長谷寺流記と縁起・験記
著者名(日) 永井 義憲
雑誌名 大妻国文
巻 22
ページ 19‑31
発行年 1991‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001497/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
長谷寺流記と縁起・験記
万く
井
義 憲
﹃長谷寺流記﹄は散侠書の一つである︒﹃長谷寺縁起﹄および﹃長谷寺観音験記﹄
に多くの素材を提供している書であ ろうとかねて推測していたのであるが︑意外にもこの書に注目した研究は少ないようである︒管見では野口博久氏の次の
研究があるのみであろうか︒﹁﹃長谷寺験記﹄と﹃流記﹄﹂︵西尾光一教授・定年記念論集・﹃論纂説話と説話文学﹄昭和五四年笠間書
院刊︶および﹁長谷寺験記とその前後||i﹃長谷寺流記﹄と﹃峯相記﹄と﹃三国伝記﹄と|﹂︵﹁説話文学研究﹂第二十四号・
平成元年︶がすなわちそれである︒ともに﹃長谷寺観音験記﹄︵上巻︶のいくつかの説話の﹁流記ニアリ﹂という注記に注
かっ﹃流記﹄の逸文が﹃原中最秘抄﹄に引用せられていることを紹介し︑それと同様の内容を持つ﹃験記﹄上巻
目し
て︑
第六話は﹃流記﹄を資料として記されたものであることは疑う余地がないとしてさらに次のように言われた︒
古く﹃源氏物語﹄の時代から︑長谷寺の霊験は唐土にまで開ζえていたのであるo
﹃流
記﹄
が︑
﹃源
氏物
語﹄
の頃
之で
遡れ
るか
否か
は別として︑長谷寺の内部において︑国外にまで及ぶ霊験謬が生み出され︑それが語られ︑記録されて︑立た外に対しても宣伝され
たであろうことは想像に難くない︒﹃流記﹄は︑そのような背景の中から生まれ︑長谷寺の内部で管理された記録であったと考えら
れる
︒︵
﹁長
谷寺
験記
と流
記﹂
︶
長谷寺流記と縁起・験記
九
ニO
この長谷寺内部において管理された記録という推測は正しい指摘であったが︑ではこの
﹃流
記﹄
とよばれたものの性
格・成立はいかなるものであったろうか︒まず﹃原中最秘抄﹄に引用せられた﹃流記﹄をここに掲げる︒この﹃原中最秘
抄﹄は﹃源氏物語﹄の古注であって︑源親行の原著に聖覚︵義行︶行阿︵知行︶など代々加筆したもの︑完本と抄略本の二
種の伝木があるが︑いま野口博久氏が完本系の高松宮本を紹介せられたのでそれを引用する︒同書上巻の﹁玉童﹂の巻の
﹁仏ノ御中ニハハツセナン:・・:モロコシニモ聞エアナリ﹂の注の中に引用せられたものである︒
長谷
寺流
記云
︑
︵信
︶
唐信宗皇帝之時千人ノ后ヲモチ給ヘリ︒第四ノ后ヲ馬頭夫人ト一五へリ︒蚊鳩山踊孫玄顔長シテ面馬一一似タ
ネ タ ミ コ ウ ヒ
リ︒白馬頭ト名ツグ︒然トモ心ニ情フカクシテ帝ノ寵愛二心ナシ︒ソレヲ猪テ自余ノ后妃評定シテ一去︑馬頭夫人ハ夜
ナ/\御門ニマイリ給へルハカリニテ︑面貌ヲアサヤカニ見給ハサルニヨリテ御気色無為也︒白昼一一彼貌ヲ叡覧アラ
ウ ト キ ン ラ エ
γハ︑定テ疎ム御心出キナント云合テ︑陽州ノ錦羅園上五所一一花ノ盛ヲ得一プ︑イマ十五日アリテ彼所へ花見ノ御幸行啓
アルヘシト定ル︒然間后達面々ニイテタチケハヒ給ヒケリ︒此夫人ハ吾面ノ人ニ似ザル事ヲ歎︑医師ヲメシテノ給
様︑花顔階事療ナヲシテエサセタラハ︑千両ノ金ヲアタへント云ヘリ︒
ト申︒其時国ノ中ニ穀城山ト云所ニ︑千歳ヲ経タル仙人アリ︒行果薫修シテ︑通力自在ナリ︒
医 師 申
ア
~
御 貌 生 此 得
仙 也人 。
ヲ 治 召 ス テ ル
縁1不
由ノ可 ヲ 叶
ノ給ニ︑我昔宝志和尚ト云シ時︑他心智ヲ得飛行自在ナリキ︒其時世界ヲカケリ見シニ︑大日本国長谷寺観音ハ極位
li
l−
−
︵ 注
︶ ホ ン シ ユ ヨ ウ テ イ
ノ大菩薩薩珪也︒次ニ凡衆ニ同シテ利生ヲホトコシ給︒彼国ハ是ヨリ東方也︒タトヒ行程ヲ隔ツト云トモ︑彼仏ヲ向
奉祈請マシマサハ︑定感応タチ処ニ侍ナント申ニ︑白骨髄ヲクタキ礼拝ヲイタシ︑数反名ヲ唱テイノリ給−一︑七日ヲ
フル暁︑夢ニウツツトモナグ︑東方ヨリアヤシキ老僧香ノ架裟ヲ着タルカ紫雲ニ乗テ︑手−一水瓶ヲ持来︑
ソLクト思ニ︑心歓喜シテ己ニ利生一一預ヌト思フ︒則鏡ヲ取テ形ヲ見レハ︑本ノ容貌一一アラスo端厳美麗ニナレリ︒
シ チ ヨ
然そ身カウハシ夕︑相近者ノ奇異ノ思ヲナスo其後三日7経テ︑后妃侍女ノ中こ欠ハルニ︑上下挙目7瀕随喜セスト
近付
テ顔
一一
主干置︑
者云 ナシ
︒公 弥寵 愛日 米− 一コ
︑ェ
人目︑諸侍
女容 属ヲ 率シ テ︑
芳物 異ニ 子他
4
是ヒトヘニ泊瀬観音ノ利生ナリト悦給テ︑大唐国乾符三年明七月十 目減チカキ所ナリトテ︑明州ノ津ニ出テ︑拾種ノ宝物ヲ被
v送
二本 朝
4
王 幡 牛 王 法 螺 虎 皮
孔雀尾仏具
錫 杖
如意
鏡 鉢
金剛鈴
︵ 注 ︶ 源﹃ 氏物 語辞 典﹄
︵池 田︶
﹁は っせ
﹂の 項に 引用 され た﹃ 原中 最秘
﹄抄 では
﹁大 薩種 也﹂ とす る︒
ζれ
が正
しい
︒ 管見では﹃長谷寺流記﹄侠文のうちもっとも長文で﹃験記﹄上巻﹁唐朝ノ馬頭夫人得ニ端正−成守護神事第六﹂の前半と
一致し︑さらにそれを修飾した文章で︑﹃験記﹄が﹃流記﹄によったことを明白に示している︒野口博久氏のすでに指適 したごとく﹃験記﹄所載の説話のうち﹃流記﹄に擦ったものは次の如くである︒
吉備 ノ大 於臣 大唐 読ニ 野馬 台一 帰朝 事第
︒一
︵末 尾に
﹁当 寺流 記ニ 見エ タル 也︒
﹂︶ 1 2
聖武天皇御一期帰当寺御得益事第二︒
︵前半の天皇の尊崇のことの記した所に﹁当寺ヲ御建立其由来︑広縁起・流記等−一有﹂とある︒続いて賢僚が徳道 のあとをついだこと︑天皇が夢告により本尊の身をかくす御帳をかけられたことが記されている︒︶
唐朝 ノ馬 夫頭 人得 ニ端 正一 成一 守護 神一 事第 六︒ 3
︵こ の説 話の 前半 が
﹁流
記﹂
に撮ったものであることは
に引用せられていることによって知り得 原﹃ 中最 秘抄
﹄ る︒ただし﹃験記﹄には﹃流記﹄の名は見えない︒後半は馬頭夫人が長谷寺守護神となった経移が述べられているが これ は増 補で ある
︒︶ 4
清公 卿詫 ニ聖 廟﹁ 修ニ 追善
︑生 補ニ 陀落 山事 一第 八︒
︵菅原道員が祖父獄似の夢告によって自ら長谷寺に参詣して︑
十日間法花経の講讃をして霊瑞を得たという︒
ー「
当 長谷 寺流 記と 縁起
・験 記
土守ノ流記一一見エタリ﹂と注記されている︒その屈請の僧二十日のうちに智照大法師当寺の名が見える︒︶
5
天神成v神後居住当寺抜悪心業事第十一︒
︵菅原道員が死後︑天神として此山に至り与喜大明神としてまつられた事の後に︑﹃験記﹄の天正寓本のみに
流
記ニ見ユ﹂と注し︑次に当寺の僧行園阿関梨が天禄二年︵九七二神託を受けたことなどを記す︒︶
6
新羅国照明王后遁一主難一送宝物事第十二︒
︵新羅の王后が臣下と通じた罪で罰せられたが︑長谷寺の観音に祈り験を得て許された︒その礼に天暦六年︵九五
一一︶三十三種の宝物を送って来たことを記し﹁異国他国マデモ此ノ如シ︒ト此山ノ流記一一見タリ﹂とある︒︶
さて今は散侠したこの書も以上の﹃験記﹄に引用せられたことによって︑ほぼその性格が想像せられるのであるが︑前述
の﹃原中最秘紗﹄﹃長谷寺験記﹄以外にもこの書の引用は散見する︒次にその侠文を拾ってみたい︒
﹃渓嵐拾葉集﹄は文保二年︵一一一一一八︶の序のある天台学匠の光宗の撲だがその巻九二に
一︒長谷寺流記事︒徳道上人感夢記云︒我本秘密大日尊︑大日日輪観世音︑
観音
応化
日天
子︑
日天権遮名二日神↓此界
能救
二大
悲心
↓所
示一
一現
世土
日
4
巳上
記云︒徳道上人︒於内宮正顕一神明本地拝見之由奉念之鹿︒
尊其時拝コ見尊像一奉ν
慣者
也一
一芸
o 二丈五尺十一面観音示現給︒
爾時
所一
示給
文是
也︒
長谷寺本
とある︒これは﹃徳道上人感夢記﹄︵快︶に見える託宣のことばは﹃長谷寺流記﹄によれば︑徳道上人が伊勢内宮正殿に
おいて天照大神の本地を知らんとして祈念したる侍の示されることばであるとの説明であって﹃流記﹄そのものからの直
接の引用ではないが︑その内容が推察される文献であろう︒
つぎ
に﹃
流記
﹄
より引用せられたいくつかの侠文が見出され
豊山長谷寺の諸記録をる丈献は﹃豊山伝通記﹄である︒本書は長谷寺中性院隆慶の撰でE
徳三
年︵
一七
一三
︶の
自序
りあ
︑
大﹁
日本
仏教
全書
﹂﹁
豊山
全書
﹂
集録したもの︑長谷寺史を知る為には貴重な書で享保四年︵一七一九︶の刊本は
められている︒特に上巻には菅公撰と伝える﹃縁起﹄の勘文があり︑
あるが︑そのなかに﹃流記﹄よりの引用が次のごとく存在する︒ にもおさ
全く註釈のないこの書の理解のためには重要な書で
︵1︶
流 雲記 架
"A ーェ梯 聖 廟 依 霊
干 官o/
而名
E菅
懸 橋
︵2︶ 流記
流記奥書云︒徳道上人付弟︒最初別当賢慌僧都記ニ巻︒第九代別当智照大法師記一巻︒合三巻也
︿3︶
流 三 記 神
"A -~里
装
坐所ナ
故 名 神 里
︵4︶ 武内宿禰等
又云︒応神天皇即位三十九年三月二十九日辰時︒武内宿禰入ニ此山刊卜筆云︒授一一天徳於此山立小
v経二幾年歳4則
可ニ
此山
繁日
日
4又同日辰時︒忽大雨大風雷電震霊落ニ滝蔵山↓町取ニ彼天人所造毘沙門天王↓登一一雲天一之時︒以ニ其御手
宝塔
一落
一一
泊瀬
河上
流中
4則漂流而留一一此山麓三神里神河瀬↓乃至自手崇而埋ニ北峰西北隅刊終改二本コ一神里4
将 ニ
泊瀬
里↓
又云
︒武
内宿
欄景
行天
皇以
︒後
六代
為一
一大
臣↓
所
ν経二百八十二年︒日本紀第七云︒成務天皇与ニ武内宿禰刊同
シ玉フト
日生
︵5︶
経一
ニ百
余歳
等
又云
︒持
統天
皇即
位二
︒年
道明
上人
︒白
一主
峰一
移一
一塔
於石
室一
長谷
寺流
記と
縁起
・験
記
二四
︵6︶ 以所建立
ム ナ リ ノ ニ
流記云︒聖人前身役行者︒修一一行此一代峰一之時︒南頭豊山峰察二地精一発願︒建一一立精舎↓報ニ其願↓今建ニ此伽
藍 一
都維那寺主上座
流記云︒聖武天皇譲位後︒卒−長谷寺一開ニ大法会4
幅−
一千
口浄
侶﹂
子
ν時
無二
三綱
試
ω
以ニ
大安
寺之
寺官
−行
v 之︒
其後
︒
文徳
天皇
安二
年戊
寅五
月十
日︒
依一
救願
一千
僧社
内町
導師
慈覚
大師
︒救
使右
少弁
藤原
朝臣
家宗
奉行
︒当
寺俗
別当
ノ始
か太
政
大臣
従一
位藤
原朝
臣一
房前
︒此
時俗
別当
忠仁
公︒
為ニ
大法
会↓
始申
ニ行
三綱
一
︵7︶
注記したもの︒流記以外に他書よりの引用もある︒掲出順にその書名をあげる︒扶桑略記・本朝帝紀・大峰記・四十九院日 これらは菅公自筆と伝承せられる﹃長谷寺縁起﹄のなかの語句を抄出してそれに関連する説明を﹁流記に云う﹂として
記・吉田目録・長谷寺国符指南記・行仁上人記・日本国異名集・掌中紗・華厳経・摂津国箕面寺縁起・一代峰縁起・扶桑
記・黄帝宅図・藤氏系図・最初建立記・文選・爾雅・僧綱補任・など︑以上の書より長短さまざまの文が引用せられてい
る︒なかには侠書となり現存しないものも多い︒一見この﹃豊山伝通記﹄の撰述せられたという近世初期にこれらの文献
が長谷寺に所蔵せられていたのではなかったかと思わせるのであるが︑実はこれらはすべて他からの引用であったのであ
る︒長谷寺には室町時代中期の書篤と推測せられる巻子本﹃長谷寺縁起﹄一巻が現蔵せられている︒筆者・書寓年時は見
あた
らな
いが
︑
ほぼ忠実に管公自筆伝承本を寓している︒この巻子本の頭注・脚注・行聞の注あるいは裏書に細字の書き
込みがあるが︑いま比校すると﹃豊山伝通記﹄上巻の﹁縁起勘文﹂として掲示せられたものと全く一致している︒すなわち
隆慶はこの古写本縁起の注をそのまま引用列記して﹁縁起勘文﹂と名づけたのである︒さらに﹃豊山伝通記﹄上巻の目録
には﹁縁起﹂﹁縁起勘文﹂の次に﹃密奏記﹄﹃入大童子秘記﹄をあげ︑﹁以上三首秘在ニ庫府一不
v 載ニ子此ごと注
記してある︒﹃密奏記﹄は﹃験記﹄︵上巻第七話︶﹁宇多院ニ春宮御悩戸建立長勝寺事﹂の中で︑宇多天皇が詔を下して当寺の
その
下に
ア イ ナ
霊験建立の次第をお尋ねあった時寛平八年︵八九六︶二月十日菅原道員および当寺の俗別当︵藤原良世︶一二綱︵都維那行空・
帯r
恵義・上座円詮︶等が縁起︵菅公筆縁起︶と秘記の二巻を奏したというその秘記であろう︒この古潟本は比較的多く︑
応仁元年信承篤本︵旧内閣文庫︶享禄二年︵一五二九︶法印丹球写本︵成貸堂文庫︶の存在を﹃豊山前史﹄︵永島福太郎︶が紹介
しておられるが︑長谷寺にも興福寺東院の光暁僧正筆木を写したという延宝九年︵一六八二︶の小池坊尊如僧正筆本︑お式 び室町初期︵?︶の古写本・近世初期の写本の三本があり︑管見では金沢文庫に﹁長谷寺所司等言上﹂と題した鎌倉末期の 古写本が現存する︒活字となったものに︑﹁長谷秘記﹂と題して﹃北野誌﹄︵明治四三年刊︶所収の﹁北野文叢﹂に宗淵が文 政十二年︵一八二九︶蒐集したという文書と共に紹介されたことがあり︑
さらに﹃日本の歴史の根源﹄︵勝井純・昭和十一年
刊︶
はそ
れを
転載
てし
いる
︒﹃
験記
﹄
の序文は明らかにこの
﹃密
奏記
﹄ の叙述にならったもので両書を比校するとその反 対は考えられないので︑鎌倉初期少くとも正治二年︵一二
OO︶より承元三年三二O
九︶の間に成立した﹃験記﹄以前にこ の書は長谷寺内において存在していたのである︒次の﹃八大童子秘記﹄も島胤仰心秘れと注したごとく︑長谷寺宝蔵内に所 蔵せられている︒﹃長谷寺八大童子秘記一巻井第三仙人事白金剛仏子頼峯﹄と表題せられた巻子本で︑流記云として次に掲示し
﹁長谷寺観音奉仕沙門
頼峯之本﹂とあって年時は記されていない︒しかしこの頼峯の名は同じく宝蔵内に所蔵の﹃長谷寺秘口決日記醐臨時寸蓮乗﹄と た一文があり︑続いて﹃豊山伝通記﹄に−記された﹁扶桑記﹂﹁摂津国箕面寺縁起﹂を記し︑
末尾
に
題した巻子の奥書に
子時嘉暦二年前三月三日於経職院︑白日一良栄阿闇梨御方一口伝相承畢︒無
v極
深秘
云︒
観音奉仕沙門
頼 峯 とあり︑鎌倉末期嘉暦二年︵一三二七︶のころの長谷寺在住の篤学の僧であったことが判明する︒
さてこの﹃八大童子秘記﹄は文初に﹁流記云﹂とあるごとく︑
﹂れも﹃長谷寺流記﹄の快文であったが︑残念なことに 徳道上人の前に示現した八人の童子のうち第五の青頚童子の記述を脱落している︒次にこの書を紹介する︒
長谷
寺流
記と
縁起
・験
記
二五
一 一 六
テ ノ リ テ シ コ ト
/
\ グ テ 一
−
流記云︒供養之夜︑白一一戊半時一謹一夜間一有仏殿炎↓山内皆映障石木壷金色也︒聖人歓喜之余及二於寅魁一蓬拝
エ シ テ ト リ ヲ テ
仏殿
一従
ニ彼
後山
一白
衣童
子八
人乗
ν雲而来︒其鉢幽微而不
ν可
v 見︒強見之者︑第一童子顔色殊白而左手執ニ錫杖一垂二
エ テ エ シ テ ニ ス シ ヲ グ エ ヲ ハ ト
右手
一指
v地︒我名一代則此山精為一一世間福田4第二童子其面白銀而手持一一白杖↓我日石精一則此宝石精請ニ諸仏菩
γテ ニ ト リ ヲ ユ ス
︵ 宝 カ
︶ ト
薩転法輪↓第三童子其面黒色而左手執二人頭瞳↓右手持ニ輪法↓我日一一護石一殊守二護此金剛宝石一行時不
v 離
︒ 第 四
エシテ童子其面紅色而頭︑懸一一青珠一七粒︑手持ニ掲磨4我臼−一施願一会ニ諸衆生一到↓一所期菩提↓第六童子其面青色而左
手持ニ如意宝珠↓右手握
v 蛇︒我日随念会一一諸衆生一随其所
ν求授ニ福栄↓第七章子其面又白色而左手持ニ薬瓶一右手執ニ
利銀ベ我白一密跡一令二諸衆生一内断二三業所起煩悩病↓外除二回大不調業起病4第八童子其面金色而左手安一一日輪︒我
日二
施無
畏︒
会二
諸衆
生一
於一
一一
切善
悪事
一授
v畏︒則同心誓願︒其如縁起O
さて以上が今まで管見に入った﹃長谷寺流記﹄の快文であるが︑
べきは前掲の﹁縁起勘文﹂に﹃流記﹄
の奥
書を
あげ
て︑
では次にその成立年時について考えて見たい︒注目す
長谷寺最初の別当賢慣僧都の記二巻と第九代の別当智照大法師
記一巻合わせて三巻を﹃流記﹄であるとしていることである︒賢慢の伝は﹃元亨釈書﹄︵巻五・忍行︶に見えているo尾州
の人︑唯識を興福寺の宣教に学び︑天平勝宝七年︵七五O︶東大寺の戒檀なるや鑑員に掲磨法を受け本朝登壇受戒の始とい
われる︒勤修倦まずかっ才識あり︑延暦十二年︵七九三︶の遷都にあたって平安城地を相した︒この年八十九才をもって入
寂という︒智照は﹃縁起﹄末尾に﹁別当大法師位智照﹂
之請一一とある小僧すなわち智照であるQ﹁緑起勘文﹂には﹃行仁上人記﹄に云うとして別当の次第をあげて徳道より最后
の十番目に﹁大法師智照﹂をあげている︒﹃豊山長谷寺本願院代々過去帳﹄︵写本・長谷寺蔵︶には第十二代として﹁聖宝尊
師御弟子︒別当伝燈大法師位智照ω
延喜
十年
︵九
一
O︶
二月
十七
日︒
︵左
注︶
前ノ
別当
ナル
ベシ
︒﹂
と署
名し
︑
前文に﹃縁起﹄成立の事状をのべたうちに寸依一一小僧
とあり没年を知ることが
キヨトモ出来る︒なお﹃験記﹄︵上巻第八話︶に回目泰元年︵八九八︶菅原道真︑が亡祖清公の為に長谷寺に於いて法華経講讃を行った時
導師叡山玄壁和尚以下二十口の僧を屈請したことを記して︑尊意以下真覚律師輿福寺︑蓮舟律師東寺と当時の名流をあげ
てその次に﹁智照大法師当寺等也﹂と記しているQ続いてこの記事は﹁当寺ノ流記−一見タリ﹂という︒これは︑﹃流記﹄の素
材として智照の記があったことを側面から語っているのではなかろうか︒さて﹃縁起﹄前文はこの智照の執筆となってい
の請によって長谷の霊寺に入った菅原道員はこの勝絶の霊場に於いて﹁視下成二大明一之流記日﹂︵流記を
テ ト シ
いよいよ信仰を深くし︑﹁何鏡二行基菩薩国符
るが
︑小
僧︵
智照
︶
見て
長谷
寺の
こと
を明
らか
に知
りの
意か
︶霊
夢を
見て
蔵王
権現
の告
示を
得て
︑
記七巻︒並流記文ご一巻︒本願聖人上表状一通﹂それらの金を褒め塊を去って縁起文を勘出した︒として文の末尾に﹁其
辞−日時一向﹂とある︒その辞とは菅原道員のいわれた言葉とすると︑自分の執筆した縁起には流記の性格を持たせて書いた
という意味であろうか︒この流記ということば寺社の資財帳に付して言われた語とされているが︑後にその意味が変化し
て堂塔の由来や変遷︑霊験などの集録が流記の名をもってよばれるようになったのであろうかと思う︒この点は後述す
る。
さて﹃縁起﹄が﹃流記﹄を素材として︑更にそれを推蔵したとするのは正しかったようで前述の八大童子が出現する状
景を﹃縁起﹄では次の如く述べている︒
又供
養之
夜︒
自一
一本
尊眉
間一
放
ν光
︒一
夜之
問︒
山内
皆金
色也
︒如
ν此事︒衆会皆見︒倍凝一一敬重之懐↓其夜︒白衣金剛童子八
人︒
幽然
出現
︒語
一一
聖人
一日
︒我
等八
輩者
︒宝
磐石
守護
密遮
神也
︒其
名云
二岱
︒石
精︒
護石
︒青
頚︒
施願
︒随
念︒
密跡
︒施
無畏
童
ト テ ユ
子等一也︒則誓目︒此本尊至ニ帰依4
凝一
一渇
仰一
令下
祈ニ
冥加
一者
保中
福慶
U令
下求
一一
菩提
一者
窮中
法理
日又
一入
一一
此山
一者
︒生
生
加護
︒終
送一
一浄
判官
犬住
一一
此山
一者
︒仮
使緩
レ行
我添
生
ν勇︒若一切道俗男女︒所v擾
二乱
魔霊
泣徒
一一
遠近
−群
集︒
為
v蒙
一一
除愈
一
龍祈者︒酔−除魔鬼又♂得一一平安4
又於
下求
一一
官位
栄爵
福徳
寿命
↓求
ν男 求
v女︒乃至一切善悪事幻菩薩慈悲為ニ祈願一者︒
長谷
寺流
記と
縁起
・験
記
七
二八
随ニ
其所
求一
為ニ
満足
使者
刊護
一一
仏法
一利
一一
ト衆
生斗
斯常
徳道
聖人
︒重
誓テ
日︒
我若
徳功
成就
ω得
一自
在身
一者
︒以
二神
通力
故一
︒鎮
一奉
レ
ヲ ト モ
守二
国家
﹂保
二護
四海
刊若
有一
一衆
生
4我 寺 運 ν 歩合掌︒以二草一葉一結二縁菩薩一者︒仮使造二極重業↓可
ν 堕ニ
悪道
4
我代
一一
其
苦↓必令三彼人往一主十方浄判一云一戸聖人乞哲一未
ν 終︒童子証明登
ν 空︒
すなわち徳道聖人の前に出現した金剛童子八人は﹃流記﹄ではやや煩雑に細かくその姿が説明されているのに対して前 引のごとく﹁白衣の金剛童子八人幽然として出現し聖人に語りていわく﹂と簡明に描写し︑それに附加して︑これらの童 子が本尊の霊験あらたかに此山に参詣するものに多くの利益を与うることを巨細に説いているのは﹃流記﹄
よりも
巴『
縁 起﹄が後出のものであることを語っているのではなかろうか︒
さきに引いたごとく﹁縁起勘文﹂にはこの豊田の奥書に賢僚僧都記・智照大法師記合せて三巻とあるという︒智照の盛年
は延
喜十
年︵
九一
O︶であるので︑それ以前に﹃流記﹄は成立していたと一応は考えられる︒ただし﹃験記﹄上巻の第十一
話は天神︵菅原道真︶が没後に与喜大明神として杷られた話︑および第十二話新羅照明主の后の宝物寄進が天暦六年︵九五二︶
であるという説話はともに智照没後の年記である︒しかし﹃験記﹄︵上巻︶第十六話に行仁上人︵保安元年没八十九才︶が﹁当 寺ノ霊験建立ノ次第ヲ本流記ニ継録シテ院奏ス︒﹂と白河法皇に献上したという増補の﹃流記﹄とこの場合は考えてもよ
いと
思う
︒ さてこの﹃流記﹄という名称はひとり長谷寺と限らず他の諸社寺の由緒を語る文献に附せられている通用語であった が︑その語義に変遷があったと思われる︒次にそのことにふれたいと思う︒
奈良朝における仏教の隆盛ば一つに国家からの保護と奨励によったのであるが︑その保護監督の方法として各寺院に対
して資財帳を作製せしめ年々上申せしむることがあった︒それは元正天皇の霊亀二年︵七二ハ︶よりであった︒資財帳とは
寺院敷地・建造物・仏像・経典・仏目討をはじめ諸道具など一切の財産を詳細に記録したものである︑が︑これは寺院の財物
が︑僧尼檀越らによって不正に使用せられるのを防ぐ為である︒始めは年に一度であったが︑平安時代に入って四年ある
いは六年に一度となった︒特に後世に定式として伝える基本的な資財帳を後世まで流し伝えるという意味で﹁流記資財
帳﹂とよんでいる︒天平十八年︵七四六︶南都の諸大寺は僧綱所牒によって︑寺家の縁起︑流記資財帳が要請されそれぞれ
に﹁縁起並流記資財帳﹂が作製して進上されたのは天平二O年︵七四八︶であった︒各寺院ごとに毎年つくられていた筈で
ある︑がそのほとんどは散侠している︒﹃寧楽遺文﹄﹁寺院縁起井流記資財帳﹂の項を設けて﹁弘福寺田品流記帳﹂
︵和
銅二
年・
七O
九︶
以下
﹁西
大寺
資財
流記
帳﹂
︵宝
亀十
一年
・七
八︶まで計六種を紹介しており︑この中で﹃大安寺伽藍縁起O
は
井流記資財帳﹄がよく整った型式をのこしている︒﹃重要文化財﹄︵泣︶にその解説を記した山本信士口氏によれば天平一九年
︵七四七︶の原本ではなく奈良時代最末期の写本で原本の逸失に備え︑正本に准じて作製されたもので他の同種のものが後
世の写本であるのに対して原本の面影を伝え貴重であると言われているが︑ここでは大安寺の草創︑変遷の歴史と安置す
る仏像・画像・経典などの法宝︑堂舎の規模・寺領などが記され︑巻末には都維那・寺主・上座の僧の連署がある︒すな
わち﹃流記﹄は資財帳の性格を規制する語であったが後には﹃縁起﹄と相応じてその寺の流伝の状態を記すものと変化し
ていったのである︒この間の実態を中尾莞氏は次の様に指摘している︒
伽藍
縁起
井流
記資
財帳
は︑
平安
時代
にな
って
国家
の仏
教統
制が
ゆる
むと
︑そ
の性
格を
次第
に変
えて
いく
︒す
なわ
ち︑
それ
は寺
院
の法
燈と
財産
の私
的な
確認
とな
り︑
さら
に時
代が
下る
と縁
起の
部分
と資
財帳
の部
分が
分離
して
しま
う︒
縁起
はそ
の寺
の由
緒と
とも
に本
尊の
霊験
談を
語る
ニと
によ
って
広く
衆庶
の信
仰を
集め
よう
とし
︑資
財候
は次
の代
に引
き継
ぐ什
物台
帳と
して
の意
味を
持ち
︑名
称も
什物
帳と
称さ
れる
よう
にな
る︒
近世
にな
ると
︑縁
起と
什物
帳は
︑寺
院必
備の
もの
とし
て一
般化
する
ので
ある
︒
︵﹁
寺院
縁起
・資
財帳
﹂日
本古
文書
学講
座
2
・古
代編
1︶
長谷
寺流
記と
縁起
・験
記
九