「社会主義の基本的経済法則」論の検討(二) : 現代社会主義経済法則論の構造 (2)
その他のタイトル On fundamental Economic law of Socialism (2)
著者 長砂 実
雑誌名 關西大學商學論集
巻 9
号 6
ページ 549‑576
発行年 1965‑02‑28
URL http://hdl.handle.net/10112/00021578
549
第三節 論 争 の 諸 段 階 お よ び 文 献
﹁ 社
会 構
成 体
の 基
本 的
経 済
法 則
﹂ 概
念 の
検 討
︵ そ
の 1 )
﹁ 社
会 構
成 体
の 基
本 的
経 済
法 則
﹂ 概
念 の
検 討
︵ そ
の 2 )
ー
A 以上︑第九巻三号>
通 説 的 ﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 済 法 則 ﹂ 論 の 検 討
ー
A 以下︑本号>
異 説 的 ﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 済 法 則 ﹂ 論 の 検 討
通 説 的
﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 在 法 則
﹂ 論 の 検 討
社会構成体の基本的経済法則の概念をめぐっての異なった諸見解は︑いかなる経済法則を社会主義の基本的経済
法則とみなし︑それをいかに定式化するかについての異なった諸見解と表裏一体をなしている︒本節の課題は︑こ
れらの見解のうち︑いわゆる﹁目的・手段﹂命題に基本的に依拠する通説的な諸見解を批判的に検討しつつ︑必要
﹁ 社
会 主
義 の
基 本
的 経
済 法
則 ﹂
論 の
検 討
むすび 第四節 第
一 節
第
1一 節
序
4
目 次
口 ︵
長 砂
︶
I
現代社会主義経済法則論の構造②
I ﹁社会主義の基本的経済法則﹂
長
論 の 検 討 口
砂
実
550
﹁ 社
会 主
義 の
基 本
的 経
済 法
則 ﹂
論 の
検 討
周 知 の よ う に ︑
口 ︵
長 砂
︶
﹁社会主義の基本的経済法則﹂の問題を最初に提起し︑その定式化を初めて試みたのは︑
リンである︒彼は︑その論文のなかでこう書いたーー﹁社会主義の基本的経済法則の本質的な諸特徴と諸要求とは︑
およそつぎのように定式化することができよう︒すなわち︑社会全体のたえず増進してゆく物質的および文化的な
諸欲望を︑高度の技術に立脚する社会主義的生産のたえまない増進と改善とによって最大限にみたすように保障す
る こ
と で
あ る
︑ と
︒ ﹂
( [ 1 ]
邦 訳
︑ 五
0 ページ︶彼は︑さらに︑こうも書いたー﹁⁝⁝ここで問題にしているのは︑
生産にたいする消費の﹃優位﹄﹂﹁ではなくて︑⁝⁝社会主義的生産の基本的目的への︑社会主義的生産の従属とい
うことである︒したがって︑社会全体のたえず増進してゆく物質的および文化的な諸欲望を最大限にみたすように
保障するということは︑ 1 これが社会主義的生産の目的なのであり︑より高度の技術に立脚して社会主義的生産
をたえず増進させ改善するということは︑この目的を達成するための手段なのである︒これが社会主義の基本的経
済 法
則 で
あ る
︒ ︵
傍 点
ー 原
文 ︶
﹂ ︑
と
( [ 1 ]
︑邦訳︑九ニページ︶︒この定式で注目されることは︑それが典型的に﹁目
的・手段﹂命題に立脚していること︑および︑この目的と手段の連関は生産と消費の連関とは無関係であるとされ
この定式は︑最初︑﹃経済学教科書﹄のなかにもそのまま持ち込まれた
( [ 5 ]
︵ a )
,
C T p . 4 0 5 , ( b ) , C T p . 4 1 6 )
︒
だが︑第四版の同書でほ︑つぎの定式化がなされているー│﹁社会主義の基本的経済法則の諸特徴は︑社会の全成
員のたえず増進する諸欲望をもっとも完全にみたし︑彼らを全面的に発展させるために︑先進的な技術︑社会主義
的協力にもとづいて生産をたえまなく拡大し改善する点にある︒﹂
( [ 4 0 ] C T p . 4 3 7 )
︑と︒この﹁新しい﹂定式は︑
スクーリン定式をつぎの二点で改善したものといわれる第三版の定式
( [ 1 4 ] C T P
・ 4 4 8 , [ 2 9 ]
は C
p . 4 5 0 )
の な
か に
︑
て い
る こ
と ︑
で あ
る ︒
なかぎりでわれわれの見解をものべることである︒
四
ス ク
ー
551
さらに﹁社会主義的協力﹂を新たに加えて︑できあがっている︒第三版における改善の一点は︑消費にたいする生 産の規定的役割というマルクス主義の命題を明確に反映させることによって︑この法則の﹁消費者的理解﹂の余地
﹁社会のすべての成員の全面的発展﹂にかんするレーニン命題を取りいれたこと︑
を排除したこと︑その二点は︑
で あ る
0 1
しかしながら︑それらの﹁改善﹂にもかかわらず︑この定式がスターリン定式と基本的に同じものである ことはあきらかである︒それ以後の諸批判を考慮して﹁社会主義的協力﹂を追加した第四版の定式も︑この点では
図
変らない︒そして︑この種の定式は︑現在︑通説の位置を占めている︒通説の代表者︑カ・オストロビーチャノフ によれば︑この定式は︑社会主義の基本的経済法則の三つの﹁本質的特徴﹂をしめしている︒すなわち︑第一は﹁
すすんだ技術にもとづく生産のたえまない拡大﹂であり︑第二は﹁生産者たちの社会主義的協力﹂であり︑第一子は
( [ 4 2 ] C T p .
1 0 3
) 社会主義生産の﹁目的︑その主要な起動力﹂である ︒
﹁それぞれ所与の時機に達成されている社会主義的生産の水準と大衆の急速に増進する欲望とのあいだの非敵対的 矛盾﹂という﹁起動的矛盾の計画的解決の過程で﹂﹁社会主義の基本的経済法則の作用が実現される﹂︑と一貫して いわれてきていること︑および﹃経済学教科書﹄第三版以降で︑﹁社会主義社会における剰余生産物の原則的に新
佃
にとくに注目しなければならない︒ しい性格と役割﹂の意義が強調されていること︑
この通説的定式について︑批判的に検討しなければならないのは︑
つぎの諸点である︒
第一点は︑この定式が社会主義の基本的生産関係をあきらかにしていない︑ということである︒
一 五 ﹁社会主義の基
本的経済法則のスターリン的定式化は︑この法則がまさにどのような生産関係を反映するか︑という問題に直接に 回答をあたえていない︒この点にその最大の欠陥がある︒﹂︑という批判
( [ 3 0 ] C T p .
56 および
[ 2 6 ] C T p . 3 9 2 )
は
正しい︒このような欠陥は︑ われわれがすでに検討した目的・手段命題︑
﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 ロ︵長砂︶ しかも生産・消費説にこの通説的定式が さらに︑この通説的定式の説明にかんして︑
552
口︵長砂︶
一般に︑生産と消費の連関を匝接的生産諸関係と消費諸関係との連関とし
︑ ︑
︑ ︑
てでなく︑生産規模と欲望充足度との連関としてとらえるならば︑そのような連関が生産関係を表現するかどうか が疑問であるばかりでなく︑社会主義のもとでの生産と消費とのいかに特有な連関を問題にしようとも︑それは︑
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
︑ ︑
︑ 社会主義の基本的生産関係を表現するものとはなりえない︒この定式のなかで︑直接的生産過程における生産関係 にかかわる指摘がなされているのは︑わずかに﹁社会主義的協力﹂だけである︒しかもこの﹁社会主義的協力﹂は︑
﹁生産をたえまなく拡大し改善する﹂ことの︱つの﹁甚礎﹂ーー﹁先進的な技術﹂とならぶーにすぎない︑とい うまった<従属的な位置を︑この定式のなかでしめているにすぎない︒もともと︑通説的定式への﹁社会主義的協 カ﹂の追加的挿入は︑スクーリン的定式にたいするつぎのような批判を考慮したものであることはあきらかである︒
すなわち︑ある論者は︑﹁手段﹂のなかに﹁社会主義的生産諸関係の総体の改善﹂を入れることが︑通説的定式に
﹁手段﹂の規定の﹁非歴史性﹂を克服することである︑と主張し
﹁社会主義のもとで生産がおこなわれる特有な歴 別の論者も︑そのことによって︑
史的形態を反映していない﹂現行定式の欠陥を除去しようと考えた
( [ 1 8 ] C T p . 1 2 4 )
︒また︑ある論者は︑通説的
︑ ︑
︑ ︑
︑ 定式における﹁手段﹂は︑﹁生産関係の要素としての手段﹂ではなく︑生産目的実現のための﹁物質的基礎﹂にす ぎない︑と批判した
( [ 1 9 ] C T p .
1 3 1 1 3 2 )
︒さらに︑目的・手段命題に批判的あるいは否定的な立場の論者たちが︑
おける﹁経済と技術﹂との混同を避け︑同時に︑
た し
( [ 1 7 ] C T p . 1 1 7 1 1 9 ) ︑
通説的定式のなかには生産関係表現の視角が欠除している︑と批判したことはいうまでもない︒﹁社会主義的協力﹂
の挿入は︑目的・手段命題
11
生産・消費説の枠内で︑これらの批判に対処しようとしたものである︒
だが︑この﹁社会主義的協力﹂は︑社会的所有にもとづく生産諸関係のご雰断特徴づけにすぎないし︑それ自体
でその基本的生産関係をしめすものでもない︒また︑このような挿入は︑生産関係表現の方向へ通説的定式を改善 依拠していることの直接的結果である︒
﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討
一 六
553
七
する出発点とはならない︒むしろ︑このような追加的挿入を必要とみなしたということ自体が︑通説的定式の根本
しかも︑このような欠陥は︑目的・手段命題 11 生産・消費説の 的構造の欠陥を自認したことを意味するのであり︑
枠内ではけっして除去できない︑という限界が存在していることを︑はっきりとしめしている︑といわなければな
らない︒なるほど︑﹁社会主義の基本的経済法則は︑搾取から解放された勤労者たちー自分のため︑社会のため
に労働する社会的生産の主人公たちーの労働の全般性と同志的協力の諸関係としての︑社会主義的生産諸関係の
本質を表現する︒﹂︑といわれる
( [
4 0
] C
T p
. 4 3
7 ) ︒だが︑このような﹁本質﹂を表現するのは︑基本的経済法則だ
けである︑と考えるのは誤りであろう︒社会主義のどの経済法則も︑そのような﹁本質﹂を表現するであろう︒問 題は︑甚本的経済法則が︑そのような﹁本質﹂を︑どの点で︑どこにおいて︑表現しているかがあきらかにされて
いない点にある︒われわれがくりかえし指摘しているように︑甚本的経済法則の定式は︑そのような﹁本質﹂を︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ もっとも深い︑基本的な直接的生産関係のなかにおいて︑とらえるものでなければならないのである︒
ところで︑この第一点にかんしては︑通説的定式の擁護者であるエリ・リュボーシツが︑唯一人︑社会主義の基
本的生産関係を考察している
( [ 2 8
] ︶のが注目される︒彼は︑﹁社会主義社会のいかなる基本的生産関係が社会主義
の甚本的経済法則のなかに表現されているか﹂
( C
T p
. 1 0
6 1 0 7 )
︑という問題を正しく提起して︑そのような基本
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
的生産関係とは、「直接的生産者と、生産者の単一の共同体 (acco~Ha~HH) としての社会全体との関係(傍点ー原
文 ︶
﹂ ︵
C T
p .
1 1 1 )
であるとしている︒その論拠はつぎのごとくである︒﹁社会とその個々の成員との関係は︑以前
の敵対的諸構成体では︑生産の決定的諸条件の所有者たちの階級にたいする直接的生産者たちの関係によって媒介
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
されているが︑社会主義のもとでのみ︑それは︑その直接的形態であらわれる︒社会主義社会においてのみ︑社会
とその成員との関係が構成体の基本的生産関係であるのは︑まさにそのような関係が⁝⁝︑あらゆる社会制度のか
﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討
ロ ︵
長 砂
︶
55 勾
もあきらかでないことを指摘しなければならない︒ ﹁社会主義社会の基本的生産関係は︑社会主義の基本的経済法 ﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討
ロ ︵
長 砂
︶
くされた甚礎である︑生産手段にたいする直接的生産者たちの関係を表現するからである﹂
( C T p . 1 1 4 1 1 5
) ︒
だが︑われわれは︑この見解に賛成できない︒なぜなら︑生産手段の社会的所有のもとでも︑その甚本的生産関
係を﹁生産諸条件の所有者と直接的生産者との直接的関係﹂︵マルクス︶にもとめる必然性は消失せず︑それを︑社
会と個人の関係によって取替える必要はないからである︒右の﹁直接的関係﹂の当時者たちが︑人格的・階級的に
分裂・対立していようと︑そうでなかろうと︑このような﹁直接的関係﹂はつねに存在する︒そして︑この﹁直接
的関係﹂の︑社会・共産主義にとって特有な存在形態︑すなわち社会︒共産主義の基本的生産関係を︑われわれは︑
マルクスの古典的規定にしたがって︑﹁共同の生産手段をもって労働してその多くの個人的労働力を自覚的に一っ
の社会的労働力として支出する︵傍点ー原文︶﹂関係と規定することができるであろう︒この関係は︑生産手段と労
働力との︑社会全体の規模での直接的結合︑あるいは︑生産手段の所有者と労働力の支出者 11 直接的生産者との︑
社会全体の規模での人格的統一︑をしめしている︒注目すべきは︑この規定が︑生産手段の社会的所有関係の単な
る指摘にとどまらず︑事態を直接的生産過程 11 生産手段の使用と労働力の支出においてとらえていること︑および︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
﹁労働にかんするすべての規定が﹂﹁個人的にではなくて社会的に﹂実現される︑ということをしめしていること︑
である︒この関係は︑けっして︑一方における社会全体︑他方におけるその個々の成員︑の関係ではない︒こうし
て︑われわれの意見では︑生産手段の社会的所有のもとでも︑社会と個人の関係は︑このような基本的生産関係に
よって依然として﹁媒介され﹂る従属的な関係であって︑けっして︑基本的生産関係ではない︒さらに︑リュボー
シツによる甚本的生産関係の理解にかんしては︑それと彼が擁護する基本的経済法則との論理的なつながりが少し
則のなかに直接に表現される﹂
( C T p . 1 2 8 )
という基本的生産関係視点と︑﹁社会主義の基本的経済法則のなかには︑
一 八
555
社会主義生産の直接的目的とその目的実現のための手段とが表現される︵傍点ー原文︶﹂︵
C T
p .
1 2 9 )
という目的・手
段命題にたつ通説的定式の擁護とが︑もともと矛盾していること︑だからこそ両者の論理的連関についてほとんど
説明らしい説明をしえないということ︑このことが︑この論者には自覚されていないように思われる︒
第二点は︑通説的定式化は︑一般的にいって経済学的範疇の助けをかりておこなわれていないし︑特殊的にほ︑
その定式のなかに甚本的な経済学的範疇をふくんでいない︑ということである︒そして︑あたかもこの欠陥から通
説的定式を救おうとするかのように︑﹁生産の目的﹂のなかで﹁剰余生産物﹂の範疇の意義が強調されてきている
﹁基本的経済法則の本質の特徴づけを︑社会主義的生産諸 ことをわれわれは知っている︒すなわち︑ある論者は︑
関係の発展と強化の必然性についての指摘と︑全勤労者の利益になるように剰余生産物をつくりだすことについて
の指摘で補足しなければならない﹂
( [
3 1
] C
T p
. 4 3
) ︑と主張しているし︑﹁勤労者による剰余生産物の領有﹂を﹁生
産の目的﹂の規定にふくませることによって︑ある論者によれば︑通説的定式における﹁経済法則とその利用﹂︑
﹁経済と政治﹂の混同を避けるべきである
( [
1 7
] C
T p
. 1 1
7 1 1 9
) ︒すでに指摘したように︑第一二版以後の﹃経済学
教科書﹄も︑基本的経済法則の説明のなかで︑﹁剰余生産物﹂に言及している︒それらの一連の指摘は︑﹁プロレク
リアートの支配のもとでの生産は社会的欲望の充足のための生産である﹂というブハーリンに反対して︑﹁そこで
︑ ︑
︑ ︑
︑
は剰余生産物が所有者達の階級の手にわたらないで︑勤労者全体の手にだけわたる﹂ことを重視すべきだとしたレ m ーニンの思想に依拠している︒
社会主義の基本的経済法則へ定式化において﹁剰余生産物﹂の役割を重視することは︑
と消極的意義とをもっている︑と考えられる︑まず︑それは︑
﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 ロ ︵ 長 砂 ︶
九
つぎのような積極的意義
いわゆる﹁生産の目的﹂の現実的な客観的内容・基
礎︑生産関係的実体を経済学的範疇で表現しようとする試みを生みだす点で︑積極的な意義をもっている︒これは︑
556
﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 ⇔︵長砂︶
基本的経済法則を経済学的範疇で定式化する正しい方法に通じる︒つぎに︑それは︑必然的に︑目的・手段命題の
欠陥と衝突し︑その事実上の崩壊をよぎなくさせる点で︑積極的な意義をもっている︒なぜなら︑﹁全勤労者によ
る剰余生産物の領有﹂という契機を︑かならず﹁生産の目的﹂に帰属させなければならない必然性はなく︑たとえ
ば︑﹁社会主義的協力﹂とならべてそれを﹁手段﹂に帰属させることも可能であり︑社会主義的生産諸関係の主要 な諸特徴を︑﹁目的﹂と﹁手段﹂に配分することがもともと無意味であることをあきらかにするからである︒事実︑
ある論者が提出する定式︑﹁全勤労者による剰余生産物の領有︑それは︑社会の成員の増大する欲望を完全にみた
︑ ︑
︑
す可能性を保障し︑そして︑彼らに︑同志的協力と相互援助によって労働生産性をたゆみなく増大させ総生産物を
系統的に増大することを迫る︵傍点ー原文ご
( [
1 9
] C
T p
.
1 3 1 1 3 2 ) ︑という定式は︑論者自身が立脚している目的
・手段命題を止揚するもの'│ー独自に︑﹁剰余生産物﹂説ともよびうるものーであることはあきらかであろう︒
それとともに︑それの消極的意義も指摘しなければならない︒それは︑第一に︑剰余生産物についてその領有様
式のみをみてその生産様式を問題としないならば︑基本的経済法則がなによりもまず﹁生産の法則﹂であって﹁分
配の法則﹂ではないことを忘れることに通じる︑という点にあり︑第二に︑剰余生産物の生産と領有の特有な社会
的性格・形態を問題にするだけでは︑階級対立・搾取のない社会的所有の基本的生産関係のもっとも主要な特徴を
ヽ とらえるには不充分である︑すなわち︑それは基本的な経済学的範疇とは考えられない︑という点にある︒さらに︑
第三に︑社会主義のもとでの﹁剰余生産物﹂の範疇の規定そのものが︑まだ正確になされているとはいえない︑と
いうことも指摘しなければならない︒だが︑これらの点については︑次節で︑くわしく論じられるであろう︒
第三点は︑通説的定式があまりに多くの︑雑多な諸契機を包括しており︑その基本的内容が不明確である︑とい
うことである︒たしかに︑カ・オストロビーチャノフは︑﹁基本的経済法則の内容を拡大する試み﹂に反対して︑
四 〇
557
が︑にわかに賛成できない︒なぜなら︑
四
﹁基本的経済法則ほ社会主義的生産諸関係のすべての本質的な側面を反映することはで
きないし︑すべての法則を吸収してしまうことはできない︒それは︑社会主義的生産様式の発展の主要な方向︑す
なわち︑最高の技術と生産の働き手たちの社会主義的協力にもとづいて生産をたえまなく拡大することによって達
成される生産の目的を規定する︑生産諸関係の諸特徴を反映する﹂
( [ 4 2 ] C T p . 1 1 0
) ︒法則の概念そのものからい
って︑某本的経済法則の内容の拡大に反対することは正しい︒個々の論者は︑実際︑社会主義経済の主要な諸特徴
1 8 1
をすべて︑基本的経済法則の内容とみなそうとする誤った傾向をもっている︒それにもかかわらず︑通説的定式そ
の も
の が
︑
たしかに目的・手段命題によって統一されているとはいえ︑依然として︑生産力の諸契機│ー﹁先進的
な技術﹂︑﹁生産のたえまない拡大と改善﹂ー︑生産関係の契機ーーー﹁社会主義的協力﹂ー︑上部構造の諸契機 ーいわゆる﹁目的﹂・﹁手段﹂は客観的経済法則の意識的実現の様式であるー︑といった雑多な諸契機の集合体
であることは否定できない︒経済法則の定式化が生産関係の諸契機によって統一されるべきである︑ということは
あきらかではなかろうか︒生産力の諸契機は︑それ自身︑いかに重要であろうとも︑生産関係の諸契機の物質的前
提・基礎にすぎないし︑上部構造の諸契機は︑経済法則の客観的存在の次元でのその定式化のなかででなく︑経済
法則の意識的実現 11 いわゆる﹁利用﹂のメカニズムの考察のなかで展開されるべきであろう︒
さらに︑この第三点にかんしては︑通説的定式はいくつかの法則の集合体となっている︑という批判に注目しな
ければならない︒たとえば︑バシコフによれば︑通説的定式は︑ ﹁国民の福祉のたえまない増大の法則﹂と﹁生産
⑨