覺
鑁
上
人
の
遺
跡
村
山
正
榮
高 野 山 上 に 於 け る諸
遐跡
一
、 大 傳 法 院 二,
密 嚴 院 三、
密 嚴 堂 四、
菩 提 心 院 五,
牲 生 院 六,
最 禪 院 七、
月 上 院 八、
持 明 院 九.
求 聞 持 修 法 の 遒 跡一
〇、
阿 彌 陀 院 、 鑁 池 院。
玄 弉 院.
高 室 院一
一
、 上 人 の 退 山 に 絡 む 諸 遺 跡一
二 、 上 人 有 縁 の 諸 寺 院一
、
大 傅 法 院 大 億 法 院 ( 大 傳 法 堂、
大 傳 法 灌 頂 院。
傳 法 院 太 郎 寺 と も 稱 せ る ) は 吾 畳 鑁 上 人 が 實 慧 借 都・
眞 然 價 正 以 來 の 傳 法 大 會 を 復 興 し 之 を 譽 行 せ ん が 爲 に 、 畏 く も 鳥 朋 上 皇 の 叡 劃 を 仰 い で 現 時 金 剛 峰 寺 の 境 地 に 建 立 し た ま ひ る 高 野 山 上 の一
大 道 場 で あ る 。 大 治 四 年 二 月 三 日 の 『 高 野 山 沙 門 覺 鍛 申 講 解 室 御 政 所 裁 事 』 に,
ケ テ ヲ ヲ シ ヲ シ フみ
ヲ 實 慧 倫 都,
眞 然 僭 正,
承一
骭
大 師 之 素 懐→
凝 二 遣 弟 之 丹 懇嚇
勤 二 修 二 季 傅 法 會一
練一
一
冶 兩 部 最 上 乘一
夏 華 因レ
之 靜 謐,
貴 ナ リ。
ベ
ニ
チレ
轟
カ カ9
げ
, シ クニ
ル
賤 爲 」 之 泰 平、
寧 非轟
修 練 之 力一
便 是 護 持 之 功 也.
佛 法 中 興 去レ
此 何 之、
而 年 代 漸 久、
會 儀 巳 廢 、 と、
眞 言 密 教 の 興 隆 を 計 ら ん と せ ば、
先.
つ 此 傳 法 會 を 復 興 す る に あ つ た こ と は 言 ふ ま で も な い こ と で あ る 。 即 ち 傳 法 會 と は 舞 季 五 十 日 間 敏 義 を 講 論 す る 修 學 會 と.
秋 季 五 十 日 間 密 軌 を 精 談 す る 錬 行 會 と の 二 會 を 總 稱 し て 云 ふ の で あ る o げ に 吾 上 人 の 宿 願 と す る と こ ろ は 前 述 の 如 く 傅 法 會 々 場 の一
宇 建 立 に あ り て , 之 が 機 遐 の 至 ら ん こ と を 幾 度 か 紳 佛 ( 稻 荷 明 紳 , 或 は 毘 沙 門 天 モ 等 ) に 新 願 せ ら れ た の で あ る 。 時 偶 々 大 治 五 年 二 月 聖 慧 親 王(
白 河 帝 第 五 皇 子 ) 高 野 に 御 參 詣 あ り.
覺 鑁 上 人 の一
宇 建 立 の 志 願 を 聞 召 し て.
此 事 を 上 皇 に 奏 講 あ る や , 上 皇 深 く 叡 感 ま しく
て.
直 に 朕 が 勅 願 所 と し て 遘 營 あ る べ き 旨 を 宣 下 し 給 ふ た の で あ る 。 時 に 上 人 三 十 六 歳.
佛 力 帝 カ一
時 に 凾 蓋 相 應 じ て 上 人 は 茲 に 覺 簸 上 人 の 遺 跡一
二 七智 山 學 鰕 =
一
八 年 來 の 志 願 を 果 た さ せ た ま ふ こ と が で き た の で あ る o 斯 く て 傳 法 會 々 場 な る 傳 法 院 は 大 治 五 年 四 月 八 日 に 至 り て 落 成 し . 乃 ち 須 彌 壇 上 に は 本 茸 勝 佛 頂 尊 を 安 置 し 奉 り , 琳 覺 阿 闘 梨 を 導 師 と し て 落 慶 供 養 を 行 ひ . 石 手 . 庄 を 傳 法 會 供 料 に 宛 て 玉.
卅 六 人 の 學 衆 を 置 か れ た の で あ る 。 然 る に 傳 法 院 の 學 侶 は一
時 に 壇 加 し て 來 の 陜 隘 と な り , 傅 法 大 會 の 修 行 に 困 難 を 感 じ た る が た め , 翌 天 承 元 年 四 月 再 び 大 慱 法 院 の 造 立 を 奏 講 し た ま ふ た の で あ る 。 直 ち に 勅 許 あ り、
時 に 園 城 寺 行 奪 大 儉 正 故 あ つ τ 高 野 に あ り し が 、 こ の 改 造 を 助 喜 す る こ と 己 事 の 如 く . 自 ら 造 營 の 任 に 當 り , 同 年 十 月 十 七 日 に 至 り て , 漸 く そ の 効 を 絡 へ,
同 日 畏 く も 島 朋 上 皇 の 臨 御 を 仰 い で.
盛 大 な る 落 慶 供 養(
漫 荼 羅 共 ) の 式 典 を 舉 け ら れ た の で あ る 。 即 ち 供 養 の 導 師 は 西 ・ 院 の 信 證 大 悄 正 に し て、
夜 に 入 り て 更 に 同 借 正 を 導 師 と し て 傳 法 大 會 を 大 傳 法 院 に 始 行 せ ら れ た の で あ る 。 ( 同 圓 又 上 上 人 の 禪 室 密 嚴 院 落 成 し . 同 倫 正 を 導 師 と し て 同 じ く 供 養 絡 は る ) 大 傳 法 院 落 慶 供 養 の 事 畢 り て,
上 入 深 く 願 望 悉 地 の 加 鮪 を 謝 す 。 時 に 上 皇 言 は く 「 今 度 供 養 の 大 曼 荼 羅 供 の 法 儀 は 特 に 信 感 を 墳 す.
百 歳 の 後 朕 が 忌 辰 に 當 ら ん 日 に は 必 す 此 法 會 を 行 ふ べ し 」 と て,
遠 州 初 倉 . 莊 を 漫 荼 羅 供 養 の 用 度 に 宛 て 給 ひ、
且 つ 同 年 傳 法 大 會 の 供 料 と し て.
山 東 . 山 崎 、 弘 田 、 岡 田 の 四 箇 庄 を 大 傅 法 院 に 寄 進 し 給 ふ た の で あ る 。 コ 斯 く 傅 法 院 は 兩 度 に 造 營 せ ら れ た の で あ る が . 古 來 最 初 建 立 の 傅 法 院 を 小 傅 法 院 と 呼 ぴ 、 再 度 建 立 の 傳 法 院 を 大 傳 法 院 と 稱 す る は、
言 ふ ま で も な く、
伽 藍 の 大 小 に よ り て 兩 者 を 區 別 し た る も の に 過 ぎ な い の で あ る 。 し か も 傳 法 院 伽 藍 の 大 小 に 關 し て は 古 來 異 読 あ り て一
樣 で は な い の で あ る 。 即 ち 信 堅 の 『 興 廢 記 』 に は . シ デ ヲ ろ トあ
崇 徳 院 御 字 大 治 五 年.
覺 鑁 上 人 高 野 山 内 建一
冖
立一
間 四 面 堂 宇→
號二
傅 法 院 太 郎 寺一
建 立 巳 後 二 百 八 + 餘 歳 、 長 承 元5b
ニ
シ 上鳥
夕 尹マ
ザル
一
ノニ
年 改 二 造 三 間 四 面朔
寄一
一
進 鳥 朋 法 皇 御 願”
と あ り,
此 記 事 に よ れ ば 最 細 建 立 の 小 傳 法 院 は 僅 か に一
間 四 面 の 小 堂 に 過 ぎ ざ る も の と な り、
如 何 に し て 丈 六 の 本 尊 奪 勝 佛 を 安 置 さ れ た か f 疑 問 と な る の で あ る 。 乃 ち 『 高 野 春 秋 』 に は 此 事 と 考 證 し て.
二
7 ト 尹 7二
λ ヲレ
(
チ ’ ッ テ ス ル ヵ 古 山 吏 云,
一
間 四 面.
傳 云.
小 傳 法 院 安二
一
丈 六 尺 尺 勝 佛一
然 則一
間 之 此一
字,
寫 者 誤 晩昌
乙 聲一
歟.
爲 〔一
作 ヘ ヘ へ もぬ
レ 叉 〕 可 レ 爲 二 七 字一
歟.
と,
若 し 小 傅 法 院 七 間 四 面 の 伽 藍 な り と せ ば,
大 傅 法 院 伽 藍 は 恐 ら く は 之 に 倍 す る も の な る べ く,
『 興 廢 記 」 に 大 傳 法 院 三 問 四 面 と 云 ふ は.
恐 ら く こ れ 十 三 聞 四 面 の こ と な る べ く,
十 の一
字 を 瀉 蛻 し た る も の と も 思 は る の で あ る 。 更 に引
霎 瑞 緑 起 』 等 に よ つ て 大 傳 院 本 堂 内 の 最 初 作 渉 を 窺 ふ に、
先 づ 須 彌 壇 上 に は 左 の 三 奪 を 安 置 し て,
大 傳 法 院 の 本 尊 と せ ら れ た の で あ る。
左 脇 金 剛 薩 唾 丈 六 尺 中 奪 金 剛 界 大 日 如 來一
丈 七 尺 右 脇 奪 勝 佛 頂 丈 六 尺 こ れ に よ つ て 見 れ ば,
初 最 小 傅 法 院 の 本 奪 な る 黛 聯 佛 頂 奪 は.
共 後 + 俾 法 院 の 成 る や,
新 に 中 尊 大 日 如 來 並 に ガ.
脇 金 剛 菩 薩 錘 の 造 立 に よ 甸 て 其 位 置 を 獰.
動 し、
途 に 右 脇 士 と な る に 至 つ た こ と が 知 ら る の で あ る 。 中 奪 大 日 如 來 の 光 背 中 に は 三 + 七 尊 あ り.
又 頂 上 の 光 中 に は 多 寳 如 來 の 寳 塔 あ り て,
此 塔 に は「.
座 主 倫 止 の 大 事 」 ( 或 は 「 門 跡 相 承 の 大 事 」 と も 云 ふ)
が 祕 納 さ れ て あ つ た の で あ る 。 三 奪 中.
申 尊 大 日 如 來 の 御 頭 に は 鳥 羽 上 皇 の 別 し た る 御 願 と し て.
上 皇 の 覺 級 上 入 の 遺 跡一
二 九智 山 學 轍 = 二 〇 御 髪 髪 を 納 め 奉 り , 左 脇 金 剛 薩 錘 の 御 頭 に は 待 賢 門 院 の 御 髪 を
.
右 脇 尊 勝 佛 頂 の 御 頭 に は 美 圃 門 院 の 御 髪 を 納 め 奉 り て,
各 々 御 願 の 佛 體 と な し 給 ふ た の で あ る 。 又 笹 の 兩 楹 に は 三 十 七 尊 の 字 印 を 綵 り 、 共 壁 の 後 に は 中 尊 に 五 佛 を 婁 き.
左 は 五 大 尊.
右 は 五 菩 薩 の 形 像 を 圖 を 晝 く 。 壇 の 左 方 の 東 壁 に は 紺 地 金 泥 胎 藏 界 大 曼 茶 羅 を 圖 ー.
馳 其 の 後 壁 に は 龍 猛 菩 薩 が 七 粒 の 芥 子 を 加 持 し て 南 天 鐵 塔 の 扉 を 打 開 き,
金 剛 薩 錘 に 遇 ふ τ.
灌 頂 を 受 け 給 ふ 圖 を 晝 く 。 壇 の 右 方 の 西 璧 に は 紺 地 金 泥 の 金 剛 界 大 曼 荼 羅 を 圖 し.
其 の 後 壁 に は 釋 奪 菩 提 樹 下 成 道 の 砌 り に,
「 我 是 凡 夫,
未 レ 知 二 求 處→
唯 願 慈 悲,
爲 レ 我 解 設」
と の 偈 を 唱 へ て 、 油 麻 の 佛 を 禮 拜 し た ま ふ 勝 桐 を 描 く 。 己 上 東 西 後 壁 の 晝 は い つ れ も 上 座 定 智 法 眼 の 描 か れ た る 圖 に し て 、 又 兩 界 の 曼 荼 羅 は 彼 の 大 託 摩 が 筆 跡 に な れ る も の で あ る 。 内 陣 東 西 の 壁 に は 十 六 組 師 の 眞 影 を 懸 く 。 即 ち 西 壁 に は.
龍 猛 菩 薩 龍 智 菩 薩.
金 剛 智 三 藏 、 不 室 三 藏。
惠 果 和 尚 、 弘 法 大 師 、 眞 雅 信 正 . 源 仁 借 都 の 八 岨 、 東 の 壁 に は.
善 無 畏 三 藏、
一
行 阿 闍 梨,
實 慧 信 都,
眞 濟 曾 正 、 宗 叡 價 正 . 眞 然 倫 正、
釜 信 僭 正 、 聖 寳 信 正 の 八 祗 、 是 等 十 六 詛 の 形 像 も 亦 こ れ 曼 荼 羅 と 同 じ く 大 託 摩 が 筆 跡 に な れ る も の で あ る 。 又 堂 内 に は 左 の 偈 頌 を 揚 ぐ.
三 尊 兩 界 十 五 尊 顯 露 祕 密一
切 敏 三 十 七 奪 字 印 形 十 六 租 師 二 十 天 更 に 眼 を 傅 法 院 の 蔀 内 に め ぐ ら せ ば、
諸 狸 の 伽 監 聾 立 し て 凡 べ て一
十 三 宇 あ り 。 共 の 構 壯 麗 に し て 實 に 輪 奐 の 美 を極 む 。 今 其 重 な も の を 擧 ぐ れ ば 左 の 如 く で あ る 。 L つ 鐘 樓 こ 宇 本 堂 左 右 の 角 に あ り 。 御 瓧 ( 三 部 權 現 ) 本 堂 の 西 に あ り
.
一
肚 を 三 棟 と な し て 佛 部、
金 剛 部、
蓮 華 部 の 三 部 の 標 織 と な し、
本 朝一
予 餘 瓧 を 三 部 に 分 別 し て 勸 講 し 奉 る 。 拜 殿 は 九 間 に し て、
甓 龍 天 井 に 蟠 る o ロ 聖 靈 堂 本 堂 の 北 に あ り、
多 賓 塔 に し て 拜 殿 は 三 間.
こ れ ぞ 當 時 の 眞 然 儕 正 の 御 廟 で あ る 。 眞 然 僭 正 此 靈 秀 の 淨 域 を 指 し て 、 巳 身 の 舍 利 を 留 め ん 事 を 顧 命 し た ま ふ に や、
『 霆 瑞 祿 起 』 に.
ノ ノ ノハ
ノ ノハ
ノ ノ ソン
ナ ノる
り 當 山 奥 院 此 外 所 々 多 分 者 如一
奥
院崩
又 此 廟 塔 徃 昔 如一
奐
院鴇
何 及「
一
當 時 − 可 レ 然 哉 云 々.
眞 然 信 正 遺 亘 訳 , 我 有昌
,・
尸
丿(
, 甘 雨 普 潤 誓 願→
高 丘 可 レ 點 二 墓 所一
云 々、
徃 々 當 寺 聖 靈 堂 相=
叶 彼 誓 願一
云 々 又 『 紀 伊 績 風 土 記 』 に,
按 す る に 往 古 此 地 前 は 曠 澤 に し て.
後 は 高 岳 な り,
其 高 岳 に 眞 然 信 正 の 廟 堂 あ り、
爾 に 傳 法 院 創 造 の 比、
廟 堂 を 今 の 眞 然 堂 の 所 に 移 し、
三 間 の 拜 殴 を 構 へ , 舊 跡 の 岳 々 鑿 ち 澤 を 狸 て 干 地 と し て 院 宇 を 建 と お も ほ ゆ,
今 猟 乾 隅 伽 閼 井 あ り.
眞 然 水 と 云 、 是 に 由 て 是 を 見 れ ば 後 借 正 兼 て 此 所 に 草 庵 を 結 ん で 接 謄 し 給 ふ 歟 畳 鐶 上 人 の 遘 跡 =→
=智 山 墾 綴 = 二 二 と 、 覺 鑁 上 人 傳 に よ れ ば
,
傳 法 院 東 北 の 鶏 冠 ノ 木 の 本 に 眞 然 倫 正 顯 現 し て 馳 常 に 上 人 と 密 學 の 興 隆 を 談 話 し た ま ふ を 上 人 の 弟 子 聖 順 房 屡 よ こ れ を 見 る と 、 故 に 共 木 を「
影 向 の 樹 」 と 名 づ け.
又 此 因 縁 に よ り て 偖 正 の 廟 宇 を 此 處 に 建 つ と 云 ふ 。 仁 治 の 頃 ま で に は.
こ の 鷄 冠 木 存 し た る に や.
『 靈 瑞 縁 起 』 に は 「 仁 治 の 廻 祿 に 其 紅 葉 ( 鶏 冠 木)
焦 げ 絡 り し か ば,
今 底 植 え に る 木 は 事 の 外 に 小 さ く 見 え 待 る 」 な ど と 記 載 し て お る の で あ る 。 覺 皇 院 太 堂 の 東 方 に あ り.
二 階 堂 五 間 四 面 の 堂 舍 に し て.
覺 鏝 上 人 の 高 弟 蒙 海 上 人 が 近 衛 院 の 御 願 と し て 建 立 さ れ た る も の で あ る 。 『 高 野 山 往 生 傳 』 の 襞 海 上 人 傳 に、
師 二 義 覺 鑁 上 ん一
多 年 之 闇 惠 業 無レ
齢.
簒 深 齢 二 丹 誹一
殊 抽 ゴ 淨 肺剛
健二
鵡 八 角 二 階 駕一
安‘
跳.
丈 六 大 日 形 像→
副;
九 幡 兩 界 三 部 諸 尊 導門
仁 平 二 年 十 月 比 以 二 件 堂 命輔
寄 遯. 蔚 翻 法 皇 御 願 争剛
吏 部 大 卿 永 範 朝 臣,
依二
院 宜一
亀;
ヲ 願 文一
供 養 之 儀 可 レ 謂一
「
嚴 重凹
歟 と 、 即 ち こ の 堂 舍 は 仁 甼 二 年 十 月 , 比 ( 實 は 同 年 十一
月 , 覺 鏝 上 人 滅 後 十 年 ) 烏 朋 上 皇 の 御 願 寺 と し て 袰 海 上 人 の 建 立 さ れ た る も の で あ る 。(
但 し 篥 瑞 縁 起 に は 近 衛 院 の 御 願 と い ふ ) 即 ち 供 養 α 願 文 は 永 範 朝 臣 院 宣 を 奉 じ て 之 を 製 し、
嚴 量 な る 供 養 會 が 行 は れ た の で あ る 」 仁 李 二 年 十一
月 廿 四 日 弟 子 沙 門 覺 皇 院 供 養 願 文 式 部 大 輔 永 範 作、
定 信 消 酷 覺 皇 院 供 養 諷變
辮
臻
禦
棚黐
夢
躱
公難
「 穩 瑞 線 起 邑 に 覺 皇 院 伽 藍 の 壯 麗 を 述 べ て.
經゜ と 騒 不゜
耋
院靆
近 衞 院 御 願.
蠡
上 人 の 建 立鑿
讐
し て 八 角 二鑒
五 間 四 面 な り、
毳
九、
猷禦
銅 也,
内 陳 の 四 本 桂 は一
本 に 各 于 石 の 用 途 に し て 都 合 四 千 石 也 ,一
本 三 面 は 月 輪 皆 銅 輪 の 三 十 七 奪 な り 、 其 輪 の 内 の 繪 は 託 間 爲 遽 難 覊 嬲、
未 申 の 柱 繪 は 三 度 洗 ひ 藩 せ り、
蒙 海 上 人 は 造 作 と 云 ひ 繪 骨 と 云 ひ 秡 群 の 仁 也,
蛾 海 云 く 彩 具 の 用 て ま 途 は 勲 海 の 沙 汰 也,
乎 間 は 強 て 惜 し む べ か ら ざ る の 由 責 勘 せ ら る の 間.
繪 師 も 落 涙 の 氣 あ り け り と 云 々.
勗 高 す る セ ん 欄 等 如 法 に し て 朱 漆 水 金 皆 上 に 淨 き 出 て 見 へ け り と 云 々.
王 城 の 南 に は 比 類 無 き の 由 花 夷 に.
謳 歌 せ ら る、
珠 玉 堂 を 營 む 唯 佛 界,
金 銀 閣 を 鎮 め て 人 間 に 喚 く と そ 見 え け る 、 番 匠 繪 師 筆 各 々 申 し て 云 く 、 此 御 堂 營 作 の 間 に,
其 の 道 の 骨 法一
膝 罷 上 れ り 云 々,
伊 豫 國 高 田,
庄 は 當 院 寺 領 也 、 然 り と 難 も 眞 光 院 座 主 の 時 沽 却 せ ら れ ら る 以 て 如 何 に 精 巧 華 麗 を 極 め た る 堂 舎 な り し か を 想 像 す る に 足 る の で あ る 。 獻 本 堂 の 東 北 に あ り 、 此 經 藏 本 は 是 れ 和 州 + 安 寺 の 經 藏 に し て.
高 詛 弘 法 大 師 が 自 ら 鱒 を 取 て 造 營 さ れ た も の で あ る 。 然 る に 故 あ っ て 彼 寺 の 執 行 よ り、
途 に 傳 法 院 へ 移 修 せ ら る 」 に 至 つ た ゆ か り 深 き 經 蔵 で あ る 。 毎 年 十 二 月 晦 日 に は 翌 年 の 瘟 疫 を の が れ ん が 爲 に.
一
山 の 老 若 が こ の 寳 藏 に 詣 て.
板 敷 を 頂 戴 す る の が一
山 の 習 で は あ つ た と 相 傳 へ ら る 。 野 野 本 堂 の 西 角 に あ り,
麑 銀 上 人 の 弟 子 聖 順 房 の 建 立 す る と こ ろ に し て.
丈 六 の 不 動 明 王 を 安 置 し 奉 る 。 覺 鑁 上 人 の 遺 跡一
三 三智 山 學 皺 = 二 四 護 摩 堂 不 動 堂 の 南 に あ り 。 己 上 は 傳 法 院 廓 内 諸 堂 宇 の 大 概 で あ る が
、
大 傳 法 院 管 内 の 房 舍 は 丈 六 堂、
中 別 所.
小 田 原 , 禪 定 院.
五 ノ 室,
千 手 院 、 東 別 所、
往 生 院 の 八 箇 所 に 碁 布 縦 横 し て、
當 時 既 に 五 百 餘 房 の 多 き に 逹 し て 居 つ た の で あ る 。 か く て 傳 法 院 の 門 葉 日 々 に 盛 ん に 年 々 に 繁 興 す る や、
其 威 勢 は 金 剛 峯 寺 方 を 威 厭 す る こ と 」 な り.
寺 院 閲 墻 し て、
長 承 三 年 よ り 弘 安 九 年 に 至 た る 百 五 十 有 三 年 の 中 間 , 種 々 の 鬪 諍 七 度 に 及 び し が.
途 に 正 應 元 年 傅 法、
密 嚴 兩 院 の 根 基 を 根 來 山 に 移 修 す る こ と 襲 な つ た の で あ る 。 其 後 大 傅 法 院 遺 跡(
今 の 金 剛 峯 寺 の 境 地 ) は 徒 ら に 荊 棘 の 室 地 と な り て 永 く 癈 絶 し た る が、
天 正 二 十 年 豊 太 閣 秀 吉 母 公 准 三 后 天 端 寺 殿 の 冥 幅 を 所 ら ん が 爲 に,
此 處 に 剃 髪 寺(
母 公 遺 髪 を 納 む と ) の一
宇 伽 藍 を 建 立 せ ら れ た の で あ る 其 後 文 祿 三 年 に 至 り て 寺 名 を 青 巖 寺 と 改 め し が 、 更 に 明 治 元 年 に 至 り て 金 剛 峯 寺 と 改 稱 ぜ ら る ム に 至 つ た の で あ る 。 金 剛 峯 寺 の 地 即 ち 大 傳 法 院 の 境 内 はへ
寛 政 の 圖 に よ れ ば 地 坪 總 計 八 千 八 百 六 坪 あ り と 云 ふ ) 東 南 西 の 三 方 は 築 地 に し て 各一
門 を 構 へ , 北 は 蔭 々 た る 巖 嶺 に し て 偉 法 院 山.
護 鴈 山 、 五 百 頭 ケ 峯 等 種 々 な る 名 稱 を 以 て 呼 ば れ 來 れ る 山 で あ る 。 此 山 を 五 百 頭 ケ 峯 と 云 ふ は.
覺 鑁 上 人 嘗 て 求 聞 持 法 を 修 し て 百 日 滿 數 の 日,
五 百 羅 漢 の 佛 面 山 上 に 涌 出 し 牝 ま ふ が 故 に 此 名 あ り と も 相 傳 へ ら る 。 更 に 闘 側 門 前 に は 、 覺 鑁 上 人 の 開 鑿 し た ま ふ 覺 鑁 池 等 あO
て , 諸 處 に 上 人 古 の 遺 跡 を 偲 ぶ こ と が で き る の で あ る 。 徇 ほ 大 傅 法 防 伽 藍 の 風 致 を 知 ら ん と 欲 せ ば、
高 野 四 季 景 中 の「
傳 法 院 夏 景 圖 」 に よ つ て、
そ の 大 概 は 知 ら る の で あ る 。( 縮 瀉 し て 績 寶 簡 集 六 十
一
、
大 日 本 古 文 書 高 野 文 書 第 六 に 戴 す )一
「 密嚴
院 密 嚴 院 は 鳥 勿 上 皇 の 御 願 寺 に し て
、
長 承 元 年 + 月 十 七 日 大 傳 法 院 の 落 慶 供 養 を 経 る や,
同 日 引 績 て 此 院 の 落 慶 供 養 を も 行 は せ た ま ふ た の で あ る 。 [ 靈 瑞 繰 起 』 に 此 日 供 養 の こ と を 述 べ て.
長 承 元 年 + 月 十 七 日 大 傅 法 院 供 養,
同 日 夕 方 密 嚴 院 號 座 禪 堂 を 御 願 に 申 寄 せ ら れ 、 同 導 師 ( 大 傳 法 院 落 慶 供 養 導 師 信 證 大 倫 正)
供 養 了 は る、
院 ( 鳥 朋 院 ) 御 諷 誦 之 を 勤 行 は る 、 御 諷 誦 文 は 別 當 三 位 椛 中 納 言 左 衛 門,
督 源 , 朝 臣 雅 定 奉 す、
嗹 襯 と し て 南 嶺 衆 憺 に 聖 主 の 紫 泥一
紙 の 文 を 賜 ふ と,
密 嚴 院 の 落 度 供 養 は ま さ し く 大 傅 法 院 の 供 養 に 準 じ て 行 は れ た る も の で あ る 。 而 し て こ の 道 場 は 專 ら 上 人 の 祕 密 觀 行 の 道 場 な る が 故 に,
一
名 又 座 禪 堂 と も 呼 ば る の で あ る 。 『 通 念 集 』 密 嚴 院 の 條 に , 當 院 は 鳥 朋 院 の 御 願 と し て 、 長 承 年 中 創 建 し 給 ふ 精 舍 な り 、 開 基 は 覺 鑁 上 人 也 D 則 ち 此 院 に 於 て 觀 念 成 就 し 給 ふ の の 祕 密 逍 場 な る が 故 に、
上 人 を 號 し τ 密 嚴 先 徳 と 申 し た て ま つ り、
院 號 を か く 命 じ た る 寳 坊 な り と.
斯 く 密 嚴 院 は 大 傅 法 院 の 如 く 衆 信 研 學 の 道 場 で は な く、
上 人 の 座 禪 堂 な る が 故 に,
廓 の 三 方 に は 堤 を 築 き.
中 心 に 池 を 湛 へ、
そ の 池 中 に 八 角 の 堂 を 建 て 、 入 定 の 淨 室 と な し た ま ひ る も の で あ る 。 然 る に 其 後 密 嚴 院 は一
山 寺 役 の 執 行 所 と な れ る が た め、
更 に 閑 寂 の 地 を 求 め τ.
禪 室 を 設 け さ せ た ま ふ た の で あ る 。 即 ち 今 の 密 嚴 堂 の 地 域 は 其 の 邇 跡 で あ る 。 ( 委 し く は 密 嚴 堂 の 條 下 に 述 ぶ る が 如 し ) 上 人 傳 記 に 密 嚴 院 下 ノ 院 と 云 ふ は 覺 綾 上 入 の 遺 跡 = 二 五智 山 學 報 = 二 六 在 來 の 密 嚴 院 地 域 に し て
.
同 じ く 上 ノ 院 と 云 ふ は 今 度 移 修 の 堂 舍 を 指 し て 云 ふ の で あ る 。 上 ノ 院 ・ 下 ノ 院 共 に 八 角 竇 形 作 り の 堂 舍 な り し も,
上 ノ 院 は 上 人 の 減 後 間 も な く 廢 絶 す る に 至 つ 九 の で あ る 。 今 左 に 密 嚴 院 下 ノ 院 の 諸 堂 舍 を 擧 ぐ れ ば、
り 本 堂 八 角 寶 形 造 謬 摩 蝉 費 樫 此 塔 は 二 條 院 の 御 願 に し τ、
御 菩 提 の 奉 爲 に 不 退 の 行 法 あ り、
又 佛 壇 の 下 に は 優 代 貫 主 の 御 骨 を 奉 納 し て.
同 じ く 御 菩 提 を 所 る ら せ ら れ た の で あ る 。御 杜 拜 殿 三 間 四 面 三 部 權 現 、
一
千 餘 肚 の 諸 紳 を 祀 る.
上 人 南 都 に あ る の 日 . 春 日 明 神 「 我 れ 往 て 上 人 の 佛 法 を 擁 護 せ ん 」 と の 御 盟 約 あ り 、 明 棘 童 形 を 示 現 し て 瓧 壇 に 入 ら せ 給 ふ と 傳 へ ら る 。 密 嚴 院 は 正 應 元 年 大 傅 法 院 と 共 に.
そ の 根 基 を 根 來 に 移 し て よ り、
高 野 の 密 嚴 院 は 茲 に 漸 や く 衰 微 を 來 だ す に 至 つ た の で あ.
る 。 『 通 念 集一
に、
其 後 保 延 年 中一
時 の 變 に か 玉 り . 院 字 幾 ば く 破 毀 に 及 べ り.
然 れ ど も 舊 跡 の 混 せ ん こ と を 悲 し み.
菅 の 禹 が一
を 殘 せo
と 、 即 ち 廷 文 年 中 に は 霓 深 阿 閣 楽 此 院 に 止 住 し て 大 に 修 築 を 加へ
把 る も.
其 後 正 徳 三 年 十一
月 三 日 編 生 院 の 藏 前 よ り田 火 し て 途 に 密 嚴 院 に 燃 え 移 り
.
密 嚴 院 は 唯 だ 僅 か に 位 牌 堂 廩 藏 を 残 し て . 其 他 の 本 堂、
護 摩 堂 、 明 祕 瓧、
鐘 樓 、 惣 門 等 は 悉 く 鳥 有 に 歸 し た の で あ る 。 こ れ よ の 先 賓 永 三 年 の 秋、
宥 道 阿 鬧 梨 在 佳 の 節、
江 戸 護 持 院 隆 光 大 僣 正 同 院 へ 覺 鑁 上 人 水 鏡 の 墫 像 を 寄 進 し て,
永 く 上 人 遣 跡 の 紀 念 と せ ら れ た の で あ る 。 左 に 隆 光 大 椴 正 の 寄 進 願 文 並 び に 智 積 専 戒 獪 正 點 眼 加 持 の 契 證 を か ム ぐ、
Q
ハ
ヲ チ シニ
ベ ヲニ
ミニ
シ ヲ テ 密 嚴 院 者 興 敏 大 師 修 禪 之 靈 場 也.
是 以 命二
京 師 佛 工一
摸二
寫 水 鏡 之 奪 影一
幸 憑=
洛 西 隱 樫 僭 正 専 戒一
加二
修 黔 眼一
以 寄 ス ヲ ニ 附 之→
唯 願 倍 増 法 樂 而 己 審ハ
永 三 歳 次 丙 戊 孟 秋 十 有 二 日 江 城 謹 持 院 槍 祿 前 大 僭 正 法 印 大 和 徇 隆 光0
摸 寫 興 敦 大 師 水 鏡 之 尊 像 請 開 眼 寳 永 三 丙 戍 仲 冬 吉 旦 點 眼 加 持 了 智 積 院 中 興 第 十 世 退 隱 倫 正 専 戒 ( 花 押 ) 正 徳 三 年 の 同 院 類 燒 は 、 賃 に 此 事 あ り て 僅 か に 八 ク 年 後 の こ と な る が 、 此 後 間 も な く 恢 復 し て.
天 保 の 頃 に は 左 の 如 き 諸 堂 舍 復 興 す る に 至 つ た の で あ る 。 即 ち 『 紀 伊 績 風 土 記 』 の 記 す る と こ ろ に よ れ ば、
本 堂奪
金 剛奨
日絮
驤
歓 覺 鏤 上 人 の 逍 跡 = 二 七智 山 學 報 = 二 八
露
惣 本 尊 不 動 明 王鞳
賠
甥
驟
尊騨
鷺
譎
玄 關、
門.
倉 庫幅
爨
晶
。 鍬 禦 だ 篇 蛸 歔 糊 鰰 御 麒 轍蹄
勸 請 す 荷 ほ 『 同 記 』 に 同 院 の 什 賓 と し て は 、 左 の 如 く 列 記 し お る の で あ る 。 」 什 物 白 衣 五査
龕
爨
不
鏨
茶 羅議
鸚
愛 染 明 王議
雛
能 作
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譎
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倶 利 迦 羅 不 動 兩 童 子 難 鰡 燗 師 の 筆 興癸
師 影甑
ガ囃
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羅
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纏麗
鰍同 經 瑚
韈
三黠
宣髄
二 鞴勗 面
騾
二、
雙 詩 屏 風 歌 同 筆 淨 土 曼 荼 羅 天 平 賢 字 七 癸 卯 月 二 十 三 日 中 將 姫 ( 夫 納 言 廣 佩 の 女 ) の た め に 神 女 來 て 蓮 の 糸 を 以 て 是 を 織 る、
所 持 布 袋 書鑷
叙
榔砿
興 殺 大 師 の但 し 惜 い か な
,
右 什 寳 中 今 日 密 嚴 院 に 傳 つ て ゐ る も の は 殆 ん ど な い の で あ る 。 こ れ 恐 ら く 同 院 に は 永 ら く 専 任 の 院 主 も な く.
永 年 放 葉 さ れ た る が 爲 め、
自 然 に 散 失 す る に 至 つ た も の で あ ら う 。 今 光 助 院 に 傳 は る 倶 利 伽 羅 明 王 畫 像 は こ れ 疑 も な く 上 人 の 御 筆 に し て、
元 は 密 嚴 院 に あ り た る も の な る も , 同 院 廢 滅 と 共 に い つ し か 光 明 院 に 移 さ れ た も の で あ る 。 即 ち 「 通 念 集 』 第 五 密 嚴 院 の 條 に 「 靈 貨 數 榁 あ り と いへ
ど も . 其 中 上 人 の 畫 し 給 ふ 倶 利 伽 羅 明 王 の 鬪 像 並 に 五 智 房 融 源 の 書 賛 上 人 の 肯 像 等 を 珍 藏 せO
」 と 記 す る が 如 く . 倶 利 伽 羅 明 王 と 融 源 信 都 の 畫 讃 あ る 上 人 の 圖 像 と は 共 に 密 嚴 院 の 二 大 靈 貨 で あ つ た の で あ る 。 か く て 上 人 の 遺 跡 を 追 懐 し て 轉 た 泪 を 禁 ぜ ざ る 折 柄、
近 最 密 嚴 院 輪 奐 の 壯 美 を 昔 日 に 復 さ ん と す る 、 大 復 興 計 豊 の 既 に 成 る を 聞 く 。 上 人 の 末 流 を 汲 む も の 誰 人 か 之 に 賛 せ ざ る も の あ ら ん や 。 今 左 に 『 興 教 大 師 と 密 嚴 院 』 中 の 記 事 を 左 に 掲 け て.
読 者 と 共 に 密 嚴 院 の 復 復 計 畫 を 知 ら ん か 、 三 十 六 世 ( 密 嚴 院 ) 宥 道 阿 闍 梨 の 遞 化 の 後、
お よ そ 百 年 ほ ど の 間 は、
ま た こ 、 に 写 仕 の 院 圭 も な く,
や うく
院 内 又 は 法 類 寺 か ら の 裳 務、
あ る ひ は「
二 の 宿 老 の 手 に 依 つ て、
辛 う じ て 保 存 せ ら れ て 來 た に 過 ぎ な か つ た の を,
千 蔵 院 佳 職 松 峰 光 典 和 尚 の 徒 弟 翼 明 情 都、
こ の 院 の 廢 減 に 歸 し や う と す る の を 慨 き、
そ の 古 跡 を の こ す 爲 め に.
改 築 縮 少 し て.
明 治 二 + 五 年,
入 つ τ 佳 職 せ ら れ た が、
同 僭 都 滅 後、
そ の 高 弟 藤 本 眞 光 僭 正 の 代 に な つ て は.
ま すく
隆 運 の 域 に む か ひ て、
更 に 現 佳 徳 富 元 隆 櫓 正 が 之 れ に 代 ら れ て か ら は.
こ れ が 復 興 の 大 願 を 立 て、
鋭 意 壗 瘁 鷺 ら る 」 と こ ろ が あ つ た が、
恰 も 上 人 御 入 寂 第 十 三 回 目 の 干 支 を 同 じ く す る 大 正 十 二 年 の 春、
智 豊 雨 山 を は じ め そ の 他 の 同 憂 諸 大 徳 寺 と 協 議 の 上,
次 の や う な 趣 意 並 び に 會 則 の 下 に 高 野 山 密 嚴 會 の 組 織 を 見 る こ と に な つ た の 覺 鑁 上 人 の 遺 跡 = 二 九智 山 學 報
一
四 〇 で あ る 。 と.
茲 に 覯 豫 算 額 金 參 拾 萬 圓 を 計 上 し て.
密 嚴 院 復 興 の 計 晝 を 立 て ら れ た の で あ る が、
同 年 九 月 に 於 け る 關 東 大 震 災 と , 相 次 ぐ 財 界 の 不 况 と に 依 つ て.
豫 算 總 額 は 六 萬 圓 に 縮 少 せ ら れ、
乃 ち 豫 算 の 牛 額 參 萬 圓 は 智 豊 兩 汳 ( 各 壼 萬 五 千 圓 ) に て 負 擔 し 之 を 援 助 逹 成 せ し む る こ と 玉 な つ た の で あ る 。 亀 今 更 に 往 時 密 嚴 院 境 内 に 存 し た る 上 人 の 遺 跡 を 左 に あ ぐ れ ば.
稻 荷 杜 稻 荷 は 北 堂 の 東 隣、
密 嚴 院 の 東 南 隅 に あ り.
吾 覺 鑁 上 人 が 永 世 擁 護 の 爲 め に 勤 請 せ ら れ た る一
杜 で あ る 。 「 紀 伊 績 風 土 記 』 に.
北 室 の 東 隣 に あ り.
稻 荷 の 壇 と 云 是 な り.
表 行 五 尺 五 寸,
裏 行 七 尺、
前 に 花 表 あ り.
高 さ 七 尺,
大 治 元 年 丙 午 永 尋 阿 闍 梨 の 勸 奨 に 依 て , 傅 法 院 を 創 造 し て 傅 法 會 を 啓 き 法 を 弘 め 群 生 を 濟 は ん と す.
鑁 師 思 惟 す ら く , 紳 助 に 憑 ら さ れ ば 恐 く は 志 願 を 途 難 か ら ん と.
稻 荷 明 紳 は 嘗 て 大 師 と 盟 約 し て 吾 宗 を 陰 護 し 且 輻 柄 セ 操 れ り、
仍 て 東 寺 に 規 準 し て 此 棘 を 勸 請 す と 云、
爾 來 未 院 は 廢 墟 丁 と い へ ど も 唯 棘 瓧 の み 殘 れ り.
故 に 其 境 地 を 呼 ん で し か 各 々 と.
こ の 地 域 は 今 も 徇 ほ 稻 荷 壇 と 稱 し て お る の で あ る 。 サ 稻 荷 池 ( 叉 覺 鑁 池 と も 云 ふ ) こ の 池 は 稻 荷 壇 に あ る が 故 に 稻 荷 池 と も 云 は れ、
又 覺 鑁 上 人 の 開 鑿 し た ま ふ 池 な る が 故 に.
又 覺 鑁 池 と も 呼 ば るの で あ る 。 『 高 野 春 秋 』 に 山 史 を 引 て , テ ヲ チ げ
ニ
ズゐ
山 史 云.
此 時 鑁 納 被 レ 追 置 立 密 嚴 院輔
走 飛 二 入 院 前 蓮 池 叫 變 二 木 彫 之 率 都 婆一
な ど 記 す る は 即 ち こ の 池 の こ と で あ る 9 又 「 傳 法 院 本 願 聖 人 御 傳 」 に , 下 ノ 院 と は 八 角 形 造O
.
當 時 の 密 嚴 院 是 れ な り,
此 の 院 は 上 人 御 入 定 の 砌 に 定 め ら る . 廓 の 四 方 異 の 灘 に 築 廻 し 、 而 し て 中 心 に 此 堂 を 建 つ 水 を 湛 へ . 水 輪 定 に 之 れ ケ 講 へ ら る な ど 」 記 す 所 を み れ ば,
恐 ら く こ の 池 は 上 人 の 禪 室 を め ぐ ら し た る 池 で あ つ た ら う と 思 は れ る 。 の 賓 珠 岡 寶 珠 岡 は 稻 荷 池 の 南.
即 ち 密 嚴 院 の 南 の 岡 を 斯 く 稱 す る の で あ る 。 『 霆 瑞 縁 起 」 に 。 此 贇 珠 を 密 嚴 院 南 ノ 岡 に 埋 め 了 は る.
其 よ り 以 來 寶 珠 が 岡 と そ 號 す,
上 人 此 洞 中 に は 十 徳 を 立 τ ら れ た り.
十 徳 が 岡 と も 申 傳 ふ る 也 と.
即 ち 上 人 が 和 州 信 貴 山 毘 沙 門 天 に 參 籠 の 折.
毘 沙 門 天 よ り 授 か る一
顆 の 寶 珠 を 、 此 岡 に 狸 め 奉 る よ り.
爾 來 簧 球 が 岡 と 呼 ば れ.
又 上 人 此 岡 に 十 徳 を 立 て た ま ふ が 故 に 、 十 徳 が 岡 と も 呼 ば る の で あ る 。 密 嚴 院 十 徳 頌 ( 二 種 ) は 上 人 卅 五 歳.
大 治 四 年 閏 七 月 廿 六 日 の 御 作 に て,
密 嚴 院 に あ る 寶 塔 が 中 央 に し て 邊 に 非 率 即 ち 深 祕 に 擦 て 中 買 を 表 は す 所 以 を 示 さ ん が 爲 め.
假 り に 問 筈 を 設 け 、 先 づ 初 め に 東 に 寄 せ ざ る 十 徳, 次 に 北 方 甫 方 に も 亦 各 十 徳 め る こ と を、
四 の 言 偶 頌 に て 讃 嘆 し た ま へ る も り で あ る 。 覺 鏤 上 人 の 遺 跡一
四一
智 山 學 骰
一
四 二 三。
密嚴
堂 密 嚴 堂 ( 又 畳 鑁 堂 と も 云 ふ ) は 奥 院 參 道 に 滑 ふ て
、
覺 鑁 坂 を 登 り つ め た る 右 傍 に あ り.
吾 が 蚤 鋏 上 人 が 禪 波 を 凝 ら し た ま へ る 祕 密 道 場 で あ る 。 上 人 御 作 の 「 密 嚴 院 + 徳 』 に.
ト ノ ヂ に しワ
中 奥 兩 院.
皆 據 レ 兌 建 と 云 ひ 、 又 同 じ く 上 人 御 作 の 「 密 院 嚴 瑞 夢〔
に.
大 阿 遮 梨簾
鉾
覺 鑑乱
,
価聾
甕
噌
犠
鶲
啓 . 奥 川 野 二至
と.
茲 に 奥 と 呼 ぴ . 奥 , 野 と 稱 す る は,
所 謂 高 祗 の 御 廟 に 至 た る 奥 野 の こ と に し τ.
密 嚴 堂 附 近一
帶 の 地 域 を 指 し て 斯 く 呼 ば れ た る も の で あ る 。 即 ち 奥 , 野 に 於 け る 上 人 の 遺 跡 は.
現 在 密 嚴 堂 の 外 他 に な き を 以 て み れ ば 、 密 嚴 院 上 下 兩 院 中、
上 院 は 必 ず や 密 嚴 堂 の 地 域 に 建 立 さ れ た る に 相 違 な い の で あ る 。 密 嚴 院 + 徳 」 に、
ノ ノあ
ア リユ
う チナ
リノ
ノマ
リハ
リ ヲハ
ベ ヲ 練 若 當 山 別 所 斯 奥 密 寂 深 奥 獨 尊 不 共 禪 那 求 法 動 惱 風 定 鳥 囀二
三 寶一
人 詠一
一
一
密一
と 右 文 中 に「
別 所 斯 の 奥 に あ り 」 と は 帥 ち 上 院 の こ と に し て.
上 院 は 奥 . 野 に あ り、
奥 . 野 は 古 來 三 寳 鳥 の 鳴 き た る と こ ろ で あ る 。 又 上 人 の 上 足 象 海 阿 梨 自 筆 の 『 鑁 上 人 事 』 に は 、 ノ ロ ヲ ノ ナ 長 承 四 年 正 月一
日.
於一
密 嚴 院 上 院 捨二
縁 務一
始二
無 言輔
我 大 師 籠 居.
但 三 月一
日 巳 前 者、
是 令 レ 調二
座 禪 縁 具噌
之 間 ヲス
ら
フ
ハ
也.
三 月 廿一
日 固 不レ
通一
二 切→
偏 更 修 二 帥 身 成 佛 之 密 行→
常 隨 給 事 人 龍 玄.
粟 海 也 と 云 ひ.
又 『 靈 瑞 縁 起に も
.
密
饒
別 廓 上 院 八 角.
下 除 同 前難
蠶
蜥議
轟
墾
軅瀞
繋
ゆ と 述 ぶ る と こ ろ を 以 て み れ ば.
上 人 の 修 禪 は 專 ら 上 院 に 於 τ 行 は せ ら れ た る も の と 思 は る 。 然 る に 此 上 院 の 所 在 地 に つ い て は 早 や く も 忘 れ ら れ , 下 院 を 以 て 密 嚴 院 と 總 稱 す る に 至 つ た の で あ る 。 即 ち 『 大 傳 法 院 本 願 上 人 御 傳 』 に、
密 嚴 院 は 別 廓 な り.
上 院 と は 八 角 の 寳 形 造 り、
此 の 院 は 深 祕 の 在 所 な る が 故 に、
普 通 の 大 門 徒 は 參 ら す 云 々 . 然 れ ど も 近 代 斷 絶 し て 在 所 之 れ を 知 ら さ る な り と、
上 下 兩 院一
境 内、
も し く は 隣 接 の 地 に あ ら ば.
そ が 在 所 ま で 忘 れ ら る と 云 ふ 筈 は な か つ た の で あ る 。 思 ふ に 上 院 は 下 院 と 程 遠 く 隔 て て 奥 , 野 に 建 立 せ ら れ、
又 御 廟 近 く あ る が 故 に 上 院 と 稱 せ ら れ た る も の で あ ら う と 思 は れ る 。 果 し て 然 ら ば 現 在 密 嚴 堂 の 地 は 往 古 上 院 の 地 と し て,
吾 人 未 徒 に と り て は 忘 る べ か ら ざ る 上 人 の 靈 蹟 で あ る 。 さ れ ば に や、
こ の 地 の一
劃 は 永 く 存 し て 今 日 に 傅 は り 、 叉 上 院一
部 の 伽 藍 は 幾 度 か 改 廢 せ ら れ て 、 現 今 の 密 嚴 堂 を 見 る に 至 つ た の で あ る 。 『 紀 伊 績 風 土 記 』 に 密 嚴 堂 並 に 其 由 來 を 記 し τ.
覺 鑁 坂 の 東 方 に あ り,
參 路 の 右 傍、
木 階 + 餘 段 を 登 り て、
堂 前 に 石 檠 石 水 盤 等 あ り . 西 向一
間 孚 四 方.
寶 形 造.
獪 皮 葺.
正 面 格 子 唐 戸、
三 方 板 壁、
堂 内 甄 石,
厨 子 の 中 に 時 上 人 の 木 像 を 安 し、
前 案 に 香 燈 の 設 け あ り、
密 嚴 堂 と 標 榜 す 泊 如 の 墨 痕 な り,
比 堂 の 草 創 詳 な ら す 、 古 老 傳 に 普 時 上 人 衆 中 の 喧 擾 を 厭 ふ て 此 密 嚴 堂 を 創 立 し.
深 く 輟 慮 を 練 行 す と そ、
其 後 廢 壊 せ る に や.
享 保 年 聞 智 積 院,
小 池 坊 の 儔 徒 戮 力 し て 再 營 す、
是 其 組 風 を 獄 仰 す と な り 、 此 堂 に 制 札 あ り。
其 文 に . 禁 制 覺 銭 上 人 の 遺 跡一
四 三智 山 學 齦
一
四 四 ら く か き の 事 紙 札 板 札 お す こ と 非 人 寄 宿 之 事 右 之 旨 堅 令 停 止 者 也 三 月 青 巖 寺 役 人 篳 侶 年 預 坊 と . 現 今 の 密 嚴 堂 は 享 保 年 間 即 ち 享 保 + 八 年 ( 翌 + 九 年 は 高 阻 九 百 回 忌 に 當 る ) 智 豊 兩 山 戮 力 の 下 に . 舊 を 捨 τ て 、 新 に 改 築 さ れ た る も の で あ る 。 今 左 に 高 野 山 清 淨 心 院 よ り.
京 都 普 門 院 六 波 羅 蜜 寺 に 遒 は し た る 書 瓶 を 掲 け て、
こ の 改 築 事 情 を 詳 に す れ ば , ( 前 略 )一
日 外 , 簑 元 院 樣一
周 忌 法 事 ( 靈 元 帝 は 享 保 十 七 年 崩 御 ) 於 昌 此 山一
修 行 仕 候 に 付.
右 の 段 御 房 よ り 來 迎 院 へ 御 懇 意 被 二 仰 遣一
候 御 文 此 方 へ 被 u 逡レ
之,
何 れ も 披 見 大 慶 奉 し 存.
候 、 其 節 右 貴 報 御 禮 旁 以=
讐 欣讐
申 捲 候.
定 て 相 重 可一
曽
申 上 存 御 事 に 候一
當 山 密 嚴 堂 普 請 此 節 大 孚 出 來 申 候 、 襲 て は 修 復 の 筈 に 御 座 候 得 共,
兩 山(
智 豊 兩 山 ) よ り 被 レ 入二
御 情一
御 加 入 有 レ 之 し に 付 , 今 般 新 に 建 †.
被 レ 致レ
替 , 古 材 木 等一
本 も 琳 不レ
申 薪 造 立 に 出 來 立 申 候.
魯 請 も 隨 分 念 を 入 被二
申 付一
し 故,
小 堂 に て は 御 座 候 得 共 中 々 結 構 な る 御 堂 に て 御 座 候.
段 々 御 苦 勞 に 被レ
域 候 事 に 御 座 候 得 は 如 何 致 は 哉 と 可 レ 被 ; 思召
一
と 存、
愚 院 方 よ り 村 方 大 工へ
申 付,
右 の 御 堂 の 差 圖 為 レ 致 置 申 候、
今 般 尋 御 伺 申 候 、 但 叶 圖 の 通 り 御 内 陣 悉 く 敷 瓦 に 仕、
眞 中 に 御 石 碑 建 立 の 筈 に 御 座 候 處,
此 聞一
派 の 内 よ り 興 教 噛、
師 の 御 肯 像 寄 進 可 仕 候 間 . 右 の 御 堂 に 安 置 仕 度 旨 被 二 願 出一
何 れ も 幸 の 儀 に 被レ
存 其 通 に 罷 成 候、
其 故 右 内 陳 敷 瓦 の 上 に 佛 檀 並 宮 殿 被昌
申 付哨
右 の 御 影 安 置 仕 候 筈 に 罷 成 候、
御 肯 像 御 長 ケ 三 尺 八 九 寸 も 有レ
之 座 像 に て 御 座 候.
ケ 樣 の 儀 に て 段 々 結 構 成 る 御 影 堂 に 罷 成 大 慶 に 存 候.
右 の 御 影 安 置 の 儀 は 此 間 の 儀 に て 、 此 差 圖 は 村 方 申 付 し 故 内 陣 少 々 相 逹 御 座 候、
堂 ノ 形 外 廻 り は 此 通 に 少 も 相 逹 無 昌 御 座一
候、
化 主 御 價 正 ( 第 十 五 世 亮 範 信 正 ) へ も 御 序 の 砌 宜 御 傳 可 レ 被 レ 下 候 ( 下 暑 ) ( 享 保 + 八 年 ) +一
月 八 日 清 淨 心 院 仁 實 ( 花 押 ) 普 門 院 様 御 同 宿 中 右 書 状 の 如 く 、 密 嚴 堂 の 管 理 者 清 淨 心 院 仁 買 法 印 の 企 圖 丁 る と こ ろ は,
舊 堂 を 修 理 し て 堂 中 に は 卵 塔 を 建 立 す べ き 筈 で あ つ た の で あ る が,
( 差 圖 に は 御 石 碑 を 卵 塔 に 婁 く、
以 前 に は 上 人 の 靈 牌 を 安 置 し た る も の か ) 智 豊 兩 汳 の 助 勢 に よ り て一
本 の 古 材 木 を も 用 ひ す 、 新 に 造 立 す る こ と 」 な り.
又一
汳 中 よ り 上 人 の 御 肯 像 寄 進 あ り て,
卵 塔 の 代 り に 之 を 堂 中 に 安 置 し 奉 る に 至 つ た の で あ る 。 傳 へ 聞 く に.
尊 像 の 緋 の 法 服 を ま と ひ 玉 へ る は、
元 祿 三 年 興 敏 大 師 の 大 師 號 賜 謐 の 時 に 緋 の 法 服 を 賜 は る に よ る と 。 其 後 密 嚴 堂 は 狙 廟 參 路 の 傍 に あ る 關 係 上、
高 砠 大 師 の 回 忌 毎 に は 必 ら す 修 覆 を 加 へ 來 た る こ と 」 な つ た の で あ る 。 即 ち 明 治 十 七 年 高 組 大 師 師 の一
千 五 + 回 忌 奉 修 の 時 に は.
窩 野 山 敬 議 所 よ り 智 覺 鍛 上 人 の 遺 跡一
四 五知 目 山 學 綴
一
田回
亠
ハ
豊 兩 山 に 對 し て 左 の 書 状 を 遣 は さ れ た の で あ る 。 當 山 奧 院 路 傍 に 往 古 よ の 存 置 罷 在 候 興 敏 士 師 堂 の 義、
舊 幕 御 政 治 の 際一
山 修 理 負 擔 營 繕 處 に 有 之 候 處、
祿 制 御 廢 止 後 財 政 度 有 り 不 得 等 止 閑 ω 姿 に 相 成 侯、
而 る に 來 る 十 七 年、
宗 岨 御 遠 忌 に 付 て は 亘 萬 の 參 詣 見 聞 難 忍 を 以 τ 修 繕 相 加 へ 度、
己 に 職 工 へ 巾 付 別 紙 禎 響 爲 差 出 の 虚 廢 祿 巳 取 燦 伽 藍 滅 ケ 所 の 修 營 に し て 修 營 都 度 難 レ 及。
殆 と 困 苦 罷 在 候.
就 て は 目 今 現 時 の 景 况 御 洞 察 の 上、
御 兩 山 よ り 該 大 師 堂 修 繕 御 拗 勢 の 義、
特 別 の 御 詮 義 を 以 て 御 寄 附 相 成 度 此 段 御 依 頼 申 上 候 也 明 治 十 六 年 十一
月一
目 高 野 山 教議 所 圍 智 積
院 長
谷 寺 執 事 御 中 帥 ち 此 時 も 附 山 助 勢 し て 密 嚴 堂 の 營 繕 を 行 ひ し が
、
年 を 經 る に 從 ひ、
叉 漸 や く 破 損 を 來 た す に 至 つ た の で あ る o 時 恰 か も 大 正 四 年 は 高 組 大 師 の 高 野 開 創一
千 百 年 に 相 當 す る を 以 て、
記 念 法 會 の 修 行 あ り.
高 野 山 の 七 堂 伽 藍 は 何 れ も 大 修 繕 を 加 へ ら る こ と に な つ た の で あ る 。 此 時(
大 正 二 年 五 月)
深 川 區 東 卒 野 町 材 木 商 武 市 森 太 郎 氏 夫 妻 ( 東 京 市 荏 原 郡 大 井 町 本 汳 來…
醐 寺 檀 徒)
か ね τ 奥 院 に 建 立 し た る 石 碑 開 眼 供 養 の た め に 登 山 あ り、
清 淨 心 院 に 投 宿 し で 同 院 執 事 眞 伯 觀 善 僭 正 よ り 密 嚴 堂 の 由 來 を 聞 き,
痛 く 感 奮 す る と こ ろ あ り て、
密 嚴 堂 修 繕 費 用 全 額 を 寄 附 す る こ と 」 な つ た の で あ る 。 乃 ち 工 事 は 大 正 三 年 春 金 剛 峯 寺 監 督 の 下 に 行 は れ.
木 棚,
石 階(
舊 木 階 ) 等 に 至 る ま で 新 に 改 築 せ ら る に 至 つ た の で あ る 。徇 ほ 此 時 智 豐 兩 派 の 末 徒 中 よ も 石 造 燈 籠
一
對.
石 造 花 瓶一
對 を 寶 前 に 供へ
て.
報 恩 の 微 衷 を 表 せ ら れ た の で あ る 。 四,
菩 提 心 院 菩 提 心 院 は 西 谷 に あ り,
美 幅 門 院 ( 鳥 朋 院 の 后.
近 衞 院 の 御 母 ) の 御 願 に し τ 、 傅 法 院 第 四 座 主 隆 海 法 印 ( 保 延 四 年 十 二 月 晦 日 補 々 ) の 建 立 さ れ た る 寺 で あ る 。『
靈 瑞 縁 起 』 に,
笹 嚴 院 光 徳へ
覺 鑁 上 人 )、
若 し 女 院 ( 美 輻 門 院 ) よ り 堂 舍 御 建 立 の 由 仰 合 せ ら れ は.
此 地 に 造 營 す べ き の 旨 . 夲 日 申 置 か る 所 な り と 、 即 ち 隆 海 法 印 か 上 人 の 遺 志 を 奉 じ て 當 院 を 建 立 す る に 至 つ た の で あ る 。 本 堂 ( 正 堂 と 號 す ) に は 等 身 金 剛 界 大 日 如 來 の 烏 瑟 中 に は 鳥 朋 上 皇 の 仙 髪 を 奉 納 し て 本 奪 と な し、
又 そ の 沸 壇 中 に は 美 幅 門 院 の 御 遺 骨 を 奉 納 し て 御 菩 提 を 所 ら れ た の で あ る 。 門 院 は 生 前 既 に 鳥 朋 安 樂 壽 院 に 本 御 塔 ( 鳥 朋 上 皇 の 御 遺 儀 を 葬 り て 山 陵 に 擬 す ) に 準 じ て、
御 他 界 の た め 新 御 塔 を 造 營 し た ま ふ た の で あ る が、
永 暦 元 年 十一
月 廿 三 日 美 幅 門 院 の 崩 じ 給 ふ や、
御 遺 言 に よ り て 同 年 十 二 月 二 日、
御 逾 骨 を 高 野 山 傳 法 院 の 菩 提 心 院 に 御 移 し 奉 つ た の で あ る 。 乃 ち 法 皇 と 門 院 と の 問 に 生 れ 給 ひ し 八 條 女 院(
障 子 ) も.
父 帝 並 に 母 院 に な ら ひ て 傳 法 院 の 御 歸 信 厚 く.
考 妣 の 冥 輻 ケ 所 ら ん が た め に、
數 多 の 庄 園 を 傳 法 院 へ 寄 進 ・ 給 ふ た の で あ ・ 。 菩 提 心 院 の 所篷
江 初 倉 ・擘
百 二 +互
蘚
讐
備 前’
國 登 ’ 庄・
新 庄 都 A ・ 三 + 餘 石 (警
舞
誰
伽)
生
試 ふ は.
い つ れ妄
院誘
供 料 と し τ莚
さ れ π る も の ・ し て , 乃 ち 菩愨
院 ・ は合
の 年港
、
三 綱(
糶
謹
醐)
.
七 + 二 人 の鑒
漿
を 置 て 、 そ の 供 料堯
て ら藍
の で あ 覺 鏤 上 人 の 逾 跡一
四 七智 山 學 報
一
四 八 る 。 其 他『
靈 瑞 縁 起 」 に,
美 幅 門 院 御 新 疇 と し て、
鍮 海 上 人,
三 七 日 金 輪 祕 法 を 勤 修 す 、 悉 地 成 就 の 時 に 結 願 す べ き の 由 女 院 よ り 仰 下 さ れ 了 る o 本 堂 二 壇 護 摩 は 殊 に 子 細 あ り、
褻 海 上 人 獨 り 之 を 勤 修 す、
庄 園 御 寄 進 は 御 修 法 の 勸 賞 な り 不 動一
壇 は 滿 寺 の 宿 老 各 巡 に 之 を 勸 修 す 。 色 々 の 御 佛 事 別 紙 に あ り な ど 記 す る と こ に よ れ ば、
種 々 嚴 重 な る 修 法 が こ の 道 場 に 於 て 行 は れ た こ と が 知 ら る の で あ る 。 更 に 『 同 縁 起 』 の 記 す る 事 に よ れ ば、
菩 提 心 院 本 堂 の 北 廟 に は 八 條 女 院 の 御 菩 提 と し て.
女 院 の 御 持 念 佛 な る 三 尺 の 金 色 阿 彌 陀 佛 安 置 し 奉 り 同 じ く 本 堂 南 の 角 に は 美 幅 門 院 の 御 乳 母 丹 後 . 局 の 御 菩 提 と し て、
彌 陀 三 尊 を 安 置 し 奉 り 供 信 を 定 め て 彌 陀 の 行 法 を 修 せ ら れ 抛 の で あ る 。 其 他 境 内 に は 隆 海 法 印 の 建 立 し だ る 經 藏 を は じ め と し て , 護 摩 堂.
小 塔.
御 瓧 寺 の 諸 宇 が 夢 を 駢 べ て 建 立 せ ら れ て お つ た の で あ る 。 『 今 鏡 」 「 虫 の 音 」 の 題 下 に 、 美 幅 門 院 に の 御 遺 骨 を 高 野 山 菩 提 心 院 納 め ら る 樣 を 記 述 し て . ( 美 幅 門 院 ) 應 保 元 年 十一
月 二 十 三 日 に ( 實 は 永 暦 元 年 十一
月 二 十 三 日)、
斃 れ さ せ 御 座 し ま し に き,
紫 の 雲 棚 曳 き て , 居 な が ら、
亡 せ さ せ 御 座 し る け と そ。
承 り し、
豫 て 高 野 の 御 山 に 忍 び て、
御 堂 建 て さ せ 給 ひ て.
其 れ に ぞ 御 舍 利 を ば 途 り 參 ら せ 給 ひ け る と な ん,
彼 の 御 供 に は、
然 ち 有 る べ き 人 々、
各 々 御 障 有 り て,
賂 左 大 臣 の 末 の 子 時 通 の 備 後 守 と か 聞 え し.
( 美 輻 門 院 の 弟、
備 後 守 藤 原 時 通 な り)
後 に は 法 師 に 戒 ら れ た り け る に、
年 頃 も 契 り 置 か せ 給 へ り け る と て 、 其 人 ぱ か の ぞ,
首 に 縣 け 參 ら せ て、
唯 だ一
人 參 ら れ け れ ば、
若 狹 守 に て、
た か の ぶ と 申 し て 無 下 に 年 若 き 人、
幼 く よ り 馴 れ 任 う 奉 り て 、 御 名 殘 の 忍 び 難 き に、
臨 み て 慕 ひ 參 り け る に、
御 山 へ 入 ら せ 給 ふ 日髯 痛 く 降 り け れ ば