はじめに
精神科ソーシャルワーカー(PSW)は,1997(平成 9)年に制定された精神保健福祉士法によって国家資 格化された.しかし,当該資格が国家資格化される以 前から,全国各地で,精神科ソーシャルワーカーとし て活躍してきた先人たちがいることを忘れることはで きない.
本稿では,精神科ソーシャルワーカーとして,その 存在意義と職業倫理を問われることになった「Y問題」
の経過を考察することにより,当該問題が及ぼした影 響と,今後の課題について論考を行う.
その際,本稿が注目するのは,社会福祉学やそれを 実践基盤として展開するソーシャルワークと,「障害,
障害者を社会,文化の視点から考え直し,従来の医療,
リハビリテーション,社会福祉,特殊教育といった
「枠」から障害,障害者を解放する試み」(長瀬1999:
3)を行っている障害学とそれに類似する学問である 社会学の当該問題に対する歴史観の相違である.社会 福祉学に携わる論者から提出されるY問題の歴史に関 する記述は,Y問題を,日頃のソーシャルワーク実践 における反省材料とし,今日における精神科ソーシャ ルワーカー(精神保健福祉士)の倫理綱領や資格制度 の創設に繋がる発展素材として描き出している.
一方,障害学 ・ 社会学を学問基盤とする論者から提 起されるY問題の歴史は,史実を詳細に明らかにする ことによって,社会福祉学が描くような「発達史」の 齟齬を照射し,社会福祉学に対して,当該問題の歴史 に関する記述の修正を求めている.本稿では,これら の異なる学問からのY問題に関する歴史記述を描くこ
とにより,その相違点を浮かび上がらせることによっ て,社会福祉学やソーシャルワーク史が描く発達史的 記述の意味を再考する.
1 .Y問題とは何か
では,そもそもY問題とは何であろうか.精神科ソー シャルワーカー(精神保健福祉士)の専門職団体であ る日本精神保健福祉士協会と,日本精神保健福祉学会 が監修する『精神保健福祉用語辞典』では,Y問題に ついて以下のように説明されている.長い引用となる が,当該事項は,本稿における主題であり,かつその 当事者でもある日本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協 会を母体とする精神保健福祉士協会が監修しているた め,問題に関わる当事者の一方が,Y問題に対し,ど のような認識であるのかを知る格好の機会ともなる.
そのため,以下,長文を引用する.
1969年,当時19歳で大学受験のため浪人生活を送っ ていたYさんの強制入院をめぐってYさんの訴えた人 権侵害裁判と,Yさんの母親によってなされた「裁判 支援要請と専門職としての実践の見つめ直しに関する 申し入れ」が精神医学ソーシャルワーカー協会第9回 全国大会(1973年)においてなされ,対応をめぐって,
のちに協会存続の危機を引き起こすに至った問題を総 称してY問題という.Y事件は,精神衛生法体制下で の強制入院をめぐる事件であるが,Yさんの入院は精 神衛生法上2点の誤りがあった.まず未成年であるた め,同意入院要件として両親の同意が必要だったが,
これが満たされていないこと,さらに入院時に医師に よる診察がなかったこと,である.それ以外にも入院
*立正大学社会福祉学部社会福祉学科
キーワード:Y問題,PSW,社会福祉学,障害学,社会学
Y問題の歴史再考
―学問基盤による視座の相違に着目して―
田 中 秀 和*
に際して保健所の精神科ソーシャルワーカーによるケー ス記録が援用されたこと,そして,入院に至るまでY さん本人には専門職の誰一人会わず,話さずという「本 人不在」「入院先行」で事が進んだこと,入院時には警 察官を安易に導入したこと,などが挙げられる.これ らは当時,入院すなわち保護が第一優先に事が運ばれ ていたこと,そしてこの動きに側面的であれ精神科ソー シャルワーカーが関与しているという事実が明らかに なり,精神衛生法を法に則して推進すれば,法の仕組 みそのものが,人権侵害を前提に成立していることが 明らかになったのである.協会は,調査委員会を設置 するなどの検討を開始し,報告書を提出し,専門職と しての課題の抽出と継承を試みるが,協会内部の対立 は,専門性の確立の方向をめぐって,精神医療改革か,
あるいは身分保障(身分資格)かの対立として先鋭化 し,組織存続の危機に至る.その後,専門性の確立を 検討することを前提に,組織の建て直しを図り,1982 年の札幌宣言までの道程を歩むことになる.今日では,
入院に際しても十分とは言えないが,入院時の文書告 知や精神医療審査会への申し立て等の人権救済手続き が整備されている.また,Yさんの裁判支援活動は行 政や病院に所属する精神科ソーシャルワーカーや福祉 事務所ワーカーによって主に担われたが,上告審での 病院および行政との和解と,Yさん自身と両親の和解,
家族の再出発を援助した専門職の支援として意義は深 い(西澤2004:541-542).
以上は,社会福祉学の視点から捉えたY問題の歴史 である.なお,Y問題と類似する表現として,Y事件 との記載方法もある.これらの相違点は,1969(昭和 44)年に発生したものを「Y事件」,1973(昭和48)年 の日本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協会総会での告 発を「Y問題」,Yが入院していた病院を相手に訴訟を 起こし,裁判となったものを「Y裁判」と呼ぶ(田中 2016:31).
2 .精神科ソーシャルワーカーの 専門職団体史
「Y問題」が提起された日本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協会の源流は,第二次世界大戦後の1953(昭 和28)年に設立された日本医療社会事業家協会である.
同協会の設立は,それまで全国各地において孤立無援 の状態でソーシャルワーク実践を行っていた医療ソー
シャルワーカーにとって悲願であったといえる.精神 科ソーシャルワーカーも協会設立当初は,同協会に参 画し,活動を行っていた.
その後同協会は,1958(昭和33)年に日本医療社会 事業協会と改称する.協会名を改めた理由は,医療社 会事業「家」協会として,医療ソーシャルワーカーの アイデンティティ追求を行ってきたそれまでの協会方 針を変更し,以降における活動の重点を,医療ソーシャ ルワークの普及に移したことによる.それにより,専 門職としてのアイデンティティを求めていた精神科ソー シャルワーカーらは,精神科ソーシャルワーカーの独 立した組織を設立させる気運が高まった.
上記のような経過を辿り,1964(昭和39)年11月19 日に日本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協会が発足し た.同協会の設立趣意書には,「精神医学ソーシャル ・ ワークは学問の体系を社会福祉学に置き,医療チーム の一員として精神障害者に対する医学的診断と治療に 協力し,その予防および社会復帰過程に寄与する専門 職種」であることが明記されていた(荒田2009:47).
これに対し,日本医療社会事業協会(現 ・ 日本医療 社会福祉協会)からは,やや含みのある表現で,「専門 家集団のめざす方向,専門家集団になる可能性を追求 する努力は忘れてはならないであろう.但しそれを,
社会的にひらかれた方法でするか否かは意見のわかれ るところである.目的を忘れず,独善的排他的になる のではなく連帯をふかめる方向でその可能性は追求さ れなければならない」と評価されている(児島1978:
6).同年3月には,「ライシャワー事件」が発生して おり,1964(昭和39)年は,精神科ソーシャルワーカー にとって,歴史的な年であった.
日本における社会福祉専門職団体は,上記以外にも 1960(昭和35)年に竹内愛二を初代会長として発足し た日本ソーシャルワーカー協会や,それを母体として 発足した日本社会福祉士会などがある.このように,
ソーシャルワーカー専門職団体が複数存在している状 況は今日に至るまで存続されている.そのなかで,日 本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協会は,専門職のア イデンティティ確立のため奮闘努力を行ってきた.本 稿において主題としているY問題が発生した1960(昭 和40)年代において,同協会は「民間精神科病院に採 用された PSW の社会的地位の低さ,身分の不安定さ,
劣悪な労働条件という状況の解決に取り組むことも緊 急の課題」(荒田2009:48)とされていた.この点は,
同協会の取り組みによって「Y問題」が一定の終息を みた後,同問題を振り返る際,今日の精神保健福祉士 資格制度の布石として,この問題が社会福祉学やソー シャルワーク関係者から取り上げられる動機のひとつ となる.
3 .Y問題の経過
「Y問題」は,1973(昭和48)年の日本精神医学ソー シャル ・ ワーカー協会第9回全国大会(横浜)におい て,事件の当事者である柳生茂男(以下Y)氏から,
精神科ソーシャルワーカーが行った業務に関して,抗 議が行われたことによって表面化した事柄である.Y 問題の経過については,障害学を自身の学問基盤とす る桐原による詳細な先行研究がある(桐原2013:71-
81),(桐原2014:49-63).以下,桐原の論考に学びな がら考察を進めていく1).
この問題は,1969(昭和44)年に発生した事件が背 景にある.事件当時,19歳であったY(1950年6月15 日生)は,予備校生であった.本人は関西方面の大学 への進学を希望していたが,Yの両親は,関東方面へ の大学へ進学することを本人に求めた.それを起点と して,Yと両親は口論を繰り返すようになった.その ため,Yの父親は勤務先の上司に相談した.そこで紹 介された医師から川崎市精神衛生センターにケースワー カーという人がいるので,相談するのもひとつの方法 であるとの助言を受けた.
その後もYと両親の間での話し合いは不調となり,
1969(昭和44)年10月4日(土)にYの父親は川崎市 精神衛生相談センターを訪れた.そこで対応したのが,
同センターに勤務するケースワーカーの岩田和郎であっ た.岩田は,父親からYの状況を聞いて,Yは,重度 の精神分裂病(現 ・ 統合失調症)であると判断を下し,
Yの入院の必要性を強く主張し,父親に向精神薬を渡 した.その際,父親は岩田のことを医師であると認識 していた.
父親は帰宅後,母親と話し合いの場をもった.その 際,母親からは父親が取った上記の行動に呆れ,父親 に対して精神衛生センターに対し,家庭訪問などを行 わないよう電話するように促し,父親はそれに従った.
同年10月6日(月)になり,川崎市精神衛生センター から相談を受けた川崎市大師保健所の精神衛生相談員 である今井功は,Yは入院が必要な状態であると判断 し,上記の岩田と相談のうえ,Y宅を訪問した.その
際,母親はYを精神病と決めつけ家庭訪問まで行う相 談機関に対して強く抗議した.母親は,Yが強制的に 入院させられることにならないかと不安になった.
同年10月11日(土),Yの母親は上記の今井に対し再 び家庭訪問を行わないことを約束させるために川崎市 大師保健所を訪れた.その際,応対したのは保健婦
(現 ・ 保健師)の北浦美智子であった.母親は北浦に対 し,保健所から再び家庭訪問をしないよう求めるとと もに,Yは肩と腰を痛めてイライラしている旨を伝え た.それに対し,北浦はYの肩と腰の治療を行ったほ うがよいこと,保健所からも良い総合病院を紹介する ことが可能であるので,夕方に両親で再び来所してほ しい旨を伝えた.
母親は,Yの肩と腰の治療のために総合病院を紹介 してもらおうと考え,父親とともに再度保健所を訪れ た.
その一方,保健所ではYを精神科病院へ入院させる ための手続きを進めていた.北浦は,川崎市精神衛生 センターの岩田に問い合わせを行った.その際,多摩 川保健所勤務である下川雅弘が川崎市精神衛生センター に居合わせており,Yが入院可能な病院を探すことと なった.その後,多摩川保養院が当日でも入院の受け 入れが可能であることがわかり,移送上の保護として 警察へも応援を頼んだ.
母親は北浦らとともに自宅に向かったが,途中で車 から降ろされた.母親を途中で降ろした北浦らは,Y の自宅へと向かい,Yに病院へ行って治療を受けるよ う説得した.しかし,本人の承諾が得られずYを強制 的に病院へ連行したのである.
多摩川保養院に到着後,Yの父親は,看護職員から 入院の際に必要な書類の手続きを進められた.Yは,
多摩川保養院に到着してから診察を受けることもなく,
看護職員から鎮静剤のプロールクロルマジンを注射さ れ意識を消失し,保護室へ収容された.
その後,Yは,保護室を出て閉鎖病棟に移った.そ こでは,生活指導と称した院内清掃を強制的に行うこ とが求められた.Yは自身が不当に入院させられたと 感じ,多摩川保養院から脱出するための試みを行った.
しかし,院内は常に看護職員の監視の目があるため,
外部に対して病院の実情を知らせることは困難であっ た.Yは,院内の実情と,病院から脱出するには行政 や保健所を追及する必要がある旨を記載したメモを自 身の服の中に入れ,看護職員らにみつかることなく,
洗濯物と一緒に母親へ渡すことに成功した.
Yのメモを発見した母親は,Yを一刻も早く退院さ せる必要があるとの認識に至り,同年10月28日,Yの 主治医に対し,Yを退院させるよう求めた.しかし,
主治医はそれに応じなかった.母親は,上記,大師保 健所の今井にも相談したが功を奏することはなかった.
その頃,Yは「転院という名目なら退院可能」とい う情報を同室の患者から知る機会があった.この情報 を得たYの両親は,Yの主治医ならびに大師保健所に 対しYの転院を要求し,同年11月19日に「転院」とい う名目で退院となった.
Yとその母親は,退院翌年の1970(昭和45)年に,
上記一連の事柄について横浜地方法務局人権擁護課に 訴えを起こした.同課は調査を行い,両親の同意なく Yを入院させたことや,入院時にYを診察しなかった ことについて多摩川保養院に対し注意を与えた.
しかし,同課はYに対しこれ以上事を荒立てないほ うがよい旨の発言を行ったため,Yは1971(昭和46)
年12月,多摩川保養院を相手取り,横浜地方裁判所に 民事訴訟を起こした.裁判は,両者の主張が食い違う なかで行われ,長期戦となった.最終的には,1979(昭 和54)年5月に和解によって終結した.
(桐原2013:71-81),(桐原2014:49-63)
4 .Yによる精神科ソーシャルワーカー への告発
Yは,支援者とともに1973(昭和48)年4月6日に 開催された日本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協会(以 下日本 PSW 協会)第9回全国大会(横浜)に参加し,
特別に発言の機会を得た.そこでYは,上記一連の強 制入院の経過を報告し,PSW の実践のあり方に対する 問いかけを行った.Yから提出された大会申込書の内 容は以下の通りであった.
〈申込書〉
大会運営委員長 A殿
私ことYは,B市C保健所,Dセンターにより一九 六九年一〇月一一日,本人の全く知らぬ間に精神病で あるというレッテルをつけられ,警察,保健所によっ て強制的にE病院に入院させられました.
この入院は一切の医師による事前の診察がないばか りか両親の同意もなく行われました.そして四〇日間 という長期にわたり不法監禁され,心身両面にわたる
言語に絶する苦しみを味わされました.
このため私は現在,E病院を相手どり,この重大な る人権侵害に対し裁判を起こしています.
しかしながら,この問題に対して私の入院させられ る過程の中でC保健所,Dセンター,警察が積極的な 否定的役割を果たしていることは,否めない事実であ ります.
C保健所,Dセンターの私に対して行った不法行為 を考え合わせますと,今日ここに集まられた PSW 会 員の日々の実践がどういうものか疑わざるを得ません.
なにとぞ,この事件を大会議題の一つに取り上げ積 極的な討論をされ,第二,第三の私を生み出さないた めにも,自らの実践を厳しく見つめ,共にこの闘いに 参加されることを,切にお願いします.
一九七三 ・ 四 ・ 六
Y印
(佐藤2008:187-188)
5 .Y問題に対する PSW の反応
以下では,主に社会福祉学を学問基盤とする PSW が,Y問題をどのように捉え,どのような経過を辿っ たのかを分析する.
PSW にとってYに関する一連の問題は,「精神科ソー シャルワーカーの存在意義を根底から揺るがせる」(長 崎2015:4)ことであり,「青天の霹靂ともいうべき重 大な出来事」であった(柏木2002:48).一方,Y問題 は「PSW に,ともすれば社会防衛の担い手として精神 障害者の権利侵害に加担する危険性があることを気づ かせる」側面を有していたとする肯定的な評価もある
(大谷2012:6).
上記,Yからの告発は,「精神障害者を取り囲む劣悪 な状況から目を背けたまま,彼らを抑圧している機関 のなかで,専門性の確立を目指すというソーシャルワー カーとしての自己矛盾」をつまびらかにするものであっ たとされる(國重2017:50).
加納は,Y問題について,「医師の診断を事前に入れ なかった PSW の初歩的なミスであると考えている.
どのような事情があったとしても,当事者を入院させ なければならないかどうかは,医師の診断に任せるべ きであったと考える.体制が十分整っていない状況に 置かれた新しい職種の悲哀といえるのかもしれない」
との見解を示している(加納2017:66).
日本 PSW 協会はこの問題をめぐって紛糾し,迅速 な対応をとることができず,1976(昭和51)年に予定 していた第12回大会は中止に追い込まれた.このよう な事態に陥った原因として挙げられているのは,「組織 基盤の脆弱性」と「問題に関する意識の乖離」である
(荒田2007:225).佐々木はY問題の解決に時間を要し た理由として,「専門性の確立と社会的地位の向上とい う,専門職団体としての活動の両輪がY問題によって 分離し,その背景に保健所などの公的機関の会員を中 心とした専門性のあり方を問う声と,民間精神科病院 の身分資格制度の確立を求める声とが,本音と建前の 使い分けによってわかりづらく混在していたこと」を 挙げている(佐々木2009:63).
一方,樋澤によると,Y問題は,「PSW に内在して いた保安に主眼を置いたうえでの強制性を「見事」な までに露呈することにな」り,PSW 協会は,「Y問題 から自らの「使命」を導入し,その使命を錦の御旗と して」その後に提起された「介入要件の解釈次第によっ ては,PSW によるソーシャルワークの目的そのものが 崩れ去る重大な事態を招く可能性を持ち合わせている」
(樋澤2008a:305)とされる「医療観察法への関与の根 拠として活用している」とされている(樋澤2017:87).
上記のように,混迷した状況に置かれた日本 PSW 協会は,機能停止に陥ることとなった.1976(昭和51)
年の第12回全国大会 ・ 総会(静岡)は中止となったが,
その背景には,「所属組織による官民格差」,「大学と現 場との乖離」,「経営者サイドと労働組合サイド」,「保 守派と改革派」,「現実主義路線と原理主義路線」,「身 分資格派と人権闘争派」の間にコンフリクトがあった とされている(古谷2015:17).
当時の日本 PSW 協会は,「身分が法的に保障されて いないことに由来する低水準の賃金と,それに伴う多 くの会費未納者に悩まされており,協会内でソーシャ ルワーカーとしての身分法を求める声が高まっていた
(大西2015:88).
そのようななかで,理事長職に就任したのは,谷中 輝雄であった.谷中は,1977(昭和52)年から1981(昭 和56)年まで理事長職に就き,「Y問題による協会内部 の混乱を収めると同時にY問題から得られた経験を反 省材料とし,協会自体のあり方を再検討する方向に協 会運営の舵を切っ」たのである(江間2014:50).
Y問題によって,日本 PSW 協会が機能停止に陥り,
その後,協会再建に至るまでの10年余りにわたる検討
作業は,「後の精神保健福祉士の国家資格化や日本精神 保健福祉士協会倫理綱領などの成立につながる布石と なった」とされる(中村2012:48).
ソーシャルワーカー(精神保健福祉士)養成テキス トには,1988(昭和63)年に制定された日本 PSW 協 会の倫理綱領について,「「Y問題」を契機にして,独 自の「倫理綱領」を制定した」との記載がある(石川 2008:43),(荒田2008a:46).倫理綱領は,「「Y問題」
を契機として,自らの立場性を厳しく問い直す長年の 作業のなかから,PSW として独自の倫理綱領をもつこ とが不可欠であるとの結論を得て,坪上宏(日本福祉 大学教授 ・ 当時)を顧問とする倫理綱領制定委員会に よって起草された」と記されている(佐々木2008a:
147).左記委員会は,Y問題の「総括」と PSW 協会 の「機能回復」のために設置されたものである(井上 2004:418-419).
日本 PSW 協会は,Y問題をめぐる議論のなかで,
「援助活動そのものが人権侵害を引き起こす行為になり かねないという自覚と,人権を侵される相手の立場に 立って援助活動を見直すことを確認し,……今日の精 神科ソーシャルワーカーの人権感覚や基本姿勢が確立 される」ことになった(佐々木2008b:22-23).
Y問題は,「「精神障害者の社会的復権と福祉」をめ ざす方向に専門性を改める契機となり,精神科ソーシャ ルワーカーの視点を精神障害者のおかれている状況か ら出発させること,そして精神障害者の社会参加支援 のための実践をすることが重要な役割であることを明 確化させた」のである(荒田2008b:62).また,Y問 題をひとつの契機として,「社会変革や社会運動を志向 する方向にソーシャルワーカーの視点が強まる」こと となった(牧野田2008:10).
Y問題が発生した当時は,「全国的に反精神医学運動 が展開され,その運動の高まりのなかで関係学会が相 次いで中止となっていた時期」であった(富田2000),
(吉村2007),(高橋2008:106),(阿部2010:1-11),
(立岩2013a),(立岩2015).その動きは医学のみなら ず,リハビリテーション専門職の間でもあり,「セラビ ストは主体性なく,無責任な治療を行っているのでは ないか」との意見も提出されていた(田島2013:82).
その一方で,当該時期における精神医療は「閉鎖病 棟中心から開放病棟中心へ」,「入院医療優先から地域 社会のなかで社会復帰を前提とした」ものへの「変貌 の必要性」が叫ばれていた(米澤2018:232).
そうした社会状況のなかで,PSW らは,Y問題に対 し,困惑し PSW としてのアイデンティティも揺さぶ られることとなった.
6 .Y問題に対する日本 PSW 協会の 対応
Y問題をうけ,日本 PSW 協会は,1980(昭和55)
年の第16回名古屋大会において,当該問題の総括と今 後の基本課題を整理するため,「調査委員会」ならびに
「提案委員会」を設け,「Y問題の一般化」を図った(今 井 ・ 高志2013:44).その後において,まとめられた提 案委員会報告について,門屋は以下のように整理を行っ ている(門屋2015:63).この点は,本稿にとって重要 な面を多分に含んでおり,少し長くなるが,引用する.
①立場と視点……「クライエントの立場に立つとい うことの建前と本音の使い分けがソーシャルワーカー としての視点を欠落させる結果になったことを反省し,
日常実践をお互いに検討し合う作業を通して PSW の 立場と視点を確立する」として将来への取り組み課題 を示した.
②状況と認識……「ワーカー ・ クライエント関係と いう個別の関係を超えて,それを取り囲み規制してい る状況を認識するというソーシャルワーカーとして当 然の社会的視点が甘く,状況としての精神衛生法体制 や精神医療などの現状と問題の多面的分析を行い,そ こから導かれる一定の結論をもってして PSW として の日常実践と協会活動を進める」とし「PSW は何をす る集団なのか十分に認識して再出発したい」として PSW の存在意義を確立していくことが必要とした.
③実践とワーカー ・ クライエント関係……PSW は自 分の知識や独自の判断基準をもって独りよがりな指導 や説得,善かれと思う結論に基づく行動,世話する ・ される関係,援助する ・ される関係を基本とした立場 性,医師及び医療のパターナリズムと権威性を容認し て実践される問題を反省し,両者が独立した人間とし て平等,対等な関係を基本とした役割関係を明確に合 意して進める.「クライエントの抱える問題や課題をも とに解決していける全体的力量を向上させる為の取り 組み」を確認した.それは常に「クライエントから学 ぶという初心にも似た謙虚な姿勢をもち続けること」
であるとしていた.これはたゆまぬ PSW の専門性を 高め,全人格的成長を意識的に図る取り組みとしたこ
とである.
④福祉労働者としての二重拘束性……PSW の日常実 践は「患者の立場に立つ」という関係性とともに,一 方では「クライエントの要望に十分に応えられない雇 用者との関係」があり,我々は時に相矛盾する「二重 拘束性」を有している.ゆえに「このことを正直にク ライエントに伝えつつ,解決に向かって共同作業を進 める」とした.
上記のような経過を辿ったY問題は,1982(昭和57)
年に札幌にて開催された第18回日本 PSW 協会全国大 会において「日本精神医学ソーシャル ・ ワーカー協会 宣言―当面の基本方針」(札幌宣言)が採択されたこと により,ひとつの区切りを迎える.そこでは,PSW の 役割として「精神障害者の社会的復権と福祉のための 専門的 ・ 社会的活動を進める」ことが挙げられており,
この方針は今日に至るまで継承されているとされる(田 中2002:416),(門屋2015:64).また,この札幌宣言 によって,「精神科ソーシャルワーカーのモデルが従来 の医学モデルから生活モデルへと変換された」(栄 2014:135)とされている.さらに,ここでの議論は,
PSW の国家資格化に向けて日本 PSW 協会が動き出す 契機となった(國重 ・ 鬼塚2016:32).また,Y問題以 降,PSW は,「クライエントとの「ここで,今」の「か かわり」を強く意識し,従来の「ワーカー ・ クライエ ント関係」ではなく,「かかわり」という用語を意識的 に用いるようになった」(國重2019:31).
日本 PSW 協会は,1988(昭和63)年の第24回日本 PSW 協会全国大会(那覇)において,倫理綱領を採択 した.これは,Y問題を契機として,「自らの立場性を 厳しく問い直す長年の作業のなかから,PSW として独 自の倫理綱領をもつことが不可欠であるとの結論を得 て」,当時,日本福祉大学教授であった坪上宏を顧問と する「倫理綱領委員会によって起草された」ものであっ たとされる(荒田 ・ 佐々木2009:70-71).倫理綱領 は,Y問題の反省を踏まえ,PSW はクライエントの立 場を理解し,それを尊重することを求めるものであっ た.その内容は,①クライエントに対する倫理,②社 会に対する倫理,③自らが所属する機関に対する倫理,
④クライエントにかかわる人びとや同僚に対する倫理,
に整理することが可能であった(荒田 ・ 佐々木2009:
71).
これまで述べてきたように,Y問題は,PSW の存 在,職業倫理や専門性を考えるうえで,ひとつの重要 な契機となった(三橋2008:122).その一方,当該問 題の当事者であるYやその支援者は,「精神科ソーシャ ルワーカーの実践を厳しく見つめ直してほしい」との 要望を精神科ソーシャルワーカー側に提示したにも関 わらず,十分な議論を経ずに時間が経過したとして,
精神科ソーシャルワーカーの存在自体を認めていない とされる(大西2015:92).この史実は,Y問題をめぐ る精神科ソーシャルワーカーの対応は,当事者である Yの要求に応えていない可能性を示唆しているといえ る.
7 .Y問題に対する障害学(社会学)
からの評価
これまで,Y問題について主に PSW の視点から論 考を行ってきた.では,当該問題は PSW の学問基盤 である社会福祉学と隣接領域にある障害学(社会学)
からどのように評価されているのであろうか.障害学 を専攻する桐原は,これまでのY問題に関する社会福 祉学からの先行研究に修正を求めている.それは,こ れまでの研究が「Yの被害と,それに基づく要求を不 明にしたまま,PSW の実践を反省的に見直し,会員の 議論を経て倫理綱領の制定に至ったという歴史として 叙述されてきた」(桐原2014:61)ことならびに,「社 会福祉学は,親の供述を基に親子関係悪化の原因をY の心身に求め,Yが精神衛生法体制の解体を求めてき た事実を示さず,Yの求めであったかのように倫理綱 領制定の歴史を叙述してきた」(桐原2014:61)ことに よるとする.
また桐原は,Y問題によって,「PSW 協会の存続危 機に直面したことで,PSW 協会の存続を第一に据えた 人事がなされ,「Y問題」と身分法 ・ 国家資格を PSW の倫理綱領という主題によって結び付けることでコン フリクトを回避し,本来,なり得るはずもないY事件 を糧にした PSW の職業倫理の歴史ができあがった」
(桐原2013:79)とし,「PSW 協会は,最後までY事件 に向き合おうとはしなかった」(桐原2013:79)と述べ ている.
桐原が学問的基盤とする障害学は,「障害における
「社会モデル」と「当事者性」を中心として展開され,
多くの研究成果を生み出している」(渡辺2014:25).
一方,日本において「「障害学」の基礎そのものが,実
はそれほど確固たるものではない」(堀2014:11)とす る評価を受けながらも,「日本の障害者解放運動に依拠 し基礎とするものである」(堀2014:12)とされてい る.
障害学(disabilitystudies)は,「従来,主に障害を 扱ってきた医療,社会福祉とは異なる視点から,障害 や障害者を捉えようとする」(池田2014:85)ことにそ の特徴を有する.それは,「一九六〇年代後半から七〇 年代中葉にかけて先進資本主義諸国を中心として同時 多発的に勃興した,障害者自身による社会運動を背景 として誕生した」(安岡ら2009:34)とされる.当時の 日本における障害者自身による社会運動として,「青い 芝の会」による当事者運動があった(横塚1975=2010),
(立岩1990=2012:258-353),(定藤2011)ものの,当 時は学問としての成熟をみることなく,障害学は,「日 本でも2000年前後からしだいに多くの研究者の関心を 集めるようになった」(星加2009:29).そこでは,「個 人の身体の水準でなく,社会の水準で」問題の「解決 が図られるべきだ」との考えが主張される(立岩2004:
65).
また,障害学が構築された意義は,「「障害」に関す る議論に「当事者の視点」を反映させる」(池田2014:
85)ことであったとされている.これらの論考により,
障害学は,当事者からの視点を中心とし,これまでの 学問領域に対する「新しい批判的視点」(後藤2005:
400)をもつ学問であり,「きわめて政治的で介入的な 学問」(倉本2002:284)であるといえよう.
ここで取り上げた当事者の定義として,中西 ・ 上野 によるものが参考になる.中西 ・ 上野によると,当事 者とは,「ニーズを持った人々」であり,何が「問題」
になるかは,社会のあり方によって変わるとされ,「問 題をかかえた」人々とは,「問題をかかえさせられた」
人々である(中西 ・ 上野2003:9)とされる.当事者 の側から社会をみつめることに,障害学の独自性があ るといえよう.また,上記の障害当事者による社会運 動は,障害者自身による自立生活を目指すものであり,
それは,ソーシャルワーカーをはじめとする専門職批 判を表出したものであった(狭間2001:114).
本稿で主題としている問題を障害学の視点からみつ めるならば,Yは PSW によって自傷他害の恐れがあ るものとして祭り上げられたと解釈することが可能で ある.自傷他害の恐れがある者に対しては,「本人の
「自己決定」のとおりに常にするべきだとは言えない」
(立岩2017:30)一方で,「精神医療は他害に対する処 置としての強制,他害を防ぐための処置としての強制 医療を行うべきではない」(立岩2017:33)との障害学 からの論考は,PSW にとっても学ぶべき視点のひとつ であろう.
障害学の視点は,PSW に対して上記の点のみなら ず,当時,雇用環境が今日よりも厳しかった PSW が Y問題を利用することによって,自らの職域拡大と資 格制度創設,倫理綱領の策定への道のりを歩んだとす る歴史観を提起する.
「歴史の常識の見直しを障害学は提起している」(長 瀬1999:13)という長瀬の指摘に従うならば,まさに 障害学は,Y問題の歴史の常識に見直しを迫っている のである.
なお,障害学と社会学の境界は曖昧である.社会学 は,「従来「自然な」ものとして自明視されていた現実 が実は社会的に構成されたものである,ということを 示すプロジェクト」である(星加2007:3).この定義 は,上述の障害学と類似するものである.社会学者で あり,障害学会の会長を務める立岩真也は自身の著書 である『私的所有論』(立岩1997=2013b)について,
「障害学」の本でもあると述べている(立岩1999a:
100).2003(平成15)年に設立された障害学会は「社 会学をはじめとする様々な分野の研究者の注目を集め ている」(星加2007:33)とされている.このため,本 稿では障害学を社会学に類似し,同義のものとして扱 う.
8 .まとめ―学問基盤による視座の相違 をどう受け止めるか
本稿では,Y問題を主題として,社会福祉学を基盤 とする PSW 及び日本 PSW 協会と,その隣接科学であ る障害学 ・ 社会学からの当該問題に対する視点の異な りについて論考を進めてきた.そのなかで明らかになっ たことは,社会福祉学がY問題を,その後の倫理綱領 策定や資格制度創設に繋げる発達史として捉えるのに 対して,障害学 ・ 社会学からは,社会福祉学は当事者 の視点を忘却し,ソーシャルワーカーらに都合のよい 歴史記述が行われているとする批判である.
では,社会福祉学は上記の障害学 ・ 社会学からの批 判を受け入れ,歴史記述をより客観的なものに修正す るべきであろうか.筆者は障害学 ・ 社会学の社会福祉 学に対する批判からは学ぶものはあると考える.しか
し,当該の指摘をそのまま受け入れることに対しては 疑問が残る.
なぜなら,これまで述べてきたように,社会福祉学 は実践を伴う学問である.社会福祉学は,今日におい てソーシャルワーク専門職の養成を主に担う役割を社 会から期待されている.その際,障害学や社会学が記 述する物事を客観視する視点はもちろん必要である.
その一方,障害学や社会学の指摘は,Y問題を冷静 に分析するのみに留まっているのではないか.もちろ んその視点は必要であるが,社会福祉学は,Y問題の 教訓と反省を踏まえ,実践の学として生きていかなけ ればならない学問である.そのため,Y問題を客観的 に分析する視点よりも,「課題解決型科学の一つ」(古 川2004:7)である社会福祉学は,当該事象をどのよ うにこれからの実践に活かすのかに焦点が当たるので ある.
障害学 ・ 社会学からの冷静な歴史分析は必要なもの であるが,Y問題は PSW の実践や倫理綱領作成,資 格制度創設等に貢献をしていないのかという問いに対 して,全面的に同意することは果たして可能であるの か.筆者はそのように考えない.Y問題は,今日にお ける PSW の反省材料として生きており,それは「ワー カーの思考,態度と行為の規制」(清水2012:25)を目 的とする倫理綱領策定や「ワーカーの資質向上の道具 というだけでなく,利用者(および社会)への「品質 保証」でもある」(清水2012:28)とされる資格制度創 設に貢献した側面が存在すると考える.PSW 養成テキ ストのなかでは,PSW は日本 PSW 協会の「倫理綱領 を常に確認しながら支援を行っていくことを忘れては ならない」(行實2013:234)とされ,実践のなかで倫 理綱領を重視している.それは現在の日本 PSW 協会 の倫理綱領のなかにも,その目的として,「専門職とし ての価値に基づき実践する」,「クライエントおよび社 会から信頼を得る」等,Y問題の反省と教訓を活かし たとみられる記載がある.
また,Y問題は,本稿において取り上げた各出版社 からの PSW 養成教育のテキストのなかで,今日にお いても取り上げられている.将来 PSW を目指すにあ たって,Y問題は,自らの実践を反省的に捉える上で は必須の知識であろう.実際,Y問題に関連する歴史 は,精神保健福祉士国家試験のなかでも出題されてい る(溝口2012:63).
社会福祉学は,実践を基盤とする以上,事実を正確
に知る必要性は全く否定されるものではないが,それ を糧とする視点は,実践家養成のためには必要であり,
間違っていると言い切れないのではないか.Y問題は,
社会福祉学におけるパターナリズムに関する議論にも 深く関係するものである.これに関し,Y問題に関す る業績がある樋澤は詳細な分析を行い,以下のように 述べている.
①「社会福祉や医療の場面における支援/介入は多 分にパターナリスティックな要素を含んでおり,また その介入を行うためにはそれなりの関係構築が必要で あり」,「その関係構築にはそれ相当の時間と労力が必 要である」(樋澤2005a:87).
②「支援する側の優位は,必要以上の介入/干渉を 誘引するか,あるいは反対に必要以上に自己決定を特 権化しそれが不可能な者を抑圧するという事態を引き 起こしやすくなる.後者の関係を深めるためには,当 人と支援する者との間には常(に)「自己決定」に対す る認識のズレが生じるということを意識しつつ,自己 決定と支援の「境界」をどこに設定するかということ を検討する必要がある(樋澤2005b:113).
③「当該個人の状況に応じた正当化要件をふまえた 条件付きのパターナリスティックな介入は,ソーシャ ルワークにおける自己決定支援に必要不可欠である」
(樋澤2008b:43).
一方,本稿においてたびたび登場する障害学を自身 の学問基盤とする桐原は,Y問題以外にも,精神科医 療や精神保健福祉に関する歴史に対して,以下のよう に社会福祉学に歴史の修正を求めている.
①宇都宮病院事件から精神衛生法改正までの歴史に 関する検討のなかで,宇都宮病院事件の「告発者及び その協力者の意図は,宇都宮病院の解体,宇都宮病院 への制裁,精神医療の改善による再発防止,宇都宮病 院入院患者と退院患者の「介護」の4点が主であった」
としている(桐原2015:54).そのうえで,「宇都宮病 院の告発者及びその協力者の意図と定説が示す1987年 法改正との間にはなんら関係は認められず,1987年法 改正は告発者にとって意図しない帰結であった」と述 べている(桐原2015:54).
②1990年代に提起された「処遇困難者専門病棟」新 設を阻止するための運動を主導したのは精神障害者の 社会運動であることを史料から明らかにしている.し
かし,その史実は精神科医が述べるものでは考慮され ていないとしている(桐原2016:51-61).
③全国「精神病」者集団の結成前後の歴史に関する 研究のなかで,「全国「精神病」者集団の歴史では,立 場の違いから社会事業史の目的(社会福祉の科学性を 高め,民主主義に基づいた日本社会福祉の進展に資す る)を達成できなくなる.」とし,「精神障害者団体の 全国組織の歴史は,全国精神障害者団体連合会を中心 とした歴史叙述を展開し,全国「精神病」者集団にか かる歴史叙述を意図的に避けてきた」と述べている(桐 原 ・ 長谷川2013:39).また以上のことから,「社会事 業史の通説は,修正されるべき」としている(桐原 ・ 長谷川2013:40).
上記の指摘は,障害学の視点から社会福祉学を客観 的に眺め,分析したものであり貴重なものである.障 害学からみれば,社会福祉学自体が当事者主権を忘れ,
パターナリスティックな視点を多分に含んでいるとい うことであろう.
今日の社会福祉学においては,精神障害者をはじめ とする障害者に対する制度は充実し,当事者が「生活 のしづらさ」を感じる機会を減少させるべく努力が積 み重ねられている.しかし,「現在の日本の状況につい て考えると,「障害のあるなしにかかわらずともに生き ていく」などの耳あたりのよい言葉が多く聞かれ,「障 害者」と「非障害者」の線引きを曖昧にしていくベク トルが働いている.」との見解(土屋2016:206)や,
「建前的な「同じ人間」というくくりのなかで,実質的 な生活世界の線引きが行われ,さらに差別的な社会構 造そのものの問題化の困難が起こっているのではない か.」(土屋2016:206)との記述は,冷静に物事を分析 する社会学からの重要な指摘であろう.
先に取り上げた,社会学者であり,障害学会の会長 を務める立岩は,社会学の功績として,以下のように 述べている.
「社会学がやってきたことは舞台裏を明かすことであ る.だが舞台裏を明かすことは幻滅だけをもたらすの ではない.それを信じなくてもよいことを知ることで 楽になれることはある.脱魔術的であることによって 治療的であることもある」(立岩2018a:353).
上記の指摘は,社会学 ・ 障害学の重要な仕事であろ
う.本稿において,これらの学問と比較を行っている 社会福祉学は,これまで述べてきたように実践の学問 である.そのため,「~であるべき」との規範が強い.
古川は上記に関し,「社会福祉研究には公正,公平,平 等,厚生,生活の安寧,生活の質などについて一定の 判断の基準や方法を考察し,提起する規範科学的アプ ロ―チが不可欠とされる」と述べている(古川2009:
108).
では,社会福祉学を構成する「社会福祉」とはそも そも何であろうか.古川は,社会福祉を以下のように 定義している.
社会福祉とは,現代社会において社会的にバルネラ ブルな状態にある人びとにたいして社会政策として提 供される多様な社会サービスの一つであり,各種の社 会サービスに先立ち,またそれに並んで,あるいはそ れを補い,人びとの自立生活を支援し,その自己実現,
社会参加,社会への統合を促進するとともに,社会の 公益性と正当性を確保し,包摂力と求心力を強め,そ の維持発展に資することを目的に展開されている一定 の組織的な施策の体系およびそれにかかわる諸活動な らびにそれらを支え,方向づける原理の総体である.
その内容をなすものは,個別的かつ総合的な対応とい う視点と枠組みから,人びとの社会生活上の困難や障 害,すなわち社会的生活支援ニーズ(福祉ニーズ)を 充足あるいは軽減,緩和し,最低生活の保障,自立生 活の維持,自立生活の育成,さらには自立生活の援護 を図り,またそのために必要とされる社会資源を確保 し,開発することを目的に,国 ・ 自治体また各種の民 間組織 ・ 団体さらには私人によって策定され,運営さ れている各種の政策,制度ならびにその実現形態とし ての援助であり,またそれらに関連する諸活動である.
(古川2009:79-80)
上記のような活動を実践していくために,例えば,
社会福祉学においては,ソーシャルワーカーは利用者 のためになるべきであり,利用者の主体性を尊重する 努力を行うべきであるとされる.
例えば,本稿で取り上げているY問題とも関連のあ るライシャワー事件を主題とした社会福祉学による歴 史研究では,精神障害者の「生活のしづらさ」・「生活支 援」という側面から,過去の「精神障害者の生活」に 焦点を当てることの必要性を示している(瀬戸山 ・ 本
山 ・ 今村ら2013:67-72).さらに,その視点から「得 られた研究結果を現在の精神医療,また PSW の援助 活動の発展と向上に役立てることに大きな意義がある」
と述べられている(瀬戸山 ・ 本山 ・ 今村ら2013:71).
これらは,「このようにするとよくなるのでは?」とい う,実践科学=社会福祉学の特徴を浮かび上がらせて いるといえよう.
「社会福祉においてはミッション(使命)が重要な意 味をもっている.おのずと,社会福祉学の研究はミッ ション科学,課題解決科学としての性格をもたざると えない」(古川2008:58)のである.
これらの社会福祉学に関する視点に関連し,福祉社 会学からの分析がある.「社会福祉を対象とし,社会学 の方法を使っておこなわれる研究である」(副田2008:
296)と福祉社会学を定義し,その魅力を,「社会福祉 を構成する人びとと社会の大小無数のドラマの面白さ」
(副田2008:ⅴ)であるという副田は,福祉国家論に関 する記述のなかで,福祉社会学と社会福祉学の視点の 違いについて,「福祉国家において,ひとは権利の主 体,スティグマの客体として生きるほかはない.福祉 社会学のこの冷徹なリアリズムを,社会福祉学の夢見 るロマンティズム,あるいはユートピア幻想と対置す る」(副田2013:73)としている.
さらに,「リアリストの社会学研究者としていえば,
福祉国家において,人びとは排除されつつ包摂される 矛盾した存在である.それが事実なのだ」(副田2013:
73)と述べている.ここから,副田が考える福祉社会 学と社会福祉学の相違点は,福祉社会学=リアリズム,
社会福祉学=ロマンティズム,ユートピア幻想と整理 することが可能であろう.社会福祉学と福祉社会学の 違いについては,「「福祉社会学と社会福祉学は同じな のか,異なるとしたらどのように異なるのか」という 基本的な問題を再検討することが必要であるといえよ う」(山手2003:8)との指摘が行われているものの,
上記,副田からの指摘は,社会福祉学が時として,客 観的な視点を忘却し,理想論に偏る場合があることを 教示している.同様の指摘は,福祉社会学を自身の学 問基盤とする吉田からも行われている.吉田は,支援 について,「われわれが思う「支援」」と当事者の思う
「「支援」には大きな差異があり,どれだけ既存の「支 援」をあてはめようとしてもそれは本人が本当に望ん でいる「支援」ではない可能性が高」く,「「支援」は
「よりよく生きる」ために必要なものではなく,単純に
「ただ生きる」ために必要なものである」(吉田2010:
494)と述べている.
上述のとおり,社会福祉学では,Y問題は,今日の ソーシャルワーカー国家資格制定へと繋がるものと理 解されているが,これは,社会福祉学が資格制度を必 要なもの,善いものとして捉えていることの証左であ る.この点に関し,上記の立岩は,社会学の視点から,
資格について「自らの権益を獲得し,既得権を維持す るための手段として存在する」(立岩1999:143)面が あることを指摘し,ソーシャルワーカーを中心とする 対人援助専門職が,今日,その業務を遂行していくう えで大切にしている「トータル ・ ケア」について,「全 体を見られたり,全体的に相手にされたりするのは時 にうっとうしいことを忘れない方がよい」(立岩1999:
147)と述べている.これは,資格制度を「善いもの」
として,無条件に肯定している側面を有する社会福祉 学への警告であるともいえよう.
また,医療社会学の領域からは,本稿で取り上げて いる精神科病院と患者との関係について次のような指 摘が行われている.
たとえば患者にとって苦痛な状況は,患者のための 医学的措置であるという病院の言明によって,苦痛と 受け取るのは患者がまさに病んでいる証拠とされてし まう.(高橋1999:212)
上記の精神科病院と患者に関する現状への警告は,
実践の学である社会福祉学に対しても行われているも のであるといえよう.
また,立岩は,社会福祉学を含む実践を中心とする 学問領域の特徴を以下のように述べている.
もともと,福祉や医療といった領域は実践の領域で あり,そのことに関わる学は,やはり実践的な,問題 解決型の学である.そうした学はあまり過去に拘泥し ない.過去を語るときには自らの発展の歴史としてそ れを語る.そのため,対立や齟齬や矛盾が記述さえる ことは少ない(立岩2018b:28).
これらの記述は,社会福祉学が,本稿で取り上げて いる障害学や社会学をはじめとする隣接科学から学び,
共存していく道の模索する必要性があることを示唆し ている.
このような動向のなかにおいて,今日では,社会福 祉学の側から積極的に障害学 ・ 社会学をはじめとする 隣接科学から導かれた知見を学ぼうとする姿勢が見受 けられる.
例えば,第5回障害学会(熊本学園大学)において,
学会シンポジウムの「障害学とソーシャルワーク」に て報告を行っている三島2)は,自身の著書のなかで,ソー シャルワーカーに対する1960年代からの反専門職の思 想に応えるための,「エンパワメント」,「ストレングス
(強さ)視点」,「ナラティブ(物語)理論」等に代表さ れる新たなソーシャルワーク理論を「反省的学問理論」
と名付けている(三島2007:ⅳ).ソーシャルワーク実 践を科学化し,その専門性を高めることにより専門職 としての地位を確立しようとしてきたソーシャルワー カーが「クライエント」からの逆襲を受け,自身の実 践を反省的に振り返る視点を導入した一連の過程の分 析は,「福祉界にどっぷり浸かっている人からは反感,
反発を買うかもしれないけど,醒めた目で福祉なるも のの群生を見届けている人も必要だからね2)」といった 言葉に触発され,障害学に学びながら社会福祉学研究 を続けている三島からの社会福祉学に対する貴重な仕 事であろう.
社会福祉学は,これまで述べてきたように,規範科 学としての性格が強く,「クライエントのために」努力 すべきであるとの考え方が強い学問である.ここで登 場する,「反省的学問理論」は,「社会福祉学が主に対 象とするのは社会的弱者であり,社会的弱者は援助や 慈しみの対象者ではあっても,それが主体化していく ことは想定していなかった」(田中2012:76)ことに対 して,当事者の視点から,ソーシャルワーカーがもつ パターナリズムなどの権力性を暴き,自らの力を発揮 すべく奮闘している姿であるともいえよう.
当事者からの視点に重要性を置いている研究に,浦 河べてるの家の実践がある.浦河べてるの家は,主に 精神障害者が共同で生活しながら事業展開している.
べてるの家では,利用者が体験する幻覚や妄想に対し,
「幻聴さん」などと呼ぶことによって,体験をおおっぴ らに話し合う(大熊2000=2002:30-32).そこでは,
「当事者研究」が行われている.「当事者研究」は,浦 河べてるの家の PSW であった向谷地と,ある統合失 調症の利用者とのやりとりから始まった(向谷地2005:
3).そこでは,①〈問題〉との切り離し作業,②自己 病名をつける,③苦労のパターン ・ プロセス ・ 構造の