわなくてはならな ﹁われわれはまもなくこ 猶予されてはならない﹂メーリングの論文のあとをうけたこの時点においても︑ い

る﹂

る ﹂

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

﹁声明﹂にいうところの評論その他の草稿ではないかとの疑い

論稿については︑その点を確定しておくべきだっただろう︒と

﹁わたくしがこの宣言の本質的内容を文字どおりに再

現したのは︑それが﹃ノイエ・ツァイト﹄に近々公表されるグ

リューンに関する論稿の理解に重要だとおもわれたからであ

( s .  

397) ‑‑問題をかく提起しながら︑かれは以上の確

認すらしなかったのである︒

さて︑ベルンシュタインはさきに言及した論文の中で次のよ

うに言明していた︒﹁おもうに︑ストルーヴェ氏がグリューン

に関する論稿をあかるみに出したからには︑その覆刻はもはや

( s .  

217)

﹃ノイエ・ツァイト﹄の ルスの遺稿に見出される草稿にもとづいておこなわれる︒それいるが︑ちがいは全体として非本質的な性質のものである︒多分︑問題は明らかに﹃ダンプボート﹄における誤植︑脱漏にある︒⁝⁝草稿はエンゲルスの筆になり︑マルクスにより個々の短い補足がなされている︒なるほどマルクスが主要な執筆者であったが︑エンゲルスもまたここでは本質的な援助をあたえて

( s .

  5

)

いまやエンゲルスの﹁本質的援助﹂が認められている︒だが

﹁緒

﹂がこの草稿を﹃ドイツ・イデオロギー﹄の一部として取扱う

ころ

が︑

は所々の箇所で﹃ダン︒フボート﹄に印刷されたものから離れて をさしはさみえたはずである︒少くとも︑グリューンに関する本文の前に付された﹁緒言﹂はいう︑﹁以下の印刷はエンゲ

( 9 )  

すなわちこれである︒編輯者はベルンシュタインであった︒

七六

(10)

629 

会主義の哲学﹂稿︑③を﹁グリューン﹂稿︑④を﹁ク

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

第二部の草稿についても︑①と③をあわせて﹁真正社

五ベージ︒

七七

( 7 )   F .   M e h r i n g ,   N o c h m a l s   M a r x   u n d   d e r   . w a h r e "

 

稿︑④と⑤をあわせて﹁シュティルナー﹂稿とよび︑

大 月 阪

﹃ マ ル ク ス

・ エ ン ゲ ル ス 選 集

︑ 一 五 巻 四

ォイエルパッハ﹂稿︑②と③をあわせて﹁パウアー﹂ 下本稿では叙述の便宜上︑第一部の草稿中︑①を﹁フ ン

博 士

あるいは真正社会主義の予言﹂

で あ る ︒

以 ④ ﹁ 五 ︑ ﹃ホルシュタイン出身のゲオルク・クールマ 一八四五年︶﹄あるいは真正社会主義の歴史叙述﹂︑ ス︑ペルギーにおける社会運動︵ダルムツュタット︑ 正社会主義の哲学﹂︑③﹁カール・グリューン﹃フラン ﹁真正社会主義﹂②﹁‑︑﹃ライン年誌﹄あるいは真 た

︑ 今 日 保 存 さ れ て い る の は

① 緒 論 的 部 分 を な す

ずであった︒第二部も六つの草稿から成るはずであっ イプチヒ宗教会談の終結﹂と題される小節からなるは ④﹁二︑聖プルーノ﹂︑⑤﹁三︑聖マックス﹂︑⑥﹁ラ の緒論をなす﹁ライプチヒ宗教会談﹂と題する小節︑ なす﹁フォイエルパッハ﹂︑ ものからなる︒周知の如く︑それは二部にわかれる

6

第一部は①マルクスの序文︑

② 全 体 の 総 括 的 部 分 を

③ つ ぎ の 二 つ の 草 稿 ヘ

(2

P . v .   S t r u v e ,  

w e i   b i s h e r   u n b e k a n n t e   A u f s a t z e   v o n   K a r l   M a r x   a u s d   e n   v i e r z i g e r   J a h r e n , E   i n   B e i t r a g   z u r   E n t s t e h u n g s g e s c h i c h t e   d e s   w i s s e n

s c h a f t l i c h e n   S o z i a l i s m u s ,   N e u e   Z e i t ,   J a h r g .

4 ,   1 B   d .   2 "

  1 8 9 5 1 8 9 6 , N   r .   2 7 , S . 4 1 1 , N   r .   2 8

̀   

s .  

4 8   5 5 .  

(3

E

d .   B e r n s t e i n , M   a r x   u n d   d e r   , , w a h r e "

Sozialis

 

m u s , N   e u e   Z e i t ,   J a h r g .   1 4 B ,   d .   2 ,   1 8 9 5 1 8 9 6 ,   N r .   3 3 ,   S .   2 1 6 ︑

2 2 0 . ( 4 )   P . v .   S t r u v e ,   a .   a .  

0 . ,  

S .   4 8  

(5

Vgl•

K .  

M a r x ,   N

r

k r i t i k d e

r

l i t i s c h e O n k o n o

m

D i e t z V e r l a g ,   B e r l i n   1 9 5 1 ,   V o r w o r t , S .     1

4 ‑

̀ 

1 5 .  

邦訳︑国民文庫版︱︱ベージ︒

u n d   d e r   A u s g a n g   d e r   k l a s s i s c h e n   d e u t s c h e n   P h i l o s o p h i e ,   A u s g e w i i h l t e   S c h r i f t e n , B   d .   2 ,   S .   3 3 3  

̀ 

3 3 4 .  

(6

V

g l .   F .   E n g e l s ,   L

u d w i g   F e u e r b a c h  

ールマン﹂稿と称する︒

邦 訳

(11)

630 

れ て い る ︒ 社版﹃マルクス・エンゲルス全集﹄第一五巻に収録さ そのうち

N r

.

l

s .

4 5

はペルンシュタインの﹁序

( M

a r

x '

E n

g e

l  

w ;  

唸 k e

B d

.  

4

B e r l

i n ,  

19

59

.)

 

七ー三九ページに収録されている︒この﹃著作集﹄で

渡辺共訳︶五一ページでも新聞の日付は四月八日号と

のは声明に付された日付である︒

(9

E d

.  

B e

r n

s t

e i

n   (

h e r a

u s g .

) ,  

K a

r l

  M a

r x

,  

i i b e

r   K

a r

l  

G r

i i

n  

a l s  

G e

s c

h i

c h

t s

c h

r e

i b

e r

  d

e s

  S o

z i a l

i s m u

s ,  

A u

s  

d e

m   M

a r

x

E

n g

e l

s c

h e

n ・

N a

c h

l a

s s

,

N e

u e

  Z e i

t ,  

J a h r

g .  

18

B d

.  

1,

 

18991900, 

N r

.  

1,

S .

 

 

4

1

︑1

N r

.

2,

 

S .

 

3746 

̀ 

N r

.  

5,

 S

132141, 

N r

.  

6,

S  . 

164 1 

17

2.

 

言﹂である︒また︑これをテクストにした邦訳は改造 なっている︒リヤザーノフによれば︑四月六日という も︑また﹃マルクス年譜﹄

(M IE

L

研究所絹︑岡崎

( 8 )

この声明は﹃マルクス・エンゲルス著作集﹄第四巻 ﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

S o z i

a l i s

m u s ,

  N

e u

e   Z

e i t ,

  J

a h

r g

.  

14

B d

.  

̀ 

1895 

18

96

N r

.  

39

S.  395401, 

その一節で︑かれはこの草稿が ﹁一般に完成されているか まずわれわれの眼をひくのは︑

﹁ 第 七 章

う ︒ ﹁バウアー﹂稿が完全に公表されるまでの経過を跡づけてみよ け

れ ど も ︑

﹁バウアー﹂稿の断片がはじめて引用されているの

を発見するからである︒以下この﹃遺稿集﹄第二巻を起点に︑

ドイツ社会主義の

諸雑誌から﹂のはじめにおかれた﹁編輯者緒言﹂

( s .

329 1 392) 

である︒そこでは小見出しの②として﹁ドイツ・イデオロギ

│﹂という言葉がみえる︒ れているのを読み︑

国全部あわせても僅か四

00

語にみたぬ に関する遺稿がこの草稿の一部を構成することが明白にしるさ るのをきき︑またそれと関連して︑口前章で論じたグリューン

一 九

0

二年︑メーリングの編輯にかかる﹃マルクス・エンゲ

ルス・ラッサール遺稿集﹄全四巻が刊行されたが︑その第二巻

( 1 )  

をとおして問題は新たな展開を示すに至った︒というのも︑わ

れわれはこの﹃遺稿集﹄第二巻で︑はじめて︑日﹃ドイツ・イデ

オロギー﹄の草稿の存在が確認されてその構成の一端が語られ

七八

(12)

631 

た ﹂ だがそれ以上のことになると︑ を伝えている︒

七九

集﹄の別の箇所でその姿をあらわしていたのである︒ いた︒ところが︑まぎれもない︑この草稿の断片が同じ﹃遺稿 うに︑この﹁緒言﹂では︑﹁バウアー﹂稿は簡単に黙殺されて 判されているかをなにひとつ報じていない︒ ューンに関する草稿が﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稲の一部を ート﹄に発表した﹂

( s .  

347)との叙述は︑前節で論じたグリ ぎりで︑マルクス

11

エンゲルスの遺稿の中に見出される﹂

( S ・

346)

こと

を告

げ︑

さらに進んで︑すでに前節で引用したマル

のように︑それが﹁B・バウアー︑シュティルナー︑フォイエ

ルバッハとの批判的対決を含む﹂第一部と︑﹁ドイツ社会主義

の予言者たちを論じている﹂第二部とから構成されていること

﹁緒言﹂はほとんどなにも語

らない︒まず第一部についてみると︑バウアーに関する論稿は︑

﹃神聖家族﹄がバウアーについて﹁すでに豊窟な資料を提供し

てい

る﹂

( s .

346)という批評で黙殺され︑シュティルナーに

関する論稿については︑﹁シュティルナー批判はすでに書き

あげられていたが︑かれはこれをとくに必要だとは考えなかつ

( s .  

346)というにとどめて︑以後は一八四六年四月三十

日付のマルクス宛ヴァイデマイアーの手紙によって︑かれのこ

の評価を立証することに熱中している︒かれはまた︑フォイエ

ルバッハに関する論稿に言及して︑﹁B・バウアーやシュティ

ルナーの批判と較べて︑けたはずれに興味をそそられる﹂

( s .

346)と評価しながらも︑その内容には一言半句も費さないで︑

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する党書︵重田︶ 突如として︑筆をマルクス︑エンゲルスのフォイエルバッハか

では第二部について︑かれはどれほどの光明を投じえただろ

うか?﹁そのうちの一章︑つまりベルギーとフランスの社会巡

なすことをはじめて確言した点で興味深いが︑しかし第二部の

それ以外の草稿に隈しては︑かれは︑その中で誰れがいかに批

メーリング﹁緒言﹂の﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿に関す

る報告は︑この草稿を自分の眼で確かめたものの報告にしては

その収獲があまりにもとぼしい︑といわなくてはならない︒そ

れははたして︑草稿の綿密な検討をへたうえでなされたもので

あっただろうか?事実︑それにしては少々解しかねる現象が

この﹃遺稿集﹄第二巻で起つていたのである︒すでに述べたよ 動に関するグリューンの書物の批判を︑マルクスは﹃ダン︒フボ クスの﹁グリューンに反対する声明﹂の内容を襄書きするか らの訣別事情の考察に転じている︒

——--••.• ‑

-—-—_.

―‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑

(13)

6 3 2. 

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

﹁ 第 四 章

も の で あ る が ︑ ﹁ 編 輯 者 緒

(s.・65102)の

g 5

は ︑ 表題がつけられている︒それはこの﹁緒言﹂全体のしめくくり

そこではシュティルナーのはなばなしい登場 ぶりや︑ヘスによる﹃最後の哲学者たち﹄の刊行などが解説さ れ︑最後に︑﹃ヴィガント季刊誌﹄第三巻でかわされた

B

・ バ

稿 ﹂ 一環として︑﹁フリードリッヒ・エンゲルスのユーモラスな論 閉ぢられている︒さて︑メーリングはこの論戦の紹介と批評の

(S

.9

9)

と称するものから三箇所を引用するのであるが︑

この引用を今日われわれの手にする﹃ドイツ・イデオロギー﹄

のテクストと対比すればわかるように︑かれのいう﹁エンゲル スのユーモラスな論稿﹂とは︑意外にも︑実は﹁バウアー﹂稿の ことであって︑かれはその三箇所からあわせて約三七

0

語︵四

( 2 )  

0

︑ 一

0

語︑二三

00

語︶をとりだしていたのである︒この ように︑かれは﹁バウアー﹂稿をみずから手にし︑それからい くつかの引用すらしておきながら︑しかもこれをエンゲルスの

論稿だと誤認したために︑肝心のところで︑それと﹃ドイツ・ ウアーとシュティルナーの論戦の紹介と批評でもつて叙述は として︑﹃神聖家族﹂刊行後のいくつかのエピソードを伝えた

﹁ライプチヒ宗教会議﹂という

民主党の文庫で利用した︒それはこの文庫のマルクスの遺稿の ウアーに関する遺稿は︑メーリングの手によって他の﹃ドイツ ことは︑おもいのほかに困難であった︒というのも︑いまやバ イデオロギー﹄との関係を断ち切つてしまったのである︒

G

・ マ イ ア ー

離されて全く異った場所に保管されてしまった︵もしくはしま

( 3 )  

つていた︶からである︒われわれはそれを次の メーリングによる﹃遺稿集﹄の刊行から一八年の後︑

0

年 の こ と だ が ︑

G

・マイアーの﹃フリードリッヒ・エンゲル ス伝﹄第一巻︵﹁初期のフリードリッヒ・エンゲルス︑

(4

0

年ー一八五一年﹂︶があらわれた︒その﹁第九章ドイツ・

イオロギーの清算﹂は﹁フォイエルバッハ﹂稿の梗概をはじめ 書物の最後に付された﹁典拠と報告﹂の一節は次のような証言

﹁エンゲルスの筆になり︑マルクスによる僅かの

書き入れを含むライ︒フチヒ宗教会議の草稿を︑わたくしは社会 を し て い る ︒

て紹介することによって

一部の人々を臨目せしめたが︑この

八 一 九

の報告によって知るであろう︒ かりでなく︑草稿そのものとしても︑それは他の草稿から切り

イデオロギー﹄草稿と無関係であるかの如くに評価されたば

言 ﹂

さ て

一度切り離されてしまったものをいま一度結びつける 神聖家族もしくは批判的批判の批判﹂

八〇

(14)

633 

﹃ドイツ・イデオ

d

ギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ に切り離されてしまったこれら二群の草稿は︑G・マイアーの

手によって︱つの著作

( 1 1

﹃ドイツ・イデオロギー﹄︶に属する

とはいえなかった︒

﹃エンゲルス伝﹄第九章のバウアー批判について触れた箇所

その他を検討すれば認められるように︑そこでの叙述には︑か

れが社会民主党の文庫で発見したバウアーに関する遺稿が素材

( 5 )  

として利用されている︒否︑それだけではない︒この草稿を指

して﹁エンゲルスによって案出された

R a

h m

e n

d i

c h

t u

n g

* ﹂︵

s .

244)と呼んだ特徴づけの言葉およびそれに前後する章句に示 ことが確定されるのだが︑この作業たるや必ずしも容易なもの さて︑メーリングによって場所的にもまた著作としても相互

で発見した遺稿とかつてメーリングが﹁エンゲルスのユーモラ ているけれども︑しかしそこではこのかれが社会民主党の文庫 ウアー﹂稿を﹃ドイツ・イデオロギー﹄の一部分として取扱っ そのばあい︑なお重要な問題がいぜんとして未解決のままに放 稿をふたたび前者の中に組み入れることに成功したけれども︑ 置されていたのである︒で︑かつてメーリングが他の﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿か 他の草稿から切り離されて︑まったくおもいもかけぬ場所に放 個の物語をうちに含む物語︑創作のことをいう︒ お存在しているかぎりでlベルンシュタインがこれを保管し

とこ

ろで

『ドイツ・イデオロギー』草稿は|—それが今日な

( s .  

404)

ている︑と伝えている︒このようにして︑バウアーに関する遺

稿がふたたびこの批の光の中にもちだされたときには︑それは されるように︑かれが当初からこの草稿を﹃ドイツ・イデオロ腑

であ

る︒

G・マイアーの﹃エンゲルス伝﹄がこの点で果した役

( 6 )  

割は充分に評価されなくてはならない︒

R a

h m

e n

d i

c h

t u

n g

とは︑例えば千一夜物語のように︑数

この

よう

に︑

G・マイアーは︑はやくもその﹃エンゲルス伝﹄

ら切り離して別箇の論稿として処理してしまった﹁バウアー﹂

置されていた︒というのも︑なるほと﹃エンゲルス伝﹄は﹁バ

スな論稿﹂として紹介した遺稿との関係は全く問われていず︑

したがつてまたこのメーリングの評価そのものも︑検討されて

いないからである︒しかしこの問題たるや︑次節でやや立ち入

( 7 )  

つて述べるように︑ベルンシュタインが一九0三年にはやくも

とこ

ろで

G・マイアーは同じ﹁典拠と報告﹂のすぐまえのギー﹄草稿の構成部分として処理していたことは︑きわめて明 中に保管されている﹂

,l 

(15)

634 

つつある世界の危機︑それと結びついた歴史観の危機を説き︑こ ﹁マルクス・エンゲルス︑ライプチヒ宗教会議│̲

( 8 )  

附論

G・マイアーの序言﹂という表題の論稿を掲載した︒そ

に発見したプルーノ・バウアーに関する問題の遺稿をはじめて

印刷したものであるが︑その序言で︑編輯者マイアーは︑かれ

が﹃エンゲルス伝﹄でなお未解決のまま放置していた問題をも

含めて︑問題の草稿の位置にはじめて完全な解決を下したので

﹁序言﹂の冒頭で︑マイアーは︑第一次大戦後の世代の体験し

れらの諸問題の解決のためには︑いまや唯物史観の無視しえざれをここで発見したのだが︑それはかれがその古典的な遺稿集

ある

オロギー﹄の諸章の中からシュティルナーと対決している箇所

をとりだしたのである︒ところで︑それにはマルクス︑エンゲル

スがすでに﹃神聖家族﹄で決定的に片付けたと信じたプルーノ

︐バウアーをいま一度片付けている章が付随している︒その他

の草稿はエンゲルスの遺稿の中に見つけられたのだが︑ある種

の偶然からこの手稿は社会民主党の文庫に保存されているマル

クスの遺稿の中におかれたままになっていた︒メーリングがこ

れは

G・マイアーが社会民主党文庫のマルクスの遺稿の中作の若干の広汎な章を公表した︒ベルンシュクインは

﹃イ

社会主義の歴史の分野の研究にとつて宝庫である|—にこの著 第三号は センシャフト・ウント・ゾチアールボリティーク﹄第四七巻︵﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿ー童田︶の見張をしているエド

一九

ニ一

年十

月︑

﹃アルヒーフ..フュア・ゾチアールヴィッのようにいつている︒

﹁ 二

年ほど前に0 で を完全に解き明かすためには︑かれにはなお一年の歳月が必要 れなかった︒この問題をも含めて﹁バウアー﹂稿をめぐる問題 ンゲルス伝﹄での﹁バウアー﹂稿の取扱いはなお不充分さを免

あっ

た︒

庫で発見されたパウアーに関する追稿︶の位置を確定して︑次 視し︑かれの作業もまた︑この遺稿をめぐるいくつかの問題に に︑きわめて重要な問題であった︒そしてその意味では︑

﹃ エ

それにつきあたりながらも無自覚のままに放置していただけ ﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

るゆえんを力説している︒そのさい︑かれは遺稿﹃ドイツ・イ

デオロギー﹄が唯物史観形成史の中で占める決定的な地位を重

新しい光を投げかけようとするものであることを明らかにして

いる︒そしてその中で︑かれは問題の遺稿

( 1 1

社会民主党の文

今日なおこの宝物

ワルト・ベルンシュタインが﹃ドクメンテ﹂I

ーそ

の全

五巻

(16)

635 

いようである︒本稲では第四版を使用する︒ なった︒しかしその他の内容︑ベージ数には変化はな 除かれて︑ ﹃マルクス・エンゲルス遺稲涵集﹄全三巻と

ち︑ラッサールのマルクス・エンゲルス宛の手紙を収

の準備をしていたときのことだった︒とはいうものの︑かれは 当時この断片がいかなる枠にはまるものなるやを知らず︑その 中に﹃フリードリッヒ・エンゲルスのユーモラスな論稿﹄をみ るにとどまった︒事実︑この草稿はほとんど全部エンゲルスの

筆蹟を示している。•……••」

( s .  

775776)︒

い ま や ︑

G

・マイアーによる上述の位置づけをもつて︑

ウアー﹂稿をめぐる問題は完全に解き明かされたのである︒メ

(1

)

F .   M e h r i n g   ( h e r a u s g . ) ,   A u s   d e m   l i t e r a r i s c h e n   N a c h l a / 3   v a n   K a r l   M a r x ,   F r i e d r i c h   E n g e l s n   u d   F e r d

i

a n d L a s s a l l e

4

B d e . ,   S t u t t g a r t  

1

90

2.

このう

 

(2

F.  

M e h r i n g   ( h e r a u s g ) ,

A~s_

 

d e m   l i t e r a r i s c h e n   N 0 c h n

苫 l

9

K a r l   M a r x   u n d   F r i e d r i , : ; h   E n g e l s ,  

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

ーリングによる﹃遺稿集﹄公刊の年から起算すると︑そのあい

B d .  

2,

A u f l .   B e r l i n   u

n d   S t u t t g a r t  

19

23

S .  

99 

1 0 0 .  

れについては︑﹁最新の報告﹂

( G r i i n b e r g s A r c h i v ,   J a h r g .  

1 1 ,  

S .  

387388 

f i i : :  

訳三

l

四ページ︶︑および

﹁フォイエルパッハ論﹂﹁紺輯者緒言﹂

( M

ミ ・

NEミ

g d s

ついては︑本節最後の叙述を︑またリャザーノフのそ

G

・マイアーの説明に ものに改められるべきである︒ 録した第屈巻は後に︵再版もしくは第一︱︱版?不明︶

が ︑

G

・マイアーの説明をとれば︑叙述はカッコ内の

る︒リャザーノフの説明がヨリ説得的とおもわれる い

て ︑

これをメーリングが利用したことになってい

によると︑何かの事情ではじめから文庫に保管されて

G

・マイアー 主党の文庫に入れたことになっている︒

だに︑ほぼ二

0

年の歳月が流れ去つていた︒

後で誤つてこれを他のマルクスの追稿と一諸に社会民 ルンツュタインから﹁パウアー﹂稲を借り出し︑その よ

る と

﹃辿稿集﹄の編纂にさいしてメーリングがベ

﹁ バ

ーの説明はくいちがつている︒リャザーノフの説明に まぎれこんだかについて︑リャザーノフと

G

・ マ イ ア

り離されて︑社会民主党文庫のマルクスの遺稲の中に

(3

)

どのような事情で﹁バウアー﹂稿が他の維稿から切

(17)

636 

己 了 解 と 自 己 の 用 に 立 て る た め に 筆 を と っ た の で あ る

︒ だ が 著 者 た ち は 世 間 の た め と い う よ り

︑ む し ろ 自

く る 叙 述 を ヨ リ く わ し く 引 用 し て お く と

︑ 次 の よ う に な る

﹁ こ の 朋 ら か に エ ン ゲ ル ス に よ っ て 案 出 さ れ た

R a h m e n d i c h t u n g が き ち ん と や り と げ ら れ て い た ら ︑

d e s   M a n u s k r i p t s   d e r   , , D e u t s c h e n  

l d e o l o g i e "

G ,   r

s b e

A r h c i v ,   J a h r g .  

12

91

26

S.

 286 

A

n m r e k u n g  

を参照のこと︒

(8)F•

E n g e l s  

u•

K .   M a r x , D   a s   L e i p z i g e r  

K o n z i l ,  

(7

)

本稿第一二節八七ー八八ページ参照︒

多 分

︑ 読 み ご た え の あ る 書 物 が で き あ が つ て い た だ ろ

J

の点については︑

G .   M a y e r ,   D i e   , , E n t d e c k u g "

 

﹁パウアー﹂稿の最初の叙述部分を略述した箇所の後に ページ︶というとき︑かれの評価は誤つている︒なお

詳 細 に み て お こ う

︒ 念 の た め に

﹃ エ ン ゲ ル ス 伝

﹄ か ら

(5

V g l .   E b e n d a ,

S

 

243245. 

( M a r x

Es g e l s   A r c h i v , d   B .  

1, 

S,

2  0 

8.

 

木 訳 一 四

いする

G

・マイアーの応酬とがあるので つ﹁バウアー﹂稿からの引用がみえる︒ 二六一ページがさかれている︒ A

r c h i v   B d .  

1 ,  S.  2

08

B d .  

1,  J

と ︒

い ま 少 し

いてさへも︑はつきりしていなかったようにみえる﹂

(6

)

こ の 点 に つ い て は

︑ リ ヤ ザ ー ノ フ の 批 評 と そ れ に た

﹃ドイヅ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

三木訳一四'‑ベージ︶を参照の

( 4 )  

G .   M a y e r , F   r i e d r i c h   E n g e l s

,   E i n e   B i o g r a p h i e ,   B e r l i n  

19

20

( F r i e d r i c h   E g n e l s   i n   s e i n e r   F r i i h z e i t  

18201851). 

そ の 中 で 第 九 章 に は 二 三 四 ー 三

︑ 二 四 四 ベ ー ジ で そ れ ぞ れ 一 っ

︑ 二 四 五 ペ ー ジ で 二

ギー﹄の一構成部分をなすものであるということにつ ﹁かれは当時なお﹃ライプチヒ宗教会議﹄ ︵﹁パウア

さらにいえば︑二四

る ﹂ 流れた論争は︑.元来企図されていた枠をはみだしてい では︑達見にみちつつも︑気のおもむくままに些事に

( s .  

244)

G

・マイアーのこの叙述も必ずしも明

確といえぬけれども︑しかしリヤザーノフが﹃エンゲ ゜ ルス伝﹄における﹁パウアー﹂稿の取扱いを評して︑

ー﹂稿のことー重田︶も⁝⁝同じ﹃ドイツ・イデオロ み明敏さにあふれているにもかかわらず︑現存の草稿 から形式を無視したし︑そこで個々の点では機智にと

八四

(18)

637 

める﹁シュティルナー﹂稿もまた公衆の眼に触れるに至ったの つづいて︑いまや︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄第一部の大半を占

あり︑あるいはまた抜率の部分がある︑

八五

ということである︒

第一

に︑

﹁旧約聖書ー人間﹂の部分には省略された章︑節が お次の点が注意されなくてはならない︒

だが公表された部分についても︑今日の水準からみると︑な 分は遺稿全体のほぼ半ばにあたる︒

年 ︑

第一冊は︑エンゲルスがベルンシ

へること一年︑一九0

三年にまでさかのぽる︒すなわち︑この ここで︑時代はふたたびメーリングによる﹃遺稿集﹄の刊行を

いう

と︑

﹁ドクメンテ﹄第三巻は前者を収録し︑第四巻には後

﹁新約聖書ー﹃自我﹄﹂との二つの部分にわかれる︒やや粗雑に

二ページまではマイアーの序文である︒なお︑これを テクストにした邦訳は改造社版﹃マルクス・エ・ンゲル ス全集﹄第一五巻に収録されている︒

前節末尾のG

・マイアーからの引用の示すように︑﹁シュティ

・・ルナー﹂稿がはじめて公表されたのは︑ベルンシュタインの編輯

( 1 )  

した﹃ドクメンテ・デス・ゾチアリスムス﹄においてであった︒

﹃ドクメンテ﹄第三巻

ュタインとベーベルとにゆだねたかれとマルクスとの遺稿の中 から︑マックス・シュティルナーに関する部分の公表に着手し

( 2 )  

た︒﹃ノイエ・ツァイト﹂における﹁グリューン﹂稿の公表に

﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

一九三二年ま

た︒以後︑ベルンシュタインやその他一︑二の人々による未発 表部分の断片的な公表の試みはあったが︑結局︑

では全面的な公表はおこなわれずにおわった︒

では︑このシュティルナーに関する遺稿の中から︑どれだけ

周知の如く︑ の範囲と量のものが﹃ドクメンテ﹄で公表されたのだろうか?

﹁シュティルナー﹂稿は﹁旧約聖書ー人間﹂と 者のうちの﹁神学者ヨハネの啓示︑もしくは﹃新しき智慧の論

理学﹄﹂までが収録されている︒量的にいうと︑公表された部 が第五巻で廃刊になるや︑

公表もまた中断のやむなきに至っ

1921 

s .  

773808. ただし︑その中で七七三.\七八

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4

7,

1920  

さらに第四巻の第五︑六︑七︑

( 3 )  

八︑九冊へとひきつがれてゆくのだが︑やがて﹁ドクメンテ﹄ 冊にひきつづいて収録され︑ であるd

ところで︑この遺稿は同じ巻の第二︑こ︑四七八

ー ・ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ・

‑.

 

‑ .

. .

` ..

 

.., 

. .  .

(19)

638 

第二に る ︒ ﹃歴史的反省﹄﹂のみが公表されて︑他はすべて省略されてい

﹁緒言﹂の一節は次のようにいつている︒ ﹁この論稿はマル 配がまったく存在しないからである︒ れているのにたいして︑ 六の﹃歴史的反省﹄﹂︑ れ て い る ︒

け で あ る ︒ これが﹁

4

近代人﹂になると事態はややこみいつ

ている︒そこでは完全に収録されているのは︑﹁

D

教権制﹂だ

A

精神﹂は完全に省略されている︒

﹁B

憑れた

人々﹂についていうと︑そこではすべて抜宰したものが公表さ

﹁第七の﹃歴史的反省﹄﹂︑

﹁ ネ ズ ︑

` ヽ ど も の 噛 つ て す る 批 判

︵ ﹃ 経 済 学 批 判 ﹄

﹃序言﹄︶その他にもとづく毀損を理由にして︑かなりの箇所

で語もしくは語句が欠落していることである︒その箇所はおお

むね…••もしくは〔:

.  

︺によって指示されているが︑そのさ

﹁ 第 八 の

ているけれども︑そこではこの遺稿を﹃ドイツ・・イデオロギ ﹁

a

ニグロと蒙古人﹂の中からは﹁第

 

﹁ b カトリックとプロテスタンティズム﹂が完全に収録さ れているにすぎない︒ また﹁

C

不純にして不純な精霊史﹂で

﹃ シ ュ テ

く︑また欠落の程度も一語もしくは︑数語にかぎられているの

﹁新約聖書ー﹃自我﹄﹂では欠落がきわめて頻繁で

あり︑しかもかなり長い語句もしくは文章がしばしば欠落して

( 4 )  

いるのが認められる︒

ともあれ︑以上のような欠陥を合んでいるけれども︑いまや

﹁シュティルナー﹂稿の公表がはじまり︑また事実その半ばに

近いものが印刷に付されたのである︒だがすでにリャザーノフ

も指摘しているように︑ベルンシュタインがこの公表に着手し

たとき︑かれは﹁﹃全体﹄についてはかなり不明瞭な観念しか

( 5 )  

もつていなかった﹂ようにおもわれる︒というのも︑かれはこ

の遺稿の公表にあたつて約ニページ半におよぶ﹁緒言﹂を書い

ー﹂草稿体系の中に位置づけようとする志向はほとんど認めら

れず︑またかれ自身の殺述の中にそれへの鍵が散在しているに

もかかわらず︑これらをそのような方向に凝集しようとした気

クス・エンゲルスがその中でヘーゲル左派最左業のかれらの以 者たち﹂では︑ ﹁

C

人道的自由主義﹂がこれまた完全に省略さ ィルナー﹄﹂は完全に省略されている︒また︑ ﹁&自由主義 問題はない︒ところが︑ ﹁

5

自己の構成に満足せる に た い し て ︑

理 ﹂

﹁ a 古代人﹂に関していうと︑この点では︑ ﹁

L

創世紀︑すなわちある人間の生涯﹂︑

おおむね ﹁

2

旧約聖書の摂 ﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶

い注意すべきは︑ ﹁旧約聖書ー人間﹂ではその数もきわめて少 八 六

(20)

639 

. っ

このばあいベルンシュタインの念頭に︑かつてマルク

八七

﹁バウアー﹂稿にたいするメーリン 問題の遺稿は﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿の構成部分だとあ ー﹂稿は﹁バウアー﹂稿などと結びついて﹁ある綜合的な著 のこの評価をそのまま承認するのであれば︑

﹁シ

ュテ

ィル

論﹄﹁序文﹂の周知の被述に照らして検討すれば了解されるよー﹂稿を﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿から切り離して︑これ

た ﹂ を提供している。·…••その全内容を公刊することは、ある種の 前の戦友たちを清算したぽうだいな論稿の一部分であって︑そ

(B d.

m s

 

.  

1819)

︵﹃

経済

学批

判﹄

だが︑﹁ネズミどもの噛つてする批判﹂

言﹂︶というマルクスの言葉は︑文字どおりそのとおりであっ

いまこの文章を﹃経済学批判﹄﹁序言﹂や﹃フォイエルバッハ

ス︑エンゲルスが﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿に言及した言

葉が浮んでいたこと︑したがつて︑かれが問題の遺稿をこの草

稿の一部分として取扱おうとしていたことには︑疑点はない︒

だが一歩進んで︑それではこの草稿全体はいかなる部分よりな

りたっていたかという点になると︑かれの見透しははなはだ曖

昧であった︒例えば︑ベルンシュタインの﹁序言﹂はその一節

でいう︑﹁原稿にはいただきにローマ数字で

m

という字がおか

れているが︑それだけからでもわかるように︑それ

( 1 1

﹁シ

︐ 

﹁ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ ていたのである︒その最初の文章のところで︑それは論稿﹁ライプチヒ宗教会議﹂ーリングが論評し︑ブルーノ・バウアーとマックス・シュティルナーとが﹃ヴイガント季刊誌﹄一八四五年第三冊に公表した論文を嘲弄しているところの論稲に接続している﹂s ,  

19)

(B

d.

 

I l l  

ところがすでに繰返し述べたように︑メーリングは﹁バウア

を﹁エンゲルスのユーモラスな論稿﹂として処理してしまった

( 6 )  

のであった︒したがつて︑もしベルンシュタインがメーリング

作﹂をなすというのだから︑前者もまた﹁エンゲルスのユーモ

ラスな論稿﹂だという結論になりそうである︒あるいはまた︑

くまでも主張するのなら︑

グの評価があらためて検討されなくてはなるまい︒ベルンシュ

﹁ 序

重大な事情がこれをさまたげている︒そしてそれに関連するの に挙げた巻

( 1 1

﹃遺稿集﹄第二巻ー重田︶の九九ページ以下でメ でなく︑また内容的にいつても不朽の価値を有する多くの箇所

( 1 1

﹁バウァー﹂稿ー重田︶︑つまりすで のようなものとして︑たんに巨大な歴史的興味を有するばかり ティルナー﹂稿ー重田︶はある綜合的な著作の一部に予定され

: 

i. 

‑ ‑ ‑ 一 ・ ー ・ ・ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑‑ ‑ ‑‑ ‑ ' 

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