究
大西経濟學に於ける在る相と成るべき相
高島佐一郎
﹃大西猪之介維濟學全集﹄は今︑﹃文明批評﹄の刊行をもつて全十一慰を完結し︑大約五千五百頁
を包める各巻の背文字は燦欄として机邊春光に映えて居る︒想へばうつそみを永遠のうちに浮化し
π満六年二月目の四月入日にして︑著者は︑學究生活約十五年間の文化的所産の全部を清算提示し
て強くよみがへめ全人格的に擢威をもつて繹濟學界によびかけるに到つπのである︒それは風もな
き≧の春日に花てふ花の嘆きもそろひ善き且つ整へる果實を準備せるに似て居る︒いくらかの高調
大四糧濟學に於ける在ろ相と成ろべ§相}
商學討究第三巻(上).二
が許されるならば︑其れは長き深き沈潜ののち確信に充ちて橦撒山よう降り尤てるツァラトゥスト
ラの姿を想はせ︑叉春塘に立つ静心もて調和的なる世界観を展開せる甦生のフアゥストの姿をすら
想望せしめるものであらう︒熱調し辮置し論箏し︑そして時さかには矛盾と堅白異同を冒しπでも
あらうところの︑彼れの學問的藝術的勢作の一切は︑今や最奥所には常に横たはつてゐる高度の統
一性全禮性を展開しながら︑讃者の鑑賞批剣を艀かに而して冷かに待つて居るのである︒そして︑
そのうちに十藪年前の奮稿を含まうとも︑彼れの言説には総じては︑カツツキルよbいでたてるリ
ツプヴアンウィンクルの語うしごとき時代錯誤的なる想痕の︑殆んど存在するなき事は︑その
思想的立場を解し又その時代に即する限り1大なる満足であらねばならない︒かやうにして︑乙
の﹁鬼才﹂の書きのとせる同全集こそは︑一の藝術的制作であゐ︑天才の建て尤る一里塚ではある
まいか︒すなはち︑其れは︑左右田博士の謂はゆる﹁驚くべき天才は其の段落に大いなる一里塚
を立てて吾等をして鏡意一番更に洋々πる前途を望むで進むべき方向を指し示すもの﹂の一つであ
う︑eO叉︑上田博士の謂はゆる﹁斯くの如き力のある人の書いたものは永久の一種の藝術品πる慣
値をもつてゐる﹂もので催あるまいか︒②しかう︑その思想の移入醇化なウ論文講義なう否な翻鐸
\
すらもの軌れの一片にゐいてでも︑多角的な彼れの人格の一面又は全面が端的に浸みいで表現せられてゐる︒藝術品とは蓋し最高の知己によ釦て恵まれ尤る一評語なうとして︑彼れの肯べなふ所で
あらねばなら澱︒.︑
同全集は實に斯る高き評慣を荷へる竜のなるが故に︑私は今︑﹃商學討究﹄編輯委員の委囑にこ
πへて些か︑大西経濟學の﹁在る相﹂が普通に想像せられてゐる以上の統一性又は全髄性もて如何
に引き締められてゐるかを言ひ︑韓じて時代の進みに件ふならば︑又禿與へられπ時間がよう充分
なうせぱ︑如何に補正せられ虎でもあらうかの︑﹁成るべき相﹂の幾らかを推測して見πいと思ふ
のである︒πだ斯く︑ザインを観照すといひ︑ヴエァデンを推察すといふも︑決して同氏経濟學の
ヘへ全親野を渉るを得ず︑更らには著者の同意を得らるべきを豫断するものではない︒即ちまつ︑その
在る相については︑縦ひ著者にゐいては比較的明確軍純なる事實の直観と法則とよう出薮するとは.
いへ︑多くの天才的丈化産物に看られるごとく︑此庭にても多藪の支流を.集めて盆々水量を壇しっ
つ注洋として海に流れゆく大河にも似るとZろの︑此の大集成に向つては︑その観察をば主として
ヘへもへは縄濟原論の領域に局限せざるを得ないのである︒
ヘヘへついでその成る相については︑著者自かむ明かに流韓の世界を封象とする學問が殊に生に即し生
の爲めの學πらざるべからざるを高調せる以上︑吾々が縦ひその機展線を案じて見ようとも︑著者
大四経濟學に於Uる在る相と戊るべき相三
1 商學討究第三巻(上)四
自身は既に︑其れよりも一屠前進し居ウ控る事を必し難い︒彼れは眞理の時間的限界を喝破して曾
つて斯う言つてゐる︑﹁右の見解すでに世人に探用せられて︑穀物條例なき新なる縄濟生活登現す
るならば︑これ此縄濟學が使命を果し得尤る所以であると同時に︑やがて此縄濟學の亡んで新なる
経濟學の生れ出づべき必要を暗示するものである︒・:・・此意味にゐいては︑総ての學者は︑當該科
學將來の進歩を信ずる限う︑自已を埋むべき墓を掘る爲に勢作しつつあるものであう︑語を強めて
読けば︑自から埋没さるる時期の速に到來するほど︑其學の有意義なbし謹左となる︒﹂③いま此
れを著者の揚合に翻へして見る︒すると︑その経濟原論の出襲黙をなす︑人口まカは欲望の無限壇
殖性と食物または財の有限壇殖性との矛盾が︑解決せられπ曉には︑大西原論は自つから存在理由
を喪失して死文πるであらうと共に︑自由主義を基調とする大西縄濟政策竜ま虎愛轄して肚會主義
による経濟政策に取つて代られる運命に立つ︑と論ずるに外なら滋︒かくの如きは實は凡そ人文進
化を劉象とする諸學に共通する自明なる一理義を尤もらしく説けるものに過ぎ諏のではあるが︑然
し此れを軍に一片の宣明にとどめず斯る態度を眞に實践にまで移さむとする程に精進撹まざる學究
1この種の一人で著者は確かにあつ尤iの所産に劃しては︑蝕庭に第三者あう︑恣意的にその
一構想に即して此れが將來登展相を豫断することは︑極めて危瞼なる仕業たらざるを得ない︒けだ
し何らかの將來圖を描きださうならば︑彼れは早速これを︑そがマルクス主義昂趨の批評に當つて
好み用ひπ罎︒こ︒9ω⊆凶ω窓︒︒竃霞盈︒︒冨・‑冨母客てふ短い言葉の再適用によつて︑他愛もなく庭
理して了ふの掛念が+分にあるからである︒ωのみならず﹂斯る態度の保持者叉は凡そ精鏡なる辮
謹怯的理論家の論議には︑時とすれば︑叉た兎竜すれば︑中心動揺的なる言説必ずしも勘くなく︑
從つて若し誤つて一を他と解すれば︑忽ちに﹁爾刃の剣﹂又は﹁上下の鋏匁﹂をもつて︑手もなく
排撃される危瞼があるからである︒もし然うとすれば︑如何に醇狂の論者とても︑襲展相の推測と
いふごときの所業に出つるものは︑在う得ないであらう︒然るに事の實際にゐいては︑彼れは流轄
のなかに可なう著しき恒常的不慶的中心黙を正覗し保持してゐるのであつて︑即ち︑根本概念の討
うヘへもヘヘへもヘヘヘヘへもヘヘヘヘヘヘへ究をぱ概ね概念遊戯まカは精紳禮操と疑し去つて現實的基本的事實を強く且つ鏡く直観し︑此れに
ヘヘへぬヘヘヘヤへリヘカヘヘへねうヘヘへ關はらしめて肚會的縄濟生活を理解せむとすること︑縄濟現象を抽象し法則化するに常つても二元
ヘヘへもももヘヘヘヘヘヨへももへうヘヘヘへぬヘヘヘヘヘヘへさらに三元すらを認めて既存學設の妻協叉は折衷の立場を採らむとする之と︑及び縄濟問題肚會問
ヘヘヘコリへらヘヘへめへしへしもヘヘヘヘヘヘヤカもヘへ●題の一斑に劉し評償を下だすに際しては一自由主義者の立揚を冷徹に貫かむとすることが︑凡そ此
れである︒まことや︑二元的論態の其のいと竜巧みなる使騙適用の手練に到つては之を︑薯者の聰
明の代表的強所となすも過言ではなく︑此の勲︑私は﹁二元二元なほ説き得ずば三元を立つる意氣
大西経濟學に於ける在る相と戊るべき相五
商皇∴討究第三巻(上)串ハ
込み賢き友かなL(啄木)を呼んで︑大西氏行論を三嘆せること讃除その幾力びなうしかを知らな
いものである︒であるから︑斯學の特徴を爲す此の理解よb進みいらば︑彼れの縄濟學乃至経濟政
・策を大過なく把握し︑更らに若干の補綴を試み得られるやに思推せられる︒併し言ふまで竜なく此
は私解私論以上ではなく︑即ち私の引きあて禿籔は他の多くの籔のなかの唯だ一本に過ぎず︑從っ
て識者諸卿の引き竜當てらるべき藪々の籔によつて予自からの敷へらるべき事は︑勿論これを期待
して居る次第である︒1﹁千本の籔のなかようくれなゐの一筋を引き海中に投ぐ﹂1私の氣持
は正さしく此れ以上ではない︒i﹁鉄けπる竜のを藪へ上げれば限φがない︒ー凡て或るもの
を持つてゐるものを素直に認めて︑その慣値を肯定するのは我等の喜びである︒願くば映けπる
ものを数へるをやめて︑慣値あるものの贋値を更に登展せしめんが蝿めにのみ︑贋値あるものの映
け控る黙を指摘しπいσ﹂④その﹁成る相﹂を尋ねる私の心持は又た正さしく此れ以外では在り得
ない︒
二
まつ︑その﹁在る相﹂の一特徴を概観する︒
そ乙にて最も強く吾人を動かすものは︑そが十︼巻のうち七巻までの未定稿を含あるにも拘ら
ず︑高度の統一性あつて︑前後新奮の諸論攻を貫き縫うてゐる一事であらねばなら戯︒偉大なるマ
〃クス資本論三零中の二巻が未定稿なbしのゆゑにトルソオと呼ばるべくば︑同発集も亦だ明かに
トルソオである︒けれども資本論第一巻と同第三恕第一冊とに示され尤︑資本牧盆が或ひは商品慣
格に含まれ居らず︑或ひは含まれ居るの矛盾のゆゑに︑トルソオと稻せらるる如きの意味にゐいて
は︑此はト川ソオではあり得ない︒同全集の場合には逆に︑チンメルマンが近ごろ︑デイッエルの
奮るく書きしるし力一文︑景氣愛動論を指して一のトルソオと詐せるの意昧をすらも併有するので
もへもらある︒働すなはち︑例へばただ﹃維濟原論﹄のみについて観るも︑同書中の雄章πる﹁所得の分配﹂
が明かに﹁草案﹂と記されあう他日一層の推敲を待てる竜のの如きの節は其の他に竜稀れなbとせ
汲のであるが︑然し此れと同時に︑総燈として見るならば︑デイッエルの右小文の場合と同じく︑
爾鯨の諸論考とは切断されては居れ︑當該論文の内面には堅く結合され尤る論理的蚕膿性冒器集6プ
︒写一〇σq凶︒︒暮σq︒︒︒︒三︒・・ω9︒︒・O嘗器ωの嚴存するあつて︑善く全怨にゐける記述を貫通構成してゐるか
らである︒かのカツセル﹃理論的祉會経濟學﹄にゐいては︑その核心だる債格論その他が︑常に客
観主義に撮れる稀少性原則に始まbて稀少性原則に絡れるが如く︑この大西﹃経濟原論﹄にあうて
大四煙濟學に於けろ在ろ相と成るぺき相七