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フー コーの( 権) 力論の歴史的脈絡
インフアント
‑ 教室の中の少年/少女 ‑
吉 田 直 希
Ⅰ
ミシェル ・フー コーが 『 監獄 の誕生』 において明 らか に した権力論 とは一 体 どの ような ものだ ったのだ ろうか 。1 また, フー コー以後, この権力論 は ど
の ような展開 をみせ てい るのであ ろうか。本論 で は, いわ ゆ る権力 ‑関係 と い う考 え方 を視線 の問題 として捉 え,近代以降 の主体 のあ り方 を検討 しなが
らフー コーの権 力論 について考 えてみ ようと思 う .
まず, フー コーが この本 の中で取 り上 げてい る ≪一望監視 方式≫ のか ら く りをみてお こう。周知 の ように, この監視 方式 は,ベ ンサムが理想的 な監獄 のモデル として考案 した 「 パ ノブテ イコン」 において実現す るが, その機能 は内部 に監禁 され る受刑者 に絶 えず監視 されてい るこ とを意識 させ る とい う ものであ る。周 囲 に円環状 の建物 が あって,中央 には 1つの塔が建 て られ る 。
塔 には広 い窓が付 け られ,それ らの窓 は環 の内側 に向か って開かれてい るが, 周 囲 の建物 の方 は独房 に分割 され てお り, そのそれ ぞれが建物 の幅 をそっ く
り占めてい る。 そ して, この独房 には二 つの窓が付 け られ るが,一 つ は塔 の 窓 と向か い合 うように内側 を向 き, もう一 つ は外側 を向いていて,外 か らの
1. Mi c he lFouca ul t , Di s c l i ) l i nea ndPuni s h. ・TheBi r t ho ft hePr i s o n , t r ams . Al a n She r i da n ( Ne w Yor k :Vi nt a geBooks ,1 9 7 9 ) , (ミシェル ・フーコー 『 監獄の 誕生一監視 と処罰』田村倣訳 ( 新潮社,1 9 7 7 年) 〔 本文の訳 はこれに拠ったが, 訳文を一部変更 させていただいた 〕 ) また,以下の 「 パノブテイコン」に関する 説明は,Fo uc a ul t ,Di s c t i ) l i nea ndPuni s h ,pp. 20 0 ‑ 2 0 2 ( 邦訳 ,2 0 2 ‑2 0 4 頁) を
まとめた ものであるo
256
人 文 研 究 第 89 輯光 が独房 の隅々 にまで行 き渡 るようになってい る。 こうして独房 に配置 され る受刑者 は常 に監視塔 か ら 「 見 られ る」 ようにな る
。後 には,監視 され る者 は受刑者 に限 られず,狂人 で も病人 で も生徒 で もよ く, その置 き換 えはほ と ん ど無 限 に拡 が るのだが, この問題 は後 で扱 うことにす る。 さて,周囲の建 物が独房 に分割 されてい ることか ら生 じる一 つの効果 として まず, 隔離 され た状態 で監禁 され る受刑者 はす ぐ側 にい るはず の別 の受刑者 の姿 を目にす る ことが で きない とい うことが あげ られ る。受刑者が 目にす るの は建物 の中心 に位置 す る塔 とその中にい る監視者 だ け とい うことになる 。 ところが, この 監視者 の姿で さえ受刑者 は直接 「 見 る」 ことがで きな くな る。 とい うの は, 中央 の塔 にあ る監視室 の窓 に鎧戸 が付 け られ, さ らに, この部屋か ら外部 に 光が全 く洩れ 出ない ように と室 内 を直角 に仕切 る壁が設置 されて しまうか ら
●●●
で ある 。 したが って受刑者 はいわ ば姿 な き監視者 を 「 見 る」 ことしかで きな い存在 とな る 。 ここには もはや,通常 の対面 で はご く当た り前 の ≪見 る‑見
られ る≫ とい う対等関係 は成 り立 たない。受刑者 の側 には 「 見 られ る」力が 圧倒的 な強 さで働 いてい るため,監視塔 を 「 見 る 」 ことがで きる といって も 結果 的 には 「 見 るこ とな しに見 られ る」存在 として位 置づ け られ るか らで あ る。それで は,監視 す る者 の立場 は どの ような ものであ ろうか。受刑者が「 見 ることな しに見 られ る」存在 だ とすれ ば,監視者 はその道, つ ま り 「 見 られ る ことな しに見 る」存在 として位置づ け られ るだ ろ う 。 監視者 と個 々 の受刑 者 は向 き合 って視線 を交わすわ けだが,監視者 の姿 は決 して見 られ ることが ないた め, あたか も受刑者 の背後 に立 ってい るような錯覚 を作 り出 し,受刑 者 に自分が絶 えず監視 され てい る と意識 させ る ことがで きるのであ る 0
ところで,誰が この 「 見 られ る ことな しに見 る」 とい う監視者 の立場 を と
ることがで きるのだ ろうか,言 い換 えれ ば,誰 が特権 的 な監視者 になれ るの
だ ろうか。実 は,誰 もこの絶対 的位置 を占める ことはで きないので ある 。 た
しか に, 中央 の塔 にある監視室 には一人 の監督 官がいて, この部屋 か ら常 に
目を光 らせ周 囲の独房 を見 てい るだ ろう。 また, この監督官 は受刑者 だ けで
な く,施 設 内部 の他 の要素 に も目を向 けるか もしれ ない。す なわ ち,監獄 内
フー コーの (権 )力論 の歴史的脈絡
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で働 く全 ての職員 ‑ 看守,管理人,教詩 師,教 師,医者等々 ‑ を も見張 り, この施設が正常 に運営 されてい るか どうか を瞬時 に判 断す る。つ ま り, 一人 の監督官だ けが 「 見 られ るこ とな しに見 る」 ことがで きそ うだ。 ところ が, この監督官 の占め る位置 はすべ ての人 に開放 されてい るこ とが明 らか に
●●●
な る 。 まず, この部屋 には外部 か らある巡視官がや って来 て,本 当 に この施 設 が正常 に運営 されてい るか どうか を確認 す る
。こうな る と監督官で さえ, いつ 自分 が見 られ る存在 にな るかわか らず, 自分 は絶対 に見 られないのだ と い う保障 は どこに もない ことにな る。 さ らに,受刑者 に対 して絶 えず監視 さ れ てい る ことを意識 させ るだ けな ら,監督 官 は誰 であって も構 わない ことが す ぐに理解 され る。「その管理責任者が不在 であれ ば,その家族 で も側近 の人 で も友人 で も来訪者 で も召使 いで さえ も代 理がつ とまる」 とい うわ けだ 。2 こ
うして,すべての人 が 「 見 られ る ことな しに見 る」ことがで きるようにな り, 逆説 的 に誰一人 として この特権 的位置 に立 つ ことがで きな くな るので ある 。
さ らに, ここで注 目すべ き点 は,監視 す る者 の視線が どの ような欲望 か ら発 せ られていて も視線 の持 つ効果 はいっ こうに減 らない (とい うよ りむ しろ強 まる) とい うことで あ る。極端 な場合 は単 な る暇 つぶ しのため に この監視室
●●●
へや って来 て もー 向 に構 わない とい うことになる
。こうして, この姿 な き視 線 の裏 に潜 む自由で多様 な欲望 を も吸 い込 んで しまう ≪一望監視 方式≫ は, パ ノブテ イコン とい う 1 つの建築装置 に とどまる ことな く,多様 な置 き換 え
を通 して社会 の隅々 に まで拡散 してい くのである 。 ここで は, もはや暴力的 抑圧 の力 は認 め られず,受刑者,狂人 ,病人 ,生徒等の服従化 [‑主体化]
は,視線 が もた らす この虚構 的 な力 を利 用す る ことによってな されてい く。
この ように, 『 監獄 の誕生』にお ける権 力論 は ≪支配一被支配 ≫とい う抑圧 的図式 を否定 す る ことか ら出発 す る。権力 とはあ る特定 の個人 に還元 され る
もので はな く,≪見 る‑見 られ る≫とい う一対 の虚構 的関係 において は じめて
2.Fo uc a ul t ,Di s c i pl i nea ndPu ni s h ,p. 2 0 2 . ( 邦訳 ,2 0 4 頁)
258
人 文 研 究 第8 9
輯現実化 す る とい うこと, つ ま り,近代以降 ( 現在 に至 るまで)人 々が,視線 の織 りなす この権 力 ‑関係 の直 中 に生 きてい るのだ とい うことを まず意識化 す る ことが求 め られてい るので あ る。 ここか ら様 々 な分野 にお ける 《 一望監 視 方式≫の多様 な置 き換 えを具体 的 に検討す る必要がでて くるわ けだが, そ こでの権力 ‑関係 の具体 的 な分析 は,近代以 降の個 々人 ‑ 研究者 自身 も含 まれ る ‑ の主体化 [ ‑服従化] を どう評価 す るか といった問題意識 か ら行 われてい くものにな るだ ろう 。 工場や学校 や病院等 にお ける主体 の形戚過程 を詳細 に検討 す る ことによ り, フー コーの権 力論 は多角的 に捉 え直 され, そ こか ら新 た な出発 が約束 され るはずだか らで ある
。したが って, この ような 問題意識 か ら提 出 された研 究が フー コーの次 の言葉 を裏付 ける試 み として十 分 な評価 を受 けな けれ ばな らないの は間違 いない。「 監獄が工場や学校や兵舎 や病院 に似 か よい, こうしたすべてが監獄 に似 か よって も何 に も不思議 で は ないのであ る 。 」 3
しか し, あ ま り先 を急 ぎす ぎるの も危 険で あろ う。 た しかに, フー コー は この本 を 「 近代社会 にお ける規格化 の権 力 な らびに知 の形式 に関す る各種 の 研究 に とって,歴史 的背景 として役立 つ はず」 と自 ら位置 づ けて はい るが, フー コーの出発点が工場 や学校 ではな く 「 監獄」 であった点 を考察 してか ら で も,新 た な出発 は可能 だ と思 われ るか らで あ る 。 4そ こで まず以 下 にお い て, フー コーの権力論が どの ような歴史 的背景 か ら出発 してい るのか を検討 す る 。 その際,主要 なテクス トとして浅 田彰 の 「アルテ ュセール派 イデオ ロ ギー論 の再検 討」 を由 り上 げるが, この論文 は,ルイ ・アルテ ュセール によ る 「イデオ ロギー と国家 のイデオ ロギー装置」 の理論 的業績 を近代以降 の主 体形成 の観点 か ら見直 し, さらにフー コーの権力 ‑関係 とい う概念 を積極 的 に評価 した極 めて重要 な ものであ る
。5次 に,近代以降 の主体 一般が抱 える間
3.Foucaul t ,Di s c i pl i nea ndPuni s h ,p. 22 8. ( 邦訳 ,2 2 7 貢) 4.Foucaul t ,Di s c i pl i nea ndPuni s h ,p. 30 8. ( 邦訳 ,3 0 8 貢)
5. 浅田彰 「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ( 『 思想』 ,1 98 3
年5
月号)フーコーの( 檀) 力論の歴史的脈絡 259
題 を 「 監獄」で はな く≪学校≫とい う主題 か ら考察す る ことに よ り, フー コー にお ける 「 監獄 」 の意味 を もう一度 問い直 す ことを試 みたい。
Ⅰ Ⅰ
浅 田に よる と,近代 イデオ ロギー にお ける主体 の形成 は 2 つの レヴ ェル に おいて行 われ る もので ある 。 その一 つ は,超越 的 中心か ら個々人が ピラ ミッ ド型 に配置 され る絶対 的安定 の レヴェルで あ り, もう一 つ は,終点 のない競 争 に個 々人 が参加 す る永久運動 の レグェルである
。近代以降の主体 は この二 つの レヴ ェルが繰 り込 まれた社会 において確立 され るが,前者 の レヴ ェルが 後者 の レヴェル に内在 的 に働 きか けるた め,二 つの レヴ ェルが ‑ とい うよ
りむ しろ,両者 の艶齢 が ‑ 後者 にお ける運動 に相対 的 な安定 を与 えてい る とい う点が重要 で あろ う。 もち ろん この ような 「 奇妙 な二重体 」 としての主 体概 念 は, いわ ゆる ≪自己批判≫以 降の後期 アルテ ュセール派 を批判 的 に検 討 す るこ とか ら得 られ てい るわ けだが,興味深 いの は, アルテ ュセールが中 断 して しまった理論 的作業 をフー コーが引 き継 いで展開 してい る とい う浅 田 の指摘 で ある 。 6っ ま り, この近代以 降の主体概 念 はフー コー を も理論 的背景 とす る ものなので ある
.そ こで フー コーの権力論 を歴史 的背景 として位置づ けるた め, まず アルテ ュセール とフー コーの関係 に注 目してみ よう 。
さて,科学認識論 か ら政治哲学へ の移行 といわれ るアルチ ュセール の ≪自 己批判≫ とは どの ような ものであったのだ ろうか。極 めて単純化 して その輪 郭 を示す と,前期 アル テ ュセール派 の理論 的実践 に認 め られ る安定化 を許 す 側 面が,≪自己批判 ≫に よ り徹底的 に切 り落 とされ,後期 アルテ ュセールの中
3 8‑6 5 貢。以下のアルテュセール派イデオロギー と近代主体 に関する考察 はこ れをまとめた ものである。また,アルチュセール とフーコー との関係 については
第4 節 「 批判的考察」 ,5 8‑6 5 頁が特 に重要である。
6. 浅田,「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」 ,6 3 貢。なお,浅田はこの
ような主体概念が構成 される理論的背景 として, フーコーだけでな くドゥルー
ズ‑ガク リの業績 について も言及 している 。
260
人 文 研 究 第 89 輯心 をなす ≪国家 のイデオ ロギー装置≫ の分析 が ダイナ ミックに行 われ るよう になった とい うものであ る。 もち ろん, ここでの 「 安定化」 とい うのは, ア ルテ ュセールがヘーゲル的 な全体性 ( 同心 円的全体性 ) に基 づいて主体 の分 析 を行 っていた とい う意味 で はない。≪自己批判≫以前 のアルテ ュセール にお いて もすで に 「 ≪主体 な し目的 な しの過程≫ としての非直線 的 ・ 不均等的 な歴 史 とい う科学 的把握」の要請 は認 め られ ていたか らで ある
。7バ シュラール の 影響 を強 く受 けていた前期 アルテ ュセール派 の科学的認識論 は,マル クスの
『 資本論』を真 の史的唯物論 として位置づ け, これ に対応 す る新 たな哲学 とし
●●●
ての弁証法的唯物論 の意味 を見 出 したわ けだが,重要 なの は「 ≪ 理論 的実践 の
● ●
理論 ≫ 」として定義 された哲学 の誕生 の裏 に,後期 のダイナ ミックな運動 ( 闘 争) に参加 す る契機 が認 め られ る とい う点 で あ る 。 8よ うす るに,前期 アル テ ュセールがバ シュラール との出会 いか らヘーゲル に別 れ を告 げた時,彼 は
『 資本論』を読 んでいたので ある。 しか し, 1回読 んだだけで はこの難解 な本 は十分 には理解 で きない とわか った後期 アルチ ュセール は,繰 り返 し 『 資本 論』 を読 む ことを実践 し,バ シュラール に兄 いだせ る安定化 の一面 を切 り落 としたので あ る 。 こうしてイデオ ロギーの もつダイナ ミックな構造 と機能 を 明 らか にす る ことが第‑ に目指 され るようにな り,哲学 は 「 理論的実践 の理 論」か ら,諸科学 と理論 的諸 イデオ ロギーが明確 に区分 け しえない状態 にあ る 「 理論」 に断絶 を迫 るべ く介入 す る 「 実践」へ とその姿 を変 えていったの である
。それで は,後期 アルテ ュセール を特徴 づ ける二 つの概念,す なわ ち国家 の 抑圧装置 ( ARE) と国家 のイデオ ロギー装置 ( AI E) の概念 にしたが って, 近代 イ デオ ロギーの ダイ ナ ミックな構 造 を ま とめてお こう 。 9従 来 の国家論
7 .浅田,「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 0 貢.
8. 浅田,「 アルチュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 0 頁。傍点は筆者。
9 .浅田,「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 9 頁。なお, AREとは,
̀ 1 ' Appar e i lRe pr e s s i fd' Et at 'を ,AI E とは ,̀ l e sAppar e i l sl de ol o gi que sd' Et at '
を略 した ものである。
フーコーの( 権) 力論の歴史的脈絡 261
で は, イデオ ロギーが既成 の, いわ ゆる上部構造 として位置づ け られ ていた の に対 し, アルテ ュセール は国家 を ≪国家装置≫ と捉 え直 す ことによ り,新 たな一歩 を踏 み出 したのであ る。 もち ろん この≪国家装置≫とい うのは, ARE
と AI E を一 つ にま とめた概 念 で あ る 。 浅 田 は ここで次 の ような疑 問 を発 す
●●
る 。 「なぜ単 な る装置 で はな く国家装置 なのか」と
。10重要で はあるが答 は「自 明」な もので あ る。 とい うの は,後期 アル テ ュセール は,「 経済 の審級 を特徴 づ ける生産 関係 が生産手段 を所有す る非労働者 をその要素 のひ とつ として も つ場合, それ に対応 す る社会構成体 は搾取階級 と被搾取階級 の分裂 を含 む階 級社会 た らざるを得 ない とい うこと, そ こでの再生産 は階級分裂 と搾取 の再 生産 でな けれ ばな らない」 とい う認識 に立 ってお り,生産諸 関係 の再生産が スムーズ に行 われ る装置 を ≪国家装置≫ と定義 して も不思議 で はないか らで あ る
。11浅 田 によるこの指摘 は,≪国家装置≫の概念が もつ重要性 を明 らか に し てお り, その後 のアルチ ュセール理解 には欠 くことので きない もので ある と い えよう。前期 アルチ ュセール において はダイナ ミックに描 き出せ なか った
「国家」が,≪自己批判 ≫にお ける切 断 によ り, 「 社会構成体 の統一」 と 「 生産 諸条件 の再生産 を保 障す る特別 な手段」 を同時 に実現す る ≪国家装置≫ とし
て動 き出す のであ る 。 したが って,次 に考 えな けれ ばな らないのは,この≪国 家装 置≫ の機能が いかな る ものであ るか とい うことにな る。 さて, ここか ら
ARE と AI E の具体 的機能が分析 され てい くので あ るが, アル テ ュセール は
●●
一体 ,何 回 『 資本論』 を読 んで この 自明の事実 に辿 りついたのだ ろうか。 ま
●●
た,浅 田が提示 した単純 な疑 問 は どうして, 「なぜ単 な る国家装置 なのか」と い う問いか けで はなか ったのだ ろうか。 おそ ら く, この問いに対 す る答 も先 に引用 した解答 とほ とん ど同 じもの にな るだ ろう
。だが, その答 え方 ‑ 抑 揚 のつ け方やス ピー ド‑ は微妙 に違 って くるか もしれ ない。 しか し, ここ で立 ち止 まることはあ ま り重要 で ないだ ろ うか ら,話 を先 に進 めて ARE と
1 0 . 浅田,「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 8 貢。
l l . 浅田,「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 8 貢。
26 2
人 文 研 究 第8 9
輯AI E の機能 について ま とめてお こう 。
これ ら 2 つの装置の機能的特徴 は, ARE が強制的・ 暴力的 に主体 に作用す るのに対 し, AI E が懐柔的 ・イデオ ロギー的 に働 きか ける とい う点 に認 め ら れ,経済的審級 において一つの大 きな矛盾で ある と考 え られ る資本家 と労働 者 との階級分裂 は,≪国家装置≫が働 かせ るこの相反す る二 つの作用 によって 説明 し直 されてい く 。 もちろん, アルテ ュセール は この概念 を用 いて,生産 諸関係 の分析 に力 を入れ るわ けだが, その手法が抱 える様 々な問題点 につい ては ここで は扱わない。浅 田が示 している図式 にしたが って極端 な単純化 を 行 えば, 「 ARE は 「 究極 的 に搾取 の諸 関係である生産諸関係 の再生産 の政治 的条件 を,力 ( 物理的あるいは非物理的) によって保障す る」 ことを役割 と
し, AI E はその ような 「 ARE の ≪ 楯≫の下で生産諸関係 の再生産 その ものの 大部分 を保 障す る」 ことを役割 とす る」 ものである とい うことになる 。12
それで は ARE と AI E の機能 を もう少 し詳 し く検討 してみ よう 。 ARE と
●●
は具体 的 には 「 政府 ・行政機関 ・軍隊 ・警察 ・裁判所 ・刑務所 か ら成 る統一
●
体」 であ り,公 の場 において抑圧 的 ・暴力的 に全体化 を命 ず るように機能す る 。 一方, AI E は 「 宗教的 ・教育的 ・家族的 ・法律 的 ・政治的 ・組合的 ・情
●● ●●
報的 ・文化的等の諸形態 の もとに,相対 的 自律性 をそなえた諸装置 」 に分か
●●
れてお り, こち らの方 は主 に私 的 な場 において柔軟 なや り方 で多様化 を容 認 ・ 促進す るように機能 す る 。13 この ことか ら, AI E を装置 とい うレヴェルか ら捉 えれ ば,それが ARE 同様 に統一性 を もってい るとい うこと,また自律性 を もって多様 に分かれている とい うレヴェルか らみれば, そ こには何 らかズ レの生 じる可能性が ある とい うことがわか る。 アルテ ュセール は生産諸 関係 の再生産 をめ ぐる階級対立 を AI E の中に兄 いだ し,そ こでの諸関係 ( のズ レ) を闘いの場 にしてい くわ けだが,重要 なの は,彼が ARE の抑圧的機能 を全 く 無視 して AI E を分析 の中心 に据 えるようになったので はない とい う点 で あ
1 2 . 浅田,「 アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 9 貢。
1 3 . 浅田,「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,4 9 貢。傍点は筆者。
フーコーの( 権) 力論の歴史的脈絡 26 3
る 。
さて ここで我 々 は, アルテ ュセールが監獄 ( 刑務所 ) を強制 的 ・暴 力的機 能 を も つARE の構成要素 として位置 づ けてい る こ とに注 冒せ ざ る をえな い だ ろ う 。 すで に述 べ た よ うに, フー コーが記述 す る 「 パ ノブテ イコ ン」 とい う ≪建築装置≫ は,個 々人 の主体化 [‑服 従化] を行 う際 に柔軟 に機能 して お り, ARE の もつ暴力 的 な圧力 とい うよ りむ しろ AI E の イデオ ロギー性 を 発揮 す る装置 と言 えそ うで あ る。で はフー コー は,アル チ ュセールが監獄 ( 刑 務 所)を ARE の統一体 に含 めてい る点 を批判 してい るのだ ろ うか。た しか に アル テ ュセール にお いて は ARE と AI E の関係 が相 反 す る 2 つ の作 用 と考
●●
え られ ていた。 だが, イデオ ロギーす らも装置 として捉 えていた こ とに注 目 すれ ば, その ことが絶対 的命 令 を もた らす ARE の 「 抑圧」とい う機能 に もズ レを もた らして い る ことが認 め られ よう 。 したが って 「 監獄」 が その イデオ ロギー的側面 か ら詳細 に分析 された研 究 として 『 監獄 の誕生』 を評価 す る こ とは必 ず しも妥 当で はないので あ る。そ もそ も,アル チ ュセールが 国家 を≪国 家装 置≫ として 自 らの分析対 象 として位置 づ けた時 に, 「 監 獄」は ARE で も
あ り AI E で もあ る もの, そ して ARE で も AI E で もない もの とな って いた か らで あ る。 その意味 において,浅 田 に よる 「 パ ノブテ イコ ンは, 国家 の抑
●●●
圧装置 の ひ とつ としての監獄 の形態 的モデルで あ る以上 に, 国家 のイデオ ロ ギー装置 の機能 的原理 を示 す の もので あ る」 とい う指摘 が アル テ ュセール, フー コー両者 にお ける装置 の概 念 を的確 に表 してい る と言 えるので あ る
。14ここで, この こ とを前章 で扱 った視線 の問題 と関連 づ けて整 理 してお く。
「 見 る」ものが実 は常 に 「 見 られ る」可能性 を背後 に もつ存在 で ある とい う点 か ら, フー コーの権 力論 が ≪支配 一被 支配 ≫ の枠組 み に よって は説 明 で きな
1 4 . 浅田,『 構造 と力』 ( 勤草書房 ,1 9 8 3 年) 1 8 2 頁。傍点 は筆者。以下の ≪ 学校≫
に関する考察 は,特に第 6 章 「クラインの壷か らリゾームへ」 ,2 1 1 ‑2 3 5 貢 を参
考 にさせていただいた
。なお, フーコーにおける 「 装置」の概念 については以下
を参照 oGi l l e sDe l e uz e ,Fo uc au l t ,t r ams .Se 畠nHand( Mi nne apol i s :Mi nne s ot a
Uni v.Pr e s s ,1 9 8 8 )pp. 2 3 ‑ 4 4 .
264
人 文 研 究 第8 9
輯い とい うことはすで に確認 した。そ して今,この権力 ‑関係 の概念 をアルテ ュ
● セール による ≪国家装置≫ の分析 との関連 で捉 えようとす るな ら, それが単
●●
純 に抑圧 的図式 を否定 す る もので はない とい うことが理解 で きるだ ろう 。 つ ま り, ≪ 見 る一見 られ る≫とい う関係 をダイナ ミックに虚聞 させ て分析 す るに は, ア) I ,チ ュセール の ≪国家装置≫概念 が フー コーの権力論 において も明確 に意識 されてい るとい うことを確認 しな けれ ばな らないので\ あ る。 したが っ
●●●
て, 我 々が フー コーの著作 を自 らの歴史的背景 として位置づ けようとすれ ば, 同時 に, アル テ ュセールの業蹟 を も歴史 的背景 として認 めざるをえないわ け だ。 『 監獄 の誕生』にお けるパ ノブテ イコンが, この ように捉 え直 されては じ めて,≪ 一望監視 方式≫による近代以降 の主体化 をダイナ ミックに検討 で きる ので あ る
。こうして我 々 は,パ ノブテ イコン とい う一つの ≪ 建築装置≫ において一応 の完成 をみた ≪見 る一見 られ る≫ とい う関係が もた らす主体 の形成過程 をダ イナ ミックに捉 える地点 に立 つ ことがで きた。 と同時 に, この ≪ 見 る一見 ら れ る≫ とい う関係 が相対 的 自律性 を備 えてい る様 々 な装置 においていか に展 開 されてい るか を検討 す る ことは, もはや,個 々 の分野 にお ける規律 や訓練 の独 自性 ‑ パ ノブテ イコンの場合 とは異 なる自律性 ‑ を時間的 に辿 って 調 べ る ことで はな くな る。 アルチ ュセールがすで に述 べ てい るよ うに, AI E
はそれ 自体 のなかで はすべ てが力関係 なので あって ,宗教 的 ・教育 的 ・家族 的 ・ 法律 的等,諸装置 の単 な る統一 ( あるい は分散)体 で はないか らで ある。
また, ここで 「イデオ ロギーの内部 にあって絶 えずイデオ ロギー に とりか こ まれてい るこ とを自覚 しつつ, しか も,切 断運動 を続 けなが ら自 らの位置 を ず らせてい く 」 悦 び と苦痛 を感 じていたで あろ うアル チ ュセールの姿 を想像 す るな ら, フー コー にお ける権力 ‑関係 を単 な る歴史的拡散 の観点 か ら問題 にす る ことはで きないだ ろ う .15 『 監獄 の誕生』にお ける ≪ 一望監視 方式≫はた
1 5 . 浅田,「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,5 7 頁。
フー コーの (権)力論 の歴史的脈絡
265
しか に近代以降,主体化 を行 う様々 な装置でその応用 をみるわ けだが, フー コーの 「 監獄」 は我々が戻 らねばな らない重要 な出発点で もある . そ こで次 に,近代以降 の監獄た る ≪ 学校≫ を舞台 に くりひろげ られ る ≪ 見 る‑克 られ る≫関係 を考察 す る ことによ り, フー コーの 「 監獄」 を別 の角度か ら検討 し てみる ことにす る。
Ⅲ
ここで は,近代以降の主体化一般 の問題 を ≪ 学校≫ とい う主題か ら検討 す る 。 まず, AI E にお ける諸 イデオ ロギーが常 に同 じ構造 を もつ とい うイデオ ロギー一般 の構造 に関す るアルテ ュセールの図式か らみてお こう 。 すで に述 べた ように AI E の 自律性 はあ くまで相対 的な ものであって,そ こには何 らか 共通 の構造が認 め られ るので あ り, この点 を見落 として個々の具体 的イデオ ロギー装置 を分析 して も,ズ レの意味が十分 には把握で きな くな り, まさし
●●
くズ レて しまうおそれがあるか らである 。 また,近代的主体 に作用す る AI E 一般 の構造 を簡単 にみてお くことは, フー コーの権力論 を理解 す る上 で も必 要 な作業である
。なぜ な ら,浅 田による近代 の主体概念 は以下 にま とめるア ル テュセール のイデオ ロギー論 を批判 的 に検 討 した結果 得 られ た もので あ り, また その批判が 「フー コーや ドゥルーズ‑ガタ リの業績 を参考 に 」 して い るとされてい るか らである 。16
さて, アルテ ュセール にお けるイデオ ロギー一般 の構造 は, ラカ ンにお け る象徴秩序 の構造 とほ とん ど同型 の ものである と言 って よい。象徴秩序の構 造 つ ま り象徴界 における主体 の形成 は次の ように してなされ る。極 めて不安 定 で本能 のお もむ くままに行動 しようとす る幼児 ‑ 主体 となる以前 の人間
‑ はある時 には厳 し く叱 られ,またある時 には自由を与 え られ,す くす くと 成長 し大人 ‑ 主体 ‑ となるので ある 。 もちろん ここで重要 なの は,幼児 の前 に姿 をあ らわ し(とい うよ りすで に自分 よ り前 に存在 していて),禁止や
1 6 . 浅田,「アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,6 2 貢。
266
人 文 研 究 第8 9
輯容認 の言葉 を投 げか けるのが,絶対 的他者 としての ≪父≫で ある とい う点 で ある
。この ≪父≫ は また ≪父 の名 ≫ とも呼 ばれ る存在 であ り,個 々人 は他者 との危 険 な直接的関係 によってで はな く,象徴 としての この ≪父≫ を経 由 し て 自己 の安定性 を獲得 す るので あ る。一方,ア) I , チ ュセールが考 える主体 ‑ 生産諸 関係 の再 生産 を支 える労働 者 ‑ もラカ ンの場合 と同様,絶対 的他者
を媒介 として 自 らを主体化 す る 。 もち ろん, アルチ ュセール において は,幼
●●●●●●●●●●
児 に対 す る ≪象徴 的な父≫とい う表現 は用い られず,「イデオ ロギー は諸個人
●●●●●●●●●●●
に呼びか けて主体 にす る」と定義 され ている 。17 しか し, ここで も個 々人 に呼 びか けを行 う‑ 禁止 や容認 の言葉 を投 げか ける ‑ のは,唯一 の超越 的存 在 つ ま り抽象的な神 の ご とき存在 であ る と捉 え られてい る。この ように して,
ラカ ン とアルテ ュセール は出会 うわ けだが, アルテ ュセール に とっての出会 いが,すで に別 れ を予感 させ る もので あった ことを考 えれ ば, ここにみたイ デオ ロギー一般 の構造分析 は,一 つの大 きな理論 的業績 であ る と同時 に, そ の後 の批判 的検討 をダイナ ミックに展開 させ る闘争 の場 とな る可能性 を もっ てい る と言 えよう。 したが って, 「フロイ トとラカ ン」にお ける 「 子供 が十全 な意味で象徴秩 序 に参入 して s ubj ec tとな るまで には長 い苦 しい闘 いが闘わ れねばな らないので ある。 そ して, この闘 いには終 わ りが ないのだ‑‑」 と い う一節 は まさにアルテ ュセール による新 たな ≪自己批判≫ とも読 めるので あ る
。18ここにおいて浅 田 は近代以 降の ≪学校 ≫ にお ける生徒 の主体化 とい う問題 を とりあげ, アル チ ュセール によるこの ≪自己批判≫ を一層強力 な ものに し ようとす る。 まず, イデオ ロギー一般 の構造 か らもわか るように, アルテ ュ セールの 「 学校」 には大 きな欠点が認 め られ るだ ろう 。 つ ま りここで は,伝 統 と格式 を重 ん じるあ ま り,生徒 の 自主性 を尊重 す る といった 自由 な雰囲気 が損 なわれてい るので ある
。教師 は絶対 的他者 で ある超越 的中心 としてすで
1 7. 浅田,「 アルチュセール派イデオロギー論の再検討」 ,5 5 頁。
1 8 . 浅田,「 アルテュセール派イデオロギー論の再検討」 ,6 1 頁。
フーコーの(檀)力論 の歴史的脈絡
267
に教壇 に立 ってお り,生徒 はいわ ば ピラ ミッ ド型 に配置 されてい る
。ようす るにアル テ ュセールのイデオ ロギー一般 の構造 で は真 の意味での近代 的主体 を描 き出せ ない とい うことにな るわ けであ る。そ こで,アルテ ュセールの≪自 己批判≫ を真撃 に受 け とめて浅 田が提示す る ≪ 学校≫ は, ダイナ ミックな闘 争が繰 りひ ろげ られ る競争 の場 としての ≪ 学校≫となってい る。≪一望監視 方 式≫ を導入す る必要 もここに認 め られ るので あ り, こち らの ≪学校≫ で はモ デル として, あ るい は媒介 としての厳 しい教師 は表面的 には姿 を消 して しま うのであ る 。 こうして,「 パ ノブテ イコン」的な ≪学校 ≫は 「 全員 を一 方向の 量 的な運動過程 へ駆 り立 て る とい うダイナ ミックな安定化」 を支配 的 イデオ ロギー として機能 させ,生徒 を絶 える ことのない競争過程へ と吸 い込 んで し ま う 。19 毎 回の定期 試験 にお いて トップの座 を守 りつづ ける こ とは極 めて難 し くな り, また今 まで はピ ソであって も,次回 は頑張れ ば下 か ら 5 番 目 ぐら いには上がれ るか もしれない とい う雰 囲気 が感 じられ る ≪学校 ≫ の誕生で あ る。 それ で は,浅 田が措 くこの 《 学校 ≫ の教室 をち ょっ とのぞいてみ よう。
ここで は,監督者 であ る教師 は教壇 には もはや見 つ け られず,教室 の後 ろに いそ うだ とい うだ けの存在 になってい る 。
●●●●●
ここは第一 の教室 よ りず いぶん 自由な感 じがす る 。 事実,少々 さぼって 手 あそび した りしていて も, うしろか ら叱声 が とんで くる気配 はない。
どうや ら, ち ょっ とした遊戯 は黙認 されてい る らしいのだ。増長 してだ んだん派手 なイタズ ラを考 える うち, しか し,子 どもたち は何 とな く背 後が気 にな りは じめる
。もしか した らボクは うしろか ら目をつ け られて い るん じゃないだ ろうか 。20
見 られてい るので はないか と感 じる この生徒 は,不在 の視線 を自己の内に内 面化 し, 自分 自身 の監督者 となってい る 。 つ ま り, ここで は監視 す る者 とさ れ る者 を自身 の内に繰 り込 む ことによ り,主体化 とい う教育が行 われ ている
1 9 . 浅田,「 アルチュセール派イデオロギー論の再検討」 ,6 2 貢。
2 0 . 浅田,『 構造 と力
』,21 2 頁。
268
人 文 研 究 第 89 輯のであ る 。 教 師 の影 は極 めて薄 いが,それ は, この教師が,ラカ ンのい う≪象 徴的 な父≫や アル テ ュセールの ≪呼 びか けを行 う媒介≫ にみ られ た超越 的 な 絶対性 をほ とん ど有 していない証拠 で あろう。 だが, とい うよ りはむ しろ, だか らこそ,生徒 は自 らに与 え られた 自主性 を発揮 し,支配的 AI E の機能 を 体現 す るようにな るわ けだ。 さ らに,平等 をたて まえ とす る自由競争 の原理 は学校 内 にのみ限 られ る もので はな く, ここか ら次第 に拡散 してい く 。 めで た く学校 を卒業 し,会社 に入 ってみ る と,実 はそ こが新 しい 「 学校」 で あっ た と気 づ く者 も多 いので はないだ ろうか。 もち ろん, この新 しい 「 学校」 は それ独 自のや り方 を用 いて個々人 に主体化 を促 すわ けだが, た とえば新入社 員研修 で次 の ような訓辞 が聞かれた として も,≪学校≫の もつ支配 的 AI E の機 能 は少 し も衰 える こ とはない。 「ここは もう学校 で はあ りませ ん。皆 さん は
‥● ● ‥」o
ところで, 「 第一 の教室」とい うの は近代以前 の学校 にお ける教室 だが, も はや, その安定性 は指摘す るまで もないだ ろ う 。 教壇 には厳格 な教 師が立 っ てお り,常 に教室全体 に目を光 らせてい るため,生徒 の ささや き声 す ら聞か れ る ことはない。つ ま り, ち ょっ とした遊戯 す ら許 されず, ましてや派手 な イタズ ラな どもってのほか となってい るわ けだ。 さ らに, この教師 は ≪ 教 師 の名≫ によって生徒 の主体化 を行 うわ けだが,教師か らの呼 びか けに絶 えず 答 える生徒 によって教室 内の秩序 は保 たれてい るので ある 。
さて,近代 的イデオ ロギーが作 用す る教室 と前近代 的モデルが支配 的な教
室 の比較 を ここにみたわ けだが,すべての学校 が この どち らか と全 く同 じ形
式 を とることが ないの は言 うまで もない。重要 なのは, 2 つのモデルの移行
が連続 的 に行 われたので はな く, さ らな る運動 ( 闘争)を展開 させ るた めに,
いった ん 「 切 断」が なされてい る とい う点で あ ろう。 た とえ表面的 にゆるや
かな移行 が記述 しえる として も, そ こには大 きな断絶 が あったのだ とい うこ
とは確認 しておか な けれ ばな らないので あ る 。 ラカ ンー アル テ ュセール にお
ける主体化 のモデル の内にすで に,後 のダイナ ミックな主体形成 を描 き出す
契機が あった ことを指摘 し, フー コーの業績 をその単 な る継承 的作業 と捉 え
フー コーの (権)力論 の歴史的脈絡
36f )
て しまって はアルテ ュセール の ≪自己批判 ≫ を十分 に理解 して いない ことに な る 。 また, アルテ ュセール のイデオ ロギー一般 の構造分析 にみ られ る安定 的側 面 をフー コーが徹底 的 に批判 した とい う見 方 もや は り妥 当性 を欠 くこ と にな るだ ろ う。 ここには, いわ ゆ る 「 批判 的継承 」 とい うスタイル に関す る 重 要 な問題 が提起 され てい る と思 われ るが, この間題 について は機会 を改 め て検 討 した い。 ただ少 な くて も, フー コー ー浅 田が近代 的主体 の形成 過程 を 考察 す る際 に,前近代 のそれ を も同時 に強 く意識 化 して いた とい うこ とだ け
は見逃 して はな らない。
この点 を確認 した上 で,再 び前近代 の学校 に戻 ってみ る こ とにす る 。 ここ で注 目 しな けれ ばな らないの は, もはや ≪ 教 師 の名≫ において生徒 を主体化 す る厳格 な教 師 の姿 で はない。 そ もそ も, この教 師 は威圧 的 な 目で生徒 を呪 みつ けてい るよ うで も,実 はすべて を見 てい るわ けで はないか らで あ る 。 板 書 す るた め後 ろを向いた とき,一人 の男 の子 が さっ と立 ち上 が りこの教 師 の 物 まね を してみせ, みんなの クス クス笑 い をさそ う 。 後 ろの方 にい る男 の子 は こっそ り隠 し持 っていた菓子 を口にす る。机 に立 てか けた本 のか げで気 づ かれ ない ようにいたず ら書 きを していた女 の子が ふ と窓 の外 に 目を遣 り遠 く
を眺 めてい る。学級委員 の女 の子 は よそ見 な どせ ず,黒板 の方 を向いて ノー トを とって い るか もしれ ないが, ともか く, この ような光景 が展開 され うる この教室 にはそれ な りの 自由が あった ので あ る
。そ して この 自由が,近代以 降 の教室 で見 か けた手 あそび とは全 く異質 の もので あ る ことは間違 い ない。
とはい え,我 々 は今 ここで前近代 的 な教室 に戻 って, いたず ら好 きの男 の子 に回帰 す る こ とを単純 に肯定 す る こ とはで きない し, また そ うして はな らな い。前近代 にお ける この よ うな祝祭 的空 間や そ こで の遊戯 の意味 を全 く否定 す るわ けで はないが, こうした ス リル あ る侵 犯 的行為 を この教室 が最終 的 に は包摂 して しまうか らで ある。 だか ら近代人 は まさに浅 田の指摘 す る通 り,
「 不幸 な道化」にな って しまってい るので あ る 。21 それで は,もはや後戻 りす る
2 1 .浅田,『 構造 と力』 ,2 1 4 貢。
27 1 0
人 文 研 究 第89
輯ことので きない我々 は一体 どこへ向か えばよいのだ ろうか。 浅 田は ここで「 第 二 の教室 にいる子供たちが 目指すべ きは,決 して第一 の教室で はな く, スキ ゾ ・キ ッズのプレイグラウン ドとしての,動 く砂 の王国なのである」 と我々 に呼 びか けている
。22この ように, フー コーの権力 ‑関係 とい う概念 を用いてアルテ ュセール再 検討 を試 みた浅 田は, この誘 いの言葉 によ り, 自 らがアルテュセール を批判 的 に継承 し, さらなる運動 に向かってい ることを提示す る 。 つ まり,近代西 欧 における主体一般 をめ ぐるアルチュセールの闘争 は近代以降の権力 ‑関係 のダイナ ミックな分析へ と力 を与 え, さらにフー コーの理論的作業 によ りス イ ッチバ ックしなが らも闘争 に加速 をつ けていること, しか も速度 を増 した この新 たな主体 はアルテ ュセールの ≪目的な し主体 な しの過程≫ を全 く別 の や り方で実践 していることが示 されているのである。 この新たな主体 ( 浅 田 は 「 良 きギ ャンブラー」とも呼ぶ)は,前章 の冒頭ですで にみた二つの レヴェ ル を反復横飛 びす るので はな く,外へ外 へ と出て,「 舞踏」す る
。23広大 な砂漠 に一人飛 び出 した者 は,極 めて孤独 な存在 で はあるが,空 しい反復運動 の代 わ りに自由な遊戯 を実践 す る悦 び を知 りつ くしてい る とい うわ けだ。 した が って,必要 なの は,外へ出 る勇気 と踊 り続 ける体力 を身 につ けることであ
ろう。 「 動 く砂 の王国」 はす ぐそ こにあるのだか ら。
Ⅳ
ところで,教室 の片隅で,机 に本 を立 てか け, こっそ りとイタズラ書 きを していたあの少女 は今, どうしているのだ ろうか。学校 は もうす っか り様変 わ りして しまい,以前 の学校 が どん なで あった のか を思 い出す の も難 し く なって しまった。教壇か ら教室 の後 ろの方へ と歩 いていった怖 そ うな先生 は
もう戻 って くる気配 もない。窓 の外へふ と目を遣 る と,何や ら新 しい遊 び場
2 2 . 浅田,『 構造 と力』 ,2 2 7 頁。
2 3 . 浅田,『 構造 と力』 ,2 2 8 頁。
フー コーの(権)力論の歴史的脈絡
27 1
が突如 出現 していて, そ こで は何人 かの元気 な男 の子たちが見慣れぬ踊 りを 楽 しそ うに踊 ってい る。アスファル トの校庭 だ った はずなのだが,地面 は何 だかサ ラサ ラ としていて, とて も気持 ち よさそ うである 。 外 か らの誘 いの声 に対 して彼女 は席 を立 つ勇気が持 てるだ ろうか。 あんなに も素早 く,つ まづ くことな く踊 り続 けることがで きるだ ろうか。 ここで, この少女 とともに本 論 の出発点 となった フー コーの 「 監獄」 について まとめてお こう。
●●
まず,後期 アルテ ュセール にお ける 「 国家」が ≪国家装置≫であった よう
●●
に 「 監獄」が一 つの建築装置 として定義 されていた点 を忘れてはな らない。
「 監獄」はいわゆる刑務所 とは全 く異質の ものであるが, それ はイデオ ロギー 的側面か らだ けでは捉 えきれ ない 「 監獄」 の装置性 によるのである。 つ ま り
「 パ ノブテ イコン」か ら ≪ 一望監視方式≫の機能 を単 に抽 出す るだ けで は不十 分 であ り, まず もって 「 監獄」が誕生す る必要性 を考 えなけれ ばな らないの で ある。 したが って今後,学校や工場や病院等,様々な装置 にお けるズ レを 考察す る際 に も, ここでの 「 切断」 の意味 をアルテ ュセール と共 に, あるい はフー コー と共 に考 えていかねばな らないだ ろう。なぜな ら, 我々が アルテュ
●●
セール を批判す るので あれ ば, その批畢極言 彼 の ≪自己批判≫ と全 く同 じもの になるはずがないか らである 。
次 に, こうした 「 切 断」か ら得 られ る運動 ( 闘争 も逃走 も含 む)の力が内 へ入 るにしろ,外へ出 るにせ よ,批判 の対象 を常 に内在化 している点 に注 目 しなけれ ばな らない。≪ 一望監視 方式≫の驚異的拡散 とい う点か ら近代以降の 主体化 を論ず るのであれば, またいわゆる刑務所が現代社会 において示す係 数 の低 さを考 えれば, アルチ ュセールの指摘 に したがい, フー コー は≪ 学校≫
の誕生 を記述 して もよかった ‑ あるいはそ うすべ きだ った ‑ と思われ る
か らである 。 もちろん 『 監獄 の誕生』 は ≪一望監視方式≫のみを扱 ってい る
わ けではない。学校 に関す る指摘 も数多 くなされているが, フー コー はまさ
に 「 監獄 」 の誕生 を問題 にしたのである 。 さらに,浅 田がダイナ ミックに提
示 す る近代以降の学校風景が極 めてパ ノブテ イコン的で あることか らもわか
るように,我々 は学校 のイメージを通 して フー コーの 「 監獄」へ と戻 ってい
2/ I 2
人 文 研 究 第8 9
輯るので ある。時間的 には,前近代 へ と。そ して, この ことか ら,前近代 の「 監 獄」 も ≪支配一被支配≫ とい う抑圧的図式 に よって は説明 しつ くせ ない もの とな って くるので ある。 この ようにして,古 い監獄 です ら権 力 ‑関係 の観 点
●●
か ら検 討せ ざるをえない ことが示 され, フー コーの 「 監獄」 はまさし く歴史
●
的背景 とな るので ある。 そ して これ らの ことを踏 まえて, つ ま り, アル テ ュ セール によ り国家 が ≪国家装置≫ と定義 され, フー コー に よって権 力が関係 として捉 え られ るようになった ことを強 く意識 して はじめて,我 々 は浅 田の ように外部 へ,真 の意味での外へ と向か うこ とがで きるのである。
ただ し,権 力 ‑関係 の分析 は, フー コーの理論的作業 であるだ けでな く, 同時 にフー コー流 の実践 で もあ るとい う点 を見落 としてはな らない。 この点 を抜 きに して,真 の外へ向か うことはで きず, か えって権力 ‑関係 を とりま
く複雑 な絡 み合 いが ます ます見 えな くなって しまうか らだ。 フー コーの権 力 論 は 《 支配一被支酉己≫の構 図で は理解 で きない.だが,≪見 る一見 られ る/支 配一被支配≫ の 2 つの レヴ ェル を図式的 に示 しただ けで は,我々の取 り組 む 課題 が大 き くなった とい うだ けで あろ う。そ して,そ こか ら力 を もって外へ, 外へ と飛 び出 した者 が現れた と知 るだ けであって は, それ はあ ま りに も空 し い理論 で ある。
それで は ここで,浅 田が逃 れ出た 「 砂 の王 国」が我 々 のす ぐそばにあった ことを思 い出 してみ よう。 そ こにい る子供 たちは,理想 と現実 を同時 に楽 し み,二 つの レヴェル のズ レを笑 い飛 ば して楽 し く踊 ってい るのだが,一体, 誰 が この 「 砂 の王 国 」 とい うプ レイグラ ン ドに飛 び出す ことがで きるのだ ろ うか。 ここで,誰 が 「スキ ゾ ・キ ッズ 」 になれ るのか, とい う問題 について 考 えてみたい。答 は もち ろん 「自明」 な もので ある 。 実 は,誰 もこの 「 幸福 な道化」にはなれ ないのであ る。 とい うの も,我 々 は もうすで に「 パ ノブテ イ コン」 のか ら くり‑ それが コロンブスの卵 であった こと‑ を十分 に知 っ てい るか らで ある
。もち ろん,浅 田の主張 はあ る意味で は間違 っていない。近代以降 の主体一
般 が抱 える問題 を考察 し, そ こか ら新 しい主体 の誕生 を実践 す る姿 は十分 に
フーコーの (権)力論の歴史的脈絡 273
評価 されなけれ ばな らないだ ろう
。しか し, こうした新 しい主体 の実践 スタ イルが多様 で あるな ら‑ 砂 の王 国の踊 りが ワンパ ター ンで ある ことはない だ ろう‑ そ こでのズ レも,もう少 し立 ち止 まって見 つめなけれ ばな らないO
「 幸福 な道化」には誰 もなれない と述べた ばか りだが, この部分 を 「 誰 で もが なれ る」 あるいは少 な くともその可能性 はある と言 い換 えて もよい。 とい う の は, この 「 幸福 な道化」とは,≪見 る一見 られ る≫とい う関係 によって主体 化 が な されたいわ ゆ る人 間 とは切 り離 された存在 であ り, いわ ば非人 間的主 体 であ るか らだ。 したが って,「 切 断」 がな されれ ば,誰 で も 「スキ ゾ・ キ ッ ズ」‑ コンピュー タ・ チ ップ をつ くるア ジアの女性 の化身で もあ るサイボー グの ように,この新 しい主体 は複数 の主体 で もあ る ‑ になれ るが,その「 切 断」作業 を行 わ なけれ ば, いつ まで も人 間的主体 に とどまる とい うことにな
るのであ る。
ようす るに, 『 監獄 の誕生』において明 らか にされ る権力論 とは ≪見 る一見 られ る≫ とい う視線 の問題 を分析す るだ けでな く, その関係 を もダイナ ミッ クに変 える もので あったのだ。浅 田が主張す るように, 「 砂 の王 国」のモデル を近代以前 の 「 学校」 に もとめる ことはた しか に反動 的であ る。 この教室 で 許 され る遊戯 は,空間的 に も時間的 に も極 めて限 られた もので あ り, ここで の遊戯 が どんな に自由な ものであって も, それ は超越 的 な絶対他者が すで に
●● ●●
存在 す る ことを認 めているか らであ る 。 しか し, この王 国で踊 る子供 たちの 姿 を想像 す る とき,教 師のスキ をみて,素早 く後 ろを振 り向 きユーモ ラス に 物 まね してみせ たあの男 の子 を思 い描 くことがで きないだ ろ うか。少 な くと も,私 はそ うした男 の子 の姿 を想像 して しまう。 もちろん,彼 らが見 る/見 られ る とい う二元論 の内 にあ って超越 的 な地点 を探 し求 めてい るわ けで はな
●●●●
いが, こうした二元論 を越 えた 《 外部≫ にい る新 たな主体 が,理想的 な目を 輝 か していない ともい えないだ ろう。 また新 しい主体 は「 良 きギ ャンブラー」
とも呼 ばれていたが, それ はあの男 の子 の ように一瞬 のスキ をつ く才能 を兼 ね備 えてい るか らだ。 だ とすれ ば, 「 見 る」意味 を全 く新 しい ものに変 えて し
まう力 を 「スキ ゾ ・キ ッズ」 はフー コーか ら得 てい るので はないだ ろうか。
27 4
人 文 研 究 第8 9
輯ここには ≪ 一望監視 方式≫ の展開 をまさに 「 一望監視」 の下 に鮮やか に描 き 出す フー コーの力が認 め られ るのである 。
しか し, もしそ うで あるな ら, つ ま り,新 しい 「 見 る」 目を もつ ことが実 践 され うるのだ とすれ ば,≪ 見 る一見 られ る≫関係 は別 の角度 か らも切 る こと がで きるはずで ある。切 られ るはずだ と言 った は うが いいか もしれ ない。 つ
●●
ま り,新 しい主体 の誕生 は見 る/見 られ るを越 えた ≪内部≫ で,極 めて現実
●●
的 な 目をみせ ることで も実践 され うるので ある。 とい うのは, 自分 が全 て を 見 てい る と思 った瞬間 に, もしかす る と自分 は誰 か に見 られてい るか もしれ ない と主体 が感 じるのであれ ば,新 しい主体 が 「 見 られ る」 ことに多様 な意 味 を探 る ことによって,見 る/見 られ る とい う二元論 を崩 して しまって も全 く不思議 で はないか らだ。 もちろん, こうして誕生す る新 しい主体 が全 く何 も 「 見 る」 こ とが ない とい うわ けで はない。ただ,少 な くとも 「 砂 の王 国
」にい る子供 た ち とは違 う目をしてお り,外へ出て舞踏 す ることもない。 この ような新 しい主体 は,教室 で背筋 をピン とのば して黒板 を見 ていた あの学級 委員 の女 の子 に似 て いるか もしれ ない。彼女 はバ レエ も踊れ るのだ。だが, ここで外 に出て舞 った りは しないだ けなので あ る。≪一望監視方式≫を鮮やか に描 き出す フー コー は,「 見 られ る」ことに も同時 に力 を与 えてい るはずで あ る。 だか ら,教室 で教 師の物 まね を していた男 の子 が, ある日突然,全女生 徒 の憧 れの的 になっていた ら, それ はち ょっ と危険か もしれ ないのだ。 ここ で,アルテ ュセール に よるラカ ン批判 を もう一度思 い出 してみ よう。「 子供 が 十全 な意味 で象徴秩序 に参入 して主体 となるまでには長 い苦 しい闘 いが闘わ れ なけれ ばな らない」 ように,主体 が新 しい主体 に変 わ るこ ともそれ ほ ど簡 単 にはなされ ないが, か といって決 して実現 しないわ けで もないのである 。
以上 で, 『 監獄 の誕生』にお ける権力論 の考察 をひ とまず終 え,次 の三点 を
指摘 す ることによ り,本論 か らの新 たな出発点 としたい。 まず,近代以降 の
主体化 に関す る問題 を検討す るには,様 々 な具体 的 レグェルで フー コー を歴
史 的 に捉 え直 す必要が ある。新 しい主体 のあ り方 を提示 した浅 田 は,アルテ ュ
セールのイデオ ロギー論 を考察 す る ことか ら, フー コーの権力論 にさらな る
フーコーの( 権) 力論の歴史的脈絡
275「 切 断」 の必 要性 を兄 いだ してい る。 つ ま り, 闘争 ( 逃走 )運動 には 「 切 断」
す る力が必 要で あ り, この力 が理想 と現実 のズ レをユーモ ラス に笑 い とばす 悦 び を与 えて くれ る とい うのだ。 だが, 「 切 断」に は様 々 なスタイルが あるの だか ら, この作 業 の結 果が同 じで あ って も ‑ 新 しい主体 は もはや 肉眼で は 確認 で きない ほ ど微細 に切 り刻 まれ るだ ろ う‑ そ こで の切 り方 に もう少 し こだわ って もよい はず で あ る 。 こう考 えるの はあ ま りに 日本人 的す ぎるだ ろ うか。 ただ少 な くとも, 「 切 断」の過程 で 隆的差異 の問題 を見落 とす ことはで きないで あ ろ う。新 しい主体 が ジェ ンダー を超 えた複 数 の主体 で あ るな ら,
「 見 られ る」 と 「 見せ る」の微 妙 なズ レを詳細 に検 討 す る必要が あ る。何 も女 性 が常 に 「 見 られ る」立場 にあ る とい うので はない。浅 田が分析 す る前近代 的 な絶対 他者 はそ もそ も 「 見 られ る」存在 で もあ ったわ けで, この点 か らの 研究 は今後 ます ます重 要 にな る と思 われ る 。24
次 に重要 なの は, フー コーが提示 す る権 力 ‑関係 の概 念 は浅 田の理解 す る よ うに極 めてダイナ ミックに展 開 され て はい るが, そ こで中心 的 に扱 われ て
●●
い る問題 が近代以 降 の西 欧 にお ける主体化 に関す る もので あった とい う点 を 見落 とさない こ とで あ る 。 アルテ ュセール のイデオ ロギー一般 の構造分析 に み られた スタテ ィックな一面 はそ う簡 単 には否定 で きず, また浅 田の い う新
しい主体 が グローバ ル な ‑ もはや地球 レヴェル に とどまる こ とはないだ ろ う ‑ もので あって も, そ こはか とない余韻 が 「 切 断」 に残 るの は当然 で あ る。世界 的 な資本 主義 にお ける 日本 の視 点 か らもう一度 「ダイナ ミック」 の ニ ュア ンス を検討 す る必 要が あ るので はないだ ろ うか
。25最後 に文 学 につ いて一 言。パ ノブテ イコ ンにお ける ≪一 望監視 方式 ≫ はそ
2 4 .1 8 世紀 における女性の表象 をフーコー的視点か ら捉 えた もの としては次の文 献 を参照 されたい。今井裕美 " TheRe pr e s e nt a t i o no fHuma nBe i ngsi nt he
̀ Ⅰ nt e r po l a t e dEpi s o de s ' o fThe Se a s o ns " ( 『 試論』第 3 2
集,1 9 9 3 年) 1 11 6 頁。
25 . アルテュセール以降の西欧における批評理論の状況 とその問題点については次
の文献 に簡潔にまとめられている。大田信良「 解釈 について ‑ デ リダ と理論の
位置 ‑ 」 ( 『 秋 田英語英文学』第 3 3 号 ,1 9 9 1 年) 3 2 ‑4 4 貢。
2716 人 文 研 究 第