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(1)

「社会主義の基本的経済法則」論の検討(二) :  現代社会主義経済法則論の構造 (2)

その他のタイトル On fundamental Economic law of Socialism (2)

著者 長砂 実

雑誌名 關西大學商學論集

巻 9

号 6

ページ 549‑576

発行年 1965‑02‑28

URL http://hdl.handle.net/10112/00021578

(2)

549 

第三節 論 争 の 諸 段 階 お よ び 文 献

﹁ 社

会 構

成 体

の 基

本 的

経 済

法 則

﹂ 概

念 の

検 討

︵ そ

の 1 )

﹁ 社

会 構

成 体

の 基

本 的

経 済

法 則

﹂ 概

念 の

検 討

︵ そ

の 2 )

A 以上︑第九巻三号>

通 説 的 ﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 済 法 則 ﹂ 論 の 検 討

A 以下︑本号>

異 説 的 ﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 済 法 則 ﹂ 論 の 検 討

通 説 的

﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 在 法 則

﹂ 論 の 検 討

社会構成体の基本的経済法則の概念をめぐっての異なった諸見解は︑いかなる経済法則を社会主義の基本的経済

法則とみなし︑それをいかに定式化するかについての異なった諸見解と表裏一体をなしている︒本節の課題は︑こ

れらの見解のうち︑いわゆる﹁目的・手段﹂命題に基本的に依拠する通説的な諸見解を批判的に検討しつつ︑必要

﹁ 社

会 主

義 の

基 本

的 経

済 法

則 ﹂

論 の

検 討

むすび 第四節 第

一 節

1

一 節

目 次

口 ︵

長 砂

I

現代社会主義経済法則論の構造②

I ﹁社会主義の基本的経済法則﹂

論 の 検 討 口

(3)

550 

﹁ 社

会 主

義 の

基 本

的 経

済 法

則 ﹂

論 の

検 討

周 知 の よ う に ︑

口 ︵

長 砂

﹁社会主義の基本的経済法則﹂の問題を最初に提起し︑その定式化を初めて試みたのは︑

リンである︒彼は︑その論文のなかでこう書いたーー﹁社会主義の基本的経済法則の本質的な諸特徴と諸要求とは︑

およそつぎのように定式化することができよう︒すなわち︑社会全体のたえず増進してゆく物質的および文化的な

諸欲望を︑高度の技術に立脚する社会主義的生産のたえまない増進と改善とによって最大限にみたすように保障す

る こ

と で

あ る

︑ と

︒ ﹂

( [ 1 ]

邦 訳

︑ 五

0 ページ︶彼は︑さらに︑こうも書いたー﹁⁝⁝ここで問題にしているのは︑

生産にたいする消費の﹃優位﹄﹂﹁ではなくて︑⁝⁝社会主義的生産の基本的目的への︑社会主義的生産の従属とい

うことである︒したがって︑社会全体のたえず増進してゆく物質的および文化的な諸欲望を最大限にみたすように

保障するということは︑ 1 これが社会主義的生産の目的なのであり︑より高度の技術に立脚して社会主義的生産

をたえず増進させ改善するということは︑この目的を達成するための手段なのである︒これが社会主義の基本的経

済 法

則 で

あ る

︒ ︵

傍 点

ー 原

文 ︶

﹂ ︑

( [ 1 ]

︑邦訳︑九ニページ︶︒この定式で注目されることは︑それが典型的に﹁目

的・手段﹂命題に立脚していること︑および︑この目的と手段の連関は生産と消費の連関とは無関係であるとされ

この定式は︑最初︑﹃経済学教科書﹄のなかにもそのまま持ち込まれた

( [ 5 ]

︵ a )

,

C T p . 4   0 5 ,   ( b ) ,   C T p .   4 1 6 )

だが︑第四版の同書でほ︑つぎの定式化がなされているー│﹁社会主義の基本的経済法則の諸特徴は︑社会の全成

員のたえず増進する諸欲望をもっとも完全にみたし︑彼らを全面的に発展させるために︑先進的な技術︑社会主義

的協力にもとづいて生産をたえまなく拡大し改善する点にある︒﹂

( [ 4 0 ] C T p . 4 3 7 )

︑と︒この﹁新しい﹂定式は︑

スクーリン定式をつぎの二点で改善したものといわれる第三版の定式

( [ 1 4 ] C T P

・ 4 4 8 , [ 2 9 ]

は C

p . 4 5 0 )

の な

か に

て い

る こ

と ︑

で あ

る ︒

なかぎりでわれわれの見解をものべることである︒

ス ク

(4)

551 

さらに﹁社会主義的協力﹂を新たに加えて︑できあがっている︒第三版における改善の一点は︑消費にたいする生 産の規定的役割というマルクス主義の命題を明確に反映させることによって︑この法則の﹁消費者的理解﹂の余地

﹁社会のすべての成員の全面的発展﹂にかんするレーニン命題を取りいれたこと︑

を排除したこと︑その二点は︑

で あ る

0 1

しかしながら︑それらの﹁改善﹂にもかかわらず︑この定式がスターリン定式と基本的に同じものである ことはあきらかである︒それ以後の諸批判を考慮して﹁社会主義的協力﹂を追加した第四版の定式も︑この点では

変らない︒そして︑この種の定式は︑現在︑通説の位置を占めている︒通説の代表者︑カ・オストロビーチャノフ によれば︑この定式は︑社会主義の基本的経済法則の三つの﹁本質的特徴﹂をしめしている︒すなわち︑第一は﹁

すすんだ技術にもとづく生産のたえまない拡大﹂であり︑第二は﹁生産者たちの社会主義的協力﹂であり︑第一子は

( [ 4 2 ] C T p .  

1 0 3

) 社会主義生産の﹁目的︑その主要な起動力﹂である ︒

﹁それぞれ所与の時機に達成されている社会主義的生産の水準と大衆の急速に増進する欲望とのあいだの非敵対的 矛盾﹂という﹁起動的矛盾の計画的解決の過程で﹂﹁社会主義の基本的経済法則の作用が実現される﹂︑と一貫して いわれてきていること︑および﹃経済学教科書﹄第三版以降で︑﹁社会主義社会における剰余生産物の原則的に新

にとくに注目しなければならない︒ しい性格と役割﹂の意義が強調されていること︑

この通説的定式について︑批判的に検討しなければならないのは︑

つぎの諸点である︒

第一点は︑この定式が社会主義の基本的生産関係をあきらかにしていない︑ということである︒

一 五 ﹁社会主義の基

本的経済法則のスターリン的定式化は︑この法則がまさにどのような生産関係を反映するか︑という問題に直接に 回答をあたえていない︒この点にその最大の欠陥がある︒﹂︑という批判

( [ 3 0 ] C T p .

56 および

[ 2 6 ] C T p . 3 9 2 )

正しい︒このような欠陥は︑ われわれがすでに検討した目的・手段命題︑

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 ロ︵長砂︶ しかも生産・消費説にこの通説的定式が さらに︑この通説的定式の説明にかんして︑

(5)

552 

口︵長砂︶

一般に︑生産と消費の連関を匝接的生産諸関係と消費諸関係との連関とし

︑ ︑

︑ ︑

てでなく︑生産規模と欲望充足度との連関としてとらえるならば︑そのような連関が生産関係を表現するかどうか が疑問であるばかりでなく︑社会主義のもとでの生産と消費とのいかに特有な連関を問題にしようとも︑それは︑

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

︑ ︑

︑ 社会主義の基本的生産関係を表現するものとはなりえない︒この定式のなかで︑直接的生産過程における生産関係 にかかわる指摘がなされているのは︑わずかに﹁社会主義的協力﹂だけである︒しかもこの﹁社会主義的協力﹂は︑

﹁生産をたえまなく拡大し改善する﹂ことの︱つの﹁甚礎﹂ーー﹁先進的な技術﹂とならぶーにすぎない︑とい うまった<従属的な位置を︑この定式のなかでしめているにすぎない︒もともと︑通説的定式への﹁社会主義的協 カ﹂の追加的挿入は︑スクーリン的定式にたいするつぎのような批判を考慮したものであることはあきらかである︒

すなわち︑ある論者は︑﹁手段﹂のなかに﹁社会主義的生産諸関係の総体の改善﹂を入れることが︑通説的定式に

﹁手段﹂の規定の﹁非歴史性﹂を克服することである︑と主張し

﹁社会主義のもとで生産がおこなわれる特有な歴 別の論者も︑そのことによって︑

史的形態を反映していない﹂現行定式の欠陥を除去しようと考えた

( [ 1 8 ] C T p . 1 2 4 )

︒また︑ある論者は︑通説的

︑ ︑

︑ ︑

︑ 定式における﹁手段﹂は︑﹁生産関係の要素としての手段﹂ではなく︑生産目的実現のための﹁物質的基礎﹂にす ぎない︑と批判した

( [ 1 9 ] C T p .

1 3 1 1 3 2 )

︒さらに︑目的・手段命題に批判的あるいは否定的な立場の論者たちが︑

おける﹁経済と技術﹂との混同を避け︑同時に︑

た し

( [ 1 7 ] C T p . 1 1 7 1 1 9 ) ︑

通説的定式のなかには生産関係表現の視角が欠除している︑と批判したことはいうまでもない︒﹁社会主義的協力﹂

の挿入は︑目的・手段命題

11

生産・消費説の枠内で︑これらの批判に対処しようとしたものである︒

だが︑この﹁社会主義的協力﹂は︑社会的所有にもとづく生産諸関係のご雰断特徴づけにすぎないし︑それ自体

でその基本的生産関係をしめすものでもない︒また︑このような挿入は︑生産関係表現の方向へ通説的定式を改善 依拠していることの直接的結果である︒

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

一 六

(6)

553 

する出発点とはならない︒むしろ︑このような追加的挿入を必要とみなしたということ自体が︑通説的定式の根本

しかも︑このような欠陥は︑目的・手段命題 11 生産・消費説の 的構造の欠陥を自認したことを意味するのであり︑

枠内ではけっして除去できない︑という限界が存在していることを︑はっきりとしめしている︑といわなければな

らない︒なるほど︑﹁社会主義の基本的経済法則は︑搾取から解放された勤労者たちー自分のため︑社会のため

に労働する社会的生産の主人公たちーの労働の全般性と同志的協力の諸関係としての︑社会主義的生産諸関係の

本質を表現する︒﹂︑といわれる

( [

4 0

] C

T p

. 4 3

7 ) ︒だが︑このような﹁本質﹂を表現するのは︑基本的経済法則だ

けである︑と考えるのは誤りであろう︒社会主義のどの経済法則も︑そのような﹁本質﹂を表現するであろう︒問   題は︑甚本的経済法則が︑そのような﹁本質﹂を︑どの点で︑どこにおいて︑表現しているかがあきらかにされて

いない点にある︒われわれがくりかえし指摘しているように︑甚本的経済法則の定式は︑そのような﹁本質﹂を︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ もっとも深い︑基本的な直接的生産関係のなかにおいて︑とらえるものでなければならないのである︒

ところで︑この第一点にかんしては︑通説的定式の擁護者であるエリ・リュボーシツが︑唯一人︑社会主義の基

本的生産関係を考察している

( [ 2 8

] ︶のが注目される︒彼は︑﹁社会主義社会のいかなる基本的生産関係が社会主義

の甚本的経済法則のなかに表現されているか﹂

( C

T p

. 1 0

6   1 0 7 )

︑という問題を正しく提起して︑そのような基本

的生産関係とは、「直接的生産者と、生産者の単一の共同体 (acco~Ha~HH) としての社会全体との関係(傍点ー原

文 ︶

﹂ ︵

C T

p .

1 1 1 )

であるとしている︒その論拠はつぎのごとくである︒﹁社会とその個々の成員との関係は︑以前

の敵対的諸構成体では︑生産の決定的諸条件の所有者たちの階級にたいする直接的生産者たちの関係によって媒介

されているが︑社会主義のもとでのみ︑それは︑その直接的形態であらわれる︒社会主義社会においてのみ︑社会

とその成員との関係が構成体の基本的生産関係であるのは︑まさにそのような関係が⁝⁝︑あらゆる社会制度のか

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

ロ ︵

長 砂

(7)

55 勾

もあきらかでないことを指摘しなければならない︒ ﹁社会主義社会の基本的生産関係は︑社会主義の基本的経済法 ﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

ロ ︵

長 砂

くされた甚礎である︑生産手段にたいする直接的生産者たちの関係を表現するからである﹂

( C T p . 1 1 4 1 1 5

) ︒

だが︑われわれは︑この見解に賛成できない︒なぜなら︑生産手段の社会的所有のもとでも︑その甚本的生産関

係を﹁生産諸条件の所有者と直接的生産者との直接的関係﹂︵マルクス︶にもとめる必然性は消失せず︑それを︑社

会と個人の関係によって取替える必要はないからである︒右の﹁直接的関係﹂の当時者たちが︑人格的・階級的に

分裂・対立していようと︑そうでなかろうと︑このような﹁直接的関係﹂はつねに存在する︒そして︑この﹁直接

的関係﹂の︑社会・共産主義にとって特有な存在形態︑すなわち社会︒共産主義の基本的生産関係を︑われわれは︑

マルクスの古典的規定にしたがって︑﹁共同の生産手段をもって労働してその多くの個人的労働力を自覚的に一っ

の社会的労働力として支出する︵傍点ー原文︶﹂関係と規定することができるであろう︒この関係は︑生産手段と労

働力との︑社会全体の規模での直接的結合︑あるいは︑生産手段の所有者と労働力の支出者 11 直接的生産者との︑

社会全体の規模での人格的統一︑をしめしている︒注目すべきは︑この規定が︑生産手段の社会的所有関係の単な

る指摘にとどまらず︑事態を直接的生産過程 11 生産手段の使用と労働力の支出においてとらえていること︑および︑

﹁労働にかんするすべての規定が﹂﹁個人的にではなくて社会的に﹂実現される︑ということをしめしていること︑

である︒この関係は︑けっして︑一方における社会全体︑他方におけるその個々の成員︑の関係ではない︒こうし

て︑われわれの意見では︑生産手段の社会的所有のもとでも︑社会と個人の関係は︑このような基本的生産関係に

よって依然として﹁媒介され﹂る従属的な関係であって︑けっして︑基本的生産関係ではない︒さらに︑リュボー

シツによる甚本的生産関係の理解にかんしては︑それと彼が擁護する基本的経済法則との論理的なつながりが少し

則のなかに直接に表現される﹂

( C T p . 1 2 8 )

という基本的生産関係視点と︑﹁社会主義の基本的経済法則のなかには︑

一 八

(8)

555 

社会主義生産の直接的目的とその目的実現のための手段とが表現される︵傍点ー原文︶﹂︵

C T

p .

1 2 9 )

という目的・手

段命題にたつ通説的定式の擁護とが︑もともと矛盾していること︑だからこそ両者の論理的連関についてほとんど

説明らしい説明をしえないということ︑このことが︑この論者には自覚されていないように思われる︒

第二点は︑通説的定式化は︑一般的にいって経済学的範疇の助けをかりておこなわれていないし︑特殊的にほ︑

その定式のなかに甚本的な経済学的範疇をふくんでいない︑ということである︒そして︑あたかもこの欠陥から通

説的定式を救おうとするかのように︑﹁生産の目的﹂のなかで﹁剰余生産物﹂の範疇の意義が強調されてきている

﹁基本的経済法則の本質の特徴づけを︑社会主義的生産諸 ことをわれわれは知っている︒すなわち︑ある論者は︑

関係の発展と強化の必然性についての指摘と︑全勤労者の利益になるように剰余生産物をつくりだすことについて

の指摘で補足しなければならない﹂

( [

3 1

] C

T p

. 4 3

) ︑と主張しているし︑﹁勤労者による剰余生産物の領有﹂を﹁生

産の目的﹂の規定にふくませることによって︑ある論者によれば︑通説的定式における﹁経済法則とその利用﹂︑

﹁経済と政治﹂の混同を避けるべきである

( [

1 7

] C

T p

. 1 1

7 1 1 9

) ︒すでに指摘したように︑第一二版以後の﹃経済学

教科書﹄も︑基本的経済法則の説明のなかで︑﹁剰余生産物﹂に言及している︒それらの一連の指摘は︑﹁プロレク

リアートの支配のもとでの生産は社会的欲望の充足のための生産である﹂というブハーリンに反対して︑﹁そこで

︑ ︑

︑ ︑

は剰余生産物が所有者達の階級の手にわたらないで︑勤労者全体の手にだけわたる﹂ことを重視すべきだとしたレ m  ーニンの思想に依拠している︒

社会主義の基本的経済法則へ定式化において﹁剰余生産物﹂の役割を重視することは︑

と消極的意義とをもっている︑と考えられる︑まず︑それは︑

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 ロ ︵ 長 砂 ︶

つぎのような積極的意義

いわゆる﹁生産の目的﹂の現実的な客観的内容・基

礎︑生産関係的実体を経済学的範疇で表現しようとする試みを生みだす点で︑積極的な意義をもっている︒これは︑

(9)

556 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 ⇔︵長砂︶

基本的経済法則を経済学的範疇で定式化する正しい方法に通じる︒つぎに︑それは︑必然的に︑目的・手段命題の

欠陥と衝突し︑その事実上の崩壊をよぎなくさせる点で︑積極的な意義をもっている︒なぜなら︑﹁全勤労者によ

る剰余生産物の領有﹂という契機を︑かならず﹁生産の目的﹂に帰属させなければならない必然性はなく︑たとえ

ば︑﹁社会主義的協力﹂とならべてそれを﹁手段﹂に帰属させることも可能であり︑社会主義的生産諸関係の主要   な諸特徴を︑﹁目的﹂と﹁手段﹂に配分することがもともと無意味であることをあきらかにするからである︒事実︑

ある論者が提出する定式︑﹁全勤労者による剰余生産物の領有︑それは︑社会の成員の増大する欲望を完全にみた

︑ ︑

す可能性を保障し︑そして︑彼らに︑同志的協力と相互援助によって労働生産性をたゆみなく増大させ総生産物を

系統的に増大することを迫る︵傍点ー原文ご

( [

1 9

] C

T p

.

1 3 1 1 3 2 ) ︑という定式は︑論者自身が立脚している目的

・手段命題を止揚するもの'│ー独自に︑﹁剰余生産物﹂説ともよびうるものーであることはあきらかであろう︒

それとともに︑それの消極的意義も指摘しなければならない︒それは︑第一に︑剰余生産物についてその領有様

式のみをみてその生産様式を問題としないならば︑基本的経済法則がなによりもまず﹁生産の法則﹂であって﹁分

配の法則﹂ではないことを忘れることに通じる︑という点にあり︑第二に︑剰余生産物の生産と領有の特有な社会

的性格・形態を問題にするだけでは︑階級対立・搾取のない社会的所有の基本的生産関係のもっとも主要な特徴を

ヽ とらえるには不充分である︑すなわち︑それは基本的な経済学的範疇とは考えられない︑という点にある︒さらに︑

第三に︑社会主義のもとでの﹁剰余生産物﹂の範疇の規定そのものが︑まだ正確になされているとはいえない︑と

いうことも指摘しなければならない︒だが︑これらの点については︑次節で︑くわしく論じられるであろう︒

第三点は︑通説的定式があまりに多くの︑雑多な諸契機を包括しており︑その基本的内容が不明確である︑とい

うことである︒たしかに︑カ・オストロビーチャノフは︑﹁基本的経済法則の内容を拡大する試み﹂に反対して︑

四 〇

(10)

557 

が︑にわかに賛成できない︒なぜなら︑

﹁基本的経済法則ほ社会主義的生産諸関係のすべての本質的な側面を反映することはで

きないし︑すべての法則を吸収してしまうことはできない︒それは︑社会主義的生産様式の発展の主要な方向︑す

なわち︑最高の技術と生産の働き手たちの社会主義的協力にもとづいて生産をたえまなく拡大することによって達

成される生産の目的を規定する︑生産諸関係の諸特徴を反映する﹂

( [ 4 2 ] C T p . 1 1 0

) ︒法則の概念そのものからい

って︑某本的経済法則の内容の拡大に反対することは正しい︒個々の論者は︑実際︑社会主義経済の主要な諸特徴

1 8 1  

をすべて︑基本的経済法則の内容とみなそうとする誤った傾向をもっている︒それにもかかわらず︑通説的定式そ

の も

の が

たしかに目的・手段命題によって統一されているとはいえ︑依然として︑生産力の諸契機│ー﹁先進的

な技術﹂︑﹁生産のたえまない拡大と改善﹂ー︑生産関係の契機ーーー﹁社会主義的協力﹂ー︑上部構造の諸契機   ーいわゆる﹁目的﹂・﹁手段﹂は客観的経済法則の意識的実現の様式であるー︑といった雑多な諸契機の集合体

であることは否定できない︒経済法則の定式化が生産関係の諸契機によって統一されるべきである︑ということは

あきらかではなかろうか︒生産力の諸契機は︑それ自身︑いかに重要であろうとも︑生産関係の諸契機の物質的前

提・基礎にすぎないし︑上部構造の諸契機は︑経済法則の客観的存在の次元でのその定式化のなかででなく︑経済

法則の意識的実現 11 いわゆる﹁利用﹂のメカニズムの考察のなかで展開されるべきであろう︒

さらに︑この第三点にかんしては︑通説的定式はいくつかの法則の集合体となっている︑という批判に注目しな

ければならない︒たとえば︑バシコフによれば︑通説的定式は︑ ﹁国民の福祉のたえまない増大の法則﹂と﹁生産

⑨ 

のたえまない増大の法則﹂という二つの独自な法則の寄せ集めとなっている︑と批判している︒この批判には︑だ

︑ ︑

︑ ︑

﹁⁝⁝たえまない増大﹂は︑たしかに生産手段の社会的所有のもとでのみ

存在する法則的現象ではあるが︑それらをただちに﹁法則﹂とよびうるかどうかは疑問であるからである︒それら

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 つぎのようにいっている︒

口︵長砂︶

(11)

558 

口︵長砂︶

は︑社会主義的生産およびそのもとでの福祉の﹁発展の動態﹂をしめす合法則性としてとどまる︒このような動態 にかかわる合法則性は︑所与の生産諸関係にとっていかに特有なものであろうとも︑寵接には︑その生産諸関係の 社会経済的内容•本質をしめすものではなく、それらの現象形態あるいは現象の一定の複合的結果にすぎない。そ

れらの合法則性は︑

いくつかの法則を﹁内蔵﹂しているのである︒だがこのような批判は︑その一定の限界にもか

かんするものである︒この矛盾は︑種々の名でよばれているが︑ かわらず︑批判として積極性をもっている︒なぜなら︑事実上これらの合法則性についての指摘において基本的経 済法則を定式化することが︑基本的生産関係を表現することからいかに遠いかを︑この批判はしめしているからで ある︒したがって︑われわれは︑クロンロードによる︑通説的定式にたいするつぎの批判

( [ 3 7 ] C T p .

1 1 2   1 1 3 )  

に原則的に同意する︒彼によれば︑通説的定式の﹁目的﹂で規定されているものは︑﹁社会主義の経済諸法則の体 系の作用にもとづいて﹂︑再生産の消費段階で形成される﹁必然的諸過程﹂であり︑﹁手段﹂として規定されている ものも︑﹁社会主義生産および再生産のいくつかの法則の作用の現象および結果﹂であって︑それらについての記 述は︑﹁︱つの法則の本質の内容あるいはなんらかの契機を表現しない﹂︒﹁一連の具体的な︑結果的な︑経済的諸 過程︑具体的諸現象の記述に完全につきている﹂ような定式は︑基本的経済法則の定式とは認められないのである︒

第四点は︑通説的定式における甚本的経済法則とつねに不可分に論じられ︑その内的矛盾とされている﹁それぞ れ所与の時機に達成されている社会主義的生産の水準と大衆の急速に増進する欲望とのあいだの非敵対的矛盾﹂に

一般に︑﹁社会主義的生産様式の基本的矛盾﹂と

解されている︒この矛盾の定式は︑基本的経済法則の通説的定式に完全に照応している︒

このような矛盾が存在することは誰も否定できない︒だが︑それが基本的矛盾であるとする議論は︑まだ︑

か な

︑ ︑ らずしも説得的であるとはいえない︒これまで︑この矛盾をめぐる論争は︑主として︑この矛盾が社会主義に特有

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

(12)

559 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

な矛盾とみなしうる論拠についてなされた︒すなわち︑クロンロードなどがこの矛盾の特有性を否定したのに反対 して︑大多数の論者がその特有性を主張したのである︒この主張は︑まず︑ここで問題になっているのが︑すべて の社会構成体に共通して存在する抽象的な生産と欲望︵あるいは消費︶の矛盾ではなくて︑共産主義構成体にとっ てのその特有な存在・現象形態つまり特有な矛盾であるという点︑つぎに︑この特有性は︑生産と欲望︵消費︶の あいだに︑共産主義的構成体のもとでのみ︑﹁直接的な連関﹂が存在し︑欲望充足が生産の直接的目的となり︑生 産発展の起動力となるという点︑

から成りたっている︒そして︑通説的定式における基本的経済法則の﹁目的﹂と

﹁手段﹂の関係が︑ほかならぬこのような生産と欲望︵消費︶の関係であることを根拠にして︑このような矛盾こ

︑ ︑

︑ そが基本的矛盾である︑と結論されるのが普通である︒

だが︑この矛盾が社会・共産主義にとって約和か矛盾であることの論証それ自体は︑この矛盾が基な郎矛盾であ ることの論証とはなりえないことはあきらかであり︑さらに︑基本的経済法則の通説的定式を根拠にして︑それが

︑ ︑

︑ 基本的矛盾であることを主張することにも二重の限界がある︒第一に︑基本的経済法則の通説的定式自体が︑すで に検討したようにいくつかの疑問点をふくんでおり︑第二に︑前節でみたように︑基本的経済法則の内的矛盾

1

基 1

本的な経済的矛盾は︑かならずしもただちに所与の構成体の基本的矛盾ではないからである︒基本的経済法則の内

的矛盾

1

基本的な経済的矛盾は︑基本的生産関係そのもののなかにもとめなければならない︒このような観点は︑ 1

︑︑︑︑︑︑︑︑︑

しかし︑一般に完全に欠除している︒つまり︑社会・共産主義構成体の基本的矛盾とその基本的生産関係したがっ

︑︑︑︑︑︑︑︑︑

て基本的経済法則の内的矛盾である基本的な経済的矛盾との無区別の上に︑議論が展開されている︒さらに︑ある 矛盾が所与の構成体の基本的矛盾であることの確認にはどうしても必要な論証︑すなわちその矛盾が︑その構成体 のもとで具体的に特有な矛盾として実在する生産力と生産関係の矛盾であることの論証が︑この場合︑なされてい

口 ' ︵ 長

砂 ︶

(13)

560 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

ロ ︵

長 砂

るとほ思われない︒論証抜きの断定的叙述が支配している︒もともと︑達成された生産水準と急速に増大する欲望

水準との矛盾という︱つの︑特有な︑いわゆる﹁基本的矛盾﹂が︑たがいに直接的な連関をもたない生産と欲望

︑ ︑

︑ ︑

︑ ︑

︵消費︶の矛盾と生産力と生産関係の矛盾という二つの共通的矛盾を︑同時にその共通的内容としてもちうるかどう

かに問題があるように思われる︒

こうして︑われわれは︑社会主義の基本的経済法則の通説的理解・定式化に組みすることはできない︒だが︑誤

解を避けるために︑つぎのことを附言しておく必要がある︒周知のように︑ソ連邦共産党の新網領のなかでは︑

﹁社会のたえまない進歩を保障し︑社会の各成員に︑その増大する欲望︑個人的な要求と趣味に応じた物質的およ

ぴ文化的財貨をあたえること﹂が﹁共産主義的生産の目的である﹂と規定され︑さらに︑﹁社会的生産のたえまな

い発展と改善によって︑国民の増大する物質的および文化的欲望をますますより完全にみたすこと﹂が﹁社会主義

の目的﹂とみなされている︒これらの規定は︑通説的論者たちによって︑その定式の論拠として好んで引用される︒

たしかに︑これらの規定そのものの正しさは疑いえない︒しかしながら︑われわれにとって重要なのは︑まさに︑

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

このような﹁共産主義的︵社会主義的︶生産様式の目的が︑基本的経済法則によって規定されている︵傍点ー原文︶﹂

( [ 4 4 ] C T p .  

1 4 4 )

といみじくもいわれる場合の基本的経済法則にほかならないのである︒

( 2 )   ( 1 )  

つ ぎ

の も

の を

み よ

[ 3 2 ] ︵a ) ,

C T p . 1   2 0 1 2 1 ,   ( b ) ,   C T p .   1 3 3 ,  

[ 3 3 ] ︵a

) ,  

c T p . 0   2 5 ,   ( b ) ,   c T p . 1   5 4 ,   1 5 6 ,   [ 3 4 ] C T p .   1 6 5 ,   [ 4 5 ] C T p . 3   1 6 ,   1 4 1 ,  

[ 4 7 ] C T p . 125. なお、土 CH' 8錨 5 いについては   卑〖なった即 [44]CTp.

1 4 3 1

4 4   ~みよ。

[ 4 0 ] C T p .   4 3 8 ̀ [ 2 9 ] C T p .   4 4 9 4 5 3 ,   [ 1 4 ] C T p .   4 4 8 4 5 2 ,  

[ 5 ]

︵a ) ,

  c

T p .   4 0 4 4 0 7 ,   ( b ) ,   c T p .   4 1 5 4 1 8   ~!>J~ みよ。

山固

K ・マルクス﹃資本論﹄邦訳青木文庫山一八一ページ︒

[ 8 ] C T p .   1 0 5

お よ

[ 6 ] を

み よ

四 四

(14)

561 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 志的協カ・相互援助﹂説とよぶことができる︒

が だ

こ の

見 解

に ほ

︑ いくつかの限界がある︒

四 五

第一の代表的な異説的定式は︑﹁社会全体の増大する欲望をもっとも完全にみたすための︑

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

人びとの同志的協力と社会主義的相互援助の法則︵傍点ー原文︶﹂というア・パシコフのものである︒

こ れ

を ︑

﹁ 同

つ づ

い て

( 1 1 )   ( 1 0 )   ( 9 )   ( 8 )   ( 7 )   ( 6 )  

5

異 説 的

﹁ 社 会 主 義 の 基 本 的 経 済 法 則

﹂ 論 の 検 討

イ ・

ク ズ

ミ ノ

フ に

よ る

リ ュ

ボ ー

シ ッ

批 判

4 [ 6 ] C T p . 9 1

0 ー

に は

同 意

で き

な い

︑︑︑︑︑︑︑︑

財貨の生産における

B•11.

J i e H H H ,   3 a g M a H H 5

!   H

a   K

H H r y y   B x a p H H a

︽ 3

K O H O M H K a r r e p

≫ o , n

︾ ; a . ﹄ e H H H C K H H c o o p H H K ,

X I  

,   C

T p .   3 8 2 .  

た と

え ば

︑ [ 3 1 ] C T p . 4 3

;   A .

  M. 

PyM5!HI~eB.

O c H O B H O H   3 K O H O M H ' I e C K H H   3 a K O H   C O l l ; H a J I H 3 M a ,   1 9 6 0 ,   C T p .   3 1 .

‑ [ 3 0 ]   C T p . 7   5

を み

よ ︒

2 [ 6 ] C T p .   3 9 2 3 4 9 ,   [ 2 7 ] C T p .   1 3 , 1 6   .   ~た [21]CTp.

3 0 3 1 ,   [ 3 0 ] C T p . 6   5 5 7 . . , a J み こ

A ょ ゜

と く

に つ

ぎ の

文 献

を み

よ ︒

B o n p o c b I c j m J i o c o c j n m

︾,

N o .   2

̀ 1 9 5 5 ,   c T p . 2   8 8

5   ( L I ; .  

A .   C T e n a m r n   ;  ) N o .   2 ,   1 9 5 6 ,   c T p .   1 7 4 1 7 6 ( 5

! .

  A•KpoHpo){)

; N o .   4 ,   1 9 5 6 ,   c

T p .   1 5 7 1

6 4   ( H . B .   M e ) { B e ) { e B )

;   N o .   1 ,   1 9 5 7 ,   c T p .  

175~177(H•H•KoHHHK);

N o

︑ .   4

1 9 5 7 , C T p .

173~176(<1>·T•KpHaopyqKo);  

N o .   6 ,   1 9 5

︑ 7

C T p . 1 1 8 1 2 6 ( 0 .   f•K poBHqKHH); >

N o   2 . ,   1 9 5 8 ,   C

T p .   1 2 8 1 3 6 ( P .  

Il•KopHHeBCKHi'i);

N o .   8 ,   1 9 5 8 ,   C

T p .   1 3 0 1 3 4 ( B .   H .   M a p q H H K e B H q ) ,   c T p . 1   3 6 1 3 7 ( A .  

M•MHHaC.HH);

N o .  

1 0 ,  

1 9 5 8 ,   T c p . 1   3 1 ︑

1 3 6 ( H

.   C•lllapHKOB)

;および

[ 2 8 ] C T p . 1 3 6 1 4 1 .   I l p o r p a M M a   K o M M Y H H C T H q e c K o i ' i   I l a p T H H   C o a e T c K o r o   C m o 3 a ,

︽ K

O M M Y H H C T

︾ "

N o . 1 6 ,   1 9 6 1 ,   c T p . 7   2 ,   5 5 .  

﹁目的・手段﹂説に批判的な︑あるいは否定的な立場にたって︑社会主義の基本的経済法則の独自な 定式を提案している諸者たちの見解の主要なものを検討しつつ︑われわれの立場をより明確にするのが本節の課題

で あ

る ︒

口 ︵ 長 砂 ︶

(15)

562 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

第一の限界は︑この定式が︑目的・手段命題から完全に離れてはいない点にある︒このことは︑通説的定式には

生産関係が正しく表現されていないという批判から出発しているこの定式の積極面が︑通説的定式の﹁手段﹂の契

機のなかに﹁社会主義的協力﹂を追加するといった形で︑通説的定式︒見解に組み込まれてしまう︑という点によ

し う

る か

﹁同志的協力と社会主義的相互援助﹂が︑はたして︑社会主義の基本的生産関係とみな

に問題が残っている点にある︒若干の論者によれば︑同志的協力と社会主義的相互援助は︑社会主義的

生産諸関係の本質全体の一般的特徴づけであって︑それは︑﹁社会主義社会の基本的生産関係の問題にまだ解答を

与 え

な い

( [ 2 8 ] C T p . 1 0 6 )

し︑﹁社会主義に特有な経済諸法則および範疇の体系全体に反映される﹂

( [ 2 7 ] C T p . 1 5 7 1

5 8

べきである︒あるいは︑それは︑﹁社会主義生産における人びとの関係の一般的性格の記述﹂ )

( [ 3 7 ] C T p . 1 0 3 )

にすぎない︒しかし︑このような見解にたいしては︑﹁生産諸関係の一般的特徴づけと基本的生産関係の特徴

づけとを区別し︑それらを対立させる﹂誤りをおかすものだ︑という有力な批判がある

( [ 4 6 ] C T p .

1 0 1 2 ) ︒

らにまた︑同志的協力と社会主義的相互援助は︑社会主義的生産諸関係の一般的特徴づけとしても不適当であって︑

それは︑﹁財貨の生産と領有における︑みずからの生活の物質的諸条件の再生産における︑勤労者たちの集団性の

直接に社会的な諸関係﹂という規定にとって代られるべきだとするャ・クロンロードの主張をめぐる︑一連の論争

が 存

在 す

る ︒

ここで︑われわれは︑これらの論争に立入らない︒しかし︑提起されている問題については︑われわれはつぎの

ような独自な見解をもっている︒同志的協力と社会主義的相互援助は︑社会主義の基本的生産関係ではない︒だが︑

その理由は︑同志的協力と相互援助が単に生産関係の一般的特徴づけであるからではない︒社会主義のもとでの同 この説の第二の限界は︑ く現われている︒ 口 ︵ 長 砂 ︶

四 六

(16)

563 

志的協力と相互援助は︑資本主義のもとでの辛匂年に否定的に対応する概念である︒それは︑社会主義的な直接的生 産過程に内在する基本的生産関係﹁共同の生産手段をもって労働してその多くの個人的労働力を自覚的に一っ の社会的労働力として支出する﹂関係̲ーをも含む︑すべての社会主義的生産関係が実現されるさいの︑必然的な 媒介者・媒介形式であるかぎりで︑社会主義的生産諸関係の一般的特徴づけであるにすぎない︒資本主義のもとで︑

競争が生産の無政府性とともに︑﹁競争と生産の無政府性の法則﹂という独自な外的強制法則でとらえられるのに 対応して︑社会主義のもとでの同志的協力と相互援助は︑生産の計画性とともに︑社会主義に独自な︱つの﹁外的 強制﹂法則の本質的内容をなす︒したがって︑このような意味でのそれ以外に︑社会主義の基本的生産関係の特徴 づけから区別される社会主義の生産諸関係の一般的特徴づけが存在し︑それが︑社会主義に特有な経済諸法則・範 疇の全体系によって表現される︑とみなすことはできないのである︒

この説の第三の限界は︑その定式化が基本的経済学的範疇によってなされていない点にある︒かりに︑同志的協 力と社会主義的相互援助が社会主義の基本的生産関係だとしよう︒しかし︑その場合でも︑資本主義的搾取の基本 的生産関係が︑剰余価値という基本的経済学的範疇において︑剰余価値生産という基本的経済法則において表現さ れたことを想起しなければならない︒同志的協力と相互援助そのものをただちに社会主義の基本的経済学的範疇と みなし︑それでもって基本的経済法則を定式化するのは︑科学的規定であるよりもむしろ︱つの記述にとどまる︒

この説の第四の限界は︑その定式が︑共産主義構成体とその生産諸関係の発展の起動力

11 基本的経済矛盾をまっ

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 口︵長砂︶

社会主義の基本的経済法則の第二の代表的な異説的定式は︑

四 七

こ う

し て

わ れ

わ れ

は ︑

﹁同志的協カ・相互援助﹂

説に組みすることはできない︒

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

﹁生産手段の全人民的な社会的所有にもとづいて︑

たくしめしえない︑という点にある︒

(17)

564 

これは︑﹁全人民的所有﹂説とよぶことができる︒この定式の基礎には︑ ﹁その発展の第一段階﹂にある︑﹁財貨の

生産と領有における︑みずからの生活の物質的諸条件の再生産における︑勤労者たちの集団性の直接に社会的な諸 関係﹂と規定される︑社会主義的生産諸関係のいわゆる一般的諸特徴の考察

( C T p . 1 0 2 1 0 4

) ︑および︑社会主義

段階の特質をもった︑﹁労働用具およびその他のすべての生産手段にかんする生産者たちの集団性の直接に社会的 な関係﹂と規定される︑社会主義的な全人民的所有関係

11 基本的生産関係の考察

( C T p . 1 0 4   1 0 6 )

が あ

る ︒

この説の主要な狙いはつぎの二点にある︒第一は︑生産手段の全人民的所有関係のなかに︑社会・共産主義の基 本的生産関係したがって基本的経済法則をみいだすこと︑第二は︑共産主義社会の社会主義的発展段階の特質を︑

高度な共産主義への移行•発展の起動力たる矛盾の解明を通じてしめすこと、である。この二つに焦点を合わせて、

以下で︑この説の肯定的側面と限界とを論じよう︒

︑ この説の第一の狙いのなかには︑生産手段の社会的所有の諸関係の主要特徴と発展方向を全人民的所有の諸関係 のそれらに代表させて考察する︑という方法論がひそんでいる︒そして︑この方法にたいしては︑通説的立場から︑

社会主義的所有の二形態の意義が軽視されてはならない︑という批判がある

( [ 4 2 ] C T p 1 . 0 5   1 0 6 ) ,   [ 4 3 ] C T p . 1 1 5 ,   [ 4 6 ] C T p .   9

) ︒だが︑この批判は当らない︒生産手段の社会的所有の本来の形態は︑理論的にいって全人民的所有

形態であり︑現実の社会主義段階においてもそれが規定的な役割をはたしており︑生産手段の社会的所有の社会主 義的特質は︑その二形態の存在によって規定される以上に︑全人民的所有にもとづく諸関係の社会主義的成熟度に よって規定されているからである︒通説的立場においても︑たとえば︑基本的経済法則を論じるさいには︑事実上︑

( [ 3 7 ] C T p .   1 1 3 )

と い

う ︑

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

社会の総生産物の直接に社会的な生産と領有とを︵これらの過程の参加者たちのあいだに社会・経済的差異がある

ヽ もとで︶実現し支配する必然性の法則︵傍点ー原文︶﹂ ャ・クロンロードのものである︒

﹁ 社

会 主

義 の

基 本

的 経

済 法

則 ﹂

論 の

検 討

口 ︵

長 砂

四 八

(18)

565 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 二形態の存在が捨象されていることは︑けっして偶然ではない︒この説の限界ほ︑むしろ︑

四 九 つ ぎ の 諸 点 に あ る ︒

第一の限界は︑その独得な定式化がおこなわれている社会主義的生産諸関係のいわゆる一般的特徴つけにかかわ る︒この定式は︑同志的協力と社会主義的相互援助の通説的定式にとってかわるべきものとされているだけでなく︑

基本的生産関係の特徴づけとは区別されるべきものとされている︒しかし︑社会主義的生産諸関係のいわゆる一般

的特徴づけが︑実際には社会主義に特有な﹁外的法則﹂的性格の諸関係の特徴づけにほかならない︑ということに

たいする論者の不明確な立場は︑結局は︑基本的生産関係の特徴づけを生産諸関係のいわゆる一般的特徴づけの次

元でおこなう︑すなわち﹁・・・・・・生産者たちの集団性の直接に社会的な関係﹂と規定する︑という結果をもたらして

いる︑ということを指摘しなければならない︒

第二の限界は︑生産手段の全人民的所有関係が社会主義の基本的生産関係である︑とされている点にかかわる︒

ここでは︑勿論︑全人民的所有が協同組合的所有にたいして規定的である︑ということが問題とされているのでは

ない︒協同組合的所有の存在は捨象されている︒その上で︑社会主義的生産諸関係の体系のなかで全人民的所有関

係が基本的生産関係だといわれているのである︒われわれは︑生産手段所有関係

1

1 基本的生産関係というこの説の

一般的方法論の限界・欠陥については︑すでにのべた︒ここでは︑その具体的な現れが問題である︒われわれは︑

それをつぎの点にみる︒すなわち︑二つの定式を比較すれば容易にわかるように︑生産手段の全人民的所有関係の

特徴づけが︑単に︑社会主義の生産諸関係のいわゆる一般的特徴づけの一部分とみなされているのであって︑なぜ   前者が基本的関係であるかは︑内容的に明らかにされているとはいえないのである︒

第三の限界は︑社会主義の基本的経済法則の定式が︑事実上︑社会主義の生産諸関係の一般的特徴づけと生産手

段の全人民的所有関係

1

1 基本的生産関係の特徴づけとの合計として︑提出されている点にかかわる︒その定式は︑

口︵長砂︶

(19)

566 

﹁全人民的所有﹂説の第二の狙い︑すなわち︑基本的生産関係・経済法則に内在する矛盾をあきらかにすること︑

の検討に移ろう︒つぎのようにいわれている︒﹁社会主義の基本的生産関係としての全人民的所有は︑そのなかに

つぎの内的諸矛盾を含んでいる︒それは︑その全人民的な集団的管理の諸関係としての所有諸関係のなかにある生

産者たちの平等と︑再生産過程における種々の社会的グループによるその実際の利用の諸関係としてのおなじ所有

諸関係のなかにある実際の不平等とのあいだの諸矛盾である︒﹂

( [ 3 7 ] C T p . 1 0 6 )

また︑﹁直接的生産過程にも︑社

会的生産物の領有と分配の諸形態にもそなわっている経済的乎等と不平等の諸要素が︑社会主義の基本的生産関係

のなかで統一されていることは︑社会主義の基本的生産関係および他の経済的諸関係とのその連関諸形態に内在す

る特有な諸矛盾でもある︒これらの矛盾とこれらの解決の必然性は︑社会主義の基本的生産関係の発展の内在的衝

動︑源泉を形成するとともに︑その発展方向をしめす︒﹂

( C T p . 1 1 4 )  

諸関係﹂とみなされ︑ このような矛盾の取扱かいについて︑われわれはつぎの二つの問題をとりあげなければならない︒

︑ ︑

第一の問題は︑このような諸矛盾を全人民的所有関係の内部矛盾とみなすことができるかどうか︑ということで

ある︒前記の定式においては︑生産手段の﹁管理の諸関係﹂と﹁利用の諸関係﹂が区別された上でともに﹁所有の

しかも︑前者に平等が︑後者に不平等が対応させられている︒しかし︑生産手段の管理と利

は 正

し い

︒ ﹁

社 会

主 義

の 基

本 的

経 済

法 則

﹂ 論

の 検

口 ︵ 長 砂 ︶

﹁社会主義の基本的経済法則のなかでも︑生産諸関係の 生産手段の全人民的所有とその生産諸関係の性格にかんする一般的記述にとどまり︑そのなかには基本的経済学的 範疇も欠除している︒それは︑︒^シコフの定式とは若干異なって︑特定の経済法則によってではなく︑経済諸法則

の体系によって表現されるべきものである︒この限りで︑

一般的諸特徴ではなく︑それにふさわしい特有な諸特徴が表現されねばならない︒﹂

( [ 4 2 ] C T p . 1 0 6

) ︑という指摘 五〇

(20)

567 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討 用とは事実上おなじ関係であるばかりか︑それらは直接的生産過程の生産諸関係であって︑固有な意味での生産手 段の所有関係ではない︒さらに︑生産手段が全人民の所有に属するということ自体のなかには︑すなわち︑全人民 的所有関係そのもののなかには︑平等と不平等との矛盾は存在しない︒そこには︑﹁生産手段の所有にかんする社

ぃ り

会の全成員の平等︵傍点ー原文︶﹂︵レーニン︶が存在するだけである︒

また︑論者も事実上承認しているように︑経済的平等と不平等との矛盾は︑社会主義的発展段階の全人民的生産

諸関係の全体系に存在するものである︒かりに︑生産手段の所有関係を論者のように理解して生産手段所有関係

I I

基本的生産関係であるとしても︑そのような矛盾は基本的生産関係にのみ固有なものである︑ということはできな

い︒われわれは︑つぎのように考える︒社会主義的な発展段階における全人民的な生産諸関係は︑生産手段が全人

民に属するという乎等な関係からでてくる経済的乎等の諸要素と︑さまざまの﹁旧社会の母斑﹂に規定されてなお

︑ ︑

︑ ︑

存在する経済的不平等の要素との矛盾的統一であり︑この限りで︑社会主義段階の全人民的所有関係の平等は﹁形

凶回 式的な平等﹂︵レーニン︶にとどまるー所有関係は生産諸関係を通してのみ経済的に実現されるというわれわれの

囚 り

立場にたつならばーーのである︒例えば︑社会主義段階での﹁労働の平等・賃金の平等﹂︵レーニン︶をとってみよ

う︒それは︑全般的労働義務制の実施︑搾取と失業の根絶︑および﹁生産者の権利は︑彼の労働給付に比例する︒

ヽ 平等は︑ひとしい尺度で︑すなわち労働で︑測定される点にある︒︵傍点ー原文︶﹂といわれる﹁平等な権利﹂︑と

いった経済的平等の諸要素と︑﹁分業への個人の奴隷的従属・:・・・精神労働と肉体労働との対立﹂などの残存︑﹁木

平等な個人の天分と︑したがってまた不平等な給付能力﹂を前提とするところの︑﹁内容からいえば︑⁝⁝不平等

固 の権利﹂といった経済的不平等の諸要素との統一物であり︑その限りで︑それはなお﹁形式的な平等﹂である︒そ

して︑これらの経済的不平等の諸要素が生産諸関係のなかからしだいに除去されていくことを通じての社会主義的

口 ︵

長 砂

(21)

568 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

目 ︵

長 砂

﹁この甚本的経済法則が共産主義的生産様式 な全人民的生産諸関係の共産主義的な全人民的生産諸関係への発展・成熟こそが︑まさに︑全人民的所有関係にお

囮 ける平等を﹁形式的な平等から実質的な平等にむかって﹂︵レーニソ︶発展・転化させる過程の実質的な経済的内容

にほかならないのである︒こうして︑経済的平等と不乎等との諸矛盾は疑いもなく存在するのであり︑それらは︑

通説にいわれる﹁生産手段にかんする人びとの平等と財貨の分配における不平等との矛盾﹂に解消されてはならな

い性質のものである︒だが︑これらの矛盾は︑けっして︑苺本的生産関係にのみ固有な矛盾ではないのであって︑

基本的経済的矛盾とみなすことはできない︒

第二の問題は︑このような諸矛盾は︑社会主義的生産諸関係にのみ内在して共産主義的生産諸関係には内在しな

いものであるため︑たとえ︑それらが﹁発展の内的衝動︑源泉﹂であるとしても︑共産主義への成長につれてみず

からの役割を減退させ︑ついには消減する性質のものである︑という点にある︒このことは︑基本的生産関係・経

済法則・経済矛盾が共産主義構成体に︱つである︑という正しい方法から︑この点でだけ離れる︑ということを意 m  味している︒社会主義的生産諸関係の発展の基本的な源泉すなわち基本的経済矛盾は︑それらが共産主義的生産諸

関係と区別される諸特徴のなかにでなく︑共通する諸特徴のなかに︑すなわち︑いわゆる経済的平等の諸要素・諸

関係の内部にこそ︑もとめられるべきであるということを︑このことはわれわれにしめしている︒

こうして︑われわれは︑﹁全人民的所有﹂説のいくつかの積極面を認めつつも︑それに同意することはできない︒

社会主義の基本的経済法則の第三の代表的な異説的見解・定式は︑ア・ノートキンのものである︒つぎの定式が ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 提案されている︒﹁全人民の増大する物質的および文化的欲望をみたす源泉としての︑またこれらを目的として社 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 会的生産をたえまなく拡大し改善する源泉としての︑社会の純生産物︵国民所得︶の物量を︑系統的に︑計画的に︑ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 可能なかぎり増大させること︵傍点ー原文ご

( [ 4 1 ] C T p . 4 3 ) ︒

彼 は

(22)

569 

にとって特有なものである﹂ことを︑四点について主張している

( C T p . 4 3 4 4 )

︒このような見解・定式の核心が ︑ ﹁社会の純生産物︵国民所得︶﹂にあることは明らかである︒ある論者は︑簡単に︑﹁国民所得の生産が社会主義の   基本的経済法則である︵傍点ー原文ご

( [ 2 3 ] C T p . 1 2 7 )

とのべ︑他の論者は︑それを︑﹁勤労者による国民所得の生

産と領有の法則﹂

( [ 2 2 ] C T p . 1 1 6 )

とのべている︒この種の見解は︑﹁国民所得﹂説とよぶことができるであろう︒

この説の最大の特徴は︑社会・共産主義の基本的生産関係の本質が︑基本的な経済学的範疇 11 純生産物︵国民所

得︶に集約的に表現される︑とみなし︑そのような純生産物の生産を基本的経済法則としている点にある︒すなわ

︑ ︑

︑ ︑

︑ ︑

ち︑﹁社会主義的生産様式の本質的な特質と社会主義的生産諸関係の発展の物質的源泉を表現することによって︑

国民所得は︑中心的な環としてあらわれ︑社会主義のもっとも重要な範疇としてあらわれ︑資本主義のもとでの剰

余価値と同様な決定的役割をはたす︵傍点ー原文ご

( [ 2 3 ] C T p . 1 2 5 )

のであり︑﹁経済学的範疇としての純生産物

︑ ︑

︑ ︑

は︑社会主義・共産主義社会の基本的生産関係の新しい側面を表現する︒︵傍点ー原文ご

( [ 4 1 ] C T p . 3 9 )  

そし︑このことの論拠は︑およそ︑つぎの一一一点につくされる︒第一の論拠は︑敵対的な諸社会構成体では︑剰余

生産物の特有な社会的形態にその基本的生産関係が表現されるのにたいして︑共産主義構成体では︑純生産物︵必

要生産物プラス剰余生産物︶の特有な社会的形態にその基本的生産関係が表現される︑ということである︒それは︑ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 共産主義構成体では︑﹁剰余生産物だけでなく必要生産物も生産の起動力となる︵傍点ー原文ご

( [ 2 2 ] C T p . 1 1 5 )

らであり︑﹁必要生産物も剰余生産物も︑すなわち純生産物全体が︑勤労者たちの財産︑その人民所得

( H a p O A H h I H :

決 O

X O A )

と な

る ﹂

( [ 2 3 ] C T p . 1 2 5 )

からである︒﹁共産主義的生産様式のもとでは︑純生産物︵国民所得︶のなかに︑

生産手段の社会的所有と直接に社会的な労働との発展の︑全人民にとっての諸結果が実現されている︒ここでは︑

︵物量表現での︶必要生産物の増大も剰余生産物の増大も︑

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

ロ ︵

長 砂

おなじように必要である︒﹂

( [ 4 1 ] C T p .

4 1 )

こ の

論 拠

は ︑

(23)

570 

﹁社会主義の基本的経済法則﹂論の検討

は ︵

長 砂

通説的見解から出発しながらもそれと衝突する契機を内蔵している﹁剰余生産物﹂説の肯定的側面を発展させ︑同

時にその消極的側面を克服しようとするものであって︑原則的に正しい︒第二の論拠は︑資本主義のもとでの国民

所得と︑社会・共産主義のもとでの国民所得とは︑経済学的範疇として根本的に異なる︑ということである︒そし

て︑この論拠も︑古典から多くの引用をするまでもなく︑正しい︒第三の論拠は︑社会・共産主義のもとでの総生   産物と純生産物の範疇的区別にかかわる︒それは︑﹁総生産物が共産主義的生産様式の理論的分析の出発点をなす

範疇にすぎない﹂のにたいして︑﹁生産手段の社会的所有の諸関係が︑そのもっとも完成された︑深い︑そして特

徴的な経済的表現を受取るのは︑純生産物あるいは国民所得の範疇のなかでであって︑そのなかで︑社会のために︑ 人民全体のために、それらの関係が実現される(傍点—原文ご ([41]CTp.

4 0

) ︑という点にもとめられている︒

の論拠も原則的に正しい︒

われわれは︑すでに早くから︑ ﹁国民所得﹂説の基本的諸命題に原則的に同意する見解をのべてきた︒そして︑

ア・ノートキンによって

( [ 4 1

] ︶︑この説は新しい理論的水準に引上げられた︑といってよい︒だが︑なお多くの︑

より明確にされねばならない諸問題が残されている︒それらのうちの主要なものを︑とくにノートキンの所説を批

判的に発展させるという立場から︑以下で検討しよう︒

第一に︑この説でも︑社会・共産主義の基本的生産関係と生産手段の社会的所有の諸関係とが明確に区別されて

いないだけでなく︑基本的には同一視されている︒このことは︑基本的生産関係を直接的生産過程にもとめるべき

第 二

に ︑

である︑という正しい方法が︑首尾一貫して適用されていない種々の結果をもたらしているのである︒これは︑た

だちにつぎの点に現われる︒

﹁純生産物﹂と﹁国民所得﹂との範疇的区別が明確にとらえられていない︒だが︑純生産物は国民所得 五四

参照

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