日本人口論小史(II) : 社会有機体説、ダーウィニ ズムの日本イデオロギー化[2]
その他のタイトル A Note on the Japanese Population Theory (II)‑(2)
著者 市原 亮平
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 4
ページ 460‑490
発行年 1955‑07‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15751
を置いたーーとの意見の分岐をきたしている︒
,
ー
︵
︹2
︺日露戦争と日本人口論
( 1 )
・ 日
露 開
戦 論
と 日
本 第
一 人
口 論
( 2 )
非 戦
論 と
日 本
第 一
人 口
論 批
判
( 1 )
かつて山路愛山は︑進化論︑不可知論と加藤弘之の天賦人権の否定とをもつて大学派の特色にあげたが︵﹃日本某
督教会史論﹄︶︑転向後の加藤はひたすら絶対主義権力に膚接して国権論派の急先鋒としてふるまい︑日清戦争前に
﹁商国主義﹂か﹁武国主義﹂かという二者択一的ツェーマを提出し﹁今日の現状に就ては就中武国主義を主眼と定
( 1 )
めて之を経となし而して商国主義を第二位に置いて之を緯とするを緊要のこととするなり﹂と結論して︑強兵のた
めまづ富国をはかるべし︑とした福沢等国富論派ーー'かれらは絶対主義官僚より︑より多く財閥資本主義の側に身
︵補 註︶
さらに﹃強者の権利の競争﹄を日独両文であらわし︵明治二六︶︑
目次
日 本 人 口 論 小 史
市
( I I )
原
亮 社会有機体説︑社会ダーウィーーズムの日本イデオロギ
T化︹ 2
︺五
〇
平
461
︵ 補
註 ︶
の扮装をかりたアポロジーに探かならなかった︒ 論 ︑ ﹁凡ソ吾人ノ権利自由ハ独リ強者ノ権利ノ競争ニョリテ進歩発達スルコ.トヲ得タリ︒蓋ツ欧洲各国人民ノ権利自由 ガ近今
i︳至リ大︳︳進歩発達スルコトヲ得タルハ全ク強者ノ権利ノ競争ノ結果二外ナラズ︒⁝⁝此強者ノ権利ナルモ
ノハ真実権利卜称スベキモノーーアラズッテ全ク権カタルヲ知ルペツ﹂︵結論︶と赤裸々な国家有機体の実力説をとな
え︑翌二十七年には﹁二百年後の吾人﹂と題してマルサス説の視角から日本人口の過大増殖を憂へこれの対策と
して堕胎公許の時代がくるだらう︑ と予測していたが︑明治三三年にいたると前述したような臥薪嘗胆のナツョナ
リスティックな国民衝動ーーそれを呑みこんだ世界的な帝国主義の潮流に乗ってますます社会ダーウィ︱ーズムの色
調を濃くし︑﹁未開民族を圧倒し其国土を奪略して盛に植民地を開けるが如きも皆最近同胞を自己保有の需要とす
る所以にして⁝⁝﹂と主張︑
る︒ーー`﹁欧米外にありて能<此欧米各邦の横暴なる愛己心を抑止するの権力を有するものは独り吾が日本帝国あ
る の
み ︒
﹂
これを以つて
と︵明治三三﹁道徳法律進化之理﹂第一巻︶︒帝国主義的後進国略取を日本国家理性の絶対的優位と優勝劣
敗のロジックにてらして合法化した加藤は︑日露戦争が火蓋を切った三七年三月に戦斗的社会ダーウィニズムの立 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 脚地から日露の興廃を卜した﹁進化学より観察したる日露の運命﹂をあらわし︑さらに同年その喜劇的な﹁人種不
平等論」ー—のちに第二帝国さらにはヒットラーの第三帝国の経典と化したーー_で有名な反動貴族ド・ゴピノーの
いわゆるゴピーーズムに帰依したドイツ皇帝ウイルヘルムニ世が﹁日勝露敗﹂を憂えて﹁黄禍論﹂を提唱したのに反
﹁所謂黄人禍﹂を発表したが︑ ﹁ 実 に 必 然 な る 天 則 ﹂
五
この黄禍にかんする両論は︑東西の後進かつ新興の二君主制帝国主義の人種論
﹁ 強
者 の
権 利
の 斗
争 ﹂
は 最
初 ︑
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E ̀ t
s i c k
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ミ
gなる題名で発表された︒
日本人口論小史︵市原︶
と 述
べ ︑
とくに日本についてこう記したのであ
プロヴィッツは加藤の﹁宇内統一国﹂説を反駁したが︑
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
﹁永久の種族斗争こそ歴史の法則にして永久の平和的理想主義者の夢である﹂という好戦的種族斗争論で有名な加藤の師父グム
加藤はさらに彼と応酬している︵加藤弘之講演全集第四巻︑第二附録
﹁拙著に対せるグームプロキッ博士の批評を読む﹂参照︶︒この書物がグムプロヴィッツ︑イエーリング︑ツェッフレ︑ヘンぷ・
アム・ライン︑スペンサー︑ヘルウルト等の翫に拠つていることは︑加藤自ら序文であきらかにしているが︑その主眼点は人 類の動物界における生存競争以後における人類間の生存競争の重親にあることはいうまでもない︒いわく﹁各個人ハ勿論各戚族 各部落民種各国民各人種等力右ノ如キ千万無量ノ高尚優大ナル需要ノ充足ヲ得ンガ為メニ四六時中・相互に競争ッテ止ム時ナキ ニ到リ而ッテ此競争二於テ強者ハ弱者ヲ倒ツ劣者ヲ制ツ適者ハ不適者ヲ亡ホス等総テ憂勝劣敗ノ結果ヲ生スルコ
t
t ^
ナ レ
リ ﹂
と︒かかる激烈な﹁千万無量ノ競争﹂が湧起され︑そこに人頻不断の生成・蓮歩があると小うのであるが︑この競争中最大なる
ものが権力の競争で︑しかも権力競争は強者の権利の必勝をまねくから︑結局は論者の権利にほかならない︒﹁吾人ノ権利自由.
^独リ強者ノ権利ノ競争ニョリテ進歩癸撻スルヲ得夕﹂のであって︑︑けつして﹁正理公道ノ致ス所﹂ではないという︒かく て︑第一章においては天賦人権論を廠華して権利法定説をとなえ︑第二章においては生怖的な心芽の要質的異同がその強弱鉦 劣をまねき︑その結果強者の権利の競争と優腺劣敗とを生むにいたったとして︑とくにグムプロヴィッツ︑ヘルワルトに心醇し つつ勢力説・征服説的国家論をとなえ︑第三章においては論者の権利が自由権と同一なること︑第四章においては人類間におけ る競争としては各個人間のそれよりも︑﹁団衆﹂間の競争が大なる意味をもつこと︑第五章以下においては︑治者と被治者︑上
等族と下等族︑自由民と不自由民︑男子と女子︑各国相互の﹁五大競争﹂が説かれているのである︒彼の﹁宇内統一国﹂論は︑
﹁強者ノ権利ハ社会ノ維持進歩ノ許ス限リ^決ッテ利他的二発動セス専ラ利己ヲ旨トツ其カヲ歌スモノ﹂であるが﹁邦国卜邦国
トノ間二起ル所ノ強者ノ権利ノ競争﹂も国内における薩者の権利の競争とその珊を異にせず︑くゎえるに邦国相互間の関係はま だ﹁大社会即ちー大有機物﹂を構成していないから︑その間の論者の樟利の競争は暴猛性を帯びざるをえないが︑やがて邦国相 互の有機的進化の結果宇内統一国(‑大有機物︶が合成されるであろう︑というのである︒このように宇内統一国が合成される 迄の﹁邦国間﹂の職者の権利の斗争は︑その暴猛性とともに﹁決ッテ道憲二反ツ法狸二背クコト^認メス全ク当然斯クアルヘキ モノト考フル﹂結果︑完全に肯定・是認されるのである︒翌年本書の補遣として出版された﹁道徳法律之進歩﹂ではとくに利己
五
463
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
︵ 補
註 ︶
主義が主張されており︑社会ダーウィニズムはより一段と徹底し戦斗化せしめられている︒かくてわれわれは妥当にも︑次のご
とく結論.つけてよいであろう。ー—「この社会有機体諒・社会ーダウィーーズムは……二つの存在珊由を明治中期にもつていた。
その一っは明治初期以来の自然法説︑自由民権思想にあくまでも対抗するものであるということであり︑他の一っは日清戦争以 後の産業的発展に相応して景頭した力と思想とに対抗するものであるということであった︒
ら︑さらには日露戦争を経過して︑ますます大となるにいたったので︑社会有楓体貌的社会学主議の社会的意議も従ってまた大 となったのであるから︑加藤博士を最大の代表者とする日本における社会有機体的社会学主義は︑かかる機能をかなりに果しえ
( 2 )
たものといわなければならない︒﹂と︒
︵補 註︶
かつて﹁人権新説﹂の著者加藤弘之に反駁文を出し﹁スペンセル氏の為に寃を解く﹂ことに努めた外山正一は︑
明治二六年東京大学社会学講座が設置されるや最初の講座担任となり︑
が︑明治三二年には﹁商業上の競争︑工業上の競争︑其の為に何うしても休む事も出来ぬのである︒大きなる資本
を以て大に遣らねばならぬ︑其れでなくては国の教育を全うし︑兵備を整える事も出来ぬのである︑人間以外の苦
痛を覚ゆるとも︑如何に吾人が運命に斃るるとも︑其れを顧て居る退が無いのである︒全く一.片の機械の如くにな
つて仕舞つても︑其れを顧みる退が無いのである︑国の安危存亡と云うものは︑是れは何よりも大切なるものであ
( 3 )
る﹂として︑国の安危存亡が吾人の自由を一片の機械のごとくふみにじつてしまつても顧みない程にスペンサーに
おける有機体説的魂が偏面的に強化され︑
五
もつばらスペンナーを祖述したのである
この魂を媒介にしながら同年の﹁修身大綱々目﹂においては︑第一に﹁
君主は国民の父でございます︒君主が国家を主宰し給ふ故に国家は存在するのである︒国家より受くる所有幸福ほ
( 4 )
君主の賜物である︒君主の恩は天地より広大である﹂と加藤と符節を合した家族国家観に帰依しているのである︒
外山正一博士はローマ学会の設立︑新体詩の唱道︑女子教育奨励会の設立等﹁社会上のことには多く進歩主義を執りて改
かかる力と思想とは︑ しかしなが
―‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑...
464
も ︑ さ
ら に
︑
な本質が喜醐的にしめされている︒
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
( 5 )
蓮を叫んだ﹂といわれ︑自由民権運動にたいする政府の苛酷な弾圧をいましめて︑そのことが逆に民権運動を助長せしめるであ ろう︑と逆説を弄したのであったが︑彼はさらに︑加藤弘之が﹁無智蒙昧ノ衆民力社会ヲ棄乱ツ上等平民ヲ圧倒セントスルヤ其精 神カノ僅大ナルカ故ニアラスッテ︑却テ徽弱ナルカ為メニ全ク僅々ノ首魁等二煽動セラ>テ一時狂暴ヲ遥ウスルニ外ナラサレ
( 6 )
.
ハ︑決ッテ永ク社会ノ大勢ヲ左右スルニ足ルヘキ勢カヲ得ルコト能ハサルノハ必然ナリ﹂と論じて自らの社会ダーウィニズムの
自已矛盾を露呈したのにたいし︑
わるる心の除かれぬものにや︑近日社会党共有党虚無党の如きものが益々猶薇を極わめんとする如くなれども︑こは全く儘々の
﹁優勝劣敗︑是天瑾杯と立派に云われ乍ら加藤氏は時としては劣膵優敗杯云うことのありと思 首魁等に煽有せられて一時狂暴を達くするに外ならざれば︑決して永く社会の大勢を左右するに足るべき勢力を得ること能わざ るは必然なりと自ら云われはするものの︑頻に此等の聾が猶薇を極めんとするを見られて︑殆んど狂勢の如くになられて憤らる るは甚だ怪しむべきことにぞある︒虚無党者流は果て劣者ならば︑此繋が勝を得んことは固より出来ざることなれば此螢が獨顎
( 7 )
を椒めんことを恐怖する理は万々なき筈なり﹂とスペンセル氏のために寃を解いたのである︒ここに社会ダーウィニズムの粗野
スペンサーよりも有機体説的性格のつよいコントの摂取者であり︑さらに外山に次いで明治三一年から
東大社会学講座を担当した建部避吾はコントを儒教哲学によって色あげし︑社会学の淵源の第一に儒学をあげ﹁儒
教の真義は社会経営の問題を考察するより観れば︑明かに一種の社会学と名つく可き者にして之を儒学の方面より
見るも儒学を呼びて或は倫理学とし︑或は政治学とし︑或は宗教とするが如きは従来世人の好みて為せる所なれど
更に之を社会学と呼ぶは数層適当なるを覚ゆるなり︒ 故に社会学にして西洋の学問として止まる間は暫く措
く︑社会学にして第二
0世紀世界の学問たるを要求すとせば︑其の思想の来歴は亦之を儒学に遡らざる可からざる
( 8 )
なり﹂とし︑・﹁社会は有機体なり﹂ ﹁社会は単一体である︑個人は其中に於ける社会の成分である︑斯う云う観方
五 四
‑46.5
わ ち
い う
︑
所 詮
︑
五 五 ﹁即ち帝国の外伸ということに依るの外は無いので
一—--- ----—--ヽ---―---
‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑
( 9 )
まで進んで行かねばならぬ﹂のであり︑これが﹁最新なる社会学﹂なりとしたのであるが︑やがて日露戦の近づく ︑︑︑︑︑︑︑ まづマルサス的 におよんで七博士の一人として有機体説のロジックをかりて主戦論を唱えるにいたる︒すなわち︑
︑ ︑
︑ ︑
人口問題と商業的市場の拡張問題を提起し︑ ﹁是等の現象の実地の必要といたしまして所謂帝国主義というものが
起つて来るのであります︒帝国主義が既に此二つの事項から生れ出でたるものと致しますれば︑帝国主義は直ちに
是娩近自然科学の発達の結果であります︒直ちに是娩近不調和的文明発達の結果であります︒即ち帝国主義を以て
或︱二の野心なる君長の方寸に出だたる特別事項と致しまするとか或は二三の民族社会が一時の血迷いから来たと
( 1 0 )
ころの一時的仮象と見るが如きは断じて以て天下の大勢と通ぜざる断案と申されませぬ﹂として︑社会進化論の立
場から現状において実力主義をもつてこれに適応すべきことを主張する︒このように社会本位としての強国主義を
主張しながらも露骨な帝国主義
I l 四海主義を批判して人道主義に身を投げた建部の︑
﹁必ずしも興利を域外に求むるを辞せ﹂ざる性質のもので﹁期する所は︑国家を介する公道の発展のみ﹂で
あった以上︵普通社会学第一巻︑明治三七︶︑もはや﹁国家を介する公道﹂について贅する必要はないであろう︒すな
﹁今に於て早く此大勢を観取して之に順応し若くは之に乗ずる所以の方策を講ぜなければ他日腑を噛む
( 1 1 )
の悔を胎すということは瞭々として火を賭るよりも明らかであると存じます︑﹂﹁我邦に於て実業伸張の声を幾ら
大と致しました所で︑国内何れの処にて我々の希望する日本国の繁栄が実現を期せらるる事でありますか﹂︒実業
は目下の日本にとつて急務である︒浪人の増加のごときはまった<実業の伸張がおこなわれておらぬことに由来す
る︒しからばいかなる道によって実業の伸張を実現すべきか︒
( 1 2 )
あります︒﹂外伸の方式としては︑
日本人口論小史︵市原︶
︵ 一
︶ 領
土 拡
張 ︑
︵ 二 ︶ 勢 力 範 囲 の 伸 張 ︑ いうところの﹁人道主義﹂も︑
︵ 三
︶ .
移 民
︑
があげられる︒外伸の
西亜が進んで来ます道とに於てどうも相互に障碍を感ずることが益々激烈になって来て居りはせぬかと見ゆるので
あります︒﹂然るにロツヤ外交の特質は﹁其議詐百端なる其機会に投ずるの神速なる其一定の目的に向つて執拗な
る﹂にあり︑実に憎むべきものであることが注意されなければならない︒.﹁此東洋の一角に於ての民族発展は誰が
致すことが最正当であるかと考えますると︑我日本民族の発展を以て最正当とせねばならないのであります﹂と︒
かくて﹁帝国の外伸﹂の不可避性を説き︑その方策として第一ー領土拡張︵滴韓︶︑第ニー勢力の伸張︵支那方面︶︑
第三ー移民︵濶洲︑南洋︑布畦︑南北米︶の三策をあげ︑
博士の一人として日露主戦論者となって登場しなければならないのである︒
もっとも赤裸々に発言したものとし
︑ ︑
以上加藤︑建部が徳富の先踏に倣つてうちだした第二の大日本膨脹論を︑
( 1 3 )
て︑七博士の最右翼︑硬論をもつて鳴ったいわゆる﹁バイカル博士﹂︑戸水寛人教授にきこう︒すなわち彼は︑﹁世
、~、、、、、、、、
界ノ大勢卜日露戦争ノ結末﹂︵明治三八年二月︶において︑領土拡張要求の所因として︑第一にマルサス的絶対過剰 とくに第一策の有利かつ必要なることを帰結した建部は七 て︑是はナカナカ前の障碍物とは大いに模様を異にしている﹂︒ 易にこれを排除することを得たのであるが︑
﹁現状に於て見ますると日本の進んで行く道と露 ﹁之に続いて誘い出されました所の障碍物は即ち露西亜でありまし
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
方 面 と し て は ︑
︵ 一
︶ 満
韓 方
面 ︑
︵ 二
︶ 支
那 方
面 ︑
﹁我邦は百難千障を排し ︵三︶濠州南洋︑布畦︑南米︑及び北米がしめされる︒第三方
面は第三方式以外は不可能であり︑第二方面は第二方式以上は困難であり︑﹁第一方面丈は動々もすれば第一方式
でもが或は出来ようかという論もポツボツ聞えないではありませぬ︒﹂かくて彼はいう︑
ても此方面に於て此必要的政策の実行を努めなければならぬのであります︒﹂これの実行を妨げた支那はかつて容
五六
467
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
ヽ
︻ 補
説 ︼
在 形 態 を 以 下 に 簡 単 に 補 説 し て み よ う
゜ ー
第二に世界の趨勢︵﹁此ノ如ク諸国ガ侵略ヲ事トッ︑
五七
︑︑︑︑︑ 人口の増加︑
( 1 4 )
ヌ﹂︶︑第三に関税戦争︵その結果としての日本独自の市場獲得の必要︶の三つをあげ︑﹁日本ー
u領土振張ノ必要ガアルノ
デ︑サウッテ今日ガ領土ヲ拡張スルニ最便利ナ時デアル︒此ノ如キ事情デアルカラ今日日露戦争ガ少ツ長クナルト 言ッテ決ッテ憂フルニ足ラヌ︒又日露戦争ガ長ク続ケバソレガ為二却ッテ領土ヲ拡張スルコトガ出来ルノデアルカ
( 1 5 )
︵1 6
)
ラ日本ノ幸福卜言ハナケレバナラヌ﹂として﹁貝加爾以東ノ地ヲ悉ク日本ノ手二牧メネパナラヌ﹂と最硬論を憚る 以上にみたように︑国内的契機としての旧民主主義革命運動の激化に面して呼び出された生物学的社会学主義
は︑日清・日露の両役にのぞみ主として国際的契機において鼓舞激励されつつ軍・封・帝国主義護持のために動員
されたのであるが︑さらに後説するように明治四十年代︑社会主義の﹁冬の時代﹂にはいつて本格的に前期的有機体
説に抱合・吸牧せしめられ︑絶対主義の独占資本主義にたいする政治ヘゲモニーを反映して有機体説においても前 期的なそれがプルジョア的なそれを圧倒︑引導したのであって︑われわれは以下の行論の基礎視点をさらに瞭置す るため︑絶対主義支配下の日本と金融資本支配下のファンズム・ドイツとそれぞれにおける有機体説の異なった存
社会有機体説の日本継対主義版とドイツ・ナチス版との類型的差異は両国の統治構造の本質的差異 1 日本では八・‑
五敗戦の日まで継対主義専制が労農弾圧や対外的侵略や地理的独占を金融資本の意志を補位代行しておこない得たのに︑ヒット
ラ ー
・ ナ
チ ス
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ことなく吐いたのである︒ 領土拡張二熱中スル以上^日本モ獣ッテ居ル訳二^行カ
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑・‑‑‑‑‑・‑・‑・‑‑‑―・・‑‑‑・ ―‑・‑‑‑‑‑‑・‑
会民主党、共産党えの結集、政治的既成事実たる階級分裂と社会主義の脅威'~これらの事態こそ「国家」より「社会」を完全 に解き払うドイツ社会学を形式社会学形態をもつて市民科学として独立︑盛行せしめた制度的与件であり︑同時に金融斑本の直 接独裁たるナチスを登場せしめた前提條件でもあった︒
グ︑ローゼンペルグは︑プロツヤ型国家有機体貌からワイヤマール型社会有機体説を一挙に超躍して奇怪にもナチス自らを社会
︑︑︑︑︑︑︑
主義を遂行すべき有機体的主体ー│いいうべくんば社会主義有機体に擬したのである︒ー
̲ ̲
﹁社会主義的処置を⁝⁝なし得るも
ナチス・ドイツのばあい︑ワイヤマール共和国の成立︑
かくてナチスのもっとも強力なイデオローグ︑
同時に稀代のデマゴー
八・一五敗戦までの旧日本が市民社会における近代的社会矛盾ー階級分裂を公的に確認することをいかに峻拒してきた
︑ ︑ ︑ ︑ か、政治的舞台における階級対立や社会主義の存在をいかに予防階級戦"~予防社会主義(予防戦争ならぬ)の見地から未然に否
認してきたか︑はかの悪名高い治安維持法が取締の対象として﹁私有財産の否認﹂を﹁国体の変革﹂と同列に置いたのをみれば わかる︒若槻内相は大正十四年二月治安維持案法上提のさい趣旨を弁明していう︑
﹁現今の過激なる社会的運動中に存する最も ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
重大な危険と弊害とを勘からしめると同時に一般社会を戒め︑不穏なる行動に出づるが如き事を予防せんとしたのが本案の趣旨
︑ ︑
︑
( 1 7 )
である﹂と︒この前期的統治構造が日本社会学の帰趨にとつてどのような嗚福をあたえたかは︑後に詳述する筈であるが︑さて
一九世紀後牛から急速に発展しはじめたドイツ・プロレタリアートと社
い ︶
︒
ヤマール共和国に到逹して︑
日本では大正末期の低似政党政治時代にはいつてから︑
とくに敗戦後におよんでというの仕かな
ドイツではワイ
的に反映しているとおもわれる︒すなわち既述のように︑市民社会内部の階級分裂の激化がプルジョア有機体説をうみだしたの であるが︑それを受容した絶対主装プロッャや日本のばあい﹁国家﹂
S g
at
と分離し独立した﹁社会﹂
Ge
se
ll
sc
ha
ft
が市民社会
の未成熟のため存在する余地なく︑社会有機体説が本来に自已の理論的任務とする脅威的第四階級︑社会主箋イデオロギーヘの対 抗は︑紹対主義の束縛のもと・プルジョア・デモクラジーの広場が形成されていない以上無用であり︑それはただちに絶対主袈
︑︑︑︑︑︑︑︑︑
国家によりすくいあげられ国家有槻体説に昇華し教学化!絶対主義イデオロギー化されることによって逆に市民科学とじての存
︑ ︑
︑ 在理由を喪失せしめたのであった︒︵独立した市民科学としての社会学盛行の制度的与件があたえられたのは︑
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
五八
以69
五九
の﹂社会主職を実現しえない︑けだし彼らは﹁全体的なもの﹂
れている各人種の﹁反自然的﹂平等を主張するが︑各民族︑各有機体の﹁自然﹂状態は他民族他有機体との﹁生存競争﹂である からあきらかに﹁自然法則﹂に外れているがゆえに︒これらの自らを社会主義有機体に擬する所翫はツュペングラーの﹃プロッ
﹁有機体﹂に反対し﹁自然﹂によって各機能をあたえら
ャ社会主義﹄.甑と同日のものであり︑労働者階級への社会主箋イデオロギーの著大な滲透力の反映であるが︑その本質はローゼ
ンペルグの次の雙句にしめされる︒ーー﹁今は国家主義者たらんとする者は社会主義者でなければならない︒又その逆でもある︒
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
( 1 9 )
⁝・・・純粋社会主義的な処置はまづ私有財産の概念にたいして中立的である﹂︒ナチスのスポークスマンのいう﹁民族社会主義﹂
︑
︑
︑
︑ や﹁純粋社会主義﹂は後説する﹁純正社会主義﹂者北一輝を例外として日本における凡百の有機体論者とは異なり家族国家
i
うところの﹁血と土﹂
B l u t u n d B o d e n
も家族倫瑾とはまつ
機体概念や前期的有機体翫ー家族原狸の一分子も含んでおらず︑い たく無縁なプルジョア有機体概念であって︑ヒットラーも家長ではなく公的な﹁民族共同体﹂の指導者として観念されていたの である︒以上にあきらかなように︑﹁国家﹂とは独自な﹁社会﹂の公然たる存在をしめす近代的階級分裂を政治的舞台にのぼせ
︑ ︑
ながらも︑﹁後期家産国家﹂︵ウエーバ
1 )
たる網対主義国家の本来的な性格としてそれを予防的に否認しなければならなかつ
た旧日本統治構造のもとでは︑ナチス・ドイツのもとにおけるそれとは異なり︑前期的有機体説の圧倒的比重を招来したのであ
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
つて︑その限り市民科学として独立した社会学はしたがつてナチス・ドイツ的な﹁社会主義有機体﹂説は︑存在狸由を認められ
なかったのである︒ーー̲
註い加藤弘之講演集︑第一冊︑
l l
七 頁
︒ 図 田 畑 忍
﹁ 加 藤 博 士 の 国 家 思 想
﹂
︱
1 0
│ l
‑
︱ 頁
︒
③.外山正一﹁京都経済協会に於ける演翫﹂
(4山存稿後篇︑明治四二︶五一七頁︒
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
﹁ 民
族 ﹂
職は民族主職としてのみ可餡である︒なぜなら社会主義は共同体の原珊であり民族有機体的共同体だから︒マルクス主義は﹁真
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑.︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
のは⁝・・民族を一つの有楓体として把握することができ︑国家を民族の外的保証と内的澗足のための手段とみなし︑したがつて
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑.︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
( 1 1 )
全体たる﹃国民﹄をもつて個人と小集合体を制限する行為の某準と考えるがごとき組織の代表者である﹂と︒彼によれば社会主
---―·---一―ヽ·-·---—---
( 2 )
④同右.﹁修身大綱々目﹂薗揚書︑四五七頁︒
固下出隼吉﹁明治社会思想研究﹂︑二
0
五 頁
︒ 圃明治文化全集第五巻︑三六八頁︒
m
外山正一﹁ 4 山存稿前篇﹂明治四二年所牧︑五 0
六 ー
七 頁
︒
囮建部速吾述﹁社会学原理﹂︵石田維﹁明治政治思想史研究﹂八七頁より引載︶︒
側同上﹁普通社会学第一巻﹂﹁社会学序説﹂︵明治三七︶および﹁ーニの社会学的根本観念に就いてー実珊鐵︑蓮化鐵︑渾
ー観︵﹁日本社会学院年報第七章︑第一︑二︑三合冊︶参照︒
O O l
日露開戦論纂︵明治三六年十月五日︑戸*︑寺尾︑金井︑中村︑高橋︑建部の六博士の外に渡辺文学士をくわえ︑それぞ
れ論文を寄稿合作したもので︑さらに附録として小野塚博士をくわえたいわゆる﹁七博士﹂の建議書が取載されている︶八
二 頁
︒
U l l
同右︑八三頁︒
四同右︑八六頁︒
佃河合栄治郎選集第九巻﹁明治思想史の一断面﹂三三
0
頁 ︒
閥戸*寛人﹁世界ノ大勢卜日露戦争ノ結末﹂ーニ頁︒
囮同右︑二九頁︒
閥同右︑.三三頁︒
皿辻清明﹁日本官僚制の研究﹂二三八頁︒
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50
5,
中央公論社版︑吹田 I 上村訳四二五頁︒
U I D
i b i d
,
S.
50
7,
吹田ー上村訳四二七頁︒
ー 以 上
︑ 徳 富 蘇 峯
︑ 加 藤 弘 之
︑ 外 山 正 一
︑ 有 賀 長 雄
︑ 建 部 避 吾
︑ 戸 水 寛 人 等 と い づ れ も あ る い は ス ペ ン サ ー を
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
六〇
471
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
もっともすぐれた労佑問題のレポーター横山源之助はいう︑
六
あるいはコントをあるいはツェフレを日本の風土に移植入した開拓者であり︑あるものはいちはやく自由民権運動
説たる忠孝主義と妥協︑ スペンサーの有機体説的魂と托生して転向し︑ある者は明治二七︑八年の戦役や戦後の臥
薪嘗胆や三三年の義和団の変に衝動した国粋主義の洗礼をうけて国権的有機体説の徒となり︑
の役に御用理論を提げて登場したもので︑彼らが説くところの国家社会や法道徳の進化論はひとしく前期的有機体
抱合せしめられて︑
れた軍・封・帝国主義の讃歌は︑二度目は加藤︑建部等︑
日露の役に捧げられたわけであるが︑ ﹁我が族父統治の政体﹂ ふたたびみたび日露
︵ 加 膝 ︶ た り ﹁ 千 古 の 国 体 ﹂
︵ 穂
積 八
束 ︶
た る
一度目は徳富の大日本膨脹論として日清の役に捧げら
さらにパイカル博士をふくむ七博士の主戦強硬論として
しかも明治三十年代は前代
11日清戦争前後とは異なり反戦勢力がすでに摂頭
明治三十年七月五日の﹁労仇組合期成会﹂の成立は日本における近代的労仇運動の開始を意味した︒明治日本の
﹁余は日清戦争を以て労仇運動の新紀元となすものな
り︒戦争それ自身が直ちに労佑問題に関係ありとは日わじ︑然れども戦争の結果は機械工業の勃興を促し︑労仇問
( 1 )
題を惹き起すに至りたるなり︒﹂明治三四年五月二十日︑片山潜︑幸徳秋水︑木下尚江︑西川光次郎︑安部磯雄等
による社会民主党の結成は日本における最初の労仇党の創始を意味した︒孤々の声をあげた近代労仇者運動は明治
三三年三月の渚安警察法の弾圧をうけ︑結党をみた社会民主党は速刻結社を禁止され結党宣言は没牧の憂目にあっ
た が
︑
しかもこれら労仇者組織︑労仇者党の死屍のうえに前代にはいまだ有しなかった反帝社会主義の教育宣伝活
動がおしすすめられていったのである︒石川旭山編﹁日本社会主義史﹂はいう︑ し
て い た
゜ ー
家族国家に無条件に帰依すべき使命をもつていたのである︒ のむかしに官権と契合︑
﹁社会民主党は禁止せられたり︒
"
・
・一‑・‑‑・‑・‑‑・・・・・‑‑‑‑・‑・一・・··~---、···--·―‑‑.
然れども社会主義の運命は之が為めに未だ一奄をも損傷する無かりき︒見よ︑社会主義協会の運動は益々猛烈に行
われしに非ずや︒社会主義の種子は多く広く蒔かれたるに非ずや︑機運一たび到来せば弦に活澄たる英気を含んで
其新芽を朋発すべきは当然なり︒而して機運は実に到来したるなり︒日露戦争の開始即ち是れなり︒日本社会主義
( 2 )
運動に対しては是れ実に千載の一遇なり︒﹂と︒マルサス説と社会有機体説との吻合による第一日本人口論の祖型
が︑ふたたび建部︑戸水等により日露開戦論としてうちだされ︑
哉所謂帝国主義の流行や︑勢い燎原の火の如く然り⁝⁝我日本に至っても日清戦役の大捷以来︑上下之に向つて熱
狂する︑騨馬の腕を脱するが如し﹂ しかも朝野ともに開戦の硬論に和して﹁盛んなる
われわれは次に日本で初めてあら
われた反帝非戦の日本人口論批判をみるまえに︑まづマルサス説についてやや一般的考察をこころみ︑社会有機体
説との抱合による日本的形態の特性を摘出し︑反帝日本人口論批判の要石が奈辺に存在するかを補説することから
は じ
め よ
う ︒
いうまでもなく社会有機体諒は一方において国家内部の階級対立をおおいかくし階級支配の主体やその支配楓能を有機体 的機能関係もしくはそれの漸進的進化過菰に解消し去る
1 アグリッパのごと<│ーーとともに︑他方帝国主義国家間の矛盾にた いしては弱肉強食のロジックにてらしてニイチ工的な強者の権利を仮借なく主張する︒これらプルジョア有機体翫が日本継対主
義に据取され前期的有楓体説と接合されると︑生物学的社会学主義が本来内在せしめている﹁内安外競﹂︵福沢諭吉︶的な内外ニ
重の役割が︑生物的与件
i 人口の圧迫︑自然的所与ー領土的狭迫を論理的与件としつつ︑これと密接に﹁共腕﹂しながら
1ィ
デオロギ1的にも方法論的にも(「共範関係」Konjugiertheit~ ついては既述した)ー—,、家族国家の「生活空間」の武力的拡 充 策 の 合 法 化 と し て 作 用 す る こ と と な る
︒
︻補
説︼
日
本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
日本における明治二三年の最初の賓本主義的恐慌︑農民暴動を契機とする日本
人口論の盛頭は︑貧困﹇社会問題を個人対社会の永劫的矛盾の所産に解消しアグリッ︒^論法の日本版たる家族国家観によってお ︵秋水︶という状態におちいるのであるが︑
六
473
行するのを許していただきたい︒ー│̲
六
おいかくすところの有機体説、さらに自然的喪源•土地との相関々係における継対過剰人口の矛盾に逮元し移植民↓領土膨脹論 r
よって某本矛盾をおおいかくすマルサス説︑この両者の抱合形態を日本人口論の定型としていることはすでに喋々する迄もな い︒有機体説とマルサッズムとの共繭関係は日本的風土●においてもそのことを可能にしまた現実化したといえる︒しかし前稿 との関連で一点の疑問が残されている筈である︒すなわち筆者は前稿でマルナス人口原理のいうところは︑人口増加力は食物噌 加力より大であるが︑しかも前者の実現は後者によって規制されるから人口噌加は食物量の限界にとどまらざるをえず︑食物よ
︑︑︑︑︑︑
り大きい人口増加は実存し得ないのであって︑それは人口原理的にいえばなんらかの賢明なる対策によって対処圧伏されるぺき であり︑移植民も人口過剰にたいする根本対策としては無価値なもので当のマルナスもこのことを確認しており︑したがつて日 本人口論が紹対的過剰人口←移植民←領土膨脹をマルサスに藉口して合法化するのはマルナスの人口原頭に忠実でなく俗解にす ぎないことを指摘したのである︒だが筆者は﹁補説﹂として︑普逼的に人類世界に妥当せしめた人口原珊が歴史実証編において
︑ ︑ ︑ ︑
史観として民族斗争︑移動史に適用されるとき︑マルサスの民族主義とも関緒して運命的民族斗争錮が帰結されてくる結果︑必 然的に﹁生活空間﹂の武力的拡充の合法化がおこなわれ︑社会ダーウィニズムとのイデオロギ
1 的
共 輛 性 が 露 呈 さ れ て く る こ
︑
︑
︑
︑
︑
︑ と︑したがつて前稿で述ぺたようにマルサス人口論をその方法︑某礎原理において瑾解しこれをもしもマルナッズムと呼ぶなら
︑
︑
︑
︑
︑
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︑
︑
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︑
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︑
︑
︑
︑
︑ ば︑マルサッズムは日本人口論によっては片牽も俗解されていず︑歪曲されてもいず︑したがつて日本人口論はマルナッズムと 社会有機体説の合生形態として定型化するのが妥当と思うのであるが︑以下にややくわしくマルナス説にかんし如上の理由を敷 マルナスはその人口原理を建立するのに︑まづ生物一般にかんし生物数と食物との問に一の自然的原理を発見し︑この生柑的 原珊をそのまま社会法則に飛躍せしめたわけであるが︑そのばあいマルサスは不意不識のうちに自然的人口原理を修正し食怖と 生物数との生物的二契機のほかにさらに生活水準を附加しこの食物と人口および生活ホ準の乗積との三者間の関係として︑いわ
( 3 )
ゆる﹁社会的人口三位一体の原理﹂として自らの人口原理を主張するにいたったのであって︑このことは底に紬れたところであ 日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
, ̲ ̲ ・ ‑ ・ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑
-一---—ヽ·―‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑. —•一・日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
る︒この社会的人口原理は人口論の歴史実証篤で史撼として展開され︑未開社会から文明社会にいたる社会発展を解く鍵ーー・人
ロ l l
食物史観となるにいたる︒すなわち生産力と生産関係との矛盾的発展としてのみ把握さるぺき特殊な生産様式の継起的展開 が社会的人口三位一体の構成要素の均衡破壊的な内部変動を動力として一義的に抽象され帰納され終ったのであって︑これ﹁人
( 4 )
︵5)
口史観﹂とも﹁食物史観﹂いわれるゆえんである︒つまり社会の三位一体的な均衡を破壊せんとする自己運動は生活水準との乗 積をふくまない狭義の人口から発出するのであり︑この意味においてマルサスの史攘を人口史観と呼びうるし︑他方人日と相即 する変動要素でしかも人口の終極的規制者たる食物こそ三位一体の均衡化的な作用力であり︑この規制面においてマルナスの史 織は食物史観とも呼びうるのであった︒このようにマルサスもあらゆるマルサス主箋者も結局は人口対食物の某礎原珊から出発 しているのであって︑この生禰的原理が社会法則に飛躍せしめ難いときは︑そのうえに仮構された社会的人口原瑾も人ロー食物
史観も「文明社会」の経済頭論もー~全構築榔が倒壊せざるをえないのであり、このことは当のマルナス自身がある機会に紬
( 6 )
れたとおりである︒いうまでもなくマルサスの人口論は︑ジョンソンが適切に表現したように﹁ラテイマーからステュアー
t に
( 7 )
至るイギリス経済学書を貫く
l a n d
an
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l a b o
u r
t h e o
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の要約﹂であるペティーの﹁労働は富の父であり土地はその母である﹂ というツューマの最後の保持者アダム・ス`‘、ス—ース``、スの「土地および労働の年々の生産物」といい「土地の自発的生産」と
( 8 )
いい土地をもつて労働とならぶ本源的ファンドとみた表現をみょ
l
ーーの剰余価値認識の武器となった未開社会論の社会的某礎
nランド•アンド・レイパア・セオリイ
独立自営農民の両極分解の完了によって﹁土地ー労働の頭論﹂の社会的某礎が撤去された・リカードゥーマルサス段階ではじめ
て提出されたのであり︑もはや人口はペティーやハリスやケネーやスミスのように富や繁栄や国力の源ではなく︑逆に貧困の原
因へと転化する︵﹁土地
I労働の理論﹂の社会的基礎は自然権思想とひとしく封建社会のなかからあらわれきたった・自已の生産手
段を所有しそれによって自己労働を燃焼せしめていく自由独立なる小産者であっだ
6)
この意味でマルサスはカーライルのいわ
デイズマル・ナイニンK
ゆる﹁絵鬱なる科学﹂をリカードウーー贔彼もいまや労働者数の噌加よりも労働生産力
I相対的剰余価値の噌大に力点をおいてい
る
lとともにうちたてたのであって︑人口原理の基調は人口の過大噌薙とこれの食物による規制力の強調という人類未来にた
六四
475
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
い す る 悲 観 主 蔑 に あ っ た こ と は い う ま で も な い
︒ と こ ろ が 普 逼 的 人 類 世 界 に つ い て 妥 当 せ し め ら れ た 人 口 原 理 が
︑ か の 二 十 五 章 に わ た る 第 一
・ ニ 編 歴 史 的 記 述 編 中
︑ 民 族 斗 争 民 族 移 動 の 具 体 的 歴 史 を つ う じ て 人 口 の 過 大 壻 菰 が い か に 妨 げ ら れ て き た か の 検 証 に う つ る と
︑ 人 口 増 殖 が 人 間 産 業 を 剌 戟 し あ た え ら れ た 生 存 資 料 の 範 囲 自 体 を 拡 大 し つ つ 新 た な 水 準 で 均 衡 を 回 復 す る と い う 積槌性︑人間本来の際惰に鞭打つて勤勉に向わせるという光明面をもつことが点級せしめられており︑
六 五
﹁もし餓渇の衝動と寒威の 圧 迫 と か な か っ た ら
︑ 野 蛮 人 は い つ ま で も 樹 下 の 惰 眠 を む さ ぽ つ て い る で あ ろ う
︒ と こ ろ で 食 物 を 漁 り
︑ 小 屋 を 建 て て こ れ 等 の 苦 痛 を 逃 れ ん と す る 彼 ら の 努 力 は
︑ と り も な お さ ず 彼 ら の 能 力 を 作 り
︑ か つ こ れ を 活 動 せ し め る ゆ え ん で あ っ て
︑ こ れ が な か
( 1 0 )
ったなら彼らはつねに真の辟生夢死に終るのである﹂とも︑
﹁私をもつて人口の敵とみなすのは︑私の議論の完全なる誤解であ る
︒ 私 は た だ
︑ 罪 悪 と 窮 乏 と に た い す る
︑ し た が つ て こ れ ら の 害 悪 を 生 ぜ し め る と こ ろ の 人 口 と 食 物 と の 間 に お け る か の 不 利 な
( 1 1 )
比 例 に た い す る 敵 に す ぎ な い
﹂ と も い つ て お り
︑ さ ら に は 原 始 民 族 を 考 察 し て
﹁ お そ ら く こ の 国 に は
︑ 各 種 族 の 渇 望 す る 租 の 噌 員 を 養 う 力 は な い で あ ろ う
︒ し か し 一 種 族 が そ の 勢 力 を 噌 大 す れ ば
︑ 敵 は 相 対 的 に 弱 く な る わ け で あ る か ら
︑ こ こ に 新 た な る 生 存 の 源 泉 が 開 か れ
︑ こ れ に 反 し
︑ 人 U が 減 少 す れ ば 残 存 者 は こ れ に よ っ て 生 活 が 豊 か に な る ど こ ろ か む し ろ 強 大 な る 隣 国 の 侵 略 の た め に 則 滅 さ れ る か 餓 死 さ せ ら れ る の で あ る
︒
﹂
﹁ 宵 か 死 か
︑ い づ れ か を 心 に 決 し
︑ い か な る 手 段 を も 辞 せ ざ る 者 は
︑ 久 し く
( 1 2 )
貧 困 に 生 き る 筈 は な い
﹂ と い っ て い る
︒ つ ま り 社 会 的 人 口 三 位
l体の構成要素のうち︑マ
J Vサスは人口原狸論においてはとくに 食物︐の人口過噌にたいする究極的規制力を強調し人口の受動的悲観的側面を力調して陰鬱なる科学者となったのであるが︑
歴 史 記 述 篇 で は 民 族 斗 争
・ 移 動 史 に つ い て 人 口 の 積 極 的 役 割 を み と め
︑ 人 口 噌 加 が 食 物 の 限 界 範 囲 を 拡 大 し 民 族 賦 活 の 源 泉 た り う る と い う 能 動 的 側 面 を 点 綴 し て い る の で あ っ て
︑ こ れ 人 口i食物史親の当然の帰結というのほかない︒ー'ーさらにいえば︑
マ ル サ ス 本 来 の 人 口 原 理 論 か ら い う な ら ば
︑ 人 口 増 加 力 は 食 物 壻 加 力 よ り も 大 で あ る が
︑ し か し 裔 者 の 実 現 は 後 者 に よ っ て 究 槌 的 に 規 制 さ れ る か ら こ の 妨 げ の た め 現 実 の 人 目 噌 加 は 食 物 の 限 界 範 囲 に と ど ま ら ざ る を え ず
︑ も し 前 者 が 後 者 の 限 界 以 上 に で て 過 痢 人 口 を 形 成 す る と す れ ぽ 何 ら か の 例 外 的 要 因 に よ る
︑ と 解 さ れ る の 性 か な か っ た が
︑ し か も か の 二 五 章 に わ た る 第 一
︑ 二 筒
の 一
方
へ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑
‑‑―‑‑‑‑ ‑日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
( 1 3 )
麿史記述篇では﹁ありあまった人口﹂
S u p e r a b u n d a n t
p o p u
l a t i
o n
が実存しうることが指摘され︑過去においてはより多く﹁積極
︑︑︑︑︑︒
的妨げ﹂が支配し︑しかもこれらの妨げが﹁主として食物の不足より生じた﹂こと︑つまり人口過網の恒存現象が指示されてさ
ぇぃ︐が︑︵マルサスに過剰人日概念ありや否やという人口学界の久しい論争をみよ︒オッペン^之マー︑ポルトケウィッチ等はあ
︑ ︑
りとし︑カー・ナンダースやプットゲ︑モンペル
t 等はなしという︒これら論争はともにマルナスの人口原理篇と歴史記述篇の
両力点ーー食物史鑢と人口史観の二面的強調を真に統一的某礎原理︑統一的方法論にもと.つき綜合的に把握しえないためおきた
のである︶︒この過痢人口の生活空間狭裳にもとづく圧力現象を民族斗争の動力として認承するとき人口史鎮が戦斗的排外主拳
に転化しうるのは易々たるものであって︑かのヒットラーの﹃吾が斗争﹄中の次のごとき公言をみよ︒ーー︑﹁ドイツの人々は毎
年九
0 万近く.つつ増加している︒この旭大な家族に継えず食糧を与える斗争は年々難しくなっていったし︑また難しくなりつつ
あるがゆえに︑国民の餓死や築死を回濫するための対策を臓じなければいつかは一大不幸に終らざるを得ない︒﹂
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
賢明にしかも残酷に人口を調節している︒即ち種々の困難を創造して弱者を殺し.強者だけを生かしておく︒これはあらゆる種族 を強くすることとなる︒⁝⁝いつかは全人類が食つてゆくために必要な殆んど充分な土地がなくなった時には︑全人類はお互い に全世界の人々を制限せざるを得なくなるだろう︒⁝⁝今日ではまだ︑自分等の利用する充分な土地をもたない民族だけが苦し
まなければならない。自然はある特定の民族だけのために土地を与えているわけではない。ー'—土地はこれを征服するだけのカ
.とこれを耕作せんとする意志を有する人民のためのものである︒国内開発によって︑この問題を解決しようとする国民は︑自ら
( 1 5 )
の運命を閉し敏捷な他国民が版図を拡大し栄えゆく時︑自分だけが独り苦しもうとする国民である﹂と︒さればこそ南亮三郎博
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ マルナス珊論の強き脈膊が開かれる
士も﹁真実マルサス説を躙解するならナチスの総統ヒットラーの﹃吾が斗争﹄の中にさえ︑
( 1 6 )
のは驚くべきことである﹂といわれている︒
第一日本人口論ー│纏富の大日本膨脹論や戸ホ︑建部︑加藤等の日露開戦論の論拠にマルサッズムの強き脈膊を開くことがで きても一驚するにあたらない
0 ・
すなわちその方法論と基礎原理とにおいて既迦したようにマルサッズムと社会有機体説とはイデ
六六
﹁自然は実に
477
六七
︑ ︑
︑
オロギ
1的共輛性を保有しており︑当年の日本においても国内の階級矛盾の激化にともなう政治経済上の諸事象が人口対土地あ るいは自然資源という人口問題に︑あるいは家族国家と個人という有機体説的関係に仮象的に投影され︑圧倒的に家族国家の人
ロ噌加の擁護の方向に︑したがつて個人の自然権を否定しつつ土地ー﹁生活空間﹂の武力的拡大の方向に決定づけられていく︒
︑ ︑
共範関係のため容易に日本的風土上で合生しえたマルサズツムと社会有機体説とは︑明治︑大正︑昭和三代にわたり組対主義的
ポピュレイツオー一ズム弁護の方向に作用したのであり︑そのアポロジーたる日本人口論の定型化にたいする最初の反戦的謁点よ
りする批判を幸鑢の﹁廿世紀之怪物帝国主義﹂にみるのであるが︑われわれは次にこれをややくわしく考察することとしよう︒
秋水が自らの思想を洗練しつつ自由党左派の立場—ー師中江兆民の限界をのりこえて社会主義にたどりついたの
は︑十九世紀から二十世紀への世紀の転換点︑世界資本主義が決定的に帝国主義段階に入ろうとする時期であり︑
彼が万朝報に入社した明治三一年は米西戦争︑翌年にはポーア戦争が︑さらにその翌年には義和団事件がおこって
いた︒この義和団の変に率先して出兵した日本は世界列強の公認をうけ極東の憲兵としての地位を確認されたので
あるが︑それにひきつづき日露関係は険悪に陥った︒新聞記者生活をつうじて国際問題に開眼した秋水は︑世界史
の一大転期を劃するこれらの事件をとらえ︑さかんに論評をくわえながら想をねり︑明治三四年に処女出版﹃廿世
紀之怪物帝国主義﹄を世に問うたわけである︒
︑ ︑
︑
この期に秋水とひとしい反戦的立場に移行したのが内村鑑三である︒しかし内村のばあいは蘇峯と対臨的な逆転向であって︑
日清戦争の勃発にあたつてはこれを﹁箋戦﹂とよび支持し︑﹁日本の勝利は人類全体の利益にして世界進歩の必要なり﹂︵世界 歴史に徽して日支の関係を論ず︶と信じて疑わなかったにかかわらず︑﹁戦局を結んで戦勝国の位置に立つや︑其主眼とせし隣 邦の独立は措て問わざる如く︑新領土の開塞︑新市場の拡張は全国民の注意を奪い︑偏に戦捷の利益を十二分に牧めんとして汲
々たり﹂︵時勢の観察︑明治二九︶という態様であり︑かくて﹁戦争の害あって利のないこと﹂を確認し明治三二年﹁帝国主秦﹂
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
は ︑
﹁⁝⁝今日之所謂︑帝国主 人道的反文明 n 平和主義者内村は秋水の本書に序文を贈つていう︑
日 本 人 口 論 小 史
︵ 市 原
︶
﹁⁝⁝朝に一人の哲学者ありて宇宙の調和を
なる短文で帝国主義は専制︑独裁︑暴虐の精神であるとし主に対内的意義における帝国主義の非を鳴らしてやまなかった︒彼に おくれて二年秋水の作品があらわれ︑さらにおくれて二年山口孤鋸は﹁破帝国主職﹂を出したが︑この両著にはさまれて帝国主 義研究の古典として著名なホプソソの﹁帝国主義論﹂が刊行されており︑いまや世界人類の反帝国主義の論潮も東西に呼応して 生誕しつつあったといえよう︒なかんづく日露戦争中国際社会党パーゼル大会においてロッャ社会民主党代表者プレ^
1
ノフと
握手して反戦平和の国際連帯性を誇示した片山潜とあわせ秋水の﹁廿世紀之怪物帝国主義﹂は反帝反戦活動の双壁であり集約で
•あるともみられるべきもので、ことにレーニンの「帝国主箋論」(-九一五)に先駆すること十五年、ホプソンの「帝国主議論」
に先立つこと一年という賑史的作品でもあり︑さらに鑢富や加藤︑建部︑戸水等在野︑購壇の社会有楓体論者のとなえる日本人
l l論にたいする前瓢的批判も内含していて︑われわれの注目と再認識とを要求しているのである︒ー
講ずるときに︑陸には十三師団の兵ありて剣戟到る処に燎然たり︑野には一人の詩人ありて民の憂愁を医するとき
に︑海には二十六万噸の戦艦ありて︑洋上事なきに鯨波を揚ぐ︑家庭の荼乱其極に達し︑父子相怨み︑兄弟相閲ぎ︑
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姑姐相侮るの時に当て︑外に於ては東海の桜国︑世界の君子国を以て誇る︑帝国主義とは実に斯如きものなり︒﹂
また日清戦争後にこの戦いを﹁空前の偉業﹂とたたえ自由民権派がひとしくおちいつてきた陥屏ー
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﹁ 東
洋 恢
復 ﹂
︵ 補 註
︶
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大アジア主義の虜となって戦術的考慮に出たにせよ帝国主義団体に身を投ずるという瑳鉄におちこんだ中江兆民
﹁一年有半﹂の病床から愛弟子の最初の社会主義的著述をよろこび献辞していう︑
義︑正に純然たる躙武主義にて秦皇漢武之暴を行うに科学に基ける勝利の器を以てするもの︑実に古今之惨を極む
ジンジナチュース︑周武︑殷湯︑諸葛亮︑曽国藩等の如く︑真に と謂う可し︑若し此際に於て古のアリスケード︑
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