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統計學の性格に就て

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(1)

統 計 學 の 性 格 に 就 て

− 人 口 學 を 提 唱 す

十数年に捗って私は統計革を講じ釆たったのであるが︑私を最も困惑せしめたものは︑統計夢の性格を如何に

規定するがと云ふことであった︒統計笹概念の混乱せることに就ては︑前世紀後年リユーメリンが皮肉な微笑と

共に彼自身の第六十三番目の統計拳の定儀を描けたることは之を暫く招くとするも︑今日に於てすら邦語を以て

ll

書かれたる幾冊かの統計笹と題する著書を見る時︑等しく統計夢の著書でありながら︑其中に詮明せられたる内

容が必ずしも同一・ではなく︑叉重鮎の置き所が甚だ其れることに気付くであらう︒或ものは統計笹の概念︑統計

翠の蟄展史︑大量観察の理論的基礎や其荒の技術方法霊要問題として取扱ふのに射し︑或ものはそれ等を殆ど

問題とすることなく︑興へられたる数字系列を如何に分析し︑・如何に解鐸す昔と云毒に力聖違いてゐる︒

前者は猫抱に於ける社食統計畢派の流れを汲むものであり・後者は英米に於ける統計方法笹沢の影響を受けたる

統計単の性棒に就て 五ト

(2)

商 業 と 経 済

一 六

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と 云

ふ問題が再び新なる装巻以て繰返へさることを見るのである︒

統計思?を以て科皐であると同時に方法なりとする折哀的立場は一躍此問題を解決するが如く考へらる﹄も︑之

は統計閥単の閥単問的性格を真に規定せるものとは云ひ得ない︒何となれば統計皐を科墜なりとする立場に於ては︑

必然に統計方法の研究が其基礎を魚すものであるからである︒科墜と考へるものが方法を軽視し︑ 又は之在無視

すると云ふのではなく︑主(方法の研究を統計皐の理論に於ける最重要事項とするものである

06

口 ハ

統 計

方 法

は 手

である︒其手段によって獲得されたる資料に就て︑其背後に潜在する法則性なり︑秩序なりを定立し︑以て之等

の諸法則に関する知識の組織的集成によって資質的なる統計堕が生れるのである︒従て統計撃を以て科墜にして

方法なめと主張するものは︑統計墜の科恩一色を主張すると同一の結果に落若くのである︒総て此折衷的立場は民

の折衷ではなく︑統計閥単を科墜として認識せんとする設の一愛貌と見るべきである︒何となればそれは統計的方

法の一般性を認める鮪に於て一歩譲歩せるに過ぎ守して︑主(根底は飽く迄も統計壌を宮燈墜として主張せんとす

るものであるからである︒果して然らば統計皐の性格規定に営つては︑科壌か方法かの何れに蹄告一泊せざるを得な

い語である︒そこで次に吾人に課せられる問題は科壊としての統計撃は如何なるものであるか︑叉方法としての

統 計

壌 は

如 何

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(3)

科閥単としての統計閥単は勿論之を簡単に定義することは至難なことであるが︑私見を以てすれば︑それは統計の

阜であると云ひ得る︒然らば統計とは何であるか︒通常統計は一世舎的大量現象の数字的表現であると考へられて

ゐる︒統計の本質的なる特徴は数字的表現であることに在るは何人も疑ひなき所である︒併しながらそれは草な

る数字的表現ではなく︑系統的方法によって獲得され︑整理されたる数字でなければならぬ︒チスカが例示して

ゐる様に唯一衰の電車の乗客数が何人なりと云ふことは統計ではなく︑一定の時︑

たる電車の乗客数を調べ上けたる結果が統計である︒従て統計たる以上は一世合的大量(静大量もあれば︑叉動大 一定の場所に於て還特せられ

萱もある)に就て系統的に確定され︑庭理されたる数字たることを要する︒人によっては大量観察の結果争統計

と呼んでゐるが︑若し主(意味する所が怒皆的観察であるならば︑︑之は明に狭きじ失する︒推計によるものも︑標

本調査によるものも︑それが合理的︑系統的方法に基く一位舎的大量の数字的表現である限り︑之を統計と呼ぶは

何等支障なきのみか︑寧ろ之が吾人の慣用に合致するものにして︑悉皆的大量観察の数字的表現に限ることこそ

理由なきものと云ふべ誌である︒例へば園宮や図民所得の調査は推計や標本調査其他の部分的調査の綜合に成る

ものにして︑人口の国勢調査の如き組織的直接的大量観察の結果とは甚花縁遠いものと云ふぺきであるが︑其数

字を図宮や園民所得の統計と呼ぶは一向に差支へはない︒叉世人は物債統計を云々するが︑之亦如何なる意味に

於ても飴さホ

J

洩さ?の悉皆的組織的観察の結果とは見るを得ないから︑若し悉皆的大量観察の結果のみを統計と

呼ぶならば︑物債統計は云々されぬ道理で b る︒従て吾人は統計を以て世合的大量の組織的︑系統的方法に基く

統計皐の性格に就て

C .   von  T y s z k a ,  S t a t i s t i k  S .   1 .  

(4)

、¥

商 業 と 経 済

/ 、

数字であるとするのであるから︑敢てそれが悉皆的︑組織的観察の結果たることを必要としない︒

次に統計は一世合的大量現象の数字的表現である︒そこで大量現象とは何かの問題に簡れぎるを得ない︒大量は

集国の謂である︒集圏は個障に封立する概念である︒印ち個躍によって組成されたるものが集圏である︒注意す

べきは個樫ぼ個障として常に相互に相違するものではあるが︑同時に共通の標識を有するものである︒例へば人

口は一つの集圏である

0

之を組成するものは個々の人間である︒人間は生れながら︑其鰭性を具にし︑年齢︑を具に

0

し︑配偶関係︑職業︑閤籍等を具にし︑ 一として等しきものは存しない︒併し彼等は人間として共通性︑申告有する

ものであって︑或閣に︑或時期に生存する人間に就て其総量なり︑更に之を男女とか︑老若等によって区別するー

時︑個々に於て見られぎる集固に於ける特具性の認識に到達し得ること﹄なるものにして︑か L る伺儲から離れた

る集圏に於ける集圏性の数字的表現が統計なのである︒此場合集国に於ける集圏性と一去ったが︑集国が総て等質

的のものであるならばそれでよいが︑集圏には種々の集国があり︑粧品目的集固もあれば︑叉自然的集圏もある︒

06 

更に存在たる集圏もあれば叉作為されたる集圏もある︒然らば統計は集国の如何を問はや︑集圏性の数字的表現 論 概 皐 であれば︑之を統計と呼び得るか︒勿論統計なる名苧伊}以て如何なる集圏を呼ぶか︑それが皐なる命名の問題に'樹

一 一

虎 一

措 過ぎないならば︑犬や猫の名を付ける場合と同様︑問中者が勝手に誼営なる命名︑ゅ守すればよい語である︒併し何を 統計と呼ぶかは統計皐自倍の性格を規定する重大なるポイントを含むものであるから︑其概念規定は必然に統計

墜自四胞の向上後長に資するが如︑き︑叉之によって統計思一がよりよく理解され且又よわよく役立つが如きものでな

2 )  

(5)

ければならぬ︒此意味に於ては統計は世合的集固に於ける数字的表現に限るを安営なりとするものである︒

然らば何故にか L る限定を統計概念に附興するやと一式ふに︑主(理由の一は統計 QS 安丘町

w m g t 切 符

ω ﹀なる語は

元来園家叉は扶態なる語に沿源すること愚者の設く所にして︑統計問中が社舎大量の問中間 ι して成立し︑後展せる

ことは︑統計の語源並に沿革に照して明かであることに鑑み︑統計をかく解することは沿草的に見て安営なりと

云はざるを得ないか句である︒併しながら之に封しては統計の獲得更に分析の方法は必宇しも︑佐倉的大畳一現象

に限局さるべきではなく︑自然現象に於ても亦大に利用し得らる

L

ものであるから︑自然現象に於ける集国性の

数字的表現をも統計と呼ぶニとは何等差支へなきに非争やとの駁論が相像される︒此立場によれば統計は集圏現

家の数字的表現であると一式ふことになって︑頗る明快にして論理的なる印象を受くるのであるが︑之に封しては

次の如き理由によって賛成出来ない︒郎ち此設は統計を獲得し︑統計を分析し︑更に統計を解緯せんとする方法

ーー'之を簡単に統計方法と呼ぶこと﹄する

l !

の普遍性に立却するの論にして︑統計方法の誼用は位合的大量

現象にも︑白然現象にも︑会く同様に︑同債値に於てゾあるかの如き印象を輿ふるも︑買は雨者への適用には確

に共通の領域もあるが︑叉然らざる部面も亦存在するのである︒思ふに自然現象と枇舎現象とは本来其後現の形 ヘ 式を具にするものにして︑前者が多く典型的︑個別的であるのに封して︑後者は非典型的︑集圏的である︒前者

に於ては賓験が可能なるのふなら手︑又佃躍の観察の結果は之在未観察の佃障にも及一除して類推するを得るが︑

後者に於てはマイチェシの所謂端院すべからずる多様性を以て後現するものにして︑ 之は統計的方法に依るに非

統 計 昌 一 ゐ 性 格 に 就 て

A

(6)

商 業 と

経 済

ニ O

ぎれば︑之が認識に到達する巻得ない︒従て統計方法の適用が雨者に行はる L は事賓としても︑自然現象に於て

L ι  

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' K  

全く無意味なるに於ておやである︒かく考へる時︑統計概念を社合的大量現象に限局することは営然と云はざる・ M B 

を 得 な い

︒ 倫 此 賠 に 就 て は 後 再 び 偶 れ る

︒ 叫

a  B  以上五日人は統計とは何かに就て述べたのであるが︑次に統計壊を以て統計の壌とは如何なる意味に於てロある江

かと云ふじ︑それは端的に一式へば︑統計そのものを研究の封象とするものである︒詳言すれば吐合的大量現象の市

数字的表現たる統計を如何にして獲得じ︑叉之そ如何に分析し︑如何に解明伴すべきか︑市じて統計の中に宥取さる M

ぺき法則性︑規則性︑傾向性をも見出し︑以て営該事象に於ける統一的認識に到達せんとする科壊である︒従て制 G  それはマイアの所謂正確社舎阜の範臨時に属すべきものであお

0 6

次に方法としての統計撃は如何なるものであるかと云ふに︑之にも種々ある︒或は統計思?を以て専ら統計を獲仙 a  得する方法の思?とするものと︑更に統計的分析を主とするものとがある︒忍には主として後者に就て論守ることけ

却 にする︒奥へられたる統計を如何に分析するかの方法は決して統計にのみ限局せらるべきものではなく︑作魚せ︐ M n  o  られたる集圏に於ても︑将叉自然的集圏に於ても之を利用し得る普遍性を有せるものである︒換言すれば統計的川 J

U

円︑U

ほ補助的であるのに封じ︑社合的大量現象に於ては不可快である︒加之組織的なる大量の観察方法は吐命日現象に 於てこそ重大なる意義を持つものであるが︑自然現象に於ては之は大した意味はなく︑況や作魚的集固に於ては

分析の方法は統計のみではなく︑主(他のものにも遁用さる L 事を意味する︒従て之は統計方法の墜と一式ふことに

3 )  

(7)

なる︒而して此立場こそ英米に於︐けるそれである︒

如斯にして統計墜の墜問的性格に就て二つの考へ方があることを知った︒ 一は統計撃を以て統計の恩?とする賢

質的意義に於ける統計問中の性格の把握であり︑他は方法問中としての認識である

0

・而して之に社合的大量現象の数

字的研究方法を封象とするものと︑一般的なる数字的研究方法・特に統計分析方法をお象とするものとがある︒如

何なる立場︑を以て正営なる立場とすべきか︒先づ第一の統計問中を以て統計の墜と考へるものに封しては︑次の理

由によって賛成し難い︒此立場によれば︑恰も経済問中が経済生活吾︑生物墜が生物界中佐︑動物早が動物界を其特殊

の研究封象として持つ様に︑統計問中

4

も亦祉合的大量現象なる濁特の封象を有すとするものである︒併しながら位

合的大量現象と云つでも共内容は複雑多岐であるから︑従て経済阜︑社舎阜︑主(他の佐倉諸科息?との間に主(研究封

象の卒︒合ひを生ぜ中やとの危阻いが起る詩であるが︑之に封してミユ一フーによれば統計阜︑そして濁立の科墜にら

しむるものは︑資に其研究方法換言すれば数量的観賠よりする所の研究と一式ふ鮎に在る︒例へば肺は解剖関学の研

究封象ではあるが︑叉同時に生理撃のそれでもある︒前者は其構造を︑後者は共生命的事象を取扱ってゐるが︑

d吐

府間研問は矛盾しない︒雨者は観賠を具にしてゐるからである︒確にミユラーが云ふ様に統計阜︑が其特異性︑を稀し

得るのは主(狛特なる観賠よちする研究であることは之は否定するを得ない︒併しながら数量的観賠より研究され

/¥ 

得ると云ふ賠より世合的大長現象の墜を構成すると云ふことは︑恰も顕微鏡巻解剖壊や動物践での研究に利用する

事によって︑確定された事買を組織したるものを以て特異なる顕微鏡問中か構成すると等しき事となるのではある

統計阜の性格に就て

J .   Muller ,  T h e o r i e  und S t a t i s t i k   d e r  S t a t i s t i k .   S . S .   4‑6 ・

4 )  

(8)

商 業 と 経 済

まいか︒ム l アツトが云った様に﹁統計挙が密接なる関聯を持た歩︑又数字の科率的操作や集図的事賓の玉しき

理解の魚に統計壌が多少とも必要でない串間はない︒之によって抽出されたる法則は其が確定を見たる時に属す

る皐問の分科に入るぺきことは︑卑見によれば︑共存在を可能にしたる手段の科皐的要請を無殺ならしむるもの

" ︒

ではない︒﹂ム1アツトの言はんとする所は統計的方法にまって確定されたる事震は︑若しそれが経済壊の領域に

︑ 於

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それは営然に経済皐に︑若しそれが枇舎壌の領域に於てならば︑社合壊に属すペ

きものであると云ふのである︒更に叉量的視賠より研究されたるものであれば︑社合事象も︑経済事象も︑政治

も教育も犯罪もありとあらゆる事象が枇合的大量現象の墜として︑一の科墜に綜合すると一式ふことは抑々可能で

あらうか︒之はリュ l メリンが云った様に︑ 若し可能としたならば︑確に﹁奇怪なる科鼠乙であると稽せぎるを得

ない︒彼は云ふ︒一ー科阜の分類は原則として論理的研究法の具︑同によら宇して︑目的物の具同による︒統計的方法

は日々各種の墜問に取り有益なる事項を集めてゐるが︑此等の諸知識︑を唯一科阜の範国内に纏め得ぎること恰も

蹄約法︑類推及び経験により全く具ちたる方面に於て後見せる事項を同一科悶晶子の内容に盛り能はぎると同様であ

る︒若し認に家畜飼養の結果︑及び熱病治療法の結果と等暑線︑等温線︑を同時に︑又は死亡生残表︑殺人及自殺

教と農業組織の社合的影響と巻同時に包含すと主張する翠問ありとすれば︑ そは誠に奇怪なるものと一式ふべきで

ある︒統計準は決して統計閥単方法により把握し得るもの

L

科息子たり得るものではない o

﹂ れ

o

かくて科閥単としての統計撃が採るべからざるものとすれば︑吾人の統計阜の性格規定が方法としての統官壊で

J .   N. Kcyncs ,  Scopc and N I e s h o d s  o f  P o l i t i c a l   Economy. p .   p D l .   A. J u l i n ,  P r i n c i p e s  de S t a t i s t i q u e   Theoriquc e t   Appliquee ,  p p .  41 , 必. 

. 5 )  

6 )  

(9)

あることは営然である︒方法閥単としても前述の如く大まかに分かてば枇舎科皐の方法と見るか︑持又一般科阜の

方法と見るかの問題︑か起る︒私見そ述べることが許されるならば︑私は統計事は飽く迄も統計の早大るべきであ

ると信ホ

J

る︒かく云へば統計の問中部ち科墜としての統計墜に非中やとの疑問が生中るかもしれぬが︑私は統計の

墜と云つでもそれは統計を分析し比較し︑統計の叙述する事賓を確定し︑更に其中に法則なり︑秩序なりの護見

を目的とする質問閥単としての統計問中ではなく︑統計を如何にして獲得するか︑之を如何に分析するか︑如何に解

相伴するか︑又かくして得たる法則なり︑秩序なりの持つ意義如何を明にせんとする科皐なりとするのである︒換

一一目すれば統計の獲得利用に関する手続や方法を研究する科撃なりとするのである︒統計の獲得利用に用ひらるべ

き方法は佐合的大量現象に限局すべき理由はなく︑之を其他にも及隠すこと皐も不都合なきに拘はら示︑何故に

之を上越の如き狭く解するやと云ふに︑それは第一に統計壌は名詮自稽統計の撃であるからであると答へたい︒

市して之は統計皐の沿革に因由せるものである︒次に統計の獲得手段たる所謂大景観察は社舎的大量現象に於て

こそ有用であるが︑主(他に於ては殆ど問題ではない︒方法墜としての一般性は分析方法に在る︒之は吐舎現象で

あらうと︑将叉自然現象であらうと︑共通に利用し得らる普遍性在有することは事賓なるも︑それは吾人の所謂

統計方法の一部に外ならざるものである︒之を要するに統計撃は大量観察と統計的分析の双翼に泣脚するもので

ある︒かく考へることによって︑吾人は統計墜が科墜樫系に於て主︿在るべき場所に落士一周き得るものと信宇る︒世

合諸科撃に於ける封象の争奪も起らなければ︑叉大丑観察法としては吐合科撃の方法となり︑統計的分析法とし

統計皐の性格に就て

(10)

商 業 と 経 済

ニ 四

ては一般科皐の研究法となると一式ふ雨頭の蛇となる虞れもなくなり︑只枇舎科撃に於ける重要なる方法として濁

自の研究領域を保有し︑其研究に専念すればよいこと

L

な る

前節に於て私は統計事は如何なる性格の科早大るべきかに就ての私見を述べたのであるが︑此統計撃の性格規

定は必然に其熔用部門じ於ける統計皐の性格を制約する︒一式ふ迄もなく統計皐の底用部門を如何に分つかは︑統

計 思

T

4

伊ニ般的なる統計的分析の方法なりとするものに取りでは︑殆ど問題とはならぬ︒査し統計的分析の方法は

必 ホ

J

しも一世合的大量現象に限局されるものではなく︑有も統計的分析の可能なるものであるならば︑自然現象で

あらうと︑何であらうと︑主(有数なる適用巻震し得ること数早や論理壊や語墜と同様である︒従て其特殊領域へ

¥ 

の路用を若し隠系化するとすれば︑それは必然にあらゆる科翠部門全臨に渉ること

L

なり︑罪︑庭にも亦奇怪なる

科 阜

︑ か

成 立

す る

こ と

L

なるからである︒即ち此立場に於ては唯賢際的必要に熔じての各種領域に於ける特殊研究

が孤立的に存在するのみである︒之に封して統計皐密資臨墜と考へるものも︑形式墜とするものも吾人の如く統

計壌を理解するものに於ては其封象が社合的大萱現象に限られてゐるのであるから︑主(都門分けは自 ι

統 計

思 一

樫の後展に照らし︑且叉其封象の特殊性によって︑自ら定まってゐる︒勿論閥単者によって其区分が具ってゐるが︑

先 づ

人 口

統 計

経 済

統 計

文化統計(教育統計︑道徳統計︑政治統計︑を合む)の三部門に分つのが最も穏営の様であ

(11)

る︒就中人口統計は最も古くよわ研究せられ︑主︿串間的障系の整ひたることは︑経済統計や文化統計の比ではな

い︒依って本節に於ては此人口統計を採 0 上けて︑人口統計壊が如何なる科問中であるべきかの問題に就き︑前節

に於て述べたる統計撃の性格規定の展開として論中ること与したい︒而して此問題の討究は叉同時に吾人の採り

たる統計阜の性格規定の安官性を論詮する一手段ともなり得るものである︒

拙著﹁人口統計論﹂に於て私は次の如く述べた︒﹁玩越せる如く統計撃を方法撃なりと考へる限り︑人口統計撃は

人口領域に誼用さるべき特殊方法の息寸たるべきは論理の必然の要求でなければならぬ︒然るに此特殊統計方法の

泡用は人口に関する具鐙的知識を結同封するものにして︑此知識の組織されたる一国は或はデモグラフィ l( ロ

O B

?

m g 匂 E O )

となり︑又人口阜の一部を構成する事となる︒而して人口統計と海然一附闘を魚す所のデモグラフィ l や

人口撃の一部こそは︑賢際統計阜の存在を信ホる人々の云ふ人口統計に外ならざるものである︒震質的意義に於

ける統計墜の成立に封しては︑確に異論の飴地を存する事既越の如くであるが︑少くとも人口に関する限りに於

て︑資際統計撃の意味に於て人口統計撃の存在を主張することは決して謂れなき事でない︒人口統計のか L

る 特

異性は賓に其歴史性並に統計的研究封象としての人口の特異性に因由せるものである︒﹂と︒人口統計事の特殊的

地位を認めるべき理由もあり︑又賢臨撃の稽呼に相応しき内容を有するは事賢なるも︑既に統計墜を統計方法の

壊 と す る 立 場 を 採 る 限 ・ り 人 口 一 統 計 問 中 在 賓 館 墜 と し て 例 外 的 に 統 計 閥 単 の 持 内 に 抱 有 せ し め た る 事 は ︑ 人 口 統 計 問 中 な

る名稲に囚はれたる未熟なる考へ方であったこと認めざるを得ない︒ジゼ l クが宜際的統計撃の仔立理由の一と

術 ︑

統計皐の性格に就て

二 五

拙著:人口統計論 p .1 2 .  

7 )  

(12)

商 業 と 経 済

一 一 六

して︑﹁:::叉凡ての統計的調査結果︑ぞ銃に成立せる科皐の下に鴎属せしなることは︑全然不可能であらう︒例へ

ば道徳統計的調査結果は直接何れの社合科壌に包含せしむることを得るか︒叉人口統計を包有するに直接遁合し︑

一般に承認せられたる人口早は成立してゐない︒﹂と述べ文様に賢際問題として︑か

L

る知識の集固として濁立の

賢鶴的統計皐が成立し得ることは︑之を否定し得ないと思ふ︒併しながら吾人が今問題としてゐる賠は︑統計皐

の科撃的性格の規定である︒従って際用部門に於ける統計皐の性格規定は必然に統計壌の性格より派生し︑流出

するものでなければならぬ︒資鰹的統計障での否定によって現にその中に包合さる

L

知識の集固が都合よく既存の

科皐に分回向され得るか否かは便宜の問題であって︑論理の問題ではない︒果して然らば人口統計撃の在るべき姿

に於ける性格は必然的に人口領域に適用さる﹄統計方法並に調査手続の皐聞にるべきである︒かく考へる時︑賃

鵠壌として存在したる人口統計墜は最早や統計撃の範障に停滞すぺきではなく之より︐超股すべきである︒認に吾

人は人口統計撃のデモグラフィ 1

又 は

人 口

一 挙

へ の

愛 貌

な り

進化なりを見ることが出来る︒

人口統計皐は如何にして人口皐なり︑デモグラフィーなりに愛貌するに至ったか︒

に劃して如何なる関係に立つものであるか︒ 市して人口統計皐が人口墜

統計壌の史的愛展を回顧する時︑今日の統計事に最大の影響を奥へたるものは政治算術昼夜の業績であること

. . , .  

竹田武男語:庭用統計皐, p.4. 

8) 

(13)

は改めて説く迄もない︒而して政治算術に於ける中心題目在魚したるものが人口であったことも亦周知の事震で

ある︒政治算術開伊派に於ける最大の業績とも稿すべきジュースミルヒの紳序論

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E ﹀には人口統計なる文字は全く用ひられてゐないが︑之が人口統

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既にワヅボイスやルずァス1ルの明言せる所である︒ 計の飽系を最初に樹立せる書であることは︑

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p g

] 丹 市 山 門 凶

0 5 0 5 B O W

同 ∞

S )

に於いても人口統計が其最も重要なる短目であった︒如斯にして統計息子は人口統計閥単であり︑ 叉人口統計

島一ほ統計閥単であったのである︒這般の事情を明かにする魚に︑先づデモグラフィ 1 に就て開設することにする︒

デモグラフィ l

なる語は希鼠語のり

0 5

︒(人民)なる語との

5 ] ) E P (

記述)なるこ語の合成になるものにして︑

仰蘭西の統計皐者ギィア l

ル (

﹀ 手

一 一

‑ o

の 巳

] ] P E )

の創詮せる語である︒ 我図に於ては民勢問中と一式ふ様な詩語を兵

ギ ィ

ア 1

ル は

主 (

へるものもあるが︑主(内容より一式へば寧ろ人口統計又は人口壊とでも諒すぺきものである︒

H L 2 2 0 B g z ι σ

己 丘 町 民 ( 山

口 o

F 5 5 一 0 ロ 0 ロ忠

B a s ‑ ) Z 0 8 5 3

叫が

O W H

∞忠・に於てデモグラフィーを次の如く定義し

て居る︒﹁デモグララフィーは人類の自然史であり︑社合史である︒﹂市して限局されたる意味に於ては︑﹁人口︑

其一般的︑運動︑物理的︑市民的︑知識的︑ 道徳的決態の致問中的認識﹂であると述べてゐる︒プロックも亦ギィア

統計阜の性格に就て

ニ 七

9 )   J .   E .  Wappal

AllgemeineB e v o l l

e r u n g s s t a t i s t i k .S .   7 .  

1 0 )   E. L e v a s s e u r ,  La P o p u l a t i o n  F r a n c a i s e ,  1 .   p ・ u 4 .

(14)

商 業 と 経 済

二八

ールと同様デモグラフィーを庚義に解してゐる︒それは科恩?としての統計墜の別名として Y

あ る

L

る意味に

於けるデモグラフィーは︑人間の自然的︑精神的︑ 社合的等あらゆる方面に於ける欣態並に運動を封象とするも

のにしてマイアの所謂﹁賢際統計翠﹂やメイヨスミスの三

ω s t a g p E F

己 o ‑

︒匂ョと主(範国を等しくするものと

云ふことが出来る︒併し之はデモグラフィーを飴りに庚義に解せるものであって︑統計撃の別名として何故にか

tA

る新語を用ひるの要ありゃを反問せしめる︒か L る企ては吾人の想像する所によれば︑営時に於ける統計概念

の 混 乱 欣 態 に 鑑 み ︑ 叉現に輝かしき業績を示し︑

而も科恩?としての将来の後展を約束せられたるが如︑き人間の一位合的生活の数量的方法による研究の成果︑を組成す

るに営って︑新造語による新なる科事の建設を行ひ︑新なる出裂を震さんとして︑主(袋を新にしたるものと云ひ か﹄る混乱に捻き込まる﹄ことを欲せ示︑践に成立せんとし︑

得るであらう︒併しながら︑営時既に其意味に於て統計墜が︑名稀並に資質に於て人間生活の数量的研究に係は

る一国の組織せられたる知識として︑牢固たる地位︑を確保せんとしつ﹄あった時代の大なる潮流を眺むる時︑上

述の意味に於てデモグラフィーを認めることは︑寧ろ時代に逆行する考へ方として︑之を採ることに濁して敢て賛

意を表する器にはゆかぬ︒吾人は寧ろか﹄る新治語は統計墜それ自躍の護展に印臆するが如︑き方向に於て︑之を

理解する事が正しいと信手る︒統計概念の混乱は統計皐それ自陸が何を目標とするものであるかと一式ふことの深

き透徹せる認識に基きて之を解決すべきである︒主(混飢の前に逃避して︑之に代ふる新進語を以てすることも意

味のないことではないとしても︑それが統計皐其ものを打倒し︑克服するのでなければ︑結局混乱を只増加する

1 1 )前掲拙著, p.8‑9. 

(15)

のみで︑員の解決とはならぬ︒忍に於て統計阜︑を生かしつ

L

新造語に特別の意味を血(へるものが現はれて来大︒

英一人としてルずァ不 1 ル在奉けることが出来る︒

彼によれば︑﹁デモグラフィーは人口事会己

8 8

念宮匂己主 o るである︒それは人口の欣態を確め︑主として F

出生︑婚姻︑死亡︑来往位に於ける運動を研究し︑之を支配する法則の認識に到達せんとするものである︒之は

一世合的なる人間生活の閥単であり︑それは濁自の確定せるお象を有するものであるから︑民の意味に於て科撃たる

ものである︒それは時として統計墜と混同されることがあるが︑統計皐は多くの研究に営つての方法であり︑主(

資料の大部分を掘り出す鉱山たるものであるこ最近に於てラピノウィツチも亦同様の見解を披涯してゐる︒

ち伎はデモグラフィ

l b

統計閥単との関係に於て次の如く越ぺてゐ } 濁逸草者の一式ふ人目撃と同様に解してゐるが︑

る︒﹁デモグラフィIの礎石は統計方法である︒ デモグラフィーが人口の動きに関する各種現象の因果関係を討究

一般的法則を定立し得るのは︑正に回有の意味に於ける統計墜に依って蒐集され︑統一されたる数字的概念

の上に於てロある︒かくて雨者の聞に緊密なる依存の存在を見るのであるが︑雨者を同視するは慌しむべきであ

る︒﹂と︒之を要するにデモグラフィーはルずァス l ルに在りても︑ラピノウィツチに在りても人口に関する科撃で

あり︑統計墜は方法であると一式ふ立場在堅持してゐる︒﹁統計的方法によって分類し︑整理せる数字の大量の中に

因果関係を探究するのはデモグラブィ 1 の仕事である︒此雨墜問の混同は其結果としてデモグラフィT中伊品早純なる

人口の統計に愛貌せしむること与なるが︑之は誤りであり︑容認し能はざる所である︒﹂

統計皐の性格に就て

/ 一 一 九

g p  

1 2 ) 前掲拙著, p .   9 ‑ 1 0 .  

1 3 ) 前掲拙著, p .   1 0 .  

(16)

商 業 と 経 済

O  デ

モ グ ラ ブ ィ l J が濁立の科事としての成立並に存在の理由は︑統計撃が統計方法の皐たるの認識を前提とせる

ものである︒少くとも賓質的意義に於ける統計閥単の成立に封する疑問は︑か L る煩はしき続︑計壊なる名穏を長つ

て︑其内容に相熔はしま新なる科襲名稿︑を後生せしむるに至ったのである︒而して之と同様の事情は又濁逸に於

け る

人 口

間 中

( 出

2 2 Z E

口問

ω ] O F B E O 千

三 説

︒ ま

ES の成立に就ても亦一式ひ得る所である︒今日統計翠の正統とも稽 の

すべき枇合統計問中派の意味する統計皐が其主内容を政治算術に承けたることは云ふ迄もないが︑又他面主(名稀は

之︑そ溺逸の大問中統計事派に承けたる事は︑統計閥単史の教へる所である︒認に注意すべきは︑大開中統計皐沃の現代

統計壌に封する貢献が単に形式的なる名稽に上り︑内容的には何等寄町内する所がなかったかと云ふ黙である︒或

意味に於て大串統計皐派の最後の賎終とも稀すべきワヅボイスはア 1 ヘ ン ワ ル の 読 み } 擁 護 し て 次 の 如 く 考 へ た ︒

即ち彼は統計民一亡於て致事的材料の重要性が増大するに至れるは︑此等の材料が今日に於て一居容易に獲得し得

り二つの科撃を造り出さんとするは誤りである︒統計事に就て誤解が生じたのは︑純粋に哲息子的なる一事問││

n v  

p ι

︐  

'b

 

統計事は之に麗せ歩ーーによってのみ満たさそが如毒事統計撃に封し属されたる震である

o

統 計 壌 は 賓 陶

詮的科皐である︒換言すれば賢際的目的の震に集成されたる知識即ち具躍的なる園家の串間である︒之は頗る皐

N .

T J

 

4吐

約なる定義であるが︑此科墜の愛生並に歴史に照して正賞なるものである︒﹂此叙述によって察知さる L

如 く

︑ 統 同

は二つの等しく重要なる手段││叙述と数字的表現ーーを有する︒此二方法は相互に補完するものであって之よ ら

L

震であるとして︑﹁数字的事震の蒐集の使が増大せる事は︑必然に統計閥単の方法に影響を奥へた︒今や吾人

(17)

計事が具時的なる園家の串間たるべきことは︑間早に其名稽のみではなく︑内容的じも営然の事でなければならな

かった︒ワツボイスが其大著﹁人口一統計皐﹂(]・戸当名

3 5 k p

口 問

︒ 自 己 5 出

2 2 Z 2 8 2 g p

丘 町

二 ∞

g L

∞ 巴

) に

於て其人口統計撃の概念規定に営って︑人口統計墜を人口撃の意味に解したることは︑決して謂れなきことではな

い︒大事統計問中派あわ︑政治算術事派あり︑表式撃波あり︑或は統計阜の否定在唱へるリユ1グ l

の 如

き あ

り て

統計事概念に於ける混乱の均哨と化したる濁逸に於て︑悌蘭西に於けるデモグラフイ l 出現と同様︑人目撃の成

立を見るに至るべきは営然のことこ去はぎるや得ない︒ワツボイスは人口統計なる科挙名を以て人口に関する具

館的なる研究部円であると考へたが︑彼も亦此名稀に代るものとしてはデモグラフイーを用ふべしとしてゐる︒

即ち人口統計はテモグラフイーである︒若じ人口統計がデモグラフイーであるとするならば︑市して主(内容が悌

OT4 

Qd 

o  a  a 

名穏に代って人口事なる名稿が行はれてゐる o 但し人口阜の意味する所は人によって必歩しも同一ではない o

之"向日

n r  

w 時 E 掲

エ 前

kupu 

関西皐者の云ふ所と一致するならば︑人口統計なる名稽は誠に不幸なる名穏と一試はぎるを得ない︒何となればそ れは統計皐概念の混飢を救済することにはならないのみなら歩︑却て混乱を増加するからである︒従て吾人は寧 ろデモグラフイ1又はデモロギ l なる名稀を用ひるの遮切なるを田山はざるを得ない︒然るに濁逸に於ては此等の

を狭義に解するものは賓際統計事の意味に於ける換一一目すれば特殊方法皐在合む所の賢質的意義に於ける人口統計

の意味に解してゐる︒シュナツパ l

・ ア

l ントが主ム﹁社合統計事﹂の一部門として取扱ってゐる人口皐は正にか﹄

pu

 

る意味に於ける人口統計問中と其内容を等しくせるものである︒併し普通﹁人口早﹂と稲せらる﹄事開催系はより債

統計皐の性格に就て

(18)

商 業 と 経 済

き内容を有するものである︒其一例としてフイ l ルクスを奉けよう o 彼によれば︑人口壊は社合科阜の濁立・一分

科大るものにして︑経済事や一世舎的精神文化科墜と交互作用の関係に立つものであるが︑更に人類率的︑生理準

的︑政治的︑歴史的問題の討究をも要請されたるものである︒之に依って詮明されたる法則や秩序は如何なる所︑

如何なる時に於ても︑人類の全的議展に取り最も妓呆ある力であり︑其結果に封しでも然りである︒人口車は次

の三部門に分かたれる︒印ち人口統計︑人口理論︑人口政策之である︒

(一)人口統計は事賓を確定し︑整理し︑明かにするものである︒之は研究の資料を供興するものにして︑次の

二部門に不可依の補助科阜大るものである︒

合一)人口理論は人口統計より一般的法則や秩序巻確定し︑之を整理し︑更に規則的現象よりの逸脱の原因巻究

明するものである︒

会一)人口政策は人口統計や人口理論によって詮明されたる事賓の上に基礎を置いて其思慮を決するものであ

4

併しながら人口墜を如斯一)一部門に分つことは頗る明快ではあるが︑賢際問題としてはか る区分を行ふことは L る ︒

中々困難である︒人口統計は人口の静態並に動態の記述であり︑人口理論は人口統計によって確定されたる事震

に基いて法則なり︑秩序なりの定立後見を目的とするものであるが︑果して雨者を一つ串間賠系に於て︑人口統

計部門︑人口理論の部門と分ち得るや疑ひなきを得ない︒雨者は寧ろ海然一館︑を為して離るべからぎる緊密なる

1 7 )   A.  F r e i h e r r  von F i r c k s ,  Bevδlkerungs~ehre und B e v δ l k e r u n g s p o l i t i k .   S .   2 .  

(19)

関係に在りと見る・べきである︒ワツボイスの人口統計開ぞか賓は人口早である所に︑雨者の本質的関係が宥取され

.るのである︒勿論ワツポイス流に人口統計事を解することに封しては︑既述せる所によって明かなる如く︑現代

に於ける統計閥単の科撃的性格に鑑みて︑容認し能はずる所である︒惑に吾人は率直に統計閥単とは猫立せる人口事

の樹立を提唱せんと欲するものである︒而して建設せらるべき人目撃の科閥単的内容が如何であるぺきか

j j

叉之を

如何なる鰭系の下に整理するかに就ては︑恰も建物の青馬民が一先づ作らるべきであると同様の意味に於て考慮

さるぺき問題である︒私には今之に就て詳細なる設計固吾作ることは出来ないが︑只人口阜の構造に就て設定し

得らる﹄ことは︑人口壊は一式ふ迄もなく人口を封象とせる科障でである︒人口は教的存在であり︑設や}離れて人口

は存在しない︒人口の此数量性は必然に所謂人口統計が人口撃に於ける理論や政策の構成に営って︑極めて重大

なる役割を負捨すべきは云ふ迄もない︒併しながら︑人口墜に資料巻供興するものは只人口統計のみではない︒

ジュ l ランがデモグラフイ l に就て述べた様に︑﹁デモグラフイーは人類撃︑生物撃︑政治堅︑経済墜に負ふ所大

なるものがある o 唯一の方法に依存することなくとも︑それは仏デモグラフイ 1 ﹀科事の仲間入を魚すものであ

QTA 

b ︑叉唯一の研究方法しか利用しない様な墜問からは区別される︒﹂従て若し人口事の研究方法が問題となった場

合に於て︑統計方法のみを唯一のものとする必要もなければ︑叉'そうすることは却て誤りでロもある︒人口撃は

最早や統計事よりは完全に濁立せる別個の墜問である︒ モス十が賢明にも漠著﹁人目撃﹂に於て取りたる人口理論

Qd 

及び人口政策なる樫系︑﹄そ吾人の人口撃の鰻系在潟すものでなければなら印︒

統計皐の性格に就て

一 一 一

一 . 、

1 8 )   A.  Ju 1 i n ,  i b i d .   p .   9 1 .  

1 9 )   B .   Most ,  B e v δ l k e r u n g s w i s s e n s c h a f t .  

(20)

商 業 と 経 済

統計阜の性格規定は

i

共熔用部門に於ける統計阜の性格を規定する︒吾人は統計墜を以て統計の撃なりと観守る︒

以て其中に潜む法則や秩序を議見定立し︑か

L

る知識を控系

︑化せる所謂世曾的大量現象の関学問ではなく︑か﹄る一世合的大量現象の数字的表現たる統計を如何に獲得し︑又之 但し意味する所は統計そのものを比較し︑分析し︑

を如何に整理し︑叉之を如何に分析し︑解程すぺきかの方法を考究する科撃なりと云ふのである︒吾人は此貼に

人口統計撃を諸科撃に利用さるべき一般的方法なめと論守る一一次と封立するものである︒か﹄る立場を採る限︒︑

於て統計撃の性格が如何あるべきかは自ら明白である︒それは必然に人口領域に於ける統計方法の研究でなけれ

ばならぬ︒そうすると人口に関する数量的研究其白憶も亦従来は人口統計の名を以て呼ばれてゐたものとの混同

を生起せしむること﹄なる︒忍に於て λ 口が統計的研究封象としての誼格性並に歴史性に鑑み︑人口車部ち人口

統計阜の設を出すことの意義あることは之を認めつ

L

も︑人口早が統計的研究よりも更に庚汎なる研究によって

建設さるべきことを思ふ時︑吾人は潔く人口統計なる名稽を蜜質的なる人口研究の科皐部門に冠する事を撤回し︑

偽蘭西や濁逸に於て既に十九世紀の後宇期にそれ A¥ デモグラフイーや人口早なる新なる科問中部門の創設を見た

るが如く︑我図に於ても亦人口を封象とする組織的研究の一圏を以て人口早に綜合することが最も望ましい事で

あると信争る︒之吾人が撃を高くして人口撃の樹立を提唱せんとする所以である︒

(21)

人口事なる名稿は濁逸又は悌蘭西等に於ては何等目新らしきことでない事は既述の如くである︒然るに我園に

於ては寡聞にして︑人口墜と題せる著書叉は論文を知らぬ︒(南亮三郎・人口設展見参照)然らば我閣に於て人口堅研

究がないかと云へば︑逆である︒大いにある︒人口統計論と題するものあり︑人口論︑人口問題︑人口政策と題

するものは決して其数少しとしない︒殊に支那事愛以来我図人口が此非常時に際舎して︑大正末年より以降我図

人口の示したる憂慮すべき動向は︑図家の将来を思ふものをして大なる憂慮の種を之に観ぜしめた︒園家百年の

而して米英其他の諸国の人口に一不されたる民族淡落の悲しむべ

段 鑑

遠 か

ら ム

グ ︑

偽 商

回 目

川 濁

逸 ︑

き現象は︑之を封岸の火災視するを許さ争︑忍に我民族の恒久的強展の根基としての人口の質量‑に於ける増強︑ 大

計 を

田 山

ふ 時

充賓が園家最念最要の課題となるに及び︑我図に於て人口政策が官民を奉けての園家的一大関心事となった︒大

東亜戦争の勃授は更に此勢に一一居の拍車を加ふるに至った︒人口に関する論議の盛なること正に昼前と一式ふべき

欣況に在る︒如斯にして人口研究の盛況担に於て︑此等諸研究是綜合し︑之を一つの科問中睦系に組織することは︑

正に人口早徒に奥へられたる現下の念務である︒忍に吾人は人口堅提唱の賓質的意義を見出し得るのである︒そ

れは一は以て統計問中の性格を正しく認識し︑ 一は以て時局的要求に底ホること

L

なるからである︒

ー ー ー 以 上 l

l i

統計阜の性格に就て

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