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学習者 の実態にもとづいた文学の授業に関す る研究

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(1)

学習者 の実態にもとづいた文学の授業に関す る研究

教科教育専攻 ・国語教育専修 鈴木啓史

平成 22年 2夕〕1 5日

学習者の実態にもとづいた文学の授業に関す る研究

教科教育専攻 ・国語教育専修 鈴木啓史

平成

22

2

月 1

5

学習者の実態にもとづいた文学の授業に関す る研究

教科教育専攻 ・国語教育専修 鈴木啓史

平成

22

2

月 1

5

(2)

学習者の実態にもとづいた文学の授業に関する研究

用語について ・・・

目次

・・・・・・・・ 1 序論 研究の目的 と方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2 第一章 読者 ・・・

第‑節 文学作品を読む とい うこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 第二節 文学 として読む とい うこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8 第三節 なぜ ( 文学)が顕在化 しないのか ・・・・・・・・・・・・・・・ ll 第二章 教材 ・・・・

第‑節 教材 としての ( 文学) ・・ 1 3

第二節 学習者 との出会い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 5 第三章 「 注文の多い料理店」 ・・・

第‑節 文学研究では どのように扱われてきたか ・・・・・・・・・・・・ 1 7 第二節 教室では どのように扱われてきたか ・・・・・・・・・・・・・・ 23 第四章 状況に切 り込む文学教育 ・・・・・・・・・・・・・・・・‑ ・・・ 32 第一節 高校生の読み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 33

第二節 初読経験の濃密化 ・・ 3 8

第三節 学習者の実態にもとづいた文学の授業を目指 して ・・・・・・・・ 39 結論 研究の成果 と課題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40

引用 ・参考文献 ・・・・ ・・ 42

用語について

論ずるにあた り、意味の唆味な用語を整理する必要があるため、以下にそれぞれの用 語の解説を記す。なお、用語の意味は本論の中でのみの使い方である。

・文学作品 文字で表 された物語や詩 といった作品。またそれ らの文字を読んで、読者 の内に立ち現れた物語や詩。

・文学教材 文学作品で、教育の場で扱 うもの扱ったものO

・文学 文学作品のこと。或いは文学作品を文学作品た らしめている本質的なもの。後 者の意のみで用いる場合 ( )がつ くことがある。「 文学を文学 として読む 」 とい う場合、

「 文学作品の本質に迫 るように読む」 とい う解釈になる。

・( 文学) 文学作品の有 している芸術性。文学性。転 じてそのような性質を有するもの

・( 読むこと) 広義の読むこと。つま り対象を読む、聞く、或いは考えること。

1

学習者の実態にもとづいた文学の授業に関する研究

用語について ・・・

目次

・・・・・・・・ 1 序論 研究の目的 と方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2 第一章 読者 ・・・

第‑節 文学作品を読む とい うこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 第二節 文学 として読む とい うこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8 第三節 なぜ ( 文学)が顕在化 しないのか ・・・・・・・・・・・・・・・ ll 第二章 教材 ・・・・

第‑節 教材 としての ( 文学) ・・ 1 3

第二節 学習者 との出会い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 5 第三章 「 注文の多い料理店」 ・・・

第‑節 文学研究では どのように扱われてきたか ・・・・・・・・・・・・ 1 7 第二節 教室では どのように扱われてきたか ・・・・・・・・・・・・・・ 23 第四章 状況に切 り込む文学教育 ・・・・・・・・・・・・・・・・‑ ・・・ 32 第一節 高校生の読み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 33

第二節 初読経験の濃密化 ・・ 3 8

第三節 学習者の実態にもとづいた文学の授業を目指 して ・・・・・・・・ 39 結論 研究の成果 と課題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40

引用 ・参考文献 ・・・・ ・・ 42

用語について

論ずるにあた り、意味の唆味な用語を整理する必要があるため、以下にそれぞれの用 語の解説を記す。なお、用語の意味は本論の中でのみの使い方である。

・文学作品 文字で表 された物語や詩 といった作品。またそれ らの文字を読んで、読者 の内に立ち現れた物語や詩。

・文学教材 文学作品で、教育の場で扱 うもの扱ったものO

・文学 文学作品のこと。或いは文学作品を文学作品た らしめている本質的なもの。後 者の意のみで用いる場合 ( )がつ くことがある。「 文学を文学 として読む 」 とい う場合、

「 文学作品の本質に迫 るように読む」 とい う解釈になる。

・( 文学) 文学作品の有 している芸術性。文学性。転 じてそのような性質を有するもの

・( 読むこと) 広義の読むこと。つま り対象を読む、聞く、或いは考えること。

1

(3)

序論 研究の 目的 と方法

昨今の文学研究の場では文学 とい うものが実体であるか非実体であるか とい う、文学 そのもの‑の問いかけが行われ七きている。それは文学教育においては文学教材 に正解 はあるのか、ないのか とい う問題‑ と関わって くる。 もし文学が実体 として存在す るな らば文学教材 には作者の意図や作品の主題 といったよ うな一義的な正解が存在すること にな り、文学を非実体 とす るな らば読みはアナーキーであ り絶対的な正解は存在 しない ことになる。今 日の文学教育の課題はこの両者、権威主義的な伝統の中にある 「 読みの 正解主義」 と、文学‑の根源的な問いかけである 「 読みのアナーキー

とに どのよ うに 対時す るか とい うところにあると言える. ・竹 内常‑はこの間題 について著書 『読む こと の教育 』 ( 山吹書店 2005) の中で以下のようにまとめている。

ところで、ここでい うところの 「読みの正解主義批判」 とは、国家語 としての国語の教育がこれま で一貫 して 「体制にとって義あるところを読む

とい う 「正解主義」につ らぬかれてきたことを批判 し、一人ひとりの生徒の読みを教室のなかで交流 させてい くなかで新 しい読みの共同体 とそのことば を生み出してい くことを主張するものであるとい うことができる0 (中略)

これにたい して、「読みのアナーキー批判」とは、「なんでもあり」の新 自由主義に立つ 「新 しい学 力観」がこれまでの国語の教育をことばのアナーキーな消費 と多様な解読を許容する市場のことばの 教育に再編 し、それによって空洞化 している読者主体を容認す ると同時に、読者主体をさらに空洞化 してい くと批判するものである。そ うした批判に立って、あらためて私たちの外部に存在する他者 と しての作品とのかかわ りにおいて既成の読者主体を倒壊 させ、新 しい読者主体 とことばをつ くりだそ うとす るものである。 (中略)

このように紹介 してくると、「読みの正解主義批判」と 「読みのアナーキー批判

が対立 しているよ うにみえるが、そ うではない.それ らはこの両面批判をつ うじて、市場 と国家に呑み込まれている くわ .

た し) を倒壊 させて、新 しい (わたし)を生みだ していく く読み)を切 り拓いていこうとしていると 理解すべきであろ う。

( p35, 36)

竹 内氏の指摘す るとお り 「 読みの正解主義」 も 「 読みのアナーキー

も対立要素ではな くどちらも自己を呑み込 もうとする存在であるといえる。それな らばこの 「 読み

の両 面を批判 した上に立っ文学教育論 とい うものは果た して可能なのか、あるいはこのよう な問題の中で教育者は どこに足場を設けて文学教育を行えば良いのか。それを検証す る 必要がある。

そのために本論では極力学習者論的アプローチを試みた。それは須貝千里が 「 『 天地返 し』のために‑いま、<読む こと ・教えること>の力 を問い直す」 ( 『 日本文学 』1 997. 1 p45 ‑53) のなかで、

わた しは本稿において、「文学作品

とい うことばを 「文学教材」とい うことばにず らし、さらには

「対象であることばにまでず らしてきた。それは、(文学)の力は読者の側からすれば、(読むこと) によって しか、顕現 しないことを示 したかったからである。

と述べるように 「( 文学)の力」が読者が読むことによって しか顕現 しないのならげ、文 学教育について考える為には、学習者 ( 読者)の 「 読む

とい う行為について考えるこ とが必要ではないか と考えたか らである。読者が 「( 文学)の 力 」 を顕現 させ る̀ とは どう い うことか。つま り、読者が 「 文学を文学 として読む」 とは どうい うことか、このよう な角度か ら文学教育を問い直 し、現代の学習者が 「( 文学)の力」 を顕現 させ る方法を考 序論 研究の 目的 と方法

昨今の文学研究の場では文学 とい うものが実体であるか非実体であるか とい う、文学 そのもの‑の問いかけが行われ七きている。それは文学教育においては文学教材 に正解 はあるのか、ないのか とい う問題‑ と関わって くる。 もし文学が実体 として存在す るな らば文学教材 には作者の意図や作品の主題 といったよ うな一義的な正解が存在すること にな り、文学を非実体 とす るな らば読みはアナーキーであ り絶対的な正解は存在 しない ことになる。今 日の文学教育の課題はこの両者、権威主義的な伝統の中にある 「 読みの 正解主義」 と、文学‑の根源的な問いかけである 「 読みのアナーキー

とに どのよ うに 対時す るか とい うところにあると言える. ・竹 内常‑はこの間題 について著書 『読む こと の教育 』 ( 山吹書店 2005) の中で以下のようにまとめている。

ところで、ここでい うところの 「読みの正解主義批判」 とは、国家語 としての国語の教育がこれま で一貫 して 「体制にとって義あるところを読む

とい う 「正解主義」につ らぬかれてきたことを批判 し、一人ひとりの生徒の読みを教室のなかで交流 させてい くなかで新 しい読みの共同体 とそのことば を生み出してい くことを主張するものであるとい うことができる0 (中略)

これにたい して、「読みのアナーキー批判」とは、「なんでもあり」の新 自由主義に立つ 「新 しい学 力観」がこれまでの国語の教育をことばのアナーキーな消費 と多様な解読を許容する市場のことばの 教育に再編 し、それによって空洞化 している読者主体を容認す ると同時に、読者主体をさらに空洞化 してい くと批判するものである。そ うした批判に立って、あらためて私たちの外部に存在する他者 と しての作品とのかかわ りにおいて既成の読者主体を倒壊 させ、新 しい読者主体 とことばをつ くりだそ うとす るものである。 (中略)

このように紹介 してくると、「読みの正解主義批判」と 「読みのアナーキー批判

が対立 しているよ うにみえるが、そ うではない.それ らはこの両面批判をつ うじて、市場 と国家に呑み込まれている くわ .

た し) を倒壊 させて、新 しい (わたし)を生みだ していく く読み)を切 り拓いていこうとしていると 理解すべきであろ う。

( p35, 36)

竹 内氏の指摘す るとお り 「 読みの正解主義」 も 「 読みのアナーキー

も対立要素ではな くどちらも自己を呑み込 もうとする存在であるといえる。それな らばこの 「 読み

の両 面を批判 した上に立っ文学教育論 とい うものは果た して可能なのか、あるいはこのよう な問題の中で教育者は どこに足場を設けて文学教育を行えば良いのか。それを検証す る 必要がある。

そのために本論では極力学習者論的アプローチを試みた。それは須貝千里が 「 『 天地返 し』のために‑いま、<読む こと ・教えること>の力 を問い直す」 ( 『 日本文学 』1 997. 1 p45 ‑53) のなかで、

わた しは本稿において、「文学作品

とい うことばを 「文学教材」とい うことばにず らし、さらには

「対象であることばにまでず らしてきた。それは、(文学)の力は読者の側からすれば、(読むこと) によって しか、顕現 しないことを示 したかったからである。

と述べるように 「( 文学)の力」が読者が読むことによって しか顕現 しないのならげ、文

学教育について考える為には、学習者 ( 読者)の 「 読む

とい う行為について考えるこ

とが必要ではないか と考えたか らである。読者が 「( 文学)の 力 」 を顕現 させ る̀ とは どう

い うことか。つま り、読者が 「 文学を文学 として読む」 とは どうい うことか、このよう

な角度か ら文学教育を問い直 し、現代の学習者が 「( 文学)の力」 を顕現 させ る方法を考

(4)

える。

第‑章 読者

以下の言葉は寺山修司の言葉である。

「作品は、作者が半分をつ くり、あとの半分は読者がつ くる

「詩人は、ことばを書物の中に仕込んでおいて、あとは通 りかかった読者によって詩に して貰 うの を待つ しかないのです

」 (

『寺山修司詩集』ハルキ文庫

20 0 3. l l p2 24

白石征による解説 より)

このように述べた寺山は、ことば と読者が出会 う 「 状況

を重要視 した。

S・

Ⅰ・ハヤカワは 『思考 と行動における言語』の中で面白い例をあげている。

「月がきれいだわ」とい う言葉‑ この言葉は一体、何 を意味するのか ?とい うのである。

もし、これをそのまま解釈すれば、気象的観測である。 しかし、これをいった女 と聞いた男 とが 恋人同志で、そこには二人 しかいなかった場合、「月がきれいだわ」とい うことばはたちまち、キス の催促に早変 りすることだろ う。

「月がきれいだわ とい うことばは、それ 自体では物でもなければ存在でもない。だが、それをい う人間と、その場の状況で殺人行為のサジェスチ ョンになった り、詩になった りするのである。

ことばと状況の関係は、それほどに密接である。 どんなことばでも詩に 「成 る

が、 どんな詩 も 状況の中では死ぬことがある。

(

『戦後詩』ちくま文庫

1 9 93. 5 p23 )

寺山の多用 した言葉 に 『 詩は 「 在 る 」 ものではな くて 「 成 る 」 ものである』 とい う言 葉がある。私は、この言葉にある 「 詩」 を 「 文学作品

に置き換 えて、「 作家は、ことば を書物の中に仕込んでおいて、あとは通 りかかった読者によって文学作品に して貰 うの を待つ しかないのです 」 として も成 り立っよ うに思える ( 寺山は詩 と文学を区別 してい たのではあるが ( 注

1

) ) 。また『行為 としての読書一美的作用の理論‑』( 釈 : 轡 田収 1 982 岩波現代選書)の中で W ・イーザ‑は

作品は読者による具体化 をまって、初めてその生命 をもつがゆえに、テクス ト以上のものであ り、

具体化は読者の主観に全 く束縛 されないことはないが、その主観性はテクス トが与える条件 を枠 と して働いている。つま り、テクス トと読者 とが収飲する場所に、文学作品が位置 している。

( p3 4 ) と述べている。このように文学作品の文学性が、作品に 「 在 る」 ものでなく、読者 との関 係性 によって 「 成る

ものだ、 と考えた場合、そこに新 しい 「 学習者論」や、あるいは 「 学 習者による文学論

といったものの必要性が見えて束はしないだろ うか。

結局の ところ、文学作品は読者が読むことによって しか顕現 しない主観的なものだ と 言 える。今 日の文学教育の問題 を考える出発点も、 自ず とこの部分になる。須貝氏は前 掲の 「 『 天地返 し』のために‑いま、<読む こと ・教えること>の力を問い直す」 ( 『 日本 文学』 1 997. 1 p45 ‑53) で次のように述べている。

わたしは本稿において、「文学作品とい うことばを 「文学教材

とい うことばにず らし、さらに は 「対象であることば

にまでず らしてきた。それは、(文学)の力は読者の側か らすれば、(読む こと)によって しか、顕現 しないことを示 したかったか らである。

しか しこの言い方は誤解 を招 くかもしれない。読者が読まなくても 「文学作品

は存在 している か らだ。 これも時流にはあわない言説 としてあっかわれることであろう。

「文学作品が存在 しているとい うことは、次のように言ったほ うがいいだろ う。人がことばを

3 える。

第‑章 読者

以下の言葉は寺山修司の言葉である。

「作品は、作者が半分をつ くり、あとの半分は読者がつ くる

「詩人は、ことばを書物の中に仕込んでおいて、あとは通 りかかった読者によって詩に して貰 うの を待つ しかないのです

」 (

『寺山修司詩集』ハルキ文庫

20 0 3. l l p2 24

白石征による解説 より)

このように述べた寺山は、ことば と読者が出会 う 「 状況

を重要視 した。

S・

Ⅰ・ハヤカワは 『思考 と行動における言語』の中で面白い例をあげている。

「月がきれいだわ」とい う言葉‑ この言葉は一体、何 を意味するのか ?とい うのである。

もし、これをそのまま解釈すれば、気象的観測である。 しかし、これをいった女 と聞いた男 とが 恋人同志で、そこには二人 しかいなかった場合、「月がきれいだわ」とい うことばはたちまち、キス の催促に早変 りすることだろ う。

「月がきれいだわ とい うことばは、それ 自体では物でもなければ存在でもない。だが、それをい う人間と、その場の状況で殺人行為のサジェスチ ョンになった り、詩になった りするのである。

ことばと状況の関係は、それほどに密接である。 どんなことばでも詩に 「成 る

が、 どんな詩 も 状況の中では死ぬことがある。

(

『戦後詩』ちくま文庫

1 9 93. 5 p23 )

寺山の多用 した言葉 に 『 詩は 「 在 る 」 ものではな くて 「 成 る 」 ものである』 とい う言 葉がある。私は、この言葉にある 「 詩」 を 「 文学作品

に置き換 えて、「 作家は、ことば を書物の中に仕込んでおいて、あとは通 りかかった読者によって文学作品に して貰 うの を待つ しかないのです 」 として も成 り立っよ うに思える ( 寺山は詩 と文学を区別 してい たのではあるが ( 注

1

) ) 。また『行為 としての読書一美的作用の理論‑』( 釈 : 轡 田収 1 982 岩波現代選書)の中で W ・イーザ‑は

作品は読者による具体化 をまって、初めてその生命 をもつがゆえに、テクス ト以上のものであ り、

具体化は読者の主観に全 く束縛 されないことはないが、その主観性はテクス トが与える条件 を枠 と して働いている。つま り、テクス トと読者 とが収飲する場所に、文学作品が位置 している。

( p3 4 ) と述べている。このように文学作品の文学性が、作品に 「 在 る」 ものでなく、読者 との関 係性 によって 「 成る

ものだ、 と考えた場合、そこに新 しい 「 学習者論」や、あるいは 「 学 習者による文学論

といったものの必要性が見えて束はしないだろ うか。

結局の ところ、文学作品は読者が読むことによって しか顕現 しない主観的なものだ と 言 える。今 日の文学教育の問題 を考える出発点も、 自ず とこの部分になる。須貝氏は前 掲の 「 『 天地返 し』のために‑いま、<読む こと ・教えること>の力を問い直す」 ( 『 日本 文学』 1 997. 1 p45 ‑53) で次のように述べている。

わたしは本稿において、「文学作品とい うことばを 「文学教材

とい うことばにず らし、さらに は 「対象であることば

にまでず らしてきた。それは、(文学)の力は読者の側か らすれば、(読む こと)によって しか、顕現 しないことを示 したかったか らである。

しか しこの言い方は誤解 を招 くかもしれない。読者が読まなくても 「文学作品

は存在 している か らだ。 これも時流にはあわない言説 としてあっかわれることであろう。

「文学作品が存在 しているとい うことは、次のように言ったほ うがいいだろ う。人がことばを

3

(5)

紡ぎ出 し、いわゆる 「文学作品

を生み出して くる過程で (文学)は顕現 し、この事態が、わた し が 「対象であることば

と呼んでいたものに (ことばの仕組み) を付与 していくのだと。それは、

ことばが紡ぎ出される過程において、(わた し)のことばが問い直 されていることに他な らない と。

そのことに読者が関知 していないとい うことと 「対象であることば

がかつて (文学) として顕 在 したことがないと判断 して しま うこととは別のことである。

(文学)の顕現は、ことばによることばの問い直 しの過程に他な らない。かつて顕現 した、その 過程は実体的には確かめようがないにしても、読者はそのことにひ らかれていなければな らない。

なぜな ら (わた し)にとっての く文学)の顕現は、ことばが紡ぎ出されてい く過程における (文学) の顕在によって しか問い直されないからである。それが (教えられ ること)の本質である。

読者にとっての、この幻 としか言いようのない過程を追い求めようとしない限 り、(わた し)とい う読者は (わた し)を うたれ、変革 されていく契機 をつかむことができない。それは到達できない ことであるにしても、この幻を 「理解 しようとする意志

をもたない限 り、(わた し)の主観世界は 問われることはないのだ。 (p52,53)

「 読者の側か らすれば ( 読むこと)によって しか、顕現 しない」とい う立場は先の寺山 が詩について述べたの と同様である。しか し、須貝氏はかつて人がことばを紡ぎ出し 「 文 学作品 」 を生み出す過程において顕現した く 文学)を問題 としている。そ して 「 この幻 と

しか言いようのない過程 を追い求めようとしない限 り、( わた し)とい う読者は ( わた し) を うたれ、変革 されてい く契機 をつかむことができない」と述べる。果た して本当にそ う であろ うか。 とい うのも文学教育に関しては ( わた し)にとっての く 文学)の顕現は、教 室で扱われる場合には、別の ( わた し)つま り教室内の別の読者による ( 文学)の顕現や、

自身の再読による ( 文学)の顕現によっても問い直 され うるものであって、それが必ず し も 「( 書かれた) ( 読まれてきた)( 教材 とされた) とい う三つの事態を前提に 」

(同前 p51)

しなくても良いのではないかと考えるのだ。た とえこのような三つの事態において ( 文学) が顕現 していた としても教室ではそれを拒否することができる。また、これ らの三つの事 態において ( 文学)が顕現 しなかった 「 対象であることば」がその教室で ( 文学)として 立ち現れ ることがない とは言えない。それは田中実の言 う 「 週刊誌 ・コミック誌 ・ 情報誌 ・ 電話帳の類 と選ぶ ところのないもの 」 ( 『 小説の力』大修館書店 1 996 田中実 p8) か

もしれないが、文学作品を教材 として扱 う場合、その教材価値 としては、それはまさしく

「 週刊誌 ・コミック誌 ・情報誌 ・電話帳の類 と選ぶ ところのないもの

であると言える。

そのよ うに見てみると教材 としての文学作品は作者 とは切 り離 された 「 対象であること ば 」 として扱 え、ただ作者の文学的体験を追体験するためだけに扱われ うるものではない とも言える。作者は 「 対象であることば 」 を紡ぎ出す過程で ( 文学)を顕現 し、学習者は

「 対象であることば 」 を読むことで ( 文学)を顕現 させ るのだ。学習者にとっては 「 鴎外 が書いたか ら文学

とい う権威的なものではなく 「 わた しが読んだか ら文学 」 或いは 「 こ の教室で読んだか ら文学

であるづきなのだ ともいえるOもっとも学習者の顕現 させた く 文 学)を教育現場で どのように扱っていくべきか とい うことは総合的に他教科や生活指導 と

も関わって考えなくてはならない分野でもあると思 うが本論ではそ こまでの言及は控 え る。

(注

1

)詩 と文学について、寺山修司 「詩的自叙伝 行為 としての詩学

(詩の森文庫

2006. 4)で次の

紡ぎ出 し、いわゆる 「文学作品

を生み出して くる過程で (文学)は顕現 し、この事態が、わた し が 「対象であることば

と呼んでいたものに (ことばの仕組み) を付与 していくのだと。それは、

ことばが紡ぎ出される過程において、(わた し)のことばが問い直 されていることに他な らない と。

そのことに読者が関知 していないとい うことと 「対象であることば

がかつて (文学) として顕 在 したことがないと判断 して しま うこととは別のことである。

(文学)の顕現は、ことばによることばの問い直 しの過程に他な らない。かつて顕現 した、その 過程は実体的には確かめようがないにしても、読者はそのことにひ らかれていなければな らない。

なぜな ら (わた し)にとっての く文学)の顕現は、ことばが紡ぎ出されてい く過程における (文学) の顕在によって しか問い直されないからである。それが (教えられ ること)の本質である。

読者にとっての、この幻 としか言いようのない過程を追い求めようとしない限 り、(わた し)とい う読者は (わた し)を うたれ、変革 されていく契機 をつかむことができない。それは到達できない ことであるにしても、この幻を 「理解 しようとする意志

をもたない限 り、(わた し)の主観世界は 問われることはないのだ。 (p52,53)

「 読者の側か らすれば ( 読むこと)によって しか、顕現 しない」とい う立場は先の寺山 が詩について述べたの と同様である。しか し、須貝氏はかつて人がことばを紡ぎ出し 「 文 学作品 」 を生み出す過程において顕現した く 文学)を問題 としている。そ して 「 この幻 と

しか言いようのない過程 を追い求めようとしない限 り、( わた し)とい う読者は ( わた し) を うたれ、変革 されてい く契機 をつかむことができない」と述べる。果た して本当にそ う であろ うか。 とい うのも文学教育に関しては ( わた し)にとっての く 文学)の顕現は、教 室で扱われる場合には、別の ( わた し)つま り教室内の別の読者による ( 文学)の顕現や、

自身の再読による ( 文学)の顕現によっても問い直 され うるものであって、それが必ず し も 「( 書かれた) ( 読まれてきた)( 教材 とされた) とい う三つの事態を前提に 」

(同前 p51)

しなくても良いのではないかと考えるのだ。た とえこのような三つの事態において ( 文学) が顕現 していた としても教室ではそれを拒否することができる。また、これ らの三つの事 態において ( 文学)が顕現 しなかった 「 対象であることば」がその教室で ( 文学)として 立ち現れ ることがない とは言えない。それは田中実の言 う 「 週刊誌 ・コミック誌 ・ 情報誌 ・ 電話帳の類 と選ぶ ところのないもの 」 ( 『 小説の力』大修館書店 1 996 田中実 p8) か

もしれないが、文学作品を教材 として扱 う場合、その教材価値 としては、それはまさしく

「 週刊誌 ・コミック誌 ・情報誌 ・電話帳の類 と選ぶ ところのないもの

であると言える。

そのよ うに見てみると教材 としての文学作品は作者 とは切 り離 された 「 対象であること ば 」 として扱 え、ただ作者の文学的体験を追体験するためだけに扱われ うるものではない とも言える。作者は 「 対象であることば 」 を紡ぎ出す過程で ( 文学)を顕現 し、学習者は

「 対象であることば 」 を読むことで ( 文学)を顕現 させ るのだ。学習者にとっては 「 鴎外 が書いたか ら文学

とい う権威的なものではなく 「 わた しが読んだか ら文学 」 或いは 「 こ の教室で読んだか ら文学

であるづきなのだ ともいえるOもっとも学習者の顕現 させた く 文 学)を教育現場で どのように扱っていくべきか とい うことは総合的に他教科や生活指導 と

も関わって考えなくてはならない分野でもあると思 うが本論ではそ こまでの言及は控 え る。

(注

1

)詩 と文学について、寺山修司 「詩的自叙伝 行為 としての詩学

(詩の森文庫

2006. 4)で次の

(6)

ように述べ られている。

『詩が周囲に拡散 している、といい、詩 とはある状況によって成るものだといっても、それが、

いっ、どこで、どのような形で、とい うよ うな具体例に即 さなければ独断のように聞こえるかも しれない。

だが、その前に詩は文学であるべきか、 とい うひ どくプ リミテイヴな問題が私に跳ね返って く る。なぜなら文学は単に個人主義であることは許 されない し、密閉されたコンクリー トの部屋の なかで私が詩 を体験 したとしても、そこに他者がいあわせず、私の詩が表現不能であった場合に は全 く無だからである。

私は特別に詩が文学である必要はない と思っている。だが、詩が詩 としてとらえ うるためには 対象が必要であることは言 うまでもない。そ して詩 もまた個人主義的ではあ りえない とい う点で 文学に非常に近いものである、とい うことだけはできるだろう。

問題は、呼びかける相手が大人数である必要が全 くない とい うことである。一人に対 してもっ ともうつ くしい相聞が、普遍化 され、公約数になって大人数のものになった瞬間美 しくなくなる、

とい うことがあ りうるし、五人に対 して詩であ り乍 ら、六人 目か らは詩でなくなっていることば あ りうるわけだ。活字は相手を選択せず、劃‑的に大人数に語 りかけるが、多く‑語 りかけるこ となど全 く不必要な事なのだ。詩は巷で開花す る。 しか しそれは下町のある人たちの間であった り、園遊会のサロンであった りする。それをお しなべて平 らにし、永遠の詩 とい う伝説にとりつ かれるほどナンセンスなことはない。 (p31,32)』

第‑飾 文学作品を読む とい うこと

文学作品を読む とい うことは どうい うことか。大槻和夫は 『 「 読者論

に立っ読みの指

小学校高学年編 』

(東洋館 出版

1 995 田近淘一 ・浜本純逸 ・府川源一郎編)の中で以 下のよ うにま とめている。

文学作品を読む とはどうい うことか。今のところ諸説紛々といったところであるが、およそ次の よ うな点では合意がほぼ成立 していると言えるのではないか。

第‑は、テキス ト(それ 自体 としては文字の連な りにすぎない)ーは、「読む

とい う行為を通 じて、

読者の中に作品 として成立するのだとい うことである。 もちろん、テキス トがなければ読む とい う ことは起 こりようがない し、テキス トを離れた読み とい うものも存在 しないが、テキス トそれ 自体 はモノに過ぎず、それを読む とい う行為があってはじめて文学作品 として立ち現れてくるのだとい

うことは、だれ しも認め得るところであろ う。

第二は、テキス トには、読者にある世界を体験 させ る装置が仕掛けてあり、読者はその装置には まって作品に描かれている世界を体験するのだ とい うことである。言い換えれば、テキス トに仕掛 けられている装置にはま りなが ら、読者がさまざまに反応 していくことが読むとい うことなのであ る。 このように、読みの成立には、テキス トに仕掛けられた、読者‑の働きかけの装置 と、その装 置にはま りなが ら主体的積極的に反応 していく読者の働きかけが必要だとい う考えである。

第三には、従って、文学作品の読みにおいては、作者が何を言いたかったかとい うことよりも、

読者がその作品世界をどのように体験 したか、その体験を通 じてどうい う意味を発見 したかが重要 だとい う考えである。そこでは、読者の意味付けが重視されるが、その意味付けは読者 との 「対話

を通 じてなされるものであ り、読者相互の 「対話

を通 じて高められるものである。その過程を通 じて、読者は既有の認識や認識方法をゆさぶ られ、.変革を迫 られる。そこに文学作品を読むことの

5

ように述べ られている。

『詩が周囲に拡散 している、といい、詩 とはある状況によって成るものだといっても、それが、

いっ、どこで、どのような形で、とい うよ うな具体例に即 さなければ独断のように聞こえるかも しれない。

だが、その前に詩は文学であるべきか、 とい うひ どくプ リミテイヴな問題が私に跳ね返って く る。なぜなら文学は単に個人主義であることは許 されない し、密閉されたコンクリー トの部屋の なかで私が詩 を体験 したとしても、そこに他者がいあわせず、私の詩が表現不能であった場合に は全 く無だからである。

私は特別に詩が文学である必要はない と思っている。だが、詩が詩 としてとらえ うるためには 対象が必要であることは言 うまでもない。そ して詩 もまた個人主義的ではあ りえない とい う点で 文学に非常に近いものである、とい うことだけはできるだろう。

問題は、呼びかける相手が大人数である必要が全 くない とい うことである。一人に対 してもっ ともうつ くしい相聞が、普遍化 され、公約数になって大人数のものになった瞬間美 しくなくなる、

とい うことがあ りうるし、五人に対 して詩であ り乍 ら、六人 目か らは詩でなくなっていることば あ りうるわけだ。活字は相手を選択せず、劃‑的に大人数に語 りかけるが、多く‑語 りかけるこ となど全 く不必要な事なのだ。詩は巷で開花す る。 しか しそれは下町のある人たちの間であった り、園遊会のサロンであった りする。それをお しなべて平 らにし、永遠の詩 とい う伝説にとりつ かれるほどナンセンスなことはない。 (p31,32)』

第‑飾 文学作品を読む とい うこと

文学作品を読む とい うことは どうい うことか。大槻和夫は 『 「 読者論

に立っ読みの指

小学校高学年編 』

(東洋館 出版

1 995 田近淘一 ・浜本純逸 ・府川源一郎編)の中で以 下のよ うにま とめている。

文学作品を読む とはどうい うことか。今のところ諸説紛々といったところであるが、およそ次の よ うな点では合意がほぼ成立 していると言えるのではないか。

第‑は、テキス ト(それ 自体 としては文字の連な りにすぎない)ーは、「読む

とい う行為を通 じて、

読者の中に作品 として成立するのだとい うことである。 もちろん、テキス トがなければ読む とい う ことは起 こりようがない し、テキス トを離れた読み とい うものも存在 しないが、テキス トそれ 自体 はモノに過ぎず、それを読む とい う行為があってはじめて文学作品 として立ち現れてくるのだとい

うことは、だれ しも認め得るところであろ う。

第二は、テキス トには、読者にある世界を体験 させ る装置が仕掛けてあり、読者はその装置には まって作品に描かれている世界を体験するのだ とい うことである。言い換えれば、テキス トに仕掛 けられている装置にはま りなが ら、読者がさまざまに反応 していくことが読むとい うことなのであ る。 このように、読みの成立には、テキス トに仕掛けられた、読者‑の働きかけの装置 と、その装 置にはま りなが ら主体的積極的に反応 していく読者の働きかけが必要だとい う考えである。

第三には、従って、文学作品の読みにおいては、作者が何を言いたかったかとい うことよりも、

読者がその作品世界をどのように体験 したか、その体験を通 じてどうい う意味を発見 したかが重要 だとい う考えである。そこでは、読者の意味付けが重視されるが、その意味付けは読者 との 「対話

を通 じてなされるものであ り、読者相互の 「対話

を通 じて高められるものである。その過程を通 じて、読者は既有の認識や認識方法をゆさぶ られ、.変革を迫 られる。そこに文学作品を読むことの

5

(7)

意味があると考 えるわけである。

右の三点は、ほぼ合意をみていると言ってよかろう。問題は、「読み」の過程、特に読みの内面的 な過程をどうとらえるかである。現在、認知科学や、記号論、語用論、文芸学、国語教育学などが それぞれの立場から研究を進めているが、なにしろ目に見えない 「ブラックボックス」の中の出来 事をとらえようとするのであるから、どこまでいっても仮説にとどま らざるをえないであろ う。そ うい う限界はあるが、これ らの研究の成果は、読みの指導に大きな示唆を与えてくれるものと期待 されている。 (同前

p1 2, 1 3)

大槻氏は、文学作品を読むことについて先の三点は 「 ほぼ合意をみている」 と述べる。

その うえで 「 問題は、『読み』の過程、特に読みの内面的な過程をどうとらえるかである」

としている ( 注 2) 0「 読み」の過程、読者の 「 読む」 とい う行為は、その読者 自身に蓄積 された情報によって支えられている。府川源一郎氏は 「 読みの学習における 『 原文』のゆ くえ 」 ( 国文学解釈 と鑑賞 2 0 0 8 . 7 p2 5 ‑3 4 ) で次のように述べている。

文学作品を読む行為は、基本的に読み手がテキス トに問いかけることで進められる。なぜな ら、

読むことは読み手 とテキス トとの対話だか らである。読み手の問いかけによって、実体 としての文 字の連な りか ら 「原文」が浮かび上がってくる。だが、作品の どこにどのような仕方で呼びかける のかとい う読み手の問いかけの方法 と技術は、いっ どこで読み手の内側に形成 されてい くのだろ う か。

おそ らくそれは、読み手が養育者か ら繰 り返 し物語を聞いた り、自力で本 を読んだ りする経験の 中か ら生まれる。あるいは、テ レビ ドラマを見た り、映画を見た りする体験の中か ら生まれる。そ うした広義の読書体験が、自分 自身の生活体験 と結びあわされて、文学テキス トに接するときの個々 の読み手の構 えと方法 とを形作ってい くのだろ う。い うまでもなくそれぞれの生活体験が様々であ るように、読書体験 もそれぞれ異なっている。 しか し、その中で、ひ とまとま りのス トー リーが一 種の文法を持っていることを、子 どもたちは習得 してい く。

( p31 )

府川氏は、このように述べ、「 因果応報 」 「 勧善懲悪 」 「 成長物語 」 といった類型 ( 認知心 理学の立場では 「 物語スキーマ」 )がそれまでの生活体験か ら形づ くられて、個々の読み 手の物語解釈の枠組みになると指摘する。このような個人的な読書体験 ・生活体験を背景 にして、個々の 「 読む」 とい う行為は在 ると考えられる。 「 読み」は、このように個々の 体験に支えられている。それゆえに、一つの物語から十人十色の 「 読み

が生まれるのも 当然 といえるのである。にもかかわらず 「 読みの正解主義」 とい うような 「 正解

が存在 す るかのような考えが存在するのはなぜだろ うか。それには少なくとも二つの理由が考え

られ るO‑つ 目の理由は 「 体制にとって義あるところを読む 」 とい う権威的な力が ( 読む こと)の周辺に存在 していることである。このことは体制に適応 させ組み込む教育の姿 と して極端ではあるが戦前戦中の思想統制を想起 したらわか りやすいのではないだろうか。

広義で とればグラフや時計、バスの時刻表など 「 読み方

を規定 されたものに権威的な力 が加わっていると考えられる。バスの時刻表などは 「 読み方」を間違 えれば乗 りたいバス がいつ来 るのかが分か らない。これは権威的な力によって 「 正解

が定め られていると言 える。文章についても同様のことが言える。いくら 「 読み」が個々の体験に支えられてい るとは言ってもそれが 「 文字

によって書かれてお り、その 「 文字」 とい うものが 「 読み 方 」 を規定 されている時点でやは り権威的な力によって 「 正解

が定められているのであ る。つま り、ここに 「 アイ クエオ 」 と書かれているのに右か ら左に読んだ り 「 カキクケコ

意味があると考 えるわけである。

右の三点は、ほぼ合意をみていると言ってよかろう。問題は、「読み」の過程、特に読みの内面的 な過程をどうとらえるかである。現在、認知科学や、記号論、語用論、文芸学、国語教育学などが それぞれの立場から研究を進めているが、なにしろ目に見えない 「ブラックボックス」の中の出来 事をとらえようとするのであるから、どこまでいっても仮説にとどま らざるをえないであろ う。そ うい う限界はあるが、これ らの研究の成果は、読みの指導に大きな示唆を与えてくれるものと期待 されている。 (同前

p1 2, 1 3)

大槻氏は、文学作品を読むことについて先の三点は 「 ほぼ合意をみている」 と述べる。

その うえで 「 問題は、『読み』の過程、特に読みの内面的な過程をどうとらえるかである」

としている ( 注 2) 0「 読み」の過程、読者の 「 読む」 とい う行為は、その読者 自身に蓄積 された情報によって支えられている。府川源一郎氏は 「 読みの学習における 『 原文』のゆ くえ 」 ( 国文学解釈 と鑑賞 2 0 0 8 . 7 p2 5 ‑3 4 ) で次のように述べている。

文学作品を読む行為は、基本的に読み手がテキス トに問いかけることで進められる。なぜな ら、

読むことは読み手 とテキス トとの対話だか らである。読み手の問いかけによって、実体 としての文 字の連な りか ら 「原文」が浮かび上がってくる。だが、作品の どこにどのような仕方で呼びかける のかとい う読み手の問いかけの方法 と技術は、いっ どこで読み手の内側に形成 されてい くのだろ う か。

おそ らくそれは、読み手が養育者か ら繰 り返 し物語を聞いた り、自力で本 を読んだ りする経験の 中か ら生まれる。あるいは、テ レビ ドラマを見た り、映画を見た りする体験の中か ら生まれる。そ うした広義の読書体験が、自分 自身の生活体験 と結びあわされて、文学テキス トに接するときの個々 の読み手の構 えと方法 とを形作ってい くのだろ う。い うまでもなくそれぞれの生活体験が様々であ るように、読書体験 もそれぞれ異なっている。 しか し、その中で、ひ とまとま りのス トー リーが一 種の文法を持っていることを、子 どもたちは習得 してい く。

( p31 )

府川氏は、このように述べ、「 因果応報 」 「 勧善懲悪 」 「 成長物語 」 といった類型 ( 認知心 理学の立場では 「 物語スキーマ」 )がそれまでの生活体験か ら形づ くられて、個々の読み 手の物語解釈の枠組みになると指摘する。このような個人的な読書体験 ・生活体験を背景 にして、個々の 「 読む」 とい う行為は在 ると考えられる。 「 読み」は、このように個々の 体験に支えられている。それゆえに、一つの物語から十人十色の 「 読み

が生まれるのも 当然 といえるのである。にもかかわらず 「 読みの正解主義」 とい うような 「 正解

が存在 す るかのような考えが存在するのはなぜだろ うか。それには少なくとも二つの理由が考え

られ るO‑つ 目の理由は 「 体制にとって義あるところを読む 」 とい う権威的な力が ( 読む こと)の周辺に存在 していることである。このことは体制に適応 させ組み込む教育の姿 と して極端ではあるが戦前戦中の思想統制を想起 したらわか りやすいのではないだろうか。

広義で とればグラフや時計、バスの時刻表など 「 読み方

を規定 されたものに権威的な力

が加わっていると考えられる。バスの時刻表などは 「 読み方」を間違 えれば乗 りたいバス

がいつ来 るのかが分か らない。これは権威的な力によって 「 正解

が定め られていると言

える。文章についても同様のことが言える。いくら 「 読み」が個々の体験に支えられてい

るとは言ってもそれが 「 文字

によって書かれてお り、その 「 文字」 とい うものが 「 読み

方 」 を規定 されている時点でやは り権威的な力によって 「 正解

が定められているのであ

る。つま り、ここに 「 アイ クエオ 」 と書かれているのに右か ら左に読んだ り 「 カキクケコ

(8)

と読んだ ら間違いになる、そ うい う枠組みが設けられているのである。そ して指導者側 に とって意義ある読みの類型 を彼 らが 「 正解」 と捉えているのだ と言えよう。二つ 目の理由 は言語は どんなことでも分か らせることができるとい う錯覚である。

言語は非常に便利なものでありますが、 しか し人間が心に思っていることなら何でも言語で現せ る、言語 を以て表 白出来ない思想や感情はない、とい う風に考 えた ら間違いであ ります。今 も云 う ように、泣いた り、笑った り、叫んだ りする方が、却ってその時の気持にぴった り当て俵まる場合 がある。黙って さめざめと涙 を流 している方が、くどくど言葉 を費やすよりも千万無量の思いを伝 える。 もっと簡単な例 を挙げます と、鯛を食べたことのない人に鯛の味を分 らせ るように説明 しろ と云った らば、皆 さんはどんな言葉を択びますか。恐 らくどんな言葉を以ても云い現わす方法がな いであ りま しょう。左様に、たった一つの物の味で さえ伝 えることができないのでありますか ら、

言語 と云 うものは案外不 自由なものであります。のみならず、思想に纏ま りをつけると云 う働きが ある一面に、思想 を一定の型に入れて しま うとい う映点があ ります。たとえば紅い花を見ても、各 人がそれ を同 じ色に感ずるか どうかは疑問であ りま して、眼の感覚のす ぐれた人は、その色の中に 常人には気が付かない複雑な美 しさを見るかも知れない。その人の眼に感ずる色は、普通の 「紅い」

と云 う色 とは違 うものであるかもしれない。 しか しそ う云 う場合にそれを言葉で現そ うとすれば、

とにか く 「紅」に一番近いのでありますか ら、やは りその人は 「紅い」 と云 うであ りま しょう。つ ま り 「紅い

と云 う言葉があるために、その人のほん とうの感覚 とは違ったものが伝え られ る。言 葉がなければ伝 えられないだけのことであ りますが、あるために害をすることがある。(谷崎潤一郎

『文章読本』)

とい うような言葉の不 自由さとい うものを前提に織 り込まずに、指導者の 「 読み 」 と同 じ ように学習者 も読めると思って しま うために、指導者が 自分の 「 読み

‑導こうとして し ま うのであるOとは言 うものの 「 思想を一定の型に入れて しま う

とい うことは、その一 定の型の範囲内では一応の 「 正解

は存在す ることになる。 「 読みの正解主義」 について 二つの理由を検証 してみたが、いづれ も一定の、公約数的な レベルまでは 「 正解」が存在 すると考えられ るOこれが、より読者の生活体験に肉薄 した、「 その人‑ のほん とうの感覚 」 による意味付けを行 うレベル‑深化するとき 「 読み

は読者 に多様に開かれることになる

と考えられる。

ここまで見て くるなかで、「 読み

とい うものはその対象 ( もっぱら言語)に権威的な 力が働いている場合、そこでは一定のレベルまでは 「 正解」が存在 していることが分かっ た。我々が国語科で文学教材 を扱 う場合、須 く日本語を用いるのであるか ら当然 と言えば 当然であるがOそれでは 「 読み

は 「 正解

‑向か う一元的なものか とい うと、そ うでは ない。先に挙げた須貝氏は

(女学)の力は読者の側か らすれば、(読む こと)によって しか、顕現 しない

と述べた。そ してそれは個々の読書体験 ・生活体験を背景に しているのである。つま り 文字の 「 読み方

には 「 正解

が存在 しても、それを ( 読む こと)は読者側の主体的な 行為であるOつま り ( 文学) とは 「 正解」‑到達する一元的なものではなく、「 正解」の 先でそれぞれの読者‑ と向か う多元的なものであるといえる。

(注 2)大槻氏は、「文学作品が読者‑の働きかけの装置 として、どのような装置を備 えているか

につ いて 「西郷竹彦氏の 『文芸学』が多 くの示唆 を与えて くれている

とし、「語 りの視点」・「視点」・

7

と読んだ ら間違いになる、そ うい う枠組みが設けられているのである。そ して指導者側 に とって意義ある読みの類型 を彼 らが 「 正解」 と捉えているのだ と言えよう。二つ 目の理由 は言語は どんなことでも分か らせることができるとい う錯覚である。

言語は非常に便利なものでありますが、 しか し人間が心に思っていることなら何でも言語で現せ る、言語 を以て表 白出来ない思想や感情はない、とい う風に考 えた ら間違いであ ります。今 も云 う ように、泣いた り、笑った り、叫んだ りする方が、却ってその時の気持にぴった り当て俵まる場合 がある。黙って さめざめと涙 を流 している方が、くどくど言葉 を費やすよりも千万無量の思いを伝 える。 もっと簡単な例 を挙げます と、鯛を食べたことのない人に鯛の味を分 らせ るように説明 しろ と云った らば、皆 さんはどんな言葉を択びますか。恐 らくどんな言葉を以ても云い現わす方法がな いであ りま しょう。左様に、たった一つの物の味で さえ伝 えることができないのでありますか ら、

言語 と云 うものは案外不 自由なものであります。のみならず、思想に纏ま りをつけると云 う働きが ある一面に、思想 を一定の型に入れて しま うとい う映点があ ります。たとえば紅い花を見ても、各 人がそれ を同 じ色に感ずるか どうかは疑問であ りま して、眼の感覚のす ぐれた人は、その色の中に 常人には気が付かない複雑な美 しさを見るかも知れない。その人の眼に感ずる色は、普通の 「紅い」

と云 う色 とは違 うものであるかもしれない。 しか しそ う云 う場合にそれを言葉で現そ うとすれば、

とにか く 「紅」に一番近いのでありますか ら、やは りその人は 「紅い」 と云 うであ りま しょう。つ ま り 「紅い

と云 う言葉があるために、その人のほん とうの感覚 とは違ったものが伝え られ る。言 葉がなければ伝 えられないだけのことであ りますが、あるために害をすることがある。(谷崎潤一郎

『文章読本』)

とい うような言葉の不 自由さとい うものを前提に織 り込まずに、指導者の 「 読み 」 と同 じ ように学習者 も読めると思って しま うために、指導者が 自分の 「 読み

‑導こうとして し ま うのであるOとは言 うものの 「 思想を一定の型に入れて しま う

とい うことは、その一 定の型の範囲内では一応の 「 正解

は存在す ることになる。 「 読みの正解主義」 について 二つの理由を検証 してみたが、いづれ も一定の、公約数的な レベルまでは 「 正解」が存在 すると考えられ るOこれが、より読者の生活体験に肉薄 した、「 その人‑ のほん とうの感覚 」 による意味付けを行 うレベル‑深化するとき 「 読み

は読者 に多様に開かれることになる

と考えられる。

ここまで見て くるなかで、「 読み

とい うものはその対象 ( もっぱら言語)に権威的な 力が働いている場合、そこでは一定のレベルまでは 「 正解」が存在 していることが分かっ た。我々が国語科で文学教材 を扱 う場合、須 く日本語を用いるのであるか ら当然 と言えば 当然であるがOそれでは 「 読み

は 「 正解

‑向か う一元的なものか とい うと、そ うでは ない。先に挙げた須貝氏は

(女学)の力は読者の側か らすれば、(読む こと)によって しか、顕現 しない

と述べた。そ してそれは個々の読書体験 ・生活体験を背景に しているのである。つま り 文字の 「 読み方

には 「 正解

が存在 しても、それを ( 読む こと)は読者側の主体的な 行為であるOつま り ( 文学) とは 「 正解」‑到達する一元的なものではなく、「 正解」の 先でそれぞれの読者‑ と向か う多元的なものであるといえる。

(注 2)大槻氏は、「文学作品が読者‑の働きかけの装置 として、どのような装置を備 えているか

につ いて 「西郷竹彦氏の 『文芸学』が多 くの示唆 を与えて くれている

とし、「語 りの視点」・「視点」・

7

(9)

表現法 ・場面展開の構造、の四つを例示 しなが ら 「文学作品の中に読者に働 きかけるどのような 装置が組み込まれているかについては、作品に即 して さらに詳細に分析 されなければならないが、

しか しその分析 も基本的には 『読書体験』の内省 とそこから導かれた仮説の検証を通 して しか進 めることはできないであろう。」と述べている。 (同前

p1 3‑1 6)

第二飾 文学 として読む とい うこと

「(

文学)の力

とは何を指すのかO須貝氏は 「 肥大化する ( わた し)をことばの レベ ルで問い直 してい くこと ( 同前 p51 ) 」「( 国家) と化 した く わた し)を うちのめし、再生 さ せていこ うとす る地点で、今 日の ( 文学)の力は問われている ( 同前 p53)」 と述べている。

田中実は 「 解釈共同体 ・文化共同体 との間で読み手に葛藤 ・乳みを起 こし、読み手の持っ 既存の価値観 ・世界観に (自己倒壊)を促す ( pl l ) 」 ( 『 国文学 解釈 と鑑賞 』 「 『 読みの背 理』を解 く三つの鍵」 p6 ‑1 6 2 0 0 8. 7 ) と述べる占そこで本論では 「( 文学)の力」を 「 他 者 と出会 うこと

と一応の定義をしたい。多 くの研究者や実践家が

「(

文学)の力」 につ いて言及 しているが、「 他者」 とい う場合には 自己の内にある他者や文学作品に表れ る他 者、あるいは教室内の他者 といったふ うに、概ねこの定義で包括できると考えている。そ の うえで 「 他者 と出会 うこと

が読者にどのように作用するのかを考えていきたい。

「 読み

は読者の生活体験に基づいたものであることは先に述べたが、「 読み」の背景 としての生活体験、つま り読者 自身が持つ 「 物語」を問題 としたい。人生、記憶、因果な ど読者 自身の心を 「 物語」として とらえることで、それ とは別に他者 として立ち現れる 「 物 語

を 「 読む

ことに何 らかの意味づけを行 えると考えるか らだ。そこで、読者が 「 読み」

の背景 とする個々の生活体験などのことを総 じて 「 読者 自身の物語

と仮称す る。そ して、

この 「 読者 自身の物語」が 「 他者 と出会 うこと

で どのように動 くのかに注 目したい。

まず 「 読者 自身の物語」の動 く姿 として例 を二つ挙げたい。一つは本 田和子氏の

「(

物 語) としての世界把握一子 どもにとっての く 文学)‑」 (日本文学 1 9 9 5. 3 p21 ‑2 8 ) O も うーつは小川洋子氏の 『物語の役割 』 ( ちくまプ リマ‑新書 2 0 0 7. 2 ) である。まずは本 田氏の

「(

物語) としての世界把握一子 どもにとっての く 文学) T」 に挙げ られた事件 を 示 したい。以下に事件の要約を試みる。

『ある精神障害児の収容施設で、相次いで二人の子 どもが行方不明 とな り、下水道のマ ンホールの中か ら遺体で発見された事件で、検察は殺人事件 として一人の女性職員を起訴 した。 しか し証拠不十分で無罪判決 となった。五年後、当時の収容児童の 「目撃証言」 と い う新証拠が入手 された。その証言は、「 嫌がる男児が廊下を四つん這いになって逃げた」

や、「 職員がそれを追いかけて捕まえ、引きずっていった

な ど迫真性 に富んだ描写があ っ牢O検察は再審請求を出し、裁判が開始 された O 』

本 田氏は、この 「目撃証言」について、事件当初特別な証言をしなかった少年が、周囲 か ら断片的に与えられる情報によって、事件 を自己内で 「 物語化 」 し、さらに検察 とい う 聞き手を得たことで、語 りに磨きがかか り、出来事の描写 も迫真性 を増 したものだ と捉え ている。少年の証言の真偽は別 としても、過去を 「 物語化」 して語 る際のその 「 物語化 」

とい う出来事を問題 とすることはできるだろ う。読者は情報をひ とま とま りの 「 物語

と して認識 しようとするのではないか。

「 物語化」について小説家の小川洋子は著書 「 物語の役割」で次のよ うに述べている。

表現法 ・場面展開の構造、の四つを例示 しなが ら 「文学作品の中に読者に働 きかけるどのような 装置が組み込まれているかについては、作品に即 して さらに詳細に分析 されなければならないが、

しか しその分析 も基本的には 『読書体験』の内省 とそこから導かれた仮説の検証を通 して しか進 めることはできないであろう。」と述べている。 (同前

p1 3‑1 6)

第二飾 文学 として読む とい うこと

「(

文学)の力

とは何を指すのかO須貝氏は 「 肥大化する ( わた し)をことばの レベ ルで問い直 してい くこと ( 同前 p51 ) 」「( 国家) と化 した く わた し)を うちのめし、再生 さ せていこ うとす る地点で、今 日の ( 文学)の力は問われている ( 同前 p53)」 と述べている。

田中実は 「 解釈共同体 ・文化共同体 との間で読み手に葛藤 ・乳みを起 こし、読み手の持っ 既存の価値観 ・世界観に (自己倒壊)を促す ( pl l ) 」 ( 『 国文学 解釈 と鑑賞 』 「 『 読みの背 理』を解 く三つの鍵」 p6 ‑1 6 2 0 0 8. 7 ) と述べる占そこで本論では 「( 文学)の力」を 「 他 者 と出会 うこと

と一応の定義をしたい。多 くの研究者や実践家が

「(

文学)の力」 につ いて言及 しているが、「 他者」 とい う場合には 自己の内にある他者や文学作品に表れ る他 者、あるいは教室内の他者 といったふ うに、概ねこの定義で包括できると考えている。そ の うえで 「 他者 と出会 うこと

が読者にどのように作用するのかを考えていきたい。

「 読み

は読者の生活体験に基づいたものであることは先に述べたが、「 読み」の背景 としての生活体験、つま り読者 自身が持つ 「 物語」を問題 としたい。人生、記憶、因果な ど読者 自身の心を 「 物語」として とらえることで、それ とは別に他者 として立ち現れる 「 物 語

を 「 読む

ことに何 らかの意味づけを行 えると考えるか らだ。そこで、読者が 「 読み」

の背景 とする個々の生活体験などのことを総 じて 「 読者 自身の物語

と仮称す る。そ して、

この 「 読者 自身の物語」が 「 他者 と出会 うこと

で どのように動 くのかに注 目したい。

まず 「 読者 自身の物語」の動 く姿 として例 を二つ挙げたい。一つは本 田和子氏の

「(

物 語) としての世界把握一子 どもにとっての く 文学)‑」 (日本文学 1 9 9 5. 3 p21 ‑2 8 ) O も うーつは小川洋子氏の 『物語の役割 』 ( ちくまプ リマ‑新書 2 0 0 7. 2 ) である。まずは本 田氏の

「(

物語) としての世界把握一子 どもにとっての く 文学) T」 に挙げ られた事件 を 示 したい。以下に事件の要約を試みる。

『ある精神障害児の収容施設で、相次いで二人の子 どもが行方不明 とな り、下水道のマ ンホールの中か ら遺体で発見された事件で、検察は殺人事件 として一人の女性職員を起訴 した。 しか し証拠不十分で無罪判決 となった。五年後、当時の収容児童の 「目撃証言」 と い う新証拠が入手 された。その証言は、「 嫌がる男児が廊下を四つん這いになって逃げた」

や、「 職員がそれを追いかけて捕まえ、引きずっていった

な ど迫真性 に富んだ描写があ っ牢O検察は再審請求を出し、裁判が開始 された O 』

本 田氏は、この 「目撃証言」について、事件当初特別な証言をしなかった少年が、周囲 か ら断片的に与えられる情報によって、事件 を自己内で 「 物語化 」 し、さらに検察 とい う 聞き手を得たことで、語 りに磨きがかか り、出来事の描写 も迫真性 を増 したものだ と捉え ている。少年の証言の真偽は別 としても、過去を 「 物語化」 して語 る際のその 「 物語化 」

とい う出来事を問題 とすることはできるだろ う。読者は情報をひ とま とま りの 「 物語

と して認識 しようとするのではないか。

「 物語化」について小説家の小川洋子は著書 「 物語の役割」で次のよ うに述べている。

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