宗教の言説と文化的・歴史的文脈
著者
廣澤 隆之
雑誌名
国際哲学研究
巻
6
ページ
16-21
発行年
2017-03
URL
http://doi.org/10.34428/00008850
宗教の言説と文化的・歴史的文脈
廣澤隆之(大正大学)
はじめに
今回のシンポジウムでは宗教が関与する対立と抗争が激化する現代において、その対立を助長す る異なった複数の宗教が共存できる可能性を探る、という課題が私に与えられた。正直に告白する と、この難問に対して私にはほとんど発言すべき言葉が見つからなかった。なぜなら人類が存続す る限り対立と抗争は止むことがないという絶望感を私は平素から懐いており、そしてまた人類は常 に宗教あるいは宗教的なるものを捨てることができないという確信をも懐いているからである。宗 教が存在し続けるなら対立と抗争を止めることがない人間社会では宗教はその戦いの場でさまざま に機能すると思われる。 やっかいなことに、人間は戦争を嫌い平和を求めるために戦争を繰り返してきた。平和を実現す るために、その障害となる悪を克服する戦争が有史以来繰り返されてきた。しかし善と悪との対立 も、所詮は人間の愚かしい価値判断によるのである。悪とされた社会集団も自らを善と価値付け、 敵を悪と見なしているのである。善悪は価値判断であり、しかもその根拠は多くの場合に宗教ある いは宗教的なるものに求められている。したがって他者を否定する戦いは多くの場合に宗教的理念 の言説で導かれる。 たとえば、かつて全世界を震撼させた2001年の同時多発テロの後に、アルカーイダを殲滅す ることを目標としたアメリカ軍によるアフガニスタン空爆が行われたが、その攻撃を正当化するブ ッシュ大統領は演説で正義 justice を強く主張した。欧米人が強く意識するこの justice という観念は その起源を新約聖書のギリシア語 dikaiosynee に求められるキリスト教神学に由来する。 このように行為規範として宗教が求められるなら、戦争はしばしば宗教間の争いの様相と理解さ れる。しかし戦争など人間の対立抗争はその理念的根拠を宗教に求めたとしても、実態としては政 治的あるいは経済的動機がその現実化の原因となっているといえる。極端な宗教間抗争も世俗的欲 求を満たす動機を秘めている場合がほとんどである。 宗教に起因する対立抗争と見られがちな現象も宗教教理を詮索することでは理解できないであろ う。しかし対立抗争が宗教間の対立の図式となっている場合も多いのであり、その対立抗争を終息 させるために宗教がどのような役割を担うのかは真剣に論じられねばならない。 さてこのように問題を俯瞰し、そこに仏教はどのように関わるべきであるか、あるいは無関心を 保つのか、といった考察を試みてみたい。ただしここではしばしばこのような論考をするために余 計な仏教教理の解説は省くことにする。また、仏教教理学特有の難解な術語の使用をできるだけ控 え、仏教を学ぶ立場の外に向かって問題提起をしたい。しかし私の論考の大乗仏教の基本的な教理 学にもとづく。2.先鋭的宗教と文明の相剋
ハンチントンの例を出すまでもなく、人類が築いた世界史的な文明が相互に衝突し、深刻な状況 をもたらしている例は数多くある。そのうちで現代社会において最も先鋭的な形で問われているの が欧米の文明社会とイスラームの関係であろう。またそれに関連するイスラーム国家間の(それは 往々にしてスンニ派とシーア派の対立と並行的である)対立も深刻である。 このような対立抗争は西洋近代が実現した世俗的世界認識と伝統的な宗教的世界観の相剋とも考 えられる。すなわち、西洋近代は十七世紀の科学革命を基礎に世界認識を根本的に変革し、近代社 会を成立させてきた。それは科学のことがらであるにとどまらず、人間存在についての根本的な了 解のしかたが変化したことでもある。科学知をもたらす思惟能力、理性をそなえる人間を中心に世 界を把握するようになる。そして理性的人間の集団として社会思想も構築される。換言するなら神 に属する理性が地に下り、人間にその本質を見るようになったのである。そのような人間が中心に なる世界こそ神を離れた世俗といえる。すなわち近代とは世俗の徹底として文明を作り上げたので ある。 しかし伝統的な宗教世界においては人間は理性的に自立しておらず神の支配のもとに生きるので ある。したがって神の命令あるいは神との契約に忠実に生きることが求められる。それゆえ生きる ための規範はすべて神との関係において決定される。このことが最も明確に示されているのは『ク ルアーン』であろう。そこでは立法と司法は唯一神が所管するのであり、行政も神から与えられた 規範を遵守するものでなければならない。 ところが世俗社会では理性的に自立した人間の生存の条件を「自然」ととらえ、そこに人間であ ることの基礎を認めた。その価値こそ自由・平等そして人権といった観念として欧米社会を超えた 普遍的価値と認められている。しかしそれらの観念が普遍的であるという現代社会の常識も宗教的 世界と対比させれば普遍性が保障できない。 このように世俗主義と宗教的規範意識が鋭く対立する壁に欧米社会は直面しているように思える。3.仏教思想の特徴
さて、それでは仏教の思想では、このように欧米あるいはイスラームで強く意識される社会的規 範が準備されているのであろうか。そのことを考えるヒントとしてプロテスタント神学者の P. ティ リッヒを私は思い起こす。彼は日本において哲学者や仏教僧侶(禅宗僧侶)と対話をし、帰国後に 『キリスト教=仏教対話』(邦訳は桜楓社刊)にまとめて公刊した。そこで彼はキリスト教では目的 (telos)を神の国に定め、その理想を人間社会に実現させようとするが、仏教では目的を涅槃に求 めるので「無」が理想となるという。このような理解に疑問があるとはいえ、彼は無を理想とする 仏教思想には社会に関与し、世界を変革する動機が見られないと考え、果たして日本に民主主義が 定着するであろうかという問いかけをする。 この彼の指摘はある意味で妥当であろう。すなわち仏教は直截にいえば社会思想を用意していな いと考えられる。たしかに大乗仏教では利他行に邁進する菩薩であることの自覚が修行の眼目であ り、社会への積極的な関与が重要とされる。しかし仏教教理では関与すべき社会を思想的に体系化 することはしない。むしろ関与する人間社会において、その社会性がはぎ取られ、人間社会に生きる宿命的な迷いや苦悩を克服することに主眼をおいている。したがって仏教にはキリスト教やイス ラームのように社会思想、あるいは社会規範が具体的に説かれない。 その一例として、ここでは「法 dharma」の観念を考えてみたい。そもそも古代インドあるいはヒ ンドゥー社会では「法 dharma」は『ダルマシャーストラ』や『マヌ法典』にみられるように社会を 維持する規範となる正義の意味をそなえていた。しかし仏教ではこの語が維持を意味するところを 取り込んで、人間存在を維持する構成要素、ひいては「存在軌範」を「法 dharma」と理解する教理 学が展開された。たとえば生命体を構成する要素、すなわち存在軌範として色・受・想・行・識の 五蘊を設定する。そしてそのいずれの「法 dharma」にもアートマンが認められないので諸法無我を 説く。 このような存在軌範となる「法 dharma」の相互連関を系統的に把握する学問としてアビダルマ仏 教が展開した。ここでその教理学を詳細に述べることは控えるが、注目すべきある重要な観点を述 べておきたい。 この「法 dharma」の解釈についての議論に不満があった和辻哲郎は『原始仏教の実践哲学』をは じめ種々の論文で重要な論考を加えている。そこで和辻は「法 dharma」を「エイドスの如きもの」 と理解している。この場合の「エイドス」はプラトンの思想から導き出したと推測され、それは「イ デア」とも考えて差し支えないであろう。 プラトンのイデアの如く、アビダルマ仏教では「法 dharma」を実在と考え、その存在軌範のさま ざまな連関で人間存在が成立すると考えていた。そして「法 dharma」の相互連関を詳細に考察し、 釈尊の説法の真意を求めようとしたのである。しかし大乗仏教では般若経を嚆矢として、この「法 dharma」の実在性を認めず、それらの観念は言語による虚構(戯論)にすぎないとした。そしてこ の言語による虚構が消滅した状態(空性)に到達することを目標とする修行の体系を構築した。 このように大乗仏教思想においては宗教体験と言語の関係に焦点をあてた教理学が展開するので、 そのことを念頭におき、さらにはその言語と社会思想との関係を視野に入れつつ問題提起を続けた い。そのために中国の天台教理学に決定的な影響を与えた龍樹の思想をとりだし、この問題を考え てみたい。
4.体験とその表現としての言語の関係
空性思想の理論体系を構築した龍樹は『中論』において体験と言語の関係をさまざまな角度から 論じるが、その最も中核となる思想がその著作の第二十四章(観四諦品)第八偈に示されている。dve satye samupāśritya buddhānāṃ dharmadeśanā/ lokasṃvṛtisatyaṃ ca satyaṃ ca paramārthataḥ//24-8
鳩摩羅什訳 諸仏依二諦 為衆生説法 一以世俗諦 二第一義諦 私訳 二つの諦にもとづいて諸仏の法の説示がある。 世俗諦と勝義としての諦とである。
ここでいう世俗とは教理学によれば「約束のとりきめ」の手段である言語慣習(vyavahāra、言説) であり、それは言語を基礎とする日常生活である。言語体系を基礎とする日常的な人間活動として
の文化ととらえても構わないであろう。すなわち世界認識の文化的基礎としての言語慣習を世俗と いうのである。そこで把握される現実あるいは実態を諦というのである(ちなみに学界では「諦 satya」 を「真理」と訳す常識があるが、私見によれば妥当ではない)。この世俗諦と対比して「勝義として の諦(第一義諦)」が想定されている。この勝義(paramārtha、第一義)とは字義通りには「究極の 目的」のことであり、それは釈尊の菩提樹下における究極の体験という現実(satya、諦)のことで ある。 すなわち宗教的言語は文化的・歴史的制約を受ける日常言語にもとづき、しかも言語化される以 前の究極の体験の現実が表出されたものである。ここに世俗諦=言語領域と勝義諦=非言語領域の 二項関係として宗教的リアリティは理解されている。すなわち言語化される以前に究極的なリアリ ティが体験され、その体験を日常言語のなかに表出する、その総体が宗教を成立させているといえ よう。 そして日常言語は究極的なリアリティそのものを指示するにすぎず、言語は体験から乖離してい ることは仏教では強く意識されている。有名な「筏の喩え」もこのような世俗諦という言語に対す る仏教の見解とも理解できる。仏が示した「法 dharma」も究極の目的に到達するために言語によっ て指示されたのである。「筏は、向こう岸に無事に渡れば、・・・中略・・・それ以後は担いで持ち 運ばれるものでは無く、そこに置いておくべきものである」(片山一良訳『中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇』Ⅰpp.29-30)とされる。すなわち言語は便宜的なものである。文化的・歴史的な文 脈での「約束の取り決め」として便宜的なのである。 それゆえこのような言語化された「法 dharma」は「執着されるべきではない」(前掲書)とされ る。実は、この示された言語表現への執着を離れることは、今回のシンポジウムにおける重要な問 題提起になるのではないかと考えられる。というのも、教義学を体系づけた宗教は言語表現された 「真理」を掲げ、自己の立場の優位性を確定しようとする。しかし「真理」という観念は自己主張 を増幅させ人間を争いに巻き込む危うさを内包している。 そもそも真理は言語による実在の探究、「ロゴスにしたがって katalogos」探究され解明された事 態である。言語把握された実在の論理的整合性が妥当と承認された事態が真理とされる。 ところが仏教で究極の目的 paramārtha、真実在は言語領域にはなく、非言語領域の究極的な体験 的事実とされるのである。このような非言語的実在把握について、井筒俊彦は『意識と本質』の副 題に示すように「精神的東洋」の思想的特徴であると見る。井筒によればこのような「精神的東洋」 は思想の歴史的連関を捨象し、文化的・歴史的文脈に規制される言語表現を超えた実在把握を求め ることであるという。端的にいえば、仏教では言語にもとづく論理探究における整合性を究極的な 真実と見なさないのであるから、仏教は真理を主張する宗教ではないといえよう。 このように便宜的指示機能としての言語の文化的・歴史的文脈の制約を超えた宗教の体験的事実 は、神秘主義において明瞭であると思われる。そのことは R.オットーが『西と東の神秘主義』で示 したとおりである。そして R.オットーは『聖なるもの』においてヌミノーゼという非合理な宗教感 情・体験を言語的に合理化する機能に注目し、合理(言語領域)と非合理(非言語領域)の複合と して宗教が成り立つことを示している。 このように宗教における神秘体験を尊重すれば、真理の妥当性をもって主張をぶつけ合うような 教義論争、宗教間の理念的な真理論争は宗教における本質的なものではないといえる。
5.宗教体験の価値づけ
先に示した R.オットーの『聖なるもの』は宗教の合理的側面を解釈するのではなく、人間に本来 的にそなわっている非合理な要素である宗教感情をヌミノーゼとして把握する画期的な視点を提示 している。そこで列挙される宗教感情の表現の多くは『旧約聖書』から引き出されており、すべて の宗教を彼の示す宗教感情の形式にあてはめて理解することは妥当ではないが、言語的に論理化す る以前の宗教的な原体験を指示する考察として有効であると思われる。とりわけ宗教の本質として 非合理的要素を取りあげていることを評価したい。 この非合理的な要素は R.オットーがいうように宗教感情というよりも神秘体験として理解する ことも可能であろう。いかなる宗教も、その根源において日常を超える神秘体験を基礎にしている のであり、その神秘への共感が種々の宗教的言説を成り立たせているともいえる。その宗教的言説 は文化的・歴史的文脈のなかで成立するが、その根源には歴然とした宗教体験があるといえる。 この神秘的な宗教体験への配慮をすることなく、宗教的言説を教理的基準で価値づけることは宗 教を理解する前提を見失うことになるであろう。 しかも人知を超えた絶対的な実在を体験的に受けとめる神秘体験は言語の制約を受けることがな い。したがって異なる宗教であっても神秘体験そのものは通底している。そのことはすでに R.オッ トーが『西と東の神秘主義』でキリスト教の神秘主義者である M.エックハルトとインドのヴェーダ ーンタ哲学のシャンカラを並べ立てて論じたことでも知ることができる。さらには井筒俊彦が「精 神的東洋」として提示したのもイスラーム神秘主義や老荘思想、そして仏教思想も、さらにはプロ チノスの思想までも包括する言語化される以前の宗教的な原体験といえるものである。このような 視点を重視するならば、もはや宗教的相剋としてしばしば議論されるような宗教間論争などの議論 とは異なった方向を求めることができるであろう。 端的にいえば、異なった宗教間での真偽論争、真理論争とは異なり、いずれの宗教であっても深 い神秘体験によって現れ出る人格への謙虚な敬意こそ必要なのではあるまいか。言い換えれば文化 的・歴史的文脈から離れた人間的本質、体験的事実を尊重することが求められるのではなかろうか。 たしかに体験は言語化されれば文化的・歴史的文脈に組み込まれる運命にある。そしてそのよう な言語化によって構成された信念体系は宗教に構成に欠かせない。しかしそのような言語化される 以前の体験的事実へと志向する立場を確保すれば異なった宗教間における異なった信念体系を自ら の信念体系を基準にして価値づける以前に、異なった宗教における神秘体験、信仰の態度への敬意 があれば、それだけでも宗教間の対話の可能性は開かれるであろう。それは宗教の言説空間におけ る異宗教間の相互理解、あるいは宗教における寛容などといった議論とは異なるはずである。 宗教言説空間での宗教間対話は相互に理性をもって相互理解をめざすのである。それを鎌田繁に 倣って「ロゴス的対話」としよう。それに対して言説化以前の神秘体験を相互に確認し合う霊的交 わりは「非ロゴス的対話」と見なせる。そしてこの「ロゴス的対話から非ロゴス的対話」へと方向 を定めることが異なった宗教の共存の可能性を探ることにもなると思える。(鎌田繁「諸宗教の共生 とイスラーム」、『ベルリン日独センター報告集』第三十一号、2005) しかし共存の可能性を探るということと、宗教間対立を解消する現実的方策が両立するとは思え ない。なぜなら文化的・歴史的文脈に組み込まれた言説はそれぞれの文化的価値体系に組み込まれ るということでもある。そして人間は文化的・歴史的に闘争を生み出す宿命を担っているように思える。 人類はその歴史の初めから平和を求めて戦争に明け暮れてきたいえる。その要因は多くの場合、 経済的配分の不公平などへの不満であったり、正義をかざす闘争であったりする。政治的にも経済 的にも人間は闘争を繰り返す歴史を生きる宿命にあるのかもしれない。そしてその闘争を合理化す るために社会規範・生活規範となる特定の宗教の教理を引き合いにだす。それゆえ多くの闘争は宗 教間の争いと思われてしまう。しかし、政治的・経済的現実を視野に入れれば、宗教間対立と思わ れる状況は違った視点から理解できるであろう。 人間は集団を形成し経済的に生きるかぎり争いを解消できない。しかし、そのような宿命的な人 間の現実を超える宗教体験は可能であるといえよう。