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機関の権利と機関訴訟(二)―ドイツにおける機関訴訟論の現状

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(1)

一六九(都法五十五-二(

機関の権利と機関訴訟(二) ―

ドイツにおける機関訴訟論の現状

門   脇   雄   貴

はじめに

第一章  地方公共団体組織訴訟 第二章  機関の権利 第一節  問題状況

公益と固有の利益 第二節  客観化志向 第三節  脱利益志向(一((途中まで前号・以下本号( 第四節  脱利益志向(二(   第一款  ブッフヴァルト

規範制定権能としての権利   第二款  エヴァルト︱権利化の限定   第三款  ロート・ディーメルト

比較衡量と憲法的価値の算入   第四款  エリヒゼン・クレプス

脱利益化と差異化

(2)

一七〇 第五節  利益志向   第一款  ホッペ

利益の否定(以上まで本号・第二款以下次号( 第三章  自己訴訟

おわりに

第二章   機関の権利(続き)

第三節  脱利益志向(一)(続き)

五  さて、ここまでは﹃国法学の主要問題(第二版(﹄(一九二三(における機関の権利の扱いを見てきたが、その 後、﹃一般国家学﹄(一九二五(

を通じて﹃純粋法学(第二版(﹄(一九六〇(

に至り、ケルゼンの立場は大きく変化

することになる。﹃国法学の主要問題﹄以降のケルゼンの立場のいくつかの変更についてはすでに多くの紹介があ

るが

((

、機関の権利の扱いに関わるのは、そのうちの大きく二つの点である。一つは、ケルゼンの体系にいわゆる動

態論が導入されたため、機関と権利の扱いについて変化が生じた点(五、六(、もう一つには、国家と法秩序が同

視されるようになったため、帰属の意義に変化が生じた点である(七、八(。以下、順に検討する。

まず、﹃国法学の主要問題﹄と比較した場合の﹃一般国家学﹄の大きな特徴の一つは、動態論(Dynamik(が導 入されたことである

。すなわち、﹃国法学の主要問題﹄においては法規の存在を所与として国法学を組み立てる静

態論(Statik(の体系のみであったが、加えて﹃一般国家学﹄においては、根本規範を頂点とし、上位規範(一般

(3)

一七一(都法五十五-二( 的規範(のもと

((

、それを適用・執行することで下位規範(個別的規範(を創造していくプロセスを中核とする、動

態的な国法学も同時に組み立てられることになる。そこでは例えば、立法も法創造と同時に法適用の性格を有する

し、逆に裁判判決も法適用のみならず法創造の性格を有する

。そしてそれは行政についても同様であり、上位の法

規範が定める一定の条件のもとで行政行為を私人に対して発することは、法規範の適用であると同時に創設でもあ

。さらにケルゼンは、契約のような法律行為ですら、一般法規範の具体化による個別法規範の創設として理解す

そして、この動態論の導入によって、機関の概念に変化が生じる。﹃一般国家学﹄においても、機関とはヒトす

なわち機関担当者を指すことに変わりはないが

、さらにケルゼンは機関概念を、法本質的ないしは法形式的な機関

概念と、法内容的な機関概念とに区分するようになる ((

。このうち後者の法内容的機関概念は、後の﹃純粋法学﹄で

言う狭義の機関概念に対応するが ((

、これはすなわち官吏(Beamte(を典型とする、一定の資格保有者のことを指

((

。ただ、この狭義の機関は、いずれにしても次で述べる法本質的ないしは法形式的な機関概念のうちの一部を、

それとは異なった観点で定義したものにすぎないから、ここではこれ以上論じない ((

他方、前者の法本質的機関概念とはいかなるものか。この概念によれば、﹁ある個人は、共同体に帰属させられ

うる行態をおこなうがゆえに、またその限りで、その共同体の機関である﹂ ((

。帰属については後の七および八で詳

論するが、ここで重要なのは、この意味での機関がおこなう機関作用(Organfunktion(が次の三つに分類されてい る点である ((

。第一に、先の動態論的観点から見た場合の法規範の創設・適用という狭義の機関作用がある。第二に、

それに加えて例えば法義務の履行などの法遵守(Rechtsfolgung(を含めた法作用(Rechtsfunktion(全体という広義 の機関作用がある ((

。第三に、さらに強制行為の条件となる不法行為も含めた最広義の機関作用がある ((

。すでにここ

(4)

一七二

から分かるように、法秩序において定められた権利義務はそのすべてが機関作用に関わるものとされることになる。

すなわち臣民は、法秩序から自由である場合を除いて ((

、権利義務を有するとはすなわち機関として観念されること

を意味する ((

この点を、本稿の問題関心に即して、このうちの狭義の機関作用に関し敷衍する。法規範の創設・適用というこ

の狭義の機関作用を担う機関、つまり﹁上位段階の規範によって規定された、下位段階の規範の設定者﹂ ((

としては、

法律を制定する立法機関の議員、それを例えば行政行為の形式で具体化する行政機関の機関担当者、同じく判決の

形式により具体化する裁判官などがもちろん含まれるが、さらには、先に述べたように法律行為ですら一連の法創

造プロセスの一環として位置づけられるから、その意味では臣民さえも機関に当たるとされる ((

。つまり、動態的に

機関を把握する場合には、立法・行政・裁判を担う機関だけではなく、臣民も機関に含まれことになる点が、﹃一

般国家学﹄以降における機関論の重要なポイントである ((

六  では、機関の権利はどのように考えられるのか。ケルゼンは、法秩序がヒトに対して通用している場合、逆に 言えば、ヒトが法秩序から自由ではない場合として ((

、ヒトの行態が法義務の内容となっている場合(受動的関係(

だけでなく、ヒトの行態が規範を創設する場合、換言すれば、ヒトの行態が、法秩序自身によって、新たな規範の

通用の条件として資格づけられた要件とされている場合(能動的関係(を挙げ、この能動的関係にこそ、権利の意

義があると述べる ((

。そして、彼の言う、能動的関係における権利とはすなわち、動態論と結びついた政治的権利

(politische Rechte(であり ((

、それは、﹁国家意思形成への参与(Anteil(を権利者に認める﹂ものにほかならない ((

そこに言う国家意思形成とは、立法はもちろん、動態的に観察した場合の、上位規範を適用・執行して下位規範を

創設する行為すべてが含まれる。したがって、臣民であっても、前述のように国家機関として例えば契約のような

(5)

一七三(都法五十五-二( 法律行為をおこなったり判決を求めて訴えを提起する場合、これらの行為についてはいずれもこの政治的権利が認 められることとなる ((

。そしてもちろん、臣民以外の国家機関であっても同様であり、例えば選挙人の選挙権や議員

の審議権が政治的権利の例として挙げられる ((

もっともケルゼンも、法規範の創設行為であっても行政機関によるそれに関しては、権利を認めることにやや躊

躇を示しているように見える。すなわち﹃一般国家学﹄においては、行政行為としての行政命令(Verwaltungsbe-fehl(も行政機関が創設する個別的規範とされてはいるものの、行政命令を発する行政機関に認められるのは、﹁権 利﹂ではなく、﹁権能(Befugnis(﹂ないしは﹁権限(Kompetenz(﹂にすぎないと考えるのが一般的であると述べ、 君主という例外を別にして、行政機関の権利については明確な承認を与えていない ((

。また、﹃純粋法学﹄において

も、行政機関の権利を政治的権利に含めるような直接的な説明は見られない ((

。しかし、﹃純粋法学﹄においても、

まず一方で、行政機関の権限の少なくとも一部が、法規範の創設に当たることは認められている ((

。そして他方で、

私人間におけるある者の義務に対応する相手方の反射権(Reflexrecht( ((

について、当該相手方が訴える権利を﹁技

術的意味での権利(ein subjektives Recht im technischen Sinne(﹂と呼び、それは﹁授権(Ermächtigung(﹂の一形態 によって付与された﹁法的力(Rechtsmacht(﹂であるとし ((

、そのような権利もまた、判決を求めるという意味での

法規範創設の力であるから政治的権利として位置付けられるという ((

。その上で、次のように述べて﹁権利﹂と﹁権

限﹂との区別を否定する。

﹁法作用としてのこの法的力の行使が、法秩序によって一般的法規範の創設を授権された立法機関

(Gesetzgebungsorgan(の作用や、これら一般的法規範の適用において個別的法規範を創設することを授権された裁判機

関や行政機関の作用と、本質的に同じ性質を有するという点は容易に理解できる。⋮これに対して伝統的理論は、多く

(6)

一七四

の場合において、特にいくつかの共同体機関の作用とりわけ裁判所や行政官庁の作用との関係において、それらの機関

の﹁権限(Zuständigkeit oder Kompetenz(﹂という言い方をする。⋮︹しかし︺法秩序によって与えられた法的力の行使 にある作用が問題になる限り、このように権限の概念を限定することは正しくない。個人の行為能力(Geschäftsfähigkeit(

や権利︱私権や政治的権利︱は、法律を議決し、判決を下し、行政決定を発するという特定の個人の能力と同様、その

個人の﹁権限﹂なのである。伝統的な用語法は、この法的力を行使する作用すべての間にある本質類似性

(Wesensverwandtschaft(を明確に表しておらず、それを覆い隠してしまっている。﹂ ((

こうして、ケルゼンにあっては、法規範を創設する法的力という共通性のもとに権利と権限との区別は否定され、

臣民と機関とが有する政治的権利はいずれも共通の性質をもつものとして扱われる ((

。つまりその限りで、機関であ

っても権利を有することが認められる。

七  さてしかし、四で見たように、﹃国法学の主要問題﹄においては、帰属の概念が、機関の権利を否定する鍵概

念としての役割を果たしていた。したがって、﹃一般国家学﹄以降において機関に権利が認められるのならば、こ

の帰属の概念がどのように扱われているのかが明らかにされなくてはならない ((

。それを理解するためには、﹃国法

学の主要問題﹄においては十分に明確にされていなかった国家と法秩序との一体性が、﹃一般国家学﹄においては

強調されるようになったことを踏まえる必要がある。すなわち、﹃一般国家学﹄においては、国家とは法秩序を人

格化したものであり、したがってそれは法秩序と別のものではなく、国家と法秩序はまさに同じものとして扱われ

((

。そしてこの結果、帰属の概念に以下のような変化が生じる。

すでに述べたように、﹃国法学の主要問題﹄においてケルゼンの言う、機関に係る(外的(帰属とは、要件とし

てのある者の行為または不作為を行為者以外の人格(Person(へと結合するものであった。そこでは、帰属の終局

(7)

一七五(都法五十五-二( 点であることがすなわち人格を意味するが、機関としての機関担当者の行為は機関担当者自身にではなく国家へと 帰属することになるので、機関担当者は帰属の通過点にすぎず、人格ではないこととされたのである ((

これに対して、﹃一般国法学﹄において、ケルゼンはまず、ヒトと人格との関係につき次のように述べる。

﹁ある特定のヒトAが、法主体すなわち法義務および権利(Berechtigung(の主体であり、法義務および権利を有する と主張される場合、このことは⋮Aの特定の行態が特別な形で法命題の内容(Inhalt(となること、つまり︱法命題の

内容をなす︱Aの行態とは矛盾する反対のもの、または法効果に向けられたAの意思表示が、︹法命題の︺後件

(Nachsatz(において表されている強制効果の条件であるということを意味している。前者の場合には義務主体が問題

になり、後者の場合には権利主体が問題になる。しかしいずれの場合であっても、法認識にとって﹁法主体﹂という対

象において示されるのは法規範であり、特定の内容と関わる法命題である。そしてこのような意味で、自然人は法規範

の複合であり、しかもある一人のヒトの行態を︱義務としてであれ権利としてであれ︱内容とするすべての法規範の総

体であるということができる。⋮法規範をこの単一体の基体として把握し、自然人を客観法の一部(Stück(として、

何らかの形で限定された部分法秩序として把握することによって、法の領域が保たれる。⋮法主体を、この部分法秩序

の﹁担い手﹂、この部分法秩序において規範化された権利義務を﹁有する﹂主体と呼ぶとすれば、それはこの部分法秩

序の人格化にすぎず、これらの義務および権利がこの部分体系においてその位置づけ(Platz(をもつということの表現

にすぎない。そして、自然人に法義務および権利を認めるという判断においては、︱法命題におけるその自然人の地位

(Stellung(に関し︱法義務または権利と性格づけられた内容が、この体系の︱相対的なまたは一時的な︱単一体に関連 づけられる(Beziehung(のである。⋮あるヒトが法義務および権利を﹁有する﹂という判断は︹人格がそれらを﹁有

する﹂という判断とは︺まったく別の意味をもつ。﹁有する﹂とは、ここではまったく異なった関係を意味するのであ

(8)

一七六

る。すなわち、そのヒトの行態が法規範の内容であるということである。⋮ヒトの行態が法規範の内容となることによ

ってのみ、その内容が法規範の単一な体系に関連づけられうる⋮。﹂ ((

以上を要するに、例えばヒトAの意思表示が判決を求める訴えの提起という行態として法規範において規定され

ていれば政治的権利が認められるように、ヒトAの行態が権利として法規範の内容とされている場合にヒトAが権

利をもつということになるが、そのことは同時に、法規範の内容とされている行態が要件として法秩序に関連づけ

られていることを意味し、それはすなわち人格化された自然人Aが権利として全体法秩序の一部(部分法秩序(を

形成するということでもある。その意味で、権利をもつのはヒトであり、自然人という人格は客観法の一部たる権

利そのものということになる。さらにケルゼンは続けて、帰属と意思について次のように述べる。

﹁人格という判断においては、法義務および権利を単一の部分体系に関連づけているにすぎない。そしてこの関連づ

けは行為(Handlung(自体も把捉する。法的に行為するのは、権利を主張し義務を履行する人格である。⋮人格が行為

を﹁意思する﹂とは、人格化された部分秩序においてこの行為が意欲される、すなわち当為されるがゆえにこの行為が

当該人格に関連づけられるということをまさに意味するのである。⋮したがってヒトの行為は、それが法行為であるか

ぎり、すなわち法的には法義務または権利として性格づけられているかぎりで、単一の秩序または部分秩序とのこのよ

うな関係によって把捉され、換言すれば法人格によって定立される。﹂

そして、﹁このように、ある要件が単一の秩序ないしは部分秩序に関連づけられているということは、また、﹁帰

属﹂と呼ばれる﹂ ((

かくして、権利が認められるということはとりもなおさず、権利者の特定の行態が要件として一定の形で部分法

秩序(人格(に関連づけられる、すなわち帰属するということを前提にしていることになる ((

。例えば、先に挙げた

(9)

一七七(都法五十五-二( 政治的権利としての臣民の訴権を考えれば、判決という個別的規範の創設を求めるためには訴えの提起という行態

がその条件となるが、それが法規範において定められている必要があり、そのことはつまり訴えの提起という行態

が法秩序に帰属させられている要件であるということを意味するにほかならない。﹃国法学の主要問題﹄において

は、帰属の概念はもっぱら義務との関係で用いられていたにすぎず、権利と帰属とがどのように関わっているのか

は必ずしも明確ではなかった。しかし、﹃一般国家学﹄では、以上のように、権利が認められるためには一定の行

態が法秩序に帰属させられていることが必要であるという点が明確にされている。

しかもこの帰属は、部分法秩序で完結するわけではない。ケルゼンは、自然人と法人がいずれも同様に人格とい

う部分法秩序として位置づけられるとした後 ((

、次のように述べる。

﹁法人が、部分法秩序の単一表現にすぎず、その部分法秩序は他の部分法秩序とともに自らを包括する全体法秩序か

らその通用性を得ているかぎりで、換言すれば、法人の﹁意思﹂︱﹁意思﹂としての法人︱が自らの上に﹁より上位

の﹂意思を有し、他の法人と同様に当該法人の意思がその﹁上位の﹂意思に服し、他の法人の意思と同様に当該法人の

意思がその﹁上位の﹂意思から法的に導かれるかぎりで、その法人は、終局的ではなく一時的な単一関係にすぎず、帰

属の終局点ではなく通過点にすぎない。帰属のこのような終局点としては、ここではまず国家の人格が認められる。そ

れはすなわち、自らの上にいかなる上位の意思も有しない最上位の意思である。⋮ここでは差し当たり、国家の意思が

︱法学上の意欲が法的な当為にすぎず、他の人格の﹁意思﹂が部分法秩序であるかぎりで︱全体法秩序として前提とさ

れるし、人格化された場合には全体意思あるいし全体人格として前提とされる。﹂ ((

﹁法行為を、権利の主張または義務の行使として自然人または法人に帰属させるとしても、それは法行為を最終的に

ではなく一時的に規定するものにすぎす、いまだ完全にではなく部分的に規定するものにすぎない。法体系全体におけ

(10)

一七八

る法行為の位置づけが理解され、単一の全体法体系すなわち法行為を包含する﹁意思﹂の最終的な妥当根拠との関連づ

けが前面に出てきて、法行為が国家によって意欲され、国家に帰属する場合に初めて、それが法行為として最終的かつ

完全に規定されるのである。﹂ ((

こうして、権利が法規範において定められるということは、部分法秩序たる人格︱それが自然人であれ法人であ

れ︱への帰属がなされるが、それは当該人格を通過して、終局的には全体法秩序たる国家に帰属するということに

なる。

もっとも、﹃一般国家学﹄においては、自然人と法人とが合わせて人格という﹁部分法秩序﹂であるとされてい

るが ((

、﹃純粋法学﹄においては、法人のみが﹁部分法秩序﹂と呼ばれ ((

、自然人は法秩序とはされていない ((

。しかし、

たとえ自然人を部分法秩序とは考えなくとも、臣民の権利が国家たる全体法秩序において終局的に帰属することに

かわりはない。なぜなら、﹃一般国家学﹄におけるのと同様、﹃純粋法学﹄においても、法秩序が義務を課し権利を

与えるとは、すなわち法秩序がヒトの行態を権利義務の内容としていることを意味し ((

、そして﹁個人の行態が規範

秩序において条件または効果として規定されている場合にのみ、この規範秩序によって構成される共同体に帰属さ

れうるのであり、そして擬制なしに言えば、それはつまり共同体を構成する規範秩序に関連づけられ(bezogen( うる﹂ことにかわりはないからである ((

。以上のように、﹃純粋法学﹄において、自然人が﹁部分法秩序﹂とされな

くなったことは、ここでの論旨にとって大きな影響を与えるものではない。

八  そして、自然人および法人といった人格に係る帰属に関する以上の説明は機関にも同様に当てはまる。すなわ ち、ケルゼンは、機関もまた自然人や法人と同様に人格であるとした上で ((

、国家意思に関して次のように述べる。

﹁重要なのは、ヒトの内的な意思事象(Willensvorgang(が国家に委譲されることではなく、特定の性格づけをされた

(11)

一七九(都法五十五-二( ヒトの行為が国家に帰属させられる 4444444ということである。⋮しかし、ある要件(Tatbestand(がこのように国家に帰属 44す るということは、この事象が単一の国家秩序に関連づけられている(Beziehung(という以外の何者でもない。そして、 この関連づけがなされるのは、事象(Vorgang(が当為として国家秩序の規範に定められているからであり、またその

かぎりにおいてである。国家の意思とは、機関行為・国家行為として性格づけられる要件の︱秩序の単一性を表現した

︱帰属の終局点なのである。こうして、この観点のもとで国家は、⋮帰属の単一体すなわちまた秩序の単一体としてあ

らわれる。﹂ ((

﹁この︹国家法秩序を創造し適用するという︺作用を果たす個人が法機関(Rechtsorgan(である。その法機関自体が

国家機関であるということ、つまり、その作用が﹁国家﹂すなわち国家法秩序によって構成された法共同体に帰属させ

られるということは、その作用がこの共同体を構成する強制秩序たる単一体に関連づけられる(bezogen(ということ を意味する。﹂ ((

以上見てきたように、﹃一般国家学﹄以降においては、まず、﹃国法学の主要問題﹄においては不明確であった、

権利と帰属との関係が明確にされ、権利についても国家への帰属が前提とされた上で、さらに、臣民と機関とにつ

いて同一の内容の帰属概念が採用されている。もっとも、一見すると、﹃一般国家学﹄以降の帰属も国家への帰属

であるから、﹃国法学の主要問題﹄における帰属概念と異ならないようにも見える。しかし、帰属概念の前提とな

る国家が全体法秩序であることが明確にされたため、﹃一般国家学﹄以降の帰属とは、機関とは別の国家という主

体に権利義務が帰属するということではなく ((

、法秩序への帰属を意味することとなった。それはすなわち、あるヒ

トの行態が法規範において定められているということであって、要するに、権利が認められるためには法規範にお

いて定められている必要があるということを意味する。ケルゼンにとって重要なのは、まさにこの点であって、そ

(12)

一八〇 れを説明するために用いられる﹁人格﹂﹁機関﹂﹁帰属﹂といった諸概念は、結局、﹁擬制(Fiktion(﹂ ((

﹁法認識の思

考上の補助(Denkbehelf(﹂ ((

﹁(思考(操作((Gedanken-(Operation(﹂ ((

にすぎないとさえ言われる。

いずれにせよ、こうして、権利に関しては臣民と機関との垣根は取り払われ、帰属の概念も機関の権利を否定す

るものとして機能するのではなく、むしろ機関の権利を認めるための前提としてはたらくことになったのである。

九  以上が機関の権利についてのケルゼンの立場であるが、本稿の問題関心との関連で、さらに三点指摘する。

まず第一に、以上の説明からも分かるように、ケルゼンは、権利の定義から利益の要素を排除しているが、この

態度は、その点について特に詳細な検討をおこなっている﹃国法学の主要問題﹄から﹃純粋法学﹄に至るまで一貫

している。すなわち、ケルゼンに言わせれば、利益とは本来個人的心理的な要件(individual-psychisher Tatbestand(

であって、法学概念の定義に持ち込まれてはならないものである。個人的心理的なものである利益を権利の定義に

含めてしまうと、各々の心理状態によって利益が異なり、すなわち権利が異なってくることになってしまう ((

。それ

を回避すべく、立法者が平均的利益(Durchschnittsinteresse(を保護しようとしている場合にそれが権利なのだと

いう言い方をしても、結局それは立法者の動機を推測するにとどまることになるから権利の定義にはなりえないと

いう ((

しかし、そうだとしても、ケルゼンにおいて、利益が権利と一切関わりがないということではない。ケルゼンは

しばしば、反射権も含め ((

、権利が権利者の利益保護に結び付いているものであることに言及しており ((

、利益は権利

概念の必然的(notwendig(ないしは本質的な(wesentlich(メルクマールではないが、通常の(regelmäßig(メルク マールであると述べている ((

。つまり、常に利益が保護されているわけではないので、利益によって権利を定義する

ことはできないが、通常は権利によって利益が保護されていることはケルゼン自身も認めていることになる。

(13)

一八一(都法五十五-二( 第二に、ケルゼンの言う、法規範を創設する権利としての法的力は、一見するとその有無の判断が容易なように

も思われるが、実際は必ずしもそうではない。例えば、議員が法律を制定する法的力が権利だとしても、適法に招

集されることは権利なのか、あるいは議事が公開されることは権利なのか、といった問題は解決されない。もちろ

ん、特定の実体法に即して権利の有無を判定することはケルゼンの意図するところではないから ((

、これはケルゼン

に対する内在的な批判にはならない。しかし、その反面、利益説は個人的利益の有無という、客観法から権利を導

出するための解釈準則を曲がりなりにも提示してきたことは想起されてよい。

本稿の問題関心から重要な第三の点は、ケルゼンが論じているのは機関の権利であって機関訴訟ではないという

ことである。彼の立論からすれば、機関の権利が認められ、仮にそれが侵害されたとしても当然に訴訟が認められ

るわけではない。すなわち、すでに見たように ((

彼は、私人AB間においてBがAに対して義務を負う場合、その義

務に対応した反射権がAに認められるとしつつ、しかし、Aが義務の履行を求めて訴えるためには、技術的意味で

の権利が認められていなくてはならないとしている ((

。そうだとすれば、行政機関が有する権限を政治的権利として

理解したとしても、それが侵害された場合に当然に訴えることができるわけではない ((

。むしろ、その政治的権利と

は別に、裁判所による個別法規範(判決(の創設を求める政治的権利が当該機関に与えられていなければ、訴訟の

提起は認められないことになる ((

。つまりケルゼンにあっては、理論的には機関の権利が広く認められることにはな

るものの、そのことによって訴訟が増加して裁判所が負担過剰に陥るという懸念とは無縁である。したがって、機

関の権利を利益から切り離して構想する一つの原型がケルゼンにあるとしても、それをさらに機関訴訟の文脈に即

して扱う必要がある。そのような論者を、節を改めて検討する。

(14)

一八二 第四節  脱利益志向(二)

第一款  ブッフヴァルト

規範制定権能としての権利 一  ブッフヴァルトは、権利と結び付けられている利益概念が明確に定義できない概念であることを指摘し ((

、利益

ではなく、むしろ権利と権限とに共通する法的力(Rechtsmacht(に重点を置いて権限の権利性を論証しようとす

((

。彼女によれば、権利も権限もいずれも権能(Befugniss(の下位類型であって、それはすなわち規範制定権能

(Normsetzungsbefugniss(のことである ((

。これは権能規範(Befugnisnorm(によって委任された(delegiert(権能で

あって、ある意思表示(規範制定(が法的に妥当するとされるためには、それがこの権能規範に合致した規範制定

権能に基づく意思表示である必要がある ((

。さらに、権利も権限も、それが訴訟において争われる場合には、その規

範制定権能の有無・範囲等が裁判所によって審査されるという点に違いはない ((

。以上の点で権利と権限とは共通の

構造をもつ(strukturelle Parallelität ((

(のであり、権利が訴訟の対象となる以上、権限も原則としては同様に訴訟の

対象となる ((

二  このようなブッフヴァルトの構成に対しては、次の三点を指摘できる。まず第一に、以上のように権利を脱利

益化する彼女の構成においても、利益についての考慮が完全に捨て去られているわけではない。すなわち、彼女は

規範制定権能のもとでなお権利と権限の概念上の区別を維持しているが ((

、両者の違いは、それぞれの目的となる

﹁特殊利益(Partikularinteresse(﹂と﹁一般利益(Allgemeininteresse(﹂との差異に根拠づけられる。もっとも、ブッ

(15)

一八三(都法五十五-二( フヴァルトによれば、特殊利益と一般利益とをその内容に応じて区別することはできないから、利益はもっぱら主 体との関係で定義づけられる ((

。つまり、一方で個人と法人とを含めた個体(Individuum(を主体とする利益が特殊 利益であり ((

、それに対応して、権利とは、当該主体が自らその特殊利益の内容を決定し、その保護を目的として行

使できる規範制定権能である。他方、国家や地方公共団体のような公共体ないしは一般体(Allgemeinheit(を主体

とする利益が一般利益であり、それに対応して、権限とは、政治において定められた所与のものとしての一般利益

の保護を目的として行使できる規範制定権能である ((

。このような﹁権利﹂・﹁権限﹂の違いの根拠とされている﹁特

殊利益﹂・﹁一般利益﹂の区別は、例えば権限の行使については説明責任(Verantwortlichkeit(が認められるなどの 点において権利と権限とを差異化する要素としてはたらく側面もある ((

。しかし、ブッフヴァルトは一般利益につい

てさらに検討し、一般利益が複数の機関それぞれの観点(Aspekte(から形成されるという一般利益の多元的構成 観を示すことで ((

、一般利益も特殊利益と同じく多元的であり、それもまた権利と権限との共通の構造を裏付けると

指摘するのである ((

。このように、ブッフヴァルトにあっても、規範制定権限の目的を基礎づける形で利益の要素が

登場する。

第二に、ブッフヴァルトは機関の権限があることを前提としてそれが権利と同一の構造をもつことを示すという

手法をとっている。しかし、ケルゼンについても指摘したように、例えば議員が議事の公開を求めることができる

かという場面を考えれば分かるが、そもそも実定法から権限を読み取ること自体が困難な場合がある。ここで利益

説は、問題になる利益が個人的利益なのかどうかによって権利の有無を論証しようとするのであるが、ブッフヴァ

ルトにおいては権限(規範制定権(の所在自体を示す手がかりをどこに見出すのかが明らかではない ((

。そして、こ

の問題はとりわけ私人の公権について先鋭化する ((

。すなわち、ブッフヴァルトは私人の権利も機関の権限と同様に

(16)

一八四 扱うのであるが ((

、法律は処分の名宛人以外の者について権利を明示しているとは限らず、そのような場合に、保護

されている特殊利益と保護されていない特殊利益との分別なくして、いかにして権利を導くのかが明確ではない。

第三に、実定法上権限が明確に規定されている場合であっても、それは機関固有の権利ではなく、国家の権利な

のではないか、という問題がある ((

。この問題は、利益説に立てば、国家の利益から区別される機関固有の利益の有

無によって解決されるが ((

、ブッフヴァルトにあっては、権利の根拠としては利益を考慮しないため国家の利益と機

関の利益との重複または分別によってこれに答えることはできない。そこで彼女は、規範制定権は任務の付与とい

う単なる権限(Zuständigkeit(を超えたものであることを強調するが、このことが権利の固有性とどう結びつくの

かは明らかではない。むしろ彼女の主張の中心は、国家であっても機関なしには権限を行使できないのであるから

その権限(規範制定権(は機関固有の権利である、という点にある ((

。しかしこれでは、すべての権限は機関がそれ

を行使できるから、当該機関の権利であるということにならざるをえない。たしかに、団体内部の機関について相

対的人格論をとることにより、機関の固有の権利を認めることは可能であるが ((

、しかし別稿で示したように ((

、相対

的人格は固有の権利が認められた結果を表現しているにすぎず、相対的人格を根拠にして権利の固有性が論証され

るわけではない。この点に関するブッフヴァルトの説明は十分とはいえない。

第二款  エヴァルト

権利化の限定

ブッフヴァルトの手法は、権利の定義から利益を切り離し、法的力を権利と理解する結果、すべての権限が直ち

に権利化することになる。しかし、権利の脱利益化を図る学説の多くは、権利を法的力と理解しつつも、それを直

(17)

一八五(都法五十五-二( ちに権利化するのではなく、そこに一定の限定を試みる。

例えば、ブッフヴゥルト以前の論者ではあるが、エヴァルトは次のように論じる ((

。機関が団体の権利を行使する

権限を有しているにすぎない場合には他者(団体(の任務(fremde Aufgaben(を遂行しているにすぎないから、そ の権限は単なる権利づけ(Berechtigung(にとどまり機関の権利とはいえない。これに対して、法が機関間コント ロール(Organkontrolle(を定めている場合には、その機関には固有の任務(eigenzuständige Aufgaben(が与えられ

ており、それが当該機関の権利を基礎づける。それは具体的には、ある機関の義務が団体の権利にではなく、他の

機関の権限に対応していることを指し、例えば当該機関に他の機関に対する不服申立ての権限が法律上認められて

いるような場合にのみ権利が認められることとなる ((

。逆に言えば、単に一定の任務と権限を与えられているだけで

は、それに対する他の機関からの侵害を排除する権利は認められない ((

。以上のようなエヴァルトの見解において重

視されているのは、法が定める機関間コントロールの仕組みによって団体内部の秩序を維持することであり、その

ために法的力(Rechtsmacht(が付与されていると彼は考える。

では、エヴァルトにおいて、利益の要素はどのように扱われているのか。彼は、機関の権利の問題において、利

益の要素にはほぼ意味を与えない。なぜなら、彼にとっては、そもそも個人的利益とは自然人だけが有するもので

あって、団体や機関のような自然人以外の者が個別的利益を有するとすれば、それはただ、法がその者を権利主体

としたことによって一般利益がその者にとって個別化される、というだけのことを意味するにすぎないからである ((

それを機関の権利について言えば、法秩序は﹁機関間コントロールを通じて、全体組織の法的秩序を維持するため

に﹂機関に権利を与えることができるのであり、﹁機関の﹁固有の﹂利益は、まさに、当該機関に与えられた任務

の引き受けから他の機関を排除するところにある﹂とさえ言われる ((

。つまり、組織内の法秩序を維持するために機

(18)

一八六

関に法的力が与えられていればそれがすなわち機関の権利であり、組織内の法秩序を維持すること自体が当該機関

の利益とされるのである。ここでは、法的力を付与されてそれを行使できることそのものから利益が導出される構

造になっており ((

、事実上、機関の権利にとって利益の要素は重要性をもたない。かくして、エヴァルトの立場は、

利益に言及はしつつもその内実は法的力こそが権利の決定的要素とされる、いわば﹁弱い利益説﹂と評される ((

ただ、いずれにせよエヴァルトの立場は、機関の権利を実定法上定められた特別の権限に依拠させるものであり、

ブッフヴァルトとは逆に、権限を権利となしうる場面が極めて限られてくることになる。この点、権限の権利化に

ついて理論的には一定の限定を付しつつ、結論としてはエヴァルトよりも権利化を広く認める見解が、次款で見る

ロートおよびディーメルトである。

第三款  ロート・ディーメルト

比較衡量と憲法的価値の算入 一  ロートもまた、利益説を批判し、利益は権利の目的(Zweck(であって、権利の内容(Inhalt(とは区別され

るべきであると述べる。利益を権利の内容としてその定義に含めることにまつわる主たる問題点としては、それが

個別化(Individualisierung(される必要があるとされていることに係る問題点と ((

、法によって便益を与えられる名

宛人(Destinatär(すなわち受益者と権利者とが必ずしも一致しないという問題点 ((

とが挙げられる。このような問

題点ゆえに、利益を保護することを目的として権利が認められる場合もあるが、利益の保護が権利の必然的な内容

とならなくてはならないというものではない ((

。逆に言えば、ロートにおいても利益の要素は決して無意味なもので

はなく、彼によれば、利益の有無によりそれが誰の権利なのかを決定することはできないが、権利の有無について

(19)

一八七(都法五十五-二( の指標(Indiz(にはなるとされている (((

その上でロートは、利益から切り離された権利を、﹁行使しうる内容を有し、原則としてすべての他者を排除し

た単独行使(Ausübung(をするために、そして必要な場合には主張(Geltendmachung(するために、法規に基づい て法主体に与えられた法である﹂と定義する (((

。ここで言う﹁行使﹂とは、法が権利の目的として定めるその内容の

ことを指し (((

、﹁主張﹂とは裁判上の請求も含め、義務者に対して権利の遵守を要求することを指す (((

。例えば、債権

者の権利とは、弁済を受領するという﹁行使﹂をその内容とし (((

、弁済がない場合には例えば催告や提訴という﹁主

張﹂をすること (((

が認められている権利である。このように権利は、その目的や内容がいかなるものであるのかとい

うこととは無関係に形式的に定義されることになり、それによって機関の権利を認めることが可能になるとされる (((

もっとも、ロートにおいても、機関の固有の権利を認めることによって一般利益が解体してしまうことへの危惧

は念頭に置かれている。しかしロートは、ブッフヴァルト同様、一般利益といえども所与のものとして決定されて

いるわけではなく、諸機関それぞれの異なった公共善構想(Gemeinwohlkonzeption(の競合を通じて団体としての 一般利益が確認されるという立場をとることで、ここでの機関の利益は﹁特殊の公益(öffentliches Partikularinteres-sen(﹂であり、それは一般利益を生み出すものであって、それと対立するものではないと説明される (((

二  しかし、権利の概念が以上のように定義されたからといって、ではどのような場合に権利が認められることに なるのか、という問題は残る (((

。ロートはこの点を次のように論じる。すなわち、立法者が権利を与えるかどうかは、

立法そのものと同様に (((

、個人的利益と一般利益とを比較衡量することで決定される (((

。つまり権利が与えられている

と解される場合には、義務者が義務を履行することに対しての権利者の利益だけではなく、それに対しての法共同

体の期待(gemeinschaftliche Erwartung(も考慮されているということになる (((

。そして、立法者の意思が明確でない

(20)

一八八

場合には、解釈者は、立法者が合理的な比較衡量をしたであろうことを前提に、権利を認めることによるメリッ

ト・デメリット(Vor- und Nachteile(を衡量して法を解釈し、権利の有無を決定しなくてはならない (((

。一般的に言

えば、法が主観化されることのメリットとして、権利者にとっては行為能力(Handlungsfähigkeit(が拡大し (((

、法共

同体にとっては法執行のリソースの限界を補って法の実効性を適切に確保できるという点が挙げられる (((

。逆に、デ

メリットとしては (((

、義務者にとってはとりわけ訴訟に係る手続的な義務や追加的な義務が発生することが挙げられ (((

法共同体にとっては、広く権利が認められることによって民衆訴訟的な状況が発生し、裁判所の負担が過剰になる

ことや (((

、法共同体自身による便宜主義的な法執行ができなくなる結果、場合によっては訴訟を通じた不合理な法執

行が避けられなくなることが挙げられる (((

さらに以上の一般的な権利論を機関の権利について敷衍すると、機関の権利を認めた場合には、機関の機能の適

正・権力分立原理・民主主義原理・多元的利益の反映といった諸価値が担保されるというメリットがある (((

。他方で

もちろん、機関の権利を認めた場合のデメリットも考えうる。しかし、第一に、権利を認めた場合に組織としての

機能力(Funktionsfähigkeit(や効率性が失われるというデメリットに対しては、これらの要請は絶対的なものでは なく、むしろ訴訟によって紛争を解決するほうが、後の組織運営にとってメリットになることなどが指摘される (((

第二に、濫訴による裁判所の負担増というデメリットに対しては、機関訴訟の場合、原告が機関であることから法

の適切な理解や濫訴への抑制が期待できるので、濫訴の懸念は大きくないなどと説明される (((

。さらに第三に、機関

の権利を認めることによって、法執行機関の便宜主義が失われてしまうというデメリットに対しても、機関訴訟の

場合には原告たる機関自身が一般利益を考慮するので問題はないという (((

以上のような立論の結果、機関の権限は原則としてすべて権利性が認められるということになる (((

。ただし、︱本

(21)

一八九(都法五十五-二( 章で言う機関訴訟での論点ではないが︱上級機関に対する下級機関の権利については、以上に述べたようなメリッ

トはほとんど見出されず、他方で一般的には比重の低かったデメリットがこの場合には大きくなるため、そのよう

な権利は認められないという例外がある (((

三  以上のようなロートの見解は次のように総括できる。すなわち、ロート自身が明確に指摘したように、彼の見

解は権利概念を脱利益化・形式化することにより、個人的利益を含意しない権利を承認することにつながる。その

点では、ケルゼンやブッフヴァルトが権利を法的力に純化した手法につながるものである (((

。しかし、ロートにおい

ても権利が無目的に与えられることにはならず、利益衡量の手法を通じて何よりも憲法的諸価値の実現が企図され

ていることに注意しなくてはならない。すなわち、機関の権利を認めることのメリットとしてロートが挙げる機関

の機能の適正・権力分立原理・民主主義原理・多元的利益の反映といった諸価値の重要性や権利承認によるその実

現可能性が、権利の有無の判定において決定的な役割を果たすことになる。

四  そして、機関の権利の承認による憲法的価値の実現という側面が前面に現れてくるのは、ディーメルトにおい ても同様である。ディーメルトも、一般的に利益概念自体が不明瞭である点を批判するだけでなく (((

、さらに利益概

念が内部法においては機能しないことを指摘し (((

、結論として、外部法における権利か内部法における権利かを問わ

(((

、利益ではなく法的力(Rechtsmacht(こそが権利であると述べる (((

。彼によれば、利益とは権利付与の結果とし

て保護されるものにすぎない (((

では、ある主体に法的力としての権利が認められるのはどのような場合か。ディーメルトによれば、まず、少な

くとも機関が固有の責任(Eigenverantwortlichkeit(をもち、その任務を独立して(selbständig(引き受けているこ

とが必要である。裏返して言えば、ヒエラルキー組織に組み込まれている機関には、そのような法的力が与えられ

(22)

一九〇 ていると解釈する余地はない (((

。その上でディーメルトは、ロートの立場を踏襲し比較衡量の手法をとる (((

。ただ、ロ

ートと比較した場合のディーメルトの特徴は、その比較衡量に基本権を算入する点である。すなわち、地方議会議

員の権利については、地方公共団体の意思決定に係る組織・手続を通じて、当該地方公共団体の住民が有する参政

権としての基本権を (((

保護するという観点 (((

をも考慮してその有無が判断されることになる (((

以上のように、ブッフヴァルト、ロート、ディーメルトは、機関の権利にとどまらず、権利一般についてそれを

脱利益化・形式化することで再構成し、それによって機関の権利を認めるという手法をとる。これに対して、機関

に関しては権利一般とは異なった構成を試みる論者がいる。

第四款  エリヒゼン・クレプス

脱利益化と差異化 一  エリヒゼンは機関訴訟の根拠を、利益と結びついた権利概念ではなく、内部法における防御的地位(wehrfähige Position des Innenrechts(に求める (((

。彼によれば、そもそも利益と結びついた権利概念自体が外部法のものであって (((

内部法の領域においては機関の利益を観念する余地がないから権利の成立は認めがたい (((

。しかし他方で、行政裁判

所法四〇条一項が、憲法上の争訟以外の公法上の争訟について行政裁判所の管轄を認めていることからすれば機関

訴訟も認められなくてはならないため (((

、権利以外の何かに依拠させて訴訟を根拠づける必要があり、そこで持ち出

されるのが内部法における防御的地位である。とはいえ、権限を有する機関すべてにその防御的地位が認められる

わけではない。それが認められるのは、権限を独立して引き受ける(eigenständige Wahrnehmung(場合、すなわち、 上級機関からの拘束を受けずに、決定形成に対して固有の参与をする(eigener Anteil an der Entscheidungsbildung(

(23)

一九一(都法五十五-二( 権限が認められている場合に限られるという (((

二  エリヒゼンと相前後して、クレプスも同様に、外部法における権利は利益保護を目的とするものであるとし (((

他方、機関の利益は権利を基礎づける個人的利益とはいえないことから (((

、機能の引受けの固有性(Eigenständigkeit der Funktionswahrnehmung(を根拠に機関の主観化された地位(Versubjektivierte(Organ-(Rechtsposition(を認める としても、それは権利と呼ばれるべきものではないとする (((

以上のようなエリヒゼンおよびクレプスの見解は、権利概念と利益との結びつきは維持した上で、団体内部にお

いてはそのような利益の存在を否定しつつ、しかしそれでもなお、権利とは異なった、機関の主観的な地位に基づ

いて機関訴訟を認めようとする立場である (((

。つまり権利一般については利益説をとりつつ、機関については脱利益

化された地位に依拠することで、権利と権限の差異化をはかっていることになる。もっとも、当然のことながら、

権利とは区別されるこのような主観化された地位が、どうして権利と同様に訴訟を基礎づけることができるのか、

という点が明らかにされていないことに対しては批判がある (((

第四節  利益志向 第一款  ホッペ

機関の利益の否定

前節で見たように、機関の権利を肯定する場合には、それが機関の利益を保護するものであるとは考えないこと

によって機関の権利を脱利益化するという方法がある。しかし、もともと権利とは利益の保護が目的であるとされ

(24)

一九二

てきたことから、権利をあくまで利益に係留しつつ、それでもなお機関の権利を承認しようとする立場がある。学

説上それは、第三款以降で見るように、﹁対照機関﹂の概念を梃子としてなされることになるが、その前提として

本款では、利益説をとった上で、機関の権利を否定するホッペの説を検討しておく。

一  ホッペは次のように述べる。すなわち、外部領域における法が個々の法的地位を区別し、それを保護すること を目的とするのに対して (((

、内部領域における法の役割は、諸勢力(Kräfte(を円滑な分業的機能運営(arbeitsteiliger Funktionsablauf(へとまとめあげること(Zusammenordnung(にある (((

。したがって、そこに見出されるのは、この

分業過程が滞りなく運営されていくことについての組織全体が有する単一の共通利益である (((

。もし団体内部におけ

る個々の機能主体(機関(の個別的利益を認めてしまうと、単一であるはずのこの共通利益が分裂し、円滑な機能

運営が阻害されることになる (((

。かくして、団体自体は機関の運営について利益を有するが、団体内部での利益対立

を認めることはできないので個々の機関は固有の利益を有しない (((

。したがって、民事法の領域においては個々の利

益を区分して(begrenzen(それを保護するための概念として権利が用いられるが、行政組織の内部領域において は諸勢力をまとめあげるための概念として権利を構成しなくてはならない (((

。このように、ホッペは利益説をとった

上で (((

、権利を基礎づける利益として特殊利益を念頭に置きつつ、しかし一般利益が特殊利益へと解体していくこと

への懸念から機関の固有の利益を否定し、機関は、当該機関に権限を与えた団体との関係で義務主体となるにすぎ

ないと論じる (((

。逆に言えば、ホッペにとって権利の主体となりうるのはあくまで法人たる団体自身のみである。も

ちろん団体は、通常、外部法の領域においても権利主体として法関係に入りうるが、それとは別に、内部法関係に

おいても内部法における権利主体として機関との法関係に入ることになる (((

以上のようなホッペの実体法上の構成に対しては、次のような批判がある。すなわち、一方では機関に義務のみ

(25)

一九三(都法五十五-二( を認め、他方で権利はもっぱら団体にのみ認めるのは一貫しないのではないか、という批判である (((

。この批判説か

らすれば、機関に義務だけではなく権利も認めて機関間の権利義務関係を想定するか (((

、逆に、権利のみならず義務

も団体が担うと考えるか、いずれかの構成をとらなくてはならないところ、もし後者の方法をとった場合には権利

と義務とが同一人に帰属するという問題が生じるので (((

、結局前者の方法しか残らないはずであるということになろ

(((

しかし、むしろホッペは、まさにそのような問題を意識したからこそ、外部領域における法や権利とは別に、内

部領域における法や権利を構成したのである。すなわち、たしかに外部領域においては権利も義務も団体のみが担

うのであるが、内部領域においてはそれとは別の論理を意識的に採用することで、機関には団体に帰属しない義務

があり (((

、他方でしかし機関には固有の利益がないので権利は認めない (((

、という図式が可能になる。ホッペに対する

先の批判は、外部領域と内部領域とで同一の法構造をとることを暗黙のうちに前提とするものであって、以上のよ

うなホッペの意図を正解していない。そして、相対的人格論をとれば、団体が対機関との関係で内部的な人格を有

するというホッペの考え方もありうるものと思われる (((

二  かくしてホッペの構成にあっては、実体法上、権利を有する団体と義務を課された機関とが対置されることに

なるが、しかし、一般に団体の有する権利は機関によってしか行使されえないので、円滑な分業的機能運営を求め

る団体の権利を行使する機関がいずれの機関なのかという点が問題になる (((

。これを特定しない限り、いずれの機関

であっても法人の権利を行使することができることになってしまうからである (((

。このような民衆訴訟的状況を回避

するため (((

、ホッペによれば、団体の有する権利は円滑な分業的機能運営を保護するためのものであるから、ある機

関の義務違反によって自らの権限行使を妨げられた機関、ホッペの表現によれば干渉を受けた((mit-(betroffen(

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