はじめに
本稿は、岩手県北の山村に生きる農婦の生活を 綴った一条ふみを考察対象とする。戦後の農地改 革を皮切りに、農村においても全国的に近代化施 策が推進され、また「上」のみならず同時に「下」
からも女性の民主平等と自由が求められる──こ の時代にあって一条は、ただ自らが育った岩手県 北の農婦のみに寄り添いその個人史を書き残し た。それらは一九六五年から創刊された自主制作 のサークル・ミニコミ誌『むぎ』に編集され一定 の評価を得たものの、今日にいたり一条が取りあ げられ論じられたことは皆無に等しい。
一九六一年の農業基本法を経て、機械化・近代 化という戦後日本の新たな国家統合下へと東北農 村が再編されつつあるなか、一条はそうした女性 たちに何をみようとしていたのか。そしてそのよ うな一条を本稿で取りあげるのには、いかなる意 義があり得るのか。
次節ではまず一条のライフ・ヒストリーを概略 し、こうした編集・文筆活動に取り組むように なった一条のバックボーンに関して、いくつかの 重要な点を指摘したい。北方性教育生活綴り方運 動の影響や、戦時中に彼女が代用教員として赴任 した岩手最僻地の貧困開拓村の極貧生活などにつ いてである。
このコンテクストを押さえたうえで、続く第二 節では一条のテクストに踏み込む。脆弱な農業基 盤の岩手県北を襲う昭和の凶作や、その生存限界 の貧農をさらに縛り上げる半封建的な地主・小作 制度、そして娘の身売りや欠食児童の増加──こ うした幾重にも連なる前近代的な貧困の連鎖から 脱却することが是とされた戦後農村近代化のも と、岩手でも自立した女性主体のあり方をめぐっ て、さまざまなサークル活動や自主発行のミニコ ミ誌を介して議論や運動を展開する女性たちが現 れていた。そのなかで、一条の綴った岩手県北の
「婆っちゃ」たちにおける農村女性としての「主 体」は、どこへ向かおうとしていたのか。この点 を意識して一条の資料を第二節でまとめた後に、
第三節では、そこに一条が近代化の流れとはまた 別に辿り着いた、県北開拓村の老婆の彷徨う果て に「土着」した主体を確認したい。
そして「おわりに」では、東日本大震災以降の 東北農業・農村をめぐる議論において、本論のよ うな一条のテクストを検討することで、いかなる 有効な議論点が得られるのかを、試論的ではある が述べてみたい。
自由投稿論文
戦後近代民主化における「三界に家なし」農婦の「土着」する主体
─岩手県北の女性を綴った一条ふみの「その地に留まるということ」
中 田 英 樹
(PRIME 助手)
第一節 文集編集家としての一条ふみ
一条の略歴
一条ふみは、一九二五年(大正十四年)、岩手 県二戸郡一戸町小鳥谷に生まれる。県立一戸高等 女学校卒業後、県内の食糧公団に勤務するが、給 料のさらに良い県北僻地の開拓村へと代用教員と して赴任する。終戦を経て辞職、結婚し子供を産 むが、夫が北海道に出稼ぎに行って生き別れた後 は地元で土方をしたり誘致工場で働きながらも、
彼女は中心となって仲間たちと同人誌『むぎ』を 自費出版で発行し続けた(1)。
──生活記録運動のひとつとして『むぎ』とい うガリ版刷りの文集を九年間のうちに二八二 八部発行した。ガリ切りとトーシャ刷りは仲 間の中でいちばん時間のある私がやり、一号 ごとに二万枚以上西洋紙を折りたたむ作業は 仲間たちみんなでやった〔後略〕。(一条 1978:163)
一九五一年にはすでに『ともしび』と題した文 集の発行活動に従事していたが、やはり一条の編 集し残したものとしては、一九六七年から二〇年 に渡って計十四巻創刊された『むぎ』である。『朝 日ジャーナル』で紹介されたこともあり一条の名 は、丸岡秀子をはじめ幾人かの当時活躍していた 女性運動家や論壇からも注目される。『思想の科 学』や『婦人之友』といった雑誌に継起的に寄稿 する一方で、ドメス出版や三一書房といった著名 な出版社からも、複数の共著や上記『むぎ』の抄 録版などの編著を発刊した。彼女のこうした活動 が最も活発だったのは一九七五年頃──男女共同 参画を掲げる国際婦人年が制定され、女性自立の 気運が最も世論を賑わしていた頃であった。
一九八〇年代になると一条は、こうした活動を ほとんど休止して「一九八一年から約十五年間は
友人と一緒に岩手県北の開拓地を耕し(2)」自給 自足的な生活を送る。この時期にも一条は本を一 冊出しているが、それは『一条ふみさんの自分で 治す草と野菜の常備薬』(一九九八年)と、大き くテーマを異にするものだった。
晩年は病を抱えていたこともあってか盛岡市に 暮らすが、後述する黒田大介といった地元の新た な若い郷土史家たちとの交流は多々あったよう だ(3)。他界した二〇一二年には、詩人高良留美 子の主催する第十六回女性文化賞を受賞してい る(4)。
文筆家・編者一条としての背景
こうした一条の文筆家あるいは編者としての活
(出典:一条ふみ『地底からのうた声』冒頭掲載の 地図より)
動のバックグラウンドについて、いくつか指摘し ておきたい。第一は母親の影響である。
──母は、会津藩の落人たちとか、大正十二年 の関東大震災で落ちのびてきた人びととよく つき合っていたようだった。それが十五年戦 争の時も強制疎開者の人びとを受け入れるも とになっていたのであろうか。
こうした付き合い方は、東北の小寒村の中 では、決して温かい目を向けられるはずがな い。強制疎開者たちに対する風当たりの強さ 以上の辛さであったはずなのに、母はいつも 泰然として笑っていた。(一条 1979:104)
一条の母親の描写からは、包容力のある逞しい 方だったと思われる。体型もかなり膨よかで、花 札や煙草が大好きであった(一条 1979:78-79)。
一条の幼少期に既に離婚しており、これは夫が遊 郭から性病をうつされてきて母親が妊娠不能に なったためらしい(一条 1976:38)。一条の綴っ た女性の例では、貧しく閉鎖的な山村での母子家 庭といえば、多くが経済的な困難を抱えていた。
だが一条の母親は商才に長けていたのだろうか。
繭買いや蕎麦屋などの商売をこなし、一条自身の 回顧でも、隣家と比してより貧乏であったような 記述はない。決して裕福ではなかったとは思われ るが、上記引用のように、さまざまな人びとを客 人として迎え入れ、そうした大勢の色々な人たち が家の中で交わす会話を聞くなかで、一条の社会 を捉える眼は育成されたと考えられる(5)。
第二は、一条の小学校時代における教師によ る、北方性生活綴り方運動の影響である。
──昭和初期の日本の初等教育界には綴つづり方教育
(今の作文教育)を盛んにする風潮がみな ぎっていた。なかでも生活つづり方という、
子供たちの生活指導をよくして、「ありのま まの生活を書く」という指導が力強く行われ た。それが東北地方で強力に進められ、東北 の土壌に根差した北方教育運動にまで進めら
れていった。そのリーダー格になったのは、
秋田県の「北方教育社」の同人たちだった。
それが本県〔岩手県──本稿〔 〕はすべ て筆者による挿入〕にも広がってきた。文集 の製作を中心にその研究とか指導を土台にし て、各地に研究集団ができて、さらに研究誌 の発刊にまで進んでいった。東磐井郡の永沢 一明らの『工作・岩手国語』・宮古の高橋敬 吾らの『綴方環状線』・和賀の吉田農らの『稗 和人』などが刊行された。その他県内各地で たくさんの人たちが研究集団に参加し、つづ り方教育のために活動し、かなりの成果をあ げた。しかし戦時色が強まった一九三五年
(昭和十年)以降は弾圧のため、その運動も 進めることができなくなってしまった(6)。 全国的な生活綴り方運動でも特に東北の北方性 に強く彩られた展開は、貧農を苦しめる根底的要 因として、次の二つを主張の全面に立てることが 特徴的といえる。農業基盤の脆弱さという自らの 自然環境的な風土性と、そして第二に、そのうえ なお農民を小作農として抑圧する、強い地主制度 を基盤に据えた前近代的半封建的な農村社会構造 である。この運動が戦時下で国家の思想的弾圧対 象となったのは、この後者の反体制性反社会性に ある。
一条の小学校時代の担任は、やがては警察に連 行される程の北方性綴り方運動の影響を受けてい た。一条の小学校低学年期とは、昭和一桁の後半 であり、東北では相次ぐ大凶作によって飢餓が深 刻化していた。全国的に被災した惨状が報道さ れ、東京をはじめとする都市部からは同情の眼が 集まっていた。
──小学校の低学年の頃、東北の特に岩手の県 北は打ち続く大凶作のために食べることの出 来ない時代が続いた。あの頃、東京からだ、
と言って救援物資がたくさん学校に送られて きていた。私たちはそれがとどくといつでも
〔中略〕残されて「お礼状」を書かせられた。
救援物資の中身は〔中略〕きちんとたたみ 込んであるのもあれば、今、脱いでよこした と思われるような、汚れたまま、ただ突っ込 んであるものもあった。〔中略〕
先生の泊まっている宿直室は、障子はぶっ こわれ、破れた障子紙に北風が吹きつける雪 を運んできて、部屋の中は雪だらけであっ た。うす暗い電球がぽろんと中にぶらさがっ ていて、ばたばたと破れた目張りの紙が風に なっていた。でもその電灯の下で、私たちは 遅くまで先生のお話を聞いていた。〔中略〕
教科書を買えぬ友人たちに春がきたら山菜を 採って売ってそれを買うことなど。厚い綿入 れの着物の袖がピカピカになる程鼻をこすり こすり、みんな目をキラキラ輝かせて先生を 囲んでいた。
「東北の──特にお前たち、僕たちの住ん でいるこの県北はふもう4 4 4の地なのだぞ」
「フモウのチ」、「ウン、ウン」私は心の中 でキョキョロして、やっと納得していた。(一 条1976:26-27、傍点一条)
岩手における綴り方運動でいえば、「北天の巨 星」とも呼ばれ、岩手の民主教育実践の源流に位 置づけられよう吉田農あつしがあげられるが、彼の主張 にも端的なように(土屋2009)、岩手における北 方性運動での北方性もまた、こうした劣悪な農業 条件が厳しいにも拘わらず、半封建的な地主制度 がさらにそれを強固にしている現状を把握し、乗 り越える気力を高めることが目的であった(7)。 一条の書いたもので自らの考えを世に訴えるとい う姿勢には、何よりもこの綴り方運動の影響が あったはずだ。
そして第三は、代用教員時代での僻地開拓村で 直面した深刻な貧困である。一条の生まれ育った 小鳥谷からもさらに僻地たる赴任先の教師第一日 目のことを、一条は次のように振り返っている。
──真っ黒な小さな手、頭髪がもじゃもじゃと している子どもたち。首も黒ぐろとして垢の 匂いがぷうんとする子どもたちが、私の目の 前で真っ黄色になった歯を出して笑ってい た。(一条 1976:76)
そこで彼女はまず、生徒たちに、手を机の上に 置いて手足を見えるように出しなさいと言った。
──教壇から降りると、子どもたちは驚いてし まって、慌てて、手につばをぺっぺっとして、
ごしごしこすり出したり、しきりに頭を掻い たりする。女の子らは大急ぎで鉛筆の芯で爪 の垢をほじくり出している。つばを手の甲へ つけて着物の裾でごしごしする子どももい る。〔中略〕緊張のために手足がびくっとし ている。汚れているので恥ずかしがって左右 の足を重ねていたり、指だけをぎゅうと折り 曲げて見せまいとしている子どもも居た。
やっと一回りしたが、どの子どもの手も足も 爪も、垢が一杯に詰まりきっていた。彼らは すっかりしょげていた。私も子どもたちを気 の毒になってしまったが、こんなことでは駄 目、と思い、自分を励まして勇気を出した。
「また、こっちを見てごらんなさい。手の 爪の間に垢がそんなに一杯入っていると、大 変なことになりますよ。汚れた手でご飯を食 べたり、おやつを食べたりしますと、口の中 からばい菌がたくさん入りますよ。そうした ら、悪い病気になってしまいますね。お医者 さまがとっても遠くて大変でしょう。(一条 1976:77)
第二次世界大戦も熾烈化していた。ただでさえ 生活はきわめて厳しいのに、「なぎなた訓練」や 校庭を畑にしての農作業、山への薪取りなど、労 働や食糧の戦時下供出で完全に擦り切れ果てた僻 地開拓農村にて、一条はそれでも家庭訪問をして 回り、落ちこぼれのでないように奮闘し、子ども たちと接する。
──貧富の差の激しいこと。部落では大多数が 小作人でやっと生活していることも知った。
地主と小作人の間柄の問題は両親の代だけで はすまされない。幼い子どもたちまで深い影 響を及ぼしている。新聞、ラジオに接してい る家庭は一七九名の児童のうち二名だけとい うのも、この土地の中の子どもたちの問題と して考えなくてはならないことである。
この恵まれない環境に育つ児童たちのため にも、学校の果たすべき使命の重大さ、教師 の使命感というものを私が深く感じないでは いられなかった。本当に大変ではあったが、
家庭訪問の結果得ることのできたものだとい う気持でもあるのだ。(一条 1976:117)
ただ注意したいのは、北方性教育運動の影響を 受け「抵抗の人」と言われた(黒田 2009:104)
一条だが、綴り方運動のかつての担任のようにな りたいと考えて、自らも小学校教員になったわけ ではなかった。むしろ食糧公団よりも給金が良 かったというのがその理由でもあった(8)。だか ら、戦時中に代用教員として子どもたちと接した その接し方とは、警察に「アマガマ」だと連行された 担任のように、あらかじめ何らかの啓蒙的信条に 基づいたものではなかった。それゆえか一条は、
終戦とともに、それまでの自らの教育活動を対象 化できなくなり、教師を辞める。
──私のやせこけてしまった魂は、精神の空白 状態の中で、大きくもがいていた。私は自己 の内部において一八〇度の転換をなし得る人 間でないことを、日々はっきりと知りはじめ た。私はそんな中で、地獄に突き落とされて いる自分を見る。チマャンダタが、釈迦の垂れマ 給いし慈悲の蜘く蛛もの糸にすがりついたよう に、そのすがりつくべく糸を必死に探し求め はじめているのに気づいた。取るべき道を 知った思いであった。(一条 1976:258)
こうして教師を辞した一条は、地元の誘致モー
ター工場で働きながらも『むぎ』の編集活動家と なっていくのだが、そこでは明らかに綴り方運動 の影響が前掲化していく。
晩年に一条は、ある日偶然乗った電車の中で、
かつての一条の代用教員時代の生徒に出会い、相 談を持ちかけられた。その生徒も、すっかり成人 して教師として働いていたが、授業での副読本に 用いようと思っていた本が、思想的理由により
「上」から禁制されたことの相談であった。戦後 民主主義教育の時代におかしい、と。それに対し、
一条は、副読本を介さずとも、先生の影響という のは子供たちに響くことを主張する。
──私たちは、その当時の教師たちによっても たらされた北方性生活綴方運動の影響を深く 受けて小学生時代を過ごしたけれど。そのこ ろ教科書にないすばらしいお話をたくさん先 生がしてくれたの。(一条 1978:210)
このように、確かな北方性生活綴り方運動の影 響を受け、しかしそれ故か一定の近代民主主義化 への是認と、古い封建的な家族制度や村制度への 否定視を抱きつつ、一条は、戦後の岩手県北に留 まり、そこに暮らしてきたさまざまな女性たちの 生を『むぎ』に綴ったのである。
一条に関する先行研究
さて、こうした一条の仕事は、現在ではどのよ うに注目されているのであろうか。結論から言え ば『岩手日報』の記者で、一条への共感から彼女 の散逸した資料の復刻活動に献身する黒田大 介(9)以外は、ほぼ皆無と言える。
岩手県企画調整部青少年婦人課編纂の『岩手の 婦人 ─激動の五十年』(一九八一年)を例に取 りあげたい。編纂したのが県企画部という一定の バイアスは否めないものの、戦後岩手農村におい て当時にいたり自立した女性として活躍してきた 女性史をまとめた本である。黒田も指摘するよう に、「岩手の女性史の大きな流れをつかむ上で基
本文献であり、〔中略〕行政の本にありがちな、
いい面ばかり書くのではなく、戦前の農村女性の 身売りなど、暗部も捉えている(10)」この岩手の 昭和女性史に、一条はどのように位置づけられて いるのだろうか。
──二戸郡一戸町小鳥谷の一条ふみのように、
ほとんど一人でこつこつと「むぎ」を編集発 行している人もある。(第1章「岩手婦人の 軌道」第1節「婦人と教育」50頁)
一条に関する言及は、彼女の小さな顔写真の下 に書かれた僅かこの二行である。この岩手女性史 の時代に、一条の活動は、どれほどの意義を見い だされていたのだろうか。
また別には、一条自身も共著者として寄稿して いる、戦前の困難に満ちた女性のモノグラフを編 集した佐藤隆夫編『日本の女』という本がある。
この「あとがき」に、編者の佐藤はこの本で登場 した女性たちの何がテーマになっているかをまと めている。
──本著の目的は、この主婦達が当時いかに真 剣に生き、悩み、そして現代の男女同権の家 族法の立法をいかに望んでいたか、その偽ら ざる真実の記録を後の世代に語り伝えたいと いうことにあるのである。
〔中略〕これらの作品を編集し終わったと き、私の心に瞬間的に浮かびあがってきた言 葉がある。それは、故村岡花子女史(現代家 族法の立法委員)の現代家族法の立法にあ たっての言葉である。
「自分は全国のいろんな職場にある婦人と 終始会っているが、その婦人の全体の声を聞 くと、戸主権を中心にして戸主がすべての権 利を持って婦人を圧迫している。こういう法 律上の家族制度がなくなるということは、な んと嬉しいことだろうか」。
また、当時もう一人の婦人委員として活躍 された河崎なつ女史も、
「家族制度をこわさなければ、婦人の私的 生活面において何ら改まることはない」と述 べられた。これらの言葉と本書の作品を照ら し合わせてみれば、この家制度の廃止が当時4 4 の全婦人の声であったに違いない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。(佐藤 1972:277;280、傍点中田。断りない限り、
以下同様)
そして一条にとっても家族制度というのは、女 性への暴力的な抑圧の装置であったことに疑う余 地はない。こうしたテーマでの共著執筆や、多く の研究会や集まりに参加し、ときには自分の意見 を積極的に発言している。同世代に文壇で活躍し ていた、石牟礼道子や森崎和江などとも、時折そ うした集まりで同席し、意見を交わすこともあっ た。三里塚の闘争や水俣の公害反対運動、六ヶ所 村の反原発闘争などにも積極的に参加し、また、
後述するNHKの『こんにちは奥さん』での出会 いをきっかけに丸岡秀子とは終生親交を深め合っ た。
だがこうやって活動する一条が、上述の岩手女 性史の著のように、今日に至ってほとんど触れら れることはない。確かに一条自身「オレには思想 などというものはない」というように、彼女の取 りあげる女性各々の個人史は、文脈や背景的な社 会構造などがきわめて多様で、結末も断片化して おり、何らかの通底する構図はクリアーでない。
また黒田も指摘するように、そして一条自身も 往々にして「底辺」としか表現し得なかったよう に、一条のテクストに綴られる女性たちの生は、
重く、深く沈み、明快な出口や解決法がなく、た だ多重に重なる困難にじっと耐え蠢く女性たちの それである。そうした一条のテクストに綴られた 女性各々の生の困難は、一般的な「女性進出」と4 4 4 4 4 4 4 4 4 いう目標から逆算したならば個別具体の負の条件4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 として以上には、対象化しづらいだろう4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。
だが本稿の試みる作業とは、こうした時代の潮 流に一条を位置づけ、一条を戦後の女性解放運動
史への「前進」としての貢献度において測ること ではない。むしろ潮流に対する一条の繋がり方に おける、直感的な違和感ともいえよう時折現れる ズレあるいは緊張関係こそを本稿では取りあげ、
一条という個別具体を議論することそのものから 何かを学ばんとすることにある。
「遠くで鳴っている鐘にしか聞こえません」
──それにしても一年間というのは短い。と、
帰る道考えた。政府主催の行事、民間のシン ポジウム、各婦人団体の独自の活動計画と か、実行委員会結成とか…等々。すべてそれ で終わった。とすると一〇年間(11)にどれだ けテーマに迫ることができるのであろうと 思ってしまう。(一条 1978:189)
確かに少なくとも一条は、戦後の男女平等と農 村女性の近代的自立の時代のなかで精力的に活動 していた。だがそうしたなか、日本放送協会の番 組『こんにちは奥さん』が国際婦人年制定に関連 して番組を企画し、ここに一条は出演したのだ が、世論が婦人年制定に盛りあがっていることへ 感想を求められた一条は、しかしそれを「遠くで 鳴っている鐘にしか聞こえません」と断じた(黒 田 2009:101)。
婦人解放を求める番組でのこの発言だが、「丸 岡〔秀子〕のようにきちんと受け止める人もいま したが、藤田〔たき──国際婦人年メキシコ会議 日本政府主席代表〕のように「なんやかや文句付 けないで行動計画読め」的な受け止めも。いずれ、
この発言はその後、対話につながることはなく、
結果としてはそれぞれが言いっぱなし」で終わっ たという(12)。
一条自身は後に黒田とのインタビューで「都市 代表のインテリ女性が農村女性を軽蔑するような ことをしゃべったから腹立って言っちゃったの さ」と振り返っている(13)。しかし黒田自身、そ れでもなお「丸岡のようにきちんと受けとめられ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
た4場合もあった」と述べているからには、一条と 親交の深かった黒田においてこの一条の発言は、
当時農村女性の近代民主主義的自由解放が是とし て求められるなか、一条にはそこに乗りながらも 完全共鳴できない批判的側面があったと、黒田に 感じさせるものがあったからだろう。
黒田(2009)では、この一条の時として齟齬を 来すズレあるいは違和感が、家父長制に支えられ た男女不平等関係だけでなく、岩手県北の女性を 抑圧しているもうひとつの関係としての「都市─
農村」関係が重く存在することを、一条が無視し 得なかったからだとしている(黒田 2009:103)。
そこで次の第二節では、ひとまずこの黒田の関心 に沿って、少し一条のテクストを掘り下げて検討 してみたい。この「遠くになっている」発言での 一条の拭えなかった、時代の流れには収まりきれ ない一条の綴った女性における「主体」の残余に ついてである。
第二節 戦後民主化施策下における明治「婆っ ちゃ」たちの主体の行き先
戦後農村の男女平等の意義と近代化農政
一条のきわめて断片化した諸テクストだが、そ のなかでも一条が決して譲ることができない思考 の「一線」はいくつか指摘できる。第一は、繰り 返すが、まず何よりも岩手県北の貧困農村を縛り 付けてきた前近代的な地主・小作関係、およびそ のもとで厳しく維持されてきた女性の人間性をも 無視する家族制度が廃止され、終戦によって女性 たちが法的制度的に解放されたことにある。北方 性生活綴り方運動の影響を受けた一条は、少なく ともこれは否定すべくもなかったはずだ。
──新しい文集『むぎ』はスタートしたのです。
『ともしび』座折よりすでに十数年の歳月が ながれていました。私たちの内には、かつて
の『北方性教育』の魂がまだ底流として生き ていたのでした。(一条 1974:264)
一条が、最もあちこちで引き合いに出す女性の 例として、家を守るべく、昭和の凶作に直撃され て身売られた女性の例がある。
──その〔身売られる〕時、周旋人から金を受 取っているところを見て初めてこと4 4の次第を 知った祖母と母は、涙を流して父に抗議し た。その時父が、「このままの分わげ作さく(小作人 として地主から分けてもらうこと)のままだ ば、とってもでね今に童子どに食いつぶされ て家がつぶされてしまう。家のためには仕方 がないではないか。みんなが生きのびるため だ!」と大声でどなったのをよっく覚えてい た。祖母は声をこらえて泣き、「はよう死に たい。はよう死にたい。役にも立たぬばばが このように長生きして物くらい、孫たちを苦 しめている。口ベらしにばばがはよう死んで しまいたい」とさけんで…体の悪い母は這い ずりながら後を追いかけて出てきて、「体い たわれや。みんなと仲良せいよ。ぜったい男 の言うこと聞くでねえよっ」と声を限りに泣 きさけんでいた。(一条 1978:13)
一条の綴る女性たちは、この地の女としての、
こうした行き着く先の暗く重たい命運に満ちてい る。十人登場すれば、十人が十人、それぞれ異 なった追い込まれ方で、最後にはどこへも行き先 を失い、押しつぶされ絶望する。しかしそれでも、
生きようと地べたを這う。
この引用の女性の場合で言えば、またさらに後 年、今度は、地元の有力農家の爺の後妻として
「身売られる」が、彼女はとにかくも家を飛びだ して宛もなく逃亡し、再び父親の捜索によって見 つかって引き摺り戻されるまで、六年間身隠れし ていた──その彼女を匿っていたのが一条の祖母 であった。
この女性は、その後も何度も幾重にもこうした
厳しい苦難を強いられ、最後には力尽き、そして
「牛舎の二階で農薬を飲んで自殺」する。一条と のやりとりも密であったこの女性は、一条のなか で最も痛ましい家制度の犠牲となった女性として 鮮明に残り続けたであろう。
そして、対して戦後の女性に開かれた人生の選 択肢は、確かに一条にとって否定すべくもないこ とでは4 4あった。
──おなごたちのある者は工場づとめ専門にな り、ある者たちはスーパーの年老いた売り子 になっていった。おとこたちから今までも らっていた金がおなごたちの現金のすべてで あったのに、自分の働きが金になった時は まったくの喜びにひたった。働きが歳月を重 ねてゆくごとに自分の長い間欲していた物も 自由に買え、着る物もえらんで買えるように なった。この自信と嬉しさは村のおなごたち をある意味で明るくさせた。
おなごたちは農耕地としてのみ外で働くこ ととは異なった金につながる世の中を知りは じめた。姑に気を使い、小遣銭もろくに持た なかった、いじましさから解き放たれた思い がしていたのである。(一条 1979:185)
このように、たしかに戦後の女性の制度的解放 によって、一条の周りの女性も「家長」や「家」
からは自由になった。「牛舎の二階で農薬を飲ん で自殺」する程に追い込まれることはなくなっ た。 「国際婦人年」が制定され農村の女性たち のなかからもサークルや文集を作る者たちが出て くるなか、そうした諸活動に一条自身も積極的に 参加した。
──百姓女たちは商売を覚えた。はじめは野菜 を売って歩いていたのが本格化して、田畑を 全部手放し商売用の自動車を購入した百姓女 たちも、二六〇戸足らずの村に何人もいる。
村の半数は農業を捨ててしまっている。零細4 4 農業の生産基盤にあっては生産共同化を目指4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
すことはまたとなくむつかしい4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。
今、農村の女たちも都市の女たちと同様そ の生き方は多様化してゆく。農政の中で虐げ られて、皮肉にも貧しい生産基盤の奴隷でし かなかったことに目覚めてゆく過程で、女た ちは篩にかかり濾過されて農村での生きる方 向をそれぞれに見出してゆくのではあるまい か。(一条 1978:174、初出は『思想の科学』
1976年8月号)
一条の暮らす岩手県北の「零細農業の生産基盤 にあっては」近代農政の目指す大規模化した高所 得農業者たり得ない。したがって貧しかった「百 姓女たち」は農業を辞め、多様な賃金労働者とし て「主体化」していく──戦後近代化における女 性の進出という文脈なら、それは合理的な人生選 択となるかもしれない。だが一条は、そこを思考 の終着点とはしない。この文脈に、対峙する岩手 県北女性の生を接続させたさらにその行き先こそ を、彼女は凝視する。
一条の描く農婦たちを取り巻く諸問題は、決し て「男女」という関係の不平等が解決すればあと は副次的に解決していくのものでなかったから だ。言ってみれば彼女の綴る農婦の「農婦」とし ての問題は、「農」と「婦」のそれぞれに根を持っ ているのであり、「婦」の問題解決で「農」を含 めた「農婦」の問題解決にはなり得ない──この 社会に対峙する一条の眼が、一条のテクストに常 に通底するものの第二である。だから次の一条の 言は、誤読せぬように注意が必要である。
──敗戦後、手中に輝いたはずの女性の解放と か自由とか?…中味はどうあれ、たくさんの 女たちが、家を出て何日間か団体旅行も平気 でできるようになった、その空の下でその4 4 時4、代よ利りここ〔一条の親友。「家」のための結 婚を迫られていた〕がまだ完全に家の嫁でし かなかった状態に激しい怒りと疑問を持っ た。〔中略〕女性解放の叫び声は高く──農
村女性の労働問題──農繁期における共同育 児・共同炊事──農村女性の母体保護──を 盛んに耳にしていた時だ。代利こと私の頭上 をそれらの言葉は音もなく雲に乗って飛び 去っている感じであった。(一条 1978:170、
初出は『思想の科学』前掲、傍点一条)
女性に関する議論では男女平等が既に承認され ているのに、まだ一条の暮らす地には「遠い」
──しなしながらこの一条における「遠い所で 鳴っている鐘」の「遠い」とは、この引用のよう に「高い所から叫ばれる女性解放」が、世界から、
東京から、都市部から、やがては4 4 4 4岩手県北の山村 にも届き、それをもって女性は自由になれる──
こうした「女性解放に目覚めた主体」が求める単 線視的発展の向かう目的地点への「遠さ」ではな い。そうした自立した「主体」が一条の寄り添お うとした女たちの是とされるべき「主体」であり、
それがもはや東京では、全国の女性運動では実現 されようかという時代に、相変わらず岩手県北に はまだまだ「遠い」──こうしたストーリーのも とで測られた「女性解放」の道における「遠い」
距離ではないのだ。「遠くで鳴る鐘」として批判 が向けられたのは、「農村女性」を「蔑視」した ような「都市代表のインテリ女性」に対してだと、
たとえ一条自身が述べたにせよ、その批判の向け られる射程はこうした「インテリ女性」らに限定 されない。
それは言わば、戦後の日本近代化の歩みそのも のであるからだ。一条の提示した課題を、私たち が私たちのそれとして引き継ぐならば、私たちに 求められる一条のテクストの「読み」とは、むし ろ次の点にあろう。
──出穣ぎが拍車をかけていき、おとこ手を 失っていった農家でも、しばらくはおなごた ちの手で細ぼその農耕を続けていたのだが、
おとこたちの働きが、はっきりまとまった毎 月の現金収入を手にすることにつながってい
くと、三反、一反農家は出稼ぎ専門屋になり、
おなごたちは、出稼ぎを表面的には阻止する ためだとして導入された弱電工場はすべて女 性型工場の導入に終っているのだが、農耕か らはじき出されるように働きに出たおなごた ちは、一反歩ながら地力農業をして基礎を 持っていた農耕の根本基盤をたちまちのうち に失ってしまった。(一条 1979:185)
一条にとって、戦後の近代農政下での岩手県北 農村の辿る過程とは、県北女性の困難を十全に解 消するものではないのだ。なぜならばこの過程 は、この引用にもあるように、この地が食糧供給 の地ではなくとも労働力供給源として、一層熾烈 な国家経済統合の対象となっていく過程であり、
そしてそれは同時に、近代化大規模農政にそぐわ ない農業を、何よりも女たちのやり繰りしてきた 自給的要素を多分に孕む零細農業を、辞めさせて 工場労働力として吐き出させていく過程でもある からだ。黒田は言う。
──岩手のような農業を基幹産業とする地方に おいて、歴史の継承抜きに「男女共同参画」
の担い手が「農」へのアプローチを試みるこ とは十分にあり得る。その場合、中央(都市)
発の「男女共同参画」が地方の都市部への拠 点施設整備の進展という意味で一定の達成が 得られたとして、続く目標として地方の都市 部から農村部への浸透を達成するがため
「農」へアプローチする、というビジョンが 描けよう。(黒田 2009:105)
戦後の東北農村の民主化と、そこに含まれた農 村女性の民主的男女平等に基づく自立した農村女 性という主体形成への国家の歩みとは、一条にし てみれば、一条の寄り添う女性たちにしてみれ ば、戦後近代資本主義のこうした彼女たちへの、
資本主義経済への形式的包摂から実質的包摂の物 語に他ならなかった。上記黒田の適確な批判のよ うに、岩手県北山地の女性を取り巻く諸問題は、
「中央」からの女性解放運動の展開に内包された 付随的副次的な例外的諸障害では決してないの4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 だ4。一条は、戦後農政近代化の時代の流れる先に、
対峙した女性たちの「解放」された「主体」を認 めなかったのである。
生物資源の周縁供給地としてバッファたる農村女 性労働
──〔戦前〕どんなに必死に働いてみたところ で、天候に決定的に左右されていた極貧の農 業基盤はたちまち生産皆無の状況を呈し、飢 餓状態は村むらを津波のように襲っていった。
娘たちだけではない。青少年たちは周旋屋 に口説かれ、労働条件の悪いことを噂に聞い ても、のがれることのできないほど前借させ られて、骨身も凍る北洋へ、カニ工船に乗り 身を売っていった。(一条 1978:87)
──〔戦後〕高度経済成長政策は、裏子たち五
〇数戸の村から男という男を都市に向かわせ た。それのみに止まらず、女たちから「種」
である子どもたちをも奪い、集団就職列車に 乗せた。村は総ぐるみ水呑み4 4 4百姓ならず金呑4 4 み4百姓と化していった。
家の崩壊、村の崩壊は、必然的に農業自体 の崩壊に繋がった。その現象は裏子たち百姓 が主体的に破壊したものではないのだ。この 中にいて、裏子は必死に息子を都会から取り 戻そうと努力した。それが、戸外寒風野ざら しの壁一重の中に、高級ステレオからはじま るあらゆる都会風を吹かせ、モダンなサイド ボードにウイスキーを並ばせて、農機具代に 追われる夫へさらに労働過重を押しつける結 果となっていた。(一条 1978:179)
一条が描く農婦たちの苦労とは、つねに岩手県 北という地域に暮らす者として、その地の個別具 体そのものの毎日としてのみ叙述可能となる。彼 女が描きたい女性の生とは、農業条件が悪く、地
主小作制度が依然として強く貧農を苦しめてい た、そうした岩手県北という地の固有性から切り 離せるものでは決してないのだ。
──金の卵たちは、不況下でなくても悪条件が 多かったのに、就職先倒産の憂き目に遭遇し た彼らの目前に突きつけられるものは「採 用。高等学校卒」という冷たい現実なのであ る。
〔中略〕金の卵たちは、「故里目指して帰り つつあるのだ」。それがUターンの現実だと したならば、大量に高度経済成長促進の陰に 陽に「縁の下の力もち」の存在に加担せしめ られた金の卵たちの故里である農村社会に とって、いったいそれはなんであったのであ ろうか。
〔中略〕農業生産基盤の弱さの中に位置し ていて、いつの時代でも存続していくはずの 金の卵の年齢層を、どう位置づけていくこと がもっとも最良の道なのか、を今やこの冷厳 な現実のもとにさらけ出して徹底して究明さ れるべきであろうと思う。(一条 1978:16)
岩手県北の「フモウのチ」──水田一枚が一町 歩ほども取れる「食糧基地東北」などといったイ メージとはほど遠く、日本農業の大黒柱といった 日本農業の近代的発展への役割から遙かに隔てら れようとも、それでもなおさらに人びとには、か つての女工や「身売り」に代わって、地元工場や 都市圏飯場といった非農業生産部門における底辺 労働市場へと、劣悪な条件にて動員される。終戦 を経てもその厳しい構造的関係は、一条にとって 様相こそ変われど、関係性自体は変わることのな いものであった。
──米作り調整が叫ばれた頃、誘致工場が町や 寒村に出現。結果として、ばっちゃは食べる 分を残して減反。自給六〇〇円也の工場へ四 五年に飛ぶように働きに出た。工場で使用し た薬品で頭痛、吐き気に悩まされ、体の不調
を訴え病院で注射を打ちながら働き続ける農 婦たちとともに「赤字続きだ」と発破をかけ られながらの辛抱、遂に倒れた。半年も休み もしないで、薬品公害のない缶詰工場へと喜 んで働きに出たが、いくらもしないうちに神 経痛に悩まされている。(一条 1978:181)
ルポライター鎌田慧の一九七五年の文章で、農 民の側に寄った当時のリベラル系ジャーナリズム を痛烈に批判した文章がある。ただ次の引用に見 られる「逃げる農民」とは、おもに出稼ぎの男性 が言及されていることに注意されたい。
──出稼ぎは、きわめてありふれたものになっ てしまった。時々見うけられる出稼ぎの報告 もパターン化してしまった。たいがいのルポ は、農村に出かけて行って、学校や役場で 作った文集をもらい、そこに掲載されてい る、子供たちの悲しげな詩や作文を引用し、
書いた本人に会って、父のいない家庭の淋し さを強調する。あるいは、その母から、父が いないために子どものしつけの難しいこと や、まざまな不自由さや、さらには、彼女の おんなとしての淋しさを引き出したりする。
もし、その取材者が、もう少し勤勉であるな ら、都会に帰って来てから、農村で会って来 た子や妻の、父や夫に会って、飯場暮らしの 淋しさや望郷の念をひとくさり紹介する。こ うして、聞くも涙、語るのも涙の〝出稼ぎエ レジー〟がまたひとつ誕生する。都会と農村 とで、ひきさかれ暮す農民一家の姿に、出稼 ぎ問題の、ひいては、農業問題の矛盾がク ローズアップされることになる。それはけっ して間違っていない。が、もうそんな歌は聞 きあきた。それがなにを産んだであろうか。
親子ともども笑顔で暮らせる農村工場、「日 本列島改造」や「農村地域工業導入促進法」、
でなければ、「民主的開発」とかいうしろも のである。
出稼ぎ問題が問題なのではない。農民に対4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 する資本の支配がいかに強まって来ているか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 が問題なのだ4 4 4 4 4 4。〔中略〕
田んぼから工場へ逃げ、工場から田んぼに 逃げる。「出稼ぎ農民」という言葉はそんな ことを表している。〔中略〕農民でもあり、
労働者でもある、そのどっちでもなく、その どっちにでも逃げられる出稼ぎ意識は、もう 捨てなければならない。(鎌田 1975:1-3)
もっともである。農村崩壊の根本的問題が「出 稼ぎ」にあるのならば、それは『女工哀史』や『蟹 工船』の時代から既にあったはずだ。近代化農政 や、地方の開発、列島改造や農工間賃金格差解消 の「大義名分」となった「農村近代化」は、こう した農村地域への日本近代資本主義における実質 的包摂と「周辺地」としての矛盾を押しつけてい く過程に他ならない。問題はこっちの方だと鎌田 は言っているのだ。
だが本稿が一条を取りあげるのは、このポイン トからさらに考えを進める彼女の思考にある。一 条の対峙する女性たちの問題とは、この「農民に 対する資本の支配がいかに強まっている」なか、
そこでの「支配」による矛盾を最も底辺で吸収し て生き延びる女性たちのそれだからだ。この田ん ぼから夫が、あるいは息子が「逃げ」た後に、「童 子」を育て祖父母の世話をし、兼業であれ農を切 り盛りする、そこに残された女性である。そして あるいは、出稼ぎに行った先で夫や父が何の災害 補償もない事故に遭えば、その後の家族の生活を 何とかさせる女性である。
──戦前、若年から北洋漁業に限らず出稼ぎし 続けた農民たち。特に戦後、出稼ぎに拍車を かけた高度経済成長時代は、農民後継者を も、金の卵ともてはやして、根こそぎ女ども から奪いつくし続けてきた。その現実は深い 痛みとなって農民の前途を暗く収奪し続けて いる。
フミこの夫は長期の出稼ぎに疲れて倒れ た。巷間は「不況・出稼ぎ農民に職なし」と 騒ぎたてる。その声に村の女たちの胸は掻き むしられる。職のない農民出稼ぎ者という現 実を直視、無収入の冷たさの中で荒廃した耕4 4 4 4 4 地を振り返る4 4 4 4 4 4。さらに、多くの農民が体力の 限界、疲労の極限の年齢を迎え、出稼ぎから 身を引きはじめる層が増加しつつある現実を も女たちは自の前に突きつけられる。戻され る男たちを死ぬまで抱き続け、生きなければ ならぬのは、「農民出稼ぎ者」と重くいわれ る男たちの陰で、生身の女盛りをひたすら耐 え忍んできた無数の村の女たちなのである。
この、より重く冷酷ともいえる現実は女たち の身をきしませる。(一条 1978:177、初出は
『毎日新聞』1976年4月)
私たちの「いま」の議論は、ひとつには一条の 思考のこの先に繋げるべきだと筆者は考える。こ の厳しい岩手県北という固有の地の置かれてきた 歴史的文脈においてこそ、そのなかで常に最後に
「しわ寄せ」を飲み込み吸収してきた女性の生の 厳しさは、はじめて具体的内実を獲得し、そして これこそが、戦後日本が歩んできた近代高度成長 の歴史の矛盾を、如実に具体として一手に凝集し て現したものでもあるからだ。次の一条の批判 は、今日の農業・農村をめぐる議論にも、なお 持ってアクチュアルかつ決定的に活きると筆者は 考える。
──「東北の農村は関西と異なって一村離村し ている村はあまりない。本当の農業はこの東 北の農村が基盤となるのだ、という気がす る」と語る人びとがいる。この声を聞く時、
農民でない者たちが、農民に農村存続への最 後の希望を押しつけているような気がしてな らない。高度経済成長のカゲで、家の崩壊
──部落の崩壊へとつながった農民の出稼 ぎ。不況とさわぎたてる背後で農機具代金の
返済に追われる現実がそこにはある。出稼ぎ しなかったらどうなるのか。根深い問題が複 雑に出稼ぎ農民の上に残されたままになって いる。
そして──「農民こそは人間の生命与奪で ある食糧生産の鍵を握っているのだ。農業こ そが大切である」と誰が責任を持っていえる のか。われわれの歴史の中で農民は本当に尊 い業とされて来たのか。水呑み百姓、いやし い百姓、貧乏者として先祖はしぼり取られて きただけでないのか。「むぎ」の底辺農民層 の人びとと語る時、この憤りと悲しみと絶望 感とをひしと感じる。しかし、そこに生きる 男たちも女たちも、それでも希望を見出そう と真剣に努力して生きているのだ。(一条 1978:206-207、『技術と普及』1976年1月)
かつては余剰人口をアメリカ大陸へと「棄民」
せざるを得なかった明治東北貧困農村。日露戦争 にて北洋に漁場が開かれるとその『蟹工船』へ労 働力を供給し続けた東北農村。食糧を、鉱物を、
木炭を、木材を供出し、とりわけ戦後においては、
そして何よりも高度経済成長においては安価な労 働力を供出し、やがては米の生産調整などと議論 する傍らで、新たに国家発展への重要な役割を担 わされることとなる地方産業。(新、あるいは第 三次へと続く)全国総合開発計画。そしてそこに はもちろん電源三法と原発建設が含まれるはず だ。
日本近代化の歴史のなかで、東北農村という地 帯は、鉱物・食料・労働力といった「資源」の給 源として、その近代資本主義経済の浮き沈みにあ わせた調整弁として機能してきた。そしてこの歴 史のなかで、農作物に起こる諸問題を受けとめ、
出稼ぎの後の「家庭を守り」、家計をやりくりし、
家族を再生産させるという、最も複雑に底辺での 毎日をやり繰りしてきたのがこうした一条の描く 農村女性である。ここが、一条からいまの私たち
が学ぶべき第一の回路である。すなわち日本近代 の成長とは、裏から見ればまさにこの女性たちが 被抑圧のなかで生き延びてきた個人史に他ならな いからだ。だがしかしこの領域こそが、今日に 至っても極めて困難な、日本近代資本主義の歴史 において対象化されてこなかったそれであり、な おかつ本稿末尾で述べるように、日本の農村・農 業をめぐる農業経済学や農村社会学といった学 が、生物資源動員の生産の学として自らの学史を 紡いできたその裏で切り落としてきたものでもあ る。
女性運動と自給農家経済における農村女性 先にも述べたが、こうした戦後女性活動家や文 筆家といったネットワークへ、一条を積極的に紹 介したのが丸岡秀子であった。そして丸岡はま た、当時の女性解放を目指した運動家や文筆家の なかにあって、すでに戦前から、弱者としての女 性を考えるにしても、農村の女性を対象にするこ とこそが最も難しく、しかしそここそを、女性問 題の議論としても最も重要な領域のひとつである と認識していた。
──これら〔農村女性の日常における消費と生 産の未分離〕はすべて婦人が家計の擔當者で あるばかりでなく、男子と共に收入の擔當者 であることから齎らされるものであらう。夜 半の風の音にも稲の出来榮えを案じ、桑の木 を思つて、獨り起きて田畑を見まはつ來るの も、みんなそれが自分の擔當する家計4 4 4 4 4 4 4 4 4と直接 に關係するばかりでなく自分も亦生産者4 4 4 4 4 4 4の一 員だからである。(丸岡 1937:38)
丸岡は、戦前よりすでに農村女性問題に関心を 注いでいた。女性をめぐる議論では、とりわけ
「労働4 4婦人や職業4 4婦人の問題」が中心に据えられ、
「農村4 4婦人の問題は、農村問題一般の中のごく小 さな一部分として扱われ、その隠された重要性に 逆比例して4 4 4 4 4まったく取り残されていた」(丸岡
1937:4)からだ。彼女の最初の大著であり代表 作でもある『日本農村婦人問題』(一九三七年)
ですら、農村女性問題の一部としての「主婦およ び母性的側面からの」考察であって、丸岡が当初 から構想していた三つの大きな柱のうちの残り二 つ──「年勤労婦人の給源」および「農業労働従 事者」としての農村女性の問題は、後の課題とし てまずは捨象したと自ら記している(丸岡 1937:
4-5)。
一人の貧しい農婦──その彼女の抱える問題を 解きほぐすには、母なる「主婦」としての生と、
出稼ぎ工場など近代産業の底辺単純労働者として の生と、農業生産者としての生──これらがすべ て一人の中に在るものとして対象化しなければな らないという、困難な課題を確認したのが丸岡で あった。調査項目で「一.農村の主婦として一年 中での楽しみは何か」と問えば「秋の収穫」と答 え、「一番つらいと思ふことは何か」と問えば「大 部分」が「凶作」と答える(丸岡 1937:38)。つ まり農村女性の「楽しみ」や「辛い」といった人 生における一喜一憂は、近代資本主義労働では単 に時間の切り売りで自分の労働を商品化して売っ ているに過ぎないとしか対象化されない「生産労 働」であるはずの「農作業」と不可分にあるのだ。
──およそ一軒の家で、御馳走があるとすれ ば、それは先づ誰よりもその家の主人であ り、次が子供の順序である。ところがその子 供さへ漬物だけの辨當、朝も晩も味噌汁だけ である場合、主婦の食事は大體想像すること が出来よう。めし4 4が足らないとき、それを耐 えるのは主婦であり、まづいもの、残り物で 間 に 合 は せ る 場 合 も 主 婦 で あ る。( 丸 岡 1937:63、傍点丸岡)
晩年にこの「母性篇」に続く著について訪ねら れた丸岡は、「もう無理でしょうね。後継の誰か に託します」と語ったが(丸岡 1979:149)、こう した丸岡に圧倒的な壁として立ち現れた農村女性
問題こそが、一条の対峙し続けたものであった。
丸岡もまた、全国の農村を行脚するなかで「和歌 山や香川の農村と東北農村との貧富や暮らしぶり の差」に愕然とする(丸岡 1979:144)が、こう した最も貧しい歴史を強いられ、その後の高度成 長を最底辺で耐え、生き延びざるを得ない戦後史 へと投げ込まれてどこに行くのかという眼差しと ともに、岩手県北の女性たちを眼差し続けた者こ そが一条であった。
この凝視は、現在の東北農村を考えるに新たな 議論の領野を開くことと筆者は考える。戦後農村 女性の生活改善運動を研究する岩島は、農村女性 をめぐる議論が「一九七五年の国際婦人年を受け て、農水省も他省庁と歩調を合わせながら女性の 権利拡大のための政策を前面に押し出すことに なった」一九七〇年代から、「農村社会学や農業 経済学の分野において、地域活性化の担い手とし て活躍する農村女性起業などに注目した研究がさ かんに行われるようになった」一九九〇年代まで のあいだ、農村女性をめぐる研究が「断絶」とも 言 え よ う 期 間 に あ っ た と 述 べ て い る。( 岩 島 2012:38)
この岩島の言う「断絶」の時代に、どのように こうした東北周辺の農村女性が、自らの生活の基 盤と構成を、底辺労働力の再生産たるバッファの 領域において変化させてきたのか。これをまずは ミクロに見ていくということを、時代変化のダイ ナミズムとともに書き残したのが、ひとつに一条 のテクストだと言えよう。それはおそらくは、こ の「断絶」の期間での、そしてその「断絶」の期 間を経ての議論が、農村社会学や農業経済学にお いて「女性と自然と農業」などといったイメージ と抱き合わせに “ 地域活性化へ向けて献身する農 村女性 ” といった歴史性の微塵もない「主体」と して現れたとき、いったい何が失われ、何が問題 化されなくなったのか。もう一度見つめ直す糸口 を、一条は私たちに提示してくれると思われる。
その一条の与えてくれる糸口のひとつを、次節 で抽出してみたい。地主制度で自らの土地を持た ない貧しい小作農の農婦が、「主婦」かつ「底辺 労働者」かつ「水(金)呑み百姓」として、他な らぬその生きぬいた固有の地の諸条件を生存のた めに組み替え、自らの人生そのものとして(一条 がしばしば用いる表現である)「生活の密度」や
「生活の集積」を確立させてきた、その「土」へ の「土着」である。
第三節 一条の焦がれた「明治の婆っちゃ」が
「土着」する「土」
「明治の婆っちゃ」たちの「生活の集積」
終戦とともに、女性に解放をもたらすはずの戦 後民主化。農地解放に伴う地主制度の解体。男女 平等を掲げ婦人参政権の実現に象徴される古い家 制度の解体。このような、時代が「進歩」として 掲げ高度成長期へと至る日本戦後近代史に抗うよ うに、あるいはそこにこびり付く違和感を回収さ れまいと藻掻くなかで、一条の凝視しようとした 女の生があった。それは決して、戦後日本近代社 会において「活躍」する近代民主主義的な主体的 女性ではなく、むしろそちらへ向けば消極視され るであろう、封建的な地主制度と家制度を生きぬ いてきた「明治の婆っちゃ」たちの生き様である。
戦後農村近代化の自由民主化による古き悪しき前 近代からの女性の解放という一般的観点から見れ ば、その「前進」からは逆進と意味付けられるで あろう、次のような発言しかでてこない婆っちゃ たちである。
──明治生れの婆ァさん未亡人は、旧家族制度 の中で、女は三界に家なし的に教育され、夫 と姑に仕え子を育て、やがて倅に嫁を取り、
やっと自分が姑の座に坐ったと思った途端 に、敗戦・新憲法・そして民法の改正と矢継
早に世の中が変り、あれよあれよと言ってる 間に、姑の権威は地に落ち、まごまごすれば 無一文で投げ出される羽目になるのである。
(和田 1972:217)
だが一条が異なるのはここからである。一条は 婆っちゃのこの後を、つまりそれでもなおそこに 生きる婆っちゃを綴るからだ。たとえ「姑の権威 は地に落ち」ようとも、終戦による価値観の逆転 を経ようとも、人生にいままで降りかかってきた 問題を耐えてきた経験をもとに、生き延びようと 藻掻く婆っちゃである。そうした生き延びてきた 経験を、一条は、「生活の密度」「地力の集積」「百 姓百品(14)」などという表現とともに、婆たち各々 の強度として綴る。
──現在の農家の姑たちは、箸にも棒にもかか らぬ嫁としての辛い涙の止るいとまのない時 代を過してきた。その経験は、何よりも隣の 家よりも豊かに物持ちになって楽に暮らして 見せようとする思いにみちている。
嫁を勤めに出したあとの育児・家事、の実 権をがっちりと握りしめ「家」の力を強化し て安泰に暮らすことをひたすらに願ってい る。
嫁たちは、時として姑の息子以上の金運び 人の役目を果たしながら、日常の暮らしに入 りこめず、「おめ、疲れでるべがら、おれが するがら休め、休め」と、生活を集積してい4 4 4 4 4 4 4 4 く密度への手がかりには近よせられずに4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、い つまでも「外にいるおなご」としての存在を 強いられている。(一条 1979:181-182)
この引用のように、「姑の権威」が「地に落ち た」息子の家に暮らす婆っちゃたちは、たとえ都 市に出た息子夫婦の家に移り住んでも、それでも そのなかで、何とか「生活の密度」への婿嫁のア クセスを禁じて、自分の生の意味をそこに保持し ようとする。
だがしかし一条にとってその婆っちゃは、一人