① 自然教育園におけるゲンジボタル 40 年間の観察記録
矢 野 亮 *
The observational record of Luciola cruciata for the past 40 years in the Institute for Nature Study
Makoto Yano *
はじめに 〜ホタルの退行曲線〜
東京のホタルの退行曲線については,品田穣氏がその著書「東京の自然史」(中央公論社)に書か れている(品田.1974)。
それによると,江戸時代は『続江戸砂子』『武江産物誌』などの文献では,高田落合・王子石神井川・
谷中宗林寺など江戸市中にもホタルの名所があったと記録されている。明治時代には関口台・谷中宗 林寺などは健在で,この他,江戸川・九段・牛ヶ淵など市内至る所で見られたという。
しかし,明治時代終り頃から少なくなり,大正時代には神田川・目黒・目白・押上・麻布・向島・
玉川あたりまで後退し,昭和 5 年〜 10 年にはほぼ山手線の外側にまで退行している。
その後急速に変化し,昭和 25 年には板橋区志村・中野区鷺の宮・杉並区上高井戸・世田谷区鎌 田まで後退し,昭和 30 年には小金井市・狛江市,昭和 35 年には東久留米市・立川市・府中市と 5 年ごとに西へ西へと後退し,今では多摩地方を除く東京都市部から全く姿を消してしまったという
(図 1)。
品田氏は,昭和 36 年 11 月 1 日から昭和 37 年 5 月 1 日まで自然教育園に勤務されたことがある。最近,
品田氏にその頃の自然教育園のホタルの状況について聞いてみた。
詳細な調査はされていないが 20 〜 30 個体は発生していたそうで,当時の鶴田総一郎次長が,貴重 なホタルの発生地なので外部には公言しないようにという緘口令が出ていたそうである。
また,「東京の自然史」に記載がなかったのは,特殊な場所を入れると全体の流れがわかりにくく なるため,退行曲線作成に当っては自然教育園は除外したと聞いた。
この緘口令は今なお受け継がれているが,都心に残された自然教育園で毎年ゲンジボタルが自然発 生することは,まさに現代の奇蹟といえよう(図 2)。
*
国立科学博物館附属自然教育園,Institute for Nature Study, National Museum of Nature and Science
現在,自然教育園には研究職員もいなくなり,これまで蓄積された貴重な調査記録が埋もれてしま うことは,後世に禍根を残すことになりかねない。
そこで,老体に鞭を打ち,30 年も前の古い資料を探し出し,悪戦苦闘の末まとめたので,自然教 育園における 40 年間のゲンジボタルの観察記録を自然教育園報告に報告したい。
図 1 ホタルの退行曲線図〔●印は自然教育園〕(品田.1974)
図 2 自然教育園全景
都心の真中に残された緑地にゲンジボタルが今なお生息していることは,まさに現代の奇蹟である
自然教育園のゲンジボタル
ゲンジボタルの生息地
ゲンジボタルが生息するのは通称「サンショウウオ沢」という小さな沢である(図 3)。昭和 40 年 頃までオオサンショウウオ(特別天然記念物指定)をこの沢の施設で飼育していたところからこの名 がつけられた。トウキョウサンショウウオなどが自然発生していたわけではない。
昭和 55 年まではニシカワトンボ(カワトンボ)が生息し,この他にもオニヤンマ・シマアメンボ・
ヘビトンボ・サワガニなども生息し都心部では最も自然度の高い沢といえる。
ゲンジボタルが生息するのは,サンショウウオ沢頭から水生植物園を経由してくる水路との合流点 までで,長さ約 240m で,川幅は均一ではなく 50cm から 2m 位である(図 4・図 5・図 6・図 7)。
ゲンジボタルは,この沢周辺を飛翔していることが多いが,昔から白金台に在住の歯科医師山内英 徳氏の話によると,昭和 20 年代には周辺の住宅地でも少数ではあるが目撃されたという。サンショ
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図 3 自然教育園におけるゲンジボタル生息地とホタル目撃地点
ウウオ沢とは距離にして約 200m,高低差約 9m である。
また,昭和 40 年代には自然教育園では宿直制度があり,夜間園内を巡回した職員はシイ並木でも 目撃したという。距離は約 100m,高低差は約 10.5m である。
さらには昭和 61 年 6 月 26 日,最大個体数が 281 個体確認された時には,通称三叉路でも目撃され ている。距離は約 100m,高低差約 10.5m である。
このように,発生個体数が多い場合には,長距離分散して飛翔すると考えられる。
ゲンジボタルの出現個体数
昔から自然教育園ではホタルが生息していることは知られていた。しかし,出現個体数を調査した 記録は残されていなかった。
最初に個体数が記録されたのは,1978 年(昭和 53 年)自然観察会「夜の自然教育園」の下調査の 時であった。
この自然観察会は,ホタルの名をタイトルに付けると応募者が殺到する恐れがあるため,テーマを
「夜の自然教育園」としたもので,定員は 50 名である。
夜活動するヒキガエル・ウシガエル,サギ類,虫,夜寝る葉などを観察した後に,サンショウウオ 沢まで下り,最後にホタルを観察するという催しであった。この観察会は,1978 年(昭和 53 年)か ら 1992 年(平成 4 年)までの 14 年間継続された。
なお,今回のホタル調査は,昭和と平成にまたがるが,西暦と年号を併記すると乱雑となるため,
図 4 サンショウウオ沢 図 5 乱舞するゲンジボタル(1986.6.22)
図 7 ゲンジボタルの交尾
図 6 ゲンジボタルのオス(撮影:小島啓史氏)
以降は西暦に統一して記載する。
ゲンジボタルの個体数調査は,1978 年から 1985 年までは自然観察会の下調査の際行われたもので,
日数も 1 〜 3 日間で,その年の最大個体数を捉えているとは言えない数値である。
1986 年以降は,ホタル発生期間中に 10 日前後調査を継続しているので最大個体数に近い数値が得 られていると思われる。
なお,サンショウウオ沢以外にもひょうたん池源流部にゲンジボタルは発生していた。1982 年 10 個体,1983 年 8 個体,1984 年 4 個体確認されたが,1985 年以降の発生は確認されていない(表 2)。
サンショウウオ沢における 1978 年から 2017 年までの 40 年間のゲンジボタルの出現個体数を表 1 に,
最大個体数の年変化を表 2,図 8 に示した(東京地下鉄株式会社.2012)。
1978 年から 1983 年の 6 年間は,調査日数が 1 日のため個体数も少ない。しかし,1984 年と 1985 年の 2 年間は,調査日数が 3 日間のため,85 個体,190 個体と急激に増加している。
そして,1986 年には 10 回の調査を行った結果,最大個体数に近い数値 281 個体を記録した。
しかし,翌 1987 年は 130 個体,1988 年は 24 個体と激減している。
この原因については,1986 年 10 月に井戸水を補給したこと,1987 年秋に木道を整備したことなど が考えられる。
木道の整備は,調査による水際の踏圧防止,調査の利便性,自然観察会で参加者が通行できるよう にと考慮したものである。工期は秋であり,水路から離れて施工し,工事中も環境破壊には十分配慮 したため,ホタルの減少にはさほど影響していないと思われる。もう一つの問題は井戸水の補給であ ろう。このことについては,水環境の項で改めて検討する。
1988 年から 2017 年までの個体数をみてみると,1988 年〜 2004 年までの 17 年間は,最小 7 個体,
最大 40 個体,平均 17.8 個体,2005 年〜 2014 年までの 10 年間は,最小 26 個体,最大 88 個体,平均 53.8 個体と増加し,2015 年〜 2017 年までの 3 年間は,最小 14 個体,最大 26 個体,平均 21.3 個体と 再び減少している。
ホタル発生時期の変化
ホタル発生時期に 10 回以上の調査を実施した年は,その年の最大個体数に近い数値が得られてい ると思われる。
そこで,発生時期の変化について検討してみた。
1986 年から 1997 年までの 12 年間では,6 月 20 日以降に最大個体数を示したのが 9 回(75.0%),
平均日が 23.8 日であった。また,1998 年から 2017 年の 20 年間では 6 月 20 日以前に最大個体数を示 したのが 17 回(85.0%),平均日が 16.2 日となった。
すなわち,1990 年代には最大個体数を示したのが 6 月 24 日頃,2000 年代には 6 月 16 日頃と近年 ホタルの発生時期が 8 日間位早くなっていると思われるのである。
自然教育園に残されている生物暦では,開園(1949 年)以来約 70 年間を見ると,昔はソメイヨシ ノの開花は 4 月上旬であったが,現在では 3 月中旬に開花することも稀ではない。一方,イロハモミ ジの紅葉は開園当時は 11 月中旬頃であったが,現在では 12 月中旬が盛りとなっている。全体的には 春が早くなり秋が遅くなるという傾向がある。
これは,地球温暖化と都市化によるヒートアイランド現象によるものと考えられ,ホタルの発生も
同様の影響を受け早まっていると考えられるのである。
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表 1-1 ゲンジボタルの個体数調査結果(1978 年〜 1995 年)
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表 1-2 ゲンジボタルの個体数調査結果(1996 年〜 2009 年)
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表 1-3 ゲンジボタルの個体数調査結果(2010 年〜 2017 年)
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ホタル発生地の水環境
ゲンジボタルの幼虫は,約 9 ヶ月半も水中で生活しているため,生息する水環境は幼虫にとって重 要な問題である。
水環境が専門の出口吉昭氏(日本大学水産学科)は,ホタル発生地に必要な環境として次のような 主要項目を挙げられている(出口.1978)。
①水量(流速) 10 〜 30cm/s
②水温 冬は 5℃より高く,夏は 21℃より低いこと ③水素イオン(pH) 7.25 くらいの微アルカリの場所 ④溶存酸素(DO) ほぼ飽和状態の 90 〜 100%がよい ⑤化学的酸素要求量(COD) 0.5 〜 1.5ppm の場所 ⑥生物化学的酸素要求量(BOD) 2mg/l 以上の場所 ⑦炭酸カルシウム(CaCO3)が多いこと
⑧炭酸カリウム(K2CO3)・炭酸ナトリウム(Na2CO3)・硫酸塩・リン酸塩・塩化物が少ないこと また,他の専門家は
⑨水深 5 〜 30cm と変化に富んでいること ⑩底質 礫質・転石等が多いこと
などの項目を追加して挙げている。
0 50 100 150 200 250 300
1978 ᖺ 1979 ᖺ 1980 ᖺ 1981 ᖺ 1982 ᖺ 1983 ᖺ 1984 ᖺ 1985 ᖺ 1986 ᖺ 1987 ᖺ 1988 ᖺ 1989 ᖺ 1990 ᖺ 1991 ᖺ 1992 ᖺ 1993 ᖺ 1994 ᖺ 1995 ᖺ 1996 ᖺ 1997 ᖺ 1998 ᖺ 1999 ᖺ 2000 ᖺ 2001 ᖺ 2002 ᖺ 2003 ᖺ 2004 ᖺ 2005 ᖺ 2006 ᖺ 2007 ᖺ 2008 ᖺ 2009 ᖺ 2010 ᖺ 2011 ᖺ 2012 ᖺ 2013 ᖺ 2014 ᖺ 2015 ᖺ 2016 ᖺ 2017 ᖺ
図 8 サンショウウオ沢におけるゲンジボタルの最大個体数の年変化
自然教育園におけるゲンジボタル生息地のサンショウウオ沢の水量・水温・水質について検討して みた。
水量
サンショウウオ沢の自然湧水は,従来から枯渇することもなく適量流れていた。
1986 年 10 月より自然教育園内の通称 A ポンプ(事務所より園内に向かって約 50m 先の右側にある)
より井戸水を補給しているが,この水は,地下約 18m の第 2 滞水層の水である。一時貯水槽に貯め 毎時 2 トンをサンショウウオ沢の源流部に流している。
従って,この井戸水と従来からの自然湧水を加えるとサンショウウオ沢の水量は十分といえる。
なお,現在汲み上げている第 2 滞水層の水は,時々枯渇することがあり,今後は地下約 60m の第 3 滞水層の水を汲み上げる計画があり,現在水量・水質などについて調査中とのことである。
以後,本報告書では,この井戸水のことを「補給地下水」,サンショウウオ沢源流から流れる自然 湧水を「湧水」と呼ぶ。
水温
サンショウウオ沢の水温については,地下鉄 7 号線の工事の際記録された 1987 年から 2010 年まで の 24 年間の資料はあったが,7 月から 4 月までの 10 ヶ月間の資料しか見つからなかった(東京地下 鉄株式会社.2012)。
これによると,7 月・8 月の夏期は,平均水温 18.8℃〜 20.3℃であった。また,1 月・2 月の冬期の 平均水温は 9.7℃〜 10.1℃であり,その他の季節も通常であり,先の主要項目の水温の値の範囲内で あり特別な問題はないと思われた(表 3)。
但し,年度毎・月毎の詳細な記録を分析すると,1988 年・1989 年の 2 年間は,7 月 13.8℃,8 月 16.0
℃,9 月 16.5℃,10 月 16.1℃,11 月 12.0℃,12 月 9.1℃,3 月 10.3℃,4 月 12.2℃と他の年に比べ水 温が最も低かった。
ホタルの最大個体数を見ると,1987 年 130 個体,1988 年 24 個体,1989 年 17 個体と急激に減少す る傾向があった。
一方,2003 年・2004 年の 2 年間は,7 月 21.8℃,8 月 23.6℃,9 月 23.3℃,10 月 19.1℃,11 月 17.4
℃,12 月 16.1℃,1 月 13.8℃,2 月 13.0℃,3 月 13.7℃と他の年に比べ水温が最も高かった。
ホタルの最大個体数を見ると,2003 年 15 個体,2004 年 21 個体と推移し,その後 2005 年には 52 個体と倍増している。
水温の低い高いが,ホタルの発生個体数に影響するのか,それとも偶然なことなのか原因は不明で ある。
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表 3 サンショウウオ沢(湧水)の月平均水温(℃)
水質
先の主要項目のいくつかについて,地下鉄 7 号線の工事の際測定した陸水 8 項目の数値と比較し分 析してみた(東京地下鉄株式会社.2012)(表 4・5)。
溶存酸素(DO)は,ほぼ飽和状態の 90 〜 100%あるのがよいとあった。
自然教育園の「湧水」では,最低値 0%,最高値 68%,平均 45.4%であった。これは理想とする数 値の半分以下であり,どのようにしてこの数値が出たのかの理由は不明である。
しかし,この「湧水」の数値の時に,1984 年から 1987 年にかけては,85 〜 281 個体のホタルが発 生していたので,この数値でも問題はなかったのではないかと考えられる。
また,「補給地下水」では,最低値 67%,最高値 108%,平均値 92.2%で理想に近い数値で問題は ないと思われる。
化学的酸素要求量(COD)0.5 〜 1.5ppm がよいとあった。
「湧水」では,最低値 0,最高値 5.4,平均値 1.5,「補給地下水」では最低値 0,最高値 3.3,平均値 0.8 であり,ともに理想の数値をクリアーしていると思われる。
生物化学的酸素要求量(BOD)2mg/l 以上とある。
「湧水」は最低値 0.5,最高値 3.6,平均値 1.5,「補給地下水」では最低値 0,最高値 2.1,平均値 1.0 である。理想値よりやや少ないが,ホタル幼虫の生息には大きな影響はないと考えられる。
主要項目以外の,アンモニア性窒素(NH
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-N)は,「湧水」では平均値 0.04,「補給地下水」では 平均値 0.03 とほぼ同じ数値であった。
硝酸性窒素および亜硝酸性窒素では,「湧水」平均値 12.6,「補給地下水」では平均値 5.5 と多少数
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表 4 陸水 8 項目の分析結果 サンショウウオ沢(湧水)(東京地下鉄株式会社.2012)
値の違いが見られた。
溶解性鉄(Fe)では, 「湧水」平均値 0.03, 「補給地下水」では平均値 0.02 とほぼ同じ数値であった。
溶解性シリカ(SiO
2)が問題である。「湧水」では平均値 16.7 であるのに対し,「補給地下水」で は平均値 49.0 で,湧水の 2.9 倍の数値を示した。この物質がホタルの幼虫の生息に影響があるのかは 主要項目にも書いていないので不明だが注目すべきであろう。
前述のように 1986 年 281 個体のホタルを記録したが,その後個体数は激減した。1986 年 10 月の 井戸水補給,1987 年の木道整備がその原因と懸念された。木道整備については大きな影響はなかっ たと思われると前述した。
そして,水環境についても検討したが,水量・水温・水質ともにホタル減少の致命的な原因を探し 出すことはできなかった。
ホタルの専門家は,「ゲンジボタルの自然発生地では,発生個体数は周期的変動があり現在発生数 が少なくとも問題はない」と言われている。
しかし,自然教育園ではこの 40 年間で,1986 年 281 個体という大きなピーク,2013 年 88 個体と いうピークはあったが,周期的変動は現れていない。
何か原因はあるのだろうか。2 点気になることがある。
一つはホタルの幼虫の餌であるカワニナが極端に少ないことである。よく毎年ホタルが発生するな と思うほど少ない。サンショウウオ沢の整備を行い,カワニナの増殖を図ることが重要であろう。
また,サンショウウオ沢は,周辺よりの土砂・落ち葉が積もり川底が泥質化している。この泥質化 はオニヤンマの最適な生息環境となっている。オニヤンマの幼虫によるホタルの幼虫の捕食も十分に 考えられる。調査して対策を考えるべきであろう。
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