『草枕』における美術引用の意味
著者名(日) 中谷 由郁
雑誌名 大妻国文
巻 33
ページ 33‑52
発行年 2002‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001380/
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﹃ 草 枕 ﹄
における美術引用の意味
中
ノ白、
口 句
由 有 日 は じ
め に
﹁ 草
枕 ﹂
︵ 明
治 却
・
9 ︶ の画工は︑那古井温泉へ向う旅で絵画などの様々な美術を思い浮かべてゆく︒西洋画家である画
工は︑ラフアエル前派の創始者の一人 ZE 肘
5 5 ロ
窓 口
Z Z
︵ E
N ゆ
宰 ︶
﹃ オ
フ ィ
l リ
ア ﹄
︵ 一
八 五
一 五
二 ・
油 彩
画 ︶
︑
H a Z B
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同
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・ 当
5 5
g
︵ ︼ 吋 目
l H
∞ 巴
︶ ﹁
雨 ・
蒸 気
・ 速
度 |
グ レ
ー ト
・ ウ
エ ス
タ ン
鉄 道
﹄ ︵
一 八
四 四
・ 油
彩 画
︶ ︑
レ オ
ナ ル
ド ・
ダ ・
ヴ イ
ンチが弟子に告げた言葉などを思い起こしてゆく︒そして︿東洋﹀の美術にもくわしく︑長沢董雪︵一七五四|一九七七︶
﹁ 山
姥 ﹂
︑ ﹁
高 砂
の 姐
﹄ の
面 ︑
円 山
応 挙
︵ 一
七 三
三 |
一 七
九 五
︶ ﹁
幽 霊
園 ﹂
︵ 水
墨 画
︶ ︑
伊 藤
若 沖
︵ 一
七 一
六 ?
1
一 八
O O
︶ ﹃
鶴
図﹂︵水墨画︶などを挙げ︑それらを︿西洋﹀の美術と対応させながら思索をくりひろげてゆく︒そして︑これら芸術に関
する引用が画工の思惟に彩りや深みを添えている︒この点については︑芳賀徹氏が﹁世界広しといえども︑二十世紀のご
く初め︑芦雪とミレイが︑タ l ナ!と応挙が︑池大雅とレッシングが︑あるいは王維がスウインパ l
ン が
︑
一 人
の 頭
脳 の
うちに連鎖して同時に浮かぶなどというのはただこの日本においてしか︑それも多分この夏目激石においてしかありえな
﹃ 草
枕 ﹂
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
一
四 かったことは︑たしかであろう町﹂と激石にひきつけて述べている︒﹁草枕﹂にみられる様々な美術引用は︑
い っ
た ん
画 工
の思惟から遠のいて︑ひとつのテクストとして独立しつつ︑さらに画工の思考へと引き戻されることによって︑商工の思 想として回収されるのである︒そのような﹃草枕﹄における美術の引用に注目し︑それらがテクスト内へどのように影響 しているのか︑また︿東洋﹀と︿西洋﹀のテクストを対にして引用していることにどのような意図があるのか考察を試み
︐ − ︑
︒ ︒
ナ 九
ν
レオナルド・ダ・ヴインチと芭焦
画工は︑旅の始まりから画家や芸術家の言葉を思い浮かべる︒温泉へ向う途中で︑俗世間を脱した境地である﹁非人情﹂
を芸術的な観点から観察する方法として︑﹁レオナルド︑ダ︑ギンチが弟子に告げた言﹂や芭蕉の発句を引用している︒
唯︑物は見様でどうでもなる︒レオナルド︑ダ︑ギンチが弟子に告げた言に︑あの鐘の音を聞け︑鐘は一つだが︑立日 はどうとも聞かれるとある︒
一 人
の 男
︑ 一人の女も見様次第で如何様とも見立てがつく︒どうせ非人情をしに出掛けた 旅だから︑其積りで人聞を見たら︑浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう︒
E U E E r
円 m
g i
n F
︵ H
M 蛮
E H
・ 貴
族 出
身 の
ロ シ
ア の
詩 人
・ 小
説 家
・ 批
評 家
︶ まず︑﹁レオナルド︑ダ︑ギンチが弟子に告げた一百﹂の出典について確認しておきたい︒激石山房蔵書目録には冨
o S E 君 ︒
の 呂
町 ︑
︒ 認
さ き
R
豆 町
3 均
2 2 3 ﹃ ︐
t s a ﹃ 号
舎 で
凡 苫
ミ ︵
向 ︒
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官 民 吋 ・
3 0
凶︶があり︑扉裏から扉にかけて﹁作者ハ︿
E a
ノ生涯ヲエガケリ﹂や﹁作者ハ︿
s a
ノ生涯ヲ描
キタランヨリモ当時ノ文芸復興ヲ描ケリ︒﹂と書込みがある︒この書き込みについては﹃激石全集﹄にも記されている︒こ
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「BOOKVI THE DIARY OF GIOVANNIBOLTRAFFIO
」ピぺ♂長崎。
To‑night I beheld him, standing in the rain in a close and fetid alley, absorbed in the contemplation of certain spots of dampness
on a stone. He stood there a long while, and the urchins in the street nudged each other and mocked him. I asked him what he be
拘held in the stone.
Giovanni , he said , see the splendid monstrous fi
伊回!Chimera, with her jaws wid ほ; and beside her an angel with flying hair
and airy flight, fleeing from the monst ぽ・ The caprice of chan 四 has produced a pic 旬児 worthy of a great 副 ist.
He traced with his finger 白
Eoutline of the d
閣np spot ,加 d to my amazement I recognised 白 at what he said was true.
Many,' he said , think 出 is habit of mine an absur 尚早 but experience has taught me how useful it is お r the education of the fancy.
I have taken from such things what I wanted, and brought them to completeness. Listen to faroff bells; you c 佃 find in their confused 組問 clang the very names and words you lack.'
1亘
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ノ 、
今確認した傍線部であるが︑直接引用されていない前半も確認してみると︑雨によってできた石の﹁しみ﹂から︑キミラ
︵ ギ
リ シ
ャ 神
話 に
登 場
す る
怪 獣
︶
のそばに︑天使のなびく髪や漂うように飛ぶ姿を見ることができるという芸術における
﹁見立て﹂の方法が述べられている︒画工の言葉にある﹁物は見様でどうでもなる︒﹂は︑明かにここをふまえている︒
てコ
まり︑ダ・ヴインチの言葉にみられた前半の視覚的な﹁見立て﹂方法をさりげなく引用し︑さらに後半の﹁鐘の音﹂から
自分の望む名前や言葉を自由に聞き取る︑ いわば聴覚からの﹁見立て﹂法を採用したのである︒
とにかくも画工は︑ダ・ヴインチの言葉から︑﹁見立て﹂という方法を見出していることが分かる︒そして︑画工は﹁一
人 の
男 ︑
一人の女も見様次第で如何様とも見立てがっ﹂くとして﹁どうせ非人情をしに出掛けた旅だから︑其積りで人間
を見たら︑浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう﹂と考える︒画工は︑この﹁非人情﹂の旅では︑人を﹁見
立 て
﹂ の
方 法
で 眺
め よ
う と
い う
の だ
︒
つ ま
り ︑
﹁ 非
人 情
﹂ と
は ﹁
見 立
て ﹂
の 方
法 に
よ っ
て 追
求 さ
れ る
も の
と い
う こ
と に
な る
︒ それは︑画工の﹁我等が能から享ける難有味は下界の人情をよく其僅に写す手際から出てくるのではない︒其僅の上へ芸
術といふ着物を何枚も着せて︑世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである︒﹂という言葉の通り︑物事を芸術的に
﹁ 美
﹂ と
し て
み る
方 法
な の
で あ
る ︒
つづけて︑画工は︑芭蕉から﹁見立て﹂の例を引用する︒
芭蕉と云ふ男は枕元へ馬が尿するのをさへ雅な事と見立て冶発句にした︒余も是から逢ふ人物を||百姓も︑町人も︑
村役場の書記も︑爺さんも婆さんもーーー悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様︒
注 3 傍線を附したのは︑松尾芭蕉︵一六四四 l 一六九四︶が尿前で詠んだ﹃おくの細道﹄所収の﹁蚤訊馬の尿する枕もと﹂
の 間
接 的
な 引
用 で
あ る
︒
芭蕉は︑尿前を通り抜けで出羽田に山越えしようとしたが旅人がめったに通らないため︑怪しまれ︑漸く関所を通った︒
日が暮れてしまったので国境を守る頭分の家に宿泊を頼んだが︑風雨が激しくなり出立できず︑三日もとどまってしまっ
た︒引用されたのは︑このような悪条件の中で詠まれた匂﹁蚤嵐馬の尿する枕もと﹂である︒
悪条件が重なったのにも関わらず︑俳諾の基本姿勢である﹁見立て﹂を通して馬の生理現象までも句として詠んでいる︒
また芭蕉は商工と同じく創作の旅をしている人物である︒ここから商工は︑﹁是から逢ふ人物﹂も﹁大自然の点景﹂として
﹁ 見
立 て
﹂ ょ
う と
決 意
す る
の で
あ る
︒ しかし︑ここで気になるのは芭蕉は馬の生理現象を見たのであろうか︒枕もとでそれを感じたのであれば︑それははじ め目ではなく耳からではないだろうか︒画工はレオナルド・ダ・ヴインチと芭蕉を対に引用するにあたって︑聴覚からの
﹁見立て﹂として揃えたのであろう︒そして︑画工は︿西洋﹀の﹁レオナルド︑ダ︑ギンチの一言﹂と︿東洋﹀の能や芭蕉の
句とをあわせて引用することによって︑﹁見立て﹂という表現法を﹁非人情﹂という芸術美の追求の方法としてとらえてい
るのである︒商工は﹁非人情﹂という﹁美﹂的に人や事物を﹁見立て﹂る方法を時空間を超えた︿西洋﹀と︿東洋﹀とが
相通じるものとして結びつけているのだ︒﹁見立て﹂は何も視覚に限らず︑聴覚から︑また人間の五球芋ノべてにおいて通用
す る
表 現
方 法
で あ
る ︒
また︑ここで両者の違いに注目してみると︑まず︑ダ・ヴインチは﹁見立て﹂について︑対象を認識する人間の感覚や
想像力の主体性として説いている︒ 一方︑芭蕉の﹁見立て﹂は︑︿東洋﹀の伝統的な芸術表現法にならったものである︒つ
まり︑画工は︿東洋﹀の伝統的な芸術表現法を︿西洋﹀の芸術論によって裏づけることで︑﹁見立て﹂を東西の芸術に共通
する普遍的な芸術表現法として発展させようとしているのではないだろうか︒
﹃ 草
枕 ﹂
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
七
J ¥
タ lナ!と応挙
次に引用されるのがタ i ナ!と応挙である︒画工は︑那古井の桃源郷に着いた夜︑花ならば海業かと思われる幹を背に
立っている女の﹁影法師﹂を目にして︑走然としてしまう︒しかし︑その謎めいた女の影が契機となり︑やがて我に帰る
と﹁美﹂について思惟しはじめるのである︒
この故に天然にあれ︑人事にあれ︑衆俗の昨易して近づき難しとなす所に於て︑芸術家は無数の琳瑛を見︑無上の宝酪
を知る︒俗に之を名けて美化と云ふ︒其実は美化でも何でもない︒燦嫡たる彩光は︑嫡乎として昔から現象世界に実在し
て 居
る ︒
芸術家は︑衆俗の近づき難い超俗の世界において︑﹁琳浪﹂︵美しい玉︶を見て︑﹁宝磁﹂︵美しい玉の一種︶を知る︒芸
術家が表現した﹁美﹂を俗世間では﹁美化﹂という︒しかし︑﹁燦嫡たる彩光﹂は︑昔から﹁現象世界﹂に実在しているの
だと画工は述べる︒続けて︑
口ハ一場眼に在って空花乱墜するが故に︑俗累の属綾牢として絶ち難きが故に︑栄辱得喪のわれに逼る事︑念々切なる
が故に︑タ l ナーが汽車を写す迄は汽車の美を解せず︑応挙が幽霊を描く迄は幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである︒
ここで画工は︑﹁一騎眼に在って空花乱墜する﹂と︑﹃景徳伝灯録﹄﹁十﹂を引用して︑煩悩によって︑実在しないものが
あたかも存在するように思えるために︑そして動物を曳く手綱のような俗世間の煩わしい拘束を絶ち難いために︑また俗
世間に捕われ﹁栄辱得喪﹂に苦しむために﹁美﹂を見出すことが出来ないのだと述べる︒﹁現象世界﹂に確かに実在してい
る﹁美﹂は︑習俗にとらわれないところで見出し得るのである︒逆にいえば︑﹁美﹂とは︑現実世界にからめとられている
聞は見出せない︒そうして︑俗世間にあって︑衆俗を絶ち切ることが困難なために︑タ l ナ i が﹁汽車﹂を描き︑応挙が
﹁ 幽 霊 ﹂ を 描 く ま で ︑ そ の 実 在 す る ﹁ 美 ﹂ に 気 づ か ず に ﹁ 打 ち 過 ぎ ﹂ て し ま う ︒ だ か ら ︑ 芸 術 家 の 目 で み た 視 点 で し か ﹁ 美 ﹂
的 な も の を 発 見 す る こ と は で き な い ︒
つ ま
り ︑
タ
l ナーや応挙は︑自ら衆俗にとらわれない所で見出した﹁美﹂を描いて
い る
の で
あ る
︒
佐渡谷重信氏は︑この点について激石の﹁美学﹂に引き付けて﹁タlナlも応挙も︽美 V を目的に描いていたわけでは
つまり︑描くべき対象の汽車や幽霊の中に︽美︾があるのではな 注 4 く︑自分の心の内部にあるセンチメントが美をつくるのであろう︒﹂と解釈している︒佐渡谷氏は︑﹁画﹂の対象︑ここで な
い ︒
︽ 美
︾ は
理 解
さ れ
る も
の で
も な
く ︑
感 じ
取 る
も の
︑
は﹁汽車﹂や﹁幽霊﹂の中に﹁美﹂があるのではなく︑描く側の﹁センチメント﹂が﹁美﹂を作るのだと指摘している︒
し か し ︑ 今 見 て き た よ う に ︑ 画 工 は ﹁ 美 ﹂ に つ い て ︑ ﹁ 現 象 世 界 ﹂ に 実 在 す る も の で あ り ︑ 衆 俗 に と ら わ れ な い と こ ろ で ︑
対象の﹁美﹂を発見することができるのだと述べている︒芸術家でない人︑ つまり俗世間から離れられないところにいる
人は︑芸術家が表現した﹁美﹂を﹁美化﹂という︒しかし真の芸術︑﹁美﹂とはその対象の中に隠されている︒それを見出
し得るかどうかが問題なのだ︒自分で対象物の内にある﹁美﹂を見出せない人は︑芸術家が表現した﹁美﹂を解すること
で︑初めて﹁美﹂を知ることができるのだ︒確かに佐渡谷氏の言うように︑描く側の﹁センチメント﹂は重要である︒し
かし﹁描く側のセンチメント﹂が﹁美﹂を作るというより︑むしろ現存する﹁美﹂を見出し得る﹁センチメント﹂こそが
﹁美﹂を作りだすのだ︒この態度は﹃夢十夜﹄の﹁第六夜﹂でみられる︑運慶が木の中に︑元来存在している仁王像を掘り
出 し て ゆ く こ と と 同 じ で あ り ︑ ︿ 東 洋 ﹀ 的 な 発 想 で も あ る ︒
﹃ 草
枕 ﹄
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
九
四 0
と こ
ろ で
︑ ﹃
草 枕
﹂ に
引 用
さ れ
た タ
l ナ l の﹁汽車﹂は︑イギリスの画家臣
g o こ
・ ζ
5 E S
︵ コ 斗 凶
llZ
巴 ︶
が 描
い た
注 5 ナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー 所 蔵 の ﹃ 雨 ・ 蒸 気 ・ 速 度 ﹄ ︵ 一 八 四 四 ・ 油 彩 画 ︶ の こ と で あ る ︒
メ イ ド ン ヘ ッ ド と タ ッ プ ロ l 聞に完成したテムズ河の橋上を︑雨が降る中︑汽車が走っている画だ︒タ l ナ l
が 実
際 に
この汽車に乗り感じ取ったことを画にした︒激石も﹃文学論﹂第三編第二章でタ l ナ l の﹁雨・蒸気・速度﹄にふれてい
る
か の
E B
R の晩年の作を見よ︒彼が画きじ海は燦畑として絵具箱を覆したる海の如し︒彼の雨中を進行する汽車を描
くや漠濠として色彩ある水上を行く汽車の知し︒此海︑此陸は共に自然界にありて見出し能はざる底のものにして︑し
かも充分に文芸上の真を具有し︑自然に対する要求以上の要求を充たし得るが故に︑換言すれば吾人はこ︑に確乎たる
生命を認むるが故に︑彼の闘は科学上真ならざれども文芸上に醇乎として真なるものと云ふを得るなり︒
激石は︑タ l ナ l
の ﹁
海 ﹂
の 函
︵ ﹃
激 石
全 集
﹄ の
注 に
は ﹁
﹃ 海
戦 中
の テ
メ レ
l ア号﹄一八三九年のことか﹂とある︒︶と
﹃ 雨
・ 蒸
気 ・
速 度
﹄ を
例 に
挙 げ
︑ ﹁
文 芸
上 ﹂
の 真
と ﹁
科 学
上 ﹂
の 真
に つ
い て
論 じ
て い
る ︒
﹁ 文
芸 上
﹂ の
真 と
は ︑
主 観
的 な
事 実
に基づくものであり︑描く側の心にとっての事実︑想像上の真である︒一方︑﹁科学上﹂の真とは客観的な事実に基づくも
のである︒では︑ここで﹃草枕﹄に引用された﹃雨・蒸気・速度﹂を﹁科学上﹂の真と﹁文芸上﹂の真から考察してみた
U
。 ミ
タlナlは︑実際に目にした光景︑具体的にはすさまじい雨が降る嵐の中を走る﹁汽車﹂という﹁科学上﹂の産物をモ
チーフにしている︒そして︑﹁科学上﹂の産物をモチーフとしながら︑﹁美﹂を表現するために︑向ってくる列車を橋の中
心におくため︑隣の線路を省略したり︑列車の進行方向を明らかにするために︑エンジンの前を走る兎を描き込んだ︒ま
た ︑ 激 石 が 指 摘 す る よ う に ︑ 雨 中 を 走 る 列 車 の 様 子 を ︑ あ た か も ﹁ 水 上 を 行 く ﹂ よ う に 表 現 し て い る ︒ こ の 表 現 法 が ︑ ﹁ 文
芸上﹂の真である︒タ l ナ l
は ︑
﹁ 科
学 上
﹂ の
新 し
い 産
物 を
モ チ
ー フ
と し
な が
ら ︑
﹁ 画
﹂ と
し て
い る
の だ
︒ ま
た ︑
当 時
多 く
の芸術家が産業革命に反援を示していた当時において︑タ l ナ l
は ︑
﹁ 汽
車 ﹂
と い
う 産
業 董
ム 叩
が も
た ら
し た
近 代
を 讃
美 し
た
人物であった︒衆俗にとらわれることなく新しい時代の﹁美﹂を探っていたのである︒このタ i ナ l
の ﹁
美 ﹂
の 表
現 法
は ︑
画工がいう俗世間にとらわれない﹁非人情﹂の﹁美﹂と共通している︒また画工はタ l ナ l の描く﹁汽車﹂の﹁美﹂を認
め な
が ら
︑ 別
の と
こ ろ
で は
︑ ﹁
汽 車
﹂ の
社 会
的 な
機 能
に つ
い て
︑ 文
明 批
評 的
な 見
解 も
述 べ
て い
る ︒
人は汽車へ乗ると云ふ︒余は積み込まれると云ふ︒人は汽車で行くと去ふ︒余は運搬されると云ふ︒汽車程個性を軽
蔑したものはない︒文明はあらゆる限りの手段をつくして︑個性を発達せしめたる後︑あらゆる限りの方法によって此
個 性
を 踏
み 付
け 様
と す
る ︒
こ と
な が
ら ︑
産 業
社 会
特 有
︵ 石
炭 や
石 油
な ど
︶
︿ 西
洋 ﹀
に お
い て
も 馬
車 が
主 な
交 通
手 段
で あ
っ た
当 時
︑ ﹁
汽 車
﹂ は
近 代
化 の
象 徴
で あ
っ た
︒ ﹁
汽 車
﹂ が
運 ぶ
の は
︑ 人
も さ
る
の 荷
物 で
あ る
︒ つ
ま り
︑ ﹁
汽 車
﹂ は
利 害
得 失
に 関
わ る
荷 物
を 運
び ︑
現 実
世 界
の俗事から逃れられない人を乗せて走る︒画工にとって︑この近代文明の象徴に乗り︑荷物のように﹁運搬﹂される人間
は ︑ メ カ ニ ズ ム に 組 み 込 ま れ ︑ 個 性 を 踏 み つ け ら れ る よ う に 思 わ れ る の で あ る ︒
しかし︑前述した通り画工は︑タ l ナーのように﹁汽車﹂を現実における機能面のみを見るのではなく︑俗世界から離
れ て 見 る と ︑ ﹁ 文 芸 上 ﹂ の つ ま り 想 像 上 の 真 が 成 り 立 ち ﹁ 美 ﹂ の 存 在 に 気 づ く こ と を 悟 っ て い た ︒ 雨 の 降 る 風 景 の 一 部 と し
て と
ら え
る の
で あ
る ︒
そ う
す る
と ︑
﹁ 画
﹂ と
し て
﹁ 調
和 ﹂
が 見
ら れ
る ︒
﹁ 美
﹂ は
︑ 利
益 得
失 か
ら 離
れ る
こ と
に よ
っ て
見 出
し
得 る
も の
で 俗
事 を
超 越
し た
世 界
︑
つ ま
り ︑
画 工
の い
う ﹁
非 人
情 ﹂
の 世
界 に
﹁ 美
﹂ は
存 在
す る
︒ タ
l ナ l
は ︑
﹁ 科
学 上
﹂ の
真
﹃ 草
枕 ﹂
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
四
四
の 産
物 で
あ る
汽 車
を ﹁
文 芸
上 ﹂
の 真
と し
て 描
い て
み せ
た の
で あ
る ︒
一 方
︑ ︿
東 洋
﹀ の
円 山
応 挙
︵ 一
七 三
三 |
一 七
九 五
︶ の
描 い
た ﹁
幽 霊
﹂ と
は ︑
カ リ
フ ォ
ル ニ
ア 大
学 バ
ー ク
レ ー
校 ・
大 学
美 術
館 所 蔵 の ﹃ 幽 霊 園 ﹄ ︵ 水 墨 配 ︶ の 引 用 で あ る ︒ 乱 れ 髪 を た ら し ︑ 右 手 を 懐 に 入 れ ︑ 伏 目 が ち の 悲 し そ う な 女 性 の 幽 霊 が 描 か
れている︒芸術作品として﹁幽霊﹂が描かれた例は少ないというが︑応挙の﹃幽霊園﹄からは︑生身の美人画を思わせる
ほ ど
︑ そ
の 存
在 は
リ ア
ル に
描 か
れ て
い る
︒
﹁ 幽 霊 ﹂ は 通 常 ︑ 形 や 見 か け そ の も の が お ど ろ お ど ろ し く ︑ 恐 ろ し い イ メ ー ジ が 先 行 す る が ︑ 応 挙 の 函 か ら は ︑ も の 悲 し
くも美しいなよやかな﹁幽霊﹂に﹁美﹂を感じることができる︒それは︑応挙が既成概念にとらわれることなく︑写実的
な﹁幽霊﹂のイメージを作り出しているからである︒応挙は︑写実主義の祖といわれる︒写実主義は一般に︑現実をあり
のままに模写・再現しようとする傾向であるが︑狩野派や西洋画の遠近法を取り入れながら︑現実に目にできないモチ l
フ︵幽霊や竜など︶には︑イメージを現実化して画にするという方法を用いていた︒応挙は︑実在する女性のように写実
的 に 描 き な が ら ︑ 非 現 実 的 な ﹁ 幽 霊 ﹂ を モ チ ー フ と し た ﹁ 文 芸 上 ﹂ の 真 に 基 づ い て ﹃ 幽 霊 園 ﹄ を 描 い て い る ︒ ﹃ 幽 霊 園 ﹄ も
画 工 の 目 指 す 衆 俗 を 超 え た ﹁ 非 人 情 ﹂ の ﹁ 美 ﹂ を 表 現 し て い る の で あ る ︒
ここから︑俗世間から脱した﹁非人情﹂と共通した﹁美﹂の表現を︿西洋﹀と︿東洋﹀共に用いていることが明らかに
なった︒そして︿西洋﹀のタ l ナ l
の ﹁
画 ﹂
と ︿
東 洋
﹀ の
応 挙
の ﹁
画 ﹂
を 対
等 に
並 べ
︑ ﹁
美 ﹂
の 概
念 を
語 る
画 工
は ︑
創 作
す
る 側
の 態
度 に
つ い
て 追
究 し
て い
る こ
と が
分 か
る ︒
画工が宿に着いた最初の夜︑夢に﹁長良の乙女﹂が突然﹁オフェリヤ﹂になって﹁河の中を流れ﹂るのを画工が﹁救っ
てやろう﹂とするが流れて行ってしまうという場面があった︒その夢を見る直前︑画工は寝入る前に︑床にかかっている
﹁ 若
沖 の
鶴 の
図 ﹂
を 目
に す
る ︒
若沖の図は大抵精微な彩色ものが多いが︑此鶴は世間に気兼なしの一筆がきで︑
の胴がふわっと乗かつてゐる様子は︑甚だ吾意を得て︑瓢逸の趣は︑長い瞬のさき迄龍ってゐる︒ 一本足ですらりと立った上に︑卵形
﹁ 若
沖 の
鶴 の
図 ﹂
に つ
い て
︑ 中
島 国
彦 氏
の 言
及 が
あ る
︒
こ の
場 合
︑ ﹁
一 本
足 ﹂
と い
う 形
容 は
決 し
て 安
定 し
て い
る と
は 一
言 え
な い
那 美
の 立
場 を
象 徴
し て
見 事
で あ
り ︑
注 7 具を印象にとどめると︑忘れられないものになる︒
一 度
そ の
小 道
注 8 しかし︑若沖の﹁鶴図﹂︵水墨画︶をみると︑画工の一言うように︑確かにまるまるとした一筆書きの胴を︑まっすぐと伸
びた二本足が支え︑勢いのあるタッチで楓爽と描かれている︒私が確認できた絵は︑足が二本であることは気にかかると
ころであるが︑画工の﹁若沖の鶴の図﹂についての言及︑﹁彩色ものが多いが︑此鶴は世間に気兼なしの一筆がき﹂という
点︑﹁瓢逸の趣﹂を感じている点を重視したい︒そして︑画工のいう商と一致している点からみて︑﹁安定﹂していない那
美さんに引き付け何かを象徴するものではなく︑画工が同業である先人の画を素直に見ている場面ととらえてよいだろう︒
ところで︑﹁鶴図﹄の作者伊藤若沖︵一七一六? i 一八OO︶は江戸中期の画家である︒京都に生まれ︑狩野派・琳派を
学び︑中国明清画の筆意をくわえて動植物画に独自の画境を開き︑特に鶏の図をよくした︒そして若沖は人と群れるのを
嫌い︑生涯どこの派にも属さなかった︒このように生きた若沖の生き方から﹃鶴図﹄を見た画工は﹁此鶴は世間に気兼な
しの一筆がき﹂だと自身の目指す俗世間からの逸脱を重ね合わせたのであろう︒世俗にとらわれない﹁美﹂は︑そのまま
﹁非人情﹂へとつながる︒画工はこの﹁非人情﹂の﹁美﹂は︿東洋﹀に限った﹁美﹂ではなく︑︿西洋﹀にも存在し得るこ
と を
タ
1 ナ l の﹁画﹂から悟った︒また︑タ l ナ l は︑画工もふれているレッシングの﹁ラオコン﹄を読んでいたという
﹃ 草
枕 ﹂
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
四
四 四
注 9 点 で も 興 味 深 く 感 じ ら れ る ︒
ところでタ l ナ!と激石に関して︑木村由花氏の論がある︒そして﹃草枕﹂に言及したところに次のような指摘がある︒
本稿で先に引用したタ l ナ!と応挙についての部分と︑タ l ナーがサラダの色について﹁涼しい色だ︑是がわしの用ゐる
色だ﹂と述べた部分とを引用した後︑次のように続けている︒
だが﹃草枕﹂では単に絵画をイメージの借用︑視覚的効果の面から取り扱うのではなく︑その思想をも文学に生かそ 主 m うとする意図がはっきりしてくる︒
そして﹁激石の︑タ l ナ l の色彩に対する強い関心は︑激石がタ l ナ l を 通 じ ﹂ て ﹁ ﹁ 印 象 主 義 ﹂ へ 接 近 し つ つ あ る こ と
を示﹂し︑激石蔵書﹁タ l ナ l の天才﹄にみられる書き込み﹁自然は線よりむしろ色彩であり︑陰はそれ自体が色彩であ
る︒そして色彩は色調の分割によって表現される︒これを成し遂げたのが︑ クロードに影響を受け︑印象主義の創始者と
なったタ l ナ!なのである︒﹂という文章に﹁充分に表れている﹂という︒
木村氏のいう﹁思想﹂とは絵画表現の技法における美意識のことを指している︒しかし﹃草枕﹄で引用されたタ l ナ l
が﹁色彩﹂について言及しているのはサラダの色のみであり︑タ l ナ!と応挙が対応した形で述べられている部分では︑
むしろこの二人の画家の創作家としての態度を力説していることは前述した通りである︒つまり﹁草枕﹄においてタ 1 ナ l
を引用した意味は︑その画家としての態度と結びついた﹁思想﹂︑創作家の態度なのである︒
ホイツスラ
l
の絵と那美さんの振袖姿
ここでは︑はっきりとは限定されていないが引用された可能性がある絵画を試みに挙げてみたい︒
那古井温泉での夕暮︑画工は﹁画にできない情﹂を詠おうと詩を作っていると振袖姿のすらりとした女が︑音もせず︑
向う二階の縁側を寂然と行きつ戻りつしている︒那美さんらしい︒この様子を画工は次のように表現する︒
太玄の闇おのづから開けて︑此華やかなる姿を︑幽冥の府に吸ひ込まんとするとき︑余はかう感じた︒金扉を背に︑
銀燭を前に︑春の宵の一一刻を千金と︑さずめき暮らしてこそ然るべき此装の︑厭ふ景色もなく︑争ふ様子も見えず︑色 相世界から薄れて行くのは︑ある点に於て超自然の情景である︒
那美さんは︑画工が茶店のお婆さんから聞いてきた嫁入りした時の振袖を着て見せたのだ︒商工がこの振袖姿から見た のは︑﹁金扉を背﹂に︑﹁銀燭を前﹂にした﹁厭ふ景色もなく︑争ふ様子も見え﹂ない﹁春の宵﹂と調和した﹁超自然の情 景﹂であった︒﹁画﹂に﹁調和﹂を求める商工にとって︑この振袖姿は﹁美﹂として成立し得るものである︒村人から﹁気 狂い﹂と言われている那美さんであるが︑振袖を着てみせた那美さんの中に﹁美﹂が存在しているのだ︒また︑画工は﹁女 のつけた振袖に︑紛たる模様の尽きて︑是非もなき磨墨に流れ込むあたりに︑おのが身の素性をほのめかして居る︒﹂と振 袖の模様にまで言及している︒画工は︑模様が尽きて磨墨に流れ込む様子に︑那美さんの心も流れに巻き込まれるような 不安定な様子であることを﹁美﹂的に描き出す︒
ところで︑この振袖姿の場面は︑ラフアエル前派の画家たちと交わった
z s g z n Z i g
− − 者
E 邑 2
︵ 冨
1 岩
3 0
凶 ︶
の 画
﹁ パ
﹁ 草
枕 ﹄
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
五 四
四 六
ラと銀・磁器の国の姫君﹂︵一八六四・ワシントン
注 目
フ リ
l ア・ギャラリー所蔵︶を思わせる︒この絵は︑世紀末美術に関
する論では︑英国における世紀末芸術の例として︑よく紹介されているものである︒
この絵の女性の立ち姿は︑振袖ではなく︑ 日本の部屋着の着物をまとっているが︑赤い地に花の華々しい模様があり︑
上に羽織った着物の裾には﹁磨墨﹂のような模様がある︒また背景には金ではないが扉風が配され︑画工の那美さんに対
する描写と類似しているのだ︒ちなみにホイッスラ l は﹃パラと銀・磁器の国の姫君﹄を完成した一八六四年と同じ年に
﹃紫と金色のカプリッチオ・・金扉風﹄という絵を描き︑やはり着物を着た女性が金扉風の前に座っている様子を描いている︒
激石は︑イギリスのラフアエル前派に強い関心を持ち︑ラフアエル前派には︑激石が﹃草枕﹂の中でこだわり続ける﹁オ
フエリヤ﹂の作者ミレ l も関わっていた︒激石が︑この絵を所蔵しているワシントンのフリ l ア・ギャラリーに行ったと
いう記述はないので︑実際目にしたかは不明だが︑イギリス留学中には︑美術雑誌﹁ステユ l デイオ﹂を定期購読してい
たらしく︑激石の蔵書目録にもみられるので︑もしかしたら︑目にしていたかもしれない︒そう考え︑東北大学附属図書
館で激石が蔵書していた﹁ステュ l デイオ﹂を確認したがみつからなかった︒ただし︑欠損部分もあるため今後も調査を
続けてみたい︒また︑ホイツスラ l の絵以外にも﹁ステユ|デイオ﹂には︑目鼻立ちのはっきりした西洋的な女性が日本
主 ロ
の着物を身にまとった絵が見られた︒
ではここで︑ホイツスラ l の芸術観を確認してみたい︒
芸術はいっさいの爽雑物から独立し︑自立して︑目や耳の美的感覚に訴えかけるものであり︑これを︑美的感覚とは
まったく無縁の献身︑哀れみ︑愛︑愛国心といった感情的なものと混同すべきではない︒こういうものは芸術とはなん
主 ロ
ら関係がないのだ︒私が自分の作品を﹁アレンジメント﹂や﹁ハーモニー﹂と名づけるのは︑こうした理由によっている︒
ホイツスラ l は︑当時︑絵画に物語や教訓を求める風潮の中で﹁異端児﹂といわれていた︒しかし︑彼にとっては﹁テー
マはほとんど意味をもたず︑調和のある構図と色彩だけが重要﹂であり︑﹁実生活から切り離され︑道徳的必要性を捨象し
l ンやオスカ l た純粋経験であった︒﹂という︒また︑マラルメやラスキン︑画工の言葉に引用された詩人スウインパ ル 伍 H
・ ワ
イルドとの交流も深かった︒しかしスウインパ l ンに書評でけなされ︑またジョン・ラスキンから酷評されたことによっ
て名誉段損で訴え︑勝訴となったこともある︒
この絵に﹁調和﹂を求め︑道徳的観念やストーリーからの脱却︑視聴覚という﹁感じ﹂を重視する思想は︑画工の思惟
と酷似している︒時流に流されない態度も一致しているのだ︒
画工に引きつけて考えると︑前述した通り︑画工は︿西洋﹀の多くの絵画を知る人物であるから︑その知識のもとは︑
美術雑誌﹁ステュ l デイオ﹂またはそれ以外の美術雑誌を見て得たという可能性は充分ある︒今の時点では仮定にすぎな
いが︑﹃パラと銀・磁器の国の姫君﹄を見ている可能性は考えられるのだ︒
ホイッスラ l は︑西欧が日本美術の波を︑つけた﹁ジヤボニズム﹂の始まりを告げる記念碑のような作品として﹃パラ色
と銀・磁器の国の姫君﹂を発表した︒この画は︑外見は日本の着物をまとい︑扉風を背景とした構図は日本を思わせるが︑
顔は︑鼻が高く︑二十世紀の日本の女性とは違い︿西洋﹀的である︒西欧と日本を絵画の上で調和させたホイツスラ i の
絵画を︑または︑西洋の女性が日本の着物をまとった構図から︑画工は日本女性をモデルとして︑逆輸入の形で取り入れ︑
画ではなく言葉で表現したのかもしれない︒
四
那美さんの絵の成立|結末部の意味|
これまで述べてきた通り︑画工の思惟の中にみられる多くの︿東洋﹀と︿西洋﹀の引用から特に絵画を取り出して考察
﹃ 草
枕 ﹄
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
四
七
J 四 ¥
し て
き た
︒
まず画工は︑﹁レオナルド︑ダ︑ギンチの一百﹂と芭蕉の匂から︑﹁見立て﹂という表現法を照応させた︒﹁見立て﹂は何も
視覚に限らず︑聴覚から︑また人間の五感すべてにおいて通用する表現方法である︒画工は︑作家の態度として美を﹁見
立て﹂る方法をとらえる︒
つぎに︑タ!ナ!と円山応挙から︑﹁美﹂は︑俗事を超越したところで見出し得るという態度を照応させた︒︿西洋﹀の
タ l ナ l の﹁画﹂と︿東洋﹀の応挙の﹁画﹂に共通している既成概念を超越した﹁美﹂の概念を語りながら︑画工は創作
する側の態度について追究してゆく︒
また︑﹁鶴図﹂の作者若沖の画また生き方から︑創作家の﹁世間に気兼ねなし﹂という態度を見出している︒
画工は︑絵画やその画家についての多くの知識を援用しながら独自の画を追究しようとしていることが明かとなった︒
そこから︑画工がこの旅で創作家の態度をつかもうとしていたことが見えてくる︒そしてこの点については︑﹃草枕﹄の結
末において︑胸中の画が成立したのみで終わっていることへの伏線ともなっているのだ︒先行論を確認しておこう︒
東郷克美氏は︑﹁この﹁憐れ﹂の思いつきも︑作品を収束させるためのこじつけ的な口実の感じがなくもない︒画工の目
主 目 的は函を描くことではなく︑﹁夢みる﹂ことだったのだから︒﹂と論を結んでいる︒また前田愛氏は﹁母なるものの不在が
刻印されている那古井の里の桃源郷は︑奇妙なかたちに歪んでいる︒その歪みをもたらしたものが︑オフィ l リア・イメ i
オ プ セ ッ シ ョ ン ジへの強迫観念からの解脱と救済を希求する画工の内面の旅であったことはいうまでもない︒ー中略|世紀末の悪夢が見
えかくれする﹁草枕﹂の桃源郷は︑個的幻想の領域に収数せざるをえない︒那美さんの﹁憐れ﹂を点出することで完成が
注 目
約束された画工の﹁胸中の画面﹂がそれである o ﹂と指摘している︒はたして画工にとって今回の旅は﹁夢見る﹂ことや
﹁解脱と救済﹂を求める心の救済が目的の旅であったのだろうか︒それは今まで論じられてきたように果たして︑唐突な結
末 な
の で
あ ろ
う か
︒
しかし今回︑﹃草枕﹄における︿東洋﹀と︿西洋﹀からの美術の引用から探ってゆくと︑画工にとってこの旅は︑創作家
の態度を思惟し追及する目的があったことが明かとなった︒そしてこの態度は﹁胸中﹂で﹁哨嵯の際に成就﹂した﹁画﹂
の完成の意味をも含んでいる︒
画工は︑そもそも﹁只まのあたりに見れば﹂芸術は成り立つという考えていた人物である︒この旅では一貫してこの態
度をつらぬいた︒それは︑ いづれ画を描くとしても︑この旅の一番の目的は︑絵画を描く方法を模索することであったか
らだ︒画が形として完成しなかったのは︑画工の目的が︑創作家としての態度を獲得する旅であったからである︒そのこ
とは︑結末で﹁それだ!それだ!それが出れば画になりますよ﹂と興奮気味に那美さんの肩を叩きながら言った言葉やし
ぐさで分かる︒世間を気にしないという態度はここにも表れている︒画工はこの旅で画家としての存在自体を︑またどう
あるべきかをまさに追究していたのだ︒そう考えると︑久一さんを見送るため︑吉田の停車場へいって汽車を見た時︑﹁愈︑
現 実
世 界
﹂
へ引き戻されたという画工の脳裏には︑﹁夢﹂の旅の終わりを告げられたというより︑︿この旅では創作家の態
度を手にいれた︒帰途についたら︑画を形にしなければいけない﹀というさし迫った気持ちであったのかもしれない︒で
は︑創作家の態度を獲得しようと旅を続けた画工は︑なぜ那美さんの画を﹁胸中﹂で成立させることになったのであろう
この旅で唯一︑商工が創作家のまなざしを向けていたのは︑那美さんであった︒しかし画工は︑那美さんを画のモデル か
としようと決めながら︑中々描くことができない︒那美さんの﹁表情﹂に何か足りないものを感じていたからである︒那
美さんは︑画工にとって謎めいた︑ つかみ所のない女性であった︒振袖姿で夜の廊下を俳倒したり︑画工の詠んだ俳句を
勝手に添削したり︑画工がいる風日場へ入つできたりする女性である︒また︑村人からは﹁気狂い﹂といわれ︑
一 度
結 婚
したものの︑夫の勤めていた銀行が潰れ︑実家に戻ったため﹁出戻り﹂というレッテルを貼られてしまった︒そんな那美
さんの奇行を自にし︑うわさを耳にしながら︑画工は那美さんをモデルとした画の構図を﹁胸中﹂で﹁哨嵯の際に成就﹂
﹁ 草
枕 ﹄
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
四 九
五 O
することになる︒画工がとっさに︑また決定的に那美さんの画を胸中で成就した瞬間︑それは従弟の久一さんの出征を見
送った時のことであった︒久一さんが汽車に乗っていよいよお別れの時︑那美さんの前夫が﹁野武士﹂のような顔をして
汽車の窓から顔を出した︒前夫を思いがけず目にした那美さんの﹁顔﹂には︑走然と︑今まで画工が見たことのない﹁憐
れ﹂が浮かび上がる︒この﹁憐れ﹂の表情を浮かべた那美さんの﹁表情﹂から画工の﹁胸中﹂の画は成就するのだ︒画工
が い う ﹁ 憐 れ ﹂ と は ︑ ﹁ 神 に も っ と も 近 き 人 間 ﹂ の 情 だ と い う ︒ ﹁ 憐 れ ﹂ は ﹁ 人 聞 が 持 つ 軽 蔑 と ︑ 神 が 持 つ 惑 悲 と が 交 錯 し ︑
主 げ
統合された情﹂であるといえるだろう︒那美さんからすれば︑画工のひとりよがりな見方ではあるが︑那美さんの内に宿つ
ていたこの﹁憐れ﹂という情を画工は見出し︑﹁美﹂として解釈したのである︒いままで東西のテクストを援用し︑この旅
で創作家にとっては︑対象となるものに元来存在する﹁美﹂を見つけ得るかどうかが問題であることをつかんだ︒独自の
創作家としてのスタイルを追求していた画工は︑この時︑ やっと那美さんの中に存在していた﹁憐れ﹂という﹁美﹂を見
出 し
た の
だ ︒
五
美術引用の方法
今回︑美術引用を通して﹃草枕﹄を考察した結果︑この引用の仕方には法則があることが見えてきた︒
ま ず
︑ 本
稿 の
﹁ 一
レオナルド・ダ・ヴインチと芭焦﹂では︑︿東洋﹀と︿西洋﹀に共通して﹁美﹂の表現法として﹁見
立て﹂を用いていることを確認した︒しかし︑両者の違いに注目すると︑ダ・ヴインチは︑﹁見立て﹂を対象を認識する人
聞 の 感 覚 や 想 像 力 の 主 体 性 に つ い て 説 き ︑ 一 方 ︑ 芭 蕉 の ﹁ 見 立 て ﹂ は ︑ ︿ 東 洋 ﹀ の 伝 統 的 な 芸 術 表 現 法 に な ら っ た も の で あ
る ︒ ︿ 東 洋 ﹀ の 表 現 技 法 を ︿ 西 洋 ﹀ の 理 論 が 裏 付 け し て い る の だ ︒
また︑本稿で﹁二 ターナ!と応挙﹂の考察から︑︿東洋﹀と︿西洋﹀ともに現存する﹁美﹂を対象から見出し得る態度
こそ︑﹁美﹂的表現には必要であることを確認した︒しかしながら︑タ l ナ!と応挙の引用について︑異なる点を激石の創
作法という観点からみると︑タ l ナ l の﹃雨・蒸気・汽車﹄は︑まず﹃文学論﹄で理論として述べた﹁文芸上﹂の真と﹁科
学上﹂の真を裏付ける例として︑引用されていることを確認した︒そこから﹃草枕﹂におけるタ l ナ l の﹃雨・蒸気・汽
車﹄の引用と同列に︑円山応挙の﹃幽霊図﹄を引用した意味も見えてくる︒まず︑激石が︑理論的にすでに熟慮したタ l
ナ l の﹃雨・蒸気・汽車﹄を挙げ︑﹁科学上﹂の真である﹁汽車﹂を描くために﹁文芸上﹂の真を用いて表現することで
﹁ 美
﹂ を
描 い
た 例
を 挙
げ る
︒ こ
こ か
ら 反
対 に
︑ ︿
東 洋
﹀ の
応 挙
の 画
か ら
は ︑
﹁ 文
芸 上
﹂ の
真 で
あ る
﹁ 幽
霊 一
﹂ を
描 く
た め
に ﹁
科
学上﹂の真を用いて写実的に﹁美﹂を表す例を挙げているのだ︒そして︑タ l ナ l は独自の主観を持って対象を描き︑応
挙は写実主義という方法にそって画を描いている︒ここでも一度︑﹃丈学論﹂で十全に考察したタ l ナ l
の 画
を 応
挙 の
画 と
同列に引用したことで︑︿東洋﹀の画を︿西洋﹀の芸術方法によって裏付けていることが分かる︒そして︑那美さんの振袖
姿の描写には︑ホイッスラ l の﹁ジヤボニズム﹂の影響がうかがわれる︒これは︿西洋﹀を回路とした︿東洋﹀が逆輸入
の 形 で 取 り 入 れ ら れ た の だ と い え る だ ろ う ︒
以上のように︑激石は︿東洋﹀の伝統的な芸術表現法を︿西洋﹀の芸術論によって裏づけることによって︑﹁見立て﹂や
﹁美﹂の表現態度を︿東洋﹀と︿西洋﹀の芸術に共通する普遍的な芸術表現法として発展させようとしていたことが明かと
な っ
た ︒
﹁草枕﹄の引用は﹃激石全集﹄第三巻︵岩波書店
平 成
六 年
︶ ︑
﹃ 文
学 論
﹄ の
引 用
は ﹁
激 石
全 集
﹄ 第
十 四
巻 ︵
岩 波
書 店
平
成 七
年 ︶
に よ
る ︒
注
芳賀
徹
﹁夏目激石|絵画の領分﹂﹁夏目激石遺墨集﹄第三巻
︵ 求
龍 堂
昭 和
弘 ・
7
︶﹁ 草
枕 ﹄
に お
け る
美 術
引 用
の 意
味
五
注 2
u o
E E
S O
S E
Z E
呂 町
守 之
さ き
同 ﹃
︵ F
O E
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︒ 回 目 仲 田 注
3 目
0 凶
︶ 激
石 の
蔵 書
に よ
る ︒
﹁おくの細道﹂日本古典文学体系羽 刀口円
Hnuyd
日 μ
1 4 木
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注 3
注 4
佐渡谷重信
ジョン・ウォ il カ l l
﹃ 水
墨 画
の 巨
匠
注 5
I
王6
安岡章太郎
Y
玉7
中島国彦
Y 玉 8 梅 原 ジヤツク・リンゼl
由花
注 9
注
1 0
木 村
﹁ 世
界 名
画 の
旅
2 ﹂ 朝日新聞日曜版
1 玉
1 1
注 1 2
﹃ 芭
蕉 文
集 ﹄
︵ 岩
波 書
店
第十巻
司 宮 町 ︿
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円 ︒
︒ 呉
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﹃ ∞
町 E
5 2 0 ロ 吾 丘 町
千足伸行訳
﹁ ﹃
草 枕
﹄ と
西 洋
美 術
﹂ ﹁
激 石
と 世
紀 末
﹄
︵ 美
術 出
版 社
︵ 美
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論 社
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門 i ︾
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イ 末
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﹃ 回 国
ω ギャラリー 世界の巨匠﹃タ l
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と
応 挙
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︵ 講
談 社
平成 7 ・ 4
︶猛
﹃ 水
墨 画
の 巨
匠
第九巻
﹁ ﹁
影 ﹂
の 中
の 男
l 女
﹃ 草
枕 ﹄
か ら
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も の
| ﹂
若 沖
﹄
︵ 講
談 社
平成 6 − U
︶︵ ﹁
国 文
学
解 釈
と 鑑
賞 ﹂
高儀
進 訳
﹁ 激
石 と
タ
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l 二十世紀初頭の問題﹂﹁日本文芸思潮論﹄
刀ロ
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﹂
﹃ タ
l ナ l
生 涯
と 芸
術 ﹄
︵ 講
談 社
昭 和
田 ・
2 ︶
桜楓社 平成 3 ・ 3
︶︵ 朝
日 新
聞 社
︵ 吋 止 問 M H E A
︒ H
﹄
Z E
凶 35
︶
注 1 3
中山公男監修 旬
︒ 号 包 件
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房
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フランシス・スポ l ルデイング ﹁ホイッスラ l ﹂﹁週間グレート・アーティスト﹂第倒号
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