報告 大城遺跡出土の線刻土器について
著者 廣岡 義隆
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 10
ページ 55‑62
発行年 1999‑06‑27
URL http://hdl.handle.net/10076/6546
大城遺跡出土の線刻土器について
虞
岡 義 隆
一、はいレめに
三重県津市郊外にある安芸郡安港町内多の大城遺跡出土の線刻土器につい
ては、「日本最古の文字ウ」などの見出しによって、一九九八年一月一一日
の新聞各紙で公表された。
発表当時は、個人的に多忙を極めていたこと、及び発表直後は見学者で混
雑していること等を考慮して、その見学を見送っていた。同年三月に入り、
時間上の余裕が少し出てき、また一時的なフィバーも収まったであろうと患
い、安濃町教育委員会の田中秀和主事に連絡し、特別に調査させて頂いた。
展示は「サンヒルズ安濃」内にある図苔館においてなされていたが、図書館
が休館の火曜日にということで、三月一〇日の午前に、安濃町教育委貞会の
一室で、田中秀和主事立ち会いの下、ゆっくり調査させて戴いた(現在は展
示されていない。同教育委貞会、収蔵)。
その時の調査記録は、同年三月一五日に開催された「上代文献を読む会」
三月例会(第二七八回)で報告し、またその時のプリントを周囲に配ったり
していたが、文育として公表する積金もないままに今日に至った。この調査
F大城遺跡発掘儲査報告書j(次真の注一)の口絵カラー 写真より。口絵写真の上下を逆にし、原態に戻した形で示した。
一55‑
結果を何かに録しておくのがよいと患い、年余が経つことも顧
みず、ここに公表することにした。以下は、その時の調査記録
による。 ・かつて本学教育学部日本美術史学の松山鉄夫先生(一九九七
年三月、定年御退官)に御一緒させて戴いて、奈良薬師寺にあ
る彿足石に刻まれた彿足右記文を調査したことがある。この時
のノウハウにより、安濃町教育委員会の一室の電気を消して戴
き、懐中電気の光線の下、刻まれた「文字」を浮かび上がらせ
ての観察であった。調査は満足の行くものであった。
改めて田中秀和主事に御礼申し上げたい。
一一、明,.hノかにされている事
安濃町教育委員会によって明らかにされていることは、右に
記した「上代文献を読む会」で配付したプリントに記していた。
その後、田中秀和主事の執筆になる正式な報告書『大城遺跡発
掘調査報比重
(注一)が刊行されている(その刊行時から見
ると、私の調査は刷り上がりの直前であったと見られる)。以
下に、この報告書を要約・引用することによって、当面の事項 に関わる重要事項を箇条で示すこととする。なお、報告書に記
されていないことで、調査時に田中秀和主事から頂戴した「刻 書土器叢巳と題するプリント資料からの引用は《 》で括っ
て示した。また、同調査時に田中秀和主事から教示して戴いた ことは( )で括って示した。
「大城遺跡は、住居区域(掘立柱建物、等)と基区域(古
墳・土壌基・方形台状基、等)に分けられた、弥生時代後
期〓世紀末)から中世(一五世聾にまで及ぶ複合
遺跡である。(霞
二、刻書土器(拙稿では「線刻土器」と呼んでいる)は、大
城辻跡の五号墳直下に位置する「四号竪穴住居」SHO4
(九・二㍍×七・六はじの入り口の土坑の下層から出土し
た高杯(弥生土器1A3‑2)に刻まれていた。後世の混
入は考えられず、二世紀の中頃を下らない。(要約)
三、(弥生土器は、厚みの薄い土器であり、礫の極めて少な
い良質の粘土で造られている。)ごく少数ながら、一〜三
ミリ㍍大の礫が確認できる。(八九貢)
四、「四号竪穴住居」SHO4は丘陵最高所に位置し、住居
区域の中心にあり、規模が大きいことから集会所的な機能
を持ち、なんらかの祭祀を行なったと考えることができる。
』亡⊂電====ゴー
(図1.5の注)出土土坑
図15 sHO3・0ト0ト08平面図
は‑見SHO3
のものと患える
が、遺跡の量複 によるもので、
$HO4の入り
口土坑である。
また、SEO7(下層)・SHO4(中層)を壊して作ら
れたSEO3(上層)は、住居が連綿と続いて建てられて
いる状況でなく、散発的に建てられていることや方形台状
基との係わりから死者に対する祭祀を執り行っていたので
はないかと考えられる。(一〇〇〜一〇一貢)
(その三層の遺跡のいずれにも炉が見られず、人が住んだ
痕跡がない。祭祀遺跡そのものと見てよい。)
五、刻書の位置は高杯の脚部である。脚裾径が一四センチ㍍
で、残存率は四〇パーセントである。(要約)
《残存高
は四・四センチ㍍である。》 刻書の範囲は、幅三〇ミリ
…へ高さ二四ミリ㍍で、高杯の向きと逆に刻まれている。
叩‑卜l一‥‑八ll■′才‑仙…)
上はr報告書J表紙のカットで、
「刻書」土器復元全彰である。
楕円は虞岡が書き込んだ、下の 写真(口絵写其)の部分を示す。
(一〇二貢) 〔図Ⅳ〕において)囲中、S・Tの箇所が白いのはそこに 「透かし」 (=穴)が穿たれていたためである。)
八、なお、粘土を焼いて高杯の脚部を作り、現在の彫刻刀で、
彫れるかどうか実験してみたが、意外と簡単に彫れた。
(一〇二貢) ((焼成後に刻書すると、ヒビが入らない
かという廣岡の質問に)焼成後の土器に刻曹することは困
難なことではない。(として、焼き上げた土器に彫刻刀で
彫りこんだ実験物を見せて戴いた。)現に発据中に土器に
傷が彫り込まれる場合すらあるとも聞いた。)
九、文字は高杯の裾を天とし、左から右に向かって彫りが浅
くなっていることから、左から右に彫ったと推定される。
(一〇二貢)
十、道具は、彫った線の形状から鉄製の鋭利なへラ状のもの
ないし、ガラス質の石器が考えられる。(一〇二貢)
57
六、高林ほ土器の焼け具合が悪く、表面と内側が黄色に発色
し、中が黒色に発色している。(一〇二貢)
七、彫った線の深い部分が黒く、浅い部分は表面の色と同じ
である。これは、焼成後に文字を刻んだ証拠となった。
〓〇二貢) ((次の「三」で示す、廣岡の調査による 十一、彫った順番は囲∽‑○に示したように、
①=一番上の喝
②=それを切った斜めの線、
③=二番目の横線の頭にある点、
④=二番目の嘩
⑤=左から右に下がる斜めの線、
⑥=三番目の横線、これは、二番目
の点からつながる可能性がある。
⑦=縦の線である。
奄 「 「づ巧〒「プ
\ 際′/
図310別事順序図
なお、二番目の線については、何度か彫った痕跡があり、
これは胎土中に含まれる石が妨げとなり、それを取り除く
ために何度も彫ったと推定される。(一〇二貢)
同報告書には、右の事項と共に、その文字解釈が示されてい
る。「奉」または「垂」 (東野治之氏)、「塵こ [=米・穀物
等の一年の実りの意] (水野正好氏)、「寺」 [=公的な場所
の意] (八賀晋氏)、「与」 (田中秀和氏)の諸説を挙げた後
に、集落や土器の性格から「奉」が妥当としている。
国別1別事文字候補国
これらはいずれも、右の第五項に示されていたように、その
「刻書範囲」を幅三〇ミリ㍍、高さ二四ミリ㍍に限っての解釈
である。 一二、調査結果か,.り
以下、その調査結果を箇条で一不す。〔図Ⅰ〕は写真の中で一
番鮮明な『毎日新田巴一月十一日朝刊一面のカラー写真である。
前記『撼空口書』の口絵写真も鮮明であるが、線刻を見る上では
この方がより鮮明であると共に、調査時にこの図版ヘ音きこみ をしているので、この『毎日新歴所載写真のコピーを使用す
る。〔図Ⅱ〕は、〔図Ⅰ〕 の中へ調査時に書きこんだもので、
現実の彫り込みを黒く示したものである。「二」の第七項で示
されているように、彫りの深い箇所は黒く見えているが、彫り
の浅い箇所は写真には色が出ていない。この浅い彫りの部分も
よくわかるように、黒く書き込んだものである。〔図Ⅱ〕は、
〔図Ⅱ〕
に基づいて廣岡がトレースしたものであり、
〔図Ⅳ〕
は説明のために、〔囲Ⅱ〕 の中へA〜Rの符号を書きこんだも
のである。以下、A〜Rの符号はこれによる。
(ア) 明らかに人為的に彫られたものである。
(イ) その彫られた痕跡は「文字様のもの」だけではなく、
土器表面には他に数多くの彫られた痕跡が見られる。しか
し土器の裏面には見られない。
(ウ) 囲中のA、C〜Ⅰ、K〜Rが人為的に彫り込まれた可
能性があるものである。Bの凹所は表面に見られるヒビと
同質のものであり、この種のものは他にも見られる。しか
(〔図Ⅱ〕は〔図Ⅰ〕への調査時の書き込みである)
〔写真は、毎日新聞社提供〕
ー59‑
し、A・M・N・0はこれらのヒビとは異なる人為的な彫
り物である。Ⅰ・Lもその可能性が高い。
(エ) 天の川状の1は、人為によるものではない。当初から
の圧痕であろうか。
(オ) A、.C〜Ⅰ、K〜Rが同時か、年次を異にするものか
は明らかではない。
(カ) C・D・E・F.・Hは彫りが深く「筆勢」がある。G
・Kは彫りが浅い。
(キ) 谷間杯の下部を仮に「上」と称する。以下、同じ。)
Cは上から下へ、D・E・Fは左から右へ、Hは下から上
へという線の向きが確認できる。Eの左端部には、三つの
「押さえ」のような丸い痕があり、その後右へ線は流れて
いる。このEの三つの丸い痕について、調査時に田中秀和
主事は「今は落ちているが、そこに礫があったためにこの
ような跡が付いたのではないか」と推定しておられた。
(ク) Mは上から下に向く薬研彫状の彫り跡と、「止め」と
がある。Nは左から右に向く薬研彫状の彫り跡がある。
(ケ) P・G・Rも最初は症と思われたが、よく観察すると
これも人為的に彫られた線であると考えられる。
(コ) この内、PとRの線状痕は亀甲で占われた線状痕と簡
似するが、亀甲占は焼き入れによる破断線(半自然形成的
線痕)であるのに対し、当該のものは彫り込み(人為的線
痕)という形成上大きく異なる点が指摘でき、これは占い に結び付けるのに弱い。ただし、亀甲占による破断線を真 似て彫り込んだという経緯を考慮することも可能であろう。
(サ) C〜H(或いはGは除くべきか?)が形成する線刻は、
文字であるかどうか、その判断がむつかしい。
(シ) 以上、A、C〜Ⅰ、K〜Rは同時か時を異にするかは
別として、人為的に彫られたものである。或いはその一部
に庇が含まれるかも知れない。C〜HやP・Rは呪的な線
刻の可能性があり、文字ではなく符号乃至は臨時的な線で
ある。A・M・N・0は同レベルの人為の点痕でありこれ
も呪的痕の可能性がある。Ⅰ・Lにもその可能性がある。
四、おわh〓ノに
小林芳規氏は『しにか』誌上で、この遺物について、
居延湊簡の「幸」に近似するが、漢字とは断定できないも
のの、漢字を見てその模倣として記号的に刻んだものかも
しれない。
(注二)
とされ、また同氏著『図説 日本の漢字』のコラム「日本長音
の漢字といわれる遺物」 (一九貢)においても同文で紹介され
ている(注三)。
右の小林氏の文章中にも漢字の語と共に記号的にという発言
もある。
コ羞王とは、l定の音(読み)と意味とを有し、それが社
61
金的共通理解となっていることとはよく指摘されるところであ
る。文章中に「×」が書かれ、「バツ」と読み「不可」の意味
を表わしたとしても、それは臨時的な使用であって、社会の共
通理解としての「文字」とはなっていない。符号にとどまって
いる。「バッテン」と読む人もあれば、「交差」の意味と理解
する人もいる。
C〜Hには、何かを書き表わそうとする筆記者の意思らしき
ものが見てとれるが、「文字」と断言するのは極めて困難であ
り、符号に近い。或いは既成の文字を見て、文字を知らない者
が彫ったものかも知れない。ただ慎重に写して行った文字(符
号・絵)ではなくて、当初からその総体が頭に入っていて、筆
圧も強く元気よく彫り上げたものであると言うことは出来る。
と共に、C〜Hの周辺に人為的な彫りがちりばめられていた。
C〜Hと無関係な彫りと片付けることは出来ないだろう。
残存しているのは土器脚部の四〇パーセントに過ぎないが、
この様子から見て、土器脚部の全面に何かが彫られていたと見
て良かろう。多分に呪的存在の彫り物であると見てよい。報告
書は、 「車」.と彫って祭祀を行っている点からも漢字の意味を理
解していたものと推軸される。(一〇四貢) とする。漢字の意味を理解する渡来人が居住していたか、そし
てそれが「奉」の字であるかどうかはさておいて、祭祀と関係
するという指播は恐らく正しいであろう。土器脚部全面に彫り 込められた人為的な線状痕、しかも高杯の上下を逆さにした形 で彫られたものであろう。
以上、事実を報告することとし、今後の礎としたい。
注
一