◎論説
象 徴 に よ る 統 治 と 反 抗
湘西苗族の天王信仰を事例として
王永紅
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序
一九九六年九月から一九九七年十二月までの期間︑筆者
は︑湖南省西北部に位置する湘西土家族苗族自治州(以下﹁湘西﹂と称する)において二度にわたって社会人類学の
フィールド調査を行った︒湘西は︑中国における最も貧し
い地区の一つであるが︑経済的に発達した中国東南の沿海
地区と同様に︑近年︑民間信仰や伝統文化において﹁死灰
ム 復燃﹂(伝統が息を吹き返す)という現象が現れている︒
このうち幾多の民間信仰のなかで最も注目されるのが︑湘 那川欝の辺境地域でかつて民衆に深く崇拝されていた天王
信仰である︒天王廟は︑況水上流地区ではよくみられ︑
ム ﹁楚の西には至る所に廟あり﹂といわれるほどである︒し
かし一九五〇年代から︑天王信仰も﹁迷信﹂として禁止さ
れ︑各地の廟や神像が破壊された︒現在に至っても︑天王
信仰は政府から﹁宗教﹂として認可されず︑たびたび禁止
されているが︑民間ではこれまでにないほどの復活ぶりで
ヘヨ ある︒ところがこの天王信仰についてはわずかな記録があ
ムる るのみで︑専門的な学術研究報告はまだなされていない︒
社会人類学は︑中国の民間信仰の研究において︑中国社
会の地域的特色を考慮することを出発点としている︒また
象徴 による統 治 と反抗
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多くの研究者が指摘するように︑民間宗教の結合形態や意
義を研究するだけでは︑文化の理解という目的を達するに
は不十分である︒なぜなら民間宗教は地域における社会と
権力の関係において考察しなければ︑その存在の基盤を解
明できないからである︒℃﹂)轟茜はこれについて検討を
すすめ︑つぎのように考えた︒民間宗教およびその組織の
地域における存在には︑二面性がある︒一つは︑異なる社
会階層が共に享受する体系としての存在であり︑いま一つ
は︑異なる社会階層のなかで異なる意義を有する体系とし
ハう てのそれである︒これらの集団は︑同一の象徴によってそ
れぞれの利益を追及する︒例えば中央政府は官僚体制や政
治思想︑文化体系などを民間の信仰体系(神︑祖先︑鬼)
や儀式︑象徴体系(神系の象徴)の中に具体化する︑すな
わち象徴による統治(ω旨げo=︒﹁巳①)あるいはイデオロギ
ー的・}+lam(hegemony)である︒これに対して統治される
者は︑民間の宗教や象徴︑儀式などを利用して反抗の意思
を表現し︑自己の政治的主張を満足させようとする︑すな
わち象徴"よr@反抗(symbolicresistance)である︒しか
し現在まで︑この点について考察した実証的研究報告はみ
られない︒筆者は湘西における天王信仰の調査を通じて︑
湘西の事例が典型的な個別研究となりうると考えた︒
本論文では︑地方文献と筆者の実地調査報告の資料を併
用しながら︑湘西地区で根強く崇拝されてきた民間神霊天 王神信仰を︑特殊な歴史的・社会的背景歴代の中央王
朝︑特に清朝が湘西なる﹁化外の地﹂を絶えず討伐し続け︑
一方︑討伐される湘西苗族も不断に反抗し続けたのも
とにおいて考察し︑異なる社会歴史における天王信仰の現
実的作用や文化体系における位置を究明する︒さらに民間
宗教の象徴体系を政府がどのように利用して統治をすすめ
たのか︑また苗族民衆もそれをどのように利用して反抗し
続けたのかという問題について︑分析し︑討論をすすめた
い︒
湘西の天王信仰
e 湘 西 の 沿 革 と 概 況
はるか昔︑湘西にはすでに人類の活動した足跡がみられ
る︒考古学上の発見によれば︑現在知られている最も早期
の人類の活動の遺跡は︑旧石器時代晩期の濾渓灰窯聚落
ア 遺跡であるが︑それは湘西における最も早期の住民であろ
うと断定される︒苗族の祖先は︑元来︑洞庭湖一帯に居住
していたが︑西周時代に北部の武陵地区へ移動を始め︑秦
ム 漢時代には現在の湘西地区への移住を開始した︒
湘西は︑行政区分からいえば︑先秦時代は楚の黙中の地
に属し︑秦代は黙中郡︑漢代は武陵郡に属した︒また南朝
梁代はここに夜郎郡がおかれ︑階代は況陵・澄陽の二郡に︑
唐代は欝中道の辰︑渓︑錦の三州になり︑宋代は荊湖南路
の辰︑澄の地になった︒元代は湖広行省の思州宣慰司︑辰
州路︑澄州路と四川行省の永順宣慰司および新添葛蛮安撫
司の地などとなった︒明代には永順宣慰司と保靖州宣慰司
がおかれ︑そのほかは岳・辰の両州の地であった︒清代に
は永順府と鳳鳳︑乾州︑永緩直隷庁がおかれた︒一九一四
年から一九二二年までは辰況道の地で︑一九=二年には﹁湘
西鎮守使﹂が設けられたので﹁湘西﹂とも称された︒一九
五二年に湘西土家族苗族自治州が成立し︑一九五五年には
湘西苗族自治州に改められ︑一九五七年九月に湘西土家族
苗族自治州となった︒一九五五年の統計資料によれば︑全
州には八つの県と市がある︒総面積は一万五四九八㎞︑総
人口は二四七万四九七二人で︑このうち土家族が八九万二
五六一人︑苗族が七九万七九四九人で︑そのほかの少数民
族を加えると全州の少数民族の人口は一七〇万二四二二人
になり︑総人口の六八・八八%を占める︒当地の住民につ
いては︑最初の記述は南北朝宋代の苑曄の﹃後漢書﹄の﹁馬
援伝﹂にみえ︑﹁五渓蛮﹂や﹁武陵蛮﹂あるいは﹁武陵五
渓蛮﹂と称されている︒歴代の王朝は︑東漢初期の劉尚や
馬援による武陵︑五渓﹁蛮﹂への大規模な討伐以来︑この
地には基本的には常に武力によって対し︑特に清朝は﹁生
へい 苗﹂に対する統治を強化して﹁化外の地﹂を自己の統治下 にいれるために︑
た︒ 苗民蜂起に対する鎮圧を幾度も繰り返し
口湘西における天王信仰
﹁天王﹂信仰の最初の記載は︑清朝の地方志にみえる︒
天王信仰は︑湘西の土家族︑苗族︑漢族においてさまざま
の階層にわたって信者が存在していただけではなく︑廟の
規模や豪華さにおいても︑そのほかの神号を主体とした廟
のそれをはるかに超えていた︒とりわけ湘西苗族における
天王信仰は歴史上有名で︑天王信仰は苗族の宗教信仰体系
の中でも重要な位置を占めている︒筆者は︑調査を通して
天王信仰をめぐる様々な伝説を得た︒天王の原形である楊
氏の三兄弟の出身と族属については︑﹁土家族﹂﹁漢族﹂
﹁苗族﹂などとする諸説があるが︑今に至っても定説はない︒
湘西苗族内の意見でさえも統一されていないが︑一般には︑
ロ この三兄弟は苗族であるとされる︒しかし民間伝説や地方
史志の記載にみえる天王の﹁顕霊﹂の事跡では︑天王は常
に﹁鎮圧者﹂の形象で登場し︑鎮圧されたのは︑当時︑反
政府を貫いた苗族である︑よって清王朝も天王廟を﹁御苗﹂(苗族統御)の良策として奨励したのである︒このように
天王信仰のとらえかたは︑中央政府と︑一般の民衆信者と
苗族とではその解釈(exegeticalmeaning)が異なっている︒
では︑この興味深い社会文化現象が生み出したメカニズム
象徴 に よる統治 と反抗
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とはどのようなものであったのだろうか︒まず︑天王信仰
がどのような内容をもつ民間信仰であったのかを考察して
いく︒
称呼と神像
﹁天王﹂信仰は(当地では︑天王は三王︑竹王︑三侯︑
ムね 三王菩薩︑白帝天王などと称されているが︑以下では﹁天
王﹂で統称する)︑﹁大王爺﹂﹁二王爺﹂﹁三王爺﹂を中心と
して展開される祭祀活動であり︑天王像が三尊あることか
ら︑その廟は三王廟と称される︒天王像には座像と行像の
二種類がある︒行像は︑主に天王像に出巡を願う時に担が
れるもので︑座像よりやや小さい︒
天王廟に主に供奉されている神号は︑鴉渓の天王廟を例
にすれば︑破壊される以前は︑石啓貴の記載では三王爺で
あった︒すなわち﹁宣威助順霊応保安佑靖遠王︑鎮遠王︑
繧遠王﹂︑あるいは﹁福金︑福銀︑福雅丈人﹂である︒な
お侯母祠には︑三王爺の父である龍家聖主や母である木易(楊)聖婆が祀られている︒このほか二体の把門将軍や十
二旗頭大将︑辰州土地(土地神)︑賞善罰悪仙官︑左門把堂︑
後門把殿もある︒これ以外にも三王爺には兵馬第一馬頭三
千三万︑第二馬頭六千六万︑第三馬頭九千九万などの神号
ムロ もある︒また三王は冤罪で諌殺されたために︑その形象は
極めて檸猛で︑人を威圧するものであるという︒
筆者の調査では︑新たに建立された天王廟では︑主殿が 一で天王をまつり︑配殿が一で二人の霊官︑娘娘殿が一で
天王の母后と龍王︑玉皇楼が一で玉皇︑土地廟が一で土地
神をまつる︒
祭儀と斎期
天王廟は輩廟(なまぐさものを供える廟)である︒よっ
て祭祀の時の供物には豚︑牛︑羊を用い︑さらに鶏や魚を
供える︒また廟内で祀る時には︑蝋燭や線香を燃やし︑野
外で祀る時には︑蜜蝋香を燃やして神霊に通じたことを示
す︒子授けの願いや行方不明の子を探す場合は︑娘娘像の
前に婦人の銀飾りや靴下︑衣服などを並べる︒
平日の祭祀以外には︑天王爺と娘娘の誕生日(旧暦三月
三日︑六月六日)に大規模な廟会がある︒このほか︑天王
の忌日には常に斎戒しなければならない︒これは苗語で
﹁heub﹂といい︑﹁毎歳小暑節︑辰日をもって起こり巳日
に止む︑竹王斎を持するに︑禁忌甚だ厳なり︑十四日にし
ほう け て満ち︑牲を宰りて祝祀し︑開斎す﹂︒斎戒期間中は︑殺
生や血を見ること︑人を死なせることも許されない︒すな
わち︑殺生や血を見ることは斎戒の規律に反することであ
るから︑天王は必ず災いを下す︒死者が出ることは斎戒の
道を断つことであるから︑必ず巫者を招いてその道を繋げ
なくてはならない︒さもないと死者を出した村落には︑や
がて必ず大災がおきるのである︒