Le Petit Prince ―星と砂漠の思考―
講演者 土田 知則氏
(千葉大学教授・本学非常勤講師)
日時 2016年12月 3 日(土)14:00~16:00 会場 白百合女子大学 2008教室
こんにちは。
最初は立ったまま話をしますが、その後座ったり、立ったり、いろいろ前に書いた りします。というのは、私は機械が極度に苦手で、パワポも全然できません。パワポ の画面を作っていただくのも申し訳ないので、それもやめました。私にはパワポなど 似合わないという人もいるくらいですので、そのアドバイスを受け入れ、使わないこ とにしました。資料ですが、これも作ろうとしたら、莫大な量になりました。それを プリントして配るのもなかなか無理がありますので、私が作成したメモ書きだけを頼 りに話をさせていただきます。講演原稿を用意する方もいらっしゃいますが、私はそ うしません。メモだけで話をするというのが私のスタイルでして、今回も 2 枚程度の メモを見ながら話を進めたいと思います。
先ず、この講演の内容ですが、Le Petit Prince をなぜフランス語にしておいたか というと、タイトルの邦訳に少し違和感を覚えているからです。内藤濯先生の『星の 王子さま』という訳は実に見事で、経済効果を高める、つまり売れそうなタイトルに なっていると思いますが、これだと本質的な部分が見落とされてしまうのではないか と考えています。やはり“petit”は「小さい」と訳さないと意味がないわけです。
『星の王子さま』というタイトルには、ちょっとメルヘンティックで、なんとなく子 ども向けのおとなしい話というイメージがありますが、実はこの物語はとんでもな い、真逆の様相を呈しているのです。かなり残酷な内容と言ってもいいでしょう。
作品と作者の関係をあれこれと詳しく述べるのは趣味ではありませんが、この作 家は極めて特異で、自身の生と作品内容がかなり合致していますので、最初にサン
=テックス(サン=テックスというのはサン=テグジュペリ〔Antoine Marie Jean- Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry〕の省略です)のことを少し話します。Le Petit Prince は1943年に英語バージョン、フランス語バージョンが同時に出されま す。それもアメリカで出版されるのです。サン=テックスの生まれた年は1900年で
講 演 録
す。亡くなるのは1944年ですが、操縦していた飛行機が落ちてしまったのです。マ ルセイユ沖の地中海に落ちて、死亡してしまいました。1900年から1944年は非常に 悲惨な時代です。大戦が二つあります。いわゆる第一次、第二次世界大戦です。特 に、Le Petit Prince の書かれた頃は、ナチズムが席巻している時代です。第二次大 戦は1939年から1945年頃までですから、そこにぴったり入ってしまう。彼はこの時期 幾つかの小説を書きますが、Le Petit Prince は、フランスでは1946年に出版されま す。戦争が終わった後です。つまり、この作品は発禁処分というか、ナチが支配して いた当時のヨーロッパでは出版できなかったわけです。要するに、ナチ批判と呼ばれ かねない代物なので出せないということです。『夜間飛行』まではいいのですが、『人 間の土地』は1939年、ちょうど第二次大戦が始まる年です。それから、『戦う操縦士』
も、1942年に出ますが、出たのは英語バージョンで、フランス語バージョンは発禁処 分です。つまり、ナチズムが支配している時代、彼の本は一切出せないということで す。これによって、この作家の背後には戦争というテーマが控えていることが分かり ます。つまり、当時の人が読むと、これは明らかに戦争絡みの物語ということになり ます。しかも相当悲惨な物語です。サン=テックスは、飛行機乗りになりますが、最 初は絵描きになりたかったようで、作品の中でも、絵とパイロットの対比がよく出て きます。彼は幼い頃から飛行機に興味を覚え、12歳で初めて飛行機に乗るという体験 をしています。その後、飛行機事故に(これはパイロットになってからですが)大き なものだけでも、亡くなる事故を含めて 7 回遭遇しています。飛行機ですから落ちる と、大怪我、最悪の場合は死んでしまいます。そういう事故に数回遭っているわけで す。Le Petit Prince の最初も、飛行機乗りが砂漠に落ちてくるという話です。同じ 体験を、サン=テックス自身もしているわけです。彼は1935年にリビア砂漠に落ちま す。自分でお金を出して買った飛行機で、パリとサイゴンの間を飛んで、最速記録を 出そうというので、意気込んで操縦していくのですが、途中で飛行機が故障して、リ ビア砂漠に落ちてしまい大怪我、機は大破します。このイメージがそのままその後に 書かれる Le Petit Prince に繋がっていることは明らかです。その後も懲りずに、何 回か事故を起こしています。もう一例だけ見ますと、1938年にも事故を起こしてい て、この時も人事不省の大怪我を負いました。彼はよほど飛行機が好きなのかと思い きや、実はそうでもないと思われます。これについては後で話します。サン=テック スはこういうことを繰り返してきた人で、作品でも、飛行機関係の物語が大半を占め ています。つまり、彼にとって“avion”、つまり飛行機というのは非常に大きなテー マです。この点を先ず押さえておいていただきたいと思います。
では、飛行機は何を表すのでしょうか。第一次大戦と第二次大戦の大きな違いは、
一言で言うとテクノロジーの大幅な進化。テクノロジーの向上に伴って戦争兵器も精
密化される。飛行機もその一つで、高性能の飛行機が作られるわけです。メッサー シュミットなどです。この作品の中に、大人に絵描きなんか駄目だよというようなこ とを言われてしまったから、仕方なく飛行機乗りになったのだという記述があります けれど、そういう状況だったのでしょうね。当時の時代に合わせて、自分は飛行機乗 りを選び、それに乗るということですね。ナチズムについては、いろいろと言われて いますので、これまでの研究についてお話しようと思ったのですが、あまり参照し過 ぎると先入見が生じてしまい、自由なことが言えなくなるので、あえて一点だけに絞 りたいと思います。どういうところにナチズムの影響が見られるのでしょうか。バオ バブ(baobab)という木は、小さな星にいったん生えてしまうと、どんどん大きく なって、最後には星を破壊してしまう。それをナチズムのイメージだと言う人もいま す。それから、最初に出てくる“boa”。これはヘビですね。バオバブと音が重なっ ているので、この“boa”にも巨大なものというイメージがあります。大きなヘビが ゾウを飲み込む。これも大国、力のあるものが弱いものを駆逐する、つまり巨大な暴 力のイメージですが、ここには残忍な戦争のイメージが重ね合わされているのではな いでしょうか。
戦争の話はこれぐらいにして、私の抱いた幾つかの疑問を提起してみましょう。先 ずこの作品の一番不思議な点は、家庭がないということです。お父さん、お母さんが 一切出てこない。この王子さまの父母については一言も語られない。無論一度も登場 しない。それに、子どももほぼ出てきません。子どもについては、バスか何かの窓か ら外を見るというシーンが一箇所ありますが、子どもは具体的に登場しないので、登 場人物としての子どもは王子さま一人だけです。それから、いわゆる「対話」が成立 していない。確かに一対一の対話はあるけれど、そこに大勢が集まって、何かについ て話をするというパターンが一つもない。あらゆることが一対一の関係だけで語られ る。これは、非常に不思議な物語です。この点については、様々な解釈ができると思 います。後で、もし私なりの解釈が提示できれば、そこでまた話しますが、このテク ストにはこうした読めない部分がたくさんあります。
正直に言いますと、この話は私には理解できない、自分には合わないと思ってきま した。学生の頃からずっとそうですが、このテクストには払拭できない違和感のよう なものがあるのです。これは子ども向けの話だと言われてしまうと明らかに違うだろ うなと思いますが、では何かと聞かれても、不確かな答えしか提出できない。かな り歳をとりましたので、そろそろこういう難問に一応の答えを与えておくべきかと 思い、今回のお話を引き受けましたが、実はこの作品がどういう位置付けを有する ものなのかいまだに分かりません。それくらい難しいテクストですね。『星の王子さ ま』という邦訳の問題も含め、私には引っかかることばかりです。やはり、「小さい」
(petit)という形容詞は非常に大きな場を占めていて、これはもうこの作品のテーマ そのものと言えるかもしれません。この形容詞はたくさん出てきます。異常な頻度で すね。「小さい」の逆は「大きい」(grand)ですが、この「大きい」という形容詞は あまり出てきません。“grande personne”という言い方がよくされて、これは「大 人」のことです。大人と子どもの対比についてはよく語られますが、それはその通り でしょう。決して間違ってはいません。子ども対大人という物語であろうと思いま す。そして、大人と子どもは普通に考えたら、大人の方が知恵を持っていて、子ども を教え諭すとか、リードするというのが一般的な図式です。しかし、この物語では逆 になっています。子どもは人生のことをよく知っているとか、子どもだけにしか分か らないとか、大人は理解できないのだというようなことが繰り返し言われます。これ は、王子さま自身も言いますし、それから語り手も言いますね。語り手は王子さまの ことを聞いた上で言うのでしょうけれど、王子さまはもともとそういう思考の持ち主 で、“petit”の方が“grand”だとみなしているんです。小さい者の方が物事をよく 見ていると言います。これは、いわゆる伝統的な児童文学観に照らすと、無垢な子ど もの方が、いろいろなことを覚えて腐敗した大人よりも純粋な思考を持っていて、も のを見極める目を持っているのだということになるのでしょうけれど、この作品の場 合そんな感じではありません。もう少し複雑に書かれています。実は、この王子さま が欺かれるシーンもありますので、これも後で言いますけれど、それほど慧眼という わけではありません。そもそも無垢な存在が、星から星へと経巡った後、地球に落ち てきて、こういう哲学的な話を仕掛けるということ自体不自然と感じられます。王子 さまは大人顔負けの議論をし、大人には分からないと言います。子どもにしか分から ないと言うのです。こんな子どもの主人公はめったにいない。そうしたことを考える と、この作品はいったい誰に向けて語られているのかが、いまだに見えてこないので す。サン=テックスの想定している読者とはいったい誰なのかということです。
作品中には対比されているものが、まだあります。絵は“dessin”と言いますが、
この作品の中にも、サン=テックス自身が描いた挿絵がたくさん入っています。サン
=テックス本人も絵が好きで、絵描きになりたいと考えたようですが、先程言いまし たように、そんなことをしても別に役に立たないし、結局は大人に諭されてパイロッ トになったという経緯があります。では、絵と対比されるものは何かというと、それ は、例えば地理学(géographie)です。それから歴史学、歴史(histoire)。“calcul”
というのは計算ですから算数。それから“grammaire”、これは文法ですから言葉。
この地理、歴史、算数、文法というのは、小学生の高学年頃中心に学ぶ勉強科目で す。これらはすべて、実用的な生活、経済、政治、あるいは戦争にまで関わる知識の 土台です。地理は、いかに他の国より多くの領土を奪うか、どこから攻めるかといっ
た問題と深く関わっています。歴史について言えば、政治も戦争も歴史問題と切り離 すことは不可能です。それから数。これは後で詳しく述べますが、ものをたくさん 作って、兵器をたくさん作って、人をたくさん殺すということも含め、すべて数の問 題です。最後に言葉。言葉から始まる争いは数多くあります。王子さまも、言葉はあ まり信用してはいけないと言いますが、言葉というのは良いものも生み出す一方で、
悪いものを招来する原因ともなり得ます。最初の場面で象徴的なのが、王子さまが描 くヒツジの絵です。絵が先ず登場します。ここには、サン=テックス自身が幼少の頃 から抱いていた絵に対する憧れが投影されていると思います。なぜ王子さまが最初に 絵のことを口にするのかというと、絵を実用的な勉強、学問への対立項として捉えて いるからです。
実は、今回の講演の「星と砂漠の思考」という副題は、このテクストの最後のシー ンから与えられたものです。星と砂漠の挿絵を見ると分かりますが、白黒の Le Petit Prince 最後の世界です。語り手は、これは「私」にとって、最も美しく、最も悲し い風景であると言っています。ここには「最も美しい」と「最も悲しい」という本来 ならほとんど相容れない形容詞が、並列的に同居しているのです。同時に成立する異 質な風景。ここに深い意味があります。これは空から落ちてきた飛行士と空から落ち てきた王子さまが、砂漠の上で出会うという話です。そして、砂漠でいろいろな思考 が展開される、いろいろな啓示が与えられるという話です。
再び数のことに話を戻しますが、大人は計算ばかりしている、いつも大きな数を数 えて、大きな数を手にした方が偉いのだといった価値観で動いていると、王子さまは 盛んに口にします。プラス、プラス、プラス、プラス……と足していって、巨大な数 を生み出すことに価値を見出す。これが地球上の大人の生活を支えている原理、いわ ゆる加算・積算原理ですが、それに対して、徹底的に異を唱えるのがこの王子さまで す。実は、飛行機乗りの、この空から降りてきた、「私」なる語り手というのも、そ うした加算原理を唱えています。唯一王子さまだけが、加算原理から遠く距離を置い ているということです。
数というのは、先ず富の象徴です。戦争の場合には、何人殺したかということが勝 利の象徴にもなり得る。例のホロコーストだと、600万人という数字が上がっていま すが、実際には倍ぐらいかもしれないと言われています。そうした膨大な数の帯びる 怖さというものがあります。大きな数を手にした者が、お金でもそうですけれど、勝 ち組になってしまう。
王子さまは、そうした数の論理や暴力に真っ向から反論を加えます。これについて は、いろいろな人が指摘していると思います。数は、この作品の最大のテーマの一つ と言っていいかもしれません。
「戦争」(guerre)についても触れておきましょう。「戦争」という言葉は、たぶん 一回だけ出てきます。ヒツジと花の「戦争」ですね。一見、何となくメルヘンティッ クで、あまり怖くないイメージですが、ヒツジと花の戦争って、やはり不気味です ね。ヒツジみたいな、いわゆる柔和なものの象徴が花を食べてしまうという話です が、これは弱いものがさらに弱いものを破壊するということです。弱いものの内に は、さらに弱いものを迫害する力が潜んでいるかもしれない。これが王子さまの言い たいことの一つです。当時のナチス側は、これが、自分たちを揶揄するものと思った かもしれません。ドイツの軍人、つまり「ヒツジ」は、自分よりも弱い「花」を殺し ているという当て擦りというわけです。
次に、今までこの作品を読んできた人たちが、ほとんど留意していないことを一 点指摘したいと思います。地球にやって来た王子さまは、幾つかの動植物と出会い ます。ヘビ(serpent)、キツネ(renard)、それからヒツジ(mouton)、そしてバラ
(rose)です。地上に降りた王子さまは、なぜヒツジ、ヘビ、キツネ、バラと出会う のでしょうか。作品の中に、なぜこの四つの動植物が姿を現わすのか。これらは、た ぶん意図的に選ばれています。キリスト教圏の読者だと、すぐ分かると思います。こ れらはもちろん、キリスト教的なイメージを背負った動植物です。キツネは違うとい う反論もあり得ますが、これにも実は仕掛けがあります。ヘビは人類最初の祖先を誑 かした張本人ですね。知恵の木に実ったリンゴをイヴに食べさせてしまった、あのヘ ビです。それから、ヒツジは、いわゆるキリスト教的な文脈で言うと、柔和なもの、
牧童が導く弱い存在、「迷える子羊」もそうですけれど、そうしたイメージを有して います。バラは、正確に言うと白いバラですが、聖母マリアの象徴です。色は特に関 係ないようで、バラは清いもの、純潔なもの、聖母マリアの象徴なので、そうした象 徴を巧妙に取り入れて、この物語を生み出しているのです。
では、キツネはどうなのでしょうか。キツネは最初にどこに現われますか。リンゴ の木の下です。リンゴの木の下に登場するのは、聖書ではヘビなのですが、この後、
いろいろと話をさせるために、ちょっと捻りを利かせ、キツネを登場させています。
これは象徴的な場面です。このことを指摘している人はあまり多くありません。この 点をきちんと見極めないと、キツネの役回りは理解できないでしょう。キツネは、こ の話の中で王子さまが友だちになれた唯一の相手と見なされがちです。本当にそうで しょうか。王子さまも確かに「友だちのキツネ」(ami renard)と言っていますが、
ここは文字通り読むべきところではありません。キツネは狡猾な(rusé)ものの象徴 です。フランス語には「キツネのように狡猾な」(rusé comme un renard)という表 現があります。仏和辞典で調べると分かりますが、他にどのようなものがあるかとい うと、例えば「キツネの皮をライオンの皮に合わせる」という表現があります。「悪
知恵と力を併せ持つ」という意味です。悪知恵はキツネ、力はライオン。それから、
「キツネ流の戦争をする」というのは、「だまし合いの戦いをする」という意味です。
それから、なんと“renarder”という動詞もあります。「狡く立ち回る」という意味 です。だから、「キツネ」が出てきたら要注意で、いくらキツネが王子さまに好意を 示して、「友だちになろうね」と言っても、それをまともに受けてはいけないという ことです。
もう一つ言いますと、キツネが出てくる時にはほとんど「ニワトリ」(poule)が出 てきます。ニワトリとキツネが出てきたら、フランス人はピンとくるわけです。フラ ンス語を母語にする人だったら、すぐに分かると思います。キツネとニワトリが揃う と、いろいろな諺が生まれるわけです。二、三例を挙げてみます。「キツネが捕まっ た。ニワトリを放しなさい」という言い方があります。これはどういう意味かという と、「キツネが去ったので、安心してニワトリを放しなさい」、つまり「危険は去った から安心しなさい」という意味です。また、「キツネがニワトリに説教する」という 言い方があります。「うまいことを言って、相手をだます」という意味です。まさに それを、ここでキツネはやっているわけです。それから、三つ目は、ちょっと長いで すけれど、「良いキツネは隣の人のニワトリを食べない」。これは「筋金入りの悪人は 近隣では悪事を働かない」という意味です。フランス人であれば、キツネとニワトリ が両方同時に出てきたら、こうした連想が必ず働くのです。なぜこのようなことをく どくど言うかと言いますと、キツネは極めて特異な言葉を口にするからです。普通、
フランス語で「友だちになってください」という時には、“Soyez mon ami(e).”と言 います。しかし、このキツネが使う動詞は“apprivoiser”です。「私を“apprivoiser”
してくださいね」と王子さまに頼むのです。ここでは、野崎歓さんの訳を参照しまし たが、彼は「僕を手懐けて」と訳しています。友だちになりたい人が相手に「僕を手 懐けて」と言うでしょうか。この言葉をさらっと受け止められる人は相当鈍感だと思 います。「あれ、これ、どういう意味?」と考えますよね。王子さまも、意味が分か らないので“apprivoiser”とはどういう意味かとキツネに再三尋ねます。なのに、
読者にはそれに気付かない人が多くて、“apprivoiser”というのは「仲良くさせるこ と」だと思ってしまう。“apprivoiser”には、「手懐ける」以外にもいろいろな意味 があります。「飼いならす」、「従順にする」、「おとなしくさせる」などですね。ある いは、「付き合いやすくする」、「思い通りにする」、「制御、支配する」という意味も あります。ちなみに、ドン・ジュアンのような誘惑者のことを“apprivoiseur”と言 います。ですから、キツネはこの動詞を使っているわけです。ここでキツネの化けの 皮がはがれると思うのですが、最初のうちは誰もそれに気付かない。この動詞を問題 にしている人はあまり見当りません。しかし、この動詞には深い意味が潜んでいるの
です。キツネにとって、友だちになるというのは、自分の論理に相手を巻き込むとい う意味です。相手のことを考えているような顔をして、自分が優位に立てるように相 手を懐柔していく。手懐けてもらうようなふりをして、相手を手懐ける。だからキツ ネは狡猾なのです。“apprivoiser”とはどういう意味かと聞かれた時に、キツネは何 と答えるかというと、“créer des liens”つまり「絆を築くこと」と説明するのです。
これは大嘘ですね。ですが、半分は当たっています。“lien”という語には「絆」と いう意味の他に「束縛」という意味があるからです。相手を拘束するということで す。これは明らかに、王子さまが考えている友だちになるという概念とは掛け離れて います。王子さまも、一瞬だまされます。子どもですから当然ですが、最後には痛快 な王子さまの言葉が待っています。「時間がないから僕は行くよ」。キツネの言葉は巧 妙で、一瞬王子さまを出し抜いたかに見えます。しかし、王子さまはそれを危うく回 避するのです。王子さまがなぜキツネにだまされそうになるかと言いますと、キツネ は正しいこともたくさん言うからです。人をだます名人というのは、大方正しいこと を言って、そうでないことを一つ差し挟むのです。キツネもその手を使っています。
この作品の中によく現われる有名な言葉があります。「大事なことは目に見えないの だ」。こう言ったのはキツネです。おそらく正しい指摘です。作者の主張がここに現 われているかもしれません。ですが、それをキツネの本心とみなすのは危険です。
それから、王子さまは“ami”という言葉を使わないと言いましたけれど、実は 使っています。使うのは、あなたと私はもう二度と会いませんと言う時ですね。二度 と会う可能性がない相手を“ami”と言っているのです。ここには友だちという概念 に対する絶妙な距離感があります。この作品のもう一つのテーマはこの「距離感」で す。言い方を変えますと、これは他者との距離感です。“apprivoiser”というのは他 者を自分と同じようにすること、自分が支配しやすい存在にしてしまうこと、つま り、他者との距離を無化することです。それを嫌う王子さまは、同じところに長くい ないで、すぐによそに行ってしまう。最も典型的なのは、最後の場面です。飛行機 が直って、パイロットがまた飛び立っていく時に王子さまは「こないでね」と言い ます。「王さまの星」の最後の場面でも、「行かないで」と言う王さまに対して、王 子さまは「僕、行くよ」と言っています。王子さまは相手が自分の大切な存在であ ればあるほど、距離をとるという仕草をし続ける。相手を、いわゆるキツネみたい に“apprivoiser”しない。だから、友だち、あるいは、大事なものが目に見えない というのは、それが近くて遠いということですね。近いものばかりが大切じゃないと いうことです。いつも近くに寄り添っていれば良いというものではないということで す。講演の副題に、ヒントを与えてくれた最後の挿絵では、星と砂漠だけが対峙して います。すごい距離感ですね。見えますけれど、ものすごい距離があって接近できな
い。でも、お互いの中に包まれている大事なものはちゃんと分かっている。そういう 距離感です。人は、ともすると、べったりして、いつも同じことを考え、同じ方を向 いて、一緒にいるというのが、好ましいと思いがちですが、本当の“ami”というの は、互いに距離を保つという姿勢に身を委ねられる存在のことではないでしょうか。
直接的な対話がぎくしゃくしているのも多分同じ理由によると考えられます。王子さ まと「私」の会話には、よく分からないところがたくさんあります。分かりにくい会 話が、あちらこちらに連ねられています。
「他者」(l’autre)という問題を終生考え続けた思想家にエマニュエル・レヴィナ ス(Emmanuel Lévinas)という人がいます。ユダヤ系の思想家です。ナチズムの時 代に一家が捕まり、強制収容所に送られます。彼だけが生き残りです。家族は全員 ホロコーストの犠牲になりました。レヴィナスは、その後ドイツを経てフランスに 行きますが、彼が主張し続けたのは、穏やかな一心同体型の関係というのは決して
「愛」ではないということです。いつも距離を保ち、ある場合には矛盾したことを言 い合ったり、けんかをしたり、反目する、泣き叫ぶ、そういうことが成立する関係こ そが「愛」だというわけです。ホロコーストの構造は、ユダヤ人を虐殺するというこ とだけではなく、ユダヤ人を仕切るユダヤ人を生み出すことにあります。ユダヤ人の コミッサリア(委員会)のようなものを組織させ、ユダヤ人に同じユダヤ人の監視を させるのです。まさに、ユダヤ人を「飼いならす」わけです。そうすると、互いに近 いはずのユダヤ人の間に、「愛」とはほど遠い情念の歪みが生じます。近いというこ とが、疑念と憎しみを引き起こすのです。人種とか民族とか、人は近ければ近いほど 意思の疎通を図れるのか。そんなことはない。そこにはむしろ距離がなければなら ない。相手と何をするにしても、互いの距離(他者性)を確保することが重要なので す。サン=テックスも同じ戦争に関わっていますから、このような他者問題を何らか の形で共有していると思います。Le Petit Prince は人間の実存的な問題をあまりに も深く滲ませた作品なのです。私はそう考えています。
飛行機が墜落してテクノロジーが機能しなくなった間だけが、王子さまとパイロッ トである「私」に会うことが許された時間です。操縦可能になったら、また二人は離 れるしかないのです。距離があるので、二人は一緒にいられないのです。これは極め て重要なポイントです。結局、飛行機は直ってしまいますから、パイロットはそのま ままた帰っていきます。帰っていくところは、大人の世界。王子さまに行き場はあり ません。この点はいろいろと解釈できますが、一つは王子さまが死んでしまうという 解釈です。砂漠での物語を仕切っているのは、実はヘビです。ヘビが入口と出口にい ます。最初にヘビに会い、最後にヘビに殺される。このこともかなり寓意的な意味を 持ってきます。ヘビの登場と機械文明の停止の間でこの物語は機能しているわけで
す。限りなく殺伐とした状況の中でこの物語が展開しているということが重要です。
なぜ王子さまは大都会に降り立たなかったのか。砂漠である理由は何なのか。砂漠で なければ、この物語はたぶん成立しないでしょう。何もない世界、まさに何も「見え ない」世界。それがまさに砂漠です。
「他者」の問題をもう少し補充しておきます。相手のことを分かった気にならない で、執拗に質問を繰り返すのが王子さまの性格です。とにかく、簡単に分かったと言 いません。ちぐはぐな会話も多々あります。黙ってしまうか、何も答えない。しか し、自分はしょっちゅう質問する。同じことを何回も聞こうとします。つまり、自分 と相手は違うのだということ(他者性)を王子さまはかなりしっかりと理解してい る。たやすく折れない、たやすく納得しない。換言するなら、「飼いならされない」
ということです。これは、大人から見れば非常に効率が悪いわけです。あいつまだ分 からないのかと言って殴りつけたいというのが、大人の気持ちでしょうけれど、王子 さまは「分かりにくさ」を誰よりも大切にする、分かるまでとことん追究する。そう した姿勢を一貫して貫きます。また、役立たないことの大切さも、強調されます。
「役立つ」という意味の“servir”という動詞がたくさん使われていますが、むしろ 役立たないものの方にこそ王子さまの力点はあります。有名なエピソードを一つだけ 取り上げます。例のバラのとげのエピソードです。あれは何の役に立つのと問うこと で、役立つということの意味にこだわり続ける。ややもすれば、大人というのは、役 に立つことばかり、効率性ばかりを考える。現代社会では特にそうです。だから、こ の物語は現代社会に強烈な警告を与えていると読めます。効率性、役立つこと、それ から、数字・数値を上げること。日本でも、良いか悪いかは別にして、人の数を増や せとか、少子社会はまずいとか、そんなことばかり言っていますね。先程、加算とか 積算と言いましたが、王子さまの発想は減算です。むしろ、減らしていく。限りなく 無に近づける。なぜ砂漠と星かが分かります。それが王子さまの残した風景です。そ の前の絵では、王子さまがそこに見えます。だが、次になると王子さまは消えてい る。残ったのは星と砂漠だけ。そこで何もない思考というのが問題になる。無論、こ れはあくまでもただの理想にすぎません。今の社会を無の思考に向かわせるのは不可 能ですから。ですが、どこかで少しでも無を思考するということについて考えなけれ ばならないと思います。その方が、逆に物事がうまく機能するということもあるわけ です。今の世界は情報量を、どんどん増やしていきます。そうした情報増殖が良いこ とと思われてしまっている。情報は多いほど良いのだと考えるわけです。ですが、情 報が多過ぎることは、むしろマイナスに作用します。自分の目で情報を厳選し、その 中で自身の主張を組み立てるべきなのですが、何でもかんでも取り込もうとして、全 部どこかに散失してしまう。だから、砂漠や、小さな星のイメージには深遠な意味が
あるのです。
それから、花(特にバラ)もやはり大切なイメージです。王子さまは地球に来る前 に、花が自分を苦しめたというようなことを言っています。だから、彼は花を疑った と。また花は非常に矛盾めいている、自分はまだ幼過ぎてそのことが理解できなかっ たとしきりに言っています。ここにはマイナスの価値しかないように見えますが、実 はこれこそが、他者との関係の理想なのです。場合によっては、相手が自分を傷つけ る。これは、必ずしも暴力ではありません。相手を疑う、これも時には必要なことで す。それから、矛盾したことを言うのも時には重要です。全部お見通しで、全部理解 できる範囲に収まる相手というのは先ずあり得ない。物語の最初の方にも、自分は大 人と話をする時に、「大人に調子を合わせる」しかなかったと王子さまが述べる場面 があります。フランス語では、“Je me mettais à sa portée”と表現されています。
自分を相手の範囲に置くという意味です。“portée”というのは相手が仕切っている 領域のことです。自分が相手の守備範囲に入っていく。こうしてやらないと、大人は 理解してくれないというわけです。これはまさに、相手に「飼いならされてしまう」
ことに他なりません。相手の了解できる範囲に自分をすっかり閉じ込めてしまう。自 分は嫌だが、大人がそう言うのであれば、大人の議論に合わせ、それに乗ってしまう ということです。これをし始めると、「飼いならし」、すなわち「他者性」の減却とい う仕草がどんどん助長されます。王子さまは早い時期からそのことに気づいていま す。
この本が、子ども向けであるのか、大人向けであるのか、正直なところ分かりま せん。確かなのは、これは非常に惨たらしい話だということです。「私」自らがそう 言っています。「私」はこの本を、「私」の本を軽い気持ちで(à la légère)読んでほ しくないと。この本はちゃんとしっかりとした気持ちで読んでほしい、メルヘンのよ うに軽い気持ちで読んでほしくはないと、「私」は主張します。王子さまの思い出を 語る時には、大変な「悲しみ」(chagrin)を味わうのだとも言っています。この物語 が決して幸福な物語でないことは明らかです。書き手も、そういうふうに書いていま すし、内容もそうなっています。残酷な話と言えば残酷な話です。幼年期に戻りたい という願望を描いた話かというと、そんな感じのものでもないのです。人間は絶対に 幼年期には戻れない。むしろ、そういう話です。これはつかの間の時間、砂漠という 場所で、たまたま啓示のように現出された体験であって、それ以上でもそれ以下でも ない。王子さまの言ったことを全部、大人が実行できるかと言ったら、それは絶対で きないのです。実行できないなら、意味がないかと言うと、意味は大いにあります。
最後に別れが待っています。別れることの中に、愛の可能性を探るという物語なのか もしれません。ですから、この物語を『星の王子さま』と訳してしまうと、訳者の苦
労は分かりますが、何だか不満で、やりきれない気持ちになるのです。大切なメッ セージがほとんど伝わらないことになってしまいます。
これが大筋の話ですが、あえて、もう一つ。これは笑いながら聞いてください。語 り手は飛行機で砂漠に落下しますね。王子さまはどうですか。渡り鳥に連れられて来 ます。絵がありますね。星から星の間に移行する時に、鳥をたくさん飛ばしてやって 来ます。日本だと、差し詰めコウノトリかなと思いますが、要するに「誕生」です ね。子どもの誕生とイメージが結びつくような気もします。それから、先程、後でと 言ったので一言だけ付け加えますと、飛行機はサン=テックスの生涯と切り離せない ものですが、もしかしたら彼は飛行機をそんなに気に入っていないのかもしれませ ん。飛行機のことを王子さまが何と言っているかというと、「私」が真剣に修理して いる飛行機のことをとても醜いと言うのです。王子さまは飛行機という言葉を知りま せんが、それを「とても醜い(laid)ね」と言っているのです。ここには、テクノロ ジーに対する批判的なまなざしがあります。自分は野生の鳥たちと来たのに、あなた はそんなものを使ってやって来て、しかも墜落したというわけです。
最後に、これは言葉遊びですけれど、フランス語の表現にこういうのがあります。
“Revenons à nos moutons.”直訳すると「私たちのヒツジに戻ろう」。この作品には 最初と最後にヒツジが出てきますね。“Revenons à nos moutons”はフランス語の決 まり文句で「本題に戻ろう」という意味です。今まで話をしました。では本題に戻り ましょうと言って、最後を締め括るわけです。“mouton”という語をうまく使って、
隅々にまで象徴性や言葉遊びを盛り込んでいるんです。この話は、正直に言うと、難 し過ぎてあまりよく分からないのですが、こういうところを見ると非常によくできて いますね。細かいところに、ちゃんと目が届いています。これほど長く読まれている のもそのせいかなという気がします。
最後に、ヒツジが花を食べるか食べないかという、ちょっとしたことが大変な事態 を引き起こすことを大人は理解してない点を指摘しておきたいと思います。最後の言 葉には重要な意味があると思いますが、これも大人に向けられたものです。最初は単 純なことでも、それがきっかけで大事に至ってしまうということです。弱さの象徴で あるようなヒツジが、そういう事態を引き起こすことがあり得る。例えば、ヒトラー という人も、実はそんなにマッチョではありませんでした。彼も絵描きを志し、絵を 描いていました。以上のように、この作品には無数のモティーフやメッセージが織り 込まれていると思います。皆さんも是非 Le Petit Prince の中に多様で重層的な物語 を探り出してください。
ご清聴ありがとうございました。