近世後期から明治初年における遠江国神職の蔵書傾 向 : 敷知郡宇布見中村家の蔵書の内容とネットワ ークの分析
著者 松尾 由希子
雑誌名 静岡大学教育研究
巻 8
ページ 1‑18
発行年 2012‑03‑15
出版者 静岡大学大学教育センター
URL http://doi.org/10.14945/00006619
近世後期から明治初年 にお ける遠 江 国神職 の蔵 書傾 向 一敷知郡宇布見中村家の蔵書の内容とネットワークの分析一
松尾
由希子 (静 岡大学大学教育センター
)は じめに
本稿の 目的は、近世後期か ら明治初年の移行期 における遠江国の神職の家の蔵書傾 向に ついて、書籍の内容及び蒐集のネ ッ トワークに着 目して、検討す ることにある。題材 とし て、現存す る中村家の蔵書 と蔵書に押 された印 (蔵 書印 )を 用いる。書籍の内容か ら、神 職の学問や教養の具体的な内容について、蔵書印か ら書籍蒐集 をとりま く中村家のネ ッ ト
ワークについて推測す ることができる。
今 日、近世の書籍 をめ ぐる研究は盛んに行なわれている。家に所蔵 された書籍 (蔵 書
)については、 1990年 以降に、村役人や医家、神職な どの地域の指導者・知識人の家に残 さ れた蔵書の存在が指摘 され、その書籍の内容について報告 され るよ うになった
0。家の蔵書 研究が課題 としてきたことの 1つ に、家人の学問や教養がある。 これまで、庶民の学習に 関す る先行研究は、主に手習塾や私塾 とい う教育機 関を事例 にとりあげてきたため、家の 書籍 を題材 とす ることは新 しい試みであつた。ただ し、蔵書の存在は、そのまま家人の読 書や学習につなが らない。 この課題 を補 うために、今 日では家人の学問習得や教養形成 を 実証す る場合、蔵書の存在 に加 えて、実際に家人の読書を示す史料、例 えば 「読書 日記」
や書籍への書き込みなどの史料を合わせて分析 している
"。
2つ に、書籍の蒐集 をとりま く ネ ッ トワークである。地域の知識人の存在 ⇒や家業 (職 務 )と の関連 のが指摘 されてきた。
他にも蔵書をもつ家が地域に果た した役割 →や家の蔵書による家人の家業意識の形成 0に つ いて明 らかになつている。
本稿では、中村家の蔵書を題材 に して、 1.書 籍の内容か ら中村家の学問・教養の特徴、
2.蔵書印か ら書籍蒐集 をとりま くネ ッ トワークについて検討す る。上でも述べたよ うに、本 来であれば、読書を示す史料を合わせて検討す る必要があるが、対象事例の書籍の点数が 多いため、先に本稿において蔵書傾 向 としてま とめたい。
事例 として、遠江国敷知郡宇布見 (現 静岡県浜松市西区雄踏町宇布見 )の 神職 中村家 を とりあげる。主な史料は、中村家の家人が近世後期か ら明治 8年 (1875)ま でに蒐集 した 書籍
(「中村家文書」浜松市博物館寄託 )約 550点 1100冊 である。 中村家は、代々宇布見 で神職 を襲職 し、士族 との関わ りも深い家であった。本稿では、書籍蒐集 の時期 として明 治 8年 で区切つている。明治 8年 は、中村家の蔵書形成に強 く関わつた と考えられ る 29代
当主東海 (1835〜 1922)が 、中村家に養子入 りした年である つ。別稿において、中村家の蔵
書形成について東海の養子入 りに焦点をあてて検討す るため、本稿でも明治 8年 で区切 つ
た。
1中 村家 の由緒 と特徴
(1)敷 智郡雄踏村宇布 見 について
中村家 の所在地である敷智郡宇布 見村 は、近世 において浜松藩・ 吉 田藩・ 幕府 の支配 下 にあつた。「雄踏 町沿革史遺稿」めによる と、明治維新前 の宇布見の石高は、 1518石 5斗 4 合である。その内訳 は、浜松領 (井 上河 内守所領 )400石 、幕府直轄 (中 泉代官所宰領 )900
石余 り、吉 田領 (現 豊橋、松平伊豆守 )160石 となっていた。
明治以降になる と、明治 4年 (1871)11月 に廃藩置県の令 が出て、宇布見村 は山崎村 と ともに浜松県の管轄 にな り、第 11大 区 19月 ヽ 区 と称 し、区長、戸長行政 を執 ることになっ た。明治 8年 (1875)、 第 11大 区 18小 区に変更 し、区長及び副戸長 をおいて村政 を執 つた。
明治 9年 (1876)に な り、浜松県 は、静 岡県の中に統合 され た
9。(2)中 村家の特徴
「中村家由緒書」 10や 「遠江国雄踏宇布見 中村家」
11)に記 された当主の履歴 か ら、中村家 の特徴 をま とめたい
1'。図 1は 、中村家の略系図である。「家」 10に とつて特徴的な履歴 を もつていた り、蔵書形成 に関わつた りしてい る当主 を中心に作成 した。
中村家 の初代正範 は、三河守範頼 (源 頼朝 の弟 )の ′ 息子 で、大和 国 (現 奈 良県 )に 居住 した。 7代 正清 は、大和国ぼ緩 ボ 中村郷 (現 奈 良県北葛城郡 )に 住み、唐院城 主であった とされ てい る。その後、中村家 の子孫 は足利義満 に太刀 な どを賜 つた り、文明 13年 (1481) に今川 上総介 に招聘 され て遠江 国磐 田郡 土橋公 に米地 な どを賜 つた りしてい る。家人 の武 功 によつて敷智郡宇布 見、和 田、平松 、 山崎、大 白須 な ど 「五 ヶ荘」 (五 郷 )を 賜 った とい う。 そ して、文明 15年 (1483)に 宇布見 に移住 した。 16代 正継 は、駿河 国松枝城 主穴戸 新左衛 門の二男 で、 中村家 に養子入 りした。今川 家 に仕官 したために今川家 が治 めていた 駿府 に居住 したが、勤 めあげた後 は 「米大明神補任神 主職 」 に就 いた。米神社 (息 神社
)とは、宇布見 にある神社 であ り、 中村家の屋敷近 くにある。 17代 光貞 も米神社 の嗣官 を襲 職 し、今川家 に仕官 し、「領主今切船支配」 についてい る。
近世 において、遠江国での中村家の位 置づ けを確 固た るものに したのが 18代 正吉の代 と 考 え られ る。徳り
│1家康 と正吉の関係 をみてい く。家康 は、元亀元年 (1570)か ら天正 14年
(1586)に かけて、浜松城 主 を勤 めた。永禄 11年 (1568)3月 に、徳り
│1家康 がお忍びで中
村家 に立寄 り、 1泊 した といわれてい る
10。さらに、家康 が浜松城 主時代 である天正 2年
(1574)に 、 中村家で家康 の二男於曇夕 (後 の結城秀康 )が 誕生 した とい う
10。この こと
を受 けて、 中村家 は、初代福井藩主秀康 の福井松平家 (秀 康 の二男 の子孫 )に 加 え、美作
津 山藩松平家 (秀 康 の長男 の子孫
)、浜松藩主 に御 目見 を許 され 、金銀 な どを下賜 されてい
た
10。結城秀康 の誕生や胞衣塚 については、さま ざまな由緒書 に記 されてい る。その中の 1
正
□大 経 和 国 広 瀬 郡 唐 院 郷 領 主
用 Ш
大 正 和 国 広 瀬 郡 中 村 唐 院 城 両 主 奉 仕 正
・ 士 永 禄 十
・ 家 康 一
︵ 内 藤 家 よ り 養 子
︶ 口 H 閣 四 2 人 三 五
︲ 一 九 壬 じ 東 海
︵実 父
︶ 宇 布 見 村 金 山 大 明 神 神 主 賀 茂 直 博
︵室
︶ 大 館 二 女 屋 穂 ヽ 娘 杵 の 婿 新 所 村 庄 屋 伊 藤 常 次 郎
一 年
︑ 徳 川 家 康 泊 一 男
︵ 結 城 秀 康
︶ 誕 生
正 実
正 継
︵ 実 父 ︶ 今 川 上 総 介 か ら 招 聘 さ れ る
︵ 土 屋 家 よ り 養 子 ︶ 目 目 旧 旧 幽
︵ 一 七 七 九
︲ 一 人 四
︶ 二 亀 年
︵ 実 父 ︶ 志 都 呂 陣 屋 代 官 土 屋 条 右 衛 門
︵室 ︶ 大 館 伯 母
︵宍 戸 家 よ り 養 子
︶ 駿
河 国 松 枝 城 主 宍 戸 新 左 衛 門
・ 駿 府 在 勤
・ 米 大 明 神 仕 補 神 主 職 兼 天 神 社 長 ︵ 谷 川 家 よ り 養 子 ︶ 同 目
Ⅲ 閣 幽
︵ 一 人 三 一
︲ 一 人 八 九
︶ 大 館
︵ 実 父 ︶ 遠 州 豊 田 郡 川 袋 村 水 神 官 神 主 長 谷 川 虎 次 郎
光 貞
︵ 室
︶ 今 川 家 旗 本 高 橋 孫 郎 六 延 清 女
・ 米 大 明 社 神 主
・ 宇 布 見 領 主
図
1中村 家 略 系 図
「遠江国雄踏村宇布見中村家」「中村家」「
(長谷川家 )親 類書」
(全て「中村家
文書」 )及 び『負け犬の系譜』より作成
つ を以下に記す。
……十人世正吉徳り
│1家康公本 国打入 ノ先導 卜為 り功 ア リ侃刀賜銘 日天賜海別御代官兼
軍船奉行 トナル、「天正元 峰
)」公 ノ側室永見氏娠 メル公密 二之 ヲ正吉二託 「シ本多重
次護 響 ス」セ シム、既 ニシテ○ 閻 三年二月八 日分娩男 ヲ産 ム」分娩男 ヲ生ム、
是 ヲ越前 中納言秀康卿 卜為 ス、正吉之
.ヲ鞠 「養 」育スル コ ト三歳 、公 其忠烙 ヲ嘉 ミシ 葵紋附小柄竿及 時服 ヲ賜テ之 ヲ賞ス、越前作州 二侯倶 二卿 二出ル ヲ以テ作丼侯乃チ 正 吉子孫 「正」 ヲ禄 シ世 々津 山藩籍 二
(2列シ傷 ホ本 土二在 テ卿 ノ産 土 「氏神 」天神社
「宮祠官」「兼初テ」及産所胞衣塚 ヲ護学兼テ 「ス」祠害夕手シム 、越前侯モ亦世禄百 石 ヲ給 ス、明治 〔 空欄〕目 華族禄制改正ニ ヨリ世襲 ノ家禄廃セ ラル、爾来差圭 「松平 家氏神」天神社及産所胞衣塚保護科 トシテ松平 両家 ヨリ金弊若千年 々贈与 「ス」有ス 、
(「
中村東海履歴」
1つ)中村家 は、延宝 6年 (1678)か ら庄屋 を勤 めた
10。その間、浜松藩主への 「独礼」 を許 された。「独礼」 とは、年頭 な どにおいて藩主 に単独 でお 目見できるものであ り、庄屋 の格 式 を表す。正保 0承 応 (1645〜 1654)の 頃に独礼庄屋 であつたのは、有玉村高林家、万斜 村鈴木家、伊場村 岡部家、笠井村 山下家であつた。延宝 7年 (1679)に は、 中村家の当主 も独礼庄屋 として藩主に挨拶 を した とい う記録 が残 つてい る
10。美作津 山藩主松平三河守 には面謁 を賜 り
20、士分格 で あった。
以上、近世 において 中村家 は米神社 の嗣官 を襲職 し、庄屋 を勤 め、士分格 であるとい う 特徴 をもつていた。
2
蔵書形成 に関わつた 中村家 の家人
ここでは、蔵書形成 に関わつた と考 え られ る中村家 の家人 について、履歴 をま とめる。
蔵書形成 に関わった根拠 として、書籍へ の書 き込みがあげ られ るも書籍 には、持 ち主や写 本 の作成者 の名前が書 き込 まれ ることがある。 中村家の蔵書 には、 この よ うな書 き込みの ある書籍 がある。 また、学習履歴や教育履歴 か ら蔵書形成 に関わつた可能性 のある家人が 存在す る。以上の観 点か ら、近世 か ら明治 8年 にか けて中村家 の蔵書形成 の中心であった
と推測できるのは、 27代 亀年 、 28代 実衡 、 29代 東海 である。
(1)27代 亀年 (1779〜 1841。 別称 は亀正、準之助 、源左衛 門
)亀年 は、寛政 12年 (1800)に 土屋家か ら中村家へ養子入 りした。実父 は志都 呂陣屋 の代 官土屋条右衛 門であ り、二男 にあた る。亀年 は、国学 を学んでいた
2つ。また、 天保 2年 (1831)、
29代 当主東海 の兄である山本金木 (1826〜 1906)は 8歳 になつた時に、亀年 の もとに入 門 して字 を習 つた とい う
2"。この よ うに、亀年 は国学 を学びなが ら、地域 の子 どもの教育 に も携 わつていた。
(2)28代 笑話 (1821〜 1889。 別称 は、貞則 、源左衛 門
)中村家の蔵書 の中には大館 の書 き込みが確認 で きる書籍 がある。書籍 の内容 は作法や武 術 に関わるもので、相伝 の書 である。
大館 は、天保 12年 (1841)に 長谷川家か ら中村家へ養子入 りした。天保 13年 (1842) に出府 し、津 島美作藩主斎民の もとへ家督継 の挨拶 に出向いた
23)。大館 の実家 の長谷川家 は神職 に就 く人が多い家であった。天保 15年 (1844)に 大館 が作成 した 「親類書」
2のによ る と、父 は遠江 国豊 田郡川袋村 (現 静 岡県磐 田市川袋 )の 「水神宮神主」長谷川虎次郎 、 伯父 は遠江 の 「四十六所大 明神神 主」桑原石見、い とこも川袋村 で神職 に就 いてい る。母 は 「水野越前守家 中拝嚇纏殿 」の妹 で ある。拝郷 は、文政元年 (1818)浜 松藩主だった水 野忠邦 の家老である
2→。長谷川家 も中村家 と同様 に、浜松藩 とも関わ りのある家であるこ
とがわか る。伯母 は、中村源左衛 門 (27代 亀年 )の もとに嫁いでい る。その ことが縁で、
大館 は中村家の養子 になつた もの と考 え られ る。
大館 の孫 である正鞘 が、明治 14年 (1881)に 作成 した 「中村大館小伝 」 20及 び 「遠江国 雄踏村宇布 見 中村家」
2つによ り、大館 の学問習得 の概 略がわか る。大館 は算術 に詳 しく、和 歌 を石川依平 (1791〜 1859)に 学び、国学 を平 田鐵胎 L(1799〜 1880)に 学んだ。石川依平 は、遠江国小笠郡東 山 口村 (現 静 岡県掛川 市東 山 口 )に 生 まれ 、本居春庭 に入 門 し、同国 の国学者栗 田土満や加納諸平 らとも親 交があつた。掛川藩 主は、石川 の学芸 を賞 し、終身 二人 口の給米 を下賜 した とい う。 門下生 は 300余 人いた といわれ る
29。門人帳 「橿之本 門 人姓名録全」 (浜 松市立 中央 図書館所蔵 )に よる と、大館 の石川へ の入 門は嘉永 3年 (1850) である。平 田に入 門 したのは慶應 2年 (1866)で あ り、三河 国の神職羽 田野敬雄 の紹介 で 入 門 してい る
29。幕末 には報 国隊に入 り、奔走 した。報 国隊 とは 「慶應 四年 (1868)二 月倒幕軍の東 下 に あたって遠州浜松・磐 田を中心 として結成 され た神官層 を主体 とす る民兵隊」
3のとぃゎれて い る。 隊員 は 300名 を超 え、そのほ とん どが神職 だつた とい う。 国学や和歌 を学ぶ社 中の 一部が隊員 となつていた。
(3)29代 東海 (1835〜 1922。 別称 は正恵、山城 、出雲、延光 な ど
)中村家 には、東海 が作成 した写本や入手 した刊本が多数残 されてい る。
東海 は賀茂家 に生まれ、内藤家 に養子入 りし
3つ、明治 8年 に中村家 に養子入 りした、実
家で ある賀茂家 は、代 々宇布 見村 の金 山彦神社 の嗣官 を襲職す る家 であ る。後継 ぎ以外 の
兄弟 は、別 の神職 の家へ養子入 りしてい る。
1度 目の養子先 である内藤 家 は、新所村 (現 静 岡県湖西市新所 )に あ り、代 々人幡官神社 の嗣官 を襲職 してい る家だった。神職 に就 く以前、内藤家 7代 と 8代 (1724〜 1804)は 三 河 国吉 田藩主松平豊後守饗り に仕 えていた
32)。元文 5年 (1740)か ら寛延 2年 (1749)に
か けて浜松遷城 になつた ことで、資訓 は浜松 に住 む ことにな り、内藤 家 の当主 も浜松 にい た。 しか し、宝暦 8年 (1758)、 資訓の′ 息子饗首が丹州宮津城替 になった ことで、内藤家 8 代 当主は辞任 して神職 に就 いた。 10代 (1795年 生 )の 娘 は、「吉 田家 中飯塚森左衛 門」 に 嫁いでい る。 この よ うに、神職 を襲職す る家であるが、士族 とも関わ りのある家だった。
東海 の芸及 び学問歴 についてま とめる。「中村家の由緒・ 中村東海 の履歴」
3めに よる と、
弓道 、詠歌、俳諧、国学 を学 んでいた ことがわか る。
弓道 については、 日置流雪荷派 に属 してい る。 日置流 は、大和 の 日置弾正正次 の始 めた ものであ り、その流れ を汲む ものに吉 田流・ 日置流雪荷派 0日 置流 印西派 な どが あ り、遠 江では主 に雪荷派・ 印西派が主流であった とい う
3の。雪荷派の系統 によると、東海 の実父 が中村正常 (本 事例 の中村家の分家
3∂)の 門人であ り、東海 は実父 の弟子 になる
30。雪荷 派 には、宇布 見の人 も多数 み られ るこ とか ら、地域 の指導者や知識人 の間に普及 していた 武芸 である と推測 で きる。近世 において、遠江 国各地 の神社や仏 閣及 び 弓術家 の屋敷 には 矢場 が設 け られ、特 に神社 では奉納 の競射会 が盛 んに行 なわれ た とい う。競射会 は、神事 とは異 な り、2日 にわた る神社 め祭典 であ り地域 の同好者 が矢場 に集 ま り、終 日射 的 を競 う ものだった
3つ。 この よ うな特徴 か ら、弓術 はただの芸ではな く、同 じ地域 で弓術 を してい る人 たち と親 交 を深 めるための ものであ り、神職 として も必要 な教養 であつた とい えるだ ろ う。岩崎鐵志氏 は、弓術 の社会的機能 として、神事や競射 をあげてい る
30。国学 を学ぶ過程 で、和歌 を詠む こ とも多 くなるため、東海 の詠歌 は国学 と関連付 けるこ とができる。国学 については、羽 田野敬雄 (1798〜 1882)と 平 田鐵胤 の もとで学んでい る。
羽 田野 は、三 河 国羽 田人幡宮 の嗣官 で、本居 大平 (1825年 に入 門 )及 び平 田篤胤 (1827 年 に入 門 )に 学 んだ人物 である。羽 田野 は、多 くの人 を平 田に取 り次 いで、平 田門人 を増 や していた。東海 もその一人であ り、慶應 2年 12月 に、平 田に入 門 した
30。内藤家 を継 い でいた慶應 4年 (1868)に 、東海 は大館 と同様 に、報 国隊の一員 として活動 していた
40。2人 の報 国隊の活動 の背景 に、神職や平 田門人 とい う共通点が うかがえる。
俳 諧 については、現段 階 において東海 の具体的な学習履歴 を示す史料 をみつ け られてい ない。しか し、三河 国の俳人佐 野蓬宇 (1809〜 1895)の 交友人名録 「蓬宇連句帳十五偏
人
止」
4つの中に東海 の名前 を確認す るこ とがで きる。
以上、中村家の蔵書形成 に関わつた と考 え られ る 3代 の当主の履歴 をみてきた。 3人 に共
通す るのは 3点 である。 1つ は、養子 として 中村家 に入 つた点である。大館 と東海 について
は、実家 も中村家 同様 に神職 を襲職 して きた家で あ り、兄弟や親せ き も他家へ養子入 りし
て神職 についていた。 2つ は、実家やその前 の養子先 が士族 と関わ りのある家であった とい
う点である。 3つ は、国学 を学び、弓術 を していた とい う点である。大館 と東海 については、
平 田に入 門 し、平 田鐵脂 Lに 学んでい る。家業や家 の 由緒、学 問の内容 とい う点で共通 して いた。 3人 は別 々の家か ら中村家へ養子入 りしてい るものの、必要 としていた学問や教養 は 類似す る と考 え られ、その結果 、蒐集す る書籍 も共通 していた と推測できる。
3中 村家 の蔵書傾 向一 内容 とネ ッ トワー ク
ここでは、明治 8年 までに中村家が蒐集 した書籍 について、書籍 の内容 と書籍蒐集 を と りま くネ ッ トワー クについてま とめ る。刊行年や筆写年や書 き込みか ら、明 らかに明治 8 年 よ り後 の蒐集 であるものは対象 か ら除いたが、明治 8年 以前 に蒐集 した書籍 と蒐集年 が わか らない書籍 については分析対象 としてい る。書籍 は、例 えば 「出定笑語」 とい う書籍 が 4冊 存在す る場合 、 1点 4冊 と記載す る。分析対象 の書籍 は、約 550点 1100冊 である。
(1)蔵 書の内容
① 内容
内容 によって分類 で きたのは 405点 884冊
(うちわけは干 J本 223点 527冊 、写本 180点 217冊 、刊本 0写 本 492点 140冊 )で ある。刊本 と写本 の割合 については、刊本が写本 よ
りも多い傾 向にある。
中村家 の蔵書の内容 について、表 1に ま とめた。 まず、書籍 の内容 を示す 「内容」の項 目をみ ると、多い点数 か ら、「神道」 29点 52冊 、「国学」 27点 70冊 、「名鑑 」 22点 28冊 、
「弓術」 19点 23冊 となる。「ネ 申道」「弓術」は中村家 の家業である神職 に関わ り、「国学」
は家人 の学問に関わ り、「名鑑」 は士族 との関わ りが うかが える と同時に、村役人 として必 要 な情報 だつた と考 え られ る。
次 に、表 1の 「分類」の 「国学」「漢学」「歴史」「神職」をとりあげる。国学に関わる内 容
(「国学」「不口歌」な ど )は 、 95点 223冊 (実 質点冊数
)、漢学 に関わる内容
(「漢学」「漢 詩」な ど )26点 38冊 、歴史 に関わ る内容
(「名鑑」「武家故実」な ど )88点 317冊 (実 質 点冊数
)、神職 に関わる内容
(「神道」「弓術」な ど )79点 114冊 で ある。家業で ある神職や 家人が学んでいた国学 に関す る内容 の書籍 が多い。「歴史」は、神職 に必要 とされ る知識 で あ り、国学 にも関わ る内容 である。 また、「家」の由緒 にも関わ るため、村役人が所蔵 して い ることが多い。「漢学」の書籍 も存在す る。現段階で、中村家の 27代 か ら 29代 の当主の 学習歴 がわか る史料 の 中に、漢学 はあがっていない。 しか し、記載 がない こ とで学 んでい なかった とは考 えに くい。 なぜ な ら、一般 的に近世 において村役人 を勤 める家 の人 は、ま ず漢学 を学ぶか らである。漢学 を基盤 に して、次 の学 問、例 えば国学 な どを学 んでい く。
したがつて、中村家 の当主の学習歴 に漢学 はないが、実際は学 んでいた と考 え られ る。 中 村家 の蔵書 中の漢学書 の存在 か ら、家人 の漢学 の学習 を うかが うことがで きる。 ただ し、
全書籍数 に しめる漢学の′ 点数冊数 の割合 は、少 ない。
分類 内 容
干」本 *
写 本* 干」コ に **
写 木**
合 計 備 考国 学
95月
=22311
(実
質 点 冊 数
)国 学
9点 43冊 17点 26冊 1点 1冊 27点 70冊
刊口 写 1点 3冊 が、のべ数 としてそれぞれ含まれ るハ
春ロヨ欠 61ミ23綱平
7点 9冊 131=321冊
地 誌2点 2冊 5点 5冊 2点 3冊 12点 14冊
歌 集
6点 15冊 5点 7冊 11点 22冊
有 職 故 実 2点 2冊 5点 5冊 1点 1冊 8点 8冊
語 学
5点 10冊 1点 1冊 6点 11冊
紀 行
3点 7冊 3点 3冊 6点 10冊
物 語
3点 27冊 3点 27冊
思 想
3点 9冊 3点 9冊
和 歌 注 釈 3点 8冊 3点 8冊
語 彙
2点 3冊 2点 3冊
歌 学 2月鼠91■
2点 9冊
歌 文 集 2点 6冊 2点 6冊
和歌 漢詩 1点 1冊 1点 1冊
漢 学
26』
黒 3811
漢 学
12点 19冊 12点 19冊
漢 詩
8点 12冊 8点 12冊
漢 詩 文 3点 4冊 3点 4冊
;墓言奉禾□歌
2点 2冊 2点 2冊
漢 文
1点 1冊 1点 1冊
歴 史 88点 317冊 (実 質点冊 数
)名 鑑
22点 28冊
22』ヨ281■武 家 故 実
151量2011
151黒201■記 録
7点 143冊 3点 139冊 10点 282冊
干り ・写 1点 137冊 が、の べ数としてそれぞれ含ま れる
1涌 申
6点 38冊 2点 2冊 81=4011
伝 記 51ヨ
2311 2点 4冊 7点
271冊雑 史
1点 1冊 5点
91■6点 10冊
兵 法
1点 1冊 3点 5冊 4点 6冊
戦 記
3点 3冊 1点 1冊 4点 4冊
系 譜
2点 5冊 2点 5冊
雑 記
1点 1冊 1点 3冊 2点 4冊
法 制 注 釈 2点 15冊 2点 15冊
陵 墓
2点 2冊 2点 2冊
史 論
1点 6冊 1点 6冊
考証雑 記 1点 2冊 1点 2冊
考 証
1点 1冊 1点 1冊
通 史 注 釈 1点 1冊 1点 1冊
名 鑑 武 鑑 1点 1冊 1点 1冊
神職 79点 114冊
神 道
18点 41冊 6点
引冊1点 1冊 4点 4冊 29点 52冊
弓 術
1点 5冊 15点 15冊 3点 3冊 19点 23冊 甕吾〒巳 1点 1冊 7点 7冊 5点 5冊 13点 13冊
神 社5点 8冊 4点 4冊 1点 1冊 10点 13冊
神 祇
2点 2冊 2点 2冊 4点 4冊
神 道 日蓮 1点 5冊 1点 5冊
祝 詞
1点 1冊 1点 1冊
祭 礼
1点 1冊 1点 1冊
祝詞 注釈 1点 2冊 1点 2冊
俳 諧
4点 8冊 1点 1冊 2点 2冊 2点 4冊 9点 15冊
文 書
9点 9冊 9点 9冊
辞 書
6点 18冊 2点 2冊
81ヨ201■注 釈
5点 6冊 2点
釧冊7点 9冊
医 学
3点 4冊 4点 4冊 7点 8冊
教 訓
2点 2冊 1点 1冊 1点 1冊 4点 4冊
随 筆
1点 14冊 2点 2冊 3点 16冊
茶 道
2点 4冊 1点 1冊 3点 5冊
歌 謡
2点 3冊
1点1冊 3点 4冊
表 1 中村家の蔵書の内容
中村家
1.「
内容」は、 『 国書総 目録』の分類基準による。
2.「
刊本
*」「写本
*」は、 『 国書総 目録』の「分類」に記載のあつた書籍である。
3.「
刊本
**」「写本
**」は、書籍名がついていなかうたり、 『 国書総 目録』の「分類」に記載のなかったりする書籍である が、内容をみて、著者が分類した。
4.「
分類」は、著者の基準で「国学」 「漢学」 「歴史」 「神職」としてまとめた。例えば、 「神職」の場合、神職として必要と考 えられる知識や教養を 「内容」から抽出した。
ヽ
明治 に入 つてか ら蒐集 した書籍 には、「英語」や 「楽譜」、「水産」 とい う内容 の もの もみ られ るよ うになつた。新 しい時代 に対応 しよ うとす る家人 の態度 が うかがえる。
以上、比較的点数 冊数 が多い書籍 について述べて きた。一方 で、点冊数 に関わ らず 、内 容 の種類 に着 目す る と、表 1の 「内容」は 100種 類 に及 んでい る。蔵書の内容 は、国学、
神職 、歴史 に関わる書籍 を中心 としなが ら多様 な内容 をそ ろえていた とい える。
②著者別
書籍 を著者 に よ り整理す る と、 1番 多いのは平 田篤胤で 29′ ほ 79冊
(うちわけは刊本 17 点 67冊 、写本 12点 12冊
)、2番 目に多いのは本居宣長 で 12点 27冊
(うちわけは刊本 9 点 21冊 、写本 2点 3冊 、刊本・写本 1点 3冊
)、3番 目に多いのは羽 田野敬雄 で 7点 8冊
(う
ちわけは刊本 2点 3冊 、写本 5点 5冊)で ある。 3点 以上の所蔵 が確認 できる著者 は、
本居大平 (5点 5冊
)、紅林二郎右衛 門 (4点 4冊
)、栗原信充 (3点 7冊
)、中山繁樹 (3点
5冊
)、賀茂真淵 (3点 4冊
)、伊勢貞丈 (3点 3冊 )だ つた。 これ らの人たちは、紅林 と伊 勢 を除いては国学者 である。先 に伊勢 と紅林 について説 明す る。伊勢貞丈 (1717〜 1784) は旗本 であ り、有職故実 の学者 である。 貞丈 の故実 は、 当時の古儀 再興 とした国学形成 の 風潮 を反映 して展 開 し、内容 は公武 の故実、典礼作法か ら神道 に及ぶ とい うものだった
40。紅林 については、現段 階ではっき りした こ とはわか らないが、三河 国二川 (現 愛知県豊橋 市二川 町 )の 家の人で、弓術 の雪荷派系統表 に「二川
紅林連」
4めの名前があ り、紅林家 は 雪荷派 に属す る家で ある と推測 できる。 中村家蔵書 の 中には、紅林二郎右衛 門の名 前 が記
された弓術書が多数存在す る。
著者 にみ る特徴 を 3点 にま とめる。 1つ は、国学者 の著作が多い ことである。大館 と東海 は平 田門人で あ るた め、家人 の学問 と書籍蒐集 が対応す る結果 になつた。特 に、平 田篤胤 や平 田門人の著作が多い。中村家蔵書の著者 の中で、平 田門人 は東海 の師で もある羽 田野、
矢野玄道、草鹿砥宣隆、鈴木重消し がい る。栗原信充 40は 平 田門人 ではないが、平 田篤消し に 学んでい る。本居やその門人 の著作 も多い。具体的 には本居 宣長 、本居 大平、本居 内遠 、 加納諸平、 中山実猪 、夏 目箸着 らの著作 が存在す る。近世 の遠江 国は、国学者 を多数輩 出 した こ とで知 られ てい る。遠江 国の賀茂真淵 が伊勢 の本居 宣長 と交流 した ことで、遠江 に は本居 の国学が広 がっていた。本居 に学んだ後 に平 由に入 門 した り、本居 門人であ りなが ら平 田に教 えを受 けた りす る人 もお り、い ろい ろな人 に学ぶ こ とが可能 であつた。 平 田門 人 である中村家 の蔵書 には、平 田の書籍 も本居 の書籍 も存在 してい る。近世 の学び のあ り 方 を家 の蔵書 にもみ ることができる
40。国学者 の著作 の内容 をみ る と、国学の内容 だけで はな く 「神道」 (平 田篤胤 、平 田門人 な ど
)、「神社」 (羽 田野敬雄
)、「祭祀」 (草 鹿砥 宣隆、
羽 田野 な ど )な ど、神職 に関わ る内容 の ものが存在す る。近世 において、神職 と国学 の関 連 は深 く、遠江 国で も近世 において国学 を担 つた 中心 は神職 だつた。 したがつて、 中村家 に国学者 の著作が多い要因 として、国学 を学んでいた とい うこ とに加 え、神職 とい う家業 もあげ られ るだ ろ う。
2つ に、三河 国の人 の著作が多い ことである。羽 田野や草露樵 宣隆、 中山繁樹
4つ、中山
美石 40の 著作 が存在す る。羽 田野 は東海 の師であ り、師 を通 じて三河 国の国学者 の情報 を 入手 していた と思われ る。
3つ に、遠江 国の人の著作が存在す ることである。夏 目甕麿
40、加 納需撃
50、内山真竜
50、栗 田土満
50、杉浦 国頭 があげ られ る。全て国学者 であ り、杉浦以外 は平 田及び平 田門人、本 居及 び本居 門人 、賀茂真淵 門人で ある。神職や村役人 を勤 める人た ちだ つた。先 に、近世 において遠江国では国学者 が多 く存在 した と述べ たが、実際 に彼 らの著作が同地域 で国学 を学ぶ 中村家 にも所蔵 されていた。
以上、著者 に着 目す る と、 中村家 の蔵書 の著者 の中心 は国学者 であ り、特 に平 田門人 、 本居 門人 の著作 が多い こ とがわかった。 また、著者 の居住地域 は遠江国 と三河 国が多い。
国学者 のほかには有職故実 の学者 である伊勢貞丈、弓術や武家故実 につ いて著 した紅林三 郎右衛 門がい る。神職 とい う家業や 士族 との関わ りが深 い 中村家 とい う家 の性格 を反 映 し てい るもの と考 え られ る。
(2)蔵 書印にみ る書籍蒐集 のネ ッ トワー ク
表 2は 、 中村家の書籍 に押 され た蔵書印 と書籍 の点数 についてま とめた ものである。 印 の種類 は 41種 類 ある。一般 的に蔵書印は、その書籍 の持 ち主 を示す ものであるため、蔵書 印の分析 を とお して、 中村家 の書籍蒐集 を とりま くネ ッ トワー クについて検討す ることが できる。
点数 について、 1番 多いのは、内藤家 の蔵書印である。 88点 の書籍 に 「遠州新所郷 内藤 神 主家」「内藤」の印が押 されてい る。 内藤家 は中村家 に養子入 りす る前 に、東海 が継 いで いた家である。 2番 目に多いのは、賀茂家 の蔵書印である。賀茂家 は、東海 の実家である。
この よ うに、 29代 東海 が養子入 りす る前の蔵書印が、多数み られた。
蔵書印の種類 は 41種 類 と多様 である。 わか る範 囲になるが、説 明を付記 したい。 1つ に 遠江 国の国学者 に関わ る蔵書 印が存在す る。「遠江 国浜松庄 内岡部縣主蔵書記」「岡部家蔵 版」 は、岡部家 の蔵書印である。 岡部家 は、遠江 国敷智郡伊場村 (現 静 岡県浜松市東伊場 町 )に あ り、賀茂真淵 が生まれ た家 にな る。「国頭」は、浜松諏訪社 59の 大祝であ り、遠江 の国学の祖 ともいわれ る杉浦国頭 を さしているもの と推測できる。「遠州 引佐橡窪岩 間寺蔵 書記」 は、引佐郡 (現 静 岡県浜松市引佐 町 )の 岩 間寺 の蔵書印である。東海 の兄 と岩 間寺 の住職丹妙 (後 の三宅均 )が 友人 関係 にあるため
50、丹妙 の代 の もの と推測 され る。「遠州 狩宿屯 「峯野氏蔵書」「遠江 国敷智郡浜松新 明宮森讃岐守藤原猶襲蔵書」の蔵書印については、
まだはっき りした ことはわか らないが、遠江 国の人 の蔵書 を示 してい るのは確 かで ある。
狩宿村 (現 静 岡県浜松市 引佐 町狩宿 )は 、内藤家や実父 の実家及び東海 の兄 の養子先 で も ある山本家の所在す る地域 と近い場所 にある。
2つ に、羽 田文庫 の蔵書印がお され た書籍 が存在す ることである。羽 田文庫 は、三河 国の
羽 田野敬雄 が、羽 田人幡宮の境 内の中に創設 した文庫 である
50。羽 田文庫 の書籍 は寄付 に
よ り集 め られ、寄付 した人 には吉 田藩主、水戸 中納言斉昭、本居春庭、平 田鐵胤、石川依
表 2書 籍 に押された印
1.「
合計
(点数
)」は、 「刊本
(点数
)」と 「写本
(点数
)」と 「刊・写
(点数
)」を合計 したものである。
2.「
印の種類」の欄 に記 した「
0」は、読み取 りができなかつた文字の代わ りにあてた。
3.1点
の書籍 に、数種類の印が押されている場合、種類の数だけ点数として数えた。そのため、表に記した点数は実際の 書籍 点数ではなく、印が押された書籍 ののべ数 になる。
4.1点
につき2冊 以上の書籍 について、全冊数に印鑑が押されていたわ けではなかつたため、本表では冊数 は記さず点数 のみを記 した。
28代 当主。 「魁香舎」は、大館の号 遠江 国雄踏魁香 舎蔵書 である。
29代 東海 の実家。 「直章」は東海の 弟で、賀茂 家の後を継 いだ人物であ る。
遠湖雄踏賀茂蔵書
29代 東海の一度 目の養子先 賀茂真淵 の家。伊場村賀茂神社 。 遠江 国浜松庄 内岡部縣主蔵
国学者伴信友か。
29代
当主28代
大館 の 実 家長谷川蔵
遠江の神職 、国学者 である。
羽 田文庫 は、三河国の羽 田八幡宮 の境 内に作られたものである。
遠江国敷智郡浜松新 明宮森
東海 は、明治8年 に敦 賀 県で教導職 についた。
克 明館 は、浜松藩の藩校 である。
克 明館 文庫 印
中村 家の親戚 の可能性がある。
維新後 に苗木藩 は、平 田国学 による 藩政改革 が進む。
苗木藩石原蔵
神祇伯家東執事 古川美濃 関
家
平な どがいた。慶應 3年 (1867)に 文庫 の蔵書 は 1万 巻 を超 えた
50。東海 の師は羽 田野敬 雄 であるな ど、 中村家 の家人 は、三河 国の文庫 の書籍 を入手で きるネ ッ トワー クをもつて いた こと力`わか る。
3つ に、浜松藩 の藩校 である克 明館 の蔵書印がみ られ ることである。藩校克明館 は、弘化
3年 (1846)に 設立 され た。設 立時 に、主命 を受 けた藩士岡村黙之助 は蔵書の充実 をはか り、蔵書 は 1万 を超 えていた。克 明館 は、藩 士だけでな く篤学の者 の入学 を許可 してお り、
その中に伊場村 の岡部譲 がいた
5つ。 中村家の蔵書 には、岡部家 の蔵書印が押 してあるもの があ り、書籍蒐集 のネ ッ トワー クに岡部家が存在 した こ とが推測 できる。岡部家 を介 して、
克 明館 の書籍 を入手 した可能性 がある。 また、 中村家 自体 も浜松藩 との関係 は深 い。先 に 記 した よ うに、家康 の二男 (結 城秀康 )が 中村家 で産 まれ た こ とによ り、 中村家 は浜松藩 か ら金銀 の下賜 な どを受 けてい る。他 にも 28代 大館 の実母 は、浜松藩 の家老 の妹 である。
地域 の知識人 または中村家家人 のネ ッ トワー クに よつて、藩校 の書籍 を入手 した可能性 が ある。
4つ に敦賀県 (現 福井県 )や 苗木藩 (現 岐阜県 中津川市苗木 )な ど、遠江国以外 の地域 の 蔵書印のある書籍が存在す ることで ある。東海 の履歴 に 「同年 (明 治 8年 を さす )六 月十 日敦賀県管内神道教導取締被命候」 50と あ り、敦賀 で教導職 についていた。敦賀 での職務 と の関連 で入手 したのか も しれ ない。苗木藩 は、 維新後 に平 田国学の影響 を受 けた藩政改革 を進 めた藩 であ る。藩 内に平 田の国学 を学んだ人 が多いため、 中村家 の家人が同 じ平 田門 人のネ ッ トワー クの中で入手 した可能性 がある。表 2に 示 した よ うに、蔵書印の種類 は多 様 であるが、現段階で中村家 との関連 がわか らない ものが多い。今後 、調査 を続 けたい。
以上、限 られた数 の蔵書印の分析 になるが、特徴 を 4つ にま とめた。 1つ は、神職 につい てい る人や神職 を家業 とす る家の蔵書印が多い ことである。 2つ は、 28代 大館・ 29代 東海 の実家や東海 の 1度 目の養子先 の家 に関わ る蔵書印が、全体 (蔵 書印の押 された書籍 )の 7 割 を しめてい ることである。 3つ は、賀茂家 と内藤家 の蔵書印の押 された書籍 をみ る と、刊 本 と写本 の害 J合 がほ とん ど同数 であ るこ とであ る。 両家以外 の蔵書印のある書籍 のほ とん どは刊本であるため、両家の書籍 は、異 なる傾 向を示 してい る。 4つ は、蔵書印の多様性 で ある。遠江国の神職 、大館 、東海 に関わ る人や家 を中心 に書籍 を蒐集 してい る と思われ る が、三河 国や苗木藩や敦賀 とい う他 地域 の蔵書印 もあ り、同地域や血縁 関係 とい う近い関 係 以外 か らも書籍 を入手 していた ことがわかつた。
おわ りに
近世後期か ら明治 8年 にか けて中村家 の家人が蒐集 した書籍 の内容 と書籍蒐集 のネ ッ ト ワー クか ら、中村家 の蔵書傾 向について検討 した。
中村家 の蔵書 内容 について、特徴 を 4点 にま とめる。 1つ は、家人 の学んだ国学が蔵書 に
反映 してい る点である。 28代 ・ 29代 の当主は平 田に入 門 したために、平 田篤胤やその門人
の著書が多 く所蔵 されている。また、平 田国学に限定せず、近世の遠江国で多数の門人を 要 した本居宣長やその門人の著作 も所蔵 されている。 2つ は、「家」の性格が蔵書に反映 し ている点である。 中村家は、代々神職 を襲職す る家で、庄屋 を勤め、士族 とも関わる家で あった。家業や職務、家の由緒を反映 して、「名鑑」「ネ 申道」「弓術」「武家故実」な ど歴史 や神職 に関わる内容の書籍が多 く所蔵 された と考えられ る。 3つ は、三河国の人の著作が多 いことである。 この要因として、 29代 当主の師である羽 田野敬雄の存在が考えられる。羽 田野は平 田門人であ り、東三河国では有名 な国学者だつた。師か ら情報 を入手 して、書籍 を得ていた と思われ る。また、近世において宇布見は、浜松藩、吉田藩の管轄下にあつた。
当時の行政区分によつて人が往来 し、それが学問や教養 の交流にもつながった と考 えられ る。三河国 と遠江国の学問や教養の交流については、別稿で さらに検討 したい。 4つ は、蔵 書の内容の多様性である。書籍の内容は 100種 類 に及んだ。例 えば、近代 とい う新 しい時 代に対応 しようとす る内容や子 どもの教育に関わる内容
(「手本」「往来物」「教育」
)、芸に 関わる内容
(「浄瑠璃」「謡 曲」 )な ども所蔵 されていた。 このよ うな書籍の多様性に、中村 家の家人の教養 を うかが うことができる。
蔵書印か ら検討 した書籍蒐集のネ ッ トワークについて、 5点 にま とめる。 1つ は、 28代 及 び 29代 当主の実家や 1度 目の養子先の家である。 2つ は、国学者や国学者 を出 した家であ る。 3つ は、三河国羽 田文庫の存在である。 4つ は、浜松藩克明館である。 5つ は、敦賀県 の小学校である。 これ らのネ ッ トワークは、養子入 りした当主の実家、申村家の家人が学 んだ国学や教導職で敦賀 に赴 くとい う職務、浜松藩 に御 目見を許 され るとい う「家」の特 徴 と関連づけられ るだろ う。
以上、近世か ら明治 8年 まで中村家の蔵書傾向は、内容、ネ ッ トワークともに家人の学 問、神職、庄屋 な どの 「家」の性格、三河国 との関係 を反映 していたことがわかった。今 後の課題 は 2つ ある。 1つ は、実際に書籍 を入手 した り、読書 した りす ることがわかる史料 と合わせて、本稿の内容 をよ り実証的に検討す ることである。また、書籍入手や読書の事 実の確認に とどま らず、読書や書籍蒐集ネ ッ トワークについて地域の支配 (行 政 )な どの
背景 と関連づけて、検討 したい。 2つ は、蔵書印の調査の継続である。本稿では、手がか り が少なく蔵書印の内容 に十分にふみ こむ ことができなかった。蔵書印の人物・家の特徴 を お さえることで、 さらに中村家の蔵書をとりまくネ ッ トワークは詳細になるだろ う。
註
D家 の蔵書の存在 について指摘 した先行研究は、松尾 由希子 「江戸期上層庶民の家の蔵書 に関す る研究一学習環境の視点か ら一」 (博 士論文、 2008年 114〜 15頁 )に も記 した。そ の一つに高倉一紀 「竹 国家の教養 と国学一蔵書構成 と所蔵率の分析」
(『伊勢商人竹 国家の 研究』和泉書院、 1999年 )な どがある。
2)例 えば、
杉仁氏の研究
(『近世の在村文化 と書物出版』 (吉 り
│1弘文館、 2009年 、228〜 243
頁 )が ある。ただ し、家の文書の中に、蔵書 とその読書を示す資料が同時に存在す ること は多 くない。
9平
野満 「蔵書に見る知的状況―平山・宇井・林家の場合」 『 大原幽学 とその周辺』八本書 店、 1981年 。石川秀和「江戸近郊農村にみる豪農の文化活動一安川家三代の事例一」 『 立正 史学』第 96号 、 2004年 。な ど
→松尾由希子 「近世後期尾西庄屋のネ ッ トワークと教養形成―海西郡荷之上村服部家の蔵 書 と読書の分析」岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究
第二篇』清文堂出版、 2007年 。 など
5)小林文雄 「近世後期における『蔵書の家』の社会的機能について」『歴史』第 76輯 、東 北史学会、 1991年 。松尾 由希子 「近世後期地方医家の蔵書形成 とその動機一越後国西蒲原 郡鈴木家の事例 より」 『名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要 (教 育科学
)』第 53巻 第 2号 、 2007年 。など
の鈴木理恵 「近世後期における神職の専業化志向と蔵書形成一芸州山県郡井上家を例 とし て」頼祓一先生大館記念論集刊行会編『 近世近代の地域社会 と文化』清文堂、 2004年 。な
ど
つ東海が中村家に養子入 りしたのは明治 8年 であるため t対 象時期において東海は中村家 の人ではないる しか し、中村家蔵書には東海が明治 8年 までに蒐集 した書籍が存在す るた め、明治 8年 以降に当主になった東海 も事例対象 としている。
③松倉茂 「雄踏町沿革史遺稿」 『 雄踏町誌
資料編四』浜名郡雄踏町、 1971年 、 28頁 。
"古
橋一男、嶋竹秋、新村嘉十編『雄踏村誌』雄踏町誌郷土資料部、 2000年 、 31〜 32頁 。 10中 村家文書「中村家由緒書」 (資 料番号
715‐11)。 本稿で用いる「中村家文書」は全て、
浜松市博物館寄託の史料である。
11)中 村家文書 「遠江国雄踏村宇布見中村家」 (資 料番号 1478)
12)由 緒書の性格 として、家の権威 を高めるために史実 とは異なる説明が述べ られ ることが ある。そのため、他の史料 と合わせて由緒書の内容の真偽 を確認す る必要があるが、現段 階において由緒書に補足できるものをみつけられていないため、由緒書を参照す る。
19近 世は、「家」制度の社会である。以降、「家」と表記す る場合、「固有の家名、家産、
家業をもつ もので、地域共同体 と結びついて存在す る」 (前 掲註 1「 江戸期上層庶民の家の 蔵書に関す る研究一学習環境の視点か らす」 1頁 )と い う観念をさす もの とす る。近世にお いて、家人は世代を超 えて 「家」が永続す ることを願 つていた。
1。
「中村家由緒書」 (前 掲註 10)の 18代 正吉の履歴 に「永禄十一年二月東照宮三州 ヨリ御 忍ニテ正吉宅被成御一泊、翌 日正吉故小藪村迄御船ニテ濱松城地御案内仕候」 とある。
1め
「遠江国雄踏村宇布見中村家」 (前 掲註 11)
10結 城秀康の生誕に関わる胞衣塚は中村家の屋敷の中にあ り、 「中村家由緒書」 (前 掲註
10)な どによると明治半ばを過 ぎても、松平康荘侯爵など松平家が中村家に修繕費を援助
していた。
1つ
中村家文書 「中村東海履歴」 (資 料番号
715…9)。同史料は下書のため各所に挿入や見せ 消ちな どの推敲 した形跡 を確認す ることができる。そこで、史料引用に関 してはなるべ く 原文に近い様式になるよ うに努めた。そのため、意味が取れない箇所 0文 意があること、
煩雑 に見える点をあ らか じめことわつてお く。なお 「
」内はとくに断 りのない限 り挿入 を、意味す る。見せ消ちは抹消線であ らわ し、囲み線は原文に準 じた。
19浜 松市『浜松市史
二』浜松市、 1971年 。 19同 上書、156〜 157頁 。
2の
「遠江国雄踏村宇布見中村家」 (前 掲註 11)の 28代 大館の履歴 に「天保十二年寅年二月 出府家督継 目御礼美作中将斎民殿於表書院面謁任
(ヵ)嘉 例古酢鮮魚差上葵紋服拝受」「弘 化二巳年美作国主中将松平斎民殿天神官神社代々世襲兼作州藩士列候処」 とある。
20中 村正直『負 け犬の系譜一 中村家 800年 の歴史』 1995年 、 99頁 。
2"『 引佐町史料第十二集
山本金木 日記』ラ 1佐 町教育委員会、 1980年 、 1頁 。
29「 遠江国雄踏村宇布見中村家」 (前 掲註 11)の 大館の履歴に 「天保十三寅年二月出府家 督継 目御礼美作中将斎民殿於表書院面謁任
(ヵ)嘉 例古酢鮮魚差上葵紋服拝受」 とある。
先にも述べたように、 18代 正吉の時に中村家で家康の二男である結城秀康が誕生 した とい う由緒を背景に、中村家は秀康の長男の子孫になる美作津 山藩 とつなが りをもつていた。
2の
中村家文書 「親類書」 (資 料番号
619‐8)
25)石 井良助監修『編年江戸武鑑・文政武鑑』柏書房、 1982年 。 20中 村家文書 「中村大館小伝」 (資 料番号
715‐8)
27)「遠江国雄踏村宇布見中村家」 (前 掲註 11)
20『 遠江歌人略偉
上巻』 (浜 松市立中央図書館所蔵 )26〜 28頁 。
2の
中村家文書 「故平 田先生授業門人姓名録
上」 (資 料番号 1016)
30前 掲註
18、423頁 。
30養 子入 りの年は不明であるが 「内藤神主家系図」 (中 村家文書、資料番号 134)に より、
嘉永 4年 (1851)に 内藤家の家督 を継いでいることがわかる。
3"同 上文書 「内藤神主家系図」
39中 村家文書 「中村家の由緒 。中村東海の履歴」 (資 料番号 715‑9) m 前 掲 註
18、599ハ V604頁 。
3υ
古橋一男、嶋竹秋、新村嘉七編『 雄踏の石碑』 89頁 。
30「 雪荷派系統表」 (前 掲註
18、603頁 )参 照。 この表で、東海の実父は 「加茂輌音」 と 記 されている。
3つ
前掲註
35、11頁 。
30岩 崎鐵志「近世東海道の宿駅文化一遠江 日置流印西派結社の展開」 『 静岡県立大学短期大
学部研究紀要』
12‐1号 、 1998年 、 4頁 。
30「 故平 田先生授業 門人姓名録
上」 (前 掲註 29)
40そ の様子 は 「幕末維新期 の東海・ 大館 の実績」 (中 村家文書、資料番 号
715‥10)に 詳 し い。高木俊輔氏が整理 した報国隊の隊員名簿
(「草芥諸 隊員名簿 について一東海道 の報 国 隊・赤心隊・伊 吹隊の場合」信州大学人文学部編『 人文科学論集
第 16号 』信州大学人文 学部、 1982年 、 189頁 )に も東海 の名前が載 ってい る。
41)田 崎哲郎編『 三河知識人史料』岩 田書院、 2003年 、 224頁 。東海 は 1862年 作成 の本書 で、 「内藤 出雲」 として記 されてい る。
4"「 刊本・写本」とは、 1点 の書籍 の中に刊本 と写本 が綴 じられてい る形態 の ものを さす。
49竹 内誠 、深井雅海編『 日本近世人名辞典』吉川 弘文館 、66〜 67頁 。
40前 掲註
18、603頁 。
4め
前掲註 43(334〜 335頁 )。 故実家である。父和恒 は江戸で御家人 にな り、奥御右筆 を 勤 め、駿河台下の紅梅坂 に居住 した。長男である栗原信充 (1794〜 1820)は 、幼 い時か ら 才能 を認 め られ、平 田篤胤か ら国学 を学び、柴 野栗 山か ら漢学 を学 んだ。
40中 村家の国学 に関わ る書籍 をみ る と、平 田国学以外 の もの も存在 してい る。 この よ うに 平 田国学以外 の書籍 を所蔵す る背景 として、本文 で述べた以外 には、他 の門人 と議論 にな
ることもあつたため、他 の門人 の書籍 内容 も知識 として知 ってお く必要があつた と考 え ら れ る。
4つ
三河 国吉 田藩士であ り、 中山美石 の孫 である (豊 橋市史編集委員会編『 豊橋市史
第二 巻』豊橋市、 1975年 、 892頁 )。 『 三河知識人史料』 (前 掲註
41、86頁 )に よ り、平 田門 人であることがわか る。藩校 時習館 の教授 も勤 めた。
49同 上書『 豊橋市史
第二巻』816〜 818頁 。 中山美石 (1775〜 1843)は 、三河 国吉 田藩 士である。本居大平 に学び、文化 14年 (1817)に 藩校 時習館 の教授 にな る。
40夏 目甕麿 (1733〜 1822)の 家 は、浜名郡 白須賀 (現 静 岡県湖西市 )で 酒造業 を営んでい た。名 主 を勤 めた家で加納諸平の父で もある。 内山真竜、本居 宣長 、本居春庭 に入 門 し、
本居大平 に も学んだ。
50前 掲註
43、249〜 250頁 。加納諸平 (1806〜 1857)は 、夏 目甕麿 の息子 であるが、父が 亡 くなった後 に紀州藩 医加納伊竹 の養子 になった。本居大平の門人である。
5D同 上書、 123頁 。 内山真竜 (1740〜 1821)は 、遠江国豊 田郡大谷村 (現 静 岡県天竜市
)で庄屋 を勤 めた。賀茂真淵 に入 門す る。本居大平 とも交流があった。
52)小 泉欽司編『 朝 日日本歴史人物事典』朝 日新 聞社 、 1994年 、 596頁 。栗 田土満 (1737
〜 1811)は 、遠江 国城飼郡平尾村 (現 静 岡県菊川市 )の 平尾八幡宮神職 の人である。賀茂 真淵 に入 門 し、本居宣長 にも学ぶ。
53)前掲註
18、482頁 。近世初期 か ら徳り
│1氏の崇敬 が深い神社 で、 300石 の朱印が付せ られ ていた。
50引 佐 町編『 引佐 町史
下巻』 ラ 1佐 町、 1993年 、 51頁 。
50『 豊橋市史
第二巻』 (前 掲註 47)、 869〜 877頁 。
50同 上書、869〜 877頁 。
5り