• 検索結果がありません。

2012_137

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "2012_137"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

イスパニカ562012

『失われた足跡』 における 二項対立の乗り越えの試み

──『石蹴り遊び』 との対比において──

井尻 直志

[抄録]

アレホ・カルペンティエル(Alejo Carpentier, 1904–1980) の『失われた足跡』

(Los pasos perdidos, 1949) に登場する人物の造形には、シュルレアリスムへの 批判を読み取ることができる。一方、フリオ・コルタサル (Julio Cortázar, 1914–1984) の『石蹴り遊び』(Rayuela, 1963) には、シュルレアリスムに肯定的 な人物造形が認められる。この二つの作品の人物造形に認められるシュルレア リスム観の違いは、作中人物に形象化されている概念の違いを反映しており、

延いては、二項対立の乗り越えの試みの違いとも関係している。『石蹴り遊び』

に見られるのが二項対立を無効化する試みだとすれば、『失われた足跡』に見 られる二項対立の乗り越えの試みは、あくまでも二項対立に基づくものであ る。そして、『石蹴り遊び』の作中人物に形象化されているのが非言語的ユー トピアであるとすれば、『失われた足跡』は、言語の内における二項対立の乗 り越えの試みの限界を示していると言える。

(2)

1. はじめに

アレホ・カルペンティエル

(Alejo Carpentier, 1904–1980)

の『失われた足 跡』

(Los pasos perdidos, 1949)

に登場する人物の造形には、シュルレアリス ムへの批判を読み取ることができる。一方、フリオ・コルタサル

(Julio Cortázar, 1914–1984)

の『石蹴り遊び』

(Rayuela, 1963)

には、シュルレアリ スムに肯定的な人物造形が認められる。本稿では、この二つの作品の人物造形 に認められるシュルレアリスム観の違いを手がかりにして、『失われた足跡』

に見られる二項対立の乗り越えの特徴を、『石蹴り遊び』におけるそれとの対 比において、明らかにしたい。

2. 『失われた足跡』

2.1. シュルレアリスムと驚異的現実

カルペンティエルは、すでに1920年代に、キューバでシュルレアリスムをは じめとするヨーロッパのアヴァンギャルド芸術の紹介に努めた雑誌

(revista de

avance, 1927–30) の創刊に関わっている。そして、1928年にロベール・デス

ノスの手引きでマチャード独裁下のキューバの圧制を逃れてパリに亡命する と、『ドキュマン』誌に関わり、「キューバ音楽」などの評論を発表するように なる。この雑誌は、ジョルジュ・バタイユが編集していた批評誌で、民族誌と アヴァンギャルド芸術運動を一体化したような内容をその特徴としていた。ジ ェイムズ・クリフォードは『文化の窮乏』に収められている「民族誌的シュル レアリスム」のなかで、『ドキュマン』誌について、「1920年代において民族誌 とシュルレアリスムとが輻湊する主要な領域を例外的なほどはっきり具現して いる」(クリフォード

2003: 173

)と述べ、次のように言っている。

キーワード:『失われた足跡』 『石蹴り遊び』 二項対立 シュルレアリスム 驚異的現実

Los pasos perdidos, Rayuela, dualidad, surrealismo, lo real maravilloso

(3)

民族誌的アプローチに潜在している極端な相対主義、ニヒリズムさえも が、『ドキュマン』誌のもっとも過激な協力者たちによって活用された。

彼らの文化の見方は、有機的な構造、機能的な統合、全体性、歴史的な持 続などといった概念をその特色としなかった。彼らの文化概念は、不当な アナクロニズムを抜きにして、記号論的と呼ぶことができる。文化的リア リティは、人為的コードや、理念的アイデンティティや、創造的な再結合 や並置を許すモノなどによって作り上げられていた。たとえば、ロートレ アモンの蝙蝠傘とミシン、ヴァイオリンとアフリカの大地を打つ両手のよ うに。(中略)文化は収集されるべき何かとなり、『ドキュマン』誌そのも のが、イメージや、テクストや、モノや、符牒などの一種の民族誌的な陳 列、すなわち標本の収集と再分類とを同時におこなう、遊び心に満ちた博 物館なのである。雑誌の基本的な手法は並置─すなわち思いがけない、

あるいはアイロニックなコラージュである。文化的なシンボルや器物の適 切な配置がつねに疑問に付される。(中略)『ドキュマン』誌のなかに私た ちは、ありふれたシンボルを動揺させることを目的とした、民族誌的な並 置の用例を見出す。(クリフォード2003: 170-171)

民族誌とシュルレアリスムを統合したような雑誌『ドキュマン』は、「解剖 台の上でのミシンと蝙蝠傘の思いがけない出会い」を表現手法の基礎に置いて いたのであるが、後にカルペンティエルは、「ロートレアモンの蝙蝠傘とミシ ン」を定式として用いるシュルレアリスムを批判するようになる。

『この世の王国』

(El reino de este mundo, 1949)

の序文で、カルペンティエ ルは、シュルレアリスムと対比する形で「驚異的現実」の概念規定を行ってい る

(Carpentier1983: 15)

。以降の版では削除されているこの序文は、『意見と 異見』

(Tientos y diferencias, 1964)

に収められているエッセイ「アメリカの 驚異的現実について」の後半部分として再録されており1、そこに付された註 でカルペンティエルは次のように述べている。

以下の文章は、私が『この世の王国』の最初の版に付した序文である。こ の序文はそれ以降の版では削除されているが、そこで述べたことは、いく つかの細かな点を除いて、当時と同様に今日でも有効であると私は考えて いる。シュルレアリスムは、15年ほど前まではまだ盛んであった物真似を 経過して、間違って操作されたその影響力を我々に及ぼすことを今では止

(4)

めてしまった。しかし、シュルレアリスムとは全く異なった特徴をもつ

「驚異的現実」が私たちには残されている。それは、日ごとにはっきりと 識別できるようになってきており、ラテンアメリカの若い小説家たちの小 説作法のなかに浸潤し始めている。

(Carpentier, 1990: 111)

シュルレアリスムが行った「物真似」は、『この世の王国』の序文では次の ように批判されていた。

想像力が衰えると法典の棒暗記が始まる、と喝破したのはウナムーノであ る。今日では、イチジクに貪られるロバの原理にもとづいた幻想法典が存 在しているが、これは『マルドロールの歌』の中で至高の現実転換として 提起されているものである。

(Carpentier 1983: 14,

カルペンティエル

1992: 11

また、1975年に行った講演では、「シュルレアリストたちが技巧に基づいて 頻繁に生産したあれらすべてのもの」

(Carpentier 1990: 156)

と述べ、さらに、

1977年の講演では、「ブルトンは、驚異的なもの

(lo maravilloso)

を呼び起こ す装置の基礎として、『マルドロールの歌』という、全ヨーロッパのシュルレ アリスムの基礎である類い稀なる書物の驚嘆すべき作者、ロートレアモン伯爵 の今や古典となった言葉を採用した。すなわち、〈解剖台の上でのミシンと蝙 蝠傘の思いがけない出会いの美しさである〉」

(

Carpentier

1991: 211)

と述べた 後、

私は、あなたがたも御存じのように、長い間シュルレアリストとともに活 動し、彼らの遊戯や、思い付きなどすべてに参加しましたが、ある時期か らシュルレアリスムの詩人や画家たちが、定式を知った上でトリックを用 いて驚異的なものを製造しているということ

(conociendo la fórmula, trucaban la fabricación de lo maravilloso)

、この点については、『第二宣 言』以降ブルトン自身が認めていることですが、それに私は早くから気付 いていました。

(Carpentier 1991: 212)

と語っている。このように見てくると、カルペンティエルが批判しているの は、形式化し惰性態に陥ったシュルレアリスムの作為性であることは明らかで

(5)

ある。

したがって、カルペンティエルはシュルレアリスムを全面的に否定している わけではない。たとえば、1973年に行われた講演「シュルレアリスムについ て」では、「シュルレアリスムが今世紀の最も重要な文学・芸術運動であった と言う人がいたとしても、その人は間違ったことを言っているのではありませ ん。誰かが述べていたように、もしシュルレアリスムが存在しなかったとすれ ば、シュルレアリスムを作り出す必要があったでしょう」

(Carpentier 1991:

40)

とシュルレアリスムを高く評価し、次のように講演を締めくくっている。

もう一度繰り返しますが、あらゆる時代を通じて最も実り多い造形と詩と 文学の運動のひとつ、すなわちシュルレアリスムによって、フランス文学 は人間性を豊かなものにすることができたのだ、と言うことができます。

(Carpentier 1991: 42)

また、カルペンティエルは、「驚異はつねに美しい。どのような驚異でも美 しい。美しいものとしては、驚異のほかには存在しないとさえ言える」(ブル

トン

1975: 26

)と語るブルトンの「驚異の美」が、伝統的な美ではなく、「稀

な、珍しい、突飛な、途方もないもの/こと

(lo insólito)

」によって生み出さ れる美である点を評価し、自らの唱える「驚異的現実」との親近性を認めても いる

(Carpentier 1990: 186; 1991: 210)

だとすれば、シュルレアリスムと「驚異的現実」との違いはどこにあるの か。カルペンティエルのエッセイや講演録を読む限り、両者の違いは、シュル レアリスムの驚異が作為的に、人工的に生み出されているのとは異なり、ラテ ンアメリカの「驚異的現実」は、「稀な、珍しい、突飛な、途方もないもの/

こと

(lo insólito)

」が、「手を加えられていない生の状態

(estado bruto)

」、「自

然な状態

(estado natural)

」において、現実に見い出されるということである。

カルペンティエルは「バロック的なものと驚異的現実」と題された1975年の講 演で次のように語っている。

シュルレアリスムが驚異的なものを追求したことは認めるとしても、ほと んどの場合シュルレアリスムは現実の中に驚異的なものを見つけだそうと はしなかった、ということは言っておかなければなりません。確かにシュ ルレアリストたちはショーケースや俗っぽい看板、ポスターや写真や見本

(6)

市といったものが持つ詩的な力を初めて見い出したとは言うものの、ほと んどの場合、それは予め熟考された上で製造された驚異的なもの

(lo real maravilloso fabricado premeditadamente)

でありました。画家は画布の前 に立って次のように言うのです。「私は、驚異的な幻影を生み出すような 途方もない要素を用いて絵を描くことにしよう。」(中略)一方、私の擁護 する驚異的現実とは、私たちの驚異的現実

(lo real maravilloso nuestro

) であり、それは、すべてのラテンアメリカ的なもののなかに伏在し遍在し ているもので、生の状態で

(al estado bruto)

見い出されるものなのです。

ここでは、途方もないこと

(lo insólito)

が日常的であり、また常にそうで ありました。

(Carpentier 1990: 187)

カルペンティエルの言う「驚異的現実」とは、シュルレアリスムの技巧的・

作為的な性質をもつ驚異的なものとは異なり、手を加えられていない生の現実 の驚異的なものであるが、「驚異的現実」のこのような概念規定は、魔術的リ アリズム2と対照する際にも明確に示されている。カルペンティエルは、魔術 的リアリズムを、フランツ・ローが論文「魔術的リアリズム」で論じたポス ト・ドイツ表現主義の画家たちの作品にのみ適用されるべき概念だと考えてい るが

(Carpentier 1990: 185-186)

、「驚異的現実」との関係においては、次のよ うに述べている。

まさにマッカンダルの行為には、かつて私があるエッセイで「ラテンアメ リカの驚異的現実

(lo real maravilloso americano)

」と呼んだものすべて を見い出すことができる。すなわち、「現実的でありながら驚異的である 現実的なもの

(lo real que siendo real es maravilloso)

」が見出せる。この 概念をドイツの著述家フランツ・ローが定義した魔術的リアリズム

(el

realismo mágico)

、すなわち、予め魔術的な世界を作るという考えを抱い

た上で魔術的な世界を創造するように多くの画家を導いた、魔術的リアリ ズムと混同してはいけない。繰り返すが、決して混同してはいけない。驚 異的現実とは、マッカンダルの物語に見出せるような、生のままの状態に ある魔術的なもの

(lo mágico al estado bruto)

なのである。

(Carpentir 1991: 133)

また、「半世紀の道のり」と題した講演では、次のようにも言っている。

(7)

1943年に私は偶然ハイチを訪れ、そこでその魔術的世界の驚異に出会いま した。(中略)その世界にはシュルレアリスムの作家達が余りにも頻繁に 小手先の技巧によって作り上げていたものが生の現実として現前していま した。(中略)それ以来私から離れなくなったあるもの、私が「驚異的現 実」と呼んでいる、魔術的リアリズムともシュルレアリスムとも本質的に 違う何かを感じました。

(Carpentier 1990: 156-157)

カルペンティエルの言う「驚異的現実」とは、シュルレアリスムの驚異的な ものとも魔術的リアリズムの魔術的なものとも異なる、生の現実の驚異的なも の・魔術的なものである。しかし、このように規定された「驚異的現実」とい う概念は、矛盾を含んでいる。なぜなら、驚異的なものを感じ取るためにはヨ ーロッパ的な視点に立たざるを得ないが、ヨーロッパ的視点に立つと言うこと は、シュルレアリストと同様に外部から他者としてのラテンアメリカを見るこ とであり、だからと言って、土着的なラテンアメリカの視点から見れば、その 眼に映るのは驚異的なものではなく、日常的な生の現実に過ぎないからであ る。

しかし、この矛盾は、ヨーロッパ的視点かラテンアメリカ的視点かのいずれ か一方を採らなければならないと考える、二者択一的な思考によって生じるも のであり、両方の視点をオブジェクトレベルとして鳥瞰するようなメタレベル を想定するならば解消するものでもある。そして、事実、「驚異的現実」は二 つの視点を鳥瞰する超越的視点を前提とする概念である。

カルペンティエルは、1977年にベルギーで行った講演後の質疑応答で、以下 の質問を受け、次のように答えている。

(質問者):私は『この世の王国』の序文であなたがラテンアメリカの人間 として世界を旅された話を読みました。そこでは、あなたはヨーロッパ文 化と完全に同化されています。(中略)その後あなたは自分の国、ラテン アメリカに戻られて、ラテンアメリカの国々の現実に多かれ少なかれ驚か れます。ヨーロッパ文化とのこのような同一化は多少ともあなたの書かれ た作品の注解となりうるでしょうか。あなたはラテンアメリカの現実をど のようにお考えですか。と言いますのも、あなたはつねにヨーロッパ文化 との比較をなされていますし、その点がたとえばガルシア=マルケスの小 説の書き方との違いだと私は思うからです。

(8)

(カルペンティエル):私があなたに言いたいのは、閉じられた世界の文化 というものを私は信用できないということです。いまあなたはヨーロッパ 的なものについて私に話しましたが、ヨーロッパの大半の知識人の重大な 欠点は、彼らのヨーロッパ中心主義にあります。(中略)あなたは私の書 いた小説には「あちら」と「こちら」という表現がつねに目につくと言わ れました。しかし、それだけにはとどまらない、と私は言わねばなりませ ん。カッコ付きの「あちら

(allá)

」とカッコ付きの「こちら

(acá)

」をい つも使うということ、大西洋の一方の岸からもう一方の岸へと跳躍するこ と、それは、二重の配慮

(la doble preocupación)

を表現しているのです。

(Carpentier 1991: 224-225, 230)

カルペンティエルはここで「二重の配慮」と言うのであるが、そのような精 神的態度は、「あちら」と「こちら」を共に視野に収めるような審級を自らの 視点の置き所としてはじめて可能となるものである。なぜなら、ある時点にお いては「あちら」の視点から対象を捉え、別の時点においては「こちら」の視 点から対象を捉えることは可能であるが、認識主観が二つの視点から同時に対 象を捉えることは原理的に不可能であり、したがって、「あちら」と「こちら」

の差異を認識するためには、「あちら」と「こちら」の二項をオブジェクトレ ベルに送り込むメタレベル、大澤真幸の術語を借りれば、「第三者の審級」(大 澤

1994

)に立つ必要があるからである。

ヨーロッパにもラテンアメリカにも偏重しない「二重の配慮」とは、オブジ ェクトレベルに位置する「あちら」と「こちら」という二つの項を往還するこ とによって得られるものではなく、両者を鳥瞰するメタレベルに立つことによ ってのみ可能となる精神的態度であるが、それはまた、自らを相対化すること によってはじめて可能となる精神的態度でもある。柄谷行人は、フロイトの論 文「ヒューモア」を参照しつつ、ヒューモアとは、対象を突き放して見るがど こか愛情を持ってそうする態度であり、同時にオブジェクトレベルとメタレベ ルに立つ、「自己二重化」の能力であると述べているが(柄谷

1993: 120- 124

)、そのような精神的態度は、ある種の自己矛盾にとどまることである

(東

2002: 158

)。オブジェクトレベルに立ちながら、同時に超越的視点から俯

瞰することが不可能である以上、オブジェクトレベルにおいて「生の現実」を 生きながら、同時に、それをメタレベルから「驚異的なもの」として対象化す ることによってはじめて感取される「驚異的現実」は、明らかに矛盾を含んで

(9)

いる。カルペンティエルの「驚異的現実」という概念が含み持つ矛盾とは、ヨ ーロッパ的視点とラテンアメリカ的視点という二つの視点を同時に持つことは できないといったような矛盾ではなく、「二重の配慮」を可能にする「自己二 重化」が必然的にもたらす自己矛盾と考える必要がある。

2.2. 驚異的現実の形象

以上に述べたことを踏まえて、「驚異的現実」という概念とシュルレアリス ムに関するカルペンティエルの基本的な考えが、『失われた足跡』に登場する 二人の女性の人物造形にどのように反映しているか見ていきたい。『失われた 足跡』には、二人の女性が対照的な関係において描かれている。一人はムーシ

(Mouche)

であるが、このフランス語で蠅を意味する名で呼ばれている女性

は、次のような描写に見られるように、シュルレアリスムのカリカチュアとし て表象されている。

霊媒をかたく信じ、安っぽいシュルレアリスムで知的形成をなしていたム ーシュは、書物の鏡によって空をながめ、星座の美しい名前をもてあそぶ ことによって、利益をあげるだけでなく、そこに喜びも見出していたので ある。(

Carpentier 1985: 91-92,

カルペンティエル

1994: 36

ムーシュは夢中になって、シュルレアリスムや占星術や夢判断の領域に、

そ し て こ れ ら に ま つ わ る あ ら ゆ る こ と に の め り こ ん で い っ た 。

Carpentier 1985: 134-135,

カルペンティエル

1994: 95

このようなムーシュの描き方の意味するところは、前節で見たカルペンティ エルのシュルレアリスム観に照らし合わせて考えれば明らかである。ムーシュ は、カルペンティエルの批判した、形式化し惰性態に陥ったシュルレアリスム を明瞭に形象化している。

ムーシュがシュルレアリスムのカリカチュアとして形象化されているのに対 して、『失われた足跡』には「驚異的現実」の形象としてロサリオというもう 一人の女性が登場する。

深くて力強い、そして苛酷な自然は、わずか数日で彼女(ムーシュ─引 用者)の武装を解除し、疲弊させ、みにくくし、意気消沈させ、そしてい

(10)

まや、とどめを刺したのだ。わたしはその敗北がいかにも早く訪れたこと に驚いたが、それはまるで、本物のつくりものに対する典型的な復讐のよ うに思われた。ムーシュはこの環境にあってはおろかしい人物、大通りが 密林にとって代わっているような未来からひきだされた人物であった。彼 女はべつの時代に、べつの時間に属していたのだ。(

Carpentier 1985:

209-210,

カルペンティエル

1994: 210

ここに表現されている、力強い自然としての本物、すなわちラテンアメリカ の「驚異的現実」としてのロサリオに対する、脆弱なつくりもの、偽物として のムーシュは、まさにカルペンティエルの言う、小手先の作為的・虚偽的な技 巧に過ぎないシュルレアリスムを形象化した存在である。一方、ロサリオは、

「手を加えられていない生の状態

(estado bruto)

」、「自然な状態

(estado

natural)

」における「稀な、珍しい、突飛な、途方もないもの/こと

(lo

insólito)

」を形象化した存在として、すなわち「驚異的現実」の形象、こう言

ってよければ、生のシュルレアリスムの形象として描き出されている。

小説のなかで「あちら

(allá)

」と呼ばれている世界、すなわち欧米文化の形 象であるムーシュと、「こちら

(acá)

」と呼ばれている世界、すなわち「驚異的 現実」の形象であるロサリオとの対照、これほど分かりやすく、言葉を換えれ ば、単純な図式はないように見える。しかし、ここで留意しておかなければな らないのは、ロサリオが混血だという設定である。ロサリオは次のように描写 されている。

その女にいくつかの人種の血がまじっているのはあきらかだった。髪の毛 とほほ骨はインディオから、ひたいと鼻は地中海系人種から、(中略)そ の独特な腰の張りぐあいは黒人からうけついだものにちがいなかった。そ してたしかなことは、その生ける人種の混成もまた、彼女自身の人種を形 成していたということである。(

Carpentier 1985: 147,

カルペンティエル

1994: 112

そして、その後、ロサリオに見出せるこのような人種の混合について、「ここ で現実に起こったことは、(中略)血のつながりのある民族間での混合ではな く、(中略)たがいにこの地球上に共存していることを、何世紀ものあいだ知 らずにいた人種間での、大規模な混合だった」(

Carpentier 1985: 147-148,

(11)

ルペンティエル

1994: 113

)と叙述されている。

「驚異的現実」の形象として作中に描き出されているロサリオは、このよう に、異種混淆的な存在として表象されている。このことは、カルペンティエル の「驚異的現実」という概念が、人種的・民族的固有性を主張するネイティヴ ィズムやネグリチュードに見られる本質主義的な性質のものではなく、異種混 淆性、ハイブリッド性を内包に含み持つ概念であることを示している。カルペ ンティエルはアメリカ大陸の歴史が現実の驚異的なものの記録だと言うのであ るが

(Carpentier 1990: 117)

、「驚異的現実」という概念がハイブリッドな性質 を有するものである以上、カルペンティエルの言葉も、エドワード・サイード の言う「重なりあう領土、絡まりあう歴史」(サイード

1998

2001

)という 視点から発せられた言葉ととるべきであろう。事実、カルペンティエルは「バ ロック的なものと驚異的現実」の中で、ラテンアメリカのバロック性を指摘し て、

なぜラテンアメリカはバロックに選ばれた土地なのだろうか?なぜなら、

あらゆる共生

(simbiosis)

、あらゆる混血

(mestizaje)

は、バロック的傾向

(barroquismo)

を生み出すからである。ラテンアメリカのバロック的傾向

は、クレオール性

(criolledad)

によって、クレオール的感覚によって、ヨ ーロッパからやってきた白人の子供であろうと、アフリカの黒人の子供で あろうと、大陸で生まれたインディオの子供であろうと、誰であれラテン アメリカの人間が抱いている意識によって、別のものであるという意識に よって、新しいものであるという意識によって、共生しているという意識 によって、クレオール

(criollo)

であるという意識によって、増大するの である。

(Carpentier 1990: 182-183)

3

と述べた後、ラテンアメリカの人間を構成している様々な人種や民族を列挙 し、最後に、「それぞれに固有のバロック性をもたらしている現に存在してい るこのような要素によって、私が〈驚異的現実〉と呼んできたものと私たちは 直接に繋がっているのである』

(Carpentier 1990: 183)

と結んでいる。

カルペンティエルの「驚異的現実」という概念は、ハイブリッドな性質を有 しており、その意味では、「驚異的現実」という概念は二項対立を乗り越えて いるわけであるが、だからと言って、「驚異的現実」が含み持つ矛盾が解消さ れるわけではない。「驚異的現実」という概念が含み持つ矛盾とは、前節で指

(12)

摘したように、〈オブジェクトレベルにおいて「生の現実」を生きながらも、

それを「驚異的なもの」として対象化しなければならない〉という矛盾であ る。「驚異的現実」が含み持つ矛盾が、ラテンアメリカ的視点とヨーロッパ的 視点を同時に持つことはできないといったような、オブジェクトレベルに位置 する二つの項のある時点における両立不可能性であるのならば、「驚異的現実」

を混血性・異種混淆性を内包する概念とすることによって矛盾は解消されるで あろう。しかし、「驚異的現実」という概念が含み持つ矛盾とはそのようなも のではなく、同時にメタレベルとオブジェクトレベルに立とうとする「自己二 重化」によってもたらされる自己矛盾である以上、決して解消されることはな い。「生の現実」を生きる者には自らの混血性・クレオール性を認識すること はできない。自らの混血性・クレオール性を認識するためには、自らをオブジ ェクトレベルに送り込み、メタレベルから鳥瞰する超越的視点が要請される。

「驚異的現実」という概念は、その性質上、メタレベルに位置する超越的視点 を前提とせざるを得ないのである。

また、「驚異的現実」を形象化しているロサリオの存在がいかにハイブリッ ドなものであろうと、『失われた足跡』という物語世界において、ロサリオは あくまでもムーシュと対比される存在であり、そのような対比は、「あちら」

と「こちら」を鳥瞰するメタレベルを前提としている。

前節において我々は、ヨーロッパにもラテンアメリカにも偏重しない「二重 の配慮」とは、自己を二重化することによって可能となる精神的態度でもある ことを指摘した。「驚異的現実」とは、「あちら」と「こちら」を鳥瞰する超越 的視点を前提とする概念であると同時に、オブジェクトレベルに立ちながら も、同時にメタレベルから自らを鳥瞰することによって感取されるものであ る。そして、このことは、ロサリオという存在がいかに混血性・クレオール性 を特徴としていようと変わらない。『失われた足跡』に見られる二項対立の乗 り越えの試みは、対立する二項とそれをメタレベルから鳥瞰する超越的視点を 前提としている4)

3. 『石蹴り遊び』:超現実の形象5)

それでは、対立する二項とそれをメタレベルから鳥瞰する超越的視点を前提 としないような二項対立の乗り越えは可能なのだろうか。われわれは、その一 つの試みとして『石蹴り遊び』を取り上げることができる。ジャック・ヴァシ ェのブルトン宛の手紙の一節がエピグラフに引かれている『石蹴り遊び』は、

(13)

パリの街を彷徨い歩くオリベイラが

“¿Encontraría a la Maga?”

(「ラ・マーガ は見つかるだろうか?」)と呟くところから始まる。ラ・マーガとは、オリベ イラが自らの二面性を克服するためにはどうしても発見しなければならない、

もう一人の「私」である。オリベイラの追い求めるラ・マーガ、すなわち「他 の私」は、「石蹴りの天

(cielo)

」、「欲望のキブツ

(kibbutz del deseo)

」あるい

は「中心

(centro)

」を表象している。主人公オリベイラが探し求めたのは、秩

序と無秩序、正気と狂気、理性とリビドー、覚醒と夢といった二項対立の消え る場所であり、そこをオリベイラは「石蹴りの天」、「欲望のキブツ」あるいは

「中心」と呼んでいるのであるが、そのような場所とはまさにブルトンがシュ ルレアリスムの目指すところとして『第二宣言』で語っている「生と死、現実 的なものと想像上のもの、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、

高いものと低いものが、そこからはもはや矛盾したものとは感じられなくなる ような精神の一点」(ブルトン

1975: 90

)、すなわち「至高の一点」あるいは

「超現実」と呼ばれている場所と同じ場所である。

ラ・マーガに形象化されている、オリベイラが探し求めた「石蹴りの天」、

「欲望のキブツ」あるいは「中心」とは、二元論的な思考の彼方であり、それ は、対立物の止揚という意味では二項対立を前提とせざるを得ない弁証法によ っては捉えられない場所である。『石蹴り遊び』の中で弁証法は次のような形 で批判されている。

ひとりオリベイラだけは、かれらが弁証法的に探究していたあの無時間の 雄大な大地に、ラ・マーガがいつでも姿を現わすことを知っていた。

Cortázar 1994a: 150,

コルタサル

1984: 30

知ってのとおりパリは中心であり、弁証法抜きで歩きまわらなければなら ないマンダラであり、実用的な公式などなんの役にも立たずに踏み迷って しまう迷路なのだ。(

Cortázar 1994a: 595,

コルタサル

1984: 373

『石蹴り遊び』のなかで弁証法的思考として批判されているのは、一種の二 元論的思考である。そしてまた言語的思考も、言葉の意味を独立自存する実体 ではなく、他の言葉との関係の網の目のなかで、二項対立的に、ネガティブに 決定される価値であるとする考え方に立てば6、二元論的思考の一つである。

『石蹴り遊び』の作品世界において、弁証法的思考、言語的思考、二元論的思 考、論理的思考は同じ一つのものであり、それに対置されるのはアナロジーに

(14)

よる思考である。シュルレアリストの用いる言葉には「言葉の魔術

(magia verbal)

」あるいは「アナロジーの力

(potencia de la analogía)

」があると考え るコルタサルは

(Cortázar 1994b: 111)

、1954年に発表された「詩のために」

という詩論の中でアナロジーによる同一化について次のように言っている。

魔術的・詩的思考(あるいはむしろ魔術的・詩的感覚)は、論理的思考に 対して、

A

B

の可能性をもって異義を唱える。未開人と詩人は、基本的 に、アナロジーによるあらゆる繋がり、ある種の出来事を関連づけるあら ゆるイメージを十全なものとして(「真なるものとして」と言えば事実を 捩じ曲げることになるであろう)受け入れる。両者は、それ自体に自らの 有効性の証拠を含んでいるそのような「見方」を受け入れる。絶対的なイ メージ、すなわち、「

A

B

(あるいは

C

、あるいは

B

C

)である」を 受け入れる。同一性の原理を粉々にするような同一化を受け入れる。

(Cortázar 1994c: 271)

コルタサルにとって魔術的・詩的思考とはアナロジー的思考である。アナロ ジーによる思考を考察する際、コルタサルはレヴィ=ブリュルの『未開社会の 思惟』を参照している。レヴィ=ブリュルは、『未開社会の思惟』のなかで、

未開人の心性は前論理的であると主張し、その理由を未開人の心性が矛盾律

A

は非

A

ではない)や同一律(

A

A

である)に支配されず、主体と客体 との差異が融合することを許す神秘的な融即の法則に基づくからであるとして いる(レヴィ=ブリュル

1953;

今村

1988: 790-791

)。ここで注意しておかな ければならないのは、レヴィ=ブリュルは、『未開社会の思惟』で未開人の心 性を文明(西欧)社会の思考と対比させているが、後には、文明と未開を問わ ず二つの心性が存在することを認めたように、コルタサルも、未開人の心性を 未開と文明という対立図式では捉えてはいないということである。コルタサル はあくまでも詩人のアナロジー的思考を説明するためにレヴィ=ブリュルの著 作を援用している。コルタサルは次のように言う。

詩人は未開人ではないが、原始的な形式を認知し尊重する人間である。そ の形式とは、よく見定めるならば、むしろ第一義的な形式と呼ぶべきもの で、それは理性が覇権を奪う以前の形式、そして理性が覇権を握って以降 は理性の尊大な帝国の下に隠れている形式である。

(Cortázar 1994c: 277)

(15)

コルタサルが詩人のアナロジー的な思考形式の本質として挙げているのは、

あらゆる二元性の非在である。アナロジー的思考は、矛盾律・同一律の禁を犯 して、主体を同時に彼自身であり他者である存在として捉える。コルタサル は、「すずめが私の窓辺に来たなら、私はすずめと一体化し、砂粒をくちばし でつつく」

(Cortázar 1994c: 278)

というキーツの詩を引用し、詩人とは他者 になることを希求する存在であり、「存在論的交換の創造者である詩人は、同 一 性 の 原 理 の 魔 術 的 形 式 を 遂 行 し 、 他 の 存 在 に な ら な け れ ば な ら な い 」

(Cortázar 1994c: 278)

と言う。『石蹴り遊び』のラ・マーガ(女魔術師)は、

まさに、主体と客体との差異が融合することを許す神秘的な融即の法則に基づ いた、アナノロジー的思考(魔術的思考)の持ち主である7

見なくとも信じることのできる彼女、生の連続と一体をなしている彼女は 幸福だ。部屋の中にいながら、その手に触れ、ともに暮らしているすべて のものに市民権を与えてきた彼女は幸福だ。川を下る魚に、木の葉に、空 の雲に、詩のイメージに。(

Cortázar 1994a: 144,

コルタサル

1984: 26

ラ・マーガが形象化している「石蹴りの天」、「欲望のキブツ」、「中心」と は、シュルレアリスムが獲得しようとした「矛盾したものが矛盾しなくなる至 高の一点」、すなわち「超現実」である。そしてそこは、既成の認識形式(言 語的な思考)では認識できない場所、既成の言語形式では表出できない場所で ある。コルタサルは、そのような場所を、論理的思考ではなくアナロジーによ る思考によって到達可能となるであろう場所だ、と言うのであるが、それはブ ルトンが1948年に発表した詩論「上昇記号」の中で詩的=神秘的アナロジーを めぐって語っていたことでもある8

コルタサルは「シュルレアリスムと実存主義の位置づけのために」という副 題が添えられた『トンネルの理論』

(Teoría del túnel, 1947)

のなかで、ア・プ リオリに与えられている認識形式を言語もろとも破壊し、言語形式を新たに創 り変えることで、制限された言語形式の「向こう側」に行けるだろう、と言っ ている9。制限された言語形式の「向こう側」とは、『石蹴り遊び』のオリベ イラが探し求めた「石蹴りの天」、「欲望のキブツ」あるいは「中心」であり、

したがってそこは、弁証法的思考、言語的思考、二元論的思考、論理的思考の

「彼方」でもある。とは言え、そのような場所は、この現実の外にあるわけで はない。カントの言う先験的形式によって構成されている現象界(現実)もオ

(16)

リベイラが目指す「向こう側」(超現実)もここ(われわれの内部)にすでに 在る、とモレリの言葉を借りる形でコルタサルは言っている。

もしわれわれがこのままカント的範疇を拠としつづけるならば、われわれ はこの泥濘から這い出せなくなる、とモレリは言いたいらしい。われわれ が現実と呼んでいるもの、われわれが「彼方」と呼んでいる真の現実(中 略 ) そ れ は な に か す で に こ こ に 、 わ れ わ れ の 内 部 に あ る も の だ 。

Cortázar 1994a: 618,

コルタサル

1984: 389-390

ま た 、『 ト ン ネ ル の 理 論 』 で は 、 シ ュ ル レ ア リ ス ム を 魔 術 的 人 間 主 義

(humanismo mágico)

と呼んで、次のように言っている。

シュルレアリストも実存主義者もともに詩的人間であり、どこに、どのよ うな形で、という点では違いがあるとしても、両者は苦い誇りを抱いて、

楽園はこの地上に在ると断言する。そして、英雄が駿馬に乗って逃走する ことを拒むように、超越的な約束を拒むのである。

(Cortázar 1994b: 137)

このように見てくると、コルタサルにとって、シュルレアリスムとは、認識 批判であり、その意味では、ヨーロッパとかラテンアメリカといった特殊性に は関与しない。むしろ、シュルレアリスムは魔術的人間主義として普遍性ある いは一般性をもっている。また、外部と内部といった対立を超えている。ここ で想起すべきは、ブルトンの『シュルレアリスムと絵画』の中の次の一節であ ろう。

私の愛するすべてのもの、私の考え感じるすべてのものが、或る内在性の 特殊な哲学に私を導く。それに従えば、超現実は現実そのものの中に含み こまれ、現実そのものよりも優位に立つわけでも、その外にあるわけでも ないだろう。しかもそれは相互的にそうであろう。なぜなら含みこむもの は同時に含みこまれるものだろうからである。問題となるのは、ほとん ど、含むものと含まれるものとの間の通底器であるだろう。(ブルトン

1997: 68

ここでブルトンが言及している不思議な場(トポス)を、松浦寿輝は、「包

(17)

むものと包まれるものとが絶えず互いの機能を取り換えあっているというかた ちで描写されるこの捩じれたトポスは、一種〈クラインの壷〉にも似た内部も 外部もない、というか内部が同時に外部であり外部が同時に内部であるような 奇妙な空間イメージとして表象されているのである」(松浦

1997: 71

)と巧み に解釈している。この奇妙な空間、この「捩じれたトポス」こそが、二項対立 の消える場所、自動記述の実践によってブルトンが現前しようと試みた「超現 実」である。

ラ・マーガが形象化しているものを、「アナロジー的思考」と呼ぼうが、「魔 術的・詩的思考」と呼ぼうが、さらには「超現実」と呼ぼうが「捩じれたトポ ス」と呼ぼうが、いずれにしても、それは、二元論の彼方にある、おそらくは 言語によっては表象され得ないであろう、非言語的ユートピアである。

4. おわりに

『失われた足跡』の作品世界には、「あちら」と「こちら」という二つのオブ ジェクトレベルを鳥瞰する超越的視点が存在する。それは、ムーシュとロサリ オを、シュルレアリスムと驚異的現実を、ヨーロッパとアメリカを均質空間に おいて並置することのできる視点、両者から等距離に位置する視点、すなわち 両者から無限遠の距離を隔てた消失点に位置する視点である。そのような視点 から、「あちら」と「こちら」が対比される。ロサリオの異種混淆性を認識で きるのは、超越的な視点からだけである。『失われた足跡』の作品世界は、オ ブジェクトレベルとメタレベルから成る階層秩序に基づいている。

一方、『石蹴り遊び』の世界には、超越的視点は存在しない。ラ・マーガに 形象化されている「向こう側」は、ここ(われわれの内部)に在る。魔術的感 覚の持ち主であるラ・マーガは、二元論の彼方に在る存在であり、内部と外部 の区別を持たない。ロサリオがムーシュに形象化されているヨーロッパ的なも のとの関係において描き出されているのに対して、ラ・マーガは、何ものにも 対比されない存在である。なぜなら、その存在自体が、主体と客体、内と外、

「こちら」と「あちら」といった二元論の彼方に在る「石蹴りの天」であり、

相対化を許さない絶対的な「至高の一点」、「超現実」として表象されているか らである。

以上述べてきたように、『石蹴り遊び』と『失われた足跡』に見られる作中 人物の造形には大きな違いがある。その違いは、作中人物に形象化されている 概念の違いを反映しており、延いては二項対立の乗り越えの試みの違いに現れ

(18)

ている。『失われた足跡』に見られる二項対立の乗り越えの試みが、二項対立 に基づくものであるとすれば、『石蹴り遊び』に見られるのは二項対立を無効 化しようとする試みであると言える。そして、ラ・マーガに形象化されている のが非言語的ユートピアであるとすれば、『失われた足跡』は、言語の内にお ける二項対立の乗り越えの試みの限界を示しているとも言える。

1) 厳密に言うと、「アメリカの驚異的現実について」では『この世の王国』の序文に 十数行加筆されているが、この加筆に内容的な関与性はない。

2) 周知のように「魔術的リアリズム」という術語は、ドイツの1910年代の絵画に見ら れる表現主義以降の新しいリアリズムを、美術史家フランツ・ローが「魔術的リア

リズム(Magischer Realismus)」と呼んだのが始まりである。ローの「表現主義以

降、魔術的リアリズム」(1925年)のスペイン語の抄訳は既に1927年には、オルテ ガ・イ・ガセットが主宰する雑誌Revista de Occidenteに掲載されている。また、

この術語をウスラル=ピエトリがラテンアメリカの文学作品に適用するのが1948 年で(cf. Seymour Menton 1998: p. 222)、この年、カルペンティエールは“Lo real maravilloso” と題されたエッセイを新聞に掲載し、それが1949年に出版され た『この世の王国』の序文として再録されることになる。

3)カルペンティエルが、“criolledad” あるいは“criollo” という概念を混血性・異種混 淆性を内包に持つ概念として用いていることは引用文の文脈からも推測できるが、

講演「半世紀の道のり」も併せて参照されたい(cf. Carpentier 1990: 157)。 4) このようなジレンマは、ポリフォニー小説が抱える問題を想起させる。バフチンに

よれば、言葉はすべてイデオロギー性を担っており、そのような性格をもつ複数の 言葉が、対位法を用いて、対話的関係に置かれている小説がポリフォニー小説であ る(バフチン1979; 1988参照)。しかし、複数の言葉(=イデオロギー)を等価に 並置し、相対化するためには、複数の言葉を並置する超越的視点を常にメタレベル に想定せざるを得ない。

5) この節で述べていることは、拙論「『石蹴り遊び』:メタレベルの非在をめぐって」

(HISPÁNICA 50, 2006) の一部と重なっているが、本稿の目的が『失われた足跡』

に見られる二項対立の乗り越えの特徴を『石蹴り遊び』におけるそれとの対比にお いて浮き彫りにすることなので、既出論文との重複を諒とされたい。

6) たとえばソシュール言語学の観点からすれば言葉の意味はここに述べたような性 格をもつことになる。丸山圭三郎『ソシュールの思想』参照。

7) コルタサルはまた、詩もその起源においては魔術であり、詩人とは魔術師(mago) であると言っている(cf. Cortázar1994c: 279)。そこから、ラ・マーガ(La Maga) と女魔術師(maga) と詩人(poeta) との類縁性、さらには、シュルレアリスムとの

(19)

関係性を指摘することができる。

8)「今日では絶たれてしまった原初的接触を束の間でも回復しうるのは、『アナロジ ーという発条』だけだとブルトンは言う。」(松浦1997: 73

9) コルタサルは『トンネルの理論』のなかで、次のように述べている。「我々の作家 は表現された現象の後ろに隠されている、状況の物自体のようなものがあるのでは ないかと考える。彼は、ア・プリオリに与えられている形式の体系が言語の内に働 いており、その体系が本来の状況を制約し、状況から本来性を奪っているのを確認 する。カント主義が人間の認識形式として措定したものを、我々の作家は、希望を 抱いて、言語体系に適用する。すなわち、希望を抱いて、限界を超えることができ ると考える。」(Cortázar 1994: 65–66)

参考文献

東浩紀.2002.『郵便的不安たち♯』,朝日新聞社.

今村仁司編.1988.『現代思想を読む辞典』,講談社.

巌谷國士.1977.『ナジャ論』,白水社.

大澤真幸.1994.『意味と他者性』,勁草書房.

柄谷行人.1993.『ヒューモアとしての唯物論』,筑摩書房.

カルペンティエル,アレッホ.1994.『失われた足跡』牛島信明訳,集英社.

–.1992.『この世の王国』木村栄一・平田渡訳,水声社.

クリフォード,ジェイムズ.2003.『文化の窮状』太田好信訳,人文書院.

コルタサル,フリオ.1984.『石蹴り遊び』土岐恒二訳,集英社.

サイード,W.エドワード.2001.『文化と帝国主義2』大橋洋一訳,みすず書房.

千葉文夫.1998.『ファントマ幻想』,青土社.

ナドー,モーリス,1995.『シュールレアリスムの歴史』稲田三吉・大沢寛三訳,思潮 社.

バフチン,ミハイル.1979.『小説の言葉』伊東一郎訳,新時代社.

–.1988.『ドストエフスキイ論』新谷敬三郎.冬樹社.

ブルトン,アンドレ.1992.『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』巌谷國士訳.岩波書 店.

–.1989.『ナジャ』巌谷國士訳,白水社.

–.1975.『シュールレアリスム宣言』森本和夫訳,現代思潮社.

–.1997.『シュルレアリスムと絵画』粟津則雄,他訳,人文書院.

松浦寿輝.1997.『謎・死・閾─フランス文学論集成』, 筑摩書房.

丸山圭三郎.1981.『ソシュールの思想』,岩波書店.

レヴィ=ブリュル,リュシアン.1953.『未開社会の思惟』(上・下)山田吉彦訳,岩波 書店.

(20)

Carpentier, Alejo. 1983. Obras Completas (México: Siglo Veintiuno Editores).

–: 1985. Los pasos perdidos, Edición de Roberto González Echevarría (Madrid:

Ediciones Cátedra).

–: 1986. Obras Completas 9(México: Siglo Veintiuno Editores).

–: 1990. Obras Completas 13(México: Siglo Veintiuno Editores).

–: 1991. Obras Completas 14(México: Siglo Veintiuno Editores).

Cortázar, Julio. 1994 a. Rayuela, Edición de Andrés Amorós (Madrid: Ediciones Cátedra).

–: 1994 b.Obra crítica/1(Madrid: Alfaguara).

–: 1994 c. Obra crítica/2(Madrid: Alfaguara).

Flores, Angel. 1955. “Magical Realism in Spanish American Fiction”, Hispania, vol.

XXXVIII, pp. 187–192.

Langowski, Gerald J. 1982. El surrealismo en la ficción hispanoamericana (Madrid:

Editorial Gredos).

Menton, Seymour. 1998. Historia verdadera del realismo mágico(México: Fondo de Cultura Económica).

Montes-Bradley, Eduardo. 2004. Cortázar sin barba(Buenos Aires: Editorial Sudamericana).

Oviedo, José Miguel. 2001. Historia de la literatura hispanoamericana 4 (Madrid:

Alianza Editorial).

Roh, Franz. 1927. “Realismo mágico”, Revista de Occidente, núm. 16, pp. 274–301.

(21)

En la primera parte del estudio se analizaLos pasos perdidos. Carpentier, quien de joven participó en el surrealismo, lo criticó con mucha dureza en el prefacio de El reino de este mundo(1949) y presentó un nuevo concepto: “lo real maravilloso”.

Carpentier dice que “lo real maravilloso americano” es, en contra de lo maravilloso fabricado artificial y premeditadamente por los surrealistas, lo que “acá” se puede encontrar en estado bruto y natural. En Los pasos perdidos Mouche representa y simboliza el surrealismo y Rosario lo real maravilloso. Rosario está descrita como una persona híbrida y según Carpentier “lo real maravilloso” es un concepto que tiene un carácter híbrido. De esta manera la dualidad de “acá” y “allá” parece desaparecer en Rosario, en “lo real maravilloso”. Sin embargo para reconocer el carácter híbrido de

“lo real maravilloso” tenemos que verlo desde el punto de vista de un pájaro, es decir, tenemos que ponernos en el meta-nivel, por lo cual inevitablemente se queda la dualidad de “acá” y “allá” en el nivel-objeto.

En la segunda parte del estudio se analiza Rayuela. El tema principal de Rayuela es la búsqueda de la Maga, que es el otro yo de Oliveira. Para hacerse íntegro y llegar a un universo que esté fuera del alcance de la dialéctica, Oliveira quiere encontrar a la Maga, que representa y simboliza “el cielo de Rayuela”, “el centro” o “el kibbutz del deseo”. Para Oliveira la dialéctica, el pensamiento lógico y la dicotomía son sinónimos y hay que destruirlos para construir otra manera de pensar, otra manera de vivir. El lugar al que esa otra manera de pensar nos lleva es “el cielo de Rayuela” o “lo surreal”

encarnado en la Maga: el lugar donde desaparece el dualismo. Y ese lugar, según Cortázar, no está “allá” sino “acá”.

La conclusión es lo siguiente: en Los pasos perdidospodemos encontrar el intento de superar la dualidad de “acá” y “allá”, basado en el dualismo; el intento de Rayuela es hacer radicalmente nulo el dualismo, fundiéndolo.

<Resumen>

Un intento de superar el dualismo en Los pasos perdidos

––––en comparación con Rayuela––––

Naoshi IJIRI

参照

関連したドキュメント

人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒

※「TAIS 企業コード」欄は入力不要です。但し、過去に TAIS 登録していたものの、現在は登録を削除している場

 第1報Dでは,環境汚染の場合に食品中にみられる

すなわち、独立当事者間取引に比肩すると評価される場合には、第三者機関の

BC107 は、電源を入れて自動的に GPS 信号を受信します。GPS

限られた空間の中に日本人の自然観を凝縮したこの庭では、池を回遊する園路の随所で自然 の造形美に出会

・ 化学設備等の改造等の作業にお ける設備の分解又は設備の内部 への立入りを関係請負人に行わせ

い︑商人たる顧客の営業範囲に属する取引によるものについては︑それが利息の損失に限定されることになった︒商人たる顧客は