• 検索結果がありません。

ーその歴史をめぐる断章ー

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "ーその歴史をめぐる断章ー "

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

71

佐藤大雅:東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程

『スラヴ文化研究』Vol.18 (2020) pp.71-89

アゼルバイジャンにおけるジャズ

1

ーその歴史をめぐる断章ー

佐藤大雅

《要旨》

本論文は、アゼルバイジャンにおけるジャズの歴史を素描することを目的として いる。ソ連時代より、アゼルバイジャンは豊穣なジャズ文化を有してきたにもかか わらず、十分に研究されているとは言えない。ひとまず1927年に求められるその 起源から現在に至るまでの歴史は、それまで形成されてきたソヴィエト・ジャズ=

ロシア・ジャズの歴史という言説の風土からは一線を画している。

1960年代におけるピアニスト、ヴァギフ・ムスタファザデによる「ジャズ・ムガ ム」というジャンルの創出は、ソヴィエト・ジャズ=ロシア・ジャズからの独立の 象徴とも言えるだろう。その後も、ラフィク・ババーエフや、ヴァギフの娘である アジザ・ムスタファザデ、現代を代表するピアニストのシャイン・ノヴラスリや、

イスファル・サラブスキに至るまで、その音楽的血統が受け継がれてきている。過 小評価されてきたその歴史を辿りながら、本邦における研究の嚆矢として、基礎研 究たりうることを目指す。

《キーワード》

アゼルバイジャン、ジャズ、ヴァギフ・ムスタファザデ、ソヴィエト・ジャズ

アゼルバイジャンの首都バクーは、ソヴィエト時代から「ジャズのメッカ」2 として知 られていた。現在に至るまで「アゼルバイジャンにおけるジャズ」が世界のジャズの一角 を担っているということは、ヴァギフ・ムスタファザデや、アジザ・ムスタファザデなど といった世界的に著名なアーティストを多数生み出していることからも明らかであり、そ の歴史を知ることはソヴィエト・ジャズ史―無論、「ロシア・ジャズ」に対するカウンターパ ート―を補完するという意味においても不可欠である。しかし、にもかかわらず、アゼル

1 「アゼルバイジャンにおけるジャズ」と「アゼルバイジャン・ジャズ」は用語として区別される。

本論では言及しないが、「アゼルバイジャンにおけるジャズ」の方がより語用論的にニュートラルで あり、かつ意味的な範囲の広い語として捉えられる。ただし、2010年以前の文献では区別していな いものも多い。

2「バクーは依然として『ジャズのメッカ Jazz Mecca』として言及されている。」(Strzemżalska 2018:

30)

(2)

バイジャンにおけるジャズは、モスクワやペテルブルクを震源地とするロシア・ジャズと 較べ、その研究はごく慎ましい数にとどまっている。

そこで本論文は、その歴史を概観することで、本邦で研究が存在しないアゼルバイジャ ンにおけるジャズの全容を、短い紙面の中で出来る限り丁寧にたどることを目的とする。

また、本邦における嚆矢として、その基礎研究たりうるものとなることを目指す。

なお、本論文の記述は、アゼルバイジャン共和国で出版されたジャズの通史 [Farhadov (2014); Sultanov (2015)]、ソ連及び旧ソ連圏のジャズの通史 [Баташев (1972); Starr (1994);

鈴木(2006)]、ヴァギフ・ムスタファザデとラフィク・ババーエフの評伝 [Фархадов (1986);

Бабаева, Фархадов (2010)]、アゼルバイジャンの音楽に関する総括的な論文 [Huseynova

(2016)] を、また、「7. ポスト・ラフィクの時代から、現在へ」に関しては、[Strzemżalska

(2018)] を大いに参照した。これらを該当箇所ごとに毎回典拠として示すことはしていな

いが、上記以外の文献を参照した場合と、史実の資料間の相違などといった、特に出典元 を明示する必要がある場合に限り、適宜注を付す。

1. アゼルバイジャンから、ジャズのはじまりにむかって

1922年、タガンログ出身の詩人がパリから大荷物を抱えてモスクワに帰ってきた。詩人 は十月革命の騒乱のさなか、ソルボンヌに学ぶことを口実にロシアを脱出した。遊学中の 詩人は、パリでジャズに魅せられる。モスクワでジャズを演奏できないかと考えた詩人は、

なんとジャズ・バンドを組むのに必要な楽器一式―バンジョー、サックス、ミュート、ド ラム・セット―という大荷物を携えてロシアに凱旋してきたのだ。

詩人の名はヴァレンチン・パルナフ Валентин Парнах (1891-1951) 。3 パルナフは当初の 目論見通り、ジャズ・バンドを結成した。1922年10月1日、パルナフのバンドは、モス クワの国立舞台芸術大学 Государственный институт театрального искусства の大ホールで 初舞台を踏んだ…。

一般的にソヴィエト連邦におけるジャズの歴史は、パルナフ率いるバンドの初公演、す なわち1922年10月1日から始まるというのがクリシェとなっている。4 しかし、それが 有効なのは、常に「ソヴィエト・ロシアにおいては」という但し書きのもとにおいてのみで ある。同じソヴィエト連邦とはいえ、「ソヴィエト・アゼルバイジャン」には違う歴史があ ったのだし、本論は「アゼルバイジャンにおけるジャズ」が主題となるのだから、なおさ

3 ヴァレンチン・パルナフはタガンログ出身で、1913年よりパリ在住。1922年出版の『もの Вещь』

誌上にて「ジャズ・バンド Джаз-банд」という記事を発表し、ロシア語で初めて「ジャズ джаз」と いう単語を用いた。

4 「1922年10月1日、国立舞台芸術大学の大ホールでソヴィエト初のジャズ・オーケストラの初公

演が行われた。この日はソヴィエト・ジャズの誕生日だとみなすことができるだろう。」(Баташев 1972: 10)

(3)

ら「ソヴィエト・ロシア」におけるジャズの起源を、「アゼルバイジャンにおけるジャズ」

の起源と同一視するわけにはいくまい。

では、一体、アゼルバイジャンにおけるジャズの起源はどこにあるのだろうか。

とはいえ、アゼルバイジャンにおけるジャズの歴史においては、その起源を、パルナフ の帰還や初公演のような明確な出来事と関連づけて示すことは難しい。アゼルバイジャン におけるジャズは、モスクワやペテルブルクのそれとは異なり、黒人音楽と地続きで発展 したと考えられるからである。

パルナフの帰還と同年の1922年6月20日、5 アゼルバイジャンの首都バクーにあるシャ・

サヴァージュ Chat Savage / Дикая кошка 劇場6で「ブラック・ベティー Black Betty /

Чёрная Бетси」7 が演奏されたという記録が残っている。まさに、1922 年のバクーは黒人

音楽ブームを迎えていたのである。8 また、例えば1922年12月27日付の『バクーの労働 者』«Бакинский рабочий» 紙には、サティール・アギト Сатир-Агит 劇場での「現代舞踊 サロン」の広告が掲載されており、現代ダンスに付随した形で、フォクストロットやワン ステップ、ツーステップなどといった、いわゆる非伝統的なダンス・ミュージックが隆盛 を見せていたことも伺えるようになる。一般的にソ連においてはジャズとダンス・ミュー ジックの親和性が高く、9 現代ダンスの流行はジャズの歴史にとって重要な事実と言える だろう。

1927年 7月には、黒人歌手10 コレッティ・アルレ・ティッツ Coretti Arle-Titz (1881-

5 Sultanov (2015) のほか、同著者による「アゼルバイジャンのジャズ史 The Jazz History of Azerbaijan」

[https://www.bakujazzfestival.com/baku-jazz-history-] があるが、彼はすべての文献で 7月としている。

6 本論文で参考とした資料はどの資料も共通して「Chat SAVAGE」としているが、フランス語に由来 すると思われるこの劇場の名前は、ロシア語訳の「Дикая кошка」からも推測できるように、正しく フランス語で綴ればChat Sauvage になるはずである。本来の綴りに従い、日本語で原語に近く表記 するとなれば「シャ・ソヴァージュ」とすべきところである。この部分に関しては二次資料に従い、

あえて訂正することはしていない。また、ここでは「Chat Savage」と表記した際、フランス語の発 音規範からおおよそ想定されうる「シャ・サヴァージュ」とした。

7 「ブラック・ベティー」は、アメリカの黒人労働歌であり、様々な録音が存在する。

8 「1922年は、明らかに、全般的にバクーにとって『ブラック・ミュージック』―すなわち、黒人 的なメロディー、リズム、歌、踊り―の時代となった」。(Бабаева, Фархадов 2010: 61)

9「ロシアでは1914年にタンゴ・ブームが起きて以来、ダンス音楽の定番となっていた。1920年代 にはパルナフや多くのダンス・マニアがソ連中にワンステップ、ツーステップ、フォクストロット を流行させていった。[…][人々は]ロマンス、ワルツ、タンゴ、ディキシー、さまざまなリズム で熱狂的なダンスをした。」(鈴木 2006: 15)

10 Starr (1994: 353) によれば、コレッティ・アルレは西インド出身で、エンジニアの父と共にロシア

に移住し、第1次世界大戦の前に伴奏者のティッツ氏と結婚したことによって、モスクワにジャズ マンが来訪した際にシンガーとして活躍するようになった、とある。一方、Sultanov (2015: 16-17) で は、「アフロ・メキシカン」のルーツを持つロシア人とされている。また、他の資料ではアメリカ出 身としているものも見つかった。今回は彼女の経歴について論じることは避け、諸説存在するとい うことで留めておきたい。

(4)

1951)11 が、ディキシーランドのジャズ・プレイヤーであるマイケル・ロルニック Michael Rolnick Михаил Рольник(生没年不明)とバクーでコンサートをし、成功を収めている。

ごく曖昧に変化しつつ「黒人音楽」から「ジャズ」へと継起していくその発展の過程12に おいて、強いて線引きをするならば、アゼルバイジャンにおけるジャズの起源の端緒はこ こに見出される。13 マイケル・ロルニックはそのままバクーに残り、1929年にはジャズ・

オーケストラを結成し、「インツーリスト」や「オールド・ヨーロッパ」などといったホ テルで演奏している。アゼルバイジャンにとって、初の14ジャズ・オーケストラ結成であ った。15 コレッティ・アルレ・ティッツはソヴィエトの都市をツアーしており、おそらく モスクワやその他の都市で彼女の歌声を聴いた人もいただろうから、バクーにおけるジャ

11 コレッティ・アルレ・ティッツは、シドニー・ベシェ Sidney Bechet、フランク・ウィッタース Frank

Withers のジャズ・バンドで歌手をしていたことが知られている。

12 Sultanov (2015: 18) では、「[バクーでの彼女のコンサートに関して、]それはアフリカン・ミュー

ジックではあったが、ジャズではなかった」としている。一方、Farhadov (2014: 5) では、バクーが 初めて「ジャズのライブ・パフォーマー」と出会ったのは1920年代のコレッティ・アルレ・ティッ ツのコンサートであるとする。これは記録と年代を総合して考慮しても、Sultanov (2015) と

Farhadov (2014) は同一のコンサートを指していると考えられる。録音が残っていないことからも推

論の範囲を出ないが、直前まで注11で述べたジャズ・バンドのツアーをし、ディキシーランドのプ レイヤーと共にコンサートを行った彼女が、本当に「アフリカン・ミュージック」の枠を出ない、

「ジャズではな」いものを披露したかはかなり疑わしいだろう。仮に、彼女がこの時「ジャズ」を 演奏していたのであれば、 Farhadov (2014: 5) で指摘されている通り、アゼルバイジャンにおける ジャズの起源はこのコンサートにあると言える。本論文では後者の説を採用した。

13 フセイノヴァは、「1922 年にシャ・サヴァージュ劇場が開館し、そのショーは生演奏のジャズを 特徴としていた。」(Huseynova 2016: 220) としており、本文中にも記した1922年のシャ・サヴァー ジュ劇場の開館をアゼルバイジャンの開始点としている。しかし、当該論文 (Huseynova 2016) の「書 誌」に登場するもので、ジャズと関連した「シャ・サヴァージュ劇場」の記述があるものは管見の 限り、Бабаева, Фархадов (2010) しか見当たらない。Бабаева, Фархадов (2010) を含め、手元にある資 料でシャ・サヴァージュ劇場に関する記述は3件確認されているが、どれも「ジャズ」が演奏され ていたという記述はなく、どれも「『ブラック』ミュージック」(Farhadov 2014) などの表現に留まっ ている。また、注7で述べたように、「ブラック・ベティー」が演奏されたという記録からも、「ジ ャズ」と表現するのは適切ではないと考えるのが自然である。

14 ただし、Farhadov (2014: 5) では、シリン・マナフォフ Shirin Manafov による回想があり[初出 を特定できなかったため、人名は原文ママ]、それによれば、「20年代の終わりにはジャズは首都[バ クー]の外でも人気が上昇していた。イェレネンドルフ[Yelenendorf]というドイツ人居留地(後に ハンラール[Xanlar]、最近になってギョイギュル[Göygöl]と改名された)は自前のジャズ・バン ドを持っていた」とある。この証言が正しいとすれば、マイケル・ロルニックによるジャズ・オー ケストラが厳密に最初でない可能性も否定できない。ただ、マナフォフの回想では然るべき固有名 詞が登場しないため、誰によって演奏されたか、何年から演奏されたかということについて多くの 点に疑問が残る。そこで、本論文では史料的に確証のある(マイケル・ロルニックのものが最初で あるという)説を採用したが、これは今後の史料や証言次第で変更される可能性がある。

15 「アゼルバイジャンにおける in Azerbaijan」初のジャズ・オーケストラはマイケル・ロルニック のものであると考えられるが、「アゼルバイジャン(人)のAzerbaijani」初のジャズ・オーケストラ は1939年のトフィク・グリエフとニヤズィーによるアゼルバイジャン国立ジャズ・オーケストラで ある。

(5)

ズの伝播の歴史に特権性を見出すつもりはいささかもない。しかし、コレッティ・アルレ・

ティッツのコンサートが「アゼルバイジャンにおけるジャズ」の起源であるならば、それ はモスクワやペテルブルクの起源―タガンログ出身の「ロシア人」パルナフによって「パ リ」からもたらされた―とは決定的な違いがあるということは言えるだろう。バクーにジャ ズがもたらされた時、バクーの人が初めて聴いたジャズは、「本場」ディキシーランドのジャ ズ・プレイヤーによるものだったのである。

1930 年代になると、ソ連各地からミュージシャンがアゼルバイジャンに巡業するよう になる。レオニード・ウチョーソフ Леонид Утёсов のテア・ジャズ Теа-джаз16 や、ゲオ ルギー・ランズベルク Георгий Ландсберг のジャズ・カペラ Джаз-капелла、ヘンリク・

ヴァルス Henryk Wars Хенрик Варс のジャズ・オーケストラ、そしてモスクワのジャズ・

オペレッタなどがバクーで公演を行なっている。アゼルバイジャン・ジャズが開花する土 壌は、1930年代を通して完全に整ったと言っていいだろう。

2. アゼルバイジャンにおけるジャズの開花

1939年、指揮者のニヤズィー Niyazi / Ниязи (1912-1984) と作曲家のトフィク・グリエフ Tofiq Quliyev Тофик Кулиев (1917-2000) がアゼルバイジャン国立ジャズ・オーケストラ Государственный джазовый оркестр Азербайджана を組織したことで、アゼルバイジャン におけるジャズは突如として開花した。

グリエフは1934年にアサフ・ゼイナッルィ名称バクー音楽学校Бакинское музыкальное училище имени Асафа Зейналлы17 に入学した後、ウゼイル・ハジベヨフ Üzeyir Hacıbəyov

Узеир Гаджибеков (1885-1948)18 にその才能を認められ、彼の支援によりモスクワに派遣

さ れ た 。 ア レ ク サ ン ド ル ・ ツ フ ァ ス マ ン19の ジ ャ ズ ・ オ ー ケ ス ト ラ Джаз-оркестр

Александра Цфасмана にピアニストとして入団し、ここでジャズ・ピアニストとして修行

を積んだ。

1939年、グリエフはアゼルバイジャンに戻り、上述したアゼルバイジャン国立ジャズ・

オーケストラを組織する。オーケストラは、トランペット3本、トロンボーン3本、サッ クス5本、ピアノ、ギター、パーカッションという編成であった。グリエフはモスクワで

16 ウチョーソフとテア・ジャズについては、鈴木 (2006: 18-22) に所収の「テア・ジャズとウチョー ソフ」や、鈴木 (2013: 3-18) 所収の「ウチョーソフとテア・ジャズ:スターリン体制下のジャズと 大衆歌謡(3)」に詳しい。

17 現在のアゼルバイジャン国立音楽院。

18 アゼルバイジャンにおける作曲音楽の父と称される作曲家で、初のムガム・オペラ『レイリとマ ジュヌーン』が特に有名。ムガムの理論を初めて体系化したことでも知られる。

19 アレクサンドル・ツファスマン (1906-1971) については、Фейертаг (2010: 61-69) の「アレクサン ドル・ツファスマン」に詳しいので、そちらを参照されたい。

(6)

のツファスマンのバンドで得た知識や技術をバクーの腕利きのプレイヤー達に伝えるこ とで、アゼルバイジャン国立ジャズ・オーケストラを高いレベルのジャズ・オーケストラ へと変貌させる。いわゆる当時のジャズのスタンダード・ナンバー20のみならず、アゼル バイジャンの民族音楽を取り入れていくようになる。そこでキーパーソンとなるのが、パ ルヴィズ・ルスタムベヨフ Pərviz Rüstəmbəyov Парвиз Рустамбеков (1922-1949) というサ ックス奏者である。

ルスタムベヨフは、「ソ連のベニー・グッドマン」と称されるほど、腕利きのサックス 奏者であった。21 グリエフとニヤズィー率いる国立ジャズ・オーケストラの団員であった ルスタムベヨフは、グリエフから、アゼルバイジャンの伝統音楽である「ムガム Muğam

Мугам」22と、ジャズを融合したソロをとってはどうかと持ちかけられる。見事にグリエフ

の提案―それは「国民的ジャズ」を生み出すという目標に基づく23―に応えてみせたルス タムベヨフは、ムガムとジャズを融合した初めてのミュージシャンということになる。24ルス タムベヨフは1944年からポーランドのトランペッター、エディー・ロズネル Eddie Rosner

/ Эдди Рознер (1910-1976) のオーケストラに2年在籍した後、1946年にバクーに戻り、自

身のオーケストラを設立するが、1949年1月、ルスタムベヨフは「反ソ親米」を理由に解 雇されている。1949年5月には逮捕、その後15年の禁固刑の判決が下ったが、1949年12 月、裁判の最中に獄中で謎の死を遂げる。25

ルスタムベヨフの逮捕には、ソ連のジャズ全体が陥ってしまった、難しい政治的な状況 が関与している。周知の通り、冷戦の開始がそれである。

その前に、第2次世界大戦中のアゼルバイジャンにおけるジャズがどのような状況であ ったか論じられねばならないだろう。次節では、第2次世界大戦と、その後に起こった冷 戦がいかにアゼルバイジャンにおけるジャズに影響を与えたかを概観する。

20 Farhadov (2014: 6) では、ウィリアム・ハンディ William Handy、フアン・ティゾール Juan Tizol、

デューク・エリントン Duke Ellington、ジョージ・ガーシュウィン George Gershwin、ジェローム・

カーン Jerome Kern といった作曲者の名前が挙げられている。

21 Farhadov (2014: 6) では、「ことによるとアゼルバイジャン・ジャズ史上最も偉大なサキソフォニ

ストかもしれない」とある。

22 フセイノヴァは『アゼルバイジャンの音楽』(Huseynova 2016) において、「ムガムは、旋法[モー ド]であり、音色のスタイルであり、[音楽の]ジャンルである」(同書20)という民族音楽学者の サヌバル・バギロヴァ Санубар Багирова による定義を採用しており、本論文もその定義に従う。

23 「国民的ジャズ национальный джаз を生み出すという目標があった。」(Фархадов 1986: 9)

24 一般的に「ジャズ・ムガム」という用語は後の節で語られる、ヴァギフ・ムスタファザデやラフ ィク・ババーエフなどといった、1960年代以降のアゼルバイジャンにおけるジャズで用いられる用 語である。この用語に付随した言説として、彼ら2人が「初めて」伝統音楽・ムガムとジャズを融 合したかのように語られることもしばしばあるが、これは誤りである。

25 ルスタムベヨフのバイオグラフィーは、次に詳しい。「パルヴィズ・ルスタムベコフの栄光と死」

(Буланова 2017, 15 Aпреля)

(7)

3. 第 2 次世界大戦、ブルジョワ的頽廃、短波ラジオ

第2次世界大戦中、グリエフとニヤズィーによって設立されたアゼルバイジャン国立 ジャズ・オーケストラは、「赤軍アンサンブル」へと改称され、「402歩兵分隊」に組み込 まれた。26 彼らはキャンプや駐屯地を慰問しては、軍歌や愛国歌を演奏して回った。アゼ ルバイジャンのみならず、この頃のソヴィエト全体のジャズ・バンドもこのように軍属と して活躍している。27 戦況が厳しくなると、ジャズの演奏も可能になった。グリエフは公 式のコンサートが終わると、ミュージシャン達を再び集めてジャム・セッションをしてい たというから、軍歌や愛国歌ばかりでなくジャズもまた演奏されていたことが伺える。そ こには、たくさんの軍人が観客として集まったという。

戦後は、映画館やレストランなどといったバクーの各地でジャズを聴くことができたと いうが、では一体、その状況が覆されたのは何故だろうか。そして、ルスタムベヨフはな ぜ獄死せなねばならなかったのだろうか。

これには 1948 年2 月の「ジダーノフ批判 ждановщина」28 が関係していると考えられ る。これによってジャズは「ブルジョワ的頽廃」のレッテルを張られることとなったので ある。29 ルスタムベヨフが一時在籍したロズネルのオーケストラに目を向ければ、1946年 ごろ―すなわちルスタムベヨフが同オーケストラを解雇された辺り―から、どうやらその 活動には暗雲が立ち込めていたらしいことがわかる。1946 年末にはロズネルとそのオー ケストラ団員のほとんどが逮捕されているというのである。(Starr 2004: 214) とはいえ、

ロズネルはその後モスクワでジャズマンとして再び活動することができたというのだか ら、ルスタムベヨフとは話を異にしている。つまり、冷戦開始直後の 1946年にルスタム ベヨフが「反ソ親米を理由に解雇され」たのと、「ジダーノフ批判」後の1949年に獄死し たことは分離して考慮される必要があるということになる。つまり、ルスタムベヨフは不 運にも「ジダーノフ批判」によるジャズの弾圧に巻き込まれたということになる。

26 この時代になると、他の小隊やキャンプでも自前のバンドやオーケストラを持っていた。

27 「第2次世界大戦当時、日本でジャズが敵性音楽ということで禁止されたのとは反対に、ソ連で はウチョーソフやツファスマンも含めて、多くのジャズ・バンドは前線に慰問に訪れ、『戦いに勝利 して、早く故郷に帰ろう』というメッセージを送ることで生き延びていた。」(鈴木 2006: 26)

28「スターリン時代末期、ソ連では最も芸術政策が硬直した状況を迎えた。音楽界も例外ではなく、

大祖国戦争期の緩和状態から一転、1948年2月10日付の党中央委員会決議に基づき、1930年代以 上の厳しい管理体制が生じた(いわゆる「ジダーノフ批判 ждановщина」)。フルシチョフ期には紆 余曲折を経て、こうした状況が徐々に緩和されていった。」(梅津 2014: 111)

29 この時代のソ連におけるジャズを含めた文化をめぐる状況については、次の引用部に端的に表さ れている。「1947年に鉄のカーテンがひかれ、冷戦時代になると、ソ連では『コスモポリタニズム排 斥運動』が始まり、西側の諸文化は『ブルジョワ的頽廃』であるとされ、事実上、文化の鎖国状態 となったのである。反アメリカ・キャンペーンが始まり、ジャズはブルジョアの音楽として徹底的 に排除された。サックスはドイツ人の発明したものという理由だけで押収され、サックスの山がで きたという。」(鈴木 2006: 30)

(8)

しかし、全てのジャズマンがそうして非業の死を遂げたのかと問われれば、決してそう ではない。それはルスタムベヨフの例とは矛盾するような、不条理な事実ではあるが、

ジャズの一部は例外的に「準合法」でもあったのである。「準合法」とは一体どういうこ とか。

「ジダーノフ批判」の後、ソ連のジャズ・オーケストラは「エストラーダ」30・オーケス トラと改名することで生き残った。31 事実、スターリンが死去する一年前の1952年、グリ エフのジャズ・オーケストラが「エストラーダ・オーケストラ」として、バクーのフィル ハーモニー・ホールで公演を行なっている。1955年には、著名な作曲家であるラウフ・ハ ジエフ Rauf Hacıyev / Рауф Гаджиев (1922-1995)32 がアゼルバイジャン国立エストラーダ・

オ ー ケ ス ト ラ Государственный эстрадный оркестр Азербайджана под художественным

руководством Рауфа Гаджиеваを組織している。33 サックス奏者としてアレクサンドル・ツ

ファスマンにその才能を発見されたというトフィク・アフメドフ Tofiq Əhmədov / Тофик

Ахмедов (1924-1981) もまた、ほとんど同時期にエストラーダ・オーケストラを結成して

いる。ラジオ・テレヴィジョン・エストラーダ・オーケストラ Эстрадный оркестр радио

и телевидения と名づけられたそのバンドは、その後のアゼルバイジャンにおけるジャズ

の黄金期を創出した、錚々たるメンバー34を輩出している。

1953年のスターリン死去後、ジャズを取り巻く環境に変化が訪れ始める。例えば、短波 ラジオがそのひとつである。ソ連のジャズやロック史において重要な役割を果たすのが、

海外ラジオの存在であったことはよく知られている。35 特に BBC と「アメリカの声

30 ロシア語では эстрадный、英語では variety。「エストラーダ」とは、鈴木(2006: 3) で見事に「ロ シア版の寄席」と言い当てられているが、「漫談、アクロバット、軽演劇、寸劇、人形劇、パントマ イム、曲芸、歌や踊り等、面白い小演目を集めたバラエティ・ショーである。ソ連時代はジャズ、

ロック、ポップスも演目のひとつだった。」(同上)とあるように、要するに、このような大衆芸術 一般を一つにまとめあげた表現である。さらに、同書ではショスタコーヴィチの証言などを手がか りとして、「[ジャズは]エストラーダの一種という位置づけゆえに、ほとんど娯楽音楽としか認め られず、一部の識者に高く評価されるだけ」(同上、23)と分析しているが、ここからも、「エスト ラーダ」という用語が「ブルジョワ的」でない、「ジャズ」の言い換えとして極めて無難な...

用語であ ったことが伺える。

31 この時代のジャズを取り巻く状況については、例えば、ユルチャク(2017: 224-226) や、ライバッ ク(1993: 27-32) などからも窺い知ることができる。

32 ラウフ・ハジエフは1948-49年にモスクワ音楽院に学び、1953年にアゼルバイジャン国立音楽院 を卒業。アゼルバイジャン国立音楽院では、アゼルバイジャンを代表する作曲家であるガラ・ガラ エフ Qara Qarayev Кара Караев (1918-1982) の元で学んだ。1978年、人民芸術家に選出。後にアゼル バイジャン文化省の大臣を務める人物である。

33 Farhadov (2014: 15) によれば、母体となったのは「ヴァタン[祖国]」映画館でジャズ・バンドを

組んでいたグループ。ハジエフの厳密な選考により、選りすぐりのメンバーが集められた。

34 ヴァギフ・ムスタファザデや、ラフィク・ババーエフ、ダヴィド・コイフマン Давид Койфман (1944-) など。

35 ユルチャク(2017: 237-246) を参照されたい。

(9)

Voice of America」がアゼルバイジャンに限らず、全ソ連のジャズマンに影響を与えたこと は、それぞれの音楽家たちの回想録などからも明らかである。36 ヴァギフ・ムスタファザデ Vaqif Mustafazadə / Вагиф Мустафазаде (1940-1979) やラフィク・ババーエフ Rafiq Babayev

/ Рафик Бабаев (1936-1994) などといった、アゼルバイジャンにおけるジャズのいわゆる

「黄金期」を支えることになるミュージシャンたちもまた、BBC や「アメリカの声」の リスナーであったことが明らかになっている。37 とりわけソ連のジャズ史上欠かせない存 在であったのが、「アメリカの声」で放送されていたウィリス・カノーヴァー Willis Conover (1920-1996)38 の「ジャズの時間 Jazz Hour」39 であった。

4. 雪解け、黄金期、見出された「ジャズ・ムガム」

まるで新しい時代の到来を宣言するかのように短波ラジオからジャズが流れ始めると、

アゼルバイジャンにおけるジャズは「黄金期」(Farhadov 2014: 21) に突入することになる。

1960年代から1970年代は、一般的にアゼルバイジャンにおけるジャズの「黄金期」とさ れることがある。

周知の通り、1956年のスターリン批判や、「平和共存」はソヴィエトの文化に「雪どけ」

をもたらした。つまり1960年代前後に、ジャズへの寛容な雰囲気が醸成されたのである。

それがアゼルバイジャンで見受けられるようになるのは、作曲家のファラジ・ガラエフ Fərəc Qarayev Фарадж Караев (1943-) とピアニストのヴァギフ・サドゥホフ Vaqif Sadıxov

Вагиф Садыхов (1946-) がバクー音楽院の大ホールでジャズのコンサートを開いた時であ

った。これはヴァギフ・ムスタファザデが 1957年にジャズのコンサートの開催を「資本 主義者」の音楽であることを理由に拒否された (Samadoglu 1997: 72-75) わずか数年後の 話であり、それがいかに劇的な変化であったかを伺い知ることができよう。

「ソヴィエトのビートルズ」と称されるほど、全ソ連的に人気のあった男性ヴォーカル・

グループのガヤ Qaya Гая が正式に結成されたのも 1961 年であったし、彼らが主にコン サートをしていたという、レストラン併設の高級ジャズ・クラブ「友情 Дружба」も1960 年代にはジャム・セッションをするジャズ・ミュージシャンで盛況だった。ガヤを含め、

アゼルバイジャンのジャズが全ソヴィエト的に知られていったのも、まさにこの時代であ

36 例えば、『トリオ』(タラーソフ 2016: 25)。

37 「アゼルバイジャンにおけるジャズの出現」(Samadoglu 1997: 72-75)、『ラフィク・ババーエフ:

主題からインプロヴィゼーションへ』(Бабаева, Фархадов 2010: 92) を参照。

38 ウィリス・カノーヴァーのバイオグラフィーは、Верменич (1986: 295-296) に詳しい。

39 1955年より放送開始。欧米のジャズに加え、ソ連国内のジャズも放送していた。リスナーは海外

のジャズ事情のみならず、国内で活躍するミュージシャンの情報も得ることができた。例えば、タ ラーソフ (2016: 96) 。

(10)

った。

ヴァギフ・ムスタファザデ、ラフィク・ババーエフ、ヴァギフ・サドゥホフの3人がエ ストニアのジャズ・フェスティバルに登場したことは、ソヴィエト・ジャズ史上の事件と 言っても過言ではなかろうし、アゼルバイジャンにおけるジャズにとっては、ひとつの転 換点であったとも言える。1966年と67年にエストニアの首都タリンで開催された「国際 ジャズ・フェスティバルМеждународный джазовый фестиваль」である「タリン66 Таллин-

66」と「タリン67 Таллин-67」―「タリン67」はメロディアからライブ盤としてレコード

音源化もされている―は、当時のソ連の名だたるジャズ・ミュージシャンのほか、「アメ リカの声」のウィリス・カノーヴァーや海外の有名ミュージシャンが集っていた。つまり、

ここでの演奏はソ連にとどまらず、世界に名を知らしめるこの上ないチャンスであった。

そこでヴァギフ・ムスタファザデは見事優勝を飾り、ウィリス・カノーヴァーから称賛を 受けたという。まさに、アゼルバイジャンにおけるジャズが全ソ連、あるいは世界に向け て頭角を表した瞬間であったと言えよう。その後、ヴァギフは 1969年にバクーで開催さ れたジャズ・フェスティバル「ジャズ69 Джаз-69」で、「76」―それは76小節で構成され ている―という曲を披露している。ファルハドフとヴァギフの個人的な会話によれば、こ の演奏こそがヴァギフがジャズ・ムガムスタイルのはじまりを感じた瞬間であった

(Фархадов 1986: 30)。そもそも、「ジャズ・ムガム」とは、ファルハドフが自身の著書『ヴ

ァギフ・ムスタファザデ』で作り出した概念 / 語であるが、40 それは字義通り、「ジャズと ムガムの融合した」(同上)音楽が本義である(多少議論の余地のあるその概念/語の有 効性はひとまず問わずにおき、ここでは便宜上「本義」にしたがう形で使うこととする)。

ここで迎えた「ジャズ・ムガム」の誕生が、今日に至るまでのアゼルバイジャンにおける ジャズの屋台骨を支えてきた。さらにその誕生を象徴づけたのは、1979年にヴァギフがモ ナコで開催された国際ジャズ・コンペで優勝を飾ったことである。これはソ連初の快挙で あった。

こうしてアゼルバイジャンでは、「ジャズ・ムガム」という形で「国民的ジャズ」を創 出することに成功した。ジャズ史を紐解けば、ジャズは往々にして他の民族音楽と融合す ることで、現在までに様々な「国民的ジャズ」を創出してきた。かつてルスタムベヨフら も試みた「国民的ジャズ」の創出―すなわち、民族音楽・ムガムとジャズの融合―が、こ こにこうして結実したのである。

40 「ラウフ・ファルハドフの著書 『ヴァギフ・ムスタファザデ』によって『公式に制定された официально узаконенным』『ジャズ・ムガム』という用語」(Бабаева, Фархадов 2010: 51) 。

(11)

5. ポスト・ヴァギフ時代のジャズ

1980 年代における世界的なジャズのメインストリームにおいては、「ジャズ・ロック」

や「フュージョン」などとカテゴライズされる音楽が市場を席巻していた。41 ひとまず、

「ジャズ・ロック」はジャズとロック、あるいは「フュージョン」ならより広い意味で、

ジャズと任意のジャンルの音楽の融合を試みた音楽であると理解しておけばよいだろう

(以下、便宜的に「フュージョン」と総称することにする)。マイルス・デイヴィス Miles

Davis の「電化」42 時のメンバーが中心となったこの一大ムーヴメントとも呼ぶべき「フュー

ジョン」は、チック・コリア Chick Corea、ジョン・マクラフリン John Mclaughlin、ハー ビー・ハンコック Herbie Hancock、ウェイン・ショーター Wayne Shorter、ジョー・ザヴィ ヌル Joe Zawinul、ジャコ・パストリアス Jaco Pastorius などといった世界的なジャズ・ミュー ジシャンによってこぞって演奏され、先導されてきた。

アゼルバイジャンにもその波は押し寄せることになるのだが、そもそも「ジャズ・ロッ ク」や「フュージョン」とムガムの親和性が高かったのだと、かつてラフィク・ババーエ フのバンドでも活躍したキーボーディストのジャミル・アミロフ Cəmil Əmirov (1957-) は 指摘する。「アゼルバイジャン音楽にとって、フュージョンやジャズ・ロックほど発展性 の見込めるものはなかった。フュージョンでは、まさにムガムがそうであるように、各小 節が即興で演奏されるかもしれない。一方、ジャズ・ロックでは、各小節に予想だにしな いようなリズムのうねりを入れることができる―私たちの民族音楽[ムガム]がまさにそ うであるように。」(Farhadov 2014: 37)

まさにムガムと「フュージョン」は運命的な出会いを果たしたと言えるだろう。アゼル

41 正確に言えばこの言い方には語弊がある。「フュージョン」や「ジャズ・ロック」は、ビートルズ

The Beatles のカバーを収録した、1967年リリースのウェス・モンゴメリー Wes Montgomery『ア・

デイ・イン・ザ・ライフ A Day in the Life』がその嚆矢とされる。それに次いで、1969年リリースの マイルス・デイヴィス『ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew』が「フュージョン」や「ジャズ・ロッ ク」の雛形を作った。どちらも1960年代のリリースである。また、本文中でも示したように、マイ ルス・デイヴィスのバンドでの演奏を経験したメンバー達によって、その後の「フュージョン」や

「ジャズ・ロック」のジャンルは発展を遂げる。1971年にジョン・マクラフリンがリーダーを務め たマハヴィシュヌ・オーケストラ Mahavishunu Orchestra のデヴュー作である『内に秘めた炎 The

Inner Mounting Flame』や、1972年リリースのチック・コリアによる記念碑的アルバム『リターン・

トゥ・フォーエヴァー Return to Forever』に始まり、ウェイン・ショーター、ジョー・ザヴィヌル、

ジャコ・パストリアスらによるウェザー・リポート Weather Report がその代表作である『ヘヴィ・

ウェザー Heavy Weather』をリリースしたのが1977年といったように、1970年代の前半から後半に かけて代表作がリリースされている。つまり1980年代はこの流れの延長線上にある。既に流行のピ ークは過ぎていると言えるかもしれないが、「フュージョン」や「ジャズ・ロック」がジャズの一ジ ャンルとして然るべき地位を確立した頃であるとも言えるだろう。

42 「電化」とは、マイルス・デイヴィスが電子楽器を大々的に取り入れたこと、あるいはその時期 を指す。具体的には、1968年リリースの『マイルス・イン・ザ・スカイ Miles in the Sky』から始ま ったとされる。

(12)

バイジャンにおける「フュージョン」の先駆けは、ヴァギフ・ムスタファザデのバンド「ム ガム」である。ヴァギフが当時「フュージョン」を意識していたかはもはや知る由もない が、それが少なからず「フュージョン」と認識されうる音楽であったことは間違いないだ ろう。43 特に名高い演奏として知られるライブ盤の『キエフのヴァギフ・ムスタファザデ』

«Вагиф Мустафазаде в Киеве» の録音が1978年であることを考えれば、1970年代の後半、

すなわち世界的なムーヴメントとほぼ時を同じくして(注 41を参照)アゼルバイジャン に「フュージョン」の波が到来していたことになる。そもそも当時のアゼルバイジャンで それがどの程度受容されていたかについては、ラウフ・ファルハドフ Рауф Фархадов

(1957-) による証言が参考になる。「筆者[ファルハドフ]がよく覚えていることには、人々

が互いに挨拶を交わす時、『やあ!』と言わず、その代わりに『新しいマイルス・デイヴィ スのアルバムは聴いたか?オスカー・ピーターソンは?マッコイ・タイナーは?ハービー・

ハンコックは?ジョー・ザヴィヌルは?』と言っていたことだ。」(Farhadov 2014: 28) 「人々が互いに挨拶を交わす時」にすら具体的な人名を挙げ、その誰彼かの「新しい」

「アルバム」を「聴いた」かを尋ねあったというのだから、この証言の主が音楽に関心の ある人物であり、その周囲にも同様に関心のある人物が集まっていたにしろ、少なからず 当時誰彼かの「新しい」「アルバム」を聴くことができる状況にあり、同時代のジャズの 状況に関心を持つ人物が複数人存在していたことをそれは裏付ける。ここから当然の帰結 として導かれるのは、同時代的にアゼルバイジャンの人々が「フュージョン」を享受でき たこと、そしてそれらが然るべき熱量を持って耳目を集めていたということである。

アゼルバイジャンの人々にとってヴァギフやラフィクの音楽というのは、いわば「発展 性の見込めるもの」であったと換言することもできよう。「ジャズ・ムガム」に先鞭をつ けたことにより、流行の最先端にいたヴァギフであったが、1979年に39歳の若さで急逝 する。そうして 1980年代は、ヴァギフ・ムスタファザデの死を受け入れるところから始 めねばならなかったのである。大きなアイコンを失ったアゼルバイジャンにおけるジャズ

43 先述したとおり、ヴァギフが1969年から「ジャズ・ムガム」を演奏していること、そして原義的 な「ジャズと任意の音楽の融合」という点だけを見れば、「フュージョン」は既にその時点で演奏さ れていたということもできるかもしれない。しかし、例えばジャズとボサノヴァが融合しても、慣 用的にそれが「フュージョン」と呼ばれることが無いように、「フュージョン」を原義的に「ジャズ と任意の音楽の融合」というように理解してしまうと齟齬が生じる場合がある。そこで、マイルス・

デイヴィスの「電化」が「フュージョン」の起源のひとつだという事実に立ち返ってみると、それ が「フュージョン」を定義づける必要十分条件であるとは必ずしも言えないにせよ、電子楽器の導 入が「フュージョン」的特徴のひとつになると言うことはできるだろう。ヴァギフにおいては、バ ンド「ムガム」の頃にエレクトリック・ギターやサックスの大胆な導入などを通じて明らかな音 色おんしょく の変化が見受けられ、これまでの「ジャズ・ムガム」とは一線を画している。そのような事実から、

バンド「ムガム」の音楽は「フュージョン」的特徴を十分に備えたものであるとして差し支えがな いと判断した。

(13)

は、その死とどのように向き合い、どの方向に舵を切ったか。

ヴァギフ死後の1983年、ヴァギフ・ムスタファザデを記念して、バクーで「全連邦ジャ ズ・フェスティバルВсесоюзный джаз фестиваль」である「バクー83 Баку-83」が開催され た。そこでは多くのバンドによって「明らかにヴァギフの音楽の血統の」(Farhadov 2014:

37) 音楽が演奏されたという。その中で最も象徴的な出来事であったのは、仲間の死に甚 しく心を取り乱していたというラフィクが、ヴァギフの次女アジザ・ムスタファザデ Əzizə Mustafazadə Азиза Мустафазаде (1969-) と共に舞台に現れたことであった。ラフィク とアジザという、ヴァギフ亡き後のアゼルバイジャンにおけるジャズの発展にとって欠か すことのできない2人がここで揃って現れたことは、暗示的ですらある。

それから4年後の1987年、「バクー87 Баку-87」と題された「全連邦ジャズ・フェスティ バル」が再びバクーで開催された。そこでは、既に人気グループであった男性ヴォーカル・

グループの「ガヤ」にラフィクが参加し、ムガムのテイストを同グループにもたらした。

また、前年の1986年にトビリシのジャズ・フェスティバルで見事優勝を飾ったアジザも、

自身の作曲を披露している。またこの年、アジザはワシントンで開催されたセロニアス・

モンク・コンペティションで3位入賞を果たし、世界的な注目を集めた。他にも、このフェ スティバルに参加するため、前述のヴァギフ・サドゥホフがバクーに凱旋し、演奏した。

1990 年代になると、1991年にソヴィエト連邦が崩壊し、アゼルバイジャン共和国が独 立する。まさに政治の状況と同様、アゼルバイジャンにおけるジャズの状況も激動の期間 となった。既に世界的な名声を得ていたアジザはドイツに移住し、自身のレーベル「ジャ ズィザ・レコーズ Jazziza Records」を立ち上げる。ラフィクは前述のジャミル・アミロフ らと、「ジャンギ Cəngi」というバンドを結成し、最新の電子楽器を大胆に取り入れた新し い「ジャズ・ムガム」のスタイルを提案した。更に、後にアゼルバイジャン共和国人民芸 術家となるピアニスト、サルマン・ガンバロフ Salman Qəmbərov Салман Гамбаров (1959-) 44 のリーダー・グループ「バクスティック・ジャズ Bakustik Jazz」や、アミナ・フィガロヴァ

Əminə Fiqarova (1964-) 、前述のライン・スルタノフ、そしてグループ「ラスト Rast」な

ど、新世代のスターが1990年代の前半に相次いでデビューしている。

6. ポスト・ラフィクの時代から、現在へ

アゼルバイジャンにおけるジャズを取り巻く環境は、近年になっても更に大きく変化し 始めている。1990年代はまさに激動の時代であったと言えるだろう。1994年3月19日に 発生した「バクー地下鉄爆破事件」によって、ラフィク・ババーエフというアゼルバイジャ

44 サルマン・ガンバロフは2018年にアゼルバイジャン共和国人民芸術家に選出されている。

(14)

ンにおけるジャズのシンボルを失った。一方で同年、「世紀の契約」45 が締結されると、ア ゼルバイジャンにオイルマネーが流入した。それに付随するように、1997年にヴァギフ・

ムスタファザデを記念した「キャラヴァン・ジャズ・クラブ Caravan Jazz Club」が開業す ると、1990年代後半からバクーに数多くのジャズ・クラブが続けざまに開業し、唐突にジャ ズ・カルチャーが新たなフェーズへと突入した。

2004年には、バクーのジャズ文化の拠点として、バクー・ジャズ・センターが開業した。

それは10代の頃から「スチリャーギ стиляги」46 ファッションで街を闊歩し、自身もジャ ズの影響を多大に受けたという、アズユーロテル AzEuroTel 会長のヌリ・アフメドフ

Nuri Əhmədov Нури Ахмедов (生年不明) による働きかけによるものであった。彼は、ポテ

ンシャルある若者に場所を提供しようと計画し、当時のアゼルバイジャン国立音楽院院長 であったファルハード・バダルベイリ Fərhad Bədəlbəyli / Фархад Бадалбейли (1947-) の協 力を仰ぎ、音楽院のオペラ・スタジオの入る建物の空間を借り受けた。バクー・ジャズ・

センターには、レコーディング・スタジオの他、アゼルバイジャン初のジャズ・ジャーナ ルである『ジャズの世界』«Jazz Dünyası» の出版所や、ウェブサイトでアゼルバイジャン のジャズに関する情報の発信拠点が併設された。

また、2002年にカスピアン・ジャズとブルースのフェスティバル The Caspian Jazz and Blues Festival として始まったバクー国際ジャズ・フェスティバル Baku International Jazz

Festival は、当初「アメリカの声」とアメリカ領事館の共催であった。しかし、海外政府

が自国文化を統制するという批判により、2005年よりアフメドフとジャズ・センター、及 び文化観光省の支援のもと、バクー・ジャズ・フェスティバルが開催されていく運びとな った。

バクー国際ジャズ・フェスティバルは初年度から大成功を収めた。海外からもジョー・

ザヴィヌル、アル・ジャロウ Al Jarreau、ハービー・ハンコックやビリー・コブハム Billy

Cobham などといった著名なミュージシャンが集結した他、アジザ・ムスタファザデも参

加した。

このフェスティバルは 2007年まで続くことになるが、文化観光省がヌリ・アフメドフ を詐欺で提訴したことによりジャズ・フェスティバルの権威が失墜する。その後、文化観 光省が前大統領の財団であるヘイダル・アリエフ財団 Heydər Əliyev Fondu と協力し、現 大統領イルハム・アリエフ Ilham Əliyev (1961-) の夫人で、第1副大統領兼アリエフ財団

45 「30年間で340億ドル相当の石油開発が行われることとなった」(廣瀬 2016: 30)

46 「スチリャーギ」とは、英語の style から来た言葉で、ファッション、ジャズ、ロックなどに関 心のある若者のことを指す。ユルチャク (2017: 230) では、「多くのソ連市民と外見や服装や行動様 式で区別されうる若者である」と端的に定義されている。また、スチリャーギについては、ユルチ ャク (2017: 230-237) 「想像の西側:スタイルの意味するもの」の項に詳しいので、そちらも参照さ れたい。

(15)

のトップであるメフリバン・アリエヴァ Mehriban Əliyeva (1964-) 指揮の元、アゼルバイジャ ンにおけるジャズは国を挙げて変化を遂げていく。

2015 年夏にバクー・ジャズ・センターは閉鎖するも、2017年から装い新たにバクー国 際ジャズ・フェスティバルが始まり、ジャズの振興を担う大きな国際ジャズフェスティバ ルとして成長しつつある。また、現在シャイン・ノヴラスリ Şahin Növrəsli / Шаин Новрасли (1977-) や、イスファル・サラブスキ İsfar Sarabski / Исфар Сарабский (1989-) を代表とし て、アゼルバイジャン国内外で活躍する次世代のアーティストが次々と生まれてきている。

ここまで見てきたように、アゼルバイジャンを取り巻くジャズの環境は常に変化してお り、今後も続けて注視される必要があるだろう。アゼルバイジャンにおけるジャズに関す るより周密な論考については、また稿を改めることとしたい。

書誌 日本語文献

・梅津紀雄 (2014) 「雪どけ期のソ連音楽政策の転換過程:中央委員会文化部文書に見る その実態」『ロシア語ロシア文化研究46』、日本ロシア文学会、111-130頁

・塩野崎信也 (2017) 『〈アゼルバイジャン人〉の創出:民族意識の形成とその基層』、京 都大学学術出版会

・鈴木正美 (2006) 『ロシア・ジャズ:寒い国の熱い音楽(ユーラシア・ブックレット 97)』、東洋書店

・鈴木正美 (2008) 「1960年代のジャズ・フェスティバルと聴衆」『スラブ・ユーラシア研

究報告集1 共産圏の日常世界』、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター、47-58頁

・鈴木正美 (2013) 「ウチョーソフとテア・ジャズ:スターリン体制下のジャズと大衆歌 謡 (3)」『人文科学研究 132』、新潟大学人文学部、3-18頁

・タラーソフ、ウラジーミル(鈴木正美訳)(2016) 『トリオ』、法政大学出版局

・廣瀬陽子 (2016) 『アゼルバイジャン:文明が交錯する「火の国」』、群像社

・ユルチャク、アレクセイ(半谷史郎訳)(2017) 『最後のソ連世代:ブレジネフからペ レストロイカまで』、みすず書房

・ライバック、ティモシー(水上はるこ訳)(1993) 『自由・平等・ロック』、晶文社

英語文献

・Abdullayeva, Saadet. (2016) Azerbaijani Musical Instruments Fascinate the World, NURLAR, pp. 106-194.

・Aliyeva, Farah. (1997) “Music Runs in the Family: Famous Musical Families of Azerbaijan,”

(16)

Azerbaijan International 5, no. 4, pp. 38-45.

・Baghirova, Sana. (2003) “Azerbaijani Mugham,” Azerbaijan International 11, no. 4, p. 25.

・Blair, Betty. (2004 a) “Vagif’s Biography,” Vagif Mustafazade (AICD 1041), Azerbaijan International.

・Blair, Betty. (2004 b) “Mugham Jazz: Vagif Mustafazade,” Azerbaijan International 12, no. 3, pp. 62-69.

・Farhadov, Rauf. (2014) Anthology of Azerbaijani Jazz, Heydar Aliyev Foundation.

・Feigin, Leo. (1986) Russian Jazz: New Identity, Quartet Books Ltd.

・Hancock, Herbie. “International Jazz Day: April 30” [https://www.bakujazzfestival.com/jazz- day] (2020年11月29日閲覧、以下同。)

・Huseinova, Aida. (2006) “Politically Correct Music: Stalin’s Era and the Struggle of Azerbaijani Composers,” Azerbaijan International 14, no. 2, pp. 56-65.

・Huseinova, Aida. (2016) Music of Azerbaijan: from Mugham to Opera, Indiana University Press.

・Karimi, Siyavush. (2001) “A Place for Mugham,” Azerbaijan International 9, no. 4, pp. 60-61.

・Minor, William. (1995) Unzipped Souls: A Jazz Journey through the Soviet Union, Temple University Press.

・Mustafa Zadeh, Aziza; Blair, Betty. (1996) “Aziza Mustafa Zadeh: Jazz, Mugam and Other Essentials of My Life,” Azerbaijan International 4, no. 4, pp. 20-23, 71.

・Mustafa Zadeh, Aziza; Blair, Betty. (2002) “All Eyes on Aziza: Catching up with Azerbaijan’s Famous Jazz Artist”, Azerbaijan International 10, no. 1, pp. 24-27.

・Naroditskaya, Inna. (2002) Song from the Land of Fire: Continuity and Change in Azerbaijanian Mugham, Routledge.

・Ogtay, Nailya; Sultanov, Rain., et al. (2004) Jazz in Azerbaijan: Anthology (J.C.B N 040499), Jazz Center Baku.

・Rumyansev, Sergey; Huseynova, Sevil. (2011) “Between the Center of Jazz and the Capital of Muslim Culture: Insights into Baku’s Public and Everyday Life,” in Urban Spaces after Socialism:

Ethnographies of Public Places in Eurasian Cities, Ed. by Tsypylma Darieva et al., Campus Verlag, pp. 227-246.

・Samadoglu, Vagif. (1997) “The Emergence of Jazz in Azerbaijan,” Azerbaijan International 5, no. 4, pp. 72-75.

・Seyidzade, Mir Musa. (2015) The History of Jazz in Azerbaijan, Baku.

・Starr, S. Frederick. (2004) Red and Hot: The Fate of Jazz in the Soviet Union, Limelight.

・Strzemżalska, Aneta. (2018) “Formal and informal nationalism: Jazz performers in Azerbaijan,”

in Identity and Nation Building in Everyday Post-Socialist Life, Ed. by Abel Polese et al., Routledge,

(17)

pp. 17-33.

・Sultanov, Rain. (2015) The Jazz History of Azerbaijan: Lives Facts Festivals, Efendi Publishing House.

・Sultanov, Rain. The Jazz History of Azerbaijan: With Them Begins the History of Baku Jazz [https://www.bakujazzfestival.com/baku-jazz-history-]

・Zehni, Gassem. (1994) “Tribute to Rafig Babayev,” Azerbaijan International 2, no. 2, p. 66.

ロシア語文献

Абдуллаева, С. (2016) Азербайджанские музыкальные инструменты очаровывают мир.

Баку.

Адхем-заде, А., StandArt Салман Гамбарова [https://jazzquad.ru/index.pl?act= PRODUCT&

id=2544]

Алиева, С. (2013, 10 Июля) Азербайджанский джаз уникален: Известный музыкант Игорь Бутман признался в любви к азербайджанскому джазу // Зеркало.

Бабаева, Ф., Вокруг одного запечатленного мгновения (из жизни Рафика Бабаева) [https://jazzquad.ru/index.pl?act=PRODUCT&id=3010]

Бабаева, Ф., Фархадов, Р. (2010) Рафик Бабаев: от темы к импровизу. Баку.

・Баташев, А. (1972) Советский джаз. М.

Буланова, О. (2017, 15 Апреля) Звезда и смерти Парвиза Рустамбекова // Эхо.

・Вагабова, Э. Р. Азербайджанский оперный театр в начале ⅹⅹ века // Вестник санкт- петербургского университета. 2015. №15-2. С. 5-18.

・Верменич, Ю. (1986) Джаз: История. Стили. Мастера. СПб..

Ирада А. (2011, 17 Марта) Вагифу Мустафазаде исполнилось бы 71 // Эхо.

・Лена. (2011, 24 Ноября) Музыка на все времена: Азербайджанский джаз покоряет мир //

Зеркало.

・Мамедов, Р. Т. О. (2016) Гибридный жанровый стиль джаз-мугам // Мир науки, культуры, образования. № 2-57. С. 152-154.

・Медведев, А., Медведева,О. (1987) Советский джаз. Проблемы. События. Мастера. М.

Натаван, Ф. (2004) Тот, кому не было равных // IRS Наследие. №2-10. С. 20-23.

Сананоглу, Р. (2006) Джан азербайджан, джаз азербайджан // IRS Наследие. №4-22. С. 44- 47.

・Тарасов, В. (2004) Трио. М.

・Фархадов, Р. (1986) Вагиф Мустафазаде. Баку.

・Фархадов, Р. (2017) Вагиф Мустафазаде. Баку.

(18)

Фейертаг, В. (2009) Джаз в России: краткий энциклопедический справочник. СПб.

・Фейертаг, В. (2010) История джазового исполнительства в России. СПб.

アゼルバイジャン語文献

・Fərhadov, Rauf. (2012) Vaqif Mustafazadə, Heydər Əliyev Fondu.

・Unknown author. “Nuri Əhmədov” [https://jazz.az/az/members/nuri-ahmedov-az/]

(19)

A Brief History of Jazz in Azerbaijan

SATO Hiromasa

This article briefly outlines the history of jazz in Azerbaijan. Although Azerbaijan has boasted a flourishing jazz culture since the Soviet era, little research on the subject has been conducted outside Azerbaijan. The historical evolution of jazz in Azerbaijan has traditionally been examined in the context of Soviet jazz, which is often treated, unfairly, as nothing more than Soviet Russian jazz.

However, there is a clear distinction between the jazz in Azerbaijan, whose origins can be traced back to a 1927 concert by Dixieland jazz player Michael Rolnick, and Soviet Russian jazz, whose origins go back to a 1922 concert by Valentin Parnakh. The creation of the “jazz-mugham” genre by the legendary pianist Vagif Mustafazade (1940-1979) in the 1960s can be seen as symbolizing the difference between the two. The musical legacy of Vagif Mustafazade influenced his contemporary Rafik Babayev (1936-1994) and was passed down to the next generation of artists, including Vagif’s daughter Aziza Mustafazade (1969-), Shahin Novrasli (1977-), and Isfar Salabski (1989-). By following the historical developments of jazz in Azerbaijan, which has been considerably underappreciated, this article aims to provide a foundation for further studies of the subject in Japan.

Keywords: Azerbaijan, Jazz, Vagif Mustafazade, Soviet Jazz

参照

関連したドキュメント

To evaluate the tolerance of a silicone potting compound and adhesive developed by JAXA under a space environment, specimens of the developed silicone potting compound and

• Let the set E be closed. This says that the set of accumulation points E is a subset of E, that is, every accumulation point of E belongs to E. To show that E is closed, it

We are performing research on the development of medical high - definition imaging tech- nology and its clinical application using functional and morphological data obtained with X

We are performing research on the development of medical high - definition imaging tech- nology and its clinical application using functional and morphological data obtained with X

We are performing research for the development of medical high - definition imaging tech- nology and its clinical application using functional and morphological data obtained with X

We are performing research on the development of medical high - definition imaging tech- nology and its clinical application using functional and morphological data obtained with X

We are performing research on the development of medical high - definition imaging tech- nology and its clinical application using functional and morphological data obtained with X

The availability of real - time imaging using high - performance computers and medical virtual reality systems has expanded the possibilities for diagnosis, treatment, surgery,