1 9 世紀英 国の労働者 階級 文化 と
・ 教育態様 につ いての ノー ト
上 野 耕三郎
Ⅰ 労働者階成文化 社会統制
1960 年代以降,それ以前 には提起 されることのなか った課題意識 に導かれて, 教育の社会史的書 きかえがすすんできた。
教育の社会史 は,社会学 をは じめとす る社会諸科学 によって生 みだ された社 会理論か らの知的刺激 を自 らの内部 に繰 り込 み,展開 ざれてきた。それ らの社 会理論か らの理論 的刺激 は,かつて問題視 され ることのなかった歴史研究上 の 枠組 みの有効性 に対す る懐疑 を生 み,その疑問 に答 えるために,研究対象 そ し
て史料 の範囲 を拡大 す ることへ と歴史家 を駆 り立 てていった。 「もの言 わぬ人 び と」 の研究 もその一 つの顕著 なあ らわれで あろ う。「もの言 わぬ人 び と 」 の 視座 か ら歴史 を逆照射す ることによって,新 たな歴史像 を構築 す る道 を模索 し
ているといって もよい
。い ま
歴史 を逆照射 す ることは, ( 現在) を もその圏内 に巻 き込 んで しまいたいと の志向性 を学 んでいる。教育の社会史が出現す る契機 となった もの は,196 0 年 代以降の世界史的 な教育構造 の変化 に対 する鋭 い危機意識 であった。多 くの教 育 の社会史家の課題意識 の背後 には,現代教育 の社会的 ・政治的批判 を展開す るために,歴史研究か ら抽出 した洞察 を活かそ うとす る志向性 がみ られ る。一 言 でいう な らば, ( 近代)教育の批判的再考 ということである。
以上 の ような研究動向 は 19 世紀 の教育史 にも妥当す る。
かつての民衆教育史家 の課題意識 は ( 現在) の擁護 とい う点 にあった。その 研究 は教育 につ いて現代 の議論 が疑問 を投 げか けている前提‑ 近代公教育制
〔
1
1 〕度 はプログ レッシヴである‑ にもとづ いていた。 したが って, リベ ラルな歴 史学伝統 に依拠 す る歴史家 は,初等学校政策 ・制度の史的展開の中 に,子 ども の教育機会 の漸進的拡大の基礎 を読 み取 ろうと した。 リベ ラルな教育史 では, 近代公教育 は労働者階級 の ためにフォーマルな学校教育 が,国家 と教会 の連合 あるいは競合 を通 じて提供 され る ものと捉 え られていた
。いうな らば, それ は 20 世紀 の福祉 国家 デモ クラシーの発展 を跡づ ける試 みであった。 この視角の も とで は,福祉 国家 デモ クラシー とい うイデオ ロギーに摘 め と ら̲ れて,「 教育」
概念 は著 しく限定 され,当然 の ことなが ら研究 は政策 ・制度史へ と過度 に集中 していった。
この研究視角 の もとで は教育主体 と しての労働 者 が語 られ る ことはまず な い。教育 の社会的要請 が,親 たる労働者 の教育要求 とい う形 で表 出 され る可能 性 を探 り出す道 はその は じめか ら閉 ざされていた。労働者 は 「 教育 の進歩」 の 前 に立 ち塞 が る妨害者 であ り,せ いぜいの ところ慈恵的 ミ ドル ・クラスが提供 す る 「 教育」 の無 関心 で受動的 な消費者 と して性格づ け られている。
この ような労働者像 はなにも後世 の歴史家 による担造 ではない。 ヴ ィク トリ ア朝 の公的史料 の無批判的受容, 公的言説への絶対的信頼 にもたれかか る限 り, その ような像 を結 ぶの はきわめて 自然の成行 きで ある。そ もそ も,当時の教育 改革家 ・行政官 らは く 教育 ‑学校) とい う教育戦 略 に規定 されてお り,子 ども が学校 に通 っていないと,子 どもは教育 されていない, との確信 に凝 り固まっ ていた。 この先入観 に支配 された彼 らは,学校以外 に子 どもたちが利用 できた 教育 ‑学習形態が存在 した ことに気づ きもしなか った。 たとえ気づ いたと して も, それは彼 らにとって 「 教育 」 ではな く,否定 すべ き対象 で しかなか った。
なにゆえ ( 教育 ‑学校)が この ように時代 の前面 に躍 り出てきたのだろうか。
183 0,40 年代 という教育危機 の時代 に公刊 され たブルー ・ブ ック,統 計協会 の教育調査報告書 ,教育評論 がその狙上 に載せたのは,学校教育 問題 にとどま らなかった。 ( 1 ) 異常 と もいえ るほどの熱意 を もって, ミ ドル ・クラスが批難 の ( 1 ) Ri c ha r dJ ohns on,̀ El eme nt a r yEduca t i on:TheEducat i onoft hePoor e rCl as s e s '
i nGi l l i anSut her l a nde tal .( ed. ) ,Educ at i o ni nBr i t ai n( 1 977) は公 的史料 の解読 ・解
釈 への好 ガ イ ドで ある。
1 9 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 についてのノー ト 1 3
対象 としたの は,彼 らの眼 には了解不能であった労働者の生活 ・行動様式‑
労働者 に固有 な機関,民間伝承,慣習,心性 など」 である。その告発事項 を 数 え上 げればき りがない。まさに告発のオ ンパ レー ドである。なにもこれは ミ ドル ・クラスの精神異常ではない。一言でいえば,労働者階級固有の ( 文化) が批難の槍玉 に上 げ られたのである。もちろん観察者 ・報告者 はそれを ( 文化) と認識 し得 たわけではない。 ミ ドル ・クラスの多 くの人 びとにとって,労働者 は話 したこともない異人種 であった。 自ら労働者街 に足 を踏み入れ る機会 も, そ して気概 も持 ちあわせていなかった彼 らにとって,労働者の収入,教育,住 居,衣服, ことばづかい,家庭情況 は自らの了解能力をはるかに超 えるもので あった。だか ら,それを眼の前 に突 き付 けられた際に,彼 らは戸惑 い,その異 様 さに恐れおののいたのだ。
教育への ミ ドル ・クラスの期待 は,新 しい市民社会的秩序への馴化 に容易 に 応 じない労働者階級文化の 「 粗雑 さ 」 「 頑固 さ」への対応 にあ らわれている。「 粗 雑 さ 」 「 頑固 さ」を除去する要求 と同様 に,その文化 を媒介 と して生 まれて くる,
イ モラリ テ イ
市民社会の支配的 イデオロギーの浸透 を拒 むものへの恐れ は,親 の 「 不道徳 」
への告発 ・批難 と,文化的再生産機能 を学校 によって置換 する試みの背後 に存 在 した。市民社会の統括者 であるブルジ ョアジーにとって,市民社会的秩序の 維持 ・再生産 のためには, この ( 文化) そ してその再生産 の回路 を断ち切 って お くことが緊要 な時代的課題 であった。なぜな らば, この ( 文化) は一定 の自 律性 を保有 し,市民社会の支配的 イデオロギーへの同化 を鋭 く拒否する志向性
を含 む社会規範,生活習慣,行動様式,心情,心性 に支え られてお り,資本主 義社会 の秩序 に撹乱的影響 を及 ぼす可能性 を学んでいたか らである。
ブル ジ ョアジーが躍起 となって確立 しようと した学校教育は,いわば再教育
の任 を負わされたものであ り,子 どもたちや親の世代 を育 んだ ( 生活圏) か ら
子 どもたちをひきず り出 し, ( 生活圏) に対 す る初源的忠誠 を除去 ・抹殺 す る
大規模 な試みか ら構成 されていた。 ブルジ ョアジーの視座 か らは , 「 堕落 」 し,
矯正不可能 な親の世代 の 「 罪」 は,文化的再生産である階級的そ して 「 道徳的
罪 」 であった。学校 と教師の役割 は親 の世代 の 「 道徳的罪」か ら子 どもたちを
救済 し,文化的再生産 の回路 を遮断 し,ヘゲモニー手段 をブ) I ,ジ ョアジーの掌 中に握 り,市民社会的 イデオロギーの浸透 した労働者 の新世代 を大量 に生み出 す ことであった。
ブル ジ ョア ・イデオロ‑グにとって,社会問題の元凶は社会 ・経済制度の矛 盾 にではな く,労働者 の個人的性格 に見出されるべきものであ り,労働者の道
′徳的頼廃へ と問題 は転嫁 されている。 ヴィク トリア朝の一大社会問題であった 貧困 も犯罪 も 「 道徳 」 問題, したがって教育問題 と して語 られるのが常 であっ た。 もちろん第一義的解決方法 は救貧法 と刑法典の改革 とその実施 であった。
しか し,予防 は治療 よ りは安上が りで, ヒューマ ンであるので,民衆学校教育 が貧困,犯罪 そ して諸 々の社会問題 の万能薬 として浮上 して くる。 ( 2)
ソ ーシ ャル・ コント ロ ー ル
したがって,近代公教育学校 は 「社 会 統 制 」 機制の重要 な一領域 を構成 するものである, との説 は一定 の妥当性 を持つであろう 。( 3)
しか し , 「 社会統制」概念 自体 は構造‑機能主義モ デルであ り,そのモデ) I , は搾取 を基盤 と した敵対する階級制度 についてではな く,個人 と社会組織体 と の間の相互作用モデルにとどまってお り,マルキス トあるいはセ ミ ・マルキス トの資本主義発展理論 とそれとを結 びつ けようとする試みは,不幸 な結果 を招 くであろう, との批判 に晒 されている。 ( 4)
また, 「 社会統制」概念 の歴史への適用 は, しば しば立法 ・行政意志 とその 意志の受容 とを混同す る危険性 を学んでいる。すなわち,階級支配 を企図 し, それを具現化できる立場 にある一握 りの立法家や行政官の意志,その意志が反 映 した法律 ・制度の意味 を過度 に強調 しがちである
。この ことの裏がえ Lと し て,上か ら提供 されたものに対する労働者階級の子 どもや若者 たちの草の根 の
( 2) Ri c ha r dJ ohns on,̀ Educa t i ngt heEduc at or s:" Expe r t s "a ndt heSt a t e 1833 ‑ 9 ' ,i n A. P.Dona j gr odz ki( e d. ) ,So c i alCo nt r o li nNi ne t e e nt hCe nt ur yBr i t ai n( 1 977)
( 3) 「 社会統制」としての教育という観点から当時の教育を扱った典型的論文として, Ri cha r dJohns on,̀ Educa t i onalPol i c ya ndSoci a lCont r oli nEa r l yVi ct or i a nEng‑
l a nd' ,Pa s ta ndPr e s e nt ,no.49( 1970) ,Rober tCoi l s ,' OhI I a ppyEngl i s hChi l dr en!:
Coal ,Cl as sa ndEduca t i oni nt heNor t h‑ Ea s t ' ,Pa s ta ndPr e s e nt ,no.73( 1976)
( 4) Ga r e t hSt edma nJone s ,' Cl as sExpr e s s i onve r s usSoc i a lCont r ol ? ' ,Hi s t o r yWo r k ‑
s h o p ,4( 1977) ,p.167.
19 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 についての ノー ト 15
反応が無視 され,労働者階級 が ブル ジ ョア意志の浸透 した法律 ・制度 の攻勢 に 括抗 し, あるいは支配 的文化 か ら独立 して,彼 ら独 自 ・固有の文化,それに基
く教育慣行 を産み出す ことがほぼ不可能であるというように,きわめて一面的 に 「 ヘゲモニー」 の解釈がなされている。
子 どもそ して親 はブルジ ョアジーの意志通 りに練 り上 げることの可能 なパ テ で はなかった。「 社会統制」 と しての近代公教育学校 の 「 受 け手」 たる労働者 階級 は,そこに盛 られた意志,奨励 された価値 を自動的 に吸収 したわけではな い。彼 らは提供 された商品‑学校教育 を自らが依拠する ( 生活圏) 内に繰 り込 み,許容 できる部分 は受容 し,許容 できない部分 に対 しては敵対 ・排除あるい はその意図を自分の利益のために歪 めるなど して, 自らの教育意志 を実現 して いたのである。 ( 5) 立法 ・行政 による教育意志 お よびその具体化 と,労働者 階級 によるその意志の受容 との間の相勉 ・争いの背後 に,家族 や労働者 階級地域共 同体が育んだ価値,行動様式 そ して固有の教育慣行の存在 を読み取 ることも可 能である。
このような視角か らすれば,教育 ‑学習に対する労働者階級 の受動性 ・アパ シー説 と,公的 に提供 された学校教育のみが価値 ある唯一 の教育形態であると の前提 を疑問視す ることが,平板 に流れやすい教育史 を超克するの に有効性 を もつ一つの接近方法 である ことが理解 で きよう。 ( 教育 ‑学校) と ( 非教育 ‑ 学校以外の生活総体) が画然 と疎隔 ・分離 されてお らず,融和 していた時代の 教育相 にもうー度 目を凝 らす ことによって,社会の基層 に流れている労働者階 級 による教育慣行 と学校教育 との関係 を見定 め,学校教育 に対す る無関心 ・嫌 悪 ・敵対 を,教育 ‑学習 に対するそれ を表現 したものとみなす考 えを疑 うこと か ら,新 しい歴史像 を獲得す る地平が切 り拓 かれるはずである。 ( 6)
( 5) Phi l l i pMcCa nn( e d. ) ,Po pul arEduc at i o nandSo c i al i z a t i o ni nt h eNi ne t e e nt hCe nt ur y ( 1977) 所収 の諸論文 は 「 社会化」概念 の教育史への適用 であるが,教育提供者 の意 図と受 け手 たる労働者の受容 との間 に乗離があったことを指摘 している。
この側面か らの 「 社会統制」概念 の不備 につ いては, F,M. L .Thomps on,̀ Soc i a l Cont r oli nVi ct or i a nBr i t a in' ,Th eEc o no mi cHi s t o r yRe v i e w,vol .34,no.2( 1981) 参 照 。
( 6) 70 年代以降, この ような視点 はニュ‑ ・レフ トの史家 を中心 に共有 されていった.
結論 を先取 りしていえば,労働者階級 は独 自 ・固有 の教育価値意識 ・目標 ・ 慣行 を保持 してお り,制度化 された学校教育への括抗 ・対抗 は, このような労 働者階級 内の文化傾向 によって育まれたものである。また, この階級文化 は公 的教育機 関に括抗 ・対抗 する自らの統制下 にある教育領域 を創 り出 し,公的教 育機関か ら独立 した教育活動の網状組織 を産 み出 していた。
したが って,近代公教育学校 は知的 にも道徳的 にも貧 しい階層 に初等教育 を 供与するということで はな く, 利用可能 な教育 ‑学習形態 を保持する階層への, 特殊 な教育形態 の強制 である, ともいえよう。近代公教育制度 の発展の速度 と 形態 は,その受 け手 たる労働者階級の背後 に存在 した教育価値意識 ・目標 ・慣 行 との間の,公然 ・非公然の根深 い相魁 ・争 いによって直接 ・間接 に影響 を受 けた ものであ る。近代公教育学校制度 が 「 教育」 の代 名詞 となる支配的体制
‑ 労働者階級 固有の 自主的教育形態が国家 によって監督 ・統制 された近代公 教育学校形態 にとって代 わ られる過程‑ は,労働者階級文化基盤 の上 に依拠 する教育網状組織 の歴史的 ・論理的衰退 と,国家 による執劫 な攻撃 による網状 組織 の分断 ・破壊が達成 されるまで,完全 には達せ られなか った。
以下,労働者階級文化内の教育態様 とそれが依拠す る基盤,労働者の知的上 昇 と文化 との関係,そ して近代公教育 による労働者階級文化の変容 を,きわめ
て粗 いスケ ッチではあるが,提 出 してみたい。
Ⅰ 家族 仕事場 地域社会
教育 は家族の経済的利益 と子 どもの教育利益 との間のせめぎ合いの渦の中に プライ マリ・ ポウァ テイ
存在 した。労働者家族 の うちで,常時 一 次 貧 困 を免 れているのは, 7家族 の うち 1家族 で しか な く, ( 7) 子 どもの労働収入 は家族 の生活水準維持 に決定的 影響力 を及 ぼ した。
この経済的圧迫の中で,子 どもを学校へ通 わせるためには,親 は授業料の支 払 い,そ して子 どもの労働収入 を失 うという二重の経済的痛手 に耐えなければ
( 7) ∫ .0. Fos t e r ,̀ Ni ne t ee nt h‑ Ce nt ur y Towns ‑A Cl as sDi mens i on' ,i n Ⅱ・J・Dyos
( ed. ) ,Th eSt ud yo fUr b anHi s t o r y( 1 968)
1 9 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 につ いての ノー ト 17
な らなか った。それゆえ,読 み書 きとい う基礎的技能ので きるだけ早 い習得 は, 親 が支払 う授業料 を節約 できたばか りか,家族収入への子 どもの寄与 をもた ら
した。
ただ し,学枚教育機会の享受可能性 は家族規模 によって, あるいは少年 と少 女 とで は差異 がみ られ る。少女 は年長 になれ ば家事の切 り盛 りを手助 け し,母 親 の代替 ともなったので,少年 よ りも学校教育 の期間 は短 くなる傾 向がみ られ た。また,家族 内での,あるいは家族 の ライフ ・サ イクル上 での子 どもの位置 によって も,教育機会 の享受可能性 はちがってきている。家族 の ライフ ・サ イ クルか らいって も,長子 よ りも長子 らの労働収入 によって家族 の経済的安定 が はか られ る時期 に教育期 を迎 える末子 の方 が,教育機会の享受可能性 は当然 の ことなが ら高 い 。( 8)
さらに,重要視 され るべ きは,労働者階級 の間 にメ リ トクラシー的 な考えが ほとんどひろま りをみせていなか った ことで ある。学校 よ りも総体 と しての生 活 にこそ教育 は宿 っている, との根強 い考 えがそ こにはみ られる。労働者階級 の間で は,教育 はもちろん本か らの知識習得 を内に含 んでいるが, それ は周縁 的地位 を占めるもので しかなか った。教育 とは一人前 の大人 になる過程 の諸 々 の もの を含 み込 んだものであ り,核 となる関心 は子 どもに稼 ぐことを学 ばせ, 経済的 自立 を教 えることであった。少年 たちが働 く父親 を見習 いなが ら,仕事 を覚 え,一人前 の働 き手 となる過程 が労働者 の間では強調 されている。親 は子 どもたちがそ うすることによって 「 学校 で得 られる教授 よ りも,将来 の世俗 的 運命 に関連 す る, よ り価値 の ある一種 の実業教育 」 ( 9) を受 けていると信 じてい
たか らである
。実 際に,学校 よ りも生活過程 内に教育 が宿 っている時代 の中では,学校 が識 字 と知識 をひろめるの に演 じた役割 はけっ して独 占的 なものではなか った。 し
たが って,近代公教育学校確立以前の識字率の源泉を探 るに際 して,学校教育 ( 8 ) John S. Hu r t ,El e me nt ar ySc h o o l i n ga n dt h eWo r k i n gCl a s s e s 1860‑1918( 1979) ,ch̲
Ⅰ Ⅰ . 参照。
( 9 ) Ce n s uso f Gr e atBr i t a i n/Re po r t sa n d Tab l e so nEd uc at i o ni nEn gl a n da nd Wal e s
( Edu c a t i o nCe n s u s ,1 851 ) ,p. p.1 852‑3,XC ,p. x l .
が識字 を産 み出 した, との前提 に立つ限 り,解答 を探 りあてる ことは土台無理 である。義務教育制度確立以前 は,制度的アプローチをとっている歴史家が考 えている以上 に,親,縁者 そ して友人が子 どもに対 して決定的 ともいえる最初 の教育的影響力 を行使 していたか らである 。( 1 0 )
労働者の 自叙伝 の内容 はその ことを如実 に示 している 。 1788 年生 まれのバ ン フ ォー ドは親 か ら 「 毎 日一種 の炉辺教育 」 を施 された。将来の急進主義者 に政 治 に対す る性 向を植 えつ けたのは,彼の父親‑ 織布工 ,ペ インの信奉者,か っ ての私営学校 の教師‑ であった。バ ンフォー ドは学校 よりも家庭 で多 くを 学 んだ典型 的 な例 である 。( ll) 1800 年生 まれのチ ャーテ イス トであるラヴェ ッ ト の教育経験 は,厳格 な規律励行者 であるメソデ イス トの母親,そ して彼 に読 み 方 を教 えた 80 歳 になる曾祖母 によって始 め られた。彼 はアルフ ァベ ッ トを習得 す る以前 に,街のすべてのおばさん学校 に通 わせ られた経験 を もった。 ( 12)
これ らのいわば労働者 インテ リゲ ンチ ャアの教育経験 は 19 世紀半 ばまで存続 し, もの言 わぬ多 くの人 びとによっても共有 されていた。 たとえば,児童雇用 委員会 の初期 の報告書 は,個 々の家族が子 どもたちに基礎 的識字 を獲得 させ る の に,いか に格 闘 したか を垣間みせて くれる
。「( たいへ ん よ く)読 む ことがで きる。 自分 の名前 が書 ける。彼 の父親 が 彼 に教 えた。炭坑 へ下 りる前 に 2 年余 り学校へ通 った 。 」( 1 3 ) (J dhnKi nsl er)
「 1 2 歳 である‑‑私が炭坑へ入 ったの は 9 歳 の ときであった。‑‑‑私 は少 し だ け読 み書 きが で きます。 ・ ‑‑両親 に よって, そ して学 校 で習 った 。 」 ( 14)
(w i l l i am Ar nol d) 「 炭坑で働 く以前 に全 日制学校 に通 った。‑‑私 は (た ( 1 0 ) 識学率の最近の研究については,さしあたって W. B.St e phe ns ,St ud i e si nt h eHi s ‑
t o r yo fLi t e r ac y:En gl andandNo r t hAme r i c a( 1 983) 参照。
( l l ) SamuelBa mf or d,Ea r l yDa y s ,2nded.( 1 859) ,pp.2.41,4314,quot e di nRi cha r d Johns on
,̀ ̀ Re al l yUs e f ul革nowl edge"‥Ra di ca lEduca t i onandWor ki ng‑ Cl a s sCul ‑ t u r e,1 790‑1 848' ,i n J ,Cl a r kee tal .( e d. ) ,Wo r ki n gCl a s sCul t ur e( 1979) ,p.80.
( 1 2 ) Wi l l i a m Love t t ,Th eli feandSt r u g gl e so f Wi l l i am Lo v e t t ,Fi t z r oye d. ,ed ,R .I.
Ta wne y( 1 967) ,pp.1 ‑6.
( 1 3 ) p.p.1 842[ 381 ]xvi ,C E.C . ,p. 605,quot edi nPhi lGa r dne r ,Th eLo s tEl e me nt ar y Sc h o o l so fVi c t o r i a nEn gl a 7 u i .( 1984) ,p.99.
( 1 4 ) p.p.1842[ 381 ]Ⅹvi . C . E .C . ,p.677,quot e di nPhi lGa r dner ,o p.c i t . ,p.99.
1 9 世紀英国の労働者階級文化と教育態様 についてのノー ト 7 9
いへ ん よ く)読 め ます し,少 し書 くことがで きます。私 は現在 家庭 で習字 帳 で学 習 して い ま す 。 」( 15) (w i l l i am Fl 。wi t) 「 現 在 学 校 に通 っ て い ま せ ん
‑‑・ 働 きに出 る以前 にか な り長 く全 日制学校 に通 いま した。 しか し読 み方 は ほ とん ど家庭 で習 いま した 。 」 ( 16) (El eanorScr owt her)
これ らの事例 は,子 ど もの興 味 や関心 を喚起 す るの に, そ して性 格 を形 成 す るの に親 の影 響 力 がす こぶ る重 要 で あった, とい う一般化 以上 の ことを示 唆 し て い る。父親 が子 ど もに読 み方 を教 え る ことがで きた歴史 的前提条件 と して, 識字 が世代継 承 され て いな けれ ばな らな い し, その世代 的再生産 の ための時空 間が確 保 され ていな けれ ばな らない。 この歴 史 的前提条件 が生 き残 って い た こ との意 味す る ところ はきわ めて大 きい。
この ことを理解 す るため に は,少 し眼 を転 じて,当時 の労働者 の家族構 造 に 触 れ てお いた方 が よいであ ろ う 。( 11 7 )
農業 や農村 家 内工業 で は父親 は家長 と して家族 を統 率 し,仕事全 体 を監督 し た。子 ど もた ちは父親 の傍 で幼 い年齢 か ら父親 を手助 け しなが ら , 「 労働」と 「 遊 び」 の境界 を意識 す る ことな く職業技 能 を習得 し,文化 を継承 し,一 人前 の大 人 とな るための訓練 を受 けて きた。 この よ うな時代相 で は家庭 は しつ けや道徳 訓練 の場 と して も充分 に機能 して い た 。( 18)
( 1 5 ) p. p.1 8 42[ 382]Ⅹvi i , C.E. C . ,p.1 40,quot e di nPhi lGa r dne r ,o p. c i t . ,p.99.
( 1 6 ) p. p.1 843[ 432 ]Ⅹ V ,C.A C . ,p.11 9,quot edi nPhi lGa r dne r , o p . ci た ,p.99.
( 1 7 ) 当時の家族構造については以下の著作参照。 N. J. Smel s e r ,So c i alCh a n ge i nt h eI n ‑ du s t r i a lRe v o l ut i o n: An4秒t i c a t i o no f Th e o r yt ot h eBr i t i s hCo t t o nI nd us t r y( 1 959) . Mi c ha e lAnde r s on,Fami l ySt r u c t u r ei nNi ne t e e nt hCe 7 1 t u r yLa nc a s h i r e( 1971 ) .Da v id Vi nc e nt ,Br e a d ,Kno wl e d gea n dFr e e d b m:ASt u
dyo fNi ne t e e nt hCe nt ur yWo r k i n gCl a s s Aut o b i o gr a ph y( 1 981 ) .
( 1 8 ) いささか郷愁にか られてはいるが,手織布工家族の次のような描写はこのことを示 している。
「 糸巻きに糸をまく小さい子 どもた吾o 少 し年かさの子どもたちはきずがないか見張っ たり,織った布地をよりわけたり,梓を広幅の織機に入れるのを手伝ったり̲ している。
第二,第三の織機を動か しているのは若者たちだ。妻は家事のあい間に織機のまえに すわる。家族はいっしょだった。そして,たとえどんなに貧 しい食事であれ,少なく とも好きな時間に顔 を合わせて食卓 を囲むことができた。 」
「 私の仕事は織機のそばであり,父親は糸を巻いていない時には私に読み書き算術 を教えてくれた 。 」 (E. P.Thomps on,Th eMa k i n go ft h eEn gl i s hWo r k i n gCl a s s .Pe n‑
gui nBooks( 1 968 ) ,pp.321 ,339, )
もちろん,産業資本主義の確立の過程 の中で,生産単位 と しての家族 は消 え 失 せ る運命 にあった。 しか し, その崩壊 の過程 は ドラステ ィックに進行 したわ けではない。産業革命 の基幹産業 である綿工業 では,家族単位 の雇用 が浸透 し てお り,父親 が紡績工 の場合, 自分 の子 どもを清掃工 そ して糸つむぎ工 と して 雇 用す る慣習がみ られ た 。( 19) この雇用関係 の もとでは,か ろう じて父子間の職 業技能伝達機能が温存 されてお り,父親 は子 どもを自 らの監督下で訓練 する こ
とができた し,子 どもにとって も親 は温情的 な職業技能伝達者 と して立 ち現 れ ていた。
最 も資本蓄積 の進行 した綿工業 において も,家族単位 の雇用 が生 き残 ってお り,必 ず しも労働 に対 す る資本 の意志 は工場 の隅々にまで浸透 していたわけで はなかった。 ま してや資本蓄積 の遅 れた産業部 門 はい うまで もない。労働者 に とって伝統的 ・防御的緩和策 であれ,依然 と して資本 の意志か ら自律 した時空 間 を持 ち得 る可能性 は限定つ きなが ら残 されていたといえ よう。その可能性 の 基盤 はきわめて脆弱 であ り,歴史的 ・論理的 に開かれてい く存在 ではなか った に して も, この ような時空間の ひろが りこそ,文化の世代的再生産 を可能 に さ せ た基盤 であった。
ちなみ に,工場 での父子 の雇用関係 の もとでの家族構造 は, それ以前 の農業 や農村家 内工業 の家族 と比較 す ると,若干 の重要 な点 で差異 を示 していた。
工場労働 は家庭 か ら父親 を引 きず り出 した。その結果,かつ て家庭 内で父親 が子 どもに対 して行使 す ることのできた教育力 は希薄化 し, と りわけ,入職年 齢以前 の幼 い子 どもたちの社会化のかな りの部分 は母親 の手 に委 ね られた。 し
たが って,職場 での社会化 と入職以前の社会化 は父親 と母親 との間で家 内工業 よ りも一層鮮 明 に分化 した。また,母親 が経済的貧窮 ゆえに家庭外労働 に従事 した際 には,母親 の代替 である子守 り ・子育ての機関の発展 を促 す契機 とな っ
た 。( 20)
( 1 9 ) ただし,すべての紡績工が糸つむぎ工として適切な年齢の子どもを持っていたわけ ではない.( Mi chaelAnde r s on,̀ Soc i ol ogi ca lHi s t or ya ndt heWor ki ng‑ Cl as sFa mi ‑ l y:Smel s e rr e vi s i t ed' ,So c i alHi s t o r y ,3.( 1 976) )
eo ) I b i d "p. 322.
1 9 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 につ いての ノー ト 21
また,家内工業家族 では父親 は労働 ・余暇時間 を決定 し,子 どもの適性 ・能 力 ・体力に応 じて仕事 の強度 ・速 さを加減 し,父親 が適切 と考 えれば漸次高度 な職務役割 へ と子 どもを昇進 させ ることができた。父子 の雇用関係が浸透 した 工場 では,父親 は子 どもの労働 に統制 を及 ぼす ことはどうにかで きたものの, 労働時間 は資本 によって規 定 されてお り,仕事 の速 さや雇用 す る補助労働者数 は生産過程 によって大 き く規定 され,父親 や子 どもの行動,昇進 に関す る規則 は雇用主 によって規定 され,父親 の役割 は従属的 なもの とな らざるを得 なか っ
た
。( 21)
だが,家族 の経済的紐帯 を希薄化 させ るこの経済 システムに もかかわ らず, 労働者家族 は崩壊 したわけではない。逆説 め くが,貧 しさがかえ って家族 の紐 帯 を強化 し,一種 の親和性 さえ もか もし出 した,といった らいいす ぎだろうか。
農村共同体 の崩壊 に伴 い,頼 る者 とてな く工業都市 に流入 して きた幾多の労 働者 にとって, 日々の生活不安 は大 きか ったにちがし \ない。国家 による福祉制 度 が整備 されている現代 とは違 い,子 どもの誕生 ,貧 しさゆえに妻 が働 きに出
あ としい
た際の子守 り ・子育 て,失業,病気,死 などは家族 を即座 に経済的危機 に 陥 れ,解体 に追 い込 む衝撃力 を持 っていた。誕生か ら死 に至 るまでの ライフ ・サ イクル上 での生活危機の衝撃 を最小限度 に食 い止 め,経済的 ・心理的不安 を解 消す るために,労働者階級 は日常的 レヴェルで血縁 や地縁 とい う人 と人 との結 びつ きを積極的 に求 めていた。たとえば,子育て において,労働者階級家族 に 同居 している祖母 や血縁 が大 きな役割 を果 た していたことか らも推察 されるよ うに,都市 の労働者階級 は三世代家族 な どの拡大家族 を形成 し, この危機 に対 処 しようと していた。 ( 22)
家族 を中心 と した人 と人 との結 びっ きの強 さは,近隣集 団にまでひろが りを みせていた。労働者街 は住民個人個人が相互 に切 り離 された, ア トム化 された 寄せ集 めの集団で はな く,住 む人 びとの紐帯 の濃密 な,一種独特 の親和性 と自 律性 を持 った社会 を形づ くっていた。労働者街 は 「 通 り」 を単位 と して形成 さ
el ) I b i d "pp. 322‑323.
¢2 ) Mi c ha e lAnder s on,Fa mi l ySt r uc t ur e … ,c h.1 0.
れてお り,同 じ 「 通 り」 には同姓 や同郷 の人 びとが肩 を寄 せ集 めて住 み,困難 にぶ ち当 たった際 には,援助 の手 を差 し伸 べ て くれ る 「 同 じ仲 間」 と して,荏 済 的 ・心理的不安 への緩衝壁 となっていた。
親和性 そ して人 と人 との秤 が強 い労働者街 で,子 ど もは同輩集 団のなかで操 まれ,青年 と して大人へのステ ップを踏 み,一人前 の労働者階級 の一員 とな っ てい った。周 囲 に注意深 く監視 ・管理 の網 の 目を張 り巡 らされた ミ ドル ・クラ スの子 ど もとはちが い,労働者 階級 の子 どもは一種 の 「自由」‑ それ は貧 し さを常 に伴 って い る もので あ り, 「 解放」 を意味 す るわ けで はない‑ を享 受 で きた。
労働者 階級 の子 ど もたちにとって, うす汚 れ た街 , そ こに育 まれ る人 と人 と の結 びつ きこそ彼 らの 「 学校」 であ り,子 ど もたちは同輩集 団 を媒介 と して, 労働者階級独 自の生活 ・行動規 範 ,心性 を獲得 し,親 と同 じ階級 ,労働者階級 共 同体 へ の帰属意識 を自 らの もの と していったのである。 ( 23)
Ⅱ 労働者階級私営学校 日曜学校
労働者 階級 の教育経験 は一様 で はない。教育 は生涯 の凝集 された時期 ‑ ( 千 ど も時代)を包摂 す る ものではなか った。教育が家族経済 に従属 している結果, 子 ど もにとってせいぜ いの ところ学校教育 は断片的 な教育経験 にとどまって い
た 。( 24)
「 ‑‑かな り上手 に書 くこと, そ して算術 とカテキズムは少 し習 った。そ し て これが学校 で習 うべ きと されてい た範 囲 で ある 」 ( 25) とラヴェ ッ トが述懐 し ているよ うに,恵 まれ た子 どもさえ識字 と算術 の初歩 が学校 で彼 らの学 んだす べ てであった。
¢3 ) 時代 は下 るが 1 9 世紀 末か ら 2 0 世紀初頭 にか けての少年 ・青年 の同輩集 団 につ いて は, St e phe nHumphr i es ,Ho o l i ga n so rRe b e l s?IAnOr a lHi s t o r yo f Wo r k i n g‑ Cl a s s Ch i l d h o o da n dYo ut h 1 889 ‑1 9 39( 1 981 ) 参照。
如 ) ある国教会系の学校 では,在韓 ( 登録 )年数 は 3 4 . 5 ケ月であ り ,6 1 %は 3 年 を越 え な かった 。 ( Ber ylMa doc‑ Jone s ,̀ Pa t t er nsofAt t enda ncea ndt hei rSoci alSi gni f i ‑ c a nc e,Mi t cha m Na t i onチ lSchool 1 830‑39'i nPhi l l i pMcCa nn( e d・ ) o p ・ i i t . ,p・45・ )
¢ 5 ) Wi l l i a m Love t t ,o p.c a t . ,p. 4.
19 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 についての ノー ト 2 3
ただよ
しか し,労働者階級 は貧 しさの中 に防径 う学校教育 の単 な る受 け手 で はな か った。労働者階級地域共同体 は学校教育 に対 して積極的な教育要求 ・意志 を 持 ち, イニ シアテ イヴを発揮 してお り,教育の展開過程 は国家,教会 ,慈恵団 体 という外部の諸組織 によって労働者階級地域共同体 に外か ら押 しつ けられた 商 品の一面的受容 で はなか った.その イニ シアテ イヴは労働者階級私営学校 (wor ki ngcl a s spr i va t es c hool s )の簾生 そ して公営学校への対抗 ・敵対関係 の中に読 み取 ることができる
。( 2月)
労働者階級私営学校 は文化的 にも空間的にも地域共 同体 内か ら湧 き上がった 教育形態 であ り, その教育要求 に応 える存在 であった。私営学校の財政基盤 は 親 の支払 う授業料 に全面的 に依拠 してお り,地域共同体 の教育要求 に応 えない 限 り,経営 ・運営 は不可能であった。 したがって,地域共同体 は学校 の教育 内 容 ・方法 ・組織 に対 して一定程度 の支配 ・統制力 を保持 ・行使 することが可能 であった。それは二大協会系の公営学校 では認 め られるはずのないものであっ
た 。
私営学校 の教師 は地域共同体 の一員 であ り,子 どもを学校へ通 わせ る親 たち の友人そ して隣人であ り,学校 の使用者 と同一の ( 生活圏) を共有す る人物 で あった。教師 になるには特別な資格 を必要 とはせず, 日常的読 み書 き能力とそ れ を伝達 する技能 が基本的要件 であった 。( 27 ‑ ) また,地域共同体 にとって価値 を もつ知識 の持 ち主 と して,教師 は地域社会 に対 して子 どもの教育 をこえて重要
e6 ) 労働者階級私営学校 は,一連 の公的報告書で批判 の槍玉 にあげられ , 「おばさん学 校 ( da mes c hoo l s) 」 「 粗末 な全 日制学校 ( c o mmo nda ys c ho o l s) 」 という蔑称 で呼 ばれている学校 である。「おばさん学校 」 「 粗末な全 日制学校」 というカテゴ リー自体 は, ミ ドル ・クラスの調査者 による所産であって,当時の労働者階級私営学校 が自ら その ように名乗 っていたわ けではない。ミ ドル ・クラスにとって 「おばさん学校 」 「 粗 末 な全 日制学校」 は ( 非教育) のメタフ ァーであった。
ニューカ ッス) I / 委員会報告書 では,私営学校 は 2 6 , 0 0 0 校 ,5 7 3 , 5 7 6 名の在簿者 を擁 していたとされているが,公的統計調査 はいずれもその実数 を過小評価 していると推 定 されている。
私営学校 については, P. ガー ドナーの前掲書参照.
㈹ 教育改革家 たちは労働者階級内の教師の存在 を打 ち砕 こうと した。教職 は日々の生
活の他の領域 で必要 とされる技能か ら区別 された,特殊技能 を伴 う秘密 の領域 と して
神秘化 され,専門職化がはか られた。( P.Ga r d ne r ,o p. c i t . ,pp. 1 0 7‑1 08. )
な役割 を果 た していたことが知 られている 。( 28 )
既 に述 べ た ように,労働者 階級 の文化的伝統 は, ( 教育 ‑学校) と ( 非教育
‑学校以外の生活総体) とを画然 と分離 してはお らず,教育 ‑学習 は日々の生 活か ら切 り離 された異質 な時空間での活動ではなかった。その文化的伝統 に依 拠する私営学校 は労働者階級家族の教育機能 の拡大延長線上 に存在 し,そ こで の教育‑学習 は家庭的雰囲気の中でなされていた。公営学校 のカ リキュラムの 決定的部分 を構成する,労働者階級 の ( 生活 圏) とは異質 な く 道徳化) に拘束 されることな く,基礎的道具的技能習得 という目的 を中心 に して学習活動 が展 開 されていた。形式的規律,規則性 ・秩序 の強制 という ( 道徳化) の排除 は, 家族生活や日々の労働生活 に合致 していたがゆえに,労働者 は私営学校 を支持
したわけである。
したが って,私営学校 が労働者階級 の要求 にふ さわ しい教育 を提供 していた とするな らば,労働者階級 ( 生活圏) への道徳的攻撃 の最前線 と ミ ドル ・クラ スがみな した公営学校 に対 して労働者 が敵意 をもち拒否 した ことの理由は明 ら かであろう。 ( 29)
私営学校 に対する労働者階級 の支持 とその薮生 は,労働者階級家族 の暗黙 の 考 え‑ 自らの意志で 自らが望 む場所 ・形態 ・方法で子 どもたちを教育するこ
とができる‑ を反映 していた。
ただ し,私営学校への労働者階級 の支持 と公営学校 に対す る敵意 ・拒否 に, 政治的階級意識 にもとづ いた労働者階級 の教育意志 を読み込 む ことはいささか 困難があろう。私営学校対公営学校 の抗争 は 「 大 きな意味では,地域社会 に融 和 した前産業社会機関対外部か ら地域社会へ と押 しつ けられた近代組織 の抗争 であった 。 」( 30) との評価 にみ られ るように,私営学校 は現 われ出 る教育文化形
¢8 ) 遺言 の作成,代書 人, ス トライキの指導者 と して活躍 した事例 がある。 ( I b i d .p.
94.)
¢9 ) ハ ンフ リーズによれば権威主義的,官僚的学校教育への反対 は,三つの主要 な不満
に埠づいている。①義務化 は家族経済 に脅威 を与える.②組織的 ・抑圧的形態 は,労
働者の親が子 どもに与え ようと した自由 を踏 みに じった。③人格陶冶 を共同体か ら,
非人格化 された官僚的組織 へ と移 そうとした。以上の ことは家族の慣習的権利への侵
害 とみな された.( S.I I umphr i e s , o p. c i t "p.88.)
1 9 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 についての ノー ト 25
態 というよりも,残浮の防御的 ・継続的教育文化形態 であった。そこには,教 育活動 と政治活動 との明確 な結 びつ きはなか った し,発展する近代公教育制度 への理論的批判 ・反対 もみ られなかった 。( 3 1 )
労働者階級私営学校 と同様 に,労働者階級文化 に基盤 を持つ教育機関 として 日曜学校 が上 げられる 。( 32)
1 851 年 時点 で登録者数 210 万人 を擁 した日曜学校 は,その起源 を 1780,90 年 代 の福音 リヴァイヴァルにまで遡 ることができる。 この宗教的熱狂 は ミ ドル ・
クラスに限定 された現象 ではな く,その支持者 と して 日曜学校 が教育対象 と し た労働者 をも含 んでいた。その当初か ら日曜学校 は労働者階級地域共同体の土 着の機関 と してみなされていた。登録者数か らいって もあるいは学校所在地が 都市 に限定 されていなか ったことか らも,労働者階級の子 どもの誰 もが, 日曜 学校 の教育 を受 けたことを物語 っている 。1830 年後, ほとんどの労働者階級 の 子 どもたちは少な くとも日曜学校 で 2、3 年 間過 ご した,と推定 されている 。( 3 3 )
日曜学校 は財政 を労働者 が拠出 した基金 に依拠 してお り, ときには労働者 自 身 によって運営 されていた。ほとんどの教師 は労働者階級出身者であ り,かつ ての 日曜学校 の生徒 であった人 びとが 50% 以上 を占めていた。教師 は生徒 と同 様 の環境の中で学習するという苦闘を続 けてきた先達者 であ り, 日曜学校 での 教育 ‑学習 は相互扶助 と励 ま しをその過程 に含 む ものであった。 「日曜学校 は 労働者階級 の宗教 と希望‑ 幼 い弟妹 に習得 した技能 を伝達 したいという年長 の生徒の希望‑ の表現のための媒介物 であった 」 ( 34) といわれているように, 自らが習得 した技能 を後か ら続 く世代 に伝達す るという心性的文化 の象徴的存 在 であった。
( 3 0 ) Thoma sW.La que ur ,' Wor ki ng Cl a s s De ma nd a nd t he Gr owt h ofEngl i s h El e me nt a r yEduc a t i on,1 75011 850' ,i n L .St one( e d. ) ,Sc h o o l i n ga ndSo c i e t y( 1976) , pp,1 95‑1 96.
( 3 1 ) P. Ga r dne r ,o p.c i t . ,p. 4.
( 3 2 ) 日曜 学 校 の研 究 書 と して は, Thoma sW.La que ur ,Re l i gi o nandRe s pe c t ab i l i t y.
Sund a ySc h o o l san dWo r k i n gCl a s sCul t ur e17 80‑1 850( 1 976) が重要。
( 3 3 ) I b i d . ,p. 45 .
( 3 4 ) I b i d "p. 93.
子 どもたちの短期 間の学校 出席 を補足 する機関の一つ であった日曜学校 は, 教授活動 にほとん どの時間が充 て られてお り,労働者 にとって爽雑物 であった 朝会 や管理者 による訓戒が少 なか った。年齢 で はな く到達度水準 によるクラス 分 けが され,労働者 に悪評高 いモニ トリアル ・システムを用 いてお らず,教師 と生徒 との結 びつ きが強 か った。 それに公営学校 のように教会 出席,短髪,他 の規律 を押 しつ けることがなか った, という点 で労働者 階級私営学校 と軌 を一 に していた。
この結果, 日曜学校 での読 み方 の到達水準 は全 日制学校 での 1‑ 2 年 間の水 準 に相当 し, 日曜学校 でのみの書 き方 の到達水準 は全 日制学校 での 4 年 間 に匹 敵 した, と推定 されている 。( 35) 日曜学校 が人 びとをひきつ けた要 因 はそれが提 供 す る世俗 的教育 にこそあったといえよう。
その上,学校教育 にかか る費用 と潜在 的利益 という経済的観点か ら教育 を捉 えていた親 にとって, 日曜学校 は利点が あった。そ れは無償 で あ り,平 日の労 働 に抵触す ることがな く,家族収入 を減 らす心配 がなか ったか らである。
日曜学校 は急激 な経済的 ・社会的変化 が親 か ら子 どもを引 き離 した時代 に成 長 した教育形態で あるといわれ る。父親 は息子 に職業技能 を,母親 は娘 に家事 を教 えることがで きた一方 ,基礎 的識字 の伝承 は可能 で あったに して も,印刷 され たことばとい う非伝統 的技能 は伝達 が困難で あった時代 に,そのギ ャップ を埋 めるために日曜学校 は発生 し, ひろま りをみせた。 もはや個 々の親 が家庭 で与 えることので きない教育 を,親 たちは毎 日曜 日に子 どもを学校 に通 わせ る ことで得 ようと していたといえ よう。 この意味で, 日曜学校 は 1 9 世紀 における 教育活動の増大す る分化 の第一段 階 を示 す ものであった 。( 36)
この分化 は教育 ばか りでな く他 の領域 にも及 んでいた。古 い形態 の慈善,救 貧法 そ して地域共 同体 そ して家族 の インフォーマルなネ ッ トワークは,急激 に 脹 れ上 がる人 口の社会的要請 を次第 に満 たす ことができな くなって きたので, 日曜学校 は教育以外 の多様 な社会的活動 を展 開 した。 これ らは生徒 や教 師の親
( 3 5 ) I b i d . ,p. 1 23.
( 3 6 ) I b i d . ,p. 1 53.
1 9 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 についての ノー ト 27
切心 か ら発す る個 人的な行為か ら,かな り組織立 った病気,埋葬,服装 の各 ク ラブの活動 にいたるまで広範囲 にわたっていた 。( 37)
Ⅳ 知的上昇 と民衆文化
近代 的教育形態 を と りつつ あった学校‑ その中核 と しての公営 学校‑
が,労働者階級 の教育経験 に及 ぼ した影響の浸透度 はどの程度 の ものであった のだろうか。たとえば,学校教育 と識字率 との因果関係 は,産業構造 ,地域差 などの要 因が介在 してお り,錯綜 しているために,必 ず しも一様 で はないが, 1 9 世紀前半 において,その関係 はきわめて希薄 であったことが明 らか になって いる 。( 38) 労働者階級 の教育態様 は, フォーマルな学校 とい う教育形態 よ りも, 日常生活 の文化基層 に流 れ る教育慣行 に支え られていたか らである。家族,労 働者階級地域共同体 内に存在 す る教育形態‑ 労働者 階級私営学校 や 日曜学校 など‑ で教育 を保持す ることが歴史上可能 であった し,実 際 に労働者階級 は そ う していた。
教育 ‑学習 は労働 か ら隔離 された生涯 のある凝集 された時期 ‑( 子 ど も時代) を特徴づ ける活動 ではなか った。それ は日常生活のなかに滞然 と融和 した活動 であ り,子 どもか ら大人への成長過程 の中 に こそ存在 した活動 であった。
また,読み書 き能力の獲得 に して も,社会階層上昇 への要求 とい うような経 済的観点 か らのみ動機づ け られ たもので はな く,民衆 を取 り巻 く世界 に書 き こ
とばがある程度浸透 していたが ゆえに,機会 と必要性 が生 じた際 に獲得 され る ものであ り,その過程 は残 りの生涯 と有機的 に関連 した ものであった。ラーカー が指摘す るように 「 読 み書 きを習 う特定 の動機 は ,16 世紀以降民衆文化 を定義 づ けた意味の構造 との関連 で見 られな ければな らない。人 びとはこれあるいは あれ とい う特殊 な理由で読 み書 きがで きるようになったので はな く,書 きこと ばのみが可能 とす るコ ミュニケー シ ョンの力 に よって,生活のすべての領域 で 接触 されているか らそ うなった。したが って, 読 み書 きを習 う一つの動機 が あっ
( 3 7 ) I b i d . ,p. 1 72.
( 3 8 ) 拙稿 . 「 産業革命期 イングラン ドの識字率 と労働者階級教育態様 」 『 人文研究』第71
輯 ( 19 86 )ではこの点 を指摘 しておいた。
た。 これ らの技能 は社会的 コンテクス トの中で よ り効果的 に役 目を果 たす こと を男女 に許す。 この ことが外部 か ら提供 され る学校 がな くて も,なぜ土着的支 持状況が民衆 の識字の創造 と伝達 に責任 をもっていたか を説 明する 」( 39) もので
あった。
1 9 世紀 のは じめに労働者男女 の間で,識字能力がかな りなひろま りをみせて いたことは,突然の現象 ではなな く, それ以前 の世紀 に労働 貧民 の間で読む こ とので きる層 が確実 に増 えた結果である。実 際,労働貧民 は書 きことばとの接 触 を一世紀以上 も前か ら既 に持 っていた。読物,ブロー ドサ イ ド,チ ヤップブ ッ
クの存在 自体 が書 きことばを読 むとい う伝統 が あった ことの証 である。中世 か らバ ラー ドや昔話 とい う形態で継続 してきた口承文化 は,1 7 世紀末 か らその普 及 のために印刷 された ことばに依存 す る文化の一部 となっていた。確 か に,労 働者階級共 同体 は,その集合的記憶 に内包 されている以上 の歴史 は持 っていな か ったが,口承文化内で さえ も,個人 や集団の記憶 の忘却か ら保護 す るため, 書 きことばにす ることを してお り,読 みの伝統 がい くら希薄 な ものであろうと
も,労働 貧民 の文化 には口承文化 と同 じく書 きことば文化が あった 。( 40)
もちろん,口承文化 と書 きことば文化 との間 には,継続 の要素 ばか りでな く, 断絶 があった。 この ことは民衆文化 と教育 との関係 につ いて もいえ よう。
教育 はその過程 内 に当然 の ことなが ら知識 の獲得 を含 み, ( 知) をわが もの にす る ことはその主体 にとって知的解放へ と連 なるものである。ひとたび ( 知) の魅力 にと りつかれた者 にとって,知的上昇 は不可避 な自然的過程 であ り, そ れは新 しい地平 を彼 らの意識 の裡 に切 り拓かせたはずである。彼 らは周 囲にあ ふれる活字文化 に日常 的 に晒 されることによって,そ してそれ を積極的 にわが ものにす ることによって,口承文化が内に含 んでいた信念 ・慣習構造 の圏内か ら苦 闘 しなが ら飛 び出 していった。その過程 はいうな らば彼 らが生 まれ育 った 共 同体の信念 ・慣習構造 か らの知的布離 であった。その布離 は労働者階級共 同 ( 3 9 ) Thoma sW.La que ur ,' The Cul t ur a lOr i gi nsofPopul a rLi t e r a c y i n Engl a nd
1 50011850' ,O x fo T dRe v i e wo fEd uc at i o n,vol .2,no.3( 1976) ,p. 255.
( 4 0 ) Da vi dVi nce nt ,̀ TheDec l i neoft heTr adi t i oni nPopul a rCul t ur e' ,i nRobe r tD.
St or c h( e d. ) ,Po pul arCul t ur ea ndCus t o m i nNi ne t e e nt h‑ Ce nt ur yEn gl and( 1 982)
1 9 世紀英国の労働者階級文化と教育態様についてのノー ト 29
体の信念 ・慣習構造 を ( 知) の高みか ら眺望 することので きるまな ざしを労働 者 に授 けた。 いうなれば,類的親和 力のきわめて強 固な世界 か ら,抽象力の支 配 す る共 同世界への飛躍 を可能 にす る力 を ( 知) はもた らしたといえ よう。
バ ンフォー ドは彼 を生 み育 てた共 同体 の世界で大 きな役割 を演 じた迷信 にそ の 自叙伝 の一節 をあてていた。それ はその桂桔か らの彼の解放 の歩 みを跡づ け るために, ひいては彼が帰属 する階級 の進歩 を評価 する手段 と してであった。
彼 は言 う。
「 労働者 階級 の噂好 と習慣 にここ 2 , 3 年の うちに起 きた大 きな変化 を, われわれは明瞭 に認 めることがで きる
。明 らかになった これ らの変化 を見 れ
シ ヴリ ゼーショ ン
ば, 文 化 とい うことばによって意味 され る精神状態,肉体的習慣 が進歩 しているか,後退 しているかをよ りよく決定 できるであろう 。 」 ( 41)
知的上昇 を遂 げた労働者 にとって,彼 のまわ りの労働者が もの ごとの因果関 係 を適切 に理解 できず に,共 同体 の信念 ・慣習構造 に代表 される知的 まどろみ の世界 に安住 している限 り,工業化 ・都市化 の進行 す る世界か ら彼 らは立 ち遅 れ,折 り合 う望 み を失 くして しま うことは自明の理で あった。 「 大衆 が知識 を もたず,彼 らが常 日頃見 聞 き していることの原 因 を知 らないの に比例 して 」 「 彼
らの想像力 は放 たれ,彼 らの理性 は弱 ま り,彼 らはあ らゆる誤 った流言, ある いは一般 にひろま りをみせている偏見 やまどわ しのえ じきとなる 。 」 ( 42)
政治活動 に携 わっていた人 びとにとって,迷信 などの ( 知) のまどろみの支 配 は,労働者 階級解放 の途上 に横 たわる障害物 を象徴 していた。 ( 知) の まど ろみの源 にまで辿 って行 き, そのか らくりを暴かないか ぎ り,人間が創 り出 し た世界 を支配 することは不可能であったか らである。彼 らにとって,迷信 の衰 退 は 自由の追求 にとって もっとも関連 の あるものであ り, ( 知) の解放 は自由 の追求への必須の前提 であ り,それな くして支配階級 の イデオロギーを転倒 さ せ ることは不可能 であった。 いいかえれば,労働者 が 自らの存在 を覆 っている ( n) Sa muelBa mf or d ,o p.c i t . ,p.1 32,quot edi nDa vi dVi nce nt ,Br e a d ,Kno wl e d gea nd
Fr e e d o m ,p. 168.
( 4 2 ) Jos ephLa ws on ,Le t t e r st ot h eYo un go nPr o gr e s si nPds 町 d ur i n gt h eLa s tSi xt y
Ye ar s( 1 887) ,p.48,quot e di nDa vi dVi nce nt ,' TheDe c l i ne " . ' ,p. 33.
社会 ・経済 ・政治のか らくりを脱神秘化す ることができた時 に, は じめて彼 ら は自 らの階級意識 に立 ち支配階級 と対峠す る力量 を身 につ けることがで きる, とい うことである。 まさに 「 知 は力な り」 であった。労働者 インテ リゲ ンチ ャ アの一人 は言 う,
ザ ・クラス
「あなたが労働者 の間 に無知 を兄 い出 した ところで は・ ‑‑彼 らは 階級 ( 中 産階級 )へ とお もむいていることに気づ くであろ う。労苦 する知的 な人 びとを 兄 い出 したところで は, 彼 らは仲間の状態 を改善 する試 みへ とおもむいている。
ザ ・クラス
ビ‑プル
この ことの最 も明 らかな証拠 の一つ は, 階級 が民衆 を無知 の ままに してお こ うと していること,今 日で さえも, この恵 みをわれわれか ら奪 うことができる な らば,そ う しようと していることにみて とれ る 。 」 ( 43)
確 か に ( 知) の解放 は自由の追求のために必須 な道具 を提供 した。知 的 に上 昇 した労働者 はそれだけ知的眺望 を拡張 す ることができ,個 々の地域共 同体 内 では外部世界への窓 と してふるま うことができた。地方性 を克服 し,階級 と し ての普遍性 に立 た ざるをえないどんな種葉 の活動 の背後 にも, この ような人 び とが ひかえていた。彼 らによって所有 されている技能 はどの ような労働者階級 組織 にも不可欠 であった。 あ らゆるス トライキ, デモ,請願 の背後 には,おび ただ しい量 の議事録,手紙 ,ブロー ドサ イ ド,新 聞, したが って書 きことばと それ を駆使 で きる労働者 インテ リゲ ンチ ャアが存在 した。それゆえ政治 ・社会 危機 が生 じた際には,読 む ことのできる者 は指導的地位へ と押 し上 げ られた。
だが, この ような知的な解放 は労働者 の内的世界 に葛藤 を惹 き起 こ した。知 的 に上昇 した労働者 がわが ものに した知的 自由は,彼 ら自身 を育 んだ日常世界 か ら自らを蔀離 させ る危機 を裡 に学 んでいた。労働者階級 の慣習, ことばづか い,思考方法,生活 ・行動規範が,知的 に上昇 した労働者 のそれ と敵酷 をきた
し始 めたのである。
知識の追求 は様 々な非合理的 な行動形態‑ 最 も顕著 な ものは飲酒‑ か ら 労働者 たちを遠 ざける傾向 をもた らした。彼 らは知識 の追求 にの りだすやいな 鍵功 J a mesⅡa wke r ,̀ TheLi f eofaPoa c her ' ,MS. ,publ i s he da s ,Ga r t hChr i s t i a n,ed.
and i nt r o . ,A Vi c t o r i anPo ac h e r .Jame sHawk e r' sJo ur nal( 1978) ,p.91,quot ed i n
Da vi dVi nce nt ,Br e a d ,Kno wl e d g l ean dFr e e d o m,p.1 75.
1 9 世紀英国の労働者階級文化 と教育態様 につ いての ノー ト 31
や,酒 が取 り結 ぶ人 的結合 関係 か ら退 きつつ あった。「 私 はその ときにパ ブを けっ して訪ねなか った」 と ヒー トンは述懐 している。 とい うの は 「 私 が洗練 し
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