上越教育大学研究紀要 第9巻 第2分冊 平成2年3月 Bull.Joetsu Univ.Educ.,Vol.9,Sect.2,Marchユ990
観想と実践
アリストテレスにおける知性徳の位相
藤 澤 都 夫
(平成元年!0月23日受理)
要 旨
人間理性を理論理性と実践理性に分ける西洋倫理学の伝統は,アリストテレスに端を発する と言えよう。この点で彼は,イデアの観想をもって一切の人間活動の真理性を基礎づけようと したプラトンと,極めて鋭利な対照を見せる。プラトンが観想と実践を不可分の関係として彼 の倫理学を構築したのに対して,アリストテレスは或る意味で両者を分断したと考えられる。
今日でもなお,両者の関係をいかに理解するかは,最も困難な問題の一つであろう。小論は実 践に係わる賢慮の解明に主眼をおき,先ず『ニコマコス倫理学』と『政治学』を手掛かりに,
相互に異質な二つの幸福論を概観した上で,次いでアりストテレスの知性徳探究の道筋を明ら かにする。その過程で,目的内在的な活動と,活動それ自体から食み出る別の所産を目指す制 作活動との相違が重要な論点となる。倫理的行為は,行為されることを絶対(無条件)的目的 とする目的内在的行為である。さらに,行為のために働く思考は制作のために働く思考を支配 しなければならない。つまり賢慮は技術を支配する。目的外在的活動を貫いて目的内在的な活 動が問われているのである。そういう意味で,賢慮は正しい欲求と合致する限りでの真実を人 間の行為において実現する知一性の卓越性である。
KEY WOR1〕S
sophia 知恵 phronesis 賢慮
1.問題の所在
知の二分法は,少なくとも『こころについて』(第3巻第10章)執筆当時,アリストテレス によって鮮明に打ち出された知識論の基底的な枠組みである。もちろん知の分割は,こころの 知的能力のそれに対応する。即ち理性(nous)は,或る場合には何かのために(henekatou)
思案をめぐらし算段をして(1ogizomenos)行為を導く(praktikos)のである(I〕。この場合理 性は実践的であり,欲求(orexis)や想像ないし構想力(phantasia)と連携して目的(乍elos)
を実現すべく実践につく。観想的理性(nous theoretikos)と実践的理性(nous praktikos)
一を分かつのはこの目的(te1OS)である{2〕。換言すれば,観想的理性は何らかの目的のための実践
(praxiS)をこととするのではない。
‡社会系教育講座・
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藤津郁 夫こうした二分法が,アリストテレスの知識論で初めから既成事実であった訳ではない。そう した割青は,彼の初期の作品とされる『プbトレプテイコス』が,い幸だプラトン的な知識論 の枠組みを保持している事実によって裏付けられるであろう。この段階では,観想知にソフィ アーを,そして実践知にフロネーシスを割り振る用語法が成立していないばかりか,観想的知 識(theoretike phronesis)は,自然本性の認識に携わるひとだけではなくて,国家の幸,不幸 について指示を与える(didaxai)任にある人々,即ち立法家(nomothetai)にとっても必須で あると言われている㈹。このような知識論においては,あらゆる行為あらゆる実践は,二次的三 次的複製から(apo ton deuteron kai triton)ではなく,原型としての第一のものそれ自体か
ら(ap auton t㎝proton)その指示を仰ぐω。そして観想知(theoretike phronesis)は,人 間の生に対して最大の益(ophelias tas megistas)を提供するとされる⑥。
上述のアリストテレスの知識論は,その大枠において,一方に原型たるイデア認識としての エピステーメーを,他方にイデアの似像に止まるものの認識としてのドクサを配するプラトン 流の知の二分法へと布置されうるであろう。この点を裏付ける資料として,『ニコマコス倫理学』
第6巻が特に注目される。この老は,最初『エウデモス倫理学』のためにアッソス島で書かれ,
次いでアテーナイ復帰後のアリストテレスによって書き直されて『ニコマコス倫理学』に収録 された。そのため幾つもの時代の用語法を錯綜して駆使しているとされる(6〕。従ってこの巻の有 する意義は,知のプラトン的二分法が,今や新進気鋭の独立独歩の哲学者アリストテレスによ
って新たな知識論の構想のもとに彼独自の二分法に組み替えられるという思想史上の結節点を 描出している,という所に求められよう。
以上のような次第で,小論はアリストテレスによる新たな知の二分法の成立史に立ち会うこ とによって,その意義と問題点を探ろうとする一つの試論と性格づけられよう。
2.二つの幸福論
観ること(観想)と為すこと(実践)とは,人問知性の性能の及ぶ領域を表示するために,
倫理学において広く使用される概念粋である。『ニコマコス倫理学』第6巻におけるアリストテ レスの叙述に立ち会う前に,幸福の規定に関してその概略を見ておこう。アリストテレスが言 うように「すでに述べられたことを摘要することによって,論述はいくらか簡単になるだろ う{7〕」し,何よりも幸福の概略は,第6巻では必ずしも明らかでない観想知と実践知の関係に,
比較的明瞭な見取り図を与えるからである。
生涯眠りつづけ,植物のような生活をしているひとを幸福であるとするのは,一つの不条理 であろ㍉それ故,幸福は性向(hexis)ではなく活動(energeia)でなければならない㈹。幸 福は何ひとつ不足するところがなく,自足するものであれば,それはそのもの自体として望ま
しい活動(kath hautashairetai energeiai)ということになる(9〕。そして,徳に即した行為(hai kat are止enpraxeis)こそ,そのようなものであると思われる(1176b7−8)。以上のような手続
きを経てアリストテレスは,幸福とは,それのために他の一切のことがなされる終極目的
(heterou heneka−telos)であると把握するのである(10〕。
ところで幸福が徳に即しての活動(kat aretenenergeia).であるとすれば,それは最高の徳 に即してのくkat tenkratisten)活動であろう(1177a13)。この最高の徳が何であるかがしば
観想と実践 アりストテレスにおける知性徳の位相一 107
じは問題とされるが,アンスコムが主張するように,アリストテレスにおいて理性と神は二詞 一意(hendiadys)であるとするならば,プラトンのイデア論批判のための壮大な存在論から導 出された,ホモーニュモンとジュノーニュモンという同名性の間隙を埋めるべく析出された一 からの同名性の思想が,その問題を解くであろう{工1〕。実体の範疇での善は,神であり理性であ る。神は,動かされることなく動かす純粋現実態(活動)であり,思惟(noeSiS)である。人間 は,その思惟において必然的に疲労し中断の憂き目に合わざるをえない有限性に止まるとはい え,理性こそが諸善が帰一する意味焦点(focal mさaning)として,我々人間における最善の活 動を担う「人間が名であるとき,そう呼ばれるものにとってそれであるために,それの何であ
るか」 本質とも言われる一つまりト・テイ・工一ン・エイナイとしての実体なのである〔12〕。
さて,理性に固有の徳(oikeia arete)は何か。それは観想的な徳(he theoretike arete)
である(1177a17−18)。これは知恵(sophia)と呼ばれる。人間の知性に生ずる徳は,最広義に は知性徳(dianoetike arete)と呼ばれる㈹。むろん人間知性の活動は観想だけに止まらず,我々 の実践的活動,即ち行為に関連して,そg正しい中間を教える賢慮(phronesis)一つまり実 践的な理性一もある(14〕。なぜアリストテレスは,理性に岡有の徳を観想(theoria)に求め,
我々の実践(praxiS)に求めないのであろうか。先ず第一に,観想という活動は最高のもの
(kratiste)である(1177a19)。それは最高に持続的(synechestate)である(1177a21)。知恵,
即ち観想の徳に即した活動は剥央(hediste)である(1177号23)。アリストテレスによれば,知 恵への愛(Philosophia)は,純粋性(kathareiotes)と確実性(to bebaion)において比類な
き快を与えるのである。さらに観想は,賢慮とは違って実践上の相関者を必要としない自足的 な活動(autarkeia)である(1177a27)。勇気は,発揮されるべき現実の状況なくしては実践さ れえない。倫理徳と結ぶ賢慮は,現実の実践的相関者によって初めて働きうるからである。ま た,幸福が余裕のうちに(entei scho1ei)あるとすれば,賢慮の活動の舞台である政治活動や 軍事活動は余裕に欠ける故,観想活動こそが余裕のうちにある(scholastikon)(1177b22)。つ いでながら,快は活動を強化する(1177b21)。こうして観想(theoria)は,アリストテレス倫 理学におレ・て特権的な地位を占めてレ・ると言えよう。
しかし,生活の必要と肉体の生理によって有限の生を余儀なくされる我々には,上の観想の 生は人間の程度を超えた生(bios kreitton e kat anthropon)である一(1177b26−27)。むしろ それは,「神的な生(biostheios)」であろう(1ユ77b30−31)。こ一のような次第で,こころと身体 の合成体(to syntheton)である人問にとって,言わば精神である神が離存するように,観想と.
いう活動をこととする知性徳,知恵は離存する(kechorismene)(ユ5)。人間の程度を超えたもの 即ち,理性(ヌース)一一が,我々を主宰するもの(to kyrion)であり,これこそ各人
.(hekastos)であり,固有の自己(to oikeion)である(1178a2−5)という『ニコマコス倫理 学』第10巻第7章の思想は難解には違いないが,しかし「おもうに,ひとが政治術や賢慮をす べての知識のうちでもっとも優れたものであると思うとすれば,宇宙に存在するもののなかで 最善のものが人間でないかぎり,それはおかしなことである㈹」とのアリストテレスの言葉に 重ね合わせた上で慎重に検討されるべきであろう。
知恵の遂行する観想の生が至福のそれであるとすれば,他の徳(倫理徳,知性徳のうちの賢 慮)に即しての生活は,第二義的な意味で(deuteros)しか幸福とは言えない(1178a9)。倫理 徳と賢慮一これらはまっとうな人間においては深く相互浸透して,欲求(oreXiS)と健全な理 性(orthos1ogos)との合流点に選択(prohairesis)として結実するのだが一こそ,人間的活
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動(energeiai anthropikai)に深く係わるからである(1178a1O)。実際,人間の実践において その真価を発揮する知性は,行為(praxiS)との関連で賢慮であり,制作(poietike)との関連 で技術(techne)と把握される。一方賢慮の領域は,政治術(politike),家政術(oikonomike),
そして一已の自分に係わる賢慮(phr㎝esis peri hauton kai hena)一」倫理学では,この最 後の領域が主要な論題を成し,他の二つは政治学と家政学の論題を成す一に分類される。つ
まり賢慮は人間の生活に密着する徳である。しかも賢慮は,快苦に係わる倫理徳と不可分であ る(synertとmenai)から,合成体(to syntheton)の徳である(1178a19−20)。即ちそれは,心 身合成体に係わる徳である。これに対して,観想する理性は離存するから,少なくとも『ニコ マコス倫理学』の内部では,知恵(sophia)と賢慮(phronesis)は,それぞれその存在論的身 分を異にしているのである。
およそ神々が行為の外的相関者に拘束される有限性の不自由を経験するというのは,滑稽で あり(geloioi),些細であり(mikra),神々に相応しくない(anaxia),とアリストテレスは言 う( 7〕。すると,神の活動としては観想(theoria)しか残らない(1178b21)。神々こそ最快至福 な生を生きているとすれば,人間の活動のうちで神の観想に最も類縁の(SyngeneState)活動が 最も幸福な活動(eudaimonikotate)であろう(1178b22−23)。こうして幸福とは,言わば一種 の観想活動(theoriatis)に他ならないことになろう(1178b32)。
とは言え,観想の生活は人間の程度を超える。換言すれば,人間の本性(physis)は,観想に 対して(pros to theorein)自足していない(ou gar autarkes)。肉体は健康に保たれなけれ ばならず,一食事他の世話(therapeia)も要る。人間は外的な善(ta e革tos agatha)を欠いて は幸い(甲akarios)ではありえないのである(1目㌧外的善の程度が過剰に莫大に及ぶ必要もなく,
かつ及ぶべきでもないが,ほどほどには(apometrion)要るのである(1179a5)。この点は,
私人(idiotai)が権力者(dynastai)以上に高尚な行為をするという事実が裏付ける(1179a6−
8)。知恵者(ho sophos)の外的な害への無頓着は,黄塵の巷では「一種の奇人(tis atopos)」
と映しよう。さればこそ,かのアナクサゴラスの台詞もむべなるかな。曰く,「幸いなるひと,
風塵の境にあるあまたのひとに奇人と映れと,われ一驚だに喫することなし㈹」。
ところで,いわゆる三種の生活,即ち享楽の生活(bios apolaustikos),政治の生活(bios po1itikos)そして観想の生活(bios theoretikos)という分類は,すでに『ニコマコス倫理学』
第1巻第5章に見えるものだが,第三の生活,即ち観想の生活の起源は,アテーナイに異邦人
(XenoS)として訪れたアナクサゴラスにあるとされる㈹。市民としての民法上の権利をもた ず,参政権もなくひたすら傍観 換言すれば,観想ということになろう に身を委ねる他 はない「異邦人の生活(biosxen1kos)」が,はたしてアリストテレスにとって理想の生活であ ったのであろうか。一部には,哲学者の生活は言わば「異邦人の生活」が相応しいと考えられ たにせよ,プラトンとソクラテスがそれをポリスに生活する市民(po1ites)の理想形態とは考 えなかったのと同様,アリストテレスもそうは考えなかったとする解釈も行われているのであ
る{21〕。
『政治学』第7巻の叙述は,上の問題に若干示唆を与えているように思われる。ここでは最 善の国制(po1iteiaariste)に最も望ましい生活(hairetotatosbios)。が探究課題となっている。
個人にとっても国家にとっても,外的な善(ta ektos),身体的な善(ta en toi somati),精神 的な善(ta en tei psychei)のうちで最後のものこそが最高善と見傲されるべきことに異論は ないであろう(同巻第1章)。しかし,この最高善を実現する生活がいかなる生活であるかは,
観想と実践一アりストテレスにおける知性徳の位相 109
直ちに明らかではない。政治的で実践的な生活(ho politikos kai praktikos bios)と一切の 外的な事柄から解放された生活(ho panton ton ektos apolelymenos[sc,biosコ),つまり言わ ば∵種の観想的生活(hoion thebretikos tis[sc.bios])とでは,どちらが望ましいのであろ
うか(1324a25−29)。しかしここでアリストテレメは,形而上学の思弁によって人間の神との類 縁を愛でることはせず,蓬かに現実的な場所に我々を位置づける。「幸福(eudaimonia)が旨く 為すこと(eupragia)と見傲されるべきならば,一つの全体をなすいずれの国家にも共通して,
またそれぞれの個人にとっても,実践的な(行為する)生活(bioshopraktikos)が最善(aristos)
であろう㈱。」
ここでアリストテレスは,外的な行為(exoterikai praxeis)と内的(行為主体の内部で完結 している)行為(oikei尋ipraxeis)という概念枠を持ち出すのである(1326a29−30)。言うまで もなく柚の思惟活動も宇宙全体(pas ho kosmos)の活動も外部との交渉をもたない自己完結 した行為である。むしろ,こうした自己完結的(autote1eis)自己目的的な(haut㎝hβneken)
観想(theoriai)や思考(dianoiai)が,より一層行為たるに相応しい(po1y ma11on一・・praktikai)
のであって,旨く為すこと(幸福)は,それ自体目的(telos)である一種の行為(praxistis)
なのである(1326a19−21)。従って,「我々が最も優れてかつ本来的に《為す》と言うのは,外 的な行為に関してさえも思考による棟梁的な行為の場合なのである㈱」。上司の部下への外的 行為(exoterike praxis)としての命令は,それが合法的である限りで主権の内的な行為とも解
されよう。しかし,ここに言われる観想や思考は,明らかに神学の話ではなくてポリスに生き る市民として政治的生活に即して考えられるべきであろう。神の観想といった意味での知恵
(sophia)ではなかろう。するとここにいう観想や思考は,一己の自分に係わる賢慮(phronesis peri hauton kai hepa)を含むより広い政治術や家政術という意味での賢慮であって,一棟梁的
な行為(praxeis architekt㎝es)の自己完結的で自己目的的性格もポリスの内部で考えられて おり,『ニコマコス倫理学』第10巻に見られ・た離存する知恵と好対照をなすであろう。
以上を要するに,幸福は神学的観想としての知恵(sophia)に伴うこころの活動であるが,こ のような意味での理性が離存するように知恵も離存する。こうした幸福は人間の本1生を超え,
人間の程度を超えるのである。しかし,このような幸福が人間に全く無縁とも言いきれない。
人間の理性は神との類縁性をもつ。従って,神学孝形而上学を背景にすれば,賢慮が至上の知 性である,即ち行為し実践する生活が至福(makarios)であるとは言い切れない。一方,ポリ スに生き,よかれあしかれ政治のなかで生活する人間としての限り,行為する実践的な生活(ho biospraktikos)が最善となる。換言すれば,棟梁的な観想と思考は必ずしも外的な関連をもつ 行為(exoterikai praxeis)ではないが,しかし一面で神の活動に類縁な内的な活動(oikeiai praxeis)であって,それらは自己完結的(autote1eis)で自己目的的(hautonheneken)であ
るが故に,より優れてかつ本来的に行為(実践)と呼ばれうる。従って,この場合政治的な観 想と思考は,主権の遂行する賢慮(phronesis)と考えられるのである。個人の幸福は,外的に せよ(exoterikos)内的にせよ(oikeios),このような賢慮(phr㎝esis)の下での最善の国制
に与る市民の善き生活において成立する。我々は,アリスー gテレスのうちに論述の次元を異に する二つの幸福論がある,と言いうるのではなかろうか。
残された問題は多い。知恵と賢慮は,言わばポリスの構成要素であろうか。換言すれば,知 恵と賢慮は,幸福の構成要素であろうか。この場合には,知恵と賢慮は分業となる。むしろ,
知恵と賢慮の内部に一定の構造を読み込むべきであろうか。例えば,目的・手段関係によって
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考える方向もあろう。加えてこれら一フ知性徳は,個人の内部でどのように位置づけられ,どの ような関係にあるのであろうか。個人の幸福と国家の幸福(安寧)の関係はどうか。小論は,
以上の問題の解明を今後の課題としつつ,先ずアリストテレスにおける知性徳の正確な理解を
目指す{24〕。
3.知性徳を探究する道筋
倫理徳は正しく欲求し,健全な理性(orthoslogos)は正しい中間を我々に示す。誠に健全な 理性は,途の灯りである。では,その定義(horos)は何か。それ自体としては無理的な欲求が 理性の声に聴従するように訓練,陶冶,教育される時,換言すればこころの欲求的部分に十全 に理性が浸透する時,倫理徳(ethikearete)の芽生えがある。この間,絶えず正しい忠告と叱 責,懲罰によって欲求を導くものは,まっとうなひと(epieikes)の理性(logos)である。我々 が社会生活を大過なく送るために学ぶべきことは多く,かつ長い年月を要するのである。「言う は易く,行うは難し」とは至言であろう。
これに対して,素質と環境の出会いによる学問(episteme)の早熟は枚挙にいとまがない。
技術の早熟についても同断である。「若者が幾何学者や数学者や,一般に,そういう種類のこと で知者(sophoi)になって」不思議はないのである㈱。数学や幾何学の対象は,抽象によって
(di aphaireseos)知られる(1142a18)。このような学間の原理には,その「何であるか(to ti estin〉」に不明がないから・若者は最初から対象の真理を確信する(pisteuousin)⑫6㌧学問に おいては,若者は抽象能力が具わるや確信(piStiS)から出発する。否,確信にしか学問の端緒 はないと言うべきであろう。一方,行為は個別(ta kath hekasta)にかかわる。千変万化に彩 られ変転極まりない個別の状況は,豊かな経験(empeiriai)によって初めてその一般的な相貌 を表す。しかるに若者は経験をもたない(1142a15)。加えて,行為に際して若者に現象する善
(phainomenon agathon)は,意志の弱さに由来しているかもしれない{27〕。欲望は読計をめぐ らすキュプロスの娘である㈱。こうして行為の知の獲得において,我々は確信から出発するこ とはできず,その都度 倫理的規則を自前て表象するのではなく まっとうなひとの命ず る言葉(IogoS)を復唱すること(1egein)から始めるのである(2釧。
観想ないし理論をこととする知恵が確信(piStiS)から出発しえ,確信に貫かれて遂行されう るのは,中名辞ないし中頃によってもはや媒介されえない学問を構成する最も基本的な命題に 関して,さらには,そうした確定されうる諸命題からの推論に際しての推論規則に関して,理 性が明晰で判明な直観(nouS)をもちうるからである。こうして確固たる原理に基づいて論証 的知識(episteme apodeiktike),即ち学問が成立する。ここから知恵は,「直観であるととも に学問である」と言われる(冨0〕。
こうして学問的認識をする場合と種々の実践にあれこれ分別をめぐらす(1ogizesthai)場合と では,同じ理性による思考一(dianoia)といっても,その働き,在り方に相違がある。学問認識 をする理性は「存在するもののうち,他でありえない(me endechontai a11os echein)原理を もつもの」を考究し(theoroumen),実践し行為する時分別をめぐらす理性は「他でありうる もの(ta endechgmenaこsc.a11os echein])」を考究する。ここにいう分別をめぐらす(算段を する)こと(1ogizesthai)は,思案すること(bouleues出ai)に同じである。こうしてアリスト
観想と実践一アリストテレスにおける知性徳の位相 111
テレスは,学問認識に係わる観想的理性(no口s theoretikos)と行為・実践に係わる実践的理性
(nous praktikos)とを自覚的に分ける,彼独自の理説に到達するのである㈹。
ここでプラトンの『国家』で駆使される線分の比喩の用言善法を確認しておきたい。認識の対 象は,見られるもの(horaton)と思考されるもの(noeton)に分割される㈹。さらに見られる もgは,似像(eikones,ortohomoiothen,509e1,510a1O)と原物(tohoihomoiothe,510a10)
に分けられ乱可禅的な現象界がオリジナルとそのコピーに分けられるのであ孔オリジナル とコピーとの線分比は,真理・非真理(a1ethiaitekaime)という判断基準によらて認識され るもの(gnρston)と思われるもの(doxaston)との線分比に等しいとされ,ここでの用語法で は《見られるもの(horaton)》が《思われるもの(doxaston)》に,《思考されるもの(noeton)》
が《認識されるもの(gnOSton)》にそれぞれ意味論的に対応させられている㈹。思考されるも のは,幾何学(geometrike)や数学(1ogismos)的諸学の領域に対応する線分・(510c2−3)と,
諸々のエイドスの領域に対応する線分(510b8,511c1−2)とに分けられた。そしてこれら四つの 線分には,こころに生起する四つの状態・性状(pathemata,or hexeis)が対応する。こうし てエイドスの線分に思惟(noesis),数学的諸学の線分に思われ(doxa)と直観(nous)の中間
という意味で(511d4−5)間接的思考(dianoia),原物め線分に確信(pistis);原物の似像に当 たる線分に間接的知覚(eikasia)がそれぞれ対応させられるのである(宮4〕。
上にその概略を見た一時期のプラトンの用語法に照らすならば,行為に際してあれこれ分別 をめぐらす種類の活動が,算術(arithmetike)のこととする計算(logismos,logizesthai)と いう語によって呼ばれることは正規の用法に馴染まない。「ロギゼスクイ」「ロギステイコン」
といっても,それは「ブーレウエスクイ」「ブーレウテイコン」のことに他ならない,と即座に アリストテレスが注釈を加えたのも,その辺りの事情があったためと思われる。加えて行為の 推論が,その小前提て常に個別(ta kath hekasta) 換言すれば,プラトンの言う原物(to ho1hom010the) の知覚を要する点で,行為の知は見られるもの(horaton),即ち思われる
もの(doxaston)を一部対象とすることは明らかだ。《思われるもの(doxaston)》を所管する こころの部分としての《判断をくだす部分(doxastikon)》が;結局《分別をめぐらす部分
(1ogistikon)》,並びに《思案する部分(bou1eutikon)》と二詞一意と判明すえアリストテレス の語法も,上のプラトンの用語法を抜きにしては考えられないであろう㈹。
以上のような語法上の微妙な交錯は,プラトンとアリストテレスの視点の相違に起因してい る。見られるもの(horaton),つまり思われるもの(doxaston)は知覚判断の対象である。思 考されるもの(noeton),つまり認識されるもの(gnoSt㎝)は知性認識の対象である。両者は,
共に真偽の文脈を形成する。しかるに行為・実践は必ずしも真偽の文脈だけに還元されるもの ではない。真(toa1ethes)と偽(topseudos)は事態のうちに(entoispragmasin)あるの ではなくて,我々の思考のうちに(endianoiai)あるとすれば,広く言って認識一般は元より,
さらに加えて行為をも司る人間諸力(ta kyria)が考察の対象に加えられねばならない(㈹。そ れらは,「感覚(aisthesis)と理性(nous)と欲求(orexis)の三つである㈹」。もっとも『動 物運動論』でアリストテレスは,「さて我々の見るところ,動物を動かすものは,思考(dianoia)
と表象(phantasia)と選択(proairesis)と願望(bou1esis)と欲望(epithymia)であ・る。以 上のすべては,理性と欲求に還元される㈱」と言っている。結局人問の行為は,理性的原理と 欲求的原理とが合流する翠択として把握された訳である。
ところで,こころの欲求的部分(toorektikon)は,それ自体としては理性(分別)をもた
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ない。従って,欲求の作る文脈は真偽のそれではない。若者の経験(empeiria)において,正 しい中間としての健全な言葉(orthos logos)は,周囲のまっとうなひとによってその文基が提 示され,若者は繰り返しそれを復唱する(1egouSin)㈹。一般論として言えば,意味理解の裏付
けのない文基(Sa亡zradikal)の復唱(phanai)は,いまだ主張文とは言えない。文基の意味や 意義を理解した上で,それに対して何らかの思考の実行過程が伴って初めて主張が成立する。
主張文一たりえた文のとる形式として,肯定(kataphasis)と否定(apophasis)があるのである。
そして,肯定と否定は思考(dianoia)のすることである{4ω。同様にして∫欲求も全くの盲目的 な欲動に止まる限り,それは出来事(eVent)ではあっても行為の構成要素とは言えない。倫理 学では,こうし一た剥き出しの欲求ではなくて,「思案をめぐらす欲求(orexisbou1eutike)」が 考察の対象となる。倫理徳は選択に係わる性向(hexis prohairetike)であり,選択は「思案を めぐらす欲求」に他ならないからである㈹。実践理一性の卓越性としての賢慮が欲求に浸透する と,欲求は剥き出しの受動性から脱して,いわば思案一即ち実践的な思考一のする肯定と 否定に類縁の働きをもつことになる。こうして,「欲求の働きにおいて,思考の働きにおける肯 定と否定にあたるものは,追求(dioxis)と忌避(phyge)である㈹」。
およそ選択が成功裏に遂行される形式的条件は,思考が肯定する対象と欲求が追求する対象 との同一佳(ta auta)であ.る。これは,すべての選択にとっての必要条件である。しかし必ず しもすべての選択が倫理的な意味で優れた選択(he prohairesis spoudaia)とは限らない。倫 理的に勝れた選択においては,対象の同一性に加えて,思考の繰り出す言葉(分別)は真であ る(a1ethes)必要があり,かつ欲求は正しく(orthe)なければならない㈹。人間の行為の善悪 が問われる時,欲求の正しさ(orthotes)は,どのような内包をもつのであろうか。
行為にも制作にも係わらないものとしての観想的思考の良否(to eu kai kakos)は,その真 偽(t alethes kaipseudos)で牢まる。「これに対して,行為に係わる思考の働きの良否は,正
しい欲求と合致する限りでの真実(a1etheia homologos echousa tei orexei tei orthei)であ る{44〕」とアリストテレスは言っている。こうして欲求の正しさは,実践的な思考の真理性と不 可分の関係にある。ごの事態はまた,「良い行為(eupraxia),つまり行為における良さとその 反対は・思考(dianoia)と性情(etbos)を欠いではありえない㈹」とも言われている。従って,
欲求の正しさは,実践的思考の真理性と不可分の関係にあるとはいえ,第一義的には行為主体 の性格に依存し,よつで性格の徳(倫理徳)(ethike arete)に依存するのである。換言すれば,
欲求の正しさを問題にする文脈は,行為主体の人間がどのような性格(ethos)であるかを問題 にする文脈に重なってくると言えよう。
アリストテレスによれば,思考それ自体は人間を動かさない㈹。先の『動物運動論』の記述 から窺えるように,図式的に言えば行為の構成要素は理性と欲求に還元されうる故,欲求が人 間を動かすということになろう。すると,人間を動かしうる二換言すれば,人間を実践的た らしめうる一思考の条件が欲求の内包を構成することになろう。しかるに「思考は,何もの かを目指して(h㎝ekatou),行為のために働く(praktike)時,動かす(47〕」のである。それ故,
摘出される欲求の内包は,目的を目指すこと,並びに行為のために働くことであろう。こうし て欲求の正しさは,目的を目指すことという内包をめぐる正しさであり,行為のために働くこ とという内包をめぐる正しさであろう。そして前節の趣旨から言えば,このような意味での正 しさは,人間の性格に大きく依存するような正しさでもあった。ところで,目的を目指すとい うことは,行為ばかりか制作にも共通する特徴である故,行為に固有な目的の在り方が問われ
観想と実践 アリストテレスにおける知性徳の位相一 113
なければならない。行為に固有な目的の在り方において目的を目指してこそ,初めて思考は人 間を行為主体として動かすと言われうるし,また欲求は正しいと言われるであろう。こうして 欲求の内包を構成するもう一方の項目も,行為に固有な目的の在り方が理解されない限り,そ の内容は正確には規定されえないように思われる。
行為に固有な目的の在り方を輪郭づけるために,先ず制作における目的の在り方について考 えてみよう。およそ制作されるもの(poieton)も行為されるもの(prakt㎝)も,他でありう るもの(to endechomenon allos echein)に属する。選択なり人為の工夫なりを一切許容しな い領域では,制作も行為も存在理由をもたない。特に制作の場合には,制作されるもの(poieton)
は,他でありうるものから何らかの所産(ergon)への運動による生成(geneSiS)として把握さ れる。こうした制作・技術による生成は,他でありえない必然的な存在領域では一不可能であろ う。また,生成の原理(始まり)(arche)が所産そのもののなかにある自然過程も,制作・技 術ではない。技術とは「あることもないことも可能なもの(ta endechomena kai einai kaime einai),さらにそのものの生成の始まり(原理)(arche)が制作するひとのなかに(en toi poiounti)あって,くだんの制作されるもののなかにはない(me en toi poio㎜enoi)もの,
こうしたもののいずれかがどのようにして生成するか(hoposgenetai)を工夫し(technazein)
考究する(theorein)㈹」ものなのである。しかも,制作におけ る目的(telos)は,制作活動そ のものから食み出る別の(para autaS[tas energeiaSコ)何らかの所産(erga tina)である筈 であり,「そして,目的が[制作コ活動から食み出る別の何ものかである場合には,所産は,本 性上,活動よりも書いものである(49〕」筈である。こうして制作においては,目的は目的に達す
る手段(ta proS to te1os)と一しての制作活動そのものから食み出る別の何かであり,価値序列 において所産は活動そのものに勝るのである。
しかしながら,制作のために働く思考(dianoiapoietike)が目的を志向し目的を目指す思考
(dianoia heneka tou)である点で,それは行為のために働く思考と類似性をもつと言える。
ただし,行為のために働く思考は制作のたやに働く思考を支配する(archei)地位を占める。換 言すれば,両者の思考においては,目指される目的の性格が相違するということである。こう して,「すべて制作するひと(hopoion)は何ものかを目指して(henekatou)制作するが,制 作されるもの(to poieton)は絶対(無条件)的な意味での目的(te1oshap1os)ではなくて,
何ものかとの関係での(相対的な)目的(pros ti[sc.telosコ)であり,また〔端的な意味での 人間ではなくてコ何かであるひとの目的(tinoS[SC.teloS])である㈹」という論点が浮かび上 がってくる。例えば,健康との関係で薬が制作,製造されるし,健康は医者の日的である。靴
との関係で靴の制作があり,靴は靴制作者の目的であろう。こうして制作における目的は,物 的にも人的にも限定的であり,そうした関係性のなかで活動は限定・確定されるが故1三,技術 の存立も保証されると言えよう。技術は限定においてその栄光を担う。
制作に対照して,次のようにアリストテレスは言う。「行為されること(to prakton)は絶対
(無条件)的な意味での目的である。即ち良い行為(eupraxia)が[そのような]目的であり,
欲求はこれを目指す。それ故にこそ,選択は欲求を伴う理性(orektikosnous),ないし魚1生を 伴う欲求(orexis dianoetike)となる。そして,こういう意味での始まり(原理)(arche)が 人間なのである(51)。」この一文から,幾つかの論点を指摘できよう。先ず第一に,行為の場合に は,行為という活動それ自体が「良い行為(eupraxia)」として絶対的・無条件的な目的となっ ており,欲求の目指すものは「良い行為」の所産ではなくて行為そのものである。また第二に,
114 藤 澤 郁 夫
目的が絶対的・無条件的に欲求されるということは,行為の欲求が,行為主体を限定する物的 関係性(proSti),何らかの制作に携わる技術者としての役割(tinoS)においてではなくて,端 的にその人間の性格(ethos)において確定されていることを意味するであろう。第三に,端的 な意味で行為主体の性格が行為の始まりならば,「良い行為」を目的にするような性格が「正し い欲求」の内包と考えられるであろう。こうして欲求の正しさが,目的を目指すことという内 包をめぐる正しさであるとするならば,それは,行為という活動それ自体が良い行為(eupra・
Xia)として無条件的な目的(終極)になりきった人間のもつ卓越する性格における欲求の在り 方の謂であるように思われる。
行為に係わる思考の働きの良否は,正しい欲求と合致する限りでの真実(a1etheia)であるか ら,実践的思考の真とは何かが探究されなければならない。上述のとおり,欲求は目的を目指 すが,アリストテレスは実践的理性の徳,賢慮(phronesis)について,「それは,目的に達する 手段(taprostote1os)を実行(実践)させる(pratteinpoiei)」と言っている。さらに彼は,
『ニコマコス倫理学』第3巻で次のように言っていた。「思案(bou1e)は,人間自身の為しうる ことについてめぐらされるのであり,行為は[行為そのものとは異なるコ他のこと[目的]を 目指している(a11㎝heneka)。員鉋ち,目的は思案されるものとはなりえず,目的に達する手段 が思案されるのである㈹。」こうして実践理性の思案は,目的に達する また否定的にいえ ば,目的に達しない一手段に係わる。手段についての思案の過程は,幾何学における分析の それに酷似する。即ち,分析の過程において最後のものは,生起の過程においては最初のもの になるのである。
しかし問題は,この第3巻の記述が,先の行為における目的の存在論的特性記述とどのよう に整合するかである。行為が行為そのものとは異なる他の目的をもつなら,それは制作活動に おける目的の在り方と同じ存在論的特性をもつように見える。ここには,二つの問題がある。
先ず,「行為されること(prakton)は絶対(無条件)的な意味での目的である」という一文に おける,「行為されること(prakton)」という表現の,正確な表示内容を決める必要がある。第 二には,「行為とは異なる他のもの(a11On)」という表現に対する「活動から食み出る別のもの
(para)」という表現との意味論上の差異を見極める必要があるのである。すると,以上の問題 に答えるためには,運動(kinesis),活動(energeia),結果(ergon),目的(telos)等につい て,その意義を確定しておく必要があろう。
4. 日的内在的活動としての倫理的行為
アリストテレスは『形而上学』第9巻第6章で次のように言っている。「行為のうちで,終端
(peras)のある行為は,どれも[その行為自体がコ目的(te1oS)ではなくて,目的に関する行 為である。例えば,痩身にすることないし痩身化は[それ自体]目的ではなく目的に関する行 為であって,こうしてひとが体の諸部分を痩せさせる時はいつも,体の諸部分は運動のなかに あり運動の終極(目的)をうちに含んではいない。痩身にする過程ないし痩身化の過程は行為 ではない,もしくは少なくとも完全な(teleia)行為ではない。それは終極(目的)ではないの だから。しかるにそれ自体のうちに終極(目的)を含んでいるような運動は行為でもある。例 えば,ひとは見ている過程で同時に見てしまっているし,思考している過程で同時に思考して
観想と実践一アリストテレスにおける知一性徳の位相一 115
しまってもいるが,学習している過程で同時に学習してしまっているのではないし,健康にさ れつつある過程で同時に健康にされてしまっているのでもない。ひとは善く生きている過程で 同時に善く生きてしまっているし,幸福である過程でまた幸福になっている。もしそうでない なら,この生きる過程は,痩身化の過程と同様に[終端である]或る時すでに終止していた筈 である。しかるに今そうでなく彼は生きておりかつ生きてしまっている。以上の過程のうち一 方を我々は運動(kineseis)と呼び,他方を活動(energeiai)と呼ぶべきである㈹。」以上を要 するに,目的内在的過程は完全な行為であって,これは活動(energeia)と呼ばれる。これに対
して,目的が内在しない過程は本来運動であって,仮に行為と呼ばれるにせよ不完全な行為の 謂である。目的内在的な活動は,いかなる時点をとっても終極にあるのである。
加えてアリストテレスは次のような区別をする。「生成するものが,能力の行使そのものから 食み出る別の何ものかであるような能力の場合には,その活動[結果]は制作されたもののう ちに(en po1oumeno1)ある。一(中略) しかし,およそその所産(結果)がその活動か ら食み出る別の何ものかではないような場合には,その活動は活動するひと自身のうちにあ る{54〕。」こうして,制作活動の場合には,制作される所産のうちに活動が実るのであり,所産は 活動から食み出る(paraenergeias)別の何ものか(heteronti)となる。見方を変えれば,制 作活動は目的が内在しない過程であるから,不完全な行為ないし運動と考えられる。これに対 して,行為は目的内在的な活動であって,活動は行為主体のうちにある。すると,なぜ「行為 は[行為そのものとは異なる]他のこと[目的コを目指している」と言われるのか。ここには 明らかに,結果(ergon)と活動(energeia)を分ける視点がある。では一体行為の結果とは何 か。行為の結果が,行為そのものの活動から食み出る別の何ものかであるならば,行為と制作 の厳密な区別は出来ないことになる。
アリストテレスは結果(ergon)と活動(energeia)について次のように言っている。「結果 は終極(目的)である。そして活動は結果である。それ故,活動という名辞は結果を指示する ように語られるし,また完全現実態(ente1ocheia)にも意味が敷術されるのである(55〕。」或る活 動の成果,所産(erg㎝)がその活動の終極であるから,結果が目的(to hou heneka,te1os)
に重なることは,難なく理解されよう。では活動は或る意味では結果であり,結果を指示する ように語られると共に,時には完全現実態(終極的な現実化)にまで意味が敷術されるとはい かなることか。「およそ生成するもの(to gignOmenon)は,すべて或る終極(te1oS)としての 原理(arche)に向かって進行する(というのも,目的(tohouheneka)は[それを目指して 生成が始まるという意味で]原理(始まり)であり,生成(geneSiS)はその終極(telOS)のた めであるかち)。ところで[可能態に対して][現実]活動[態]は終極(te1oS)であり,これ のためにこそ能力が獲得されるのである{56〕。」即ち,目指される行為の目的は,行為がそれへと 終極する思考のうちでの始まりであるが,しかるに活動は可能的なものの現実態として一つの 終極(目的)でもありうるのである。従ってアリストテレスにおいては,活動(energeia)は少 なくとも先の文脈で二?g意義をもちうる。一つは「活動それ自体」,もう一つは「結果(終極)
ないし完全現実態に敷桁された活動」である。そして,結果が完全現実態の意味であろうとも,
それは倫理的活動から食み出る別の何ものか(heteron ti para energeias)どころか,むしろ 目的内在的な倫理的行為の完成という意味をもつであろう。換言すれば,活動それ自体は,む ろん完全現実態と異なるもの(allo)とも言えようが,後者は前者から食み出る別のものではな
く,前者の完成ないし達成として把握されるのである。
116 藤 澤 郁 夫
では「行為されること(to prakt㎝)」という表現の表示内容についてはどうか。結論を言え ば,これもまた「目的(結果)」と「目的のための活動」の両方を意味しうるのである。アリス
トテレスは『エウデモス倫理学』で「行為されること(to prakton)は二通りに言われるので あるから(というのも,それのために我々が行為するそれ[目的・結果コについても,これら の目的のために行為に写ること[活動コについても言われる, (中略)一),幸福が人間 によって行為されるもののうちで最善のものであることは明らかである㈹」と言っている。従 って,先の「行為されることは,絶対(無条件)的な意味での目的である」という一文は,「活 動そのものが目的である」とも「行為の目的が目的である」とも解しえよう。しかし,いずれ にせよ活動もまた,或る意味では可能性の現実態として一つの終極であり,敷術された意味に おいて完全現実態でもありうるのであった。一方,「行為は[行為そのものとは異なる]他のこ と[目的]を目指している」という一文も,活動が活動自体だけではなくて,可能性の現実化 としての終極,すなわち目的として把握された完全現実態にまでその意味が拡張されうること を考慮するならば,何ら解釈上の不都合を生じない。換言すれば,完全現実態は,活動そのも のから食み出る別のものではなく,むしろその完成なのである㈱。
こうして,「理性に従う能力のあるもの(todynatonkata1og㎝)は,能力の及ぶものを欲 求し,かつ状況が能力に相応しければ,それを為すこと必然である㈹」とすれば,行為は欲求 の正しさは元より,能力に相応しい状況把握と,目的に達する手段(ta proS to teloS)の合理 的編成をも基本前提としているのである。人間の生活は多様であり,各人各様の能力に応じて 生きているのが我々の現実であろう。しかし,行為のために働く思考は,制作のために働く思 考を支配するという指摘は,我々にとって重い。目的外在的活動を貫いて目的内在的な活動が 問われる。役割自己である前に我々は人間なのである。以上を要するに,「行為に係わる思考の 働きの良否は,正しい欲求と合致する限りでの真実である」という一文は,行為されることが 絶対(無条件)的な意味での目的であることを内包とする欲求の正しさと,この目的に達する 手段(ta pros to te1os)が能力と状況に相応しく合理的に編成されるという真との合流点とし ての真実性(aletheia)を意味するものと解される。
以上の考察は,「一己の自分に係わる賢慮(phronesis peri hauton kai hena)」に限定され ているが,むろんアリストテレスの賢慮は家政術から政治術に及ぶ広大な領域に及び,小論が 論じ残したことは多い。特ヒ,「自己の書くあることは,家政術なくしても,政治術なくしても 不可能である」(EN.1142a1O),換言すれば一己の自分に関する賢慮も最も棟梁的な主権の賢慮 なくして不可能であると言われる実践の領域では,倫理的な行為はそうした大きな文脈の中で 論じられる必要もあろう。さらに小論においては,観想をこととする知性の徳,知恵(sophia)
と,実践的活動(行為)をこととする知性の徳,賢慮(phronesis)という,アりストテレスに よって分断された二つの知性活動の関係については,全く論じられなかった。もっとも『ニコ マコス倫理学』第6巻末尾の一文をなぞることは容易であろう。「賢慮は知恵を支配するもので
もなければ,こころにおける一層優れた部分を支配するものでもない。それは,ちょうど,医 術が健康を支酉己するものでないのと同断である。なぜなら,一方は他方を使用するものではな
く,他方が実現されるように配慮する(horai hopos genetai)ものだからである。従って,賢 慮は知恵を目指して命令するが,知恵に命令することはない㈹。」しかし我々にこの一文の意味 が直ちに明らかな訳ではないとすれば,知恵の実現に配慮する賢慮,知恵を目指して命令する 賢慮というアリストテレスの思想がどのようなことを正確には意味するかは,今一つの重大な
観想と実践一アリストテレスにおける知性徳の位相一 117
探究課題であり,小論はそれに論じ及ぶことがない。(1989.10.12)
注
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Aristoteles,D召λ切mα,433a14,
ヱろ4♂433a14−15.
Aristoteles,〃。物〃伽,W13.sophiaが,道徳的・実践的な鋼として扱われているこ とについては,「知者は,他から命令される者だるべきではなく,命令する者だるべきであ る。」(Me妙ゐ畑。α,982a17−18)などから傍証されうると思われる。
〃6.W13.
乃倣
ゲGauthier,R.一A.,ムαmomje a 砥刎e,P.U.F.1973,レ33.
Aristote1es,亙〃。αMcomαcゐm,X,6.1176a32−33.以下,本書を亙Wと略記。
∫碗♂ 1!76b2−3.
〃♂1176b3−7.むろん我々は,第一巻で与えられた制作と行為における目的の在り方の 相違を念頭におく必要がある。
〃〆1176b30−31.アリストテレス倫理学が目的論的性格をもつ所以である。
ゲAnscombe,G.E.M., Aristotle:The Search for Substance inτ㎜〜班P肌0∫0−
P㎜醐,Oxford,1973,p.62.アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「時間の範濤で好.
機がよいように, 実体の範疇で理性と神がよい」(1096a24−25)と言う。アンスコムは,こ の一文における「理性と神」を二詞一意(hendiadys)と読む。
いわゆる「本質」(to ti en einai)としての実体が,形相と同一視されることについては,
『形而上学』第7巻,1032b1−2.1035b15−16を参照。
Aristoteles,亙W,1093a5,14,15.1103a14.なお,岩波全集版加藤訳では「思考の働きと しての器量」であり,同文庫版高田訳では「知性的徳」ないし「知性的卓越性」である。
乃倣1098b24.1!03a6など。phr㎝esisについては加藤訳に従う。高田訳で「知慮」。な お拙論レジメ(仏文)では,sophiaにphilosophieを,phronesisにsagesseを当てる
(Gautheierに従う)。なお,sophiaは加藤訳で「知慧」,高田訳で南琴」だカ㍉拙論で は「知恵」を当てる。
Aristoteles,亙V,ユエ78a22.動かされない離存するもの(choristaakineta)を対象とする 神学がアリストテレスの念頭にあるものと解される。これに対して,知恵の他の二部門数 学(mathematike)と自然学(physike)を加えるRossには従わない。げDefoumy,P.,
℃ontemp1ation in Aristot1e s Ethics inλ棚。Jε∫mλ桃刎e,vo1.2(ed.by Bames,J.et a1、,Duckworth,1965)p.109.Defoumyにとって観想(theoria)とは,hetoutheoutheoria である。
乃肋VI,7.1141a20−22.
〃倣X,8,n78b11−18.
〃♂1178b33−1179a3.道具主義(instrum㎝talisme)の発想からは,こころは主人,肉体 は道具、外的な善は道具の道具としで1主格づけられる。
∫あ主〆1179a13−15.4亙肋ク。α亙勿aem加,I,4.1215b6−8.
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Gauthier,oφ.cκ,p.113.
このような解釈を代表するのがGauthierである。φGauthier,Zoc−c仏 Aristoteles,PoZ肋。α,1325b14−16.
〃♂ユ326a21−23.Barkerによれば,ここでのアリストテレスの主張は,「主権が諸善の なかで至高のものである」ということである。φBarker,E.,ed.and trans.by,〃召 Po脇。soグA榊。物,Oxford,1962,p.228.また賢慮にtheoriaという語を使用する例とし ては,亙W,1139a6−8を参照。
以上のような問題群への導入と現在の研究水準については,岩田靖夫『アリストテレス の倫理思想』(岩波書店,一九八四)第十章(pp.38ユー433)を参照されたし。
AristoteIes,亙W,VI,8.1142a12−13.
乃泓ユ9−20.本文はこの箇所の内容を汲み要約。
4Aristoteles,Me肋肋奴。α,1072a281 Aristote1es,亙W,1149b16.
〃♂ 1142a20.言葉(文基〕の復唱と無抑制者の類比は興味深い問題であって,すでに Grantの指摘がある。無抑制者は誘惑に負ける瞬間にも「本当はこうすべきでない」と復唱 だけはするのである。〆Grant,A。,励〃。sヴA桃わ〃e,vo1.II,London,1885,p.205一 ∫bゴ♂ 1141a18−19.
〃♂1139a5−13.ここに,アりストテレスの用語法とプラトンのそれとの或る種の混乱が あるとの指摘がある(ゲDirlmeier,Mcomαc〃∫c加及肋,Berlin,1983,S.443−444,
Gauthier,亙W,II,2,pp.440−442)。必然存在を対象とする理論理性と可能存在を対象とす る実践理性の区別に,不可謬の知識(episteme)と誤りうる臆見(doxa)との区別が微妙 に重なる。
Plat0,Re5−Pmあκcα,509d4.
〃♂510a8−10.ただし,horatonよりもdoxastonの方が用法が広い。φAdam,J.,〃e R幼〃〃。げP肋。,vol.II,Cambridge,1902,p.66.
∫わ圭♂ 51ユd6−e2.
Aristoteles,亙W,1140b26.注(31)も併せて参照されたし。
Aristote1es,Me勉助災たα,工027b25−27.
Aristoteles,〃V,1139aユ7−181
Aristoteles,De Mo勿んCmα肋m,700b17−18.テキストはNussbaumに従う。ゲNuss・
baum,M,C、,A榊。〃^D虐Mo切ル畑α物m,Princeton,1978.pp.38−39.
注(29)を参照。
Aristoteles,万W,1139a2工、
∫ろ壬♂ 1ユ39a22−23.
∫あ56 1139a21−22.
乃倣1139a23−26.選択一般に関する要件と倫理的な意味での選択に関する要件の区別は 重大な論点であり,Greenwoodもこの点を強調する。ヴGreenwood,L.HlG.,ル枇。脆 Mcomαc加m励肋。s3oo后S扱,Cambridge,ユ909,p.41.
∫ろ5♂ 1139a29−31.
∫ろえ♂ 1ユ39a34−35.
∫あ{a.1139a35−36.
Jろ6∂.1139a36.
観想と実践一アリスートテレスにおける知性徳の位相一
1ユ9
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∫ろゴ〆1140alO−14.ゲλnα.Po∫左,II,19,100a9.
∫ろタd.!094a4−6.
〃倣1139b1−3.先ず,to poietonをprocess,Vorgangと読むそれぞれBumet,Dirlmeier に従わず,「制作されるもの」(Greenwoodで,・the thingwhich ismade,Gautheirで,1 objet produit)と解する。さらには,tiとtinosを同一対象と読む解釈(Greenwood,Dir1・
meier等)に従わず,tiを物的連関,timSを技術者を変域とする人的運関一と読み分ける Gauthierに従う。φGreenwood,oψ。一。杜,p−93,p.177,Dir坤eier,oψ一。κ,S.445,Gauthier,
亙!V,II,2,p,445.
∫〃a.1139b3−5、
∫bタ 1112b32−34.
Aristote1es,Me切助郷4cα,ユ048bユ8−28..
∫ろ壬♂ 1050a30−35.
∫ろ5♂ 1050a21−231 五ろゴa.1050a7−10.
Aristote1es,亙肋。α肋6emゴα,1217a35−40.テキストはトイブナー版による(Susemih1,F.
ed.,五肋5m亙〃aem加,Lejbzjg,ユ884)。
基本的にはD1Charlesの主張するa11o≠paraテーゼを支持するが,拙論は,行為のた めに働く思考が制作のために働く思考を支配するという論点を主要な論拠とするのであっ.
て,両者の排他性(exc1usive1y different)を主要論拠としてはいない。ゲCharles,D.,
Aristot1e=Onto1ogy and Moral Reasoning in0肋〃∫切肋s伽λ勿。{m圭P%no∫oゆ伽,
vo1.IV,1986,pp.135−139.
Aristoteles,M功ψ伽s{cα,1048a13−15.
Aristoteles,㎜,1ユ45a6−9.