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経営者予想利益のラチェットの検証

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(1)

1.は じ め に

 業績と報酬が連動するインセンティブ・システムにおいて,業績目標は 経営者(従業員)の業績評価を行って,報酬を決定する際に重要な役割を 果たす。日本においては,経営者の業績目標として,決算短信における予 想利益(以下では経営者予想利益とする)が用いられていることが様々な調 査や先行研究で示唆されている。業績目標(予算)については,当期の実 績値が業績目標を上回った場合は次期の業績目標が当期と比べて積極的に 引き上げられる一方で,当期の実績値が業績目標を下回った場合には次期 の業績目標が当期と比べて消極的に引き下げられる「ラチェット」が存在 する可能性が先行研究で見出されている。経営者予想利益の達成度に応じ て経営者報酬が変化し,かつラチェットが経営者予想利益に生じるなら ば,当期の優れた業績は次期の経営者予想利益を大幅に引き上げ,次期の 経営者予想利益の達成を難しくする。この場合,経営者の将来の報酬が減

 117 商学論纂(中央大学)第

59

巻第5

6号( 2018

年3月)

経営者予想利益のラチェットの検証

矢 内 一 利

   目   次

1.は じ め に

2.研究の背景

3.仮説の設定

4.リサーチ・デザイン

5.分 析 結 果

6.結論と今後の課題

(2)

るため,当期の業績に意図的な低下が生じることが予想される。これによ り,経営者のインセンティブについて問題が生じ,経営者の報酬契約の効 率性が損なわれてしまう。ゆえに,株主と取締役会(報酬委員会)の利害 が一致していると仮定する場合,取締役会(報酬委員会)は能力が高い経 営者の努力を引き出すような効率的な経営者報酬契約を明示的あるいは黙 示的に結んでいる可能性が考えられる。すなわち,過去の業績の情報を限 られた程度で使用し,かつ相対業績評価を行って,産業内から見て業績が 良い場合には,産業内から見て業績が悪い場合と比べて,経営者予想利益 を達成しやすい水準に設定するという契約である。

 以上を踏まえて実証分析を行った結果,当期に産業内で収益性が高い企 業では,当期に産業内で収益性が低い企業と比べて,次期の経営者予想利 益が当期と比べて積極的に引き上げられないこと,すなわち次期の経営者 予想利益が達成しやすい水準に設定されていることが見出された。これ は,収益性が高い企業では,収益性が低い企業と比べて,経営者予想利益 のラチェットが減じられていることを示している。すなわち,有能な経営 者のインセンティブを引き出すような効率的な経営者報酬契約がなされて いる可能性を示唆している。

 日本では経営者予想利益に関して様々な先行研究が存在するが,経営者 予想利益の設定の要因を経営者の業績評価の観点から,すなわち経営者報 酬契約の業績目標の観点から検証した研究は非常に少ない。ゆえに,本研 究の発見事項は,我が国特有の開示制度である決算短信における経営者予 想利益の設定の要因に関する今後の研究だけでなく,経営者予想利益の予 想誤差(実績利益と経営者予想利益との差異)に関する今後の研究に示唆を与 えると考えられる。

 本研究の構成は以下のとおりである。2.では先行研究を整理して,本 研究の理論的な背景を述べる。3.では理論的な背景をもとに仮説を提示

(3)

する。4.ではリサーチ・デザイン,5.では分析結果を示す。6.が本 研究の結論と今後の課題である。

2.研究の背景

2.1 業績目標

(予算)のラチェット

 そもそも,業績連動型報酬の制度で経営者(従業員)の業績評価を行い,

報酬を決定するにあたっては,業績目標が設定される。業績連動型報酬 は,業績目標を達成した程度によって決定される。業績評価において業績 目標を設定することは,労働者を動機付けるために重要であり,業績目標 は達成が簡単すぎず,かつ難しくないものであるべきとされる

Merchant and Van Der Stede 2012)

 報酬を業績と連動させるインセンティブ・システムを適用し,業績目標 を事前に設定する際に客観的でコストのかからない方法としては,同一職 務にとどまっている同一人物の過去の業績を用いる方法があげられる

Milgrom and Roberts 1992 ;

 

Murphy 2000)

Weitzman

(1980)は,過去の業績 を完全に組み込んで業績目標とするとき,すなわち過去の業績を業績目標 のベンチマークとする時,好業績の期間の後に達成すべき業績目標が引き 上げられる傾向があると主張した。これを,

Weitzman

(1980)は「ラチェッ ト法則

ratchet principle

」と呼んだ。

Leone and Rock

(2002)

Bouwens and Kroos

(2011)は,業績目標(予算)が過去において実績値を上回った 場合は当期の業績目標が積極的に引き上げられる一方で,過去の実績値が 業績目標を下回った場合には当期の業績目標が消極的に引き下げられると いう「ラチェット」が業務目標(予算)に生じていることを実証分析によ り明らかにしている。

Leone and Rock

(2002)は,ある企業の事業部の内部データを用いて,

当期の実績利益が当期の利益予算を上回る「有利差異」が生じている場

(4)

合,有利差異が次期の利益予算の設定に反映されて次期の利益予算が引き 上げられる程度は,当期の実績利益が当期の利益予算を下回る「不利差 異」が生じている場合の次期の利益予算が引き下げられる程度と比べて大 きくなっているかどうかを検証した。利益予算(業績目標)のラチェットの 検証に用いられるモデルを,

Leone and Rock

(2002)

Aranda et al.

(2014)

Indjejikian et al.

(2014)

Mahlendorf et al.

(2014)に基づき記すと,以下の

式のようになる。

   (B

t+1

−B

t )

α 0

+β

1 FAIL t

+β

2 (E t

−B

t )

+β

3 FAIL

t (E t

−B

t )

 B

t

B t +1

は,それぞれ

t

期と

t

+1期の利益予算(業績目標利益),E

t

t

期の実績利益を表す。FAIL

t

は実績利益が利益予算を達成していなかっ た場合(不利差異の場合),すなわち

E t

B t

の場合に1,そうでない場合

(有利差異の場合)に0となるダミー変数である。利益予算にラチェットが 見られるならばβ

ˆ 1

>0,β

ˆ 2

<0,0<β

ˆ 1

β

ˆ 2

β

ˆ 1

となることが予想される。

Leone and Rock

(2002)では,分析の結果,有利差異が生じている場合,

有利差異が次期の利益予算の設定に反映されて次期の利益予算が引き上げ られる程度は,実績利益が利益予算を下回る不利差異が生じている場合と 比べて大きいことが判明した。また,有利差異が生じている場合は,次期 の利益予算の水準が当期の実績利益に近い水準になる傾向が判明してい る。つまりβ

ˆ 1

>0,β

ˆ 2

<0,0<β

ˆ 1

β

ˆ 2

β

ˆ 1

となっていたのである。この分 析結果から,当期の実績利益が利益予算を上回った場合は次期の利益予算 が当期と比べて積極的に引き上げられる一方で,当期の実績利益が利益予 算を下回った場合には次期の利益予算が当期と比べて消極的に引き下げら れることが判明した。すなわち,利益予算にはラチェットが生じているこ とが明らかになったのである。

 同様に,

Bouwens and Kroos

(2011)でも,小売業の企業の店舗レベル

(5)

の内部データを用いた実証分析により,売上高の業績目標にラチェットが 存 在 す る こ と を 見 出 し た。 ま た,

Aranda et al.

(2014)

Mahlendorf et al.

(2014)などでも,

CEO

や企業の管理者の業績目標にラチェットが見ら れることが判明している。

2.2 ラチェット効果

Weitzman

(1980)

Milgrom and Roberts

(1992)では,業績目標にラチ ェットが生じ,大きく過去の業績に依存して当期の業績目標が改訂される 場合,深刻なインセンティブの問題が引き起こされると主張している。職 務に就く者が変わらないままであり,業績目標の達成度に伴い報酬が決定 される場合,過去の優れた業績が当期の業績目標を大幅に引き上げ,当期 の業績目標は達成が難しくなり,労働者の報酬が減少することが予想され るのである。現在の業績が将来の業績目標に影響を及ぼすという関係を労 働者が予期したなら,将来の報酬が減ることを避けるために,現在の時点 で生産性を落としていき,業績を低下させる強いインセンティブを事前に 持つことになる。このような業績目標のラチェットに伴って(将来の報酬 を得るための)業績を低下させるという仮説を,

Weitzman

(1980)に基づ き,

Leone and Rock

(2002)は「ラチェット効果」と呼んでいる。以上の 場合,報酬に関わる契約(雇用契約)は,期間ごとの契約であることを暗 に仮定している。このような過去の業績をそのまま業績目標とする期間ご との契約では,同じ職務に新たな人物が各期につくのではなく,同じ職務 に同一人物がついている場合,ラチェット効果による問題が引き起こされ るのである

Milgrom and Roberts 1992 ;

 

Indjejikian et al. 2014)

Leone and Rock

(2002)では,次期と比べて当期に一時的に裁量前(報 告利益管理前)の利益が上昇している事業部では,ラチェットに伴う当期 から次期にかけての予算の引き上げとそれに伴う中長期的に獲得される業

(6)

績連動報酬の総額の減少を避けるために,当期に負の裁量的発生項目額を 計上して利益減少型の報告利益管理(利益調整)を行う傾向があることを 分析により見出している。また,

Bouwens and Kroos

(2011)は,第1四 半期から第3四半期にかけて売上高の実績値が業績目標を上回っている場 合,第4四半期において売上高を下げる傾向があることを見出した。

Holzhackeret al.

(2013)は,職業紹介所の業績目標設定において,同様の 期末のゲーミングがあることを見出している。これらの分析結果は,特に 好業績の場合,業績目標のラチェットにより業績目標が上昇し,現在の成 功が将来の報酬より低くすることにつながると従業員は予想するので,現 在の生産性をより低くし,業績をゆがめて伝える強いインセンティブを持 つことを示している。

 以上のことから,報酬を稼ぐために業績目標を達成する必要がある場 合,過去の業績を業績のベンチマークとする報酬契約は,異時点間のイン センティブの対立を生じさせると言える

Milgrom and Roberts 1992)

2.3 ラチェット効果による影響の回避

 業績目標の上昇により,将来の業績目標が達成困難になるのを避けるた めに生産性を低めてしまう(努力水準を下げてしまう)ことは,非効率的な 逆インセンティブの問題をもたらす。つまり,特に実績値が業績目標を上 回った場合には,エージェントの機会主義的な行動を誘発し,報酬契約に おけるプリンシパルとエージェントの間の利害対立が深まってしまうので ある。このような場合,契約理論に基づけば,過去の業績を将来の業績目 標に完全に反映すべきではないとされる

Choi et al. 2012)

。では,企業の 業績目標を設定するにあたり,過去の業績を将来の業績目標に完全に組み 込まないことは全く行われていないのだろうか?これらの点に関連する先 行研究について,以下で詳細に述べることとする。

(7)

 2

. 3 . 1 長期の報酬契約

Milgrom and Roberts

(1992)は,同一の労働者が毎期同じ職務につく場 合には,事前に同じ努力水準を毎期引き出すような,長期的な観点からの 報酬契約に最初からコミットしてしまった方が報酬契約をより効率的にで きることを指摘している。つまり,当事者同士で業績目標の設定の際に過 去の業績にあまり頼らないということを事前にコミットできるなら,ラチ ェット効果によるインセンティブの問題を原則として回避できると考えら れるのである。

Indjejikan and Nanda

(2002)

Indjejikian et al.

(2014)は,

当事者同士で業績目標設定の際に過去の業績を積極的に用いないという長 期の報酬契約を事前にコミットできれば,当期の収益性についての情報が 将来の期間に利用されないことが保証され,従業員が私的情報を歪めるよ うに動機付けられず,異時点間のインセンティブが歪められるのを避けら れるとしている。結果として,この契約では業績の良かった従業員が一生 懸命働き,報酬を持続的に稼げるのに対し,業績の悪かった従業員はよく 働かなかったためにほとんど報酬を稼げないというふうに区別される

Laffont and Tirole 1993)

。つまり,事前に長期の報酬契約において,前期の

業績が良い場合は,従業員の当面の業績目標を将来の報酬を稼ぐ能力を維 持するためにより達成しやすいものにし,前期の業績が悪い場合は,当面 の業績目標はより将来の報酬を稼ぐ能力を制限するために達成しにくいも のにすれば,よりよく従業員を動機付けられるのである。

 企業の

CEO

や事業部門の管理者等の(当期の)業績目標を設定するに あたって,過去の業績にあまり頼らないということを事前にコミットした 長期の報酬契約,すなわち能力の高い従業員の努力を引き出すインセンテ ィブが備わっている契約になっている可能性については,先行研究で検証 が行われている。

Indjejikian and Nanda

(2002)は,米国企業の

CEO

を初めとしたエグゼ

(8)

クティブの賞与の実績値と賞与目標(業績目標と等しい業績を稼ぎ出した時の 賞与)のデータを用いて,当期と次期の賞与の実績値と賞与目標の差異の 関係を検証した。分析の結果,前期の賞与の実績値が賞与目標を超えてい る場合,当期の実績の賞与はより賞与目標を超える傾向があること,すな わち業績目標を達成した場合の実績値と業績目標との差異に正の系列相関 があることを見出した

1)

。この正の系列相関は,企業が当期の業績が良い 従業員に対しては次期の業績目標をより達成しやすく設定したために生じ ていると考えられる。すなわち,利用可能な過去の業績の全ての情報を完 全に組み込まない効率的な報酬契約を企業が結んでいることが示唆される のである。同様の正の系列相関は,アムステルダム証券取引所に上場して いる企業数社の事業部に対するサーベイ・データに基づき分析を行った

Indjejikian and Mat

ě

jka

(2006)や,韓国の大企業の事業部データを用いて 分析を行った

Choi et al.

(2012)でも見出されている。

Choi et al.

(2012)

では,当期の業績の実績値が業績目標を下回った場合に,正の系列相関が 生じていないことも判明している。この分析結果は,当期の業績を完全に 反映して次期の業績目標を設定していることを示唆している。つまり,よ り有能な従業員のインセンティブを引き出し,当面の業績目標を将来の報 酬を稼ぐ能力を維持するために,業績目標を(過去の業績を積極的に組み込 んだ)達成しやすい低い水準に設定する,効率的な経営者報酬契約がなさ れている可能性が示唆されているのである。

 また,

Leone and Rock

(2002)

Aranda et al.

(2014)

Mahlendorf et al.

1

) Indjejikian and Nanda(

2002

)は,もし,企業がエグゼクティブの過去の 業績を完全に組み込むやり方で業績目標を改訂しているなら,エグゼクティ ブが業績目標以上に稼いで賞与をもらえる確率と超過分の賞与の金額は,エ グゼクティブの過去において業績目標を達成あるいは未達成だったことと無 関係になるとしている。詳細は,Indjejikian and Nanda(

2002

)を参照され たい。

(9)

(2014)などの業績目標のラチェットに関する先行研究でも,当期の実績 値が業績目標を下回った時に,当期から次期にかけての業績目標の下方改 訂の程度は,当期の実績値が業績目標を上回った時に比べると,小さくな っていた。これは,企業が黙示的または明示的に長期の報酬契約を最適な ものとしてコミットしており,結果として業績が悪い従業員に対する業績 目標を達成しにくい水準に設定し,ペナルティーを与えていることを示唆 する

Indjejikian et al. 2014)

。さらに,

Hayn

(1995)

Burgstahler and Dicev

(1997)などの先行研究と同様に,

Indjejikian et al.

(2014)

Mahlendorf et al.

(2014)では,企業内の

CEO

や各事業部門のマネジャーの利益業績目標 と実績利益の分布において,業績目標または実績利益が0をわずかに上回 るサンプルが,0をわずかに下回るサンプルより不自然に多いというもの になっていた。この分析結果は,損失が計上されると業績目標が達成しに くい水準になるという見解,すなわち損失計上にペナルティーを与えると いう長期の契約を企業がコミットしているという見解と一致するといえよ

Indjejikian et al. 2014 ;

 

Mahlendorf et al. 2014)

 以上の先行研究を踏まえると,当期に業績が良く,かつ当期の業績目標 を達成した場合,当期の業績にあまり依存せずに,次期の業績目標は当期 より積極的に高められないことが考えられる。また,当期に業績が良く,

かつ当期の業績目標を達成しなかった場合は,次期の業績目標は,当期の 業績を積極的に組み込み,当期の業績目標より積極的に低められると予想 される。逆に,当期に業績が悪く,かつ当期の業績目標を達成した場合,

次期の業績目標は,当期の業績を積極的に組み込み,当期の業績目標より 積極的に高められると考えられる。当期に業績が悪く,かつ当期の業績目 標を達成しなかった場合は,次期の業績目標は,当期の業績にあまり依存 せずに,当期の業績目標より積極的に低められないことが予想される。こ れらの点を踏まえ,さらに相対業績評価を取り入れて,企業が能力の高い

(10)

従業員の努力を引き出すインセンティブが備わっている長期の報酬契約を コミットしているかどうかについて検証した先行研究が行われている。こ のような先行研究について,次に述べる。

 2

. 3 . 2 相対業績評価

 現実にインセンティブ・システムを適用し,業績評価の基準を事前に設 定する際に客観的でコストのかからない方法としては,過去の業績を用い る手法以外に,同タイプの職にある他の人々による業績を基準に用いると いう相対業績評価の手法があげられる。不確実性の下では,エージェント の成果が行動自体の結果であるのか,環境状態の結果であるかを区別する のは難しいため,エージェントの報酬の決定の際に,同環境のその他のエ ージェントのパフォーマンスと比較させて確定すれば,エージェントの管 理可能な要因だけに焦点が合わされることになる。結果的に,エージェン トはプリンシパルの利益を尊重する強いインセンティブを持つことにな る。このように,相対的な業績の違いに応じて報酬が変化するように設計 するのがより効率的な報酬契約であるという考え方を,相対業績評価と い う

Holmstrom 1982)

。 こ れ ら を 踏 ま え て,

Indjejikian et al.

(2014)

Mahlendorf et al.

(2014)では,米国等の

CEO

を初めとした管理者を分析 対象として,特に業績の良い従業員に対して,過去の業績を積極的に用い ないだけでなく,相対業績評価も用いて,業績目標が設定されているかど うかを検証した。検証の結果,当期の収益性が産業メディアンを上回り,

かつ当期の実績利益が業績目標を上回っている場合,当期の業績に基づい て次期の業績目標を上方に改訂することは避けることが見出された。ま た,当期の収益性が産業メディアンを上回り,かつ当期の実績利益が業績 目標を下回っている場合,当期の業績に基づいて次期の業績目標を下方に 改訂することが見出された。対照的に,当期の収益性が産業メディアンを 下回り,かつ当期の実績利益が業績目標を上回っている場合,当期の業績

(11)

に基づいて当期から次期にかけて業績目標を上方に改訂することが判明し た。また,当期の収益性が産業メディアンを下回り,かつ当期の実績利益 が業績目標を下回っている場合,当期の業績に基づいて当期から次期にか けて業績目標を下方に改訂することを避けることが見出された。これらの 分析結果は,収益性が低い企業では業績目標のラチェットが見られるが,

収益性が高い企業では業績目標のラチェットが減じられていることを意味 する。同様な分析を,

Aranda et al.

(2014)は旅行業の企業1社の事業部門 を対象として行った結果,業績目標のラチェットは高収益の場合には減じ られるが,低収益の場合に顕著になっていることが判明している。

 以上のことから,米国を初めとした多くの企業では,業績が良い場合,

業績が悪い場合と比べて,業績目標を達成しやすい水準にしていることが 読み取れる。これは,企業が黙示的または明示的に,能力の高い従業員に は魅力があるが,能力の低い従業員には魅力がない長期の報酬契約を最適 なものとしてコミットしていることを示唆しているという見解と矛盾しな

Indjejikian et al. 2014)

2.4 業績目標としての経営者予想利益

 日本においては,業績目標(予算)のデータを入手することは難しい。

しかしながら,予算とのリンクが強く,かつ業績目標として入手可能なデ ータとしては,決算短信における経営者予想利益があげられる。先行研究 からは,経営者予想利益を業績目標として,企業の経営者報酬が決定され ている可能性が存在する。経営者報酬の契約が有能な経営者の努力をさら に促すようなインセンティブを有するような効率的なものになっているか については,様々な先行研究で検証がなされており,経営者報酬について の重要なテーマである。この経営者報酬契約の効率性に関して,経営者予 想利益のラチェットとその効果についての検証を行うことは重要と考えら

(12)

れる。以下では,日本企業における経営者報酬の設定の詳細,経営者報酬 が業績に連動している可能性,経営者予想利益が経営者報酬を決定する際 の業績目標として用いられている可能性について述べる。

 2

. 4 . 1 日本企業における経営者報酬

 我が国の経営者報酬契約では,実際の契約内容に踏み込んで分析するこ とは非常に難しい。経済産業省による2015年3月の『日本と海外の役員報 酬の実態及び制度等に関する調査報告書』(以下では『調査報告書』とする)

では,日本国内の上場企業のうちアンケート調査に回答した263社のうち,

役員報酬のポリシーの設定・開示に関して,「明文化された方針は存在す るが非開示」,「明文化された方針は存在しない」とする企業が大多数を占 めていることが判明している

2)

。2015年には,上場会社の実効的なガバナ ンスの実現に資する主要な諸原則を金融庁と東京証券取引所が取りまとめ た「コーポレートガバナンス・コード(以下ではコードとする)」が策定さ れた。コードは,東証の有価証券上場規定の別添とされたことにより,東 証の上場会社全てに適用される。コードの原則3‑1では,「情報開示の充 実」として,取締役会が経営陣幹部・取締役の報酬を決定するに当たって の方針と手続を求めており,取締役報酬の額や算定方針の決定方針を有し ている場合は,

CG

報告書で当該内容を記載することを求めている

3)

2

) 

2010

年3月に金融庁が交付した「企業内容等の開示に関する内閣府令の一 部を改正する内閣府令」により,役職別の報酬等総額や報酬等の種類別総額 及び対象となる役員の員数,連結子会社の役員としての報酬等を含めた報酬 総額が1億円以上の役員名と金額,報酬等の額またはその算定方法の決定に 関する決定方針については,有価証券報告書で開示することが義務付けられ ている。

3

) コードは,基本原則5原則,原則

30

原則,補充原則

38

原則の全

73

原則から 構成され,「コンプライ・オア・エクスプレイン」(原則を実施するか,実施 しない場合にはその理由を説明するか)の手法を採用している。コードの各 原則の中に,各社の個別事情に照らして実施することが適切でないと考える

(13)

 そもそも,日本企業の経営者報酬(役員報酬と役員賞与)については,会 社法361条第1項で取締役の報酬等を定款又は株主総会の決議で決定する ことが定められており,たいていの場合,経営者報酬は株主総会の決議に よって決定される

4)

。2014年の会社法改正前の実務では,委員会設置会社 では報酬委員会が報酬の内容を決定し,委員会設置会社以外では各個人へ の配分は取締役の協議等にゆだねられていた。2014年の会社法改正後は,

「監査等委員会設置会社」が導入されたことから,これと区別するために,

従来の「委員会設置会社」は「指名委員会等設置会社」という名称となっ た。指名委員会等設置会社では報酬委員会の設置が義務付けられており,

監査役会設置会社・監査等委員会設置会社においては任意に報酬委員会を 設置できる

5)

 2013年の日本取締役協会による『経営者報酬制度の実態調査』(以下では

『実態調査』とする)では,経営者報酬の決定機関は,調査対象企業の44

. 7

%が取締役会,48

. 9%が報酬委員会またはそれに代替しうる機関となって

原則があれば,それを「実施しない理由」を十分に説明することで,一部の 原則を実施しないことも想定している。東証第一部・第二部の上場会社は,

全73原則についてコンプライ・オア・エクスプレインの状況を

CG

報告書に おいて開示することが義務付けられ,コードの適用開始以後,対応状況が順 次開示されている。

4

) 現在の会社法では,経営者報酬について,定款または株主総会で上限が定 められているが,乙政(2004)では,経営者報酬の上限改訂のあった企業 は,経営者報酬の上限改訂のなかった企業に比べて業績が好調であるという 分析結果が得られた。また,会計利益のレベルが高まるほど,経営者報酬の 上限改訂が実施される傾向にあるという実証結果が支持された。

5) 東京証券取引所による『取締役会関連 参考データ』によれば,東証全上

場会社のうち指名委員会等設置会社の割合は,

2014

年で

1 . 7

%(

57

社),

2015

年では1

. 8%(64社)であった。また,日本取締役協会による『上場企業の

コーポレート・ガバナンス調査』では,東証一部上場企業のうち,指名委員 会等設置会社の割合は,2015年〜2017年の各年で3%であった。

(14)

いた。東京証券取引所による『東証上場会社コーポレート・ガバナンス白 書2015』では,2014年7月14日時点で,調査対象の東証上場企業におい て,報酬委員会の平均人数は3

. 79人となっており,報酬委員会に占める社

外取締役の割合は74

. 1%,報酬委員会における社外取締役の人数は平均

2 . 81人となっていた。『調査報告書』では,調査対象企業のうち,任意の

報酬委員会を設置しているのは16%にとどまっていた。報酬委員会の議長 は,「社外取締役」が42%で最も多く,次いで社長29%,会長19%となっ ており,74%の企業で社長と社外取締役が共に報酬委員会の構成員となっ ていた

6)

。東京証券取引所による『取締役会関連 参考データ』では,

2015年7月14日の時点で,東証全上場会社の監査役会設置会社・監査等委

員会設置会社(3

, 410社)

のうち,報酬委員会に相当する機能を持つ委員会 を設置していたのは6

. 4%

(219社)であった。また,指名委員会等設置会 社の報酬委員会では,全委員の数の平均が3

. 78人であり,そのうち社外取

締役の数は2

. 77人であり,委員長が社外取締役である企業の割合は60 . 9%

であった。これに対し,監査役会設置会社・監査等委員会設置会社におけ る任意の報酬委員会では,全委員の数の平均は4

. 49人であり,そのうち社

外取締役の数は平均1

. 80人であり,委員長が社外取締役である企業の割合

は41

. 1%であった 7)

6

) 『調査報告書』において,報酬委員会の役割について調査したところ,調 査対象企業のうち,「取締役会,経営会議等への諮問アドバイス」が48%,

「取締役会への議案提出」が

39

%となっていた。

7) 『白書2017』の調査では,東証上場企業のうち,法定または任意の報酬委

員会を設置している企業は

18 . 5

%であった。報酬委員会の平均人数は,指名 委員会等設置会社で3

. 83人,監査等委員会設置会社で4 . 46人,監査役会設置

会社では

4 . 50

人であった。また,報酬委員会に占める社外取締役の割合は指 名委員会等設置会社で72

. 4%,監査等委員会設置会社で56 . 7%,監査役会設

置会社では

45 . 0

%となっていた。報酬委員会における社外取締役の人数につ いては,指名委員会等設置会社は平均2

. 77人,監査等委員会設置会社は平均

(15)

 なお,日本取締役協会による『上場企業のコーポレート・ガバナンス調 査』では,東証一部上場企業のうち(任意も含む)報酬委員会を設置して いる企業の割合は,2016年に30%,2017年では35%であることが判明して いる。

 2

. 4 . 2 日本における経営者報酬と企業業績との関係

 経営者報酬と企業業績との間には,様々な調査により正の連動が存在す る可能性が示唆されている。『実態調査』では,調査対象企業の59

. 1%が,

業績連動賞与を全社業績に80%以上連動させていることが判明している。

『東証上場会社コーポレート・ガバナンス白書2017』(以下では『白書2017 とする)では,東証上場会社のうち,何らかのインセンティブ付与に関す る施策を実施している会社は62

. 5%を占め,業績連動型報酬制度を導入し

ている企業は2010年で19

. 7%,2012年で22 . 7%,2014年で19 . 8%,2016年

で26

. 8%であることが明らかになっている。

 また,日本企業において,実績利益の増減を経営者報酬に対応させる会 計ベースの経営者報酬契約が存在する可能性については,様々な実証研究 が行われている。

Kato and Rockel

(1992)

Kaplan

(1994)

Joh

(1999),乙 (2004,第4章),乙政(2005)

Kato and Kubo

(2006)

Mitsudome et al.

(2008),乙政・椎葉(2009),乙政(2010),首藤(2010,第10章)などで は,日本企業の経営者報酬が企業の会計上の利益あるいは株価と有意なプ ラスの連動性が見られることが判明している。また,乙政(2004,第4章) 乙政・椎葉(2009)では当期純利益よりも経常利益や営業利益の方が経営 者報酬に対する反応が強く出ている。さらに,経営者報酬のうち,役員賞

2 . 53

人,監査役会設置会社では平均

2 . 03

人であった。さらに,報酬委員会の 委員長が社外取締役である企業の割合は,指名委員会等設置会社では65

. 7%,

監査等委員会設置会社では

41 . 3

%,監査役会設置会社では

42 . 1

%となってい た。

(16)

与の業績に関する感応度について検証した先行研究としては,胥(1993) 村瀬(1995)

Xu

(1997)

Murase

(1998),阿萬(2002),蟻川・黒木(2003)

Kato and Kubo

(2006),星野(2003,第7章),坂和・渡辺(2009),首藤

(2010,第10章),新美(2010)があげられる。これらの分析結果から,経営 者報酬の仕組みには一定のインセンティブ機能が備わっている可能性が示 唆されるといえよう。

 2

. 4 . 3 業績目標としての予算と経営者予想利益の関係

 業績目標である予算については,経営者予想利益との強いリンクが様々 な調査で指摘されている。柳(2011)は,多くの上場企業で予算をベース に業績予想を作成するのが慣例となっており,対外的な経営者予想開示と の間に強いリンケージがあることを指摘している。

IR

部門が経営者予想 作成に関与している企業を対象とした円谷(2009)の調査によれば,多く の企業ではボトムアップで全社経営者予想を作成している。黒川他(2009)

や中條(2009)の調査では,各事業部の予算を積み上げる形で経営者予想 利益を作成する企業が大半であることが判明している。横田・妹尾(2011)

の調査では,予算管理と経営者予想とのリンクが強化されていることが判 明している。2011年の日本

IR

協議会の調査では,74

. 1%

(959社)の上場 企業が社内の予算をもとに決算短信における経営者予想を作成すると回答 している。

 予算とのリンクが強い経営者予想利益が,経営者を評価する際の業績目 標としても用いられている可能性については,須田・花枝(2008)の上場 企業を対象とした調査で,日本企業が外部に公表する報告利益の業績目標 値として自社が公表した予想値を最も重視していることが判明している。

首藤(2010,第4章)でも,実績利益が経営者予想利益を上回る企業が,

実績利益が経営者予想利益を下回る企業よりはるかに多いということか ら,経営者予想利益が報告利益のベンチマークである可能性が指摘されて

(17)

いる

8)

。また,金銭による業績連動報酬に関連付けられる経営指標につい ては,『調査報告書』において,日本では売上高や利益といった経営指標 がその他の経営指標よりも圧倒的に多く用いられ,中長期インセンティブ 報酬に関連付けられる経営指標においても同様の傾向が見られることが判 明している。実際に,一部の日本企業では業績連動報酬額の決定の際の利 益ベンチマークとして経営者予想利益を用いていることを公表している

(乙政 2015)

9)

 利益ベンチマークとしての経営者予想利益の未達が経営者報酬の減額を 導くかどうかについては,乙政他(2014)が,

Matsunaga and Park

(2001)

に基づき,検証を行っている。検証の結果,実績利益が経営者予想利益を 下回った場合に,経営者報酬の減額につながること,経営者予想利益の未 達による経営者報酬の減額の程度は利益額ゼロの未達の場合に次いで大き いことが見出された。加えて,実績利益が期初に公表される経営者予想利 益を上回らない場合に経営者報酬が減額している一方で,期初以降の四半 期時点における経営者予想利益の未達は経営者報酬の減額に影響を与えて いなかったことが判明した。また,

Otomasa et al.

(2015)では,経営者予

8

) 『会社四季報』のアナリスト予想利益についても,アナリスト予想利益を 実績利益が上回るほど,経営者報酬は増加する傾向が,乙政(2004,第6 章)と乙政(

2005

)による分析により見出されている。須田・花枝(

2008

の調査により経営者予想利益と比べてアナリスト予想利益は報告利益の目標 値としてそれほど重視されていないことや,矢内(

2006

)や太田・近藤

(2011)によりアナリスト予想利益と経営者予想利益が同一の企業が多いこ とが確認されている。ゆえに,アナリスト予想利益というよりも,むしろ決 算短信における経営者予想利益が経営者報酬を確定する業績目標として用い られている可能性が考えられる。

9) 『白書2017』では,連結経常利益が当初業績予想に対して一定の水準を下

回る場合,賞与を原則として支給しない旨を記載している建設業の企業の事 例をあげている。

(18)

想利益が経営者報酬の利益ベンチマークとして用いられており,実績利益 が経営者予想利益を下回った場合に経営者報酬が減少し,上回った場合に 経営者報酬が増加することが分析により判明した。また,実績利益が経営 者予想利益を下回った場合よりも,上回った場合に報酬業績関係が強くな ること,すなわち経営者予想利益を未達であった場合の経営者報酬の減額 の程度よりも,達成した場合の経営者報酬の増額の程度が大きいことを見 出している。

 先にも述べたように,インセンティブ・システムを適用し,業績目標を 事前に設定する際に客観的でコストのかからない方法としては,過去の業 績を用いる方法があげられる。経営者予想利益についても,予算を積み上 げるだけでなく,前期以前の実績値から類推して作成されることが黒川他

2009

の調査で明らかになっている。また,中條(2009)の調査では,前 期実績を参考にして経営者予想値を作成する企業も多いことが明らかにな っている。これらのことから,予算を積み上げ,かつ過去の業績も考慮し て業績目標として経営者予想利益が設定されていることが窺える。

 以上のことから,経営者予想利益が経営者報酬を確定する業績目標とし て用いられていると考えられる。

2.5 経営者予想利益のラチェット

 予算と経営者予想利益とのリンクが強いことを踏まえて,安酸(2016)

では,決算短信における経常利益と当期純利益の予想値を予算の代理変数 として用いて,経営者予想利益にラチェットが見られるかどうかを検証し た。安酸(2016)は,検証に際して,

t

期の実績利益が

t

−1期に予想され た)

t

期の経営者予想利益を上回っている場合の予想誤差を「有利差異」,

t

期の実績利益が

t

−1期に予想された)

t

期の経営者予想利益を下回って いる場合の予想誤差を「不利差異」とした。検証の結果,

t

期の有利差異

(19)

t

+1期の経営者予想利益の設定に反映されて

t

+1期の経営者予想利 益が増額される程度は,

t

期の不利差異が

t

+1期の経営者予想利益の設 定に反映されて

t

+1期の経営者予想利益が減額される程度よりも大きい ことが見出された。すなわち,経営者予想利益には予算と同様にラチェッ トが見られることが判明したのである。同様の分析結果は,矢内(2016)

においても明らかになっている。

 また,首藤(2010,第4章)は,経営者予想利益が報告利益管理を行う 際の利益ベンチマークであることを指摘した上で,当期から将来の期間に 報告利益を繰り延べて,次期以降の経営者予想利益を容易に達成するため に,報告利益が経営者予想利益を上回っている企業で裁量的発生項目(裁 量発生高)が負になる傾向があることを分析により見出している。この分 析結果は,経営者予想利益のラチェットによる次期の経営者予想利益の上 昇を防ぐための意図的な業績の低下,すなわち経営者予想利益のラチェッ ト効果の影響によるものと解釈できる。

2.6 経営者の業績評価の観点からの経営者予想利益の設定

 2

. 5にあげた先行研究では,経営者予想利益のラチェットが存在するこ

とが示唆される。しかし,経営者予想利益のラチェット効果の問題を無視 して,経営者報酬契約の設計が行われているのであろうか? 特に好業績 の場合のラチェットによる次期の経営者予想利益の上昇は,経営者が当期 に努力したにもかかわらず将来の報酬を減らすことになり,報酬契約の効 率性の低下を招きかねない。

Laffont and Tirole

(1993)に基づくと,経営 者予想利益のラチェットを考慮して,経営者予想利益の水準が設定されて いるならば,事前に経営者のインセンティブは強められることになり,経 営者の報酬契約の効率性の上昇につながる。この点について,日本におけ る先行研究を踏まえて,以下で考察を行う。

(20)

 2

. 6 . 1 経営者予想利益の設定

 そもそも,決算短信における経営者予想利益の公表は,会社法362条4 項の「重要な業務執行」にあたると考えられることから,取締役会での承 認を得ることが通常とされる。2015年3月に,経済産業省は上場企業が開 示する決算短信や有価証券報告書,計算書類などの書類について,内容が 重なる情報は項目名や書き方を統一し,投資家が開示書類を理解しやすく するように提言した報告書をまとめ(日本経済新聞2015年3月26日),東京証 券取引所は2017年3月期から決算短信の様式変更を行った。これは,決算 短信が取締役会の承認を得る財務諸表と同列に扱われている背景があるた めと推察される。

Kato et al.

(2009)では,内部の予算業績目標は,企業の 経営者と従業員を動機付けるために最適に設定される可能性を指摘してい る。黒川他(2009)では,経営者予想利益が企業の事業目標や計画を会計 数値化したものであることが示唆されている。また,2

. 4 . 1で述べたよう

に,近年のアンケート調査では任意に報酬委員会を設置している企業がか なりあることが窺える。

 以上のことから,経営者予想利益が経営者報酬を決定する際の業績目標 として用いられているならば,経営者予想利益の最終的な設定については 取締役会(報酬委員会)が関与していることが予想される。

 2

. 6 . 2 経営者報酬契約の効率性

 経営者報酬契約の効率性に関する実証研究では,株主と取締役会の利害 が一致していると仮定される

10)

。この仮定のもとで,財務会計の利益に連

10

) 株主と取締役会の利害が一致しているとした場合,取締役会が株主の「番 犬(watch dog)」としての役割を果たすことを仮定している。株主価値最大 化のために最適な経営者の報酬制度設計の問題を検証する際には,取締役会 が完全に機能していると仮定していることで,株主と取締役会の利害対立の 問題を捨象しているのである(中村 

2012

)。なお,取締役会の機能を検証す る際には,取締役会と経営者の利害が一致していると仮定することになる。

(21)

動する経営者報酬契約は,株主と経営者の利害をできるだけ一致させ,経 営者のモラル・ハザードを抑止するとされる。我が国の経営者報酬契約で は,実際の契約内容に踏み込んで分析することは非常に難しい。そのた め,黙示的な報酬契約が結ばれているとの観点から,経営者報酬パッケー ジ の デ ザ イ ン の 考 察 を 行 う こ と に な る

Bushman and Smith 2001 ;

 乙 政

2005)

。この経営者報酬契約において,経営者予想利益が経営者の業績目

標として用いられているならば,過去の業績を完全に反映するように業績 目標を調整せず,将来の業績目標を設定する時に過去の業績を割り引いて 用いていることが考えられる。

 経営者予想利益のラチェット効果の問題を考慮して,経営者報酬契約の 設計が行われている可能性については,いくつかの先行研究の分析結果か ら読み取れる。清水(2007)では,経営者予想利益の売上高・経常利益・

当期純利益の予想誤差に持続性が存在し,正の系列相関が見られることが 判明している

11)

。安酸(2016)では,実績利益が経営者予想利益を上回っ た場合(悲観的な予想誤差が生じた場合),有意な正の系列相関が生じている が,実績利益が経営者予想利益を下回った場合(楽観的な予想誤差が生じた 場合)は有意な正の系列相関が生じていないことが判明している。これら の先行研究は,能力の高い経営者の努力を引き出すインセンティブが備わ っている長期の報酬契約が事前にコミットされている可能性を窺わせる。

Ota

(2006)は前期から当期にかけての売上高が高成長の企業は,次期に 控えめな利益予想を行うことを発見している。

Kato et al.

(2009)では,前 期の

ROA

が低く(高く)なるほど,当期の経営者予想利益が前期の実績

11

) 清水(

2007

)では,売上高・経常利益・当期純利益の予想誤差の系列相関 を,当期の予想誤差を前期の予想誤差で回帰する式で検証しているが,悲観 的な(実績値が経営者予想値を上回る場合の)予想誤差と楽観的な(実績値 が経営者予想値を上回る場合の)予想誤差に分けた検証は行っていない。

(22)

利益と比べて高い(低い)水準に設定されることが見出された。これらの 分析結果は,前期の業績が悪い(良い)場合,当期の経営者予想利益は達 成しにくい(達成しやすい)水準に設定されていることを示唆していると 考えられる。

 また,阿部(2010)や首藤(2010,第4章)では,経営者予想利益の予想 誤差の分布について,経営者予想利益と実績利益との差で表される予想誤 差が0をわずかに上回る企業が,

0

を下回る企業よりはるかに多いという,

中央の非対称性が見出された。首藤(2010,第2章)でも,実績利益が0 をわずかに上回る企業が,0をわずかに下回る企業よりはるかに多いとい う,中央の非対称性が見出された。加えて,乙政(2004,第5章)では,2 期前から前期にかけての利益変化の下降が著しい場合は,前期から当期に かけての経営者報酬の変化との間に負の連動性があることが確認された。

これらの分析結果は,損失が計上されると業績目標が達成しにくい水準に なる,すなわち損失計上にペナルティーを与えるという長期の報酬契約が 事前にコミットされているという見解と一致する分析結果である。

 さらに,経営者予想利益のラチェットを考慮する以外に,業績目標設定 時にインセンティブの対立を軽減し,報酬契約を改善する手段としては,

相対的業績評価があげられる。相対的業績評価については,乙政(2004,

第7章)により,企業パフォーマンスが産業平均パフォーマンスよりも勝 っているほど,経営者報酬が増加するという証拠が得られている。この分 析結果は,経営者報酬契約が,自社以外の企業との相対的な業績の違いに 応じて報酬が変化するような,より効率的な契約になっている可能性を窺 わせる。

3.仮説の設定

 2.で述べた先行研究を踏まえると,経営者予想利益は経営者報酬を決

(23)

定する際の業績目標として用いられている可能性が考えられる。また,先 行研究を踏まえると,株主と取締役会(報酬委員会)の利害が一致してい ると仮定した場合,当期に優れた業績をあげた経営者に対して(次期の経 営者予想利益を大幅に引き上げるという)経営者予想利益のラチェットによる 当期の業績の意図的な低下を防ぎ,かつ業績が悪い場合には経営者予想利 益を達成しにくい水準にするという,経営者の努力を引き出すインセンテ ィブが備わった経営者報酬契約を黙示的または明示的に採用している可能 性が存在する。すなわち,過去の業績の情報を限られた程度で使用し,か つ相対業績評価を行い,産業内から見て業績が良い場合は,産業内から見 て業績が悪い場合と比べて,経営者予想利益を達成しやすい水準に設定す るという契約を採用していることが示唆されるのである。

 以上のことから,本研究では,先行研究に基づき,まず経営者予想利益 が経営者報酬を決定する際の業績目標として用いられているかどうかを確 認する。また,先行研究に基づき,経営者予想利益のラチェットが分析対 象企業全体に見られるかどうかを確認する。

 さらに,分析対象企業のうち,過年度に当該企業の収益性が当該企業の 属する産業の収益性のメディアンを上回っている企業を「高収益性の企 業」,下回っている企業を「低収益性の企業」と定義する。その上で,当 期に収益性が高い企業では,将来の報酬を稼ぐ能力を維持するために,当 期に収益性が低い企業と比べて,次期の経営者予想利益が達成しやすい水 準に設定されているかどうかを検証する。この検証では,当期の収益性が 高い企業では,当期の収益性が低い企業と比べて,ラチェットが減じられ ているかどうかも分析されることになる。

 ゆえに,当期の経営者予想利益を達成した企業のうち,高収益性の企業 では,低収益性の企業と比べて,当期の予想誤差が次期の経営者予想利益 に反映されて次期の経営者予想利益が増加する程度は顕著でないと予想さ

(24)

れるので,以下の仮説1が導かれる。

仮説1:当期の経営者予想利益を達成した企業のうち,当期の収益性が高 い企業では,当期の予想誤差が次期の経営者予想利益に反映され て次期の経営者予想利益が増加する程度は,当期の収益性が低い 企業と比べて小さい。

 当期の経営者予想利益が未達成の企業のうち,高収益性の企業では,低 収益性の企業と比べて,当期の予想誤差が次期の経営者予想利益に反映さ れて次期の経営者予想利益が減少する程度は大きいと予想される。よっ て,以下の仮説2が導かれる。

仮説2:当期の経営者予想利益を達成しなかった企業のうち,当期の収益 性が高い企業では,当期の予想誤差が次期の経営者予想利益に反 映されて次期の経営者予想利益が減少する程度は,当期の収益性 が低い企業と比べて大きい。

 以上の仮説が支持される場合,当期に収益性が高い企業では,当期に収 益性が低い企業と比べて,ラチェットが減じられていることが予想される。

4.リサーチ・デザイン

4.1 モ デ ル

 本研究では,まず経営者予想利益にラチェットが見られるかどうかにつ い て 確 認 を 行 う。 こ の 検 証 は,

Leone and Rock

(2002), 安 酸(2014)

Indjejikian et al.

(2014)

Mahlendorf et al.

(2014)などに基づく,

t

期の経 常利益

E t

t

+1期の経常利益

E t +1

t

期の経営者予想利益

MFE t

t

期首

参照

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