藻利重隆博士における企業の指導原理 と M . ヴ ェ‑バーの資本主義の精神
笠 原 俊 彦
藻利重隆博士における企業の指導原理 と
M,ヴ ェ‑バーの資本主義の精神Abstract
S.Mohri'StheoryofBusinessAdministration (Keiei‑gaku)isthe onlysystematictheoryevermadewiththeleadingideaofthediscipline originatedbyT.VedainJapan.Thoughapartfrom M.Weber,Mohri showsus,asaresult,ideal‑
t y
picallyapeculiarform ofbusinessethos,
whichhasemergedintheprocessoftransformationofthespiritof modem capitalisminWeber'smeaning;‑ sustenanceofeamingpower ofbusiness(businesssustenance)astheethosofthecontemporary typeofbusinesscharacterizedasgomg‑concern.ThisideaofMohri,derivedfrom histheoryof̀fixationofbusiness enterprise'andofconsequent̀alterationofbusinessethos'towards tl10Semoreandmorelong‑rangesighted,maybeseenasasupplementa‑ rypropositiontoWeber'sobservationonthetransitionofcapitalistic spiritfrom puritanistictoutilitarian.Morecorrectly,itaddsanew phasetoWeber'Snotionofutilitarianizationofcapitalisticspiritasthe effectof̀technical‑economiccondition'or̀mechanicalandmachine production■
,‑
anotionborrowed,partiallyofcourse,frommaterialis‑ ticassertionof̀UnterbauundOberbau'.AccordingtoWeber,mechanicalandmachineproduction,oncedeci‑ sivelyaffectedinitsoriginbypuritanicalcapitalisticspirit,developed
i.
intoeconomicsystsemasa ̀coscoms,whereitnowbegantomanifest itselfasthebasisofthisandexertinitsturndeterminantinfluenceupon thespirit,makingthisutmostutilitarianelementofthecosmos,Withthe overwhelmingpressureofthecompetitionforsurviva
l .
Mohri'sideaoffixationofcapitalandlabour,eachresultingfrom machinizationofproductionandlabour一movement,andthatofcor‑ respondingfixationofbusinessalso,indicateaspecificphaseofthede‑ velopmentofWeber'
S
̀mechanicalandmachineproduction',here ratherwidelyunderstoodsoastocomprehendalsoindustrialrelations. AndMohri'sideaofthehistoricalchangeoftheconcreteformsof profit‑principletowardsthoselonger‑rangesighted,astheeffectoffixa‑ tionofbusiness,suggestsapeculiarsphereoftransformationof capitalisticspiritundertheinfluenceofmechamicalandmachine production.49
InJapan,whereMohri'sstudymustbesaidtobethemostimportant amongthestudiesofbusinessethos,moderncapitalisticsystemwasim‑
portedjustastheoutcomeof,butwithout,puritancapitalisticspiritso that,asthemainfactorofthisethos,especiallyutilitarianism andeco‑ nomicrationalitywerehighlyappreciated.
Mohri'sidea,obsevedhere,indicatesalsotheincreaseinmoralityin profit‑principleofbusiness,whereasWeberasserteditsdecreaseinthe capitalisticspirit.ThisseemlngCOrtradictionmayberesolved,whenwe considertheformernotionasapartialamendmentofthelatterwhich Weberhimselfadmittedtobearoughobservationofacertainpieceof complexeconomicfactsandaccordinglytopermitmoreconcretizations.
Inthelong‑ran,however,itseemsthatmoralityincapitalisticspirit decreasestogetherwiththedeteriorationofsocialmeanlngOfcommodi‑ typroduction.Then,doesMohri'sappreciationofKeiei‑gakuloseits basis?Thisneedssomemoreconsiderations.
Keywords:Mohri'StheoryofBusinessAdministrationasasup‑
plementalamendmenttoWeber'Stheoryofcapitalisticspiritand moderncapitalism
,
FixationofbusinessasaphaseofWeber'S ̀mechanicalandmachine productionI
,
̀sustenanceofearningpower,r■ esultingfromfixationofbusiness,as
aform ofcapitalisticspiritimposedby ̀mechanicalandmachine productionI
,
Tentativeincrease,yetlong‑rundecrease,inmoralityofcapitalistic spirit.
ヴ ェーバーの 「 資本主義の精神 と近代資本主義」の理論の補足的修正 と しての藻利経営学説
ヴ ェ‑バーの 「 機構的 ・機械的生産」の一局面 としての企業の固定化 機構的 ・機械的生産の作用 による 「 資本主義q) 精神の一形態」 としての 企業の固定化 に よる 「 利潤獲得能力の維持」
資本主義の精神 における倫理の一時的増大 と長期的減少
藻利重隆博 士 におけ る企業 の指導原理 と
M .ヴ ェ‑バ ーの資本主義の精 神
511
序
2 営利原則 と企業倫理
3営利原則 と資本主義の精神
4
営利原則の倫理 の増大 と資本主義の精神 の倫理 の減少
5
資本主義 の精神 の変容 と企業維持 ( 1 ) 取 引利潤 の極大化 と企業倫理
( 2 ) 取引利潤の極大化 と前資本主義の精神
( 3 ) 企業維持 と経済的生存条件 と しての富の考慮
6結
1
.序
藻利重隆博士の学説は, 日本で経営学 と呼ばれている学問に属する諸研究 のなかで,極めて重要な地位を占めている。わが国の経営学は,上 田貞次郎 博士によって企業経済論 として創始 されたのであるが,藻利博士の学説は, この経営学の歴史において,上 田博士の意図を受け継いで形成された学説の 最高峰であ る, といわれうるであろう。われわれは,それが上田博士の意図
●●
を受け継いで形成されたわが国の経営学の唯一の体系である, とい うことも できる。上 田博士の意図は,藻利博士によって,企業の総合理論 としての経 営学 として実現 され,大成 されたりである。
ところで, 日本の経営学だけでな く, ドイツおよびアメリカの経営学的研 究をも見 る とき,これ らがいずれも,1
910年代以降に,近代的大企業を対象 とする学問 としてその体系化が試み られた ことは,周知の事実に属する。当 時の近代的大企業は,
M.ヴ ェ‑バーによれば,かれのいわゆる近代資本主 義の精神ない し資本主義の精神の決定的 ともいわれるべ き作用を受けて生成 した近代資本主義企業のその後の発展になるものであ り,この企業を指導す る資本主義の精神 も, これがカルヴ ィニズムを中心 とする禁欲的プロテスタ
●●●●
ンティズムの影響を受けて生成 した当初のそれ (これをわた くLは清教主義
的資本主義の精神 と呼ぶ) とは,かな り性格を異 にするもの とな っていた。
ヴ ェ‑バーによれば,それは,その基礎 にある宗教 ( すなわちカルヴ ィニズ ムを中心 とする禁欲的プロテスタンテ ィズム)を失 い, これに代 って功利主 義をその基礎 とするものに変容 していたのである*。
もっ とも, この ような資本主義の精神は,当時の人 々によってさえ, これ がいかに して生成 し変容 して きたか,そ して,それが どの ような内容を もつ もの となっていたか,が明確 に意識 されていたわけではない。 このことは, 企業を研究 し, これについて一つの学問 としての何 らかの経営学的研究を体 系化 しようとしていた研究者は もとより, この精神 を 自ら保持 し,これに導 かれて近代的大企業 における職能 を遂行 していたはずの当の人 々に よって
も,明確 に意識 されていたわけではなかったのであ る。
ヴ ェ‑バ ーの論 文 「プ ロテス タン テ ィズムの倫 理 と資本主義の精 神」
(
̀̀DieprotestantischeEthikundderGeistdesKapitalismus" )**は,かれ と同時代の人 々がほ とん ど無意識の うちに有 していた この ような資本主義の 精神の内容 と生成そ して この変容を初めて明 らかにするものであった。かれ は,かれのいわゆ る理想型
(Idealtypus)**
*を形成す る行 き方 を とること
* 資本主義の精神の生成 と変容については,次を参照の こ と。
笠原俊彦著 『 企業の営利 と倫理 ‑
M.ヴ ェ‑バー研究』税務経理協会,平成
15年.
* * この論文は,『社会科学 および社会政策のためq) 雑誌』(》ArchivftirSozialwis‑
senschaftundSozialpolitik《 J . C . B
.Mohr,Ttibingen,BandXX,ⅩⅩ Ⅰ)に
1904年 か ら
1905年 にかけて掲載 され
,1920年 に
M.ヴ ェーバーの 『宗教社会学論集 』 (
"Gesammelte
AutsatzezurReligiOnssoziologie'',J.C.B.MohrTtibingen)に収録 されている.なお, わた くLは,最近,向井武文先生 か ら頂 いた原書 によ り,それが,すでに
,1905年 に著 書 として刊行 されていることを知 ることとなった。
***
Idealtypusは,わが国において一般 に 「 理念型」 と訳 されている。 これが誤 りで あるこ とについては,次を参照 されたい。
笠原俊彦稿 「 規範科学q) ‑理想型 一価値判断 と客観性 ‑ 」『香川大学経済論叢』第
59巻 第
2号,昭和
61年
9月。
同稿
「「 理想型」 に よる認識 と経営経済学の学派分類 ( ‑)」『 松 山大学論集』第 2 巻第
5号,平成
2年
12月。
藻利重隆博士 における企業の指導原理 と
M .ヴ ェーバーの資本主義の精神
53によって,かれのい う資本主義の精神 を,前資本主義の精神および経済的伝 統主義の精神か ら区別 しつつ,その内容を明 らかにするとともに,その生成
と変容 とを説 明したりである。
しか しなが ら,かれの学説は,学界 において も,極めて少数の人 々のある 程度の理解 を別 として,ほ とん ど理解 されることがなかった。それは,かれ の母国 ドイツにおいてさえ理解 されなかった。 この ことは, ドイツの経営経 済学,すなわち近代企業の成立ののちに実質的にこれを対象 とす る学問 とし て形成 され,企業の指導原理 を主要問題の一つ とした,当時の経営学的研究 においてさえ,ヴ ェ‑バーの資本主義の精神 に関する研究成果がまった く反 映されていないことか らも,明 らかなのである。
ましてや, 日本において,明治以降に輸入され この地 に実現 されて発展す ることにな った近代的大企業 とい う制度が,そ もそ も, どの ような精神の作 用を受けて生成 したのか,それがこの精神 によって どの ように指導 され こ の精神の変容 とともに どの ように変容 したのかは,さらに理解 されることが なかった。
この ことは,わが国において,近代的大企業の指導原理 についての関心が
低かったこ とを意味 しない。事実は,まさに逆であるように思われる。新 し
く輸入 され実現 されつつあった近代的大企業なるものを, どの ような精神 に
よって指導 するべ きかは, この ことが不 明であっただけになおさ ら, この企
業の形成 と運営 とに携 わることとなった人々が悩 まざるをえなかった ことで
あると思われるか らである。「片手 に算盤,片手 に論語」
,「和魂洋才」,さ ら
には 「 産業 の将帥」な どの言葉は,近代的大企業 をどの ような精神 にもとづ
いて形成 し運営するべ きかについての当時のわが国の人 々の関心の高さを物
語 るのであ り,われわれは, この ことの背後 に,近代的大企業が どの ような
精神の作用 を受けて生成 し発展 して きたかについて,少な くとも漠然 とでは
あれ,疑問が存在 しなかった と考 えることはで きない。 しか し,それにもか
かわ らず,わが国においては,近代的大企業の生成 と発展 とにおける精神の
作用が理解 された こ とは,ほ とん どない。それは,研究者 においてさえ,そ うだったのである。
わが国においては, この問題 を解 明 したヴ ェ‑バーの著作 「プロテスタン テ ィズムの倫理 と資本主義の精神」は,その重要性がいわれなが らも, よ く 理解 され ることがなかった。 とりわけ,経営学界においては,ヴ ェ‑バーの
●●●
この著作 が近代的大企業の指導原理の解明において不可欠 ともいわれるべ き 内容を有 してお り,それゆえに近代的大企業ない し近代企業を対象 とする経 営学 に とってヴ ェ‑バーのこの著作が著 し く重要であるにもかかわ らず,今
日まで,それが解明されることはまった くなかった。
この ことの理 由の一部を,われわれは,ヴ ェ‑バーの この著作が難解であ ること,そ して, この ことにもよるのであるが, この著作の邦訳 が,影響力 の大 きい大塚久雄博士 によるそれでさえ,残念なが ら,極めて不十分である こと,に求めざるをえないであろう。 そ して,また,ヴ ェ‑バーの著作を 自 ら一字一句正確 に読 み解 く努力は,ひ とに膨大な時間を要求す るのであ り, それぞれに専門を有 し, これに勤 しまざるをえない者 に とっては,それは, 自らの学問研究の時間のかな りの犠牲 を覚悟することを意味するがゆえに, 通常,ほ とん どな しえないことなのである。
この ようなわが国の情況において,藻利重隆博士 は,ヴ ェ‑バーの所論 と は別個 に,企業の指導原理を解 明しようとした。博士は, これを経営学の中 心的課題 として位置 づけるとともに,それについての独 自の理論 を形成 した。
これは,企業が, とりわけその生産機構 において,そ して これに関連 して成
立す るその社会機構 において,持続性 を増大 させ, この ことによって持続的
存在 として運営 され るようになるにつれ,企業の指導原理 としての営利原則
が長期化 すること, とりわけ,企業が無限の将来にわたって維持発展 させ ら
れるべ き継続事業体
(goingconcern)として運営 され る とき,その指導原
理は,企業の無限の将来にわたる利潤極大化ない し企業の利潤獲得能力の維
持拡大 とい う内容を もつようになるこ とを主張するものである。
藻利重隆博士における企業の指導原理 と
M .ヴ ェ‑バーの資本主義の精神
55藻利博士の学説におけるこのような企業の指導原理,企業の利潤獲得能力 の発展的維持についての思惟は,ヴ ェ‑バーの学説 とは別個に形成 された も のであるにもかかわ らず,ヴ ェ‑バーの資本主義の精神に関する思惟 と著 し く似た内容を有 している。われわれは,藻利博士の理論が,企業の営利原則
●●●●●●
の具体的内容の発展のあ り方の把握 については,た しかにヴ ェ‑バーの資本 主義の精神の生成 と変容についての理論 と異なるものの,しか し,少な くと
も博士がここに考えている営利原則それ 自体は,ヴ ェ‑バーの資本主義の精 神 と,ある意味で統合 され うる内容をもつ と考えることができる。 より正確 にいえば,われわれは,藻利博士の営利原則の発展の一部分を,ヴ ェ‑バー の資本主義の精神の変容の過程における一つの事象 として理解することがで
きる, と思 うのである。
以下 において,われわれは,藻利博士 における企業の指導原理の理論 とヴ ェ‑バーにおける資本主義の精神の理論 との関係を考察することにより,前 者の後者に対する意味を明 らかにすることとしよう。
2
営利原則 と企業倫理
藻利重隆博士は,真理の探求にもとづ く社会の改良に,社会科学の価値, とくにその社会的価値 を見出す. しかも,社会科学の一つ としての経営学に ついては,企業を とりわけその指導原理 とこれにもとづ く合理的行動につい て解明して,企業の発展に資 し,この ことによって社会の発展 に貢献するこ
と,ここに,博士は,その社会的価値を求めるのである。
博士のこのような考 えの うちには,明 らかに,経営学が寄与 しようとする
企業の発展が社会の発展をもた らす とい う前提がある。博士においては,企
業の発展は社会の発展 に結びつ くりであ り,それゆえにこそ,経営学は,企
業の発展に寄与することによって社会の発展に貢献することがで きる, と考
えられているのである。そして,博士は,企業の発展への寄与 による社会の
発展への貢献,ここに経営学 に対する社会の期待 と要請 とを見出すのであ り, この ような社会の要請 に,経営学者の一人 として応 えようとする。
だが,博士の この ような行 き方 には,一つの問題 がある。それは,企業の 指導原理 とこれにもとづ く企業活動 との社会的意味ない し倫理 に関わる問題 である。企業の活動 は,その指導原理 によって導かれる。 ところが,この指 導原理 については,これが倫理的意味をもち うるかについて疑問が提示 され,
この ことによって,また, この原理 によって導かれ る企業の活動の社会的意 味について も疑問が投げかけ られているのである。
経営学が解 明 しようとす る資本主義経営 (kapitalistischerBetrieb)とし ての企業の指導原理 は,藻利博士 によれば,利潤追求原則ない し営利原則に 求め られざるをえない。 ところが,この営利原則 については,一般に,これ を倫理的に好 ましか らざるもの,さらには端的に悪 , とする考 えが根強 く存 在 していることが注意 されなければな らない。企業の営利原則 とこれに従 う 企業活動 は社会の発展をもた らし,それゆえに倫理的ない し道徳的に好まし い, とい う考 え方は, これまで,決 して一般的に抱懐 された考 え方ではなか
●●●
った。 この ことは,企業の発展が事実上経済社会の発展を もた らし福祉を増 大 させた ことが明 らかであるかに見 える経済の高度成長期 においてさえ,そ
うだったのである。
それにもかかわ らず,藻利博士は,営利原則 にも とづ く企業の発展が社会 の発展に結びつ くこ とを疑わない。博士は, ドイツの経営経済学 における規 範論学派の人 々あるいはわが国における 「資本 と経営の分離論」の主張者た ちに見 られる 「営利原則否定論」を拒否 して 「営利原則肯定論」 を採 るので あ り,それのみな らず,企業が営利原則 によって指導 されることを強調 しさ えする。 しか も博士 は,企業の営利原則 とこれにもとづ く企業活動 とが倫理 的に好 まし くない とは考 えない。博士は,逆 に,企業の営利原則 とこれにも
とづ く企業活動が,企業 を発展 させるだけでな く, この ことによって社会を も発展 させ るものであ り,それゆえに倫理的に好 ま しい,と考 える。博士は,
藻利重隆博士における企業の指導原理 と
M.ヴ ェ‑バーの資本主義の精神
57企業の営利原則が企業の社会 に対す る貢献のいわば根源であ り, この意味に おいてまさに倫理である, と考 えているようにさえ見 えるのである。 この こ
●●●●
とは,博士 が企業の営利原則 を,そのままに企業倫理 として理解 することの うちに明 らかであろう。
もちろん,藻利博士 は,企業の営利原則 に対す る人 々の不信 を知 らないわ けではない。それ どころか,博士は,経営学 を専攻す る学生の うちに,企業,
とりわけこの営利原則 に対する不信 と, この ような営利原則 に導 かれる企業 の発展 に関わる学問 としての経営学 に対する不信 とを見出し,一人の経営学 者 として経営学の危機 を感 じざるをえなかったのである。
だが,それにもかかわ らず,博士 においては,企業 と経営学 とに対す る学 生の不信の原因は,企業の営利原則その ものに求め られるわけではない。博 士は,企業の指導原理 としての営利原則の具体的内容が歴史的に変容す ると 考 え, この変容のいわば過渡期 における営利原則の一時的な不 明確化,ある いは営利原則のある具体的形態か ら次の新 しい具体的形態への移行 に伴 う旧 い形態の営利原則の動揺 に,営利原則 と企業活動 とに対する,そ して経営学 に対す る,学生の不信の原因を求め るのである。
われわれの理解 によれば,藻利博士は,企業の指導原理が,かつての取引 利潤の極大化 か ら期間利潤の極大化へ,そ して期間利潤の極大化 か ら企業の 無限持続的利潤の極大化ない し利潤獲得能力の発展的維持へ と,歴史的に長 期的な ものに変質する と考 える。そ して,博士は,企業の指導原理の この よ
うな変質ない し変容が,企業それ 自体の歴史的変容にもとづ くとする。博士 によれば,とりわけ資本 と労働 との固定化が顕著な近代的大企業 においては, 企業の指導原理は, もはや,会計学や経済学 において企業の指導原理 として
しば しば前提 とされている期間利潤の極大化 に留 まることはで きない。それ は,すでに,実際上,企業の利潤獲得能力の発展的維持へ と移行 しているの である。
ところが,藻利博士 によれば, この ことは,企業の管理者ない し経営者 に
よってさえ,明確 に意識 されているわけではない。経営者の意識の うちには, 実際にはすでに陳腐化 してお り今 日の企業の指導原理 としてはもはや妥当 し
●●●●●
えない期間利潤の極大化が,いまもなお残 っている。 このように,すでに企 業の実際においては有効性をもたない旧い形態の指導原理が,いまなお経営
●●●●
者のうちに指導原理 として意識 され残 っていること,ここに,この旧い形態
●●●●●●●●
における指導原理に対する人 々の不信が生 じることになる原田, しかも,こ
●●●●●●●●
の不信が企業の指導原理その ものに対する不信 として感 じられることとなる 原田が,存在する。経営者を含む多 くの人 々は,営利原則について,この一 般的抽象的な形式 とその具体的な内容 との区別を知 らず,また後者が歴史的 に変遷することを知 らないがゆえに,後者の特定の形態への この陳腐化にも とづ く不信を,営利原則その ものに対する不信へ と拡大 して しまうのであ る。
藻利博士は,資本主義の体制原理 としての形式的 ・抽象的な営利原則 とこ の内容をなす実質的 ・具体的な営利原則 とを区別 し,後者の歴史的変遷を考 慮するとともに, この歴史的変遷に伴 う旧い実質的営利原則の動揺を企業倫 理の動揺 として理解する。博士においては,資本主義経営 としての企業の実
●●●
質的営利原則は,すべて企業倫理であ り,それゆえに,企業の実質的営利原 則の動揺 と変容 とは,企業倫理の動揺 と変容その ものなのである。
そして博士が,この ように,企業の実質的営利原則 と企業倫理 とを同一視 する根拠は,資本主義社会の生成以来,実質的営利原則 に従 う企業の行動が,
とにもか くにも経済社会を形成 しこれを発展 させて きているところに求め ら れる。もしも,この ような営利原則に従 う企業の行動が経済社会を停滞させ,
● あるいはさらに崩壊 させるものであれば,それは,た しかに,もはや企業倫
● ●●
理ではあ りえない。だが,企業の実質的営利原則は,歴史的に見て,いずれ も経済社会の発展をもた らしてきたのであ り,したがって,それは,まさに
●●
企業倫理 として理解 され うるものなのである。
われわれは,博士 において,企業の営利原則 と企業倫理 とを同一視するこ
藻利重隆博士 における企業の指導原理 と
M.ヴ ェ‑バーの資本主義の精神
59の ような考 え方が,資本主義の発展 を代表する企業の営利原則のすべてにつ いて妥当す ることが前提 とされているように見えることを強調 しておかなけ ればな らない。博士 によれば,資本主義そ して資本主義経営 としての企業の 発展 とともに,企業の営利原則 も発展 して きているのであるが, この ような 発展の経過 を辿 って きた営利原則のすべてが,それぞれの歴史的な発展の過 程 において,それに従 う企業の行動 によって,それぞれ,経済社会を形成 し 発展 させて きたのであ り,それゆえに,それ らは倫理である, と解 されてい
るのである。
この ように,博士 においては,企業の営利原則 と企業倫理 とは同一視 され る。博士においては,両者の間の矛盾 ・対立は問題 とされない。両者の一致 に対す る疑 いは,ただ,企業の営利原則の実質的 ・具体的形態がすでに変容 しているのに,企業管理者の意識す る営利原則の具体的形態が,いまだ旧い
●●●●●
形態のままであ り, ここに, この後者の営利原則 に従 う企業の行動が経済社 会の形成 と発展 とに貢献することが 自明ではな くなることによって生 じるの である。
したがって,博士 によれば,企業の営利原則 と企業倫理 との一致 に対する 疑いは,経済社会の形成 と発展 に貢献する新 しい営利原則,すでに事実 とし て形成 されているかまたは形成 されつつあるにもかかわ らず,いまだ企業管 理者ないし経営者 によって明確 に意識 されていない新 しい具体的営利原則が 解明され, これが明確 に意識 されるな らば,解消するはずなのである。
博士 によれば,今 日では,期間利潤の極大化 とい う営利原則の形態が陳腐 化 し,企業維持 とい う新 しい営利原則の形態が,経営者の現実の企業運営の うちに登場 しているのであるが,それにもかかわ らず, この新 しい営利原則 の形態は,いまだ経営者 によって明確 に意識 されているわけでは必ず しもな い。そ こで,今 日の経営者の現実の企業運営の うちにいわば無意識的に登場 しているこの原則を明確化 して提示 し, この ことによって,企業 とその営利 原則に対する不信を払拭すること, これ こそは,博士 によれば,まさに経営
学に従事する者の科学的任務た らざるをえないのである*。
藻利博士の このような考 え方が博士 に特異であることはいうまでもない。
そして,われわれは, このような博士の考 え方について,なお,釈然 としな いものを感 じざるをえない。それが何であるか,または何故であるか。 この
ことを,われわれは, 自ら問 うて行かざるをえないであろう。
3
営利原則 と資本主義の精神
企業の営利原則 と企業倫理 とを同一視する藻利博士の以上のような考え方
●●
は,博士のいわゆる資本主義をM.ヴ ェ‑バーのい う近代資本主義 として理 解するとともに,博士のいわゆる企業の営利原則をヴ ェ‑バーのいう近代資 本主義の精神ないし資本主義の精神 として理解するとき,一応は納得されう
ると思われる**。
ヴ ェ‑バーは,現代の資本主義に連なる資本主義,工業を中心 とし産業革
●●●●●●
命を経て発展 してきた資本主義に相当するものを, とくに近代資本主義 と呼
び,これに対 して,古代から存在 し近世 においては商業そ して金融業を中心 とする大資本家によって指導 されていた資本主義に相当するものを, とくに
●●●●●
前資本主義 と呼んで両者を対比する。かれのいう前資本主義は,高利貸,投
●●●●●●●●● ●●
機,戦争,海賊な どの事例に現れるような良心なき営利の精神 としての前資
●●●●●●
本主義の精神に対応する資本主義であ り,これに対 して,近代資本主義は,
●●●●●●●
製造 とこれにもとづ く販売を営む合理的組織に現れるような良心のある営利
●●● ●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●
の精神ないし倫理的特質をもつ営利の精神 としての近代資本主義の精神に対 応する資本主義である。
* 次を参照のこと。
藻利重隆著 『 経営学の基礎 』 ( 新訂版) ,森山書店
,1994年
,537ページ。
* * これに関する M.ヴ ェ‑バーの所論 については,次を参照のこと。
笠原俊彦前掲著。
藻利重 隆博 士 におけ る企業 の指導 原理 と
M .ヴ ェ‑バ ーの資本主義 の精神
61ヴ ェ‑バーは,この ように前資本主義の精神 と対比される近代資本主義の 精神 こそ,近代資本主義を推進 して きた原動力*であると考 えるのであ り, このようにして,かれによれば,近代資本主義, したがって近代企業は,檎 理的色彩を もつ実践原理 としての営利原則によって導かれてきたのである。
しかも, この場合,ヴ ェ‑バーは,このような近代資本主義の精神が,禁
●●● ●●●
欲的プロテスタンティズム とりわけカルヴ ィニズムの予定説 と天職観 という
●●●
二つの教義の作用によって信徒の うちに形成 された宗教心,すなわち, 自ら が神によって選ばれ救われている者であることを,現世 において天職に勤 し み社会の合理的形成に寄与 して神の栄光を讃えることにより実証 して,確信
●●●●
したい とす る強烈な願望,を心理学的原動力 として生 じた と解 し,したがっ て,それが,当初は, とりわけ宗教色の強いものであったことを明 らかにす る。それは, もともとは,営利その もののための精神 というよりも,む しろ プロテスタンティズムの禁欲的生活基準その もの として生成 したのであ り, これが,利潤ないし富の追求 とこの私的消費 とを区別 し,前者を神の財産の 増殖 として積極的に認める,いわば 「 利潤の教義」によって貨殖化 されるこ とによって,生 じた ものなのである。そ して,これは,やがて,次第に,そ
●● ●
* ここにい う原動力は, これが資本主義 の精神であるこ とか ら,ヴ ェ‑バ ーに よって精
●●
神的原動力 とも呼ばれ るものであ るが, これは, この資本主義の精神 を生 み出す大 きな ●● ●●
原因 となったカルヴ ィニズムの宗教心
(Religiositat),心理学的原動 力か ら明確 に区別 さ れなければな らない。 ヴ ェ‑バーの 「プ ロテスタンテ ィズムの倫理 と資本主義の精神」
(
DieprotestantischeEthikundderGeistdesKapitalismus)の中心問題 は,資本主義の 精神を生み 出す決定的要 因 とな った この心理学的原動 力,カルヴ ィニズムの宗教心,を 明 らかにす ることにあ ったのであ り, この ようなヴ ェ‑バーの意図は,わた くしの知 る 限 り, これまで理解 され ることがなかったのである。
大塚久雄博士 において も,ヴ ェ‑バーの宗教心の意味 と意義 とは理解 されていない。
●●●● ●●●
この ことは,博士が宗教心 とい う心理学的原動力 と資本主義の精神 とい う精神的原動 力
とを混 同 している ( 例 えば,マ ックス ・ヴ ェ‑バー著,大塚久雄訳 『プロテスタンテ ィ
ズムの倫理 と資本主義の精神』岩波文庫
,2001年
,373ページを参照の こと) ことか らも
明 らかであ る。
の基礎 にあったカルヴ ィニズムを失い,功利主義にもとづ くもりへ と変容 し ていった。 しかも,近代資本主義の精神は,この ように宗教色を失って も, なお,倫理的実践原理 としての特質を長 く保 ったのである。
われわれの理解においては,藻利博士のいわゆる企業はヴ ェ‑バーのいう 近代企業ないし近代資本主義企業に相当し,藻利博士のいわゆる企業の営利 原則はヴ ェ‑バーのいう近代資本主義の精神に相当する。それゆえにこそ,
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われわれは,博士のいわゆる企業の営利原則が企業倫理 としての特質をもつ ことを,一応は承認することができるのである。
ところが,藻利博士においては, この ことは,必ず しも十分には理解 され ていない ように見える。た しかに,博士は,その著書のある箇所で,そのい わゆる企業の営利原則がヴ ェ‑バーの近代資本主義の精神に相当するもので あることを認めているようにも見える。なぜな ら,博士は
,「ヴ ェ‑バーの 見解に依拠 して」杉村広蔵博士が提唱 した 「 近代資本主義の もっ とも根本的 な特質 としての経営性」を説 明するに際 し,これが,「 近代資本主義, した がって生産力資本主義 を頗民資本主義ない しユダヤ的貨殖主義 か ら峻別す る」 ものであることを述べるとともに,さらに,次のように述べているか ら である。
「 杉村教授のこの見解は,古代や中世にも認め られる意味での資本主義か ら近代資本主義を識別するための一般的 ・形式的概念 として 『 経営性』を摘
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出しているものであることが注意 されなければな らない。それは,実質的に
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はわれわれの提唱する営利原則ない し営利性その もの とその意味内容を等 し
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くするものである。 これに反 してわれわれの主張する 『 経営性』は,杉村教 授のいわゆる経営性が,近代資本主義の歴史的発展過程において特殊的によ
り具体化 し,実質化 された ものなのである
。」 ( 傍点 一 笠原)*
この引用文において,近代資本主義か ら区別 される 「 古代や中世にも認め
* 藻利重隆 前掲書,306‑307ページ ,( 注 1)の
(B)0
藻利重隆博士 における企業の指導原理 と
M,ヴ ェ‑バ ーの資本主義の精神
63られる意味での資本主義」が,上 に述べ られた賎民資本主義 とともに,ヴ ェ‑
バーのいう前資本主義 を意味するこ とはい うまで もない。藻利博士 において は,前資本主義 に対 して生産力資本主義 としての近代資本主義 を特質づける もの として,杉村教授 によって 「 経営性」が主張 され, しか も, これが藻利 博士のいう資本主義の体制原理 としての営利原則 と同 じであるこ とが認め ら れているのである。 この場合の杉村教授の 「 経営性」が,われわれの理解 し うる限 りでは, ヴ ェ‑バーのい う近代資本主義の精神に他な らない ことか ら, われわれは,藻利博士のい う資本主義がヴ ェ‑バーのいう近代資本主義 に相 当 し,そのいわゆる資本主義の体制原理 としての営利原則がヴ ェ‑バーのい う近代資本主義の精神 に相当するこ とを,知 ることがで きるのである。
そ して,藻利博士は,杉村教授 とは異な り
,「 経営性
」(Betrieblichkeit)とい う言葉 を,近代資本主義の体制原理 としての営利原則ない し資本主義の 精神 という一般的な意味においてではな く, この歴史的変容の過程 における 特殊 な具体的形態の意味において理解 し用い ようとす る。それは
,「 企業の 持続的な存立 ・発展」 に対応す る営利原則,すなわち企業の利潤獲得能力の 発展的維持 に他な らない*。
いずれにせ よ,この ようにして,われわれは,藻利博士のい う資本主義が, ヴ ェ‑バーのい う近代資本主義 に相当 し,藻利博士のい う企業の指導原理 と
しての営利原則が,ヴ ェ‑バーのい う近代資本主義の精神 に相当す ることを 確認す ることがで きる。そ して,この ことは,少 な くともこの限 りでは,莱 利博士 自身 において も,た とえ 「 資本主義の精神」 とい う言葉が博士の論述 の うちに用い られていないにせ よ,事実上理解 されているのだ と,われわれ には思われ るのである。
しか しなが ら, この ように考 えて くる とき,われわれは,一 つの問題 に気 づかざるをえない。それは,ヴ ェ‑バーにおいては,資本主義の精神の倫理
* このことについては,次を参照のこと。
藻利重隆 前掲書
,304‑305ページ。
が歴史的にやがて色越せてい くことが説明されているのに対 して,藻利博士 においては,企業の営利原則が逆 に倫理を歴史的に増大させてい くことが説 かれているようにも見えること,これである。すでに述べた ように,藻利博 士は,一方において,そのい う営利原則のすべてを倫理 として理解 したので あるが,それにもかかわ らず,博士は,他方において,営利原則の変質の う ちに倫理の増大を理解 しているように見えるのである。
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