「ドイツ・イデオロギー」公刊史に関する覚書(2)
その他のタイトル A Note on the Drafts of "Die deutsche Ideologie" and their Publication
著者 重田 晃一
雑誌名 關西大學經済論集
巻 12
号 1
ページ 53‑75
発行年 1962‑04‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15485
53
﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶
五
﹁しかしかれの書物の中でわれわれは非常に興味のある一章をける社会主義の様々な予言者たちの批判にあてられた同じ草稿 人々の目をみはらさせたのであった︒ ﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿を真正面からとりあげ︑そ
( 1 )
の中でいくつかの新しい資料を提供することによって︑多くの
これらの新資料が自己をも含めた当時の人々に与えた感銘を
述懐して︑数年の後にリャザーノフは次のようにいっている︒ の公刊の断念に至るまでのいきさつが語られ︑次いで︑口B.
バウアー︑シュティルナー︑フォイエルバッハと対決したこの
草稿の第一部の輪郭が跡づけられ︑さらに︑筆は国ドイツにお ス︑エンゲルスによる﹃ドイツ・イデオロギー﹄の執筆とそれ
ま ︑
9 ,
さて︑そこでは︵第九章二四0ページ以下︶まず︑
H
マル
ク
紹介したように︑その第九章﹁ドイツ・イデオロギーの清算﹂ たのはこの年のことであったが︑すでに第二節でもその一端を偶然利用したのだが︑その書き入れをみて︑カウッキーにもそ
( 2 )
のことがまったく新奇であったことを知った﹂︒ イアーの﹃フリードリッヒ・エンゲルス伝﹂第一巻が公刊されわたくしはカウッキーの私用図書室にあったこの書物の一冊を さて︑時代はふたたぴ一九二0年にまでさかのぼる︒G
・ マ
分で
ある
︒
そこにはまったく新しいものが提供されている︒ 研究ノート
四
のである︒それはマイアーの書物の中でもっとも興味のある部 ﹁ドイツ・イデオ
ーおよそ二四0ページから二六一ページにわたってー見出す
重
田
ロギー﹂公刊史に関する覚書
晃
(二)ったけれども︑この存在のみ知られて内容的にはまった<未知 最後の叙述部分は︑僅か八ページにみたぬ短いものにすぎなか ての叙述の中で︑かれは︑これまで誰れによってもその存在すとつ知られていなかったのである︒﹃エンゲルス伝﹂第九章の に捧げられていることは︑エンゲルスの﹁フォイエルバッハ のイデオロギー的性格についてのマルクス︑エンゲルスの規定 すなわち︑そこではドイツ社会主義︑とりわけ真正社会主義 値
する
︒
たのは︑次の点にあった︒ 口の叙述内容との関連でいうと︑なると︑それがどのようなものからなっているかということす うか? で ︑
G・
マイアーはどのような新しい資料を提供したのであろ 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第一号
の第二部のねらいの紹介におよび︑最後に︑四この草稿におけ
る﹁実践的唯物論﹂の立場に立った新しい歴史観の叙述の素描
でもってこの章は閉じられている0
では
︑ これらの叙述の中
﹁バウアー﹂稿の再発見と
位置づけとがまず挙げられねばならぬが︑それについては第二
( 4 )
節でくわしく触れておいたので︑いまは述べない︒これにたい
して︑国の叙述部分︑つまり﹃ドイツ・イデオロギー﹄第二部
の草稿に言及した部分に関していうと︑それは次の点で注目に
づけが︑この思想と運動の哲学的幻想的性格の指摘と︑それを制
約するドイツの後進性およびかれらの立場の小プルジョワ的性
格の摘出という三点に要約して紹介されるのだが︑それについ
ら一度も語られたことのなかった﹁真正社会主義の哲学という
表題をつけられた草稿﹂
( s .
251)の現存することを報告してい れらの叙述には︑いくつかの引用をも含めて︑この草稿がいたるところで駆使されているのである︒
﹃ドイツ・イデオロギー﹄第二部の︱つの章が﹁グリューン﹂
稿よりなることはつとに明確にされていた︒だがその他の章に
ら不明確のままであった︒上述のG・マイアーの報告と紹介
は︑その意味で︑問題を一歩前に進めたものということができ
( 5 )
よう
︒だ
が︑
G・マイアーの提出した以上の二つの新しい資料
と並んで︑否それにもまして︑この章が人々をして臨目せしめ
﹁ドイツ・イデオロギー﹄草稿の一章にフォイエルバッハに
関する章があり︑それはおおむね﹁唯物史観のある種の説明﹂
論﹂の﹁序言﹂が︑はやくも一八八三年にこれを明らかにして
( 6 )
いた︒だが︑それの具体的内容という点になると︑実はなにひ る︒しかもそこでの叙述を慎重に検討すればわかるように︑こ
五四
ss
﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ に︑これをはじめて手にした世人の驚きは想像を絶するものが
五五
の分
離﹂
︑﹁
分業
の廃
止﹂
︑
という見出しからも察知されるように︑G・マイアーもまたい
わゆる唯物史観の定式ではなくて︑それをも含めた草稿のこの
きわめて多彩な論述を︑比較的忠実にスケッチ風に紹介したの
であった︒この突如として紹介された内容が内容であっただけ の草稿の保管者であることは︑ある程度確実に推定しうるはずで
ある
︒
G・マイアーもまた別の機会にそのような意味の主張
( 8 )
をし︑事実︑若干の消息通にとってはそうであったようである
( 9 )
が︑しかしそれは必ずしも周知の事柄とはいえなかった︒それ
が ︑
G・マイアーの右に引用した証言によって︑いまや誰れが ﹁エンゲルスとプロレタリアート﹂クインの論文その他を綿密に検討すれば︑かれがほかならぬこ 文欄外にみえる﹁新しい歴史観の最初の叙述﹂︑
﹁都
市と
農村
﹁エンゲルス伝﹄第九章本 体的個人への発展﹂と﹁あらゆる自然成長性からの脱却﹂といめに︑学問的に未利用のぼうだいな草稿の残部ーそれが今日 つつその中で︑すなわち︑﹁われわれが出発する前提はなんら
任意のもの︑なんらドグマではない﹂︑という言葉にはじまる
﹁実践的唯物論者﹂の歴史観の網領的叙述からはじまって︑プ
ロレクリア革命による﹁団結した個人たちによる総体的な生産
カの領有﹂と﹁私有財産の消失﹂︑それに照応する﹁個人の全
う壮大な展望におわるまでの広大な視野の下で︑この定式は論
述されているのである︒ところで︑
では
︑
G・マイアーはこれらの注目すべき資料をどこから手
末におかれた﹁典拠と報告﹂はこの点に触れて︑次のようにい
﹁エドワルト・ベルンシュクイン氏に心からの感謝
を捧げねばならぬのだが︑かれはわたくしがこの伝記を書くた
なお存在しているかぎりでーを閲読するのをゆるしてくれた﹂
( 7 )
( s .
40
3)
︒
﹃ドイツ・イデオロギー﹂草稿に関して言及したベルンシュ っ
てい
る︒
に入れたのであろうか?﹁バウアー﹂稿をひとまず除けば︑巻 く︑そこでは︑この定式は様々の重要な問題を派生的に展開し 稿はいわゆる唯物史観の定式をテーゼ風に叙述したものではなる﹂︑といいつつも︑そのかれがもっとも力をこめて紹介した をあてたのであった︒いうまでもなく︑
﹁フ
ォイ
エル
バッ
ハ﹂
﹁そこにはまったく新しいものが提供されてい の状態にあった唯物史親の最初の叙述に︑はじめてこの世の光あったであろう︒事実︑リャザーノフは﹃エンゲルス伝﹄第九
章を評して︑
のも︑またこの点であった︒
56
﹁この発見︵﹁エンゲルス伝﹄での﹁ドイツ・イデオロギー﹂に
ある
︑
とここかしこで自分自身で報告しているではないか︑ 作の一部はまだ存在している︑自分はこれを公表するつもりで て次のようにいっている︒ れることができれば︑ということであった︒これに成功したと 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第一号
九二二年であったeこの研究所の仕事の一環として︑リャザー
ノフはマルクス︑エンゲルスに関する資料の探索に従事してい
たが︑そのさい︑かれがとくに関心を払っていたものの一っに
の精神的発展の二つの段階︑つまり﹁真のヒューマニズム﹂と
かしうるかに考えられたからである︒そのリャザーノフが︑
( 1 0 )
口実をもうけて出ししぶるベルンシュタインから問題の草稿を
実に右のG・マイアーの証言であった︒その間の消息につい
て︑リャザーノフはすでに引用した﹁最新の報告﹂の中で続け
ついての報告ー重田︶が動機となって︑遂にわたくしは︑そもそ 借り出すことに成功した︑その直接のきっかけになったのは︑ ﹁ドイツ・イデオロギー﹄のこの部分がすでに公けにされてい ﹁聖マックス﹂の草稿がほしかった︒わたくしは ﹁革命的共産主義﹂とをつなぐ媒介環の秘密がはじめて解き明ぎりの印刷された史料の一切を証拠としてひきあいにだした︒ も︑かれには︑この草稿によってのみ︑マルクス︑エンゲルス ﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿のゆくえがあった︒というの 世の明るみにもちだすことに成功したのである︒ここにその草 もって企てたわたくしのベルリン旅行の収穫として︑わたくし モスコーにマルクス・エンゲルス研究所が創設されたのはの部分にあたる巻の出版をみあわせることにした︒この目的を 言はただちに次のような連鎮反応を生んだのであった︒りさせることに成功するまでは︑少くともマルクスの著作のこ 世人に告知されたのである︒また事実︑G・マイアーのこの証も完全になくなっているのかどうか︑ということを一度はっきはどえらい骨折りの後に︑遂に﹁ドイツ・イデオロギー﹄の全部を
稿を写真にとったものがある︒⁝⁝四週間もかかってベルンシ
ュタインの文庫から草稿をつぎつぎにとり出してゆくなかで︑
どんなにえらいおもいをしたことか?わたくしは知っているか
さし
あた
り︑
るのをおもいだした︒そこで考えたのは︑まずてはじめに︑す
でに公刊されている労作の草稿をベルンシュタインから手に入
き︑わたくしはベルンシュタインにいった︒あなたは︑この著 ﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿の保管者であるかがはっきりとも﹃ドイツ・イデオロギー﹄はどこに残っているのか︑それと
五六
57
﹃マ
ルク
ス
1
1エンゲルス・アルヒーフ﹄第一巻に収録された
稿の
みが
︑
﹁フォイエルバッハ︒唯物論的見方と観念論的見方との対立﹂
( 1 3 )
がすなわちこれである︒編輯者はリャザーノフであった︒
﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ それに先立って独立に公表された︒
一九
二六
年︑
るのだが︑それらの草稿の中で︑フォイエルバッハに関する草 ルクス・エンゲルス全集﹄第五巻となって公衆の手に届けられ 解読︑整理︑絹輯の作業の後に︑やがて一九三二年の春︑
﹃ マ
れたのである﹂ の言葉をみせてやらねばならなかった︒かくて数日にわたる論争のあげく︑やっとかれはわたくしに草稿の第二部を渡してく
(1 1)
( s .
3
89 . 邦
訳︱
‑=
‑│
'一
四ペ
ージ
︒︶
そしてツォーベルの伝えるところでは︑リャザーノフが︑自
己の指導のもとに︑ベルンシュクインの保管していた﹃ドイツ
に保管されているマルクスおよびエンゲルスの草稿や覚書や書
簡を写真にとらせた﹂のは︑
( 1 2 )
ことであった︑という︒ 一九二三年から二四年にかけての
さて︑このようにして粒々辛苦のすえ写真版として手に収め
ることのできた﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿は︑綿密周到な イデオロギー﹄草稿をも含めて︑その他﹁社会民主党の文庫 と︒かれにはそのことがおもいだせなかった︒そこでかれ自身
よびそれに関連する資料をもとに︑
五七 は︑リャザーノフが蒐集した﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿お ー﹄草稿中もっとも重要な︑と同時にもっとも解読︑編輯の困 ところで︑同じアルヒーフの第一巻は︑﹁フォイエルバッハ﹂稿の公表と並んで︑今日﹃ドイツ・イデオロギー﹄全体の序言として知られている﹁﹃ドイツ・イデオロギー﹄の序言によせ
( 1 4 )
られたマルクスの草稿﹂を収録している︒
﹁草稿と本文の編簗﹂がしるしているように︑それは︑リャザ
ーノフがまったく別の経路から入手したものであった︒周知の
ヽ< nH
女マルクス︑エンゲルスの草稿はエンゲルスの死にさいし
てベーベルとベルンシュタインとに遺贈されたのであったが︑
その点に言及した第一節の註
(4
)でも明らかにしておいたよう
に︑実際には︑どういう手違いによるのか︑その一部はローラ
・ラファルグの手に移っていた︒そして︑そのラファルグから
リャザーノフがもらいうけたマルクスの一草稿が︑実は問躁の
(1 5)
﹁序言草稿﹂だったのである︒
このように︑﹃アルヒーフ﹄第一巻は︑﹃ドイツ・イデオロギ
だが
︑
またそれと並んで︑ 難な部分をはじめて公表した点で画期的な意義をもっている︒
冒頭におかれた﹁編輯者緒言﹂
﹃ドイツ・イデオロギー﹄ ﹁編輯者緒言﹂の
そこから進んで︑それでは﹃ドイツ・イデオロギー﹄第二部の では︑第二部に関してはどうであっただろうか?﹁グリュー ﹃ドイツ・イデオロギー﹂草稿の保
管者であったベルンシュタインは︑この草稿がいかなる種類と
りに全体の構成を積極的に再現してみようとはしなかったので
( 1 6 )
ある︒メーリングがはじめてこの問題を積極的にとりあげたの
( 1 7 )
だが︑とくにこの点で大きな働きを示したのはG
・マ
イア
ーで
じめて紹介したのはかれの﹃エンゲルス伝﹂第一巻であったし︑
その同じ﹃エンゲルス伝﹄は︑同時に︑メーリングが一度は手
にしつつも誤って暗闇の中に投じてしまった﹁バウアー﹂稿を
ふたたび明るみにひきだしたばかりでなく︑その全内容の公刊
かれは﹃エンゲルス伝﹄の中で︑かつてその存在すら告げられ
たことのなかった第二部の草稿として﹁真正社会主義の哲学﹂
( 1 8 )
稿の存在することを︑はじめて明らかにしたのであった︒だが
手が
かり
に︑
て次のような推定を下したのである︒
フォイエルバッハに関する草稿︑プルーノ・パウアーに関する
草稿︵草稿番号
n )
︑および草稿番号m (
̲
﹁シュ
ティ
ルナ
ー﹂
稿ー重田︶から組成される﹂
( s . 2 1 0 ,
I二
木訳
一七
ペー
ジ︶
と︒
ン﹂稿が第二部に入ることについては︑はやくもメーリングが に手をつけたのも︑またG・マイアーであった︒またさらに︑ る︒すなわちいう︑
﹁﹃
ドイ
ツ・
イデ
オロ
ギー
﹄の
第一
巻は
︑
は︑リャザーノフもまたかれらの叙述をそのままに踏襲してい べるばあい︑この輪郭づけの後を追ったのであった︒この点で いた︒そして︑メーリングやG・マイアーも第一部の構成を述 あった︒いうまでもなく︑﹁フォイエルバッハ﹂稿の内容をは﹁グリューンに反対する声明﹂でかなり明瞭に輪郭づけられて まず第一部についていうと︑それの構成はすでにマルクスの ﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿全体の構成につい 示を与えてきた︒だがそのさい︑かれはこれらの素材を手がかルスによってそれぞれの草稿に記入されたローマ数字の番号を 範囲の草稿から構成されているかについて︑しばしば貴重な暗版にとらせた草稿全体の綿密な判読にもとづき︑また︑エンゲ ザーノフである︒かれはベルンシュタインから借り受けて写真 すでにみてきたように︑この点をめぐってきわめて大胆な仮設を提示したのが︑リャ 典の複元と公刊の歴史の上で注目すぺき位置を占めている︒題になると︑かれの叙述も必ずしも明確とはいえなかった︒ 関西大学﹃経済論集﹂第十二巻第一号
全体の構成についての仮説を積極的に提示した点でも︑この古草稿は全体としていかなる部分から構成されているかという問 五八
59
﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶ りわけ次の点にあった︒すでに第一節で考察したように︑スト 成にあたって組立てられたリャザーノフの仮説の大胆さは︑と
( 1 9 )
これを確定していた︒第二部に属するいま︱つの草稿に﹁真正
社会主義の哲学﹂稿があることはすでにG・マイアーが明らかに
していたが︑事実︑それはリャザーノフがベルンシュタイから受
たのである︒また﹃ドクメンテ﹄第三巻は﹁シュティルナー﹂
稿を公表するにあたって︑その﹁序言﹂で︑この草稿と並んで
﹁予言者クールマンを取扱った草稿﹂の存在する旨告げてい
( 2 0 )
た︒事実︑この草稿もまたリャザーノフの手に入れた草稿の中
に存在していたのであって︑それにはエンゲルスの手で草稿番
ノフ
はい
う︒
号>という記号がかきこまれていたのである︒かくてリャザー
﹁第二巻は︑草稿番号I
︵真
正社
会主
義の
哲学
︶︑
マンまたは真正社会主義の予言︶から組成される﹂と︒
ところで︑右のリャザーノフの叙述から疑問が湧くように︑
ここでは草稿番号
m
I I との草稿が欠けている︒おそらくこの点に結びついて生じたと推定されるのだが︑第二部の草稿の再構
ルーヴェは﹃ダンプボート﹄の諸論文の中から﹁グリューン﹂稿 草稿番号
l V
︵真正社会主義の歴史叙述︶︑草稿番号>︵クール 取った草稿の中にローマ数字で1の番号が付されて存在してい
五九
や︑編輯指導権はアドラッキーの手に移るに至った︒ メンセヴィーキ事件に連座してかれが失脚する とともに﹁クリーゲに反対する回状﹂をとりだし︑いずれもマ
g
ルクスの手になるものとの推定をくだしたのであったカリャザーノフはこの﹁回状﹂とその他﹃プリュッセル・ドイツ語新聞﹄に発表されたいま︱つの真正社会主義者に関する論稿をも第二部の構成部分の中にくわえたのである︒すなわちいう︑﹁第二部にはまたクリーゲに反対した宣言︵真正社会主義の戦
稿がつげくわえられるはずであっただろう﹂
一七
ペー
ジ︶
と︒
( s .
2
10
`
三木
訳
の再構成のうえに立って︑リャザーノフは︑かれがベルリンか
ら持ち帰った﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿写真版の編輯指導
を続けてゆくのだが︑やがてその完成を目前にひかえた一九三
一年
の初
頭︑
註
(1
) G. M ay er ̀F ri ed ri cl zE
ミg e
l s , Ee in e B io g r ap h i e, Bd .
1,
B e
r li n
19 20 ,
IX•
Di e Ab re ch nu ng
m i t
de r de ut sc he n I d eo l o gi e S, .23
42
61
.
(2 ) D . R ja s a no f f , Ne ue st e
Mi
tt
ei
lu
ng
en
,
Gr un be rg s Ar ch iv ̀ J a h rg .
1 1
̀ Hef
t
3, 1 92 5,
S
.
38 8.
︱ニベージ︒ 邦訳
さて
︑
﹃ドイツ・イデオロギー﹄全体の構成についての以上 術および経済学︶並びにグリューンおよびベックに反対した論
60
(3
) 参考までにページ数を示しておくと︑第一部に関して は︑二四四ーニ四五ページが﹁パウアー﹂稿に︑二四五ー ニ四七ページが﹁シュティルナー﹂稿に︑二四七ーニ四八 ページが﹁フォイエルパッハ﹂稿にあてられている︒また ニ四ニーニ四四ページは﹁パウアー﹂稿と﹁シュティルナ ー﹂稿とを合した﹁ライプチヒ宗教会議﹂稿起筆の事情に ついて述べている︒第二部についていうと︑二四八ーニ五 三ぺ
4
ジがそれにあてられている︒さらに︑二五三ページ 以下二六一ページまでが﹁フォイエルパッハ﹂稿における 唯物史観の素描にあてられている︒
( 4 )
この点については︑本稿第二節︵関西大学﹃経済論集﹄
第十一巻第六号八
0ー八ニページ︶を参照︒
( 5 )
リャザーノフは︑rドイツ・イデオロギー﹂草稿の複元
と公刊の歴史に言及した二つの論稿のいずれにおいても︑
この点にまったく言及していないが︑それは公正なやりか
たとはいえない︒
(6
) •
Vg
l.
F•
En ge ls
̀
Lu dw ig F eu er ba ch un d de r Au sg an g de r
kl
as
si
sc
he
n
de
ut
sc
he
n
Ph
il
os
op
hi
e,
Au
sg
ew
ii
hl
te
S
ch
ri
ft
en
i n
z
we
i
B ii n d e,
Bd
. 2,
Be
rl
in
1 95 2 , s .
3 34 . i i i 訳︑大月書店版﹃マルクス・エンゲルス選
集﹄第一五巻四二五ページ︒
.(
7)
G
・マイアーの﹃回想録﹄によれば︑かれがペルンシュ
タインからこれらの草稿を借り受けたのは︑はやくも︑一 九一四年四月のことであった
(V
gl
.
G.
M ay er ,
Er
in
‑ ne rg g en,
N U
ri ch /W ie n 1 94 9 S . ,
206) c
なお
︑
G
・マ イア
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第一号
ーが﹁パウアー﹂稿をどこで発見したかについては︑本稿 第二節︵前掲誌八
0︑八ニペ;'ジ︶を参照
( 8 )
こ こ に い う ペ ル ン シ ュ タ イ ン の 論 文 そ の 他 と は
︑
① Ma rx u nd de
r
.w ah re
"
So
zi
al
is
mu
s,
N eu e Z e it , Jahrg•
1 4,
Bd
. 2,
Nr
.
3 3, S .
21
62
20
.
RV or wo rt z
u ;
Ka
rl
Ma rx i i b er
Ka
rl
G
ri
in
a l Gs
es
ch
ic
ht
sc
hr
ei
be
r
de
s
So
zi
al
is
mu
s,
N eu e Z e it , Jahrg.
1 8 ,
Bd
. 1 ,
Nr
.1
,S
.
4~5.
⑧
Vo rm er ku ng en zu e d m .heiligen
a M x"
, D ok um en te
de
s Sozialismus,
Bd . ] [ , S . 1 71 9 のことである︒その中 で︑ここでの問題との関連においては︑とくに⑧の論文が 重要である︒なお
G・マイアーの主張については︑
D i e
• E nt de ck un g"
de s
Ma
nu
sk
ri
pt
s
der•
De
ut
sc
he
n
I de o l og i e "
,
Gr
Un
be
rg
s A
rc
hi
v,
J
ah
rg
.
1 2 , 1 92 6 S, .2 85 2 86 .
を参照のこと︒
( 9 )
例えば︑この草稿の探索にみずからあたったといわれ る 馬 葉 礼 氏 の ば あ い に つ い て み る と
︑ 氏 は ま ず 社 会 民 主 党の文庫の中にこの遺稿を求め︑次いでオットー・プラウ ンの示唆と紹介ではじめてペルンシュタインのところへ赴 く︑という迂路をたどっておられる︵馬葉礼﹁マルクス・
エンゲルス文献秘話﹂︑﹃社会評論﹄第五巻第九号︑三八
ページ参照︶︒
( 1 0 )
・ヘルンシュタインが﹃ドイツ・イデオロギー﹄草稿を
他人に貸与することを極力回避しようとしたことは︑著名 の事実のようである︒以下本文のリャザーノフの述懐から の引用にもそのことがみえるし︑馬氏もまた同様の体験を
六0
6 I
語っている︵馬葉礼︑前掲稿︑三八ページ参照︶︒G
.マ
イ ア ー も 後 年 次 の よ う に 回 想 し て い る
︑
﹁ か れ
( I
ベルン
>ュタインー'重田︶はこれらの草稿がとるに足らぬ意義し
か も っ て い な い と 確 信 し き っ て い た の で
︑ 伝 記 作 家 も ま た 万 難 を 排 し て そ れ ら に 目 を と お す 必 要 が あ る と い う こ と を 御 老 体 に の み こ ま せ る た め に は
︑ 一 汗 か か ね ば な ら な か っ た ﹂ ( G. Ma ye r, Er in ne ru ng en , S. 206)
︒
( 1 1 )
この述懐については若干問題のあるところである︒こ
の﹁報告﹂の別の箇所でくわえられた﹃エンゲル伝﹄での﹃ド
イ ツ
・ イ デ オ ロ ギ ー
﹄ 草 稿 そ の 他 の 取 扱 い 方 に た い す る 批 判に
︑
G・マイアーはただちに反論の筆をとったが︑その
中で︑かれは︑﹁どえらい骨折りの後に︑遂に﹃ドイツ・イ
デ オ ロ ギ ー
﹄ 草 稿 の 全 体 を 世 の 明 る み に も ち だ す の に 成 功 し た の で あ る
﹂
︑ と の リ ャ ザ ー ノ フ の 言 葉 を 批 判 し て
︑ 次 の よ う に い っ て い る
︒
﹁
﹃ ド イ ツ
・ イ デ オ ロ ギ ー
﹄ の
﹁ 発 見
﹂ と い う け れ ど も
︑ そ れ は リ ャ ザ ー ノ フ の 幻 想 に そ う 映
っただけのことである︒実際には︑かれは﹃ドイツ・イデオ
ロギー﹄の草稿﹃発見﹄のために旅に出る必要はちっとも
な か っ た だ ろ う
︒ か れ が
︑ さ し あ た り も と の 言 葉 に よ っ て
ではないにしても︑出版にとりかかれるようになった点は︑
よ ろ こ ん で 承 認 す る が
︑ い ま だ か つ て 失 わ れ た こ と が な か
ったものを発見する必要はなかったのである﹂
(G ru nb er gs Ar ch iv , J ah rg . 1 2 , S. 2 85
)︒
そ し て そ の 論 拠 と し て
︑ マ イ
アーはエンゲルス︑メーリング︑ベルンシュタインによる問
題の草稿にたいする言及をあげ︑これらをよく検討すれば︑
﹃ドイツ・イデオロギー﹄公刊史に関する覚書︵重田︶六
問 題 の 草 稿 が い ま だ か つ て 紛 失 さ れ た こ と は な く
︑ ま た こ
れを誰れが保管してきたかは︑自明の事柄である︑と述ペ
ている︒リャザーノフのいいがかりに近い批判は︑かれの
胸によほどこたえたとみえて︑後年︑﹃回想録﹄でもふたたび
この問題をとりあげている
(V gl . Er in ne ru
ミgen,
S. 3 5 0 .)
︒
ま た
︑ 馬 葉 礼 氏 は そ の 回 想 の 中 で
︑ リ ャ ザ ー ノ フ が
﹃ ド イ ツ
・ イ デ オ ロ ギ ー
﹄ 草 稿 を 写 真 に と る こ と が で き た の
は︑自分の提言によるものだ︑という意味のことを述べて
おられる︵前掲稿︑四ニページ︶が︑いまのわたしにはこ
の 二 つ の 述 懐 の 間 の 関 係 を あ き ら か に す る こ と が で き な
︑
oし( 1 2 )
V
gl . E . C z6 be l, R ja sa no ff al s・ Ma rx fo rs ch er , Un te r de m B an ne r d es Ma rx is mu s, Jahrg.
4 ̀
Nr . 3 , 1 9
3 0. ±#
三郎訳﹃マルクス・エンゲルス遣稿考証﹄︑一九三ページ︒
ところで︑ツォーペル自身は︑この写真版にとられた遣稿の
中に﹃ドイツ・イデオロギー﹂草稿が含まれていた︑とは明
言 し て い な い
︒ だ が
︑ そ う で あ っ た こ と は
︑ 問 題 の 写 真 版 作 成 に つ い て 語 っ た 馬 氏 の 追 憶 談 に よ っ て 傍 証 さ れ る
︵ 馬 葉 礼
︑ 前 掲 稿
︑ 四 ニ ペ ー ジ 参 照
︶
︒ た だ 馬 氏 の ば あ
い︑日時が一九二四年から二五年にかけてとされているの
は●記憶ちがいかとおもわれる︒
( 1 3 )
M
ar x‑ En ge ls , eF ue rb ac h. Gege ns at z vo n ma te
‑ r ia l i st i s ch e r u nd i d e al i s ti s c he r A ns ch au un g, n i Ma rx un d E ng el s i i be r Fe ue rb ac h, he ra us g. vo n
D .
Rj az an ov , Ma rx
‑E ng el s A rc hi v, d B . 1 , S. 2 33 3 06 .