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風俗から見た『松崎天神縁起絵巻』

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風俗から見た『松崎天神縁起絵巻』

佐    多    芳    彦

はじめに

  『松崎天神縁起絵巻』

(以後「本絵巻」と略称する)は山口県防府市の防府天満宮に伝わる鎌倉時代の絵巻物である。美術史、国文学、歴史学などから注目されている。いわゆる「天神縁起」の一諸本ということから、九三〇(延長八)年の清涼殿落雷や、怨霊となった菅原道真の姿が描かれている場面が取り上げられることが多い。また、巻四の内裏造営

・ 巻六の松崎天神社造営の場面は数少ない古代末期から中世期にかけての番匠

・ 建築工法について豊

かな情報を有していることからも広く知られている。特に巻四では出光美術館蔵『伴大納言絵巻』中巻の異時同図法で描かれた舎人と出納の子供同士の喧嘩の場面が、本絵巻の内裏造営の場面にそっくり移植されたかのごとく描かれているのも広く知られているところであろう。

  本絵巻は京都

・ 北野天満宮に伝わる『北野天神縁起絵巻』を根本縁起とする(以後、

「天神縁起」と略称する)。同社は平安時代の菅原道真(八四五―九〇三)を祀ることで知られているが、天神縁起は道真の生涯を描き、北野天神のさまざまな霊験を加え、絵画化したものである。この内容に、新たな二利生譚を加え、防府

・ 松崎神社(防

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府天満宮)創立譚を加えたのが本絵巻ということになる。美術史の研究成果としては、本絵巻は、天神縁起の諸本の諸流の一つに数えられ、数多くの諸本中に位置づけられるなどの成果が蓄積されてきた 。よって、本絵巻は菅原道真や北野天満宮に関する天神縁起絵の一種とされ、「松崎本」と呼称される場合もある。

  天神縁起自体、膨大な先行研究の蓄積があり、その研究成果として、弘安本という諸本系譜における一系統に属し、防府

・ 松崎神社の創立譚を加えているところから天神縁起絵諸本中では異本として位置づけられている。した

がって本絵巻については天神縁起の諸本のひとつとしての研究しかなされていないということになるだろうか。本絵巻の画容は品格のある美しい繊細な筆致によるもので、同社の保存の尽力もあり、現在においても非常に良好な画面の状態である。天神縁起諸本と比べて、保存状態の良好さもあるが、独特の整然とした画面構成という印象が強い。一見して、本絵巻の風俗や建築などの描写が精細であることは誰もが認めるところといえよう。

  有職故実の立場からみた場合、本絵巻の注目するべき点として、鎌倉時代後期の公武の風俗(服飾、建築、室礼など)を具体的に知ることのできる貴重な史料という点が掲出できる。また、非常に考証の行き届いた清涼殿殿上間の描写がある。以前、奈良

・ 平安時代に朝廷でおこなわれていた雷鳴陣という行事について興味関心を抱いてい たことがあった 。その折、九三〇年六月二十六日の内裏

・ 清涼殿落雷について調査を進める過程で本絵巻が、

非常に部分的ながらも雷鳴陣の唯一の絵画であることがわかった。後述するが、清涼殿殿上間の精細な描写に魅了され興味を抱いた。現在、武家服制への関心という別視点から改めて本絵巻を見直し、新たな興味を抱き、豊かな作品世界について再認識した。他方、筆者の乗り物の研究のなかで、平安

倉期の人が乗る牛車の牛飼童が、運搬 ・ 鎌 ぎっしゃ

・ 運送に大きな役割を果たした牛 うしぐるまの運用に携わっていたことを推測するに足る根拠として、前掲巻四の内裏造営の場面も、本絵巻に関して強い関心を抱く契機となっている

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  小稿では、本絵巻に描かれた公武の服制や建築描写について時代的特色をあきらかにし、考察を加えたい。本絵巻の製作年代の研究や、画容の検討などに役立てて頂ければ幸いである。

  まず本絵巻の作期と諸本について概観する。

一  所伝と天神縁起諸本からみた作期   防府天満宮は山口県防府市に所在し、九〇四(延喜四)年創建とされる。かつては松崎天満宮、宮市天満宮とも呼ばれた。現在の名称は一九五三(昭和二十八)年からのものである。

  本絵巻の諸元と現状は「角川絵巻物総覧」によれば以下のとおりである 。○『松 まつがさきてんじんえん』防府天満宮蔵  重要文化財  鎌倉時代  応長元年(一三一一)  紙本着色第一巻  詞

・ 絵各八段

  三三

・ 八×一三一八

・ 六㎝/第二巻

  詞

・ 絵各七段

  三三

・ 七×一三七九

・ 四㎝/

第三巻  詞

・ 絵各八段

  三三

・ 八×一三八二

・ 八㎝/第四巻

  詞

・ 絵各六段

  三三

・ 八×一二一四

・ 二㎝/

第五巻  詞

・ 絵各六段

  三三

・ 八×一三三二

・ 七㎝/第六巻

  詞

・ 絵各三段

  三三

・ 七×八六六

・ 四㎝

  作期については、第六巻の末には次のような奥書が根拠となっている。此御絵有拝見志類者、企参詣於当社拝殿可令開之、雖為権門勢家命更不可出

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社壇、若令違犯此旨輩者、可罷蒙太政威徳天の神罰於拝見之仁身也、仍誓文如件、

  応長元季辛亥潤六月  日         御膳所大法師隆真         宮司大法師実尊

社務法眼和尚位道澄第六巻末の詞書と右の奥書によれば、従五位下土師信定が同社の建立を立願

・ 勧進し、それを一三一一(応長元)

年、当時松崎社の社務職にあった法眼和尚道澄らが神殿に籍め奉った、という由緒を持つ。作期は十四世紀初期ということになる。願主土師信定に関しては、周防国の在庁官人かと推測されるのみで、詳細はわからない。だが、本絵巻の最終巻を自社創立の縁起にあてている独自な構成に注目すれば、願主土師氏は松崎社に所縁の人とみなすことには妥当性があろう。

  では、本絵巻は天神縁起と具体的にどのような関係性をもつのだろうか。諸本研究の成果から概観すると以下のようになる。

  天神縁起は天神信仰の広まりを背景に多数の諸本が製作された。その諸本を整理すると次の六流に分類すること

(5)

ができる。①  建久本   現存する最古の縁起。北野社僧宗淵(一七八六―一八五九)による謄写で絵はない。『天神記』と呼ばれる。奥書に「建久五(一一九四)年十月廿四日書写了」とあり、一二世紀末、『天神記』記載の同社縁起譚がすでに成立していたことになる。②  建保本

  右の建久本に増補を加えているもので、序文に「建保のいまにいたるまで」とあり、建保年間(一二一三―一九)の作と理解され、建保本とよばれる。以後の『北野天神縁起絵巻』諸本の多くの詞書はこの建保本を基にしていると推測されている。③  承久本   北野天満宮所蔵。制作当初のままで現在に至る最古の『北野天神縁起絵巻』とみなされている。建久本と建保本をもとに再構成されたと推測される詞書をもつ。絵巻の料紙を縦につないだ大型の画面であることが特色で、濃彩で描かれたている。根本縁起ともよばれている。序文では絵巻成立について「この絵巻物を制作し、天神がこれを見て結縁した諸人が喜ぶさまをみて憐れみをもち、ゆえに浄土往生するだろう」とする。また、同序文には「爰一条院の御宇  寛弘元年甲辰十一月廿一日辛丑  始て行幸なりしより承久元年己卯今にいたるまで  聖主十九代つもる月日二百十六年(下略)」とあり、本絵巻が一二一九(承久元)年に成立したことがわかる。④  甲類諸本

  「王

城鎮守神々多くましませと……」と詞書が始まる、もっとも古い諸本群といわれる。ニューヨーク

トロ ・ メ

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ポリタン美術館本  五巻/前田育徳会荏柄本  三巻(一三一九)/平九里天神社本  三巻(一四四六)/岩松宮本 三巻(一三六七)/杉谷神社本  三巻(一四一九)/菅生神社本  三巻(一四二七)/佐太天満宮(文安)本  六巻(一四四六)/佐太天満宮(文明)本  六巻(一四七九)/英賀神社永正本  三巻(一五〇七)/ニューヨーク公共図書館スペンサー本  六巻⑤  乙類諸本   「日 本我朝は神明の御めくみことにさかりなり……」と詞書が始まる諸本群。甲類と丙類の両要素を持つ系統。津田天満神社本  三巻(一二九八)/常盤山文庫本  三巻(一二九八)/英賀神社応永本  三巻(一三九一―一三九五)/出光美術館本  一巻(一四〇三)/上宮天満宮長禄本  六巻(一四九五、一

  ⑥丙類諸本    天満宮光信本三巻(一五〇三)/北野天満宮光起本三巻(一七五〇) 巻は一七一五補写)/北野 ・ 四   「漢

家本朝霊験不思議一にあらさる中に……」と詞書が始まる諸本群。一二五八(正嘉二)年に新しく製作された北野天神の縁起譚(天神縁起研究においては「新縁起」と通称される。原本は散逸したらしい)をもとにした詞書をもつ系統。一二七八(弘安元)年の奥書をもつ「弘安本」によって「新縁起」は流布したともいえ、甲類とは一線を画す系統と評価されている。

  上宮天満宮正嘉本詞書  二巻/久保惣記念美術館建治本  二巻

・ 断簡(一二七七)

/諸家分蔵建治本断簡

  (一 二七七)/北野天満宮弘安本  三巻(一二七八)/東京国立博物館本弘安本断簡  二巻(一二七八)/大東急記念文庫弘安本断簡  三幅(一二七八)/西脇家弘安本断簡  一幅(一二七八)/シアトル美術館弘安本断簡  一幅(一二七八)/防府天満宮松崎本  六巻(一三一一  本絵巻)/根津美術館本  六巻/宮内庁本  六巻

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  以上から本絵巻は⑥丙類の異本のひとつとみなされている。このことは一三一一(応長元)年という本絵巻の作期を裏付け、さらに、描かれている風俗が一二五八年以後のものである可能性を示唆する。しかし、絵巻物のような絵画作品の特徴でもある、詞書に記された物語中の時代の風俗を再現する(しようとする)ものなのだろうか。それとも物語の時代性よりも製作された時代性を優先しているのだろうか。次に、本絵巻の風俗とその表現をみてみたい。

二  服装の時代性   本絵巻には、さまざまな身分

・ 職能の人々が描かれている。風俗という視点で概観した場合、いわゆる公

・ 武そ

れぞれに時代の特色を読み取ることができるだろうか。本絵巻の作期に関わる重要な情報を導き出せるであろうか。

  本絵巻の朝廷貴族社会に所属する人々の描写は、天皇から下級官吏にいたるまで非常に多岐にわたる。

  巻一~六巻まで、この物語の主人公である菅原道真をはじめとして朝廷貴族社会の人々が数多く描かれる。しかし結論から言えば鎌倉時代末期の様相を呈している。いくつか時代の特色を知る指標となると推定されるものを採りあげる。

  まず、注目したいのは、朝廷貴族の公服であり正装でもある束帯姿に代表される、丸い襟元の盤領系の服装である。

  院政期より貴族社会の束帯姿などを中心に、絹地の生地を砧打ちや、粉 ばり(薄く糊を掃き、胡桃の板などに貼り、乾燥させてから引きはがす調整法)を施し、生地に張りを持たせた「強 こわしょうぞく」が定着した。奈良朝から平安時代の

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院政期前後までの貴族社会の服は、しなやかでやわらかな絹素材の生地のために、視覚的には身体の線、たとえば肩の線がはっきりわかるような仕立てであった。図像上の表現としては曲線や丸みのあるゆるやかな弧線で構成された服の表現で、宮内庁蔵『唐本御影』や松尾大社蔵『老相男神像』などにみられるとおりである。これを強装束に対置して理解し「柔 なえしょうぞく」と呼ぶ。ところが、強装束の起源は院政期ころといわれる。奈良時代以来のやわらかな絹製の服を最上衣として、その下に上記の調製をほどこした強装束を身にまとっている姿は、全身の輪郭線が直線で構成され、折り目や衣紋の襞などは鋭角的

・ 直線的に見え、図像としても斯様に表現されている。そのために

「如木」などと呼ばれることもある。流行と言っていい着装法であり、空間的にある種の威容や存在感といったものを醸し出すと理解していいだろう。院政期を経て、鎌倉時代に朝廷貴族社会に広まっていったとみられる。

  本絵巻ではほぼすべての盤領系の服、たとえば束帯姿や直衣姿などの高級貴族の服装類や、狩衣姿や水干姿などの下級貴族や召具

・ 召使の服装まで、総じてこの強装束で描かれている。服の輪郭線は総じて直線と鋭角的な屈曲

線で構成されていることがわかる。本絵巻と近い時期の作とみられる強装束を描く図像としては、一三世紀前半の作とされる『紫式部日記絵巻』、一二五二(建長四)年ころを作期の下限と考えることのできる京都国立博物館蔵『公家列影図』、ほぼ同時期の作として広く認識されている佐竹本『三十六歌仙絵巻』などがある。これらを時代の上限と考えることが可能である。一二九九(正安一)年ころの作である清浄光寺蔵『一遍聖絵』(『一遍上人絵伝』)、一三〇九(延慶二)年ころの作である三の丸尚蔵館蔵『春日権現験記絵』、一四世紀前半の作とみられる三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』などにもみられるものであり、これらが本絵巻との比較検討において妥当とみられる強装束の図像の下限であろう。強装束を服と服装の時代性を示すものと考えた場合、これらの作品には本絵巻と非常に類似した貴族社会の人々の服の特色とその描き方が見いだせるのであり、おのずと具体的な時期としては一三世紀中

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ごろから一四世紀前半ということがわかる。ただし、当該時代は強装束が朝廷貴族社会の人々、特に男の描き方として一般化してしまっているともいえ、柔装束が服と服装の古様さを示すものでなくなっており、下級貴族やあるいは貧困、鄙の者等を示すといった作画上の表現となってしまっていることには注意が必要であろう。

  強装束をはじめとする朝廷貴族社会の人々の服装描写は省略が少なく、非常に細かくていねいで、かなり正確な描写であることが特徴的と言える。たとえば束帯姿の下に着込めた下襲の裾の長さ(丈)の表現などにも注目しておきたい。下襲の裾は高官の職掌を示すもので、身の丈にあまり後方に長く引くものであった。たとえば大臣の裾の長さに限定して言えば、この時期、九四七(天暦元)年で一尺であったものが、一〇七〇(延久二)年には七尺、一二一二(建暦二)年ころには一丈、一三世紀末には一丈四

・ 五尺(約四二〇~四五〇センチメートル)にまで長

大化する。本絵巻においては、おおむね、比較的短めに描かれる。現実に忠実に描こうとすると画面が煩雑になるし、絵として様にならないのだろう。また、作品としてその人物の事実と寸分たがわぬ正確な服装の表現をすることは目的としてはいないので当然のことと理解できる。しかし、わずかではあるが、現実に忠実とまでは言えないにしろ、長大であることを示唆するような幾重にも畳んだ表現などが数か所見てとれる。

  筆致の正確さという点で言えば巻三では冠直衣姿の貴族の姿がしばしば描かれてる。夏料の三重襷の直衣だが、三重の線を交差させ、中央に菱をすえた描写だが、徳川美術館

・ 五島美術館蔵『源氏物語絵巻』などにみられる古

様な平安時代後半のものである。直衣の三重襷は、本絵巻の作期からみれば、一本の線の交叉に菱型の枠をおき、そのなかに菱を据えた鎌倉時代後半期のもので統一されてもよい。そこをあえて古様なものを描くのは、物語は一〇世紀末なのでこれを意識した作者の服

・ 服装に関する知識の顕現であり、制作の姿勢も垣間見られるということ

だろう。

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『松崎天神縁起絵巻』(山口県 防府天満宮所蔵)

巻五 第三段「銅細工師の館」 都の西七条にすむ銅細工の男とその家族 画面左の2番目~右端は男女ともに筒袖の男 ・ 袖細姿、女 ・ 小袖姿、左端の人 物は使用人であろうか。

『同上』 巻四 第五段「女房盗衣」 袿襲を捧げ持つ小袖袴(はだか衣)姿の女 右手で頭上に捧げ持つ襲袿の描き方と、この女の左上の袖口に注視すると、前 者においては当該期特有の服の描き方、後者においては朝廷貴族女性に浸透し つつあった小袖袴姿の実例を見出すことができる(本文参照)。

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『同上』 巻六 第二段「松崎の社繁栄」

      武士の袖細・直垂姿 上 ・ 中 袖細

下   直垂

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  女房と言えるか否かにはやや疑問がのこるが、朝廷や貴族家に所属する女性の服装としては、巻四第五段「女房盗衣」に出てくる袿襲姿を捧げ持つ女が描かれる 。この女は張袴で着ている間着の片袖を脱ぎ、小袖を腰巻のように身にまとっているようにみえる。左腕だけ袖に手を通し半裸の状態だが、いわゆる小袖袴姿(はだか衣)で、鎌倉時代の朝廷貴族社会の女性特有の姿である。この女が捧げ持っているのが襲袿そのものである。捧げ持たれた襲ね袿は袖口や裾から下に重ねている袿の色を整然と見せている。しかし、子細にみると重ねている袿の一領一領をていねいに描いているのではなく、いわゆる五つ衣のような一組という描き方であることが見てとれる。『佐竹本三十六歌仙絵』『紫式部日記絵巻』のように、重ねた袿を一領ずつていねいに描こうとするものではなく、貴族社会の女性の襲袿姿のような「服を重ねる」「服を重ねた一組」というような表現方法ともいえるだろう。鎌倉時代末期ころから多くの世俗画にみられる表現上の傾向だが、単純に省略を意図する作画ではなく類型的な描き方のひとつとみるべきであろう。注意されるのは本絵巻と非常に近い時期の作品である『一遍聖絵』などでは、一枚一枚をていねいに描いた袿襲姿もみられるので、あくまでも鎌倉時代末期ころから一般化していく描き方、であることにすぎない。服の絵画上の表現、ということを確認しておく。話を本絵巻にもどすが、襲袿を捧げ持つ女の小袖袴姿は家居の日常の姿で公的な場所での晴の姿ではない。この女は詞書によれば「神憑き」のような狂乱の状態であり前後不覚の状態を示している。そもそも朝廷貴族社会の女の身にまとう小袖は、本来庶民女性の作業服であった筒袖の小袖(以下、「小袖」と略称する)が、平安時代末期から徐々に貴族社会にも浸透していった結果である。その初期の様子は平安時代末期の『伴大納言絵巻』などにも散見されるものだが、小袖の上に夏料の羅の単衣か袿を重ねて描かれており、日常とはいえ本絵巻ほど略式になってはいない。いずれにしろ、朝廷貴族社会の女性の小袖であるから、庶民とは異なり、素材は絹織物となったであろうし、仕立てもしっかりとしたもので庶民とは全く異なるも

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のであっただろう。鎌倉時代末期の典型的な貴族女性の小袖袴姿が描かれているということになる。

  では次に本絵巻の全巻にわたり描かれる武士や庶民の服と服装をみてみよう。

  まず、武士だが、服と服装は、烏帽子に直垂と烏帽子に袖細直垂(以下、「袖細」と略称する)に大別される。元来、院政期以前より、日常の作業着として広く庶民や初期の武士に広く用いられていたのが袖細だった。侍の被る侍烏帽子(折烏帽子)とこの袖細の直垂の組み合わせは、朝廷貴族社会が武士をみずからの暴力装置や軍事力として採用するなか、武士の視覚指標として一般化していく。さらに、袖細に貴族社会の服の一部を移植し、高級な絹織物などを用いて様式を整えたのが平氏政権であった。麻や葛、枲などの植物繊維による布地製で、筒袖に衽のない身頃の服であった袖細は、大きな袖に脇の下をあけ、欠腋の仕立てとなり、緒所や袖括りなどを設けるかたちで様式的に完成した。これが直垂である 。しかし、絹織物のものは幕府における高級武士や各地の有力な武士などに受け継がれたが、大勢は様式のみ受け継ぎ、布地製のものを用いていた。これを「布直垂」などと呼ぶこともあった。ただ、平安時代末期から鎌倉時代の武士の服と服装は文献史料が乏しく、むしろ絵巻物などのような世俗画や、六道絵のような宗教画に描かれた現世の風俗などを参考にせざるを得ない。しかし具体的な服の形状や使い方などがはっきりとわかる利点もあり、筆者もここ一〇年近く歴史図像(絵画史料)をもとに武士の服装研究を進めることができている。

  本絵巻でも随所に袖細や直垂姿を散見するが、着用者の身分や、主従の関係による使用区分といった視点でみてみる。作期にかかわる情報を読み取れる場面が巻六第二段「松崎の社繁栄」に描かれる武士の姿だ。画面右に、舟が泊まる周防勝間が浦を描き、そこから上陸してきたのであろうか、参詣に訪れた武士の一行が松崎天神の鳥居前にいたった、という構図で描かれる。詞書に特に記されるような逸話ではないようだが、情景の場所の特定を果た

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す場面であるとともに、遠方よりわざわざ参詣者が訪れる場面を描きつつ、松崎天神の信仰の広まり、霊験の高名なことを表現しているのだろう。勝間が浦を背にして進む、二つの武家主従の姿が描かれる。一つ目は鳥居のもとで乗馬しようとしている武士とその従者である。主人とみられる武士は、折烏帽子を被り、上衣は貴族社会の服装でいうところの鰭袖(身頃寄の袖を奥袖、これに継ぎ足した手首寄の部分)は派手目な絹織物の生地を用いた鎧直垂を着ている。鎧直垂は、仕立て自体は完成された直垂と同じだが、弓箭使用時や甲冑の着用時に邪魔となる大袖を袖細のような筒袖にしたものである。公家新制のひとつとして著名な、一一九一(建久二)年の「建久制符」中に「一  可停止諸家侍著直垂事、」として「仰、近年諸家侍、称直垂有著用之物、俗謂之甲衣、(下略 )」とあるように「甲衣」として掲出されるもので、一二世紀末には存在していた。この武士は騎馬用の行縢をつけ、弓箭を帯し、貫を履いた、いわゆる狩装束姿である。馬の口取は袖細を着用しているようで、また馬の後方の胴丸姿で騎馬の主人の熊か猪の尻鞘をつけた太刀を担ぐ武士は鎧直垂か袖細かは判別できない。この武士の主従の後方に二つ目の騎馬の一団が続く。こちらはおそらく夫妻とみられる騎馬二名に、口取を含めて三名の徒歩の従者がいる。先に進む騎馬は夫人であろうか、鞍の後方の鞦に汗取りの白の布帛をはさんだ馬に乗る。市女笠に袿のような上衣を壺折りにして裾を曳かないようにし、被衣のように両袖に手を通していない。下半身は指貫をはき半靴をはいている。この人物は女性であることは疑いないが身体の前に幼児を抱えるようにしているようにも見える。この馬の口取は立烏帽子に袖細を着て袴をはき脚半をつけ草鞋をはいている。その後ろの騎馬はこの集団の主人かとも思うが折烏帽子に完成された形式の直垂を着ている。半靴とおぼしき履物をはいているが鐙にかくれてはっきりとは見えない。画面ではこの主人の馬の前方に見える者は従者で主人の太刀を肩に担いでいる。髪を稚児のように結い、白地に二本の太い横線が入った直垂上衣と、同じく二本の線が入った袴をはいている。この従者も直垂としては完成された

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仕立てのものである。主人の馬の右側には折烏帽子を頂頭懸けにしてかぶり、弓箭をもち、箙を右腰につけている。黒の直垂姿で袖口は袖細のようにみえるが、袖括りの紐で巾着のように絞っている。この二集団は別個の集団かと思っていたが、よくみると両集団の間に、徒歩で、立烏帽子に袖細

・ 袴姿で木の棒に奉幣用の幣帛をはさんだもの

を肩に担ぎ、後方の武家の夫妻の一行を振り返る人物がいる。両集団は実は一つの松崎天神参詣のための集団であることが推定できる。だとすると、前方の鳥居のそばの集団は様子見で先行している従者であり、後方の集団は主人の家族の一行ということになろう。どうも、武士の主従関係において郎党や下人のような位置づけの者は袖細、主人とその家人や近習は直垂という使い分けがなされているようにみえる。

  本絵巻にはどの巻にもいわゆる農民などをふくめた庶民の姿がみられる。彼ら庶民は基本的に袖細で描かれている。女性も後世、小袖と呼ばれるようになる服の原初のかたちである筒袖の服を着ている。本絵巻では巻五第三段「銅細工師の館」には、都の西七条にすむ銅細工の男の家族が描かれている。この家族は男女ともに筒袖で、銅細工職人は袖細である。本絵巻の作品世界では、ある程度の立場を社会的に得ている武士とその家人や近習は直垂、その郎党や下人などの下級の従者は袖細、という武士の主従に準じた使用区分が描かれている。しかも後者の着ている袖細姿は庶民の着るものであった。同様の袖細と直垂の使用区分は肥後の御家人竹崎季長が文永

・ 弘安の役(一

二七四

・ 一二八一)での活躍を描かせた『蒙古襲来絵巻』や、一二九五(永仁三)年頃に制作された神宮徴古館蔵

『伊勢新名所絵歌合』と共通する描き方が多い『男衾三郎絵巻』などにもみられるものである。したがって本絵巻に描かれた武士の姿は一三世紀末の様相を描いていると類推される。

  前述のように袖細から直垂が生まれるのだが、正確に言えば枝分かれしていくように生み出され、直垂が生まれるや、袖細自体がすたれてしまうのではない。袖細は中世末期から近世初期にかけて身分を越えて大流行する小袖

(16)

へと変化していく。小稿では、袖細と直垂のもう一つの関係性、すなわち着用上の使用区分という視点で本絵巻をみておきたい。

  袖細と直垂の過渡期の様相は、直垂を最上衣として用い、その下に、袖細を下着(肌着)もしくは間着として着こめるという使い方においても読み取ることが可能ではないだろうか。元来、袖細を重ね着していたわけだが、最上衣としての直垂が進化し広がり始めたので、結果的には直垂を最上衣、その下に袖細、ということになったと考えられる。また、直垂が形式的に完成する過程で、朝廷貴族社会の水干や狩衣の諸要素を取り込んでいった。そのとき、直垂の袖を水干や狩衣同様大きくしたと同時に、水干や狩衣で用いられていた単衣物の汗取りとか帷と呼ばれた大きな袖の服を肌着として着るようになった。この組み合わせを直垂着用時に採用したと理解していいだろう。ただしこれは都や鎌倉のような都市部での流行が先行し、ゆっくりと地方に広がっていったと考えられる。以上の事情を踏まえて、古代末~中世初期武士が上着と間着

・ 下着に何を着たのかを、絵巻物類を資として検討すると次 のように考えることができる。①  上着:袖細/間着

・ 下着:袖細(一二世紀中

・ 末期~一三世紀初期)

②  上着:直垂/間着

・ 下着:袖細(一三世紀初~一四世紀前半)

③  上着:直垂/間着

・ 下着:広袖衣(一三世紀初~一四世紀前半)

武士の服装は、制度的な変化ではなく、実用上の使い勝手が優先されたと推測される。また、やや流行的な要素も含まれる。したがって、すべてがある年次をもって切り替わっていくようなことはなく、個々が重複する時期があり、次第に淘汰されるように消えていくもの、いつのまにか誰もが使っていたものというような状況を踏まえる必要がある。この①~③を踏まえて本絵巻の袖細と直垂の使用状況をみてみると、どうも③の末期の様相を描いてい

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るようにみられる。ただ、②は地方、③は都市部、あるいは、②は従者、③は主人、という描かれ方が本絵巻と前後する作期の絵巻物類を中心に描かれている。なお、天神縁起承久本の巻一

・ 二巻などに描かれる武士や庶民の袖

・ 直垂姿では②の例が見られることを指摘しておく。

  以上、本絵巻に描かれた服と服装を概観した。まず、非常に正確な筆致による詳細な描写は、鎌倉時代後期の公武やその他の人々の服と服装をかなり正確に描いている。ゆえに当該時代特有の着装法や服それぞれの時代的な特色を描写している。鎌倉時代後半期以降、前掲『春日権現験記絵』などとともに、当該期に特有の精緻でていねいな作画や詳細な描写の作品という点においては、風俗史

・ 有職故実などの見地から見て極めて貴重な絵画史料とい

える。描かれている服や服装は一三世紀後半から一四世紀の前半ころのものを描写していることもあきらかにできた。

三  清涼殿の描写   本絵巻には第三巻に清涼殿落雷を描いた第一段(時平抜刀)と第五段(廷臣死傷)、二種類の場面がある。絵巻物における清涼殿描写としてはきわめて特徴的で、筆者は非常に興味をもって注目している。なぜなら、いわゆる天神縁起諸本には描かれていない独特の構図であるからだ。清涼殿を描写すること自体、本絵巻物の特色のひとつとなっているので、私見を交えつつ、少々詳しく述べたい。

  両場面については『日本紀略』や『扶桑略記』等に詳しい。このできごとは九三〇(延長八)年六月二十六日の清涼殿落雷であり、この落雷が菅原道真の怨霊によるものとされたことは広く知られるところである。ことの発端

(18)

巻三に描かれた清涼殿落雷を描く2つの視点

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『同上』巻三 第一段(時平抜刀)(上)・第五段(廷臣死傷)(下)の清涼殿落雷場面

(右の清涼殿指図中に各段の視点を→で明記)

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は九〇一(昌泰四)年一月、時の左大臣藤原時平の讒言をうけて醍醐天皇が右大臣せあった菅原道真を大宰権帥に任命し大宰府に左遷した事件だった。昌泰の変といわれるこの事件ののち、道真は都への帰還を果たせず当地で没した。その後、天変地異が続き、御霊信仰を背景として、道真の祟りとして人々は恐れおののいた。そこで起きたのが清涼殿落雷で、『日本紀略』『扶桑略記』に詳しい 。両史料の内容を合わせてみると次のようなことになろう 。延長八年六月二十六日、おりからの旱魃に、請雨について議すために大臣以下の諸臣が清涼殿の殿上に参集していた。昼過ぎ、突然の雷鳴に雷鳴陣の陣立を行った。しばらくして、疾風と稲妻がおこり、清涼殿の南西の第一柱に落雷した。火災の方は鎮火したが、御前にいた大納言従三位兼民部卿藤原清貫と従四位下行右中弁内蔵頭平希世が大怪我を負い死亡、同時に殿上にあった右近衛忠兼らも死亡した。紫宸殿にも罹災が及び、右兵衛佐美努忠包

・ 紀蔭連

・ 安曇宗仁が死傷した。

なお、関連して、この落雷のために醍醐天皇は病に伏し、同年九月七日に譲位、二十九日に落飾

・ 崩御した。当時

の人々には、この落雷は道真の怨霊による、道真左遷に関わった人々を襲った事件として理解されたようだ。はたして本絵巻ではどう描かれるだろうか。

  両場面は同じ出来事を扱いながらも、描く内容の焦点が違うために画容も異なる。第一段詞書には次のようにある。其の時、雷電霹靂して、世の中暮れ塞がり、雷の声に、多くの人、肝心を惑はす。清涼殿の中には、本院左大臣(藤原)時平公一人大刀を抜き掛けて、「朝に仕へし時も、我が次にこそものし給ひしか。今、神と成り給ふと云ふとも、争礼義(儀)を乱り、所を措かではをはせむぞ。僻事にてこそ侍るらんずれ」とて睨み遣り給ひて侍らはせ給へりける。主上は、御衾を被りて、「今日の守護神はをはせぬか」と仰せられたりければ、「稲荷

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大明神候ふ」とぞ女房の声にて答へ申されたりける。神明の冥衆、礼の理を忌まず、彼此止ん事無かりける事にこそ。昌泰の変の首謀者といってもいい藤原時平が、怨霊となった菅原道真の眷属と対峙し退ける場面で、画面では清涼殿の南方から北東方向をを見通す構図で、清涼殿を吹抜屋台の技法で描く。この場面は時平の行動とその姿が主題ということになる。

  清涼殿の母屋の南方、櫛形の窓のあたりからの視点で、昼御座のあたりをはさんで孫廂には、振り返りざまに太刀を抜く時平らしき人物と、柱にしがみつき打ち震えるように突っ伏した人物、清涼殿の南に隣接した殿上間にむかって逃げ込もうとする人物が、すべて束帯姿で描かれる。この人物の向こう側に目を凝らすと、孫廂の欄干がみえ、さらに二か所ほど、画面では左右に欄干が切れているのがわかる。これは清涼殿の東庭に面した南北の階であることがわかる。両階の間くらいの孫廂の手前部分には、やや不完全な吹抜屋台の長押が見え、その下方には御簾が懸けられている。ここには赤い服の一部と袖口か裾口かまではわからないが重ねた服が見えている。この場所は東廂の昼御座付近で、ここに天皇や「稲荷台明神候ふ」と答えた女房がいる設定のようだ。清涼殿を内側から外側、すなわち東庭に向けて描く清涼殿の描き方であり他に類例をみない (1

  第五段は清涼殿に隣接した殿上間を南方から描く。詞書には次のようにある。延長八年六月廿六日未の刻、清涼殿の坤の柱の上に雷火出で来て、大納言清貫卿、袍に火付きて臥し転ぴぬ。右中弁希世朝臣顔焼けて柱の下に倒れ臥し、是茂朝臣弓を取りて向かふに、立ち所に蹴殺されぬ。近衛の忠包は鬢焼けて死にけり。紀蔭連、焔に咽ぴて悶絶す。「是即ち、天満大自在天神の十六万八千の眷属の中の第三使者、火雷火気毒王の仕業也」とぞ申し合へりける。

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本段は第一段とは異なり、延長八年の清涼殿落雷という出来事そのものを描いている。落雷とその結果として、大納言従三位兼民部卿藤原清貫

・ 従四位下行右中弁内蔵頭平希世が大怪我を負い死亡、同時に殿上にあった右近衛忠

兼らも同じく死亡した。紫宸殿にも罹災が及び、右兵衛佐美努忠包

・ 紀蔭連

・ 安曇宗仁が死傷した。第一段とは全

く異なる視点で同一場面を描いた、ということになろう。

  画容を見てみよう。画面中の殿上間は、殿上の居住空間であった清涼殿の南方に隣接した部屋で、役割としては清涼殿の直前に設けられた五位以上の人々の控えの間である。構造は東西六間で、南は紫宸殿の北西角と接する小庭と呼ばれる土間のような空間に接しており、建造物の最南端には床より少し低めに沓脱が設置されている。内部には、中央東西に大小の台盤をならべ、北東の隅に清涼殿母屋を背にして倚子を置いてある。画面右端には、殿上間の内側に開く両開きの戸が開かれ、落板敷とここに舗設された年中行事御障子がみえる。同じく北西の壁面には日給簡がおいてある。本絵巻では建築の基本構造は変えずに、家具等、東西の広がりを一間分ほど縮めて配置している。目的はわからないが画面がいたずらに左右に広がり、緊張感のない、間延びした構図となることを避けているように見える。しかし、強調しておきたいのは、殿上間を立体的に非常に細かく具体的に描いていることだ。同時に家具自体の詳細や配置などをていねいに描いている点は見逃せない。この段も第一段と同じく、清涼殿および殿上間の描写としては他に例を見ない視点であり本絵巻の特色ともいえる。人物の描写においては、台盤三脚をはさんで向こう側に束帯姿の人物があおむけに倒れている。手前には三名が描かれている。三名のうち左側の人物は同じく束帯姿で、服に火が燃え移り恐怖におののく形相で描かれる。中央と右の人物は冠直衣姿で、倒れ、伏せ、描かれる。よくみると、手前中央の人物のそばには弓と箭が描かれている。これは前掲『扶桑略記』に「諸衛立陣。左大臣以下群卿等起レ陣侍イ清涼殿ア。」とある記述内容を示している。すなわち、大雷鳴三度以上の際におこなわれ

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る雷鳴陣という神事行為が行われたこと意味している ((

。平安時代、天から解き放たれて地上に落ちてきた火雷神霹靂神から天皇の肉体を守る目的でおこなわれるものであった。藤原公任による一〇一二(長和一)~一〇二〇(寛仁四)ころの作といわれる摂関期の儀式書『北山抄』第九「羽林抄」所載「雷鳴陣」には「先大将参上、[大臣之大将此日帯弓箭(下略)」とあり、大将以下の将は弓箭を携帯する旨が明記されている (1

。また「尉以上、候殿上之者、帯弓箭候御後」ともあり、兵衛尉以上で昇殿を許されている者は弓箭を帯し天皇の後方に参候した。

  以上、第三巻の第一

・ 第五段に描かれた清涼殿落雷の場面の絵を観察してみたが、かなり高い精度で人々のみな

らず清涼殿を描いてることが明らかになった。本絵巻の作者はこうした儀式儀礼にも知識があり、朝廷の有職故実の知識をもっていたと推測される。また、この作者は清涼殿の建築についても同様の詳しい知識を有していたことは疑いない。なお、言うまでもないが、作画の指導にあたった人物がそうだったのかもしれない。

  天神縁起承久本などでは巻五と巻六に描かれているが、殿舎は丹塗りで、現実の内裏建築とは程遠い。しかし巻五には庭中に、呉竹(北側)か漢竹が描かれ、天皇の住まいである清涼殿であることを間接的に示している。元来、天神縁起諸本の清涼殿落雷の場面では、本絵巻をのぞき、寝殿造風の豪華な建築物であることがわかるものの、実際の清涼殿を写実的に描いている例は管見の限り知り得ていない。朝儀に関するかなり正確な知識による作画は天神縁起諸本中でも際立った異彩を放っている。人物の服装描写とともに清涼殿の描写は本絵巻の時代性を示す特色と言えるが、作期に関しては上限をおおむね十三世紀後半とする大づかみな情報しか得ることはできない。服装の特色、特に武士の直垂に注目すれば、下限は十四世紀前半まで下げていいのかもしれない (1

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おわりに   本絵巻の詞書に関しては、先行研究の指摘する通り、弘安本の系統であることは間違いない。しかし絵においては弘安本系統の諸本のみならず、天神縁起全体のなかでも独自性が強いものであろうことは疑いない。天神縁起の系譜を継受しながらも、一新された意図で製作されたものであることは誰しもが認めるところだろう。

  画容においては、すくなくとも一三世紀後半から一四世紀前半、すなわち鎌倉時代後期の公武や庶民の服と服装、風俗全般を描いている。服と服装という視点から見た時、当該時期は公武ともに大きく変化する過渡期であった。その様子を本絵巻は明瞭に描き出している。風俗や建築などの描写については、詳細で正確なものとなっており、時代性を読み取ることが可能である。人物表現では、服と身体のバランスがよく、また服の輪郭線や折り皺

・ 襞な

ど、類型的な紙形を用いたような表現ではない。人物の動と静を明確に描き分け、特に動きのある表現においては自然な身体表現がなされている。建築については、内裏清涼殿をかなり正確に再現し、構図

・ 描写については特色

ある構図を採用していることは特筆に値する。製作者は朝廷貴族社会の風俗についての深い造詣をもち、その素性について同社会に強い属性をもつ者であるとみなすこともできよう。しかし武士や庶民の風俗についてもよく観察し、画面上で再現していることもここで強調しておく。以上から、鎌倉時代、特に後半期の風俗を知るうえで欠くことのできない基礎資料となるべきものであろう。

  天神縁起とその周辺作品は、詞書の内容や諸本間の相違点などを中心に語られることが多い。しかし、本絵巻においては、そうした既成の研究視点や立場からいったん離れてその作品世界を凝視すると、非常に豊かな鎌倉時代の様々な身分の人々の風俗

・ 習慣など、文献史料には記録されない情報が満ちている。服と服装に関して言えば、

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やはり承久本系統は弘安本系統よりもやや古様なものであることは疑いない。諸本系譜ごとに時系列的な相違が見いだせる可能性が高い。今後、稿をあらため考えていきたいと思う。

註(1)天神縁起の先行研究はきわめて多い。今回は紙幅に限りがあるので、代表的なもののみ列挙する。なお、これらは個々に先行研究をまとめておられるのご参照願いたい。田中一松「松ヶ崎天神縁起」『絵巻集成』七(雄山閣、一九三〇)、谷信一「松崎天神縁起絵巻に就て」(「国華」四九〇、一九三一)、真保亨「松崎天神縁起」(『ミュージアム』一二四(東京国立博物館、一九六九)(のち、同『北野聖廟絵の研究』中央公論美術出版、一九九四に再録)、奈良国立博物館監修『社寺縁起絵』(角川書店、一九七五)、松原茂「松崎天神縁起小考」(「続日本絵巻大成」第十六巻(中央公論社、一九八三))、真保享「北野聖廟絵の研究」(中央公論美術出版、一九九四)、真保亨「北野天神縁起」(「日本の美術」二九九  至文堂、一九九一)吉田友之「北野天神縁起絵」(「角川絵巻物総覧」角川書店、一九九五)、相澤正彦「法然上人絵伝(四十八巻伝)の作画工房と松崎天神縁起絵巻」(『日本美術襍稿』明徳出版社、一九九八)、須賀みほ「天神縁起の系譜」(中央公論美術出版、二〇〇四)、竹居明男「北野天神縁起を読む」(吉川弘文館、二〇〇八)(2)拙稿「雷鳴陣について」(『日本歴史』五八三、日本歴史学会、一九九六  のち、補訂のうえ、拙著『服制と儀式の有職故実』吉川弘文館』、二〇〇八に再録)。(3)拙稿「牛車から駕籠へ

乗用者の意識変化

」(『古代交通研究』一三、古代交通研究会、二〇〇四  のち、補訂のうえ、「牛車と平安貴族社会」として拙著『服制と儀式の有職故実』吉川弘文館』、二〇〇八に再録)。(4)前掲註(1)参照。(5)第五段詞書は以下の通り。待賢門院(筆者注  鳥羽天皇皇后)、未だ后宮と申しける時、女房の衣の失せたりけるを、怪しき様に言はれける女房、北野に参籠して、「思ひ出づやなき名立つ身は憂かりきと現人神になりし昔を」と詠めりければ、其の日やがて敷

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島と云ふ端物(筆者注

  「者」

)の盗りたりけるが、手づから捧げ持ちて、鳥羽院の御前にぞ参りたりける。小袖袴姿の女性は詞書中の「敷島」という女である。(6)拙稿「直垂とはなにか

武家服制の原点再考

」「服制と儀式の有職故実」吉川弘文館、二〇〇八)(7)「群書類従」公事部。(8)『日本紀略』『扶桑略記』ともに『新訂増補国史大系』。(9)『日本紀略』一  醍醐によれば、延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍イ殿上ア、各議イ請雨之事ア。午三刻従イ愛宕山上ア黒雲起、急有イ陰沢ア、俄而雷声大鳴。堕イ清涼殿坤第一柱上ア。有イ霹靂神火ア。侍イ殿上ア之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫、衣焼胸裂夭亡[年六十四]又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼而臥。又登イ紫宸殿ア者、右兵衛佐美努忠包、髪焼死亡。紀蔭連、腹燔悶乱、安曇宗仁膝焼而臥。とあり、請雨についての議の最中に起きた落雷であったことがわかる。また清涼殿の坤(南西)の柱に落雷があったこと、居合わせた人物の死因などが知られる。さらに、『扶桑略記』二十四裏書「醍醐」には次のようにある。延長八年六月廿六日戊午、是日申一刻、雲薄雷鳴。諸衛立レ陣。左大臣以下群卿等起レ陣侍イ清涼殿ア。殿上近習十余人連レ膝。但左丞相近イ御前ア。同三刻、旱天曀々、蔭雨濛々、疾雷風烈、閃電照臨。即大納言清貫卿、右中弁平希世朝臣震死。傍人不レ能イ仰瞻ア、眼眩魂迷、或呼或走云々。先レ是登イ殿之上ア舎人等、倶於イ清涼殿南簷ア、右近衛茂景独撲滅。申四刻雨晴雷止。臥イ故清貫卿於蔀上ア。数人肩舁、出イ式乾門ア、載レ車還レ家。又荷イ希世ア出イ修明門外ア載レ車将去。上下之人、観如イ堵檣ア、如レ此騒動、未イ嘗有ア矣。おおむね『日本紀略』と重なる内容だが、さらに雷鳴陣の陣立を行ったことや死傷者への対応などが詳述されている。ともに簡潔な描写ながらも落雷時の様子が具体的に示されている。(

く特権である。一般的には直衣宣下とか雑袍勅許といわれる。この場面では詞書中にもあるように、時平が眷属と対峙 性が高い。天皇の御前における臣下の冠直衣姿は天皇にとって信頼関係にある人物が特別に許された律令外規定に基づ 10)時平らしき人物ともう一名は束帯姿だが、時平の束帯姿は物語の絵画表現上であり、現実には冠直衣姿であった可能

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し退ける、という筋書きを絵画として表現する必要があった。冠直衣姿で太刀を佩くことは許されないことであり、眷属との対決の場面では「絵にならない」あるいは描写が難しいという事情が生じたのであろう。太刀を佩き、抜刀せんとすることで「対決」を表現するという作画の方針に合わせ、公卿や衛府の大将などにのみ許された太刀の佩用が無理なく描くことの可能な束帯姿に変更されたのだと推測する。(

( 11)前掲註(1)参照。

( 12)「新訂増補故実叢書」

中行事絵巻』は院政期の朝儀の図像化として有名で、清涼殿を含めた内裏 付近の描写は『年中行事絵巻』や『中殿御会図』北村家本にもみられるが基本的には東庭から西をみる視野である。『年 階による朝廷内の序列が天皇との距離や自由な行動範囲として視覚的にも直截に示される重要な空間といえる。殿上間 施政や神事などを行なう公的な面をあわせもつ特殊な空間といえる。天皇の周囲の五位以上の高級官僚にとっては、位 13)本絵巻の清涼殿の作画の典拠は何かということに強い関心を抱いている。清涼殿は、天皇の住まいという私的な面と

・ 大内裏内の描写の典拠となったのは後白河

天皇により推し進められた一一五七(保元二)年造営の大内裏と殿舎(保元内裏)であったと考えられている。『中殿御会図』は里内裏(閑院内裏/建暦内裏)で、順徳天皇一二一二(建暦二)年ころから造営され、翌建暦三(建保元)年同天皇が遷御の後、一二四九(建長元)年焼失した。この閑院内裏こそが本絵巻の清涼殿の描写の基礎にあると推定する。閑院内裏についてはその主たる順徳天皇の公事書

・ 有職故実書として著名な『禁秘抄』に詳しい記述がある。本絵

巻の製作されたであろう時期、建暦内裏造営にともない生まれたであろう内裏建築関連の多様な史(資)料類が蓄積されていたことは十分に想定される。また関係者も高齢とはいえ存命していたのかもしれない。本絵巻の清涼殿描写の正確さや詳しさについて、紙形があったとする意見をいただいたことがある。しかし、ここで明らかにしたように、非常に特殊な内裏内の、しかも最深部といってもいい、天皇の住まいであり朝儀の中枢である清涼殿の構図の紙形が存在したとは考えにくい。実見せずには描けないと考える。むしろ『年中行事絵巻』『中殿御会図』こそ紙形の存在をうかがわせる。本絵巻の作期検討に直接の影響を与える事柄ではないかもしれないが、天神縁起諸本との比較において、際立った作画上の特色なので指摘しておきたい。

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〈付記〉小稿の執筆に際しては、防府天満宮より精細な本絵巻の画像データを供与いただいた。これがなければ小稿はなし得なかった。また、このデータから良質な小稿掲載のための図版を作製することができた。この場をお借りして同社に篤く御礼申し上げる。また宮司鈴木宏明氏、権禰宜越智宣彰氏、松崎天神縁起絵巻研究会と参加されている諸氏には大変お世話になった。同じく、篤く御礼申し上げる。

(二〇一六年一月七日受理、二〇一六年一月九日採択)

参照

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C. 

 高松機械工業創業の翌年、昭和24年(1949)に は、のちの中村留精密工業が産 うぶ 声 ごえ を上げる。金 沢市新 しん 竪 たて 町 まち に中村鉄工所を興した中 なか 村 むら 留

第1条 この要綱は、法令その他別に定があるもののほか、温泉法施行細則(昭和 42 年石川県規 則第 50