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物 で その 頃 の 価 値 観 によって 着 色 されたり 変 更 されていることが 特 に 大 きいです そ んなわけで 紂 王 の 悪 行 の 数 々は 周 が 自 らの 正 当 性 をアピールするために 捏 造 された または 周 は 儒 教 にとって 聖 域 扱 いでしたから 後 世 に

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中国の歴史

第1回 古代中国~周、そして秦へ ○古代文明~古代国家の登場 前5000年~4000年頃から、中国の黄土地帯と呼ばれる、黄河の忠・下流域にお いて、初期農耕をする人々が現れました。彼らはアワを栽培し、豚や犬・鶏を飼い、竪穴 式住居・泥壁の住居に住む生活をしました。彼らが磨製石斧、そして文様のある彩色土器 である彩文土器を用いたことから、その土器の別名をとって彩陶文化といいます。さらに、 前2000年~前1500年頃に、土器の技術の進歩で黒く磨かれた土器も登場し、これ を黒陶文化と呼びます。 そして、邑と呼ばれる大集落が出てくるようになり、王朝が発生 するのです。 伝説では、最初の王朝は「夏」という王朝です。また、 さらにその前には三皇・五帝時代というのがあったとされ ています。後者はあくまで伝説の域を出ません。しかし、 「夏」については、最近の調査で、実在の可能性もでてき ました(後述)。 とりあえず、現在確認されている最古の王朝は「商」で す。一般的には殷と呼ばれていますが、本来これは商の首 都の1つの名前のこと。商は、都市国家の連合体で、商の 王は、その共王としての存在でした。また、この頃より青 銅製の祭器や道具が利用されるようになります。また、この国では占いによる神権政治が 行われます。商の王はその代表だったのです。 この商は、紀元前1100年頃に、西の諸侯であった、武王こと、姫発率いる周に滅ぼ されます。有名な小説「封神演義」の舞台で、周の軍師・太公望(呂望 異民族の羌族の 出身)などが活躍します。ただし、それに書かれている内容と、歴史書では違う部分がか なりあります。 例えば、商の最後の王・紂王に酒池肉林の生活をさせたとされる妃のダッキの存在は確 認されていません(もちろん、彼が熱愛した妃ぐらいはいたでしょうけど)。さらに、紂 王が圧政を行ったというのも事実無根な話です。むしろ、綱紀粛正をおこなったぐらいだ そうですが、一方で商の退廃が進んでいたことは確かなようで、権力闘争と奢侈な暮らし に慣れた貴族達によって腐敗は著しかったのです。 もちろん、紂王を悪く書くための材料もあったのでしょう。どうも彼は、戦争を多くや ったなど問題があったようではあります。商は、牧野の戦いと呼ばれる決戦に敗北し滅ぶ のですが、この時、精鋭部隊は東方に出陣中でした(つまり、周はスキをついたことにな ります)。 まあ、この時代について私たちが読む資料というのは、これからずっと後に書かれた書

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物で、その頃の価値観によって着色されたり、変更されていることが特に大きいです。そ んなわけで、紂王の悪行の数々は、周が自らの正当性をアピールするために捏造された、 または周は儒教にとって聖域扱いでしたから、後世に良く書かれたようですね。 もちろん、非の打ち所のない国であれば、そう簡単に滅ぼされるはずはありません。 前述の貴族の腐敗もしかりですが、実は、殷(商)の国は、羌族などの異民族を奴隷と して使っていました。彼らの集落を襲い、そこの人々を連れて帰りこき使っていたのです。 また、主人が気に入らないと殺されることもしばしばで、なんと占いの時に生け贄にもさ れてしまいました。もちろん、これは羌族にとって大きな恨みとなります。 そこで彼らと周は手を組んだわけで、羌族出身の太公望も大いに協力したというわけで す。もしかしたら、太公望は羌族の代表だったのかもしれません。ちなみに、有名な話で すが、釣りをしている太公望に、姫発の父親である姫昌が話しかけ、その時に「これは傑 在である」と、召し抱えることになったという逸話があります(真偽は不明)。 このことから、釣り人のことを太公望というようになります。 ところで、自分の王朝の正統性を示すため、必要以上に前王朝の最後の王を悪く書くこ とは、今後もよく出てきます。また、現在の中国文化は、神権政治をはじめとする商の影 響が、そんなには見られません(この後、王は神ではなく人になるわけ)。 これも、周が商の影をことごとく消したからなのかもしれません。 また、当然ですが、殷の他にも他地域で文明は栄えていたようです。例えば、雲陽省の 長江流域(三峽地域)では、ダム建設に伴う発掘調査により巴という国・文化の存在が確 認されました。巴は、殷に立ち向かっていたといわれていた国ですが、これで実在が証明 されました。 ○牧野の戦い ところで、周と商(殷)の決戦、牧野の戦いについてみていきましょう。 このときのために、武王の父・文王こと姫昌は善政を行い、諸侯や異民族との協力も深 め、太公望を軍師として迎えます(このとき太公望は70歳だったともいわれていますし、 若いという説もあります)。太公望は、様々な工作活動を行い、紂王の評判を落としたり、 周の味方になるようにと、諸侯に協力を取り付けます。 しかし姫昌は機が熟す寸前で亡くなり、その後をついだ息子の姫発は太公望、それから 同盟者で、召という地域を治める召公爽(しょうこうせき*爽の字は、正しくは××の部 分が「百」という文字)と共に、数多くの諸侯を従えて出陣。牧野という地に陣をはりま す。 兵士数は、周が約5~10万、商が17万といったところですが(本によっては全然数 字が違いますので、あまり気にしないように)、商については、前述のように、精鋭部隊

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が紂王の命令で東方に出陣しており、このときに集められたのは、奴隷や他国を滅ぼした ときに降伏してきた連中でした。しかも、このうち降伏してきた兵士を紂王は一番前に配 置します。子飼いの兵士は温存しようと思ったのでしょうが、太公望の号令の下、周軍が 正面から突撃してくると、前衛を守る降伏兵は、周に降伏し、商の軍勢を攻めてしまいま す。 紂王とその護衛は良く戦いますが、こうなると敗北。紂王は王者の最後にふさわしく、 本拠の朝歌に撤退すると、宝玉を身にまとい、火の中に身を投げ入れて死にました。そし てその死骸を姫発は引きずり出し、ここに矢を3発打ち込み、首を切り、旗にかかげ、周 (殷)の最後を決定づけました。 なお、余談。この姫発の行為を見て、きっとグロテスクだなあと思われた方もいらっし ゃるでしょう。姫発はその後、儒教という中国を支配する孔子の教えによって聖人とされ ましたが、そうすると、この「姫発」の行いはあり得ない、何かの間違いである、と考え られるようになります。なお、この姫発の話は漢の時代、司馬遷という人が書いた「史記」 によります。 ここにも、難しいところがあります。当然、儒教は周を聖域化しすぎだ、と言う点もあ る一方で、司馬遷が「史記」を表した時点では、もう周が出来てから2000年も立って いるわけです。その間にまとめられた書物の中で、当然、その時代の価値観で変更を加え られていることでしょう。前述してくどくなりますが、本当に、実際はどうだったのか、 解らないんですね!(笑) ○戦車 それから、この時代から長らく先、戦では「戦車」という物を使います。もちろん、9 0式戦車とかレオパルドⅡなんか想像してはいけません。雰囲気としては、馬車です。2 頭の馬(時代が下ると4馬に)にひかせて、突撃します。中国に登場したのは、商の時代 の後期、紀元前1300年ぐらいだそうで、状況から察するに、古代エジプトで開発され た物が伝わり、商で改良された、といったところだそうです。 車体は木製で、重要な部分に青銅の金属で補強。車輪の付いた箱を馬にひかせ、その箱 の中に3人ほどが乗ったらしいです。機動力が高く、戦で重宝されましたが、乗り心地が 悪く、漢の時代になると後方で貴族が乗るための物になり(ちなみに、1頭にひかせたり、 傘が付いたりします)、前線から撤退。そして、何時しか使われなくなっていきました。 ○気になるニュース ところで、2004年になってかなり気になるニュースが飛び込んできました。 1つは、中国河南省にある二里頭遺跡で伝説の夏王朝の都城と推測される城壁址を発見

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ということ。約3600年ほど前の城壁、それから城内にはきっちりと整備された道路も あると言われています。今まで、「夏」という王朝はおそらく実在したと言われていても、 確たる証拠は少なく、やはり伝説の域にあったのですが、これで一気に研究が進むと期待 されます。 もう一つは酒池肉林の話。先ほど、ダッキとの関係で登場しましたね。 殷の最初の都があった「偃師商城」(河南省)遺跡から、石で造られた大規模な池の跡 が発見されて、どうもこれが「酒池肉林」の元になった池じゃないかと言われております。 もちろん、殷の最初の都の時代ですから、紂王とダッキには関係のないことですが、前の 時代に、その元ネタとなった事件、どんちゃん騒ぎがあったのかもしれません。 第1回 古代中国~周、そして秦へ ○建国直後の周 周(前1100~前256年)は、姫発(武王・在位 前1122~前1116)が商を 滅ぼしたことから中原国家として始まります。都を鎬京(後の長安や、今の西安付近)に 置き、中原と称される黄河の中流域を支配しました。 周は、一族や有力な豪族に土地を与え、諸侯国を作り支配させました。諸侯の下には、 卿・大夫・士という位に別れた家臣がいます。そして諸侯は、周王に貢納と軍役の義務を 負い、また家臣達は諸侯に同様の義務を負っていました。 それでは、ちょっと建国直後の頃の話をしましょう。この時代を元に描かれた中国の小 説で、少し前、日本では漫画にもなったことのある封神演義の後の話なので、興味がある 人も多いはず。 ○その後の太公望 太公望はこの時、今の山東省あたりにある斉という国に封じられました。 彼は、現地の風俗を重んじ、また商工業を盛んにし、名産である海産物の取引を盛んに し、大きく利益を上げて斉を豊かにしました。ちなみに太公望といえば、こんなメッセー ジも残しています。 1.姫発に「商を滅ぼした後、商の人民はどうすればよいか」と尋ねられたとき 太公望の答え:皆殺しにすればよいでしょう(出典:「説苑」) *太公望としては、多くの羌族が商によって殺されている恨みもあるでしょうし、実際、 この後反乱が起きていますから、ある意味でこの読みは正確でもあったといえます。 2.姫発に「商が周に滅ぼされたように、周が諸侯に滅ぼされないように、どうすればよい

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か」と尋ねられたとき 太公望の答え:民に楽しみだけ与えて、家財を貧しくさせ、族党を少数にすることです (出典:「淮南子」)。 *ローマ帝国のパンとサーカスみたいですね。 3.太公望が、斉の地で、自分に従わない賢者2人を殺したことを、周公旦(姫発の弟)に 理由を訊かれたとき、太公望の答え:賢者だろうが、法に従わない者は君主にとって無 用である(出典:「韓非子」)いやあ、彼の考え方・施策というのは、恐ろしいほど現 実主義だったんですねえ。 ○周の危機と安定 周を建国した武王=姫発は、建国後2年ほどで死亡します。息子の成王が即位しますが、 これはまだ幼少の身。建国直後の周という新興国家を支えられるはずがありません。 そこで、武王の弟である姫旦、通称「周公旦」という人物が後ろ盾となって政治を行い、 周公という名前から見るに、どうも一時的に中継ぎの王となったようです(周公旦が、「周」 なのは、彼が周発祥の地を領土としたからですが、「候」ではなく、「公」と呼ぶのはお かしいのです)。 ところが、武王には15人の兄弟がいました。その他、一族で領主になった者は40人 もいたとか(「春秋左伝」による)。当然、なんで周公旦が周の中心にいるんだ!と不満 を持つ人が出てきます。一方、周公旦としても、一族争いで周を滅亡させるわけにはいき ません。当然、他の兄弟に対し、強い態度ででます。 一方、周に滅ぼされた紂王の息子・禄父は、周によって殷の地で保護されて健在でした が、保護されたと言っても恨みが消えるわけではありません。そこで、お目付役としてい た三監の姫鮮(管叔鮮)=(きせん/かんしゅくせん)、姫度(蔡叔度)=(きど/さい しゅくど)、姫處(霍叔)=(きしょ/かくしゅく)という周公旦と以前から反目してい た兄弟と手を組み、反乱を起こしました(叔は年齢を表す言葉、管、蔡、霍は諸侯国の名 前)。特に、姫鮮は周公旦の兄でしたから、面白くなかったようです。 このとき、他の地域でも反乱があったようで、周にとって相当な危機だったようです。 しかし、周公旦と成王の母・邑羌、それから殷を滅ぼすときに周に協力し、北方の燕とい う地域に封じられた召公爽(しょうこうせき)によって、この反乱は鎮圧されました。禄 父と管叔鮮は処刑され、後は追放されます。 なお、それでも周は、商(殷)を存続させます。ただし、場所と名前を変え、諸侯国の 一つとして、宋という国が作られます。 もちろん、商の王族が封じられ、商の民を移住させて支配させていました。当時は先祖

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の祭祀を非常に重要視。紂王の息子が反乱を起こしたとは言え、商の祭祀を周が保護した ということは、周王の徳の大きさを示す宣伝となったのです。また、先にも述べたとおり、 スキを付いて商を滅ぼしたようなものでしたから、当然、商そのものの体力は残っていた わけです。ですから、徹底的に滅ぼすなんて、不可能でもありました。 ただし、先ほどの反乱を教訓に、商の人々は宋以外にも、様々なところに移住させられ、 分散させられました。なお、この他にも中国古代、殆ど神話に近いような時代の国の子孫 を見つけ出し(本当に子孫かは怪しいが)、やはり国を作ってあげています。 ○周の滅亡と復興 これ以後、周ではしばらく平和が続きます。しかし前8世紀頃より、周王と諸侯の間で 溝が生じてきます。何故ならば、特に周王とその一族の諸侯の間の血のつながりが、長い 年月の間にほとんどなくなってしまったことがあります(同族同士の結婚は禁じられてい た)。そして、諸侯の中には周王よりも大きな力を持つものも現れました。 また、北方の遊牧民族の侵入も始まり、周は都を攻略され、東の洛邑(後の洛陽)に遷 都しました(前770年)。これを境に、それ以前を西周、以後を東周と歴史学ではわけ ます。と、いうのも東周では王権が著しく衰退し、事実上諸侯による群雄割拠となったか らです。なお、この区分法には異論もあり、本によっては全然違う基準の区分で書かれて いるものもあります。まあ、西周だろうが東周だろうが、要は「周」ですので・・・・。 なお、西周が滅亡したとき周の王であった幽王は、妃で絶世の美女である褒似(ほうじ 似には女へんがつく) を溺愛していました。溺愛のあまり、正妃・申后が産んだ皇太子宣 臼を廃嫡し、褒似の産んだ子を皇太子にしたぐらいです。ところが、この妃は笑わない人。 何とかして笑わせようと色々試みますが、それでも笑いません。 ところがある時、 手違いで狼煙(のろし)が上がりました。 狼煙が上がると、諸侯達 は「周の一大事。敵はどこだ!」と集合してくることになっており、 この光景を見た褒似 は、初めて笑いました。それを見た幽王は、その後も狼煙を上げまくり、敵もいないのに 諸侯を無駄に集めます。 褒似は笑いますが、諸侯にしてはたまったものではありません。 やがて、この狼煙を無視するようになりました。 そのうちに、犬戎という部族を中心とする異民族が攻めてきます。実は、これは褒似に よって皇太子の座を奪われた正妃の実家、申一族の策謀だと言います。廃嫡された皇太子 宣臼は、申一族が保護していたのですが、幽王はこれの引き渡しを要求します。引き渡せ ば、殺される可能性が大です。それならば・・・というわけで反乱を起こしました。 当然、狼煙は上がりますが、「なんだ、また王が馬鹿をやっているよ」と諸侯は思い、 誰も駆けつけてきません。こうして、都は攻略され、西周は滅亡しました・・・というお 話です。「オオカミが来たぞ~」な世界ですね。

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ちなみに、このお話を見るだけでは褒似は、悪女そのものです。しかし、彼女が幽王の 寵妃になったのは、褒の国が周に負けたときに、献上品として差し出されたと言うことで す。 彼女が笑わなかったのは、今までの生活を全て壊され、親や恋人とも別れさせられたで あろうとも思われます。まあ、この辺のお話自体も、果たしてどこまで本当か・・・って ところですが。 え?なんで、褒の国と周は戦争をしたんですかって?まず、褒の国というのは周の本拠 地のすぐ近くにあったそうです。で、この褒の国の家臣が、やりたい放題で放漫な政治を 行う幽王を諫めたところ、逆に恨まれ、攻め込まれたそうです。どうも幽王は暴君だった らしく、褒似がいてもいなくても、周は滅んだことでしょうね。 第1回 古代中国~周、そして秦へ ○復活はしたものの・・・・ 西周が滅んだ後、先ほどの廃嫡された皇太子・宣臼が即位。かつて周公旦が周の副都と していた成周=洛邑(後の洛陽)に遷都しました(前770年)。申一族は異民族と手を 組んで幽王を倒したのですが、倒せば同盟は終了です。今までの都をよりも東に移して、 危機回避を図ったのです。 しかし、これ以後、周がかつての力を取り戻すことはありませんでした。そして、一般 にはこの紀元前770年~前403年を春秋時代、前403~前221年を戦国時代をわ けます。403年は、晉という国で、有力家臣の3人が国を奪い独立した年。 すなわちこれは、前者が、各諸侯が周王室の権威を借りて戦ったのに対し、後者は周王 室の権威がなくなり、諸侯自体が下克上で国を奪われた時代ということで区分されていま す。その他には太公望が封じられた斉が、家臣の田和に乗っ取られています。 また、春秋の有力者五人を五覇、戦国の有力者を七人を七雄と称します。この時代、各 国は富国強兵政策を採り、農業や商業が飛躍的に発展しました。具体的には農業面で、そ れまでの木製の道具に代わり、春秋時代には銅製の農具が、戦国時代には鉄製の農具が登 場し、商業においては青銅の貨幣が登場したことがあげられます。なお、商の時代は末期 より貝のお金を使用していました。及び、商人の商人たる所以は、商の人が商売上手だっ たことからあげられます。 ○秦、始動する さて、この戦国の争いに終止符を打ったのが秦です。秦は、中原より離れた場所にあり、 周が成立した時代より前より存在していました。中原の国々が領土を巡って争っている中

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で、秦は南西部の蜀などを征服し、領土を拡大していき国力を付けていきます。 前4世紀、孝公は衛という国の亡命貴族商鞅を登用し、積極的に行政改革を進めます。 また、魏の国出身の張儀の連衡策を採用し、利害が複雑に絡み合う他国と巧みな外交を展 開し、政の時代についに周王朝とその他の7雄の国を滅ぼします。前221年、中国を統 一した政は始皇帝と名乗りました。ただし、統一と言っても、今の中国の領土より遙かに 小さいものです。 ○この時代の思想 乱世であった春秋・戦国期には、強力な国家を作るための思想や人々の精神の拠り所と なる思想が必要とされました。こうして登場したのが、諸子百家と総称されるものです。 分類すると以下のようになります。 儒家・・・孔子がはじめたもの。「徳」と「仁」を政治に求める。弟子によってに孔子の 教えが「論語」としてまとめられ、その後の中国と日本・朝鮮に大きな影響を 与えた。孟子もこの一派。 墨家・・・儒家を批判。鬼神の存在を唱える学派。墨子が創始。無差別平等の博愛を唱え た。キリストに似ている? 農家・・・神農の教えに基づき、平等の精神を主張。 道家・・・自然を尊び、自然の流れに任せれば世の中はよくなるという学派。老子・荘子 が有名。 隠陽家・・・天体の運行を人間生活に取り入れる学派。隠陽師でおなじみ。 法家・・・法律による人間社会形成を目指す。商鞅や韓非子が有名。 名家・・・言葉と実態の関係を究明しようとする学派。 兵家・・・孫武(孫子)の兵法はあまりに有名。兵士の用い方を説く学派。 なお、孫子の兵法は あくまで「用兵」、 つまりいかにして兵士 を上手く使い、被害を 最小限に抑えるかにあ る。 なお、孔子もそうでし、 この中国古代には、実 に様々な魅力や逸話を 持った人物が登場しま す。色々と紹介したい のは山々ですが、 そうすると膨大な量になってしまうので、「解りやすく、詳しく」を

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モットー とする私としては不本意ですが、こちらも興味がある方は、ぜひ自分でお調べ下さい。 なお、もう少し程度は、今後追加していく予定です。 秦と始皇帝の時代 ○始皇帝の政治 始皇帝は、法家の人間である李斯を丞相(首相のようなもの)にして、法治主義に基づ く政治を行います。また、それまでは各地に有力者に土地を与え、諸侯として政治を行わ せるのが一般的でしたが、彼は中央集権主義を目指し、役人を中央から派遣して政治を行 わせる「郡県制」を採用しました。こうして全国が郡と、その下に置かれた県によって分 けられました。 また、北方の遊牧騎馬民族の対策として「万里の長城」を建設しました。これは、すで に魏や趙など各諸侯が部分部分で建設してあったものを将軍蒙恬がつなぎ合わさせ、遼東 半島からオルドス(中国西部)までの距離を結ぶ、1つの長城にしたものです。 なお、今私たちが見る万里の長城(=写真/撮影:七ノ瀬悠紀)は明の時代にモンゴル の侵入を防ぐために大修築を行ったもので、秦の時代はここまで立派ではなく、馬が飛び 越えられないようにする程度の土塁程度のものでありました。どうやって作ったかは後述 で、この万里の長城の建設により、始皇帝は南へ進出する余裕ができ、南越(現在の北ヴェ トナム)まで征服します。 その他に全国で度量衡(重さや長さなどの単位)、貨幣、文字の統一をし、交通を整備 し、経済や文化面で中国を1つの基準にまとめあげました。もちろん、商業の発展に大き く貢献します。 また、中央集権主義的な始皇帝の政治を批判した儒家に対して、徹底的な 弾圧を行い、また医薬書や農書などの実用書以外の書物を焼き捨て、儒者を穴に埋めて殺 すという「焚書・坑儒」を行いました。おかげで、後世まで始皇帝は悪くいわれることに なりました。 そんな力強い(?)始皇帝でしたが、自らの死を非常に恐れました。そのため、年をと るにつれ怪しげな不老不死の思想に染まっていきます。日本でもお馴染み、徐福という人 物は、そんな始皇帝から「不老不死の妙薬を取ってくるから金ください」とせびり、日本 に来たといわれています。 結局不老不死などできるはずもなく、徐福から薬が届くわけもなく、始皇帝は皇帝の 座についてから11年目の時、地方巡幸中に熱病で死亡しました。始皇帝自身は、名声が 高かった長男の扶蘇を選ぶつもりでしたが、後継者には、始皇帝の末子・胡亥が選ばれま した。これは、宦官の趙高と丞相の李斯が、自分たちに都合のいい人物を選び、始皇帝の 遺言だと偽ったからです。そして、扶蘇は趙高によって自殺に追い込まれました。

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ところで、前に述べた万里の長城。ここには当時を代表している土木技術、版築とい う工法が使われています。版築とは、華北でとれる粘土質の黄土を突き固めて壁などを作 る工法です。厚さは6~9cmに保たれます。この程度だと、乾燥すれば固まって、崩れ ないのです。逆に、乾燥して崩れた場合それは手抜き工事だったことが判明。作業部長(?) が厳罰を受けます。この工法は、万里の長城やその他の中国の建物だけではありません、 朝鮮や日本にも伝わり吉野ヶ里(遺跡)など様々な場所で使われました。 ○.始皇帝の兵馬俑 ところで、始皇帝、それから二世皇帝も 土木建築マニアでした。 マニアというか、力を示すことが正し いことだと考えたのですね。 先ほども少し書きましたが、特に今も 私たちに圧倒的な迫力を見せつけるのが、 今の西安、当時の秦の首都・咸陽(かん よう)にある、兵馬俑です(=写真/撮 影:七ノ瀬悠紀)。1974年3月に地 元農民が井戸を掘り始めたところ、偶然 に発見!(この農民の方、今もガイドをやっていらっしゃいます) そう、これは始皇帝のお墓です。 中からは、始皇帝のお墓を守る意味で造られたであろう膨大な量、しかも1対1体表情 の違う武装兵士、馬の塑像が発掘されました。写真に映っているのは一部ですよ! これを造るために犯罪者が使われましたが、人手が足りないので多くの農民が命令で駆 り出され、始皇帝は民衆の憎悪の的になったんですね。さらに、駆り出されると農作業が 出来ず、そのために税が払えないと(なんと収穫の3分の2)犯罪者として、やはり労役 に駆り出される。しかも、駆り出された人達は、期限までに作業場に到着しないと殺され ます。 さらに、到着しても工事が終わると秘密を守るために殺されるというウワサまで・・・ 法による政治が原因と言うよりも、一般の民衆にとってはむしろこのあたりが秦に対する 不満を高めたのかもしれません。反乱が起きないのが不思議なぐらいです。万里の長城だ ってそうです。延長された部分も含めると、あれだけ長い距離を造ったわけですから、駆 り出される人達はたまったものではありません。しかし、この兵馬俑や万里の長城のおか げで私たちは、当時の技術の高さが解るのですから、皮肉なものですね。 ○皇帝? ところで、皇帝という言葉がここで初めて出てきたのにお気づきでしょうか? これは、始皇帝が名乗り始めた称号で、以後、中国の君主は「皇帝」を名乗ります。そ の由来は、大きくは2つ説がありまして、1つは中国古代の伝説上の君主である「三皇五

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帝」より。もう1つは、皇とは「煌」すなわち光り輝く、美しく、宇宙万物を主宰すると いう意味からだ、というものです。 もう1つ、始皇帝は独創的なことをしました。 すなわち彼は、死んだ後に贈られる武王、とか孝文王のような生前の業績を反映した称 号を嫌い、中立的に始皇帝、二世皇帝、三世皇帝・・・と称号を決めました。 しかしこちらは全く定着せず、秦の滅亡と共にしています。 ○陳勝・呉広の反乱と章邯 始皇帝の政治は、革新的であった一方で、特に当時の人から見ると「法」というものを あまりに重視しすぎた政治でした。また、郡県制に対する保守派の不満、度重なる外征に 長城の修築、首都にある咸陽宮と南の阿房宮の造営などが人々の生活を圧迫しました。加 えて、始皇帝が死ぬと、二世皇帝胡亥を操る趙高によるいい加減な政治が行われました(そ れを端的に表すのが、”馬鹿”という言葉の起源となったこの故事)。 しかも、相変わらず工事は継続。特に、阿房宮の造営はやめてはどうか、という提言を した官僚もいましたが、処刑。さらに、李斯も趙高によって投獄され、他ならぬ李斯自身 が定めた八つ裂きに近い極刑にされてしまいました。こうした中で、蜂起する人々が相次 ぎます。 先駆けとなったのが、中国史上初の農民反乱、陳勝と呉広による反乱です。真偽不明で すが、首謀者の陳勝(後から自分で付けた名前らしい。当時、身分の低い人々は名前を持 たない人が多かった)の言葉として「王侯将相いずくんぞ種あらんや」というものがあり ます。王だろうが諸侯だろうが、我々と同じ人間だろ、と言う感じの意味で、実力こそす べてという当時の世相を現すものとして代表的な言葉といえるでしょう。 この陳勝・呉広による反乱は秦の章邯が率いる軍勢により鎮圧されます。しかし、彼ら がつけた火は消し止められることなく、楚という国家の名将軍、項燕の子孫である項梁を 中心としたグループが勢力を拡大します。そして項梁は、軍師の范増の進言で、楚の王族 を探し出し即位させます(懐王)。こうして、戦いのシンボル的存在を確保し章邯と戦っ た項梁でしたが、定陶の戦いで、ワザと敗北したフリをして撤退した章邯の作戦に油断し た項梁は、取り囲まれて殺されてしまいました。 ○項羽の猛攻 こうして、章邯の名声は大きく上がり、各地で復活しつつあった旧国家群に攻勢を強め ていくのですが・・・。 なんと、項梁の甥である項羽が獅子奮迅の働きで章邯の軍勢を打ち破っていったのです。 章邯は本国に援軍や物資の補給を要請すべく、司馬欣を派遣するのですが、秦の丞相とな っていた趙高は「いかん、私が今までのことを皇帝に報告していなかった罪を問われる」

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と恐れ、司馬欣を皇帝に会わせないばかりか、章邯や司馬欣らの一族を処刑するという暴 挙に出ます。 司馬欣も当然、殺されかけるのですが逃走に成功し、章邯の下に帰還。 章邯らは20万の軍勢を率いて、項羽に降伏。叔父を殺された恨みもあった項羽でした が、章邯には利用価値があると考え、また元々が情に厚い人物でしたので章邯らに深く同 情し、降伏を許可します。 ところが、この項羽は同時に人の命をなんとも思わない非情さも持ち合わせており、章 邯がつれてきた20万の兵士達が、項羽の扱いに不満を持っていると情報を得るや、全て 虐殺するという行為に出ました。 章邯、司馬欣、それから董翳という人物は引き続き厚遇されましたが、複雑な立場に立 たされることになります。 さて、そうした間に秦の内部では動きがありました。 さすがに二世皇帝の胡亥も秦が滅亡の危機にあることを察知し、趙高の責任を追及する ことを考えたのですが、なんと趙高の方が先手を打って胡亥を暗殺しました。そして後継 者に、趙高らが策略で自殺させた扶蘇の息子、子嬰を選ぶのですが、これは趙高の誤算だ った。彼は、その子嬰に殺されてしまったのです。趙高は一族もろとも、やりたい放題の 人生に幕を閉じました。 こうして体制を整えなおした秦でしたが、楚の劉邦率いる軍勢の勢いをとめることは出 来ず、結局降伏することになりました。 子嬰は在位46日で退位し、秦は滅亡しました。そして、劉邦の軍勢は規律を比較的守 り、さらに劉邦の部下の蕭何(しょうか)は秦がまとめた中国各地の様々なデータを差し 押さえて、劉邦の軍勢と政治に大きなプラスの効果を与えています。 ○項羽と劉邦 さて、こうして秦の首都である咸陽に一番乗りした劉邦でしたが、激怒したのは項羽。 もともとの約束で、咸陽に一番乗りした人物を関中王にする!ということになっていた のですが、項羽は「オレが必死に章邯と戦っていたから、劉邦ごときが一番乗りできたの だ。本来であれば、オレの手柄のはずだ!」と激怒。項羽に本気で攻められたら、劉邦は たまったものではありません。 軍師の張良の機転のおかげで、うま~く項羽に弁明することに成功し、劉邦は命拾いし ます。 こうして項羽は論功行賞を行い、この中で劉邦は漢王として左遷され、中国西部の僻 地へと追いやられました。そして、子嬰ら秦王国の人々は項羽によって殺されました。項 羽の勢い、とどまるところ知らず!しまいには、楚の懐王も目の上のたんこぶで邪魔だ、 というので殺してしまったぐらいです。しかし、劉邦は優秀な部下に囲まれ、着々と反撃 の機会を待っていたのでした。

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この中で、項羽の下では出世できずに劉邦の元にやってきた韓信という人物の軍事 的才能が抜群で、劉邦は彼を大元帥に任命します。 急速に、劉邦の軍勢は強力になっていきました。 漢の時代 ○.項羽と劉邦 こうして劉邦は兵力を整えると出陣し、秦の地を守っていた章邯らを倒します。 急激に勢力を拡大し、項羽を脅かすにいたりますが・・・しかし、さすがに項羽は強い。 別働隊を率いる韓信が戦果を上げていましたが、劉邦自身は各地で敗北していきました。 しかし、最終的には劉邦は項羽を倒すことに成功するのです。それはいったい何故か。 やはり、項羽と劉邦の人物性の違いにあるでしょう。 まず。劉邦は、どういう人物だったのでしょうか。 彼は、沛という町のごろつきでした。農家の出身で3男。言葉遣いが悪く、好色で、よ く大言壮語を言う人物でした。しかし、何か彼には人を引きつける魅力があったのでしょ う。彼には仲間も多く、沛の町の人々が決起したとき、役人であった蕭何(しょうか)や 曹参らが中心となり、劉邦を頭目にすることにしました。そして、韓の国の貴族・張良(軍 師として活躍)、将軍として大活躍をする周勃や韓信、張良と並び策略に長けた陳平など が加わります。 そして、劉邦は蕭何達を信頼し、徹底的に軍の運営を任せます。彼のもっとも長けた能 力というのが、人材を適材適所におき、信頼して任せるということです。このようなとこ ろには、人材がよく集まるもののです。 一方の項羽。彼は秦に滅ぼされた楚の名将軍、項燕の子孫でした。家柄の点で劉邦とは 大きく異なります。そして、彼は武道に長け、項羽が来たというだけで敵を震え上がらせ る人物でした。また、親戚や直属の部下をよく愛し、部下からの信頼もあつかったのです。 しかし、彼は自分が一番だと才能に溺れることが多かったようです。そのため、恩賞を惜 しみ、また軍師の范増や、その他の人達からの献策を受け入れないことが非常に多く、恩 賞が欲しい人々や、知恵で勝負!という人達は、彼から心が離れてゆきます。 頑張っても 報われませんからね。 これが、2人の運命を決定的に変えたものだったでしょう。 負けながらも少しずつ項羽軍の弱体化を図っていた、張良ら劉邦軍の首脳部と、後方で 補給を確実に行っていた蕭何。そして、項羽の軍師・范増が亡くなったこともあり、スキ が生じた項羽の軍勢へ一気に攻勢を強めます。

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そして、自分の城の周りを包囲している漢の軍から故郷の楚の歌が流れる「四面楚歌」 でおなじみ、垓下の戦いで項羽は戦死し、劉邦は「漢」を建国。都を長安に定めます。「漢」 は一地方の名前でしたが、これにより「漢民族」という名に表されるように、中国を代表 する呼び名となりました。一方「秦」も英語のチャイナなど、外国において中国を表すよ うになります。 ○漢の政治 劉邦(死後に高祖とよばれる。)は、秦が滅亡したのは、人々が体験したことのない郡 県制を強行したからだと考えました。そのため一族・功臣を各地に封じ、従来通りの諸侯 王国を作らせる一方、都の長安周辺など重要地域には郡県制をひく、郡国制を実施しまし た。 この諸侯王のうち、功臣が封じられた王は、劉邦自身によって討伐され、劉氏一族の人々 と交代させられます。韓信も例外でなく、討伐されたのですが(最終的には劉邦の正妻、 呂后が劉邦のいないときに勝手に処刑する)、さすがにこの時には劉邦も、何かやり切れ ないものを感じたようです。 しかし、いわゆる猛将と言われる人々は危険であり、さらに劉邦の蜂起当初からいたわ けでなく、途中から恩賞を求め参加した者が大半でしたから、誅殺される運命にありまし た。 また、政治の最高職である丞相になった蕭何は、疲弊した国力を回復させるべく、匈奴 には金などを贈ることで和を乞い(一度、劉邦自ら攻め込んで大敗北を喫している)、ま た始皇帝のような大工事を一切やめました。これにより、民衆の生活を安定させ、戦乱に より激減した人口の回復をはかったのです。 さて、劉邦の死後、正妻の呂后が産んだ恵帝(位 前195~188年)が即位します が、気の弱い彼は母の言いなりで、呂后によって独裁政治が行われます。彼女は一族を高 位につけ、呂氏政権のようなものを作り上げました。若くして恵帝が死ぬと、彼に子がい なかったにもかかわらず、偽の子をでっち上げて引き続き彼女が親政しました。これに対 し、陳平や周勃といった漢の功臣達はなりを潜め、彼女の死を待ちました。 また、張良はすでに死去していましたが、蕭何は「悪徳親父」を装うことで、呂后の注 意を逸らしました(そしてそのまま死去)。そして、彼女が死ぬと、陳平達は呂氏の人々 をことごとく殺し、劉氏の政権に戻しました。才があり、恐ろしいのは呂后一人だったの です。劉邦の4男で代王の劉恒(りゅうこう)が迎えられ、文帝と呼ばれる名君(位 前 180~前157年)となりました。 ところで、民衆はといいますと、実はこの時代、大きな戦争もなく安穏に暮らしてまし た。血なまぐさい争いは、宮廷の中だけだったのです。 前2世紀頃になると漢の体制が次第に固まってきました。そこで中央政府は、中央集権

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化を押しし進めるべく、諸侯王の権限や領地を大幅にカットします。これに対し、「せっ かく今まで開発してきた土地を奪われてたまるか!」と、呉王劉嚊(劉邦の兄の子供)を 中心に反乱が起きます。これを、呉楚七国の乱といいます。 この乱は呂后の時と違い、かなり広範囲で火の手が上がりましたが、あっさりと鎮圧さ れます。民衆の支持が全く得られなかったのが、その原因といえるでしょう。そして、こ れにより漢は、実質的に郡県制へ移行します。 漢の時代 ○武帝による積極策 「無理をしない」という消極策をとった漢の方針が転換されたのは、劉徹(武帝 位 前 141~前87年)の時です。いよいよ国内体制も固まり、財政も黒字でお金がどんどん 貯まり、民衆の生活も安定してきたことで、いよいよ領土の拡大を図るようになります。 まず、北は匈奴に遠征し、西はオルドス・甘粛地域を征服し、後に有名となる敦煌などの 諸郡を置きました。また、匈奴攻めは、大将軍の衛青、その娘婿で、大司馬(大将軍に並 ぶ地位)の霍去病に担当させ、ある程度の戦果は上げますが、惜しいことに霍去病は24 歳で死去。 またそれに先立ち前139年頃~前126年にかけて、張騫を西方の大月氏(ダイゲッ シ。大月氏は当て字)に派遣し、「一緒に匈奴を攻めよう」と、申し入れましたが、匈奴 をおそれた大月氏に拒絶されます。 しかし、それまで知られていなかった西域の事情が判明しました。武帝もこれだけでも 非常に満足したそうです。その後、匈奴を北へ追い払うことに成功。また、南方にも進出 し、現在の福建省やさらに北ヴェトナムまで征服します。それだけでなく朝鮮にも攻め込 み、前2世紀に衛満という亡命中国人が建国した衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪をはじめとする 4郡を置きます。 さらに、今の中国雲南部にあった愼国(てん 正しい漢字がは、りっしんべんの部分が、 さんずい)、それから秦の時代末期に、北ヴェトナムに趙佗という人物が独立して建国し た南越国を滅ぼしました。 それから、忘れてはいけないのが儒教の官学化です。中国には、色々な思想がありまし たので、当初は儒教はその中の1つに過ぎなかったのですが、次第に人々に普及。武帝は 儒教が好きでしたから、前136年、董仲舒の献策で五経博士というものを設置。つまり、 儒教を官の中に組み込んだわけで、官学になったわけです。 また、人材登用制度の面では、前134年に「郷挙里選」という制度を定めます。字か らだいたい想像が付くと思いますが、郡の太守が自分の胆と地方で「この人物は、なかな かの人物です」といわれている者を皇帝に推薦する、という制度です。ちなみに、この時 期の中央~地方の行政組織の関係ですが、郡>県>郷>里 という単位に別れています。 日本では異なりますね。

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一見、武帝は漢にとって、輝かしい功績を挙げたように思われます。 しかし、これらの度重なる遠征で貯蓄は一気に吹っ飛び財政は大赤字になりました。そ こで武帝は、均輸・平準という物価統制策をとり(均輸とは、例えば米が豊作の地域の米 を不作の地域で転売し利益を得ること。平準とは、物資が豊富なときに買い上げて貯蔵し、 物価が上がるとこれを売り利益を得るもの。商売の基本ではある)、塩・鉄・酒といった 生活必需品を専売にします。 さらに武帝は晩年に耄碌したのでしょう。江充というおべっか使いを寵愛するようにな ります。この人物は、ライバルの罪を次々でっち上げ排除しました。そこで、これではい けないと、武帝がいないすきに皇太子(劉拠)が彼を斬ったのですが、怒った武帝は皇太 子を自殺させてしまいます。武帝は翌年に数々の証言から皇太子の無実を知り、自殺させ たことを大変後悔し、江充の一族を誅殺しましたが、後の祭りでした。 ○滅亡する漢 その後の漢は、1人の名君をのぞけば衰亡の一途をたどります。1人の名君とは、民間 で育てられていた劉詢(宣帝 位 前74~前49年)です。この人物は、劉拠の孫であ り、前述のいきさつにより、民間に追放されたまま放っておかれました。 そんな中、当時漢の実権を握っていた霍光(武帝の后の一族で、霍去病の異母弟 武帝 のお気に入り)が、劉詢を自分の操りやすい人物として目を付けます。劉詢は18歳の時 に、皇帝に迎えられることになりました。 民間で育った劉詢こと宣帝には、自分を補佐するスタッフがいません。そのため、嫌で も霍光に政治を任せるしかなかったのですが、彼はしたたかでした。霍光が死ぬと、彼が 持っていた大権を、彼の一族に分割して授けます。そして、少しずつ権力を削り、謀反の 容疑で霍一族を一気に殲滅しました。 そして、宣帝は43歳で死ぬまで、民間で得たノウハウ、そしてその頃に行った、旅行 で得た知識を生かした政治を行います。まず、塩の値段を下げます。さすがに専売はやめ ることは出来ませんでしたが、それでも民間にいた宣帝は、塩の値段が生活に与える影響 を知っていました。また、各地では下っ端の役人が一般に人々を拷問にかけることがあっ たのですが、これを徹底的に調査させました。また、彼は治安の悪化を防ぐべく、あえて 法律を厳罰にし、そのかわり公平清廉な役人をなるべく採用するようにしました。 さらに、これは運が良かったのですが、匈奴で後継者争いが起き、結局漢に降伏しまし た。これで、北方の守りを軽くすることができ、歳出削減になりました。そして、大きな 戦争は、どうしても必要なときは徹底してやり、なるべく人々を戦争にかり出さないよう 減らしました。

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しかし彼の息子の元帝(位 前49~前33年)は、儒教かぶれで、商売は聖人の行い ではないと、塩の専売などをすべてやめ(国家財政に大きな影響がでて、9年後に復活)、 また日夜「貨幣経済をやめて、古代の物々交換に戻そうではないか!」とばかげた議論を 行うなど、現実の政治はないがしろにされました。 そして、元帝が死ぬと、その皇后の一族の王莽が台頭を始め、「私こそ立派な人物だ!」 と、うまく宣伝し、紀元後8年、漢を乗っ取り「新」という国を建国するのです。民衆に してみれば、名君なら誰でもよいわけで、ついつい王莽の言葉を信じてしまったといえま す。 そんなわけで宣帝は、折角漢を立て直したのに、 馬鹿息子のために国を崩壊させてしま います。 じゃあ、どうして馬鹿息子を皇帝にしたのかというと、 つまり、他にも息子は いただろうに、そいつを皇帝にしたのか。 それは、馬鹿息子の母親、つまり宣帝の妻は霍光に殺されちゃっているんです(霍光の 息のかかる者を皇后にするため)。 しかも、この奥さん、彼が皇帝になる前からのつき合 いで、文字通り苦楽を共にしていました。それが、影響して馬鹿息子でも亡き妻のために 皇帝にしたらしい。 が、これが滅亡の原因に。 国家に私情を挟んではいけないと言われますが、この例を見 る限りではそうなりますね。 ○「新」~15年で滅亡した王朝 しかし、王莽もロクな人物ではありませんでした。彼は、すべてを古代の「周」に戻そ うとしたのです。地名を昔のものに変えたり、官僚制度を昔と同じものにしたりなど、ど うでもよいことばかりし、人々の生活を大混乱に陥れました。このため、農民による赤眉 の乱や、地方豪族による反乱が相次ぎます。 この中で王莽は殺され、反乱軍同士で争った結果、最終的に漢の皇室の1人である劉秀 が皇帝に即位(光武帝 位25~57年)し、漢が復活しました。これを便宜上、後漢(2 5~220年)と呼びます。ちなみに劉秀は、漢の皇室に連なる人でしたが、しかしかな り遠い縁戚になります。 本人自身、元々は高い位につければいいなあと望む普通の人物で した。しかし人望を集め、皇帝になったのでした。 なお、前2年、一説によると後67年には、儒教と並んで中国に大きな影響を与えるこ とになる仏教が伝来しています。 後漢~復活した漢だが ○後漢の時代~・・反省無し?

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後漢は、前漢と違って、都を洛陽に定めました。 なぜ長安に定めなかったのでしょうか。それは、長安は天然の要害の中にあり、防衛に はよい拠点でしたが、その一方で交通の便が悪いというデメリットがありました。ゆえに、 後漢は洛陽に都を定めたのでした。 また、前漢と同様、最初は社会秩序の回復のため、対外消極策をとりましたが、まもな く匈奴を討ちます。匈奴は北と南に分裂し、南匈奴は後漢に従い、北匈奴は西へ移動して ゆきます。そして、後漢は西域の経営に力を入れ始めました。さらに、その西域を治める 役職である西域都護の班超は、部下の甘英を、当時ヨーロッパと中東アジア地域を支配し ていたローマ帝国(前27~394年 それ以降は東西に分離)に送りました。甘英はシ リアまで行き、戻っています。 と、ここで疑問が出てくるのは、なぜ甘英はローマまで行かなかったのか、ということ ですね。 それは、シリアで「ローマまでまだあと4、5年はかかるよ」と脅されホームシックに かかったからです。とんでもない。シリアまで行けば、ローマまでそう長くはありません。 しかし、シリアから見ればシルクロードの中継貿易で設けているのに、ローマと漢が直接 交易を始めたら、中間マージンが消えてしまいます。そこで、甘英を脅したというのです。 ローマと中国が直接交易を行っていたら、歴史はどうなっていたのでしょうか! また、2世紀中頃にはローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(中国 の文献では大秦国王安敦と表記)の使いと名乗るものが、海路でヴェトナム中部におかれ ていた日南郡に来ます。さらに、古代日本からも、奴国という国(クニ)が、洛陽まで赴 き、光武帝より金印を授けられています。これが有名な、「漢委奴国王印」という金印で す。 余談ですが、先に述べたとおり匈奴の一部は西へ西へと移動します。これが一説による とフン族の大移動というもので、フン族(匈奴?)はヨーロッパにたどり着きます。そし て、ゲルマン民族を追い出し、追い出されたゲルマン民族は、既に衰退著しかった西ロー マ帝国に流入し、帝国を滅ぼしたといわれます。古代から世界はつながっているものです ね。 その他、南方に対しては前40年にヴェトナムで漢の暴政に対して起こったチュン(徴) 姉妹の反乱を将軍の馬援を派遣し鎮圧しています。チュン姉妹とはハノイ西方の土着首長 の娘、徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニー)の姉妹です。前43年に処刑されてい ます。 さて、強勢を誇った後漢でしたが、幼帝が続いたことで、それを取り巻く宦官と外戚が 争い、また儒教の教養をつけた官僚や学者が弾圧され(党錮の禁)、地方では豪族が勢力 を張り、農民の反乱が起き、大きく衰退し滅亡に向かいます。前漢の滅亡の原因を全然反 省していなかったわけです。

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○漢代の社会と文化 漢代では、大土地所有が盛んになりました。そして、豪族は多数の奴隷や小作人を使っ て、耕作させるようになります。奴隷になった人々は、その多くが戦乱で土地を失ったも のや、兵役などの負担に苦しんだ人々です。後漢の光武帝は、奴隷解放詔書を出しました し、それから政府は土地の広さと奴隷の数を制限する限田法を施行しましたが、強大な力 を持つ豪族の前に効果はありませんでした。 また、儒教が少しずつ盛んになります。武帝が董仲舒の薦めで官学としたのを儒教を始 め、歴代皇帝の中に信奉者がでてきます。しかし、それに対し、当時は「無為」をモット ーとした老子・莊子の思想である老荘思想、それから法家の思想も盛んでした。皇帝の中 でも、例えば宣帝は法家的な思想の持ち主です。 それから、忘れてはいけないのが歴史書です。古代史から漢の成立まで書いた司馬遷の 『史記』(古代史の記述は初)、それから班固の『漢書』は、皇帝や、人物ごとに焦点を 当てて書かれた紀伝体の傑作として後世に影響しています。ちなみに、これに対してそれ までは、年代順に事件が書かれた編年体が主流でした。 なお、司馬遷といえば、以下のエピソードが有名です。すなわち、匈奴に攻め込んで、 必死に戦ったのにもかかわらず、味方の軍のふがいなさによって、敗北し匈奴に捕まった 李陵という人物について、武帝とその取り巻きが弾劾したため、「それはおかしい」とた だ一人反対。 これに武帝は激怒し、死罪を申し渡しますが、史記を完成させなければならなかった司 馬遷は、それよりもっと重い罪である、男の一物を切って宦官になるという道を選びまし た。 また、漢代には宦官の蔡倫によって紙が改良され、使いやすくなったことで、それまで の木簡・竹簡に代わって普及します。 これは文化の発展に大きく貢献することになります。ちなみに紙がヨーロッパに伝わっ たのは何世紀も後。751年、唐とアッバース朝という王朝が戦い、その中にいた紙職人 が、アッバース朝の捕虜になったことで、イスラムに製紙法が伝わり・・・てな具合です。 ちなみに、宦官というと皆悪人のように思われますが、蔡倫のようにすぐれた人物もい ました。むしろ、すぐれた人物がいたために皇帝が宦官を重用し、その中から皇帝を操ろ うとする人々がでてくることもあります。

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三国志~群雄争う~ ○蜀漢の劉備と家臣団 一方の劉備(先主 161~位221~223 年)。この人物は、景帝の子孫を称しています。ゆ えに漢の皇室に連なるということが最大のウリで したが、実際の所はよくわかりません。彼は、むし ろを売っていた貧乏人でした。しかし、景帝は子沢 山でさらにその何代もあとの子孫ですから、落ちぶ れた家もでていてもおかしくはありません。 しかし劉備は、漢を建国した劉邦とうり二つのよ うな人物で非常に魅力的であったようです。それが、 ほとんど無一文であったのにも関わらず関羽(か んう ?~219年)・張飛(ちょうひ ?~221年)・趙雲(ちょううん ?~22 9年)といった勇猛な部下を得ることが出来ました。 「漢の王室を助ける!」 劉備達のそのメッセージと、そしてそれを達成できず、志半ばで終わってしまったこと は、後世の人々の涙を誘い、必要以上によく書かれました。しかし、それを差し引いても 劉備達は人情味あふれる集団だったようです。そして彼らは、なかなか定住することが出 来ず、各地を転々としていましたが、諸葛亮(孔明)(181~234年)に出会います。 彼の家を劉備は何度も訪問し、三顧の礼を尽くして家臣に迎える・・・一説には逆に諸葛 亮から「雇ってくれ」と売り込まれた、と言う話もありますが、ともあれ運命的な出会い。 このあと、さらに当時、諸葛亮と並んで、その筋の人には天才だと、その名が高かった 統(ほうとう 178~213年)を家臣に迎えることに成功。一説には、劉備は彼を諸 葛亮よりも信頼し、さらに軍事担当は彼、内政は諸葛亮にしようと考えていたようです。 そして、根無し草だった彼らも、まず荊州を確保すると、中国西部の蜀の地に攻め込み、 ここを治めていた劉璋(りゅうしょう ?~219年)を降伏させ、これを占領します。 ところが激戦の中で、 統が戦死してしまいます。 このため、諸葛亮が軍政も担当する羽目になり、彼には激務がのしかかることになります。 ○蜀漢を建国したものの、友情を優先 さて、後漢が滅亡すると、劉備は成都を都に定め、蜀(221~263年)を建国しま した。なお、実際には国号は「漢」を名乗っています。蜀とはあくまで歴史家が便宜上分 ける名前です。また、蜀漢とも呼ばれます。こうして皇帝になった劉備ですが、どんなこ

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とよりも先にやることがありました。 それは、呉の地域を支配する孫権によって、兄弟のように信頼し合っていた部下の関羽 が殺され、しかも荊州を失っていたため、彼の弔い合戦をすることでした。 普通、部下が殺されたぐらいで一々弔い合戦なんてやりませんが、この2人+張飛の友 情は半端ではなく、もう怒り心頭だったんですね。周囲は当然反対しますが、それを押し 切って合戦の準備じゃ!! しかし、出陣準備中に、やはり兄弟同然に信頼していた張飛が部下に殺される事態が 発生。 その知らせを伝える使者が来たとき、劉備は、「ああ、張飛が死んでしまったか」 と内容を聞く前に言ったといいます。こうして信頼する部下を2人も失った劉備の怒りは 激しく、孫権軍に対して猛攻撃をかけ、孫権をビックリさせます。しかし、周りが見えて いなかったこともあり、孫権軍の陸遜(りくそん 183~245年)率いる軍勢に大敗 北。劉備は逃げ帰ると、すっかり落ち込んでしまい、失意のうちに亡くなります。 その直前、彼は暗愚な息子劉禅(後主 207~位223~271年)を諸葛亮に託す のが申し訳ないと、「息子がどうしようもなく馬鹿だったら、君が代わりに皇帝になって もよい」 と言います。 この頃、これほどまでに諸葛亮は劉備に信頼されていました。この言葉を、劉備は諸葛 亮の性格を知っているから、そんな言葉が言えたのだという意見もありますが、しかしな かなか言える言葉でもないでしょう。ただし暗愚とはいえ、劉禅にしてみれば居心地がよ くありません。オヤジは自分より部下を後継者にしたがっているのか、ということ。 それもあり、諸葛亮は劉禅に有名な「出師の表」という名文を書き、蜀のおかれた環境 と、自らに二心がないことを示します。そして、亡き劉備の夢を叶えるべく連年のように 魏に侵攻します。 しかし、人材の不足などから勝つことは出来ず、最後には魏の名軍師司馬懿が登場。諸 葛亮は司馬懿の持久戦作戦に負け、陣中で病死するのでした。 謹厳実直な上、内政も軍政も両方とも担当して疲れ果てたものと思われます。間違いな く過労死ですね。また、彼はほとんど財産を残しませんでした。ここも、後世の人から尊 敬される理由といえます。 ところで名軍師と呼ばれる彼ですが、果たして名軍師と呼べるほど、才能があったの かどうか、疑われています。しかし、それでも人材豊富な魏と互角に渡り合ったのですか ら、やはりそれなりの能力はあったのではないでしょうか。 むしろ、仕事を他人に分配さ せられなかったところに、蜀の人材不足、諸葛亮の使命感と、一方で欠点があるのでは、 と私は思います。

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そして蜀は、諸葛亮の死後、その腹心達によってしばらくは持ちますが、彼らが死ぬ と魏にあっさりと滅ぼされてしまいます。 劉禅が宦官と遊んでばかりいたのが原因でした。 ○孫権の呉と魏の滅亡 もう一つ、孫権(182~252年 大皇帝 位229~252年)。兵法で有名な孫武(孫子) の子孫を称する彼は、長江下流域を本拠に勢力を 固めました。 彼のモットーは、これは!と思った部下を見つ けたら、とことん信頼し、仕事をさせることにあ りました。 そんな中、曹操が呉に攻撃を仕掛けようとして いました。 曹操の強さは皆の知るところ。降伏しよう、という意見が大勢を占めていました。しか し 当時、荊州にいた劉備からの働きかけと、孫権の兄・孫策の無二の親友だった名将軍・ 周瑜(しゅうゆ 170~210年)が「我々は向こうでも出世できるが、貴方はそうは 行くまい。徹底抗戦すべし!」と述べます。孫権は「よっしゃ!そしたらお前に全部任せ るぞ!」というわけで、有名な赤壁の戦いで、周喩率いる呉の軍勢が魏の軍勢を大いに撃 ち破り、覇権を確立します。 さらに、彼は部下の教育も行います。呂蒙(りょもう 178~219年)という人物 は勇猛でしたが、いささか猪突猛進型の人間でした。しかし、孫権は「奴は鍛えれば頭脳 派としても使える人間になる」と考え、直々に「これと、これと、これを読め!」と色々 な兵法書を提示。呂蒙も「私のためにそこまで言ってくれるとは!」と感激し、猛勉強。 以後、豊富な知略と有能さを兼ね備えた名将となり、関羽を倒し、荊州を確保することに 成功します。ただ、これからと言うときに、周喩も呂蒙も亡くなってしまうのですが・・・。 それから孫権は、北ヴェトナムぐらいまで占領し、地図を見て頂ければ解りますが、領 土はかなり広範囲に及びます。 そして、229年に正式に建国し「呉」を国号とします。 また蜀漢の諸葛亮らが連年のように魏を攻めたのに対し、孫権は慎重策をとります。 これにより、呉はさらに発展し、その後の江南発展の基礎作りに大きく貢献しました。 ところで、劉備と諸葛亮の信頼関係は美談として有名ですが、実は、諸葛亮の兄・諸葛 謹と孫権の信頼関係も、なかなかのものでした。前述した通り、劉備は関羽を殺された恨

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みから孫権軍に攻め込んできます。そこで、諸葛謹は劉備に対し「気持ちは解るが、魏を 討つ方が先なのではないか」と手紙を送ります。もちろん、劉備にとっては魏よりも関羽 の仇の方が優先でしたから問答無用。 ところが、この諸葛謹の行動に「奴は劉備に内通しております」と孫権に訴える者がい ました。しかし孫権は「私も諸葛謹も互いに背かないと誓い合ったのだ」と言い、まった く取り上げませんでした。弟があまりにも有名すぎたため、諸葛謹も色々と疑いをかけら れ苦労したようですが、主君からは絶対的な信頼。そりゃもう、頑張っちゃうしかないで すなあ。しかし、孫権は晩年に耄碌(もうろく)し、後継者選びの時に、孫権の方針に反 対した多くの名家臣を死に追いやってしまい、陸遜も巻き込まれて死んでしまいました。 ところで魏は、文帝の子、曹叡(明帝 205~位226~239年)の死後、司馬懿 によって骨抜きにされ、そして彼の次男の司馬昭が魏の全権を掌握。曹操の時の同じよう に、司馬昭は皇帝の座には就かず、息子の司馬炎(236~290年)が皇帝に就きまし た(武帝 位265~290年)。晋の建国です。 ・・・人名が多く出てきてご免なさい。しかし、項羽と劉邦、三国志は武将達のドラマ として有名ですが、これ以後の歴史では皇帝達ばかりが登場します。業績を皇帝一人に結 びつける書き方がされたからでしょうか。 晋~南北朝時代 ○晋は長く続かず・・・。 3国のうち最後まで残った呉は、北ヴェトナム地域まで征服しますが、君主選びに失敗 し孫晧を帝位に就けてしまいます。「こいつなら扱いやすい陛下になるだろう・・」とい う思惑があったのでしょうが、なんと彼は、残虐な人物で周りの人々を次々殺し、呉の国 力は大きく低下。無論、人々の心はどんどん呉から離れました。ここで晋が侵攻して来て、 ついに呉は滅亡し、三国志の時代が終焉するのでした。 しかし、その晋も長くは続きません。司馬炎の死後、恵帝が即位しましたが、武帝の皇 后楊氏一族と、恵帝の皇后賈氏一族が争います。そして、賈氏一族が汝南王司馬亮と楚王 司馬偉を味方につけ、楊氏一族を滅ぼすのですが、さらに用済みということで汝南王と楚 王を殺害してしまいます。ここで8人の諸王を巻き込んだ内乱が発生し、そのうち7人が 死亡し、306年に恵帝の弟が帝位に就くまで続きます。これを八王の乱といいます。 晋はこれにより国力が大いに低下し、農民は荒廃した華北の地から南へと移住し、また この乱で利用された匈奴の侵攻を防ぎきれず、316年に滅亡してしまいました。 その頃、呉の都であった建業(その当時には建康へと改名)に司馬氏一族の司馬睿がい

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ました。彼は、晋の滅亡の知らせを聞くと、地元の有力者王導と、江南の地へ逃れてきた 晋の貴族とともに、晋を再建します。これを東晋、そしてその前の晋を西晋と歴史学では 区別します。 この国は、門閥貴族による土地所有で没落した農民の反乱で衰え、そして悲願の洛陽・ 長安占領で名声を得た将軍・劉裕により420年に乗っ取られて滅亡し、宋が(420~ 479年)建国されます。しかし、これも斉(~502年)、梁(~557年)、陳(~ 589年)と国が移り変わっていくのです。この宋から陳までの王朝を南朝と総称します。 また、呉から陳までを六朝時代とよび、この文化を六朝文化ともいいます。 ○五胡十六国の華北地域と北魏 一方華北の地では匈奴・羯・鮮卑・羌・の5つの民族が入り乱れ、合計で16もの国 が興亡しました。これを、五胡十六国時代と呼びます。いずれの国も、あまり長続きせず 混乱が続き、386年にトルコ系の鮮卑族の拓抜珪(道武帝)が北魏を建国し、439年 に、3代太武帝がようやく華北が統一しました。 五胡十六国の一覧を下に記します。 民族 王朝<都> 存続期間(年) 五胡 匈奴(きょうど) 漢→前趙(ちょう)<平陽→長安> 304~329 北涼 <張掖→涼州> 397~439 夏(か) <統万城> 407~431 羯(けつ) 後趙 <襄国→業> 319~351 鮮卑(せんぴ) *代 <成楽> 315~376 前燕(えん) <龍城→燕> 337~370 後燕 <中山→燕> 384~407 *西燕 <長安> 384~394 西秦(しん) <金城(甘肅)> 385~431 *北魏(ぎ) <平城→洛陽> 386~534 南涼 <廉川> 397~414 南燕 <広固> 398~410 (てい) 成(漢) <成都> 304~347 前秦 <長安> 351~394 後涼 <涼州> 386~403 羌(きょう) 後秦 <長安> 384~417 漢 前涼 <姑臧> 313~376 *冉魏(ぜんぎ) 350~352

参照

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