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日本佛教學協會年報 第12号 003道端良秀「支那に於ける仏教の民衆教化」

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支那に於ける悌殺の民衆敦化

序 言 民衆教化。人々及びそ白方式 − 経 削 と 韓 領 、 発 唄 に 就 い て 2 議側、夜講師と議緩に就い℃ g 唱導師、説法師と唱導に就いて 4 品昆師と邑合、社併と枇邑に就い℃ 5 化俗法問及び瀞行併に就いて

俗議と民衆教化 四 俗識と唱導との和議 ヨ王 説法の方法論 ー主4

績 諮 支那に於ける悌敬の民衆敬化

四 回I::

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資 本 側 激 準 朝 間 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ︾ 四 f

2.

=全‘ 支部悌教が柏 k 社合的大衆的になって来る D は東耳目時代からである。悌闇澄、遺安、羅什、慧謹及びそ D 教圏 の 人 K の活動は、こ L に支那伸散としての基礎を固めしめたものであり、支那俳教が漸次位舎性七包帯びて来るや うになったものである。かくして以後僻敬は、世舎の宗敬としての一歩を踏み出だせるものであった。が東晋南 北朝惰唐と来って E 悌教も全く民衆化され、民衆の宗教としての俳教を見るに至った。悌教は哲臨?とし℃の存在 であるべきではなく、人間救済の指導原理とし℃の悌教であ夕、人間生活のための俳教である。概念。遊戯では たく、生活の指導原理たるべきものであるcとれが信仰と呼ばれるものであるが、今支那併教が宗教として如何 に活動して居たか E 皐なる出家専門家ゃ、方外の士とし℃、或は隠遁者的た逸品的な、人とによる伸敬ではなく、 質位合に活動せる人々、額に汗しつ L あ る 人 々 、 , 生 活 し つ L ある人 A E これらの人々に取って俳教は如何に活動 して居たか、.如何に受容せられたか、か L る問題が最も注意されねばならぬ。 余はか L る方面に於いて D 究明に向って居るが、乙の小論に於い℃は先づ E その受蒋者としての民家の信仰生 活に劃するより以前に、か tふる信仰を植ゑ付けた僻教宜布者。活動に就いて先づ筆を取ること L した。即ち俳敬 が如何にして、如何なる人々によって、且ワ如何なる場所に於いて、如何なる手段によって、民衆敬化がなされ たかを論ぜんとするものである。然かもそれは目弐に選げたるが如く、,経師により E 講師、覆講師により、設は 邑師、一世健、唱導師、説法師、化俗法師、昨行像、更には俗講借等によって、各々得意の方法に於いて、悌教の 民衆敦北が行はれたのであづた。今か L る 人 k を中心とし、とれに関聯した諾粧の問題を境明ぜんとするもので

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あ る 。 仰 と L に於いては大慌膚抱一に打明り、以後は又充分なる研買を侠って稜表したいと思ム。

民衆数化の人々及びその方式

−経師と蹄謡、党唄に就いて 梁慧械の﹁高僧体﹄巻十三一に経師、唱導の二科が設けられ、.各 K 十傑人のこれに属する人 k b q 掲げ℃居るが、 唱導の終りに著者慧蛇はこれを論じ、且っこのご科を﹃同借侍﹄に入れた理由として、 品 目 草 − 一 創 高 僧 寸 本 以 コ 八 科 − 成 レ 停 、 却 尋 ユ 経 導 二 校 − 雌 コ 於 レ 道 局 v 、 , 而 問 ν 可 レ 出 用 、 故 加 ユ 此 二 倹 − 足 成 ニ 十 数 − と言って居る。即ち明かなるが如く、摂師、唱導師の高僧たる所以は、俗を情らすが故である@民衆教化に功鼠 あるを以ての故である。乙れによって粧師なる人 k は、伸教の民衆教化にカを壷せるものであったことを知る。 然らぽ経師は如何なる方法に於いて E 一般一位品開に伸教を弘布せしめたか。如伺にして悌教を理解せしめたか Q 経師とは何をする人であったか o 先づ﹃高併博﹂の経師科の下に揖められた十一人の博記を見るに、乙れ等の人 人は何れも党唄に巧であり、聴請に巧なる人々である。絶って経師とは巧なる音盤を以て鷲唄を好くし、韓議を 好くする人 k を名付くるもの L ゃうである。慧肢は﹃高僧停﹄巻十四の序に於いて十科を設けたる説明をなし、 最後白経師、唱導の一一科に就いて 3 其 時 一 揖 宣 唱 、 源 問 非 レ 濯 、 然 而 臨 ν 悟 レ 俗 、 . 費 有 コ 偏 功 寸 故 再 宋 雑 記 、 威 保 ユ 列 秀 者 ↓ 粍↓及 ν有二分通感寸廼編ニ之倖末﹁如或具者非レ所 ν 語 、 今之所 ν 取 、 必 = 其 製 用 超 支那に於ける係数の民家敬化 四 九

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四本働敬車協合年報 A ぺ 第 十 三 年 ︾ 主. 0 4 と言って居る c 経師を聴讃で表し、唱導を宣唱にして居る@韓請する人を経師と呼ぽれた語である

e

然かも経師 の言葉は早︿も有部律に出で来れるもので、﹃根本説一明有部昆奈耶雑事﹂巻四に、,粧師を説明して、.﹁作=吟調 理 − 讃 ニ 諦 経 法 こ と あ る か ら 、 . ζ れらによっ℃経師なるも D は、碑調、発唄をなす人々であったことを知る。我が 上代に於い℃も E 同じく経師なる名構があったが、乙れは経師と聾明と匝別をなして居 h y B 経師を調経之醤な

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ν

と﹄言って居る。乙れらによって時と腐とによって多少の費化はあづたゃうではあるが、何れも特讃詠経及び党唄 等に得意なる人々であったことに間違びないむさて然らぽ蒔韻とは何でるるか

e

発唄とは何か o 経師は如何にし てとれらによって民衆教化をなし得たか。慧岐は﹃高僧倖﹄の経師科に論じて巧にこれを説明して、 天 竺 方 俗 、 凡 是 歌 = 詠 桂 一 宮 サ 皆 稽 第 レ 唄 、 至 コ 於 此 土 ↓ 跡 経 則 掛 潟 = 轄 韻 ↓ 歌 讃 則 蹴 潟 三 党 唄 − と言ふ e 印度に於いて唄と言はれたものが E 支那に来って分類されて、詠経を轄諌と稽し、歌讃を究明と補した@ 絶つ℃雨者は殆んと表現方法、即ち聾の表し方は同一であって、只その内容が異なるを以て直則されて居たゃう である。一部経と歌讃との匝別である。詠経は経文を諦詠することであり、歌讃は伸徳を讃嘆する偶舗である

e

同 慮に慧授は﹁東闘の歌は則ち韻を結んで以て詠を成し、,西方の賛は則ち備を作って以て聾に和す、復歌讃は殊を たすと雄も、而も並びに鐘律に協譜し、営商に符陸す L と言って、,歌と讃との説明鐙なして居るe かくの如く騨諌と焚唄とを区別して居るが、果してとれが HCD 程度に巌密に直則されたか、恐らく輔識と言ふ も姥唄と言ふも、即ち詠経も歌讃も殆んど同様に用ひられ、そとに股密なる直別がなかったやうに思はれる。臨 調と言ひ乍ら党唄を一宮えし、究明の内に詠経を包含して居ると言ふが如きことであった

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響へぽ慧岐自身に於い て す ら 、 . か く 説 明 し つ L も耐両者を同一の範障に置いて目指たゃうた説明方法が行はれて居る P 即ち

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時調之怨 ν 、 , 島 民 在 コ 嘩 文 両 得 斗 若 唯 嘩 市 不 レ 文 則 道 心 無 ユ 以 件 v 、 十 一 市 唯 文 而 不 ν瞳則俗情無=以件 v 、 故 経 ・ 官 、 以 コ 微 妙 音 − 歌 − 歎 悌 徳 寸 斯 之 謂 也 ︵ ﹁ 高 伶 俸 し 終 附 科 論 U と言ふが如きこれである。舟注意すべきは時調が後世畳一日ふが如き、異議に劃する騨調の意味ではなく E 初めはよ 症の如︿詠経即ち党唄と殆ん H C 同様なものであったことである@ 市してか L る輔讃或は党唄を巧にした経師と言はる L 併は誰であったか@﹃高俗博﹂には耳日の出法橋、支曇緑、 宋の法子、借館、道慧、智宗 E 持 D A 首 選 、 , 塁 知 官 、 . 併 鼎 、 曇 服 、 韓 日 忍 の 十 一 人 を 掲 げ 、 更 に 慧 費 、 道 詮 、 . 法 暢 ‘ . 道 瑛、遺朗、法忍、.智欧、慧光等共他を附して居る e 維等は何れも巧なる夫衆の妙音を以て詠経し、或は僻徳を讃 嘆して以て人 k をして伸軟に誘導せしめたものである。然かも彼等は多く歌讃を作り、自からそれが向を作成し た も の で 、 吊 法 橋 は ﹁ 一 一 一 契 経 ﹄ を 作 り 、 支 曇 爺 は ﹃ 六 一 言 党 唄 ﹄ を 製 し 、 今 に 於 い て 尚 停 は る と 一 一 読 ひ 、 法 子 亦 コ ニ 契経﹄を作り、,崎旧鼎は﹃古維摩一契﹄、﹃瑞膝七号一借一契﹄を体へ、慧忍は文宣王と共に﹁瑞臆四十二契﹄を製し て居る。乙れ等は多く勢唄と稿せられるものであらうが、,党唄は早くも到の陳思王曹植、央の支議、康借品開によ って製せられ、それが後に以上の如き人 k によって倖へられたものであらう。慧岐はこれを論じて、陳思王。 ﹃ 瑞 鹿 本 起 ﹄ の 唄 は 撃 者 の 宗 と す る 庭 で 、 聾 は コ 一 千 有 齢 、 契 は 四 十 一 一 で あ っ た が 、 . , 次 第 に 社 陵 し 、 委 題 、 借 僻 、 . 文 宣 玉 等 に よ っ て 異 同 を 撰 集 し て 一 一 一 百 飴 と な し た が 、 そ の 後 も 多 く 耕 地 一 化 し 梢 績 し 、 各 k 調 自 の も わ を 刺 戟 す る や う になったと言って居る。 5 綻って各得意とする曲もあった詳で、 とれによって見れぽ経師によって各 k 異った音曲含有して居るもので、一つの流祇を形成して居た如くである。 ﹃遺朗は捉調小緩、法忍仕好んで撃切を存し、智欣は普く側調を能くし、 実 M m に於ける俳歎の民衆敬化 五

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同 本 働 秋 田 苧 協 曾 年 報 公 第 十 二 年 ﹀ 玄 6 慧光は喜んで飛撃を轄す﹂門高併偉十三、暴相官俸︶と傭へられて居るむかくして税等は己れの得意とする普聾によっ て 騨 韻 し 、 , そ れ に よ っ て 人 A の宗教必を描り動かしたが、.然し乙の輔讃には一般の方則があった@慧蛇論じて日 〈 若 能 精 二 連 経 旨 − 洞 = 爵 音 律 ↓ 一 一 一 依 七 盤 、 共 而 無 ν鋭、五言四句、契而莫 ν爽、其間起榔滋華、千折放殺、静静却 聴、反基嬬弄、動 ν 韻則流躍弗 ι 、 , 張 レ 喉 則 弾 態 無 ν 、 故 能 畑 − − 稜 八 菅 寸 光 ニ 揚 七 善 ↓ 世 而 不 ν猛、擬而不 ν 滞 、 . 朝 団 不 レ 野 、 剛 市 不 レ 鏡 、 . 情 市 不 ν援、濁而不 ν 、 諒 足 下 以 起 − 一 暢 徴 言 − 恰 乞 委 榊 性 的 故 欝 L 可 = 以 娯 v耳、輸 ν 需 可 − − 以 開 − 襟 、 , 君 然 可 ν調 林 比 一 音 深 妙 令 三 人 集 v 問 者 也 ︵ 高 信 俸 十 一 ュ 、 縄 問 科 ﹀ L L 。然し乍ら輔讃党唄がかくむ如く正しく行はれ停へられたものではなく、上にも越べたが如く弐第に費化し E 且つ脅曲も堕落化せる方面もあったぞうであった。唐白遁宣は﹁績高僧博﹄巻三十に雑科嘩椿篇を論じて 経 師 : ・ : ・ 頃 世 皆 拍 ユ 其 旨 ﹁ 鄭 衛 蹴 流 、 . 以 z 椀 − 潟 両 日 入 榊 ﹁ 用 = 騰 榔 日 魚 コ 情 聴 品 ﹁ 致 ν使 ニ 淫 音 椀 織 、 嬬 騨 頻 繁 − L ﹂言って居るのは、唐代 m w 縛請が王流を受けや邪道的になって居たことを物語って居るものである。 階唐時代に歪つては、か aふる経師が何れも一元来白妙音を以て多くの儀式法舎な

E

に参列した乙とは、諸種。文 献に示す所である@﹃観高僧体﹄各三十雑科盤徳篇には五偉十二人附停八人を間帯げて居るが、, ζ の聾徳簡とは碑 調党唄に得意なる人 A で、即ち﹃高僧体﹄の経師科を受けたものである

e

賛事の﹃宋高僧悼﹄巻三十も亦同じく 誼宣白読を受けて雑科聾徳舗と

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て唐宋の経師をこの内に掲げて居る。鴨川蘇州栖霞寺の法韻は﹁経嘩七百飴契に 遇十﹂︵耕一諒一俸一︶と言ひ、階京師日巌道場慧常は党唄の名墜によって日般道場に位したと言ふが如きそ@一例で あ る o 叉誼性む﹃法苑珠林﹄倉一一一十六には唄讃篇を設け、器使@﹃高僧体﹄を受けて居るが、備﹃冥報拾遺﹄な

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よりも感臆停を引用して居る。即ち死者が冥府に在って E 家人の死後の請僧試合を L E 轄諌経唄する撃を聞い て苦蕗を琵れたと言ふ感鷹停を記して居る。とれによって経師が諸種白調舎に招かれて居たものであり、その讃 明白功徳の大なる乙とが信ぜられて居たことを知ることが出来る。 き て 乙 L に 一 一 躍 注 意 さ る べ き こ と は E 韓請と言ふ乙との内容 D 耕民化である@﹃梁停﹄等に於いては殆んと発唄 左同様に扱はれ、訴経であって、亜日聾を最も重要なものとされて居るが、唐代頓に於いては、或は轄請を草なる 讃調、或は積経と同一意味に解するやうになったことである

e

例へぽ唐の﹃弘賛法華博﹄念九の轄韻篇、.同じく ﹃法華傍記﹄念七の騨韻誠罪簡、同じく唐 D ﹃華巌経博記﹄巻四の騨調篇等を見るに、何ら党唄的なものはなく 妙 脅 か L 童 十 る 専 門 的 な 経 師 を 一 宮 k せ る も の で は な く 、 . 皐 に 法 華 経 ﹁ 、 . 華 厳 経 を 讃 諦 し た 功 徳 に よ っ て 警 報 を 得 た る ととを説けるもので E との鞘全く讃経、調調、轄経、轄讃を同一意味に取扱って居る。﹃華巌経侍記﹄には韓請 と共に調諦篇を別立し、﹃法華侍記﹄には誠諦勝利篇 E ﹃弘賛法華倖﹄には諦持篇を別立して居るを以て見れば 韓請は全く讃経に重去を置いたも C で あ る 。 かくして轄讃が普通の讃経の意に使用され、経師 D 名も発唄方面むみに通告 y ること L なるが、と L に 唱 櫨 師 、 . 作費法師なる名稽が現はれて来る e 即ち経師の費化である。党唄をなす借である@国仁 D ﹃ 入 唐 求 法 巡 鯉 行 記 ﹄ 念一開成一一一年十二月八日む岡思臼の儀式に党唄をなし、唱閥師なる償が煩を唱ふることが描べられ、.開成四年正 月十七日色揚州無量義寺一一一十ニ像供養式に、.﹁夜に入って唱躍して併に躍し、蛇びに党を作し七讃嘆す Q 作発法 師燕 h y 入りて同聾にて党讃し、遇夜休む乙となし﹂と謹べられて居る e との唱鵡師及び作党法師なるものは、.上 謹む経師を受け櫨ぐものと言ふべきであらう

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唐代に於けるか L る法曾儀式は稜展整備され、.多くむ陸讃文なと '1 支那に於ける飾品臥@民衆敷化 五

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百 本 偽 教 協 且 平 合 胃 年 報 ︵ 第 十 二 年 ︶ 主五 周 g も作成され、或は叉法照の五曾流の念併が創唱されるなど、兎に角党唄方面が盛んになって行ったことは営然。 と と L 見 ね ば な ら ぬ 。 然し乍らか L る経師にしろ唱躍師や作党法師にしろ、保令粛併に請ぜられて民衆に接するとは言へ、彼等の民 衆軟化の方法は、翠に宗教的に、或は悌教へ誘導すると言ふ消極的方法であって、積極的な教化方法ではない@ 民衆軟化の目的を意識して、積極的に直接に乙れに説法して以て理解せしめんとしたものは、共 k に謹ベんとす る講経であり、唱導等である c 講師、覆講師講経について 併殺を理解せしむるには先づ経典を講越せ払ばならぬ。講経がこれで、普通は高座が設けられ、これを講越す る入、即ち講師が陸に登ってとれを諦出するのである。乙むことは既に早くより行はれ、特に南北朝D如き悌歌 研究時代に在つては、各地方には何れも各高併が講席を設けて、各 K 作意とする経典を講越した。従ってこれに 集る道俗の門徒、常に数千左蚊ふと一一両ふが如き盛なる講席もあって、何れもそれが講話乞競ふが如き有様であ った。か L る例は今こ L に列記する必要もなく、叉煩しいが、一例そ基ぐれば南再の賢亮は﹃大浬撰︺を砕する とと八十四同、﹁勝髭経﹄を静ナること四十二同、﹁維陣経﹂はご十

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成 質 論 ﹄ 十 四 同 、 ﹁ 大 日 間 般 若 ﹂ ﹁ 小 品 般 君﹄何れも十同、﹁優婆衆戒経、﹁無責欝経﹂、﹃遺敬経﹄、﹁摘勅下生経﹄、﹃肯樗股経﹄も亦各 A 十同、道俗的子 常 に コ 一 千 傑 人 と 棉 せ ら れ た ︵ 細 川 ⋮ 俸 ︶ 。 悠 一 寸 は 何 れ も b空守院を中心として法苑そ聞き、更に諸島薬師魁して道俗を 軟 化 し た も の で 、 梁 の 件 以 通 一 は 白 黒 き ず 七 千 飴 人 と 一 百 ひ ︵ 制 川 ⋮ ⋮ 博 ︶ 、 併 一 附 は 自 国 一 ⋮ 門 徒 一 寓 一 千 絵 人 ︵ 惣 1 4 ︶と揺せら れて居る如く、税等の敬化佐賀に偉大なものであった@ 2

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自 本 偽 敬 血 中 協 晶 胃 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶ 去 六 10 と あ る 。 ζ D 覆講師に就いては寡聞のため他にそ D 例を見ないが、.乙の記事によれば、,講師の講義を更に再び繰 越して講演するもので、とれは今日日本に於いて複演と稽するものと同様に、講師の講越を敷演して充分理解し 徹底ならしめんとするものであらう。との制度は我園に早くより行はれて居た講師、複師の制度と同様なも D と 思 は れ る 。 擬 然 の ﹃ 一 一 一 園 悌 法 倖 通 縁 起 ﹄ 念 中 華 巌 宗 の 僚 に 雪 ユ 講 師 − 者 、 讃 − 一 経 論 文 − 初 悶 = 義 建 − 立 ν 理 願 レ 旨 窮 ユ 謹 綱 目 ↓ 言 ニ 複 師 − 者 、 講 師 初 開 ユ 義 理 − 之 後 、 別 時 如 ν 前議 v 立 ν 義 、 , 額 二 揚 班 三 巌 講 師 所 説 − 主あるとの複師は文字乙そ具、札、唐の覆講師と同制度と見て何ら謀、りはなゆ@ 国仁の記事の赤山院は新羅の寺院で、借も参詩の民衆も同じく新羅白人 A で、犬世に於いてこの制度は新羅

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制度であって、これを以て唐金曜のものと断定し得ないとしても、少くともこの制度は唐式を受けて屈るもので あって見れぽ、唐代に於ける講経の制度儀式は亦これと大差なきものと見るべく、特に密議の制度。如きは、我 が岡白それより推して見ても、唐代の俳敬制度であったと見て誤りはないと息はれる@ との覆講師の説法乙そ E 講粧そ更に平日却な語調と、通俗的た悶縁談などを取れ入れた、一般大衆的。ものであ ったらうと思はれる。従って系統は兵るが、南北朝より行はれ来った唱嘩仰の説法と相封比さるべく、批併に劃 する殻呆も亦大なるものがあったことであらう。 8 唱噂師、説法師と唱導について 講経より更に進んで悌教を一般一位 b w 大衆に理解せしめんとしたものが、即ち唱導の法であり、明導師む活躍で あ る @ 唱 導 と は 説 法 教 導 で あ れ ジ E 唱導師はとれが専門む布教家である@

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﹃ 高 僧 偉 ﹄ 巻 十 一 一 一 唱 導 科 の 論 に 明 導 者 、 葦 以 宣 コ 唱 法 問 ﹁ 間 二 導 衆 心 − 也 e とて唱導の意を油べ、更に引績いて、一悌法初め侍はる時に、人 k 脅しく集まって只伸名を唱へて悶拝し、中指刊 に抱一室ると極めて疲れるむとれによって別に宿徳を請じて高座説法す E 乙の説法は、戒は因縁を雑へ、或は害輸 を傍引するしと誠一ベて、専門的の説法を開く来由を説いて居る@乙れが唱導師と名付らる L 専門布教家となるも のであるが、韓国蛇は初期の代表者 h q − 都 中 げ て 聾 一 品 謹 を 指 し て 居 る u 前文に簡いて、﹁其後慧速は粛集に至る毎に轍ち 自ら高座に登夕、朝ら誼背となる@先づ一二世悶呆を明かし E 却つ℃一一粛の大意を鼎歩、後代傍受して迭に永則と 成る﹂とある。 これによって知る如く唱導とは衆心主開導せんが潟に法理を定唱するもので、唱とは患に説くのではなく E と なへるのであるむこのことは唱導師の俊件として管聾を第一として居ることによって知る乙とが出来る。兎に角 唱 導 D 法は因縁讐品慨を説き、充分悌教な理解せしめんとしたもので、,法舎には参列。衆伶とは別に専門@唱導師 が請ぜられて居たゃうである@慧遠の訓きは自ら唱導師となって説法をして居るが、殺の説法の形式が還に後世 ¢説法の法則となったと言はれて居る。縫ってこれによって大衆に劃する説法が大髄どんな内容形式を有し℃居 たかを知ることが出来る o この事は後に至って詳述する。 ﹁高僧侍﹄巻十一一一の唱噂科には王博十人を列記して居るが、それを見ると、宋の京師紙垣寺誼照は﹁宣唱を以て 業 と な す ー 一 と 言 び 、 同 じ く 長 子 ヰ 寸 曇 頴 停 に は 11 凡要請者、皆貴賎均赴、貧富一レ挟 帝︿那に於ける偶数の民衆敬化 一 事 七

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日 本 傍 敬 事 協 合 総 ・ 報 ハ 第 十 ニ 年 ︾ 五 八 lll と言也、再の法鏡は﹁貴賎に拘らや J、請あれば必十行く、製一暑を踏くるなし﹂と言はれて居る@これによって唱 理師は全く専門的な業であることであり、.要請あれば貧富貴賎を論ぜ守、等しく赴いて説法を行ったものであっ た。南朝に在って特に上流枇舎に盛んに行はれた八開粛舎の如きは、必歩唱導師が講ぜられて E 癖舌巧みに哩瞬 間縁を雑へて伸訟が子易に説かれた。これによって人 k は単調さから教はれ、疲勢から菟れることが由来た C か a る 粛 舎 に は 唱 導 師 の み な ら ム ア E 前挫の経師も請ぜらる L もので、経師が轄請して然る後に唱導師の説法が 始まること、,今日我閣の法舎に於ける形式と略々同様である。然し又経師の時讃の問に説法D行はる L こともあ つだ。かくして唱事師は諸種。時間合、法品開等に諦ぜられたが、死者の遁善供養の粛合にも経師などム共に請ぜら れて、世の無常の理を越ベ、人聞の必十死すべき道理を説いて遺族を慰め、故人の徳を讃嘆して居る。かくして 唱導師仕盛んに悌教の民衆化に努めたが E 南北朝に在つては地域的に見て南朝治下の南方が盛んで、北方地方に 盛んに流行して居た遁像を中心とせる義品の結祉に封する邑師の敬化とよき封偽軌をなして居ると思はれる e 以上は南北朝に於ける唱導 D 例であるが E 惰 唐 に 至 っ て も 亦 同 様 で あ る 。 ﹃ 績 高 僧 体 ﹄ 巻 一 二 十 、 ﹁ 宋 高 僧 倖 ﹄ 忠 信 一一一十には、各れも﹁雑科嘩徳篇﹂笠設けて唱導師を怒げて居る@陪の東都慧日道場立身白如きはその聾暁は雷の 如く、過去の業株を説いて未来の果を一不すこと見るが如く、その巧なる僻説の功によって、文帝より吊四百段、 艇四十領を賜って居ろが如く、叉同じく蘇州柄霞寺法韻の如く E 多くの碑誌及び古導文を暗諦し、.樫盤七百齢契 に通じて経師と唱導師と雨方を粂ねるが如き、又同じく西京日巌道場蓋 n 槽の巧なる封機説法の如き、.叉腐の京師 定水寺智凱の如き、更に同巳く京附法海寺費巌は時人より説法仰と呼ばれたるが如きは、単にその一ニ C 例に描 ぎない。何れも敬化者として、唱導に巧にして一世に名を馳せたる人 k が 多 か っ た @

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さ て こ L に注意すべきことは、唱導の人々、即ち敦化者を如何に呼補して居たかである。上越の各高僧停には 何らか L る呼稽に就いての記載もなく、.特に﹃高俗博﹄の唱導科に於いてすらも唱導師。文字は見常らない。今 と L に上京唱導師と名付け来ったことは、唱導者なるが故に唱導師と名付けたるに過ぎない

e

その営時の人々が 果してか tふる名稽を附して居たか否か不明であるが、然しかく名付けられ得る可能性あるが放に、,かくの如く名 稽を附するも何ら不合理ではない。戒は事貫として唱導師と呼ばれて居たかも知れない。慧岐が唱導科を設け E 説法を唱導と言って居る所を見れぽ、説法師があると共に、唱導師のあることは賞然と言はるべきかも知れぬ@ 歩くとも唱導科に選ばれたる軟化者は、唱導師と呼ばれてもよいであらうむ ﹁ 言 笑 楽 ν 、 情 存 レ 導 レ 俗 、 時 共 目 − 一 説 法 師 − 也 ﹂ ︵ 繍 一 帯 俸 ︶ と て 、 伎 は 説 法 師 と 呼 ば れ た@遭宣は唱導科を雑科聾徳篇として、この費巌左入れて居るが、とれは明かに唱導師のことである。而してこ の説法師とは何かを説明して、道宣はこの賛巌俸に於いて E っ経論を講十るとは、.名は同にして事は具る﹂と言 ひ、その具る所以を説明して、﹁論師の設くる所は、務めて章句に存し、生起佐治判し調義を採詰するしにある のであるが、一方説法師たる﹁巌の制用するととろは、朕に随って儀を立て、あらゆるものを控引し多く取る L もので、即ちその説法の方法材料として寸雑減、百害異相、聯壁、民甑む導文、玉掃の働法、沈約百株庚な

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晋宋の数十家 L の文章を引用して以て説法したことを趨ベて居るむ 上記の法権寺費厳は、 尚侍には械が説法の内容をも紹介してあるが、以上の如き説法白方法は決して税調自のものではなく、説法師 として、唱導師として一般的方別であったこと L 思はれる。偶々棋が唱導の方法に於いて飴程巧なりしが需に E 特に説法師と呼ばれたものであって、説法師は唱導師と同一系たるもむである静である。か L る唱導師説法師は 13 支那に於ける悌敬白民晶体軟化 主 ・ ぬ

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百 本 偽 敬 挙 協 合 年 報 ︵ 第 十 一 一 年 V

H 上に強べたるが如く、南化朝より惰に至り唐に在って盆− R 盛んに行ばれたもの守、費寧は﹃借史略﹂中に唱導 D 項を設けて、甫北朝より階唐のそれに及び、それが例静を患げて 従 ν唐至 ν 、 . 此 法 盛 行 − 一 子 世 − 也 と越ベて居る乙とは E 伎が﹃宋高僧侍﹄には唱導篇を設けや、.﹃鰻高僧惜﹄を受け稽いで、同ヒく雑科聾徳篇と

L

て 居 h y 乍ら、矢張唐宋に於ける唱導を認め、唱導師の存在を許して居たことを物語るものであらう。 陪唐に於ける悌教の民衆敦化は E A 品速に進展せるも D で E 乙れに封して各々専門の布教者が多く輩出したとと は常然のことであった Q 而してとの専門の布敬者連は、或は唱導の名によって叫ぼれたるのみなら歩、その人を 読法師と呼ぽれ E 或は叉後に述べる法仰とか、静行借とか或は遊化借とか、呼ぽれたのではなからうかと思はれ る。勿論乙れらは悉く唱導師の同一系に入るべきか否か、後に趨ベる乙と・ふするも、何れも唱導を以て民衆敦化 にカめて開店たものであって見れぽ、特接なる閲聯は有して居たものであるむ 4 邑師と邑合、一世俗と世邑に就いて 明導師とは会く別系統に在って民衆敬化に努力せるものに邑師があり、又枇借がある@即ち南北朝より陪唐に 於いて、.主として北方地方を中心として行はれた邑称、或は義邑と綿せらる L 和俗の仰敬信仰問恨の中心となっ て、その敬化方而に活路し、.その合員の併仰生活佐指導教化して居たものが即ち邑師と呼ぽる L ものであった@ ⑤ との邑師、口目義等に闘しでは既に諸氏によって研究され‘それが殻表もなされて肘ることであるが故に、此廊に 於いてはそれが成立、例措など一切を略するが、一般削導仰とは如何なる閥係にあったものか。 甫北朝より上述。如く唱導師があって盛んに唱導に努力して居たが、邑師と呼ぽる L 税等の活動との閥聯はど

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うであったか

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雨岩は同一の場合があったのか、それとも全然異って居たものか。同様に民衆に宜接指噂して居 る雨者は E 或は同一なもので、邑師の説法をも唱導と稽したか、.邑師も唱導師の中に包含されたかどうか、勿論 賢義に於ける唱導師の内には邑師も令まるとは思はれるが、一躍は両者の匝別を認めざるを得たい。即ち唱導と は唱の字が相営軍要な意味佐持ヲて居る。後に於いて越ぷるが如く唱導師の費格の第一一は音盤である Q 巧なる音 を以って説法さるべきである。全く専門的な布教家であった@これに劃して邑帥と一言はるべきものは、先づそ。 成立の過程に於いて臭って居るぞうである。 邑舎とか義邑とか、或はその他の名に於いて結成された信仰闇健は、在俗者を中心として多い時は一村一郷悉 ︿これに参加して居るが如登場合もあるが、か L る閤慣に在って邑師も亦その一員として組織惜の内にあるも

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である@普通は邑師は各圃憶に一人あって他の諸役の人とは別に E その敬化方面を分指してその圏員の信仰生活 の向上にカめたものである。然し乍ら必歩しも一邑舎に一邑師と規定されて居た詳ではなく、一邑舎の中に二人 一 一 一 人 の 邑 師 が あ る 場 合 も あ り E 又一人の邑師もなく E 一邑師には一二二、或は多くの邑合を粂任して居る場合もあ っ た

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例へぽ唐の袋州幅帯寺貴重は毎邑一主人の闇曜を約千計品就任して居たが如きは︵輪一芯︶、或は特別な例で あり、千計と一言ふが如きは誇張ではあらうが、乗任の最もよき例設である e 攻にこの邑舎の行事に就いては、.その時代或は各地方により、.或は各々の邑舎によって色 A と兵るもので、南 北朝に於いては税等邑品開。中心的行事は建像にあったぞうであるし、それが陪唐に至ると粛舎が中心となり、語 粧がその行事の主憶となったゃうでるる

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市してその集合は大韓毎周一同とされ、諦経は法華経、金剛経、,華厳 紅、般若経、或拡大無量誇経、阿繭陀経等と各 A 好むととろによって異づて居たゃうである e 叉その信仰封裂も 15 支那に於ける品開教の民衆数化 六

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日 本 傍 敬 摩 協 品 胃 年 報 へ 第 十 ニ 年 ︶ 六 16 ⑦ 観音.嫡勃、調陀、韓迦と一宮ふが如く諸積の伸があった@ とれによって考ふるに唱導師は寺院を中心として法苑を聞き、或は八開粛とか諸種の法舎に請ぜられて E 其 D 得意なる鼎説と管聾とを以て講演したが、邑師は主として令員組織たる舎左中心と

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て講演をなし、毎月一回づ っ乙れを行ひ、或は各地の圏樫を巡姐軟化したもので E 明かにこ L に雨者

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別が設けられ、且つ唱華師とは商 方が中心であり、邑阿は北方がその主馳胞をなして居るものであった@邑師も敦化者であるが故に、営然妙音が要 求されたであらうが、唱導師の如きその資格として係件附けられては居なかったぞうである@乙 L にも隔者。相 遣が認められる。 備 乙 L に 義 邑 、 ロ 田 舎 な ど L 殆んど同じ形式を持つ法祉なるものがあった乙とも忘れてはならぬ E 根 の 東 耳 目 慧 誌 の 念 伸 結 祉 た る 白 蓮 祉 を 最 初 と す る と 一 一 ︶ 一 一 は れ て 居 る が 、 兎 に 角 ζ の悌教闇煙たる扶一位は南北朝より陪唐を経て、 更に宋に至って大いに流行するもむであるが、とれは邑舎と多少異って、主として南方に結成され、貴族、士大 夫、などの上流階級、知識枇舎の人々が主慢をなすもので、然かも道俗混合の結枇もあったむ戒律な

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も相営厳 重に守って互に併遣を修行せるものである e 八 開 一 商 品 開 放

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も税等の行事の一である@か L る闇慣には常位。如き 敦化者は必要ではなく、時々の粛合等に専門の敦化者を諦じて法そ聞いた e これが即ち唱導師であらうと忠はれ る む さてかくして南北朝より惰麿にかけて、北方には義邑、邑合が設けられ℃、邑師がこれの教化に営り、南方に 於いては唱導師②活躍して庶民の教化に常ったが、甫方中心の法枇などにも請ぜられて説法をなして居た。かく の如く唐に至。てもその匝別は認めちれ得るが、岡家樺カの増大した庸む政治下に於いて、か L る匝別的傾向は

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共第に奏を消し、.北方に於いても法祉の結成を見、雨品砲の融合されて直別なき謹に至ること L なった。然かも唐 中葉以後に於いては最早麓晶、邑曾などの呼稀が共第に委を消して枇邑なる名稀となり、従って邑師も亦世俗と 塑化するに至った@との問題に閥しでは那波利貞博士の最近の研究﹁悌敦信仰に基きて組織せられたるゆ晩唐五 代 時 代 の 駐 邑 に 就 ぎ て し ︵ 眼 竺 一 肝 ︶ に 於 い て E 話回出土の珍しき新資料によって、詳細に論ぜられて居予 との博士の研究によって見れぽ E 唐一代を通じて結束の義邑、邑曾が尚盛んに設けられて届り、偲令その名稀 に於いて義邑 E 邑舎が祉邑となり、.邑師が世俗と費化し、合員が絶来の邑義、法義、邑入、邑子などから、世子、 位 入 、 一 世 戸 な ど と 、 各 A 何れも揮化を来して居るが、その組織内容に於いては同一であった。その事業も従来と 異ることなく、.粛合、謂経、諸経、印沙悌であり、.更に寺院の法舎に劃する支援であった@かくの如く殆んど純 衆のそれと同様であったとされて居るが、今乙 L に於いて問題とするのは邑師たるべき枇借の教化方面は

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う で あったかである。博士 D 研究に於いてはこの貼に就いて飴りカを入れて居られない鴛に不明であるが、この研究 に現はれた庫に於いて見れぽ、少くとも絶来の邑師とこの一世借とは多少の費化を衆して居るぞうである Q 杏枇邑 そのものが既に相営 D 費化を来して居るぞうである e 例へぽ従来の邑合は何ら寺院と特殊な閥係に在ったもので はなく、人が中心であり、法が中心であった。然るに枇邑に於いては、寺院が中心であり、寺院に隷属してそ D 庇護を蒙ると共に、世邑は寺院を支援すべき義務が課せられて居た。乙の賠全く邑舎と世邑との具る所である。 縫って自然一世僧の任務も従来の邑師と臭って来るであらう。 17 寺 院 と 一 紅 邑 と の 閥 係 が E 多く経済的組帯によって結ぼれて居り、.雨者の共存共撲を目的として居るとすれぽ、 その結成趣旨に於いて既に義邑と相具って居るも D であり、粧借の活動も自然形式的に堕するととは営然であら 支那に於ける傍敬の民衆敬化 六

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日 本 側 教 車 協 晶 宵 年 報 ハ 第 十 ご 年 ﹀ 六 回 18 ぅ。然かも枇邑 D 蘭舎が主として寺院に集合して行はれたとすれぽ E その場合に於ける社債の敬佑は、邑師。諸 所を巡姐して邑子白信仰生活を指導したのとは、その熱心の程度に於いて相営の差異を認め得ることであらう

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きれどその程度はともあれ、か L る枇邑の存在と一位借の制度とは、唐代庶民の悌敬弘布に大なるカを興へたこと に注意せられねぽならぬ。 5 俗法師及び遊行信に就いて 閏仁の﹁入唐求法巡闘行記﹂巻一開成コ一年十一月二十四日 D 僚に共の如き記事がある。 叉 有 = 化 俗 法 師 − 興 三 本 闘 普 ニ 飛 軟 化 師 − 同 也 、 説 エ 世 間 無 常 苦 定 之 理 斗 化 − 一 導 男 弟 子 女 弟 子 ﹁ 呼 諸 国 コ 化 俗 法 師 − 也 とれは楊州に滞在の時 D 記載で、化俗法師友るものがあって、民衆の教化に綻事して、営時の人晶高から化俗法師 と呼ぽれて居たと号一ロひ、日本の飛敦化師と同様のものであると註轄をたして居るのである。 ζ の化俗法師は明か に説法師であり、.前謹白唱導師の系統に属するものであるが、唱導師や説法師、或は前越の邑師などとは更に一 歩進展したものであり、深く民衆に接近せる敦化借のやうである。我が闘の飛散化師の如しと言ふから、一所に 定住せや、.諸所を巡姐して敬佑して居たも D と思はれる白人生む無常の理を説き、男弟子女弟子を化導したと言 へぽ上挫の綿ての軟化者よりもより一間庶民衆的とたったことを息はせるものがある。全く民衆に劃する専門の布 教 家 で あ る 。 乙れに引額いて遊化俗、.或は遊行借とも呼ぽれるものがある。とれ賓に化俗法師と名を異にして貫を同じくす るものであらう

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文字の如く諸闘を控歴巡佑する借に名付けたるもので、隔の遭舜は 開 皇 之 初 、 , 忽 控 − 一 衆 落 − 説 法 、 化 = 諸 村 民 ﹁ 皆 盛 集 受 ν ︵ 植 岡 高 信 惇 十 入 ︶

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と 一 言 び 、 . 唐 の 格 南 山 法 戒 は 、 勅 に よ っ て 寓 年 、 長 安 、 . 藍 問 、 盤 屋 、 郭 枇 D 京師長安附近白、五臓地方を遊行せし められんとしたが如き︵特坤︶、叉唐貞観中に盆州帯主寸葱寛が、﹁地獄経﹂を講じて庶民を軟化したが潟に、 税の死するや七蔵以上の誼俗悉く著服し、泣き悲しんだが、かくする乙と一二年、爾後今に至る誼家々にて法令を 設くる時には耐座争設け、一座一は必士息寛に接した︵輔一一博︶と一三が如き、何れも民衆強化に努力した遊化借と も稽すべき人々と思はれる o 特に地獄経を講じたりと言ふ恵寛の如き、伎の停には 年 一 二 十 謹 コ 綿 竹 − 敬 ユ 化 四 遺 寸 開 ν名見 ν形並拾レ邪蹄 ν E 、共俗信 ν 、 ︵ 中 略 ︶ 綿 竹 諸 村 皆 角 立 ν 、 , 堂 殴 院 宇 、 百 有 飴 所 、 修 轡 至 レ 今 、 . 年 常 大 捕 、 道 俗 成 合 、

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月令節、成都寺七十鯨競迎供待、,有=大功徳寸須 ν − 一 経 替 叶 但 請 ν 寛 至 コ 施 物 山 積 − とあるから、棋の説法師としての、遺化借としての名聾が如何なりしものか、伎を請じた寺々は施物山積すると 言ふことに於いてとれを示して居る@ 何れにせよか L る敦化借は非常に多かったものと見るべく、従ってこの聞に於いて色 A な問題も生じて来るこ とであらう

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﹁唐書﹂巻四八百官志の崇玄署の僚に、僧尼の地方選化に劃する規定が設けられて居る、云︿ 九 止 ニ 民 家 4 不 ν 温 − 一 一 一 一 夜 ↓ 出 蹴 宿 者 、 立 案 連 署 、 不 v 温ニ七日﹁路還者州廓給程 とあって民家に居住をコ一日乃至七日以上を超過するを得・?とされて居る。乙れは明かに遊行借なるべく、民家を 中心とした軟化をなしたものか否か、未だこの動不明ではあるが、少くとも遊借が地方巡行に於いて民家に止宿 する場合を規定せるものであった。 との乙とは借尼の村落巡行の非遣を輪開想するもので、乙れによって常時の備濫の借が地方村落を荒し姐って居 19 支那に於ける傍敬の民衆数化 六 五

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て西方を願生せるが如く、普導。博土艶相聞其他による軟化は首長安城中念備に満ちたと雪はれる如く、.法照の 主曾流の菅柴的念僻、更に少康む児童の宗教 A 育に力を藍し、濯に漸江省陸州白地悉く搾土信仰に入夕、死後は 伎の基土を以て、病を癒ぞしたと言ふが如き信仰に起至らしめたるが如を、,何れも彼等静土教徒 C 民 衆 教 化 。 一 ⑬ 例に温ぎない。絶ってこれは章を別にして論告 y べきであるが、嘗て論ぜしことあれば、乙 L に於いては患にとれ 性 に し て 省 略 す る こ と ・ ふ す る 。

⑪ 俗講に就いては近年多くの興味がそ L られて居るが、 ζ D 研 究 D 輝ったものとして支郊の皐者向遣の﹁唐代俗 講考人議議軒六︶がある。更にこれに稽いで豊富なる減資料によって乙の問題を解明せんと努めてぞれ るのに邦政利貞博士がある。即ち寸中唐時代俗講俗文一献法師糟疑﹂︵城市帆 4 附鴨川︶なる論文が乙れであ守宅然 し乍ら余はこの問題に就いて、二氏の論とは異なる意見を有して居るものであり、.叉別に資料をも有して居るを 以 て 、 . 以 上 の 論 乞 参 照 し つ L 乙の問題を貿明して行くこと L す る 。 先づ最初に俗講とは如何なる意味か、.俗講の語義如何である。普通に俗講は﹁通俗的な講経﹂と言ふ意味と、. ﹁俗人のための講経 L と言ふ意味との二つがあるやうであるが、元東この俗語と名付く所以のものは、﹁俗人に劃 し て D 講経﹂と言ふ意味であって、﹁通俗的な講経﹂と言ふ意味ではない。俗は道俗 D 俗 で あ っ て 、 . 通 俗 の 俗 で は ない。叉化俗法師と呼ぽる L 俗と同一である o 勿論﹁在俗に封しての講経﹂であって見れぽ、営然﹁遁俗的な議 経 L である静ではあるが、.その俗の解轄によって俗講白賀明に差異を生じて来るがためである@絶って余は判然

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支那に於ける傍敬の民衆数化 六 七

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四 本 傍 数 単 協 合 胃 年 報 ハ 第 十 二 年 ︾ 六 人 !12 と俗議とは﹁出家専門家に非ざる在俗一般目的の講経﹂と言ふ意に取る e さて俗語の資料として最も重要なのは園仁の勺入唐求法巡臨行記﹂の記載である@長くて煩はしいが論を進め ﹁ 巡 暗 記 ﹂ 品 位 三 舎 昌 元 年 の 僚 に る必要上左に掲げる。 勅 ユ 於 左 右 衛 大 寺 司 開 = 俗 講 − 左 衛 四 慮 、 此 資 聖 寺 、 令 三 雲 花 寺 賜 紫 大 徳 梅 岸 法 師 講 ニ 花 巌 経 − 保 需 寺 、 . 令 z 左衛借銭三教講論賜紫引駕大徳憧虚法師講=法花魁− 菩 提 寺 、 令 ヨ 招 繭 寺 内 供 奉 一 エ 敬 講 論 大 徳 誕 円 高 法 師 講 ユ 浬 撰 経 司 最 公 寺 、 令 三 光 影 活 師 詩 − 靭 岩 岡 一 − 右 衛 三 廃 合 員 寺 令 三 内 供 養 一 コ 一 軟 詩 論 賜 紫 引 駕 起 居 大 徳 文 献 法 師 講 二 法 花 経 圃 城 中 俗 講 此 法 師 第 一 、 恵 日 寺 、 崇 繭 寺 講 、 法 師 未 レ 得 コ 其 名 − ︵ 中 略 ︶ 井皆奉 ν 勅 語 、 従 = 大 和 九 年 − 以 来 腔 謡 、 今 上 新 閥 、 .

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月 十 五 日 起 首 、 室 − − 二 月 十 五 日 − 罷 、 . を言ひ、.共に俗講の文字はないが、その内容より見て俗講なりと見るべきものに、同年五月白開講がある。云く 五 月 一 日 、 , 勅 開 謡 、 雨 情 十 寺 講 ユ 悌 敬 ﹁ 雨 脱 講 ユ 遭 敬 ﹁ 営 寺 内 供 奉 講 論 大 徳 嗣 法 師 、 営 寺 諦 − − 金 剛 経 ↓ 鏡 法 師 、 於 = 菩 提 寺 − 講 コ 浬 襲 経 ﹁ 自 外 不 ν 能 二 H H 警 − L ﹄

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叉 ﹃ 同 念 ﹄ 九 月 む 僚 に 九 月 一 日 、 勅 = 雨 情 諸 寺 − 開 コ 俗 講 − と 言 ひ 、 . 更 に 同 品 位 。 品 開 昌 二 年 む 正 月 及 び 五 月 白 僚 に

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月 一 日 : : ・ ・ 諸 寺 開 = 俗 語 青龍寺固

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五月、奉勅開コ俗講↓雨街各五座 とある。乙れ国仁の見聞せる俗講の肢態である。 との記事に於いて知り得ることは、唐中葉以後即ち少くとも文宗の開成年問、及び文宗の大和九年以前 D 何 日 頃かに長安城中の諸寺に於いて、勅命による俗語が開催されて居たととである。然かも合昌寺に法華経を講じた 文献法師が、.との俗講に最も名撃を博して居たと言ふとと

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っとの俗講は上越の化俗法師ぞ静化俗、或は説法 師などの説法と多少具って、何れも華院経、法華経 E 浬興経、金剛経等の如き E 大部の大乗悌教の代表的経典主 講越せるととである@その期間も

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月十五日から二月十五日起一ヶ月間の連組講演であったから E そ の 経 由 門 会 部 が講越されたもものらしい@ さでかう考へ来るとここの俗講なるものは、.唱導とは別系統であって、俗講倍。講演は唱導師、説法師、化俗 法師の講演とは多少の相違左京せるものであらう c 俗語の形式は全く古来の講経、即ち出家専門家目的。講演と その軌を一にするも D であっ之、その兵る所は只皐に軒象物、即ち出家に関するものから、在俗に劃する講経へ と展開されたものでおる。乙 L に先に謹ベたる俗講の語義が現はれて来る

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即ち﹁在俗に劃する講経﹂となって 衆たものである。縫ってその形式内容も綻来の講経と等しきものであったであらうし、在俗 D 人えに取っては専 門的であらうと思はれる E 大衆経典が一ヶ月にも亘って蓮績講演される所以である o 如何に在俗封象に、平易に 設かれたであらうとは云へ、一ヶ月に亘つての経典一部の講錨 0 ・ 如 を は E そ白聴衆者が如何なる知識程度の人々 であったか想像することが出来ゃう。少くともか L る俗講は、従来の講経を多少乎易に解轄すると言ふ程度で、. !3 綻ってその在俗の聴衆者も相営限定されたととであらうと息はれる e 支那に於ける偽敬の民衆敬化 六 71;

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自本偽敬事協曾年報公第十二年︾ 七

24 然らぽ俗講は何れも皆か L るものであったか

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うか、何日起もが L る傾向であったとすれば E 俗語としての目 的が完全に港行されないであらう。先に述べた講経の場合に於ける寝講の存在と E その慣値略と同様で E 特 別 乙 れ b L 濁立せしむる必要もないかに思はれる。俗講は確かに覆講の猫立されたものと思はれるが E 調立された以上 更に民家に接近したことであらう。思ふに上記の俗語は悉く勅によって長安城中に於いて開催されたものである白 勅命による俗講以外に俗講は諸寺院に開催されなかったであらうか。 ⑬ との事は既に那波博士も稜表して居られるが如く、長安を初めとして諸地方の寺院には何れも春秋及び夏或は 多 02 一 岡 、 と D 俗講が開かれて居たことであるむとれは園仁の記事によっても知る如く、

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月 、 五 月 、 九 月 の 一 一 一 同が普通のやうで、所謂一]一一長粛月に開催せるものである。那波博士の噸健文書によっ之の設そ裏付けるものとし て更に﹃王代合要﹄各十二雑録。文を掲げ得る。郎ち後唐の天成二年六月七日の勅に、﹁一工場荷月俗講、亦不得 温借合﹂白文字が見へて居る。一一一場は三長の事であらうが五代頃に尚盛んに俗講が行はれて居た乙とを示し、 ﹃ 会 唐 文 ﹄ ハ 七 四 ︶ 文 宗 の ﹁ 傑 流 借 尼 勅 ﹂ に ﹁ 比 東 京 城 及 諸 州 府 、 一 二 一 長 粛 月 置 レ 静 、 集 ν 賞 = 戒 儲 こ と 一 言 ひ 、 憲 宗 の元和十年に 詔京城寺脱講、宜 v 喰 コ 興 ↓ 克 一 元 年 九 月 一 日 勅 ” 蕗 分 幻 諸 畿 鯨 講 宜 = 勤 停 ﹁ 其 観 察 使 節 度 州 、 毎 コ 一 一 長 調 月 任 ニ 寺 一 観 崎 置 詩 、 齢 州 悉 停 ︵ 郡 山 一 司 ︶ とあるのは、.﹃五代品開要﹄の文と金く同一むもので、.俗講とはないがこの講は俗講を意味するものであらう c ζ れが俗講とすれば乙 L に長安のみならや、諸州府に俗語が一一一長月に開催されし居たことを知る子とが出来る@ 更に又次の如き俗講に闘する記事がある。﹃績高僧侍﹄傘ニ十習騨六之徐に於ける唐衡缶抄門騨普伏停に

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潤 善 伏 常 州 義 興 人 ︵ 中 一 時 ︶ 五 歳 於 2 安園寺兄才法師謹−出家、布衣読食日諦経巻‘目視七行、一間不 v 志 、 貞 観 一 一 一 年 、 . 簡 刺 史 聞 − − 其 聴 敏 4誼充 z 墜 ↓ 因 爾 日 韓 ニ 俗 講 ↓ タ 思 − 一 悌 義 叶 博 士 責 v之、軒目量不 ν 乎 、 行 有 エ 齢 力 ﹁ 所 以 博 観 、 如 不 レ 見 レ 信 、 詩 問 “ 日 前 開 ↓ 乃 試 ν 之一無 ν 所 ν滞、章魚聯類悌敬雨用疏通 E 於是畢館傾首、 とある o 常州義興︵即時附︶の普伏が五才にて出家したが齢、タ聴敏なる潟に、刺史に按擁されて出家として立はな ︿、官吏たるべく州の皐校に入墜した。然るに俗講を轄を悌教に心を寄せて居たが放に教授たる博士に問責され た。とれに掛して伎は飴カ D あるが故に、博く勉皐せんが震に俗講を聞き、伸敬を境めんとしたもので、製業を 怠った揮ではない。若し不信ならば試問されんことそと Q よって試みに皐業を問ふに、.?として滞ふることなく とれに答へることが出来たむのみならや悌教と疏通せしめて解答したので、先生は敬服したと云ふのである。 さてこの記描によって脊々は E 諸州府に俗講が開かれて居たと一言ふ﹃五代 A W 要﹄や﹃会唐文﹄の抽象的、推論 的記事より進んで E 確買に俗語が地方に聞かれて居先重要なる事質を知るに至った。更に記越が一唐使値ある資 料として注意すべをことは E と の 俗 講 が 常 州 に 於 い て 、 貞 翻 一 二 年 川 西 組 六 一 一 九 ︸ 頃 に 聞 か れ て 居 た と 一 一 可 一 口 ふ こ と で あ る。従来の研究に於いては、.俗講は中唐以後に於いて枇舎的耕民草と共に、悌教が大血熱に接せんとする一つの契機 として、俗講なるもの L 存在となったと説明し、.費料によって文宗より遡って、敬宗、穆宗、.憲宗迄とし、それ 以上は何ら資料なく、.恐らくこれ以上は遡ること能はやとされて居たものである。然るに二百年程も遡る唐初太 宗の貞観一コ年頃に俗語が存在して居たと言ふととは、.驚くべきことで、俗語に封する結束の考擦を一費せねばな ちないとと与なった。 ~5 かくむ如く俗講は唐一代を通じて、唐初より諸州に開催され、中央に於いては勅命による俗語すら開かれて居 支那に於ける品開教の民衆敦化 七 一

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日 本 傍 秋 悶 申 協 命 宵 年 報 ︵ 第 十 ニ 年 ﹀ セ 26 ろ盛況を示して居たものである。寡聞のために未だ地方俗講の例誰をこれ以上具程的に知るを得ないが E 今後新

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くこの方面白費料の現出によって、愈とその兵煙的な事費を鮮明にすると共に、一方年代的に見て唐中葉以前 の俗講に封して、確貫なる解明を興ふることが出来るであらう。 現在の資料に於いては、只唐初より俗講が開かれて居た背中質は確質にこれを知り得るも、.これが如何にし℃、. 如何なる理由に於いて、叉中央に於いては中葉以後に於けると同様に、.勅による俗講が開かれたか否か、これら の黙に就いて全く不明である。が併し常州の如き地方に於いてすら俗緯が在ったとすれば、更に伸教文化白殻逮 せる帝都長安に於いても、勅によると否とに闘らや、同様に俗講の開催されたる寺院のあったと見ることは、何 友無理な憶測ではないであらう。 さてかくの如く天下諸州に悶かれた俗講が、固仁の記載の如くであれば、何れもかなり程度の高き講演のみで あったと見るべをであらう P 帝都の如ま文化高き鹿ではか L る講経も可能であらうが E 地方に於ける俗語に於い ては、か L る形式内容はその地に於ける在俗の人々に均して、何らその目的を達成することは出来ないであらう 少くとも俗講の内容、その程度に於いて、各地方によって間関って居たことは常然であらうと息はれる。特に帝都 畏安に於ける代表的な俗講たる、勅による俗講の形式内容がそのま L 各州鯨のそれと同様であったとは到底想像

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件ない所である。勅による俗識は、全く代表的な、公式的な、悪く品目一口へば形式に堕したる、.一種の俗講でなか ったであらうか。地方に於ける俗講は、棋の唱導の法と大差なぎも D があったこと L 思はれる@従って俗講俗も 説法師阜、或は邑師、化俗法師など L 同様な者も多かったこと L 思はれる@それは上記 D 俗諦俗文淑によって知る と と が 出 来 る @

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唐 の 安 節 の ﹁ 柴 府 雑 録 ﹄ ︵ 一 綿 一 一 付 帯 ︶ に よ る と 文 叙 子 、 . 畏 慶 中 俗 講 俗 文 叙 普 − 一 時 経 ↓ 其 聾 宛 暢 、 感 = 動 旦 人 ↓ 紫 エ 寅 米 飯 、 献 三 其 念 = 四 聾 観 世 菅 菩 薩 ↓ 乃 撰 = 此 L U 同 ﹂ 日 μ とて、穆宗時代に俗講健文叙白妙音吟経左以て民衆敬化にカめて居たが、紫エ資米飯によって棋の観世管菩薩を 念守るを模して、文叙予なる曲を作ったことを描べて居る@との文叙俗講借は困仁の言ふ武長時代の文淑その人 で あ る Q 乙の文叙による管曲は後又文宗によっても﹁文献子﹂なる曲となって現はれて居る組、文叙俗講紬阻む吟 控は一世に名を馳せたものであり、棋の俗語は都市の人 A に喧侍されたも。であった

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とれによって考へられ得ることは、畏安に在つでも勅によらざる俗講が開催され、.文淑の知き有名なる俗講師 が請ぜられて、講演せることである。既に諸氏の明示されて居る﹃資治通鑑﹄巻ニ四一ニの敬宗費暦二年︵八二六︶ の僚に、﹁上興幅寺に幸して、沙門文蜘酬の俗語を観る﹂とあるのは、武宗白時 D A W 昌寺俗講の文淑である o か L る諸寺に於ける、蛇びに地方に於ける俗講は、京城に於いての代表的勅令によるそれとは異って、非常に民衆に 接近せしものであったであらう。 上記﹁遇鑑﹂の記事に胡一二省が註をたして 稗 氏 講 説 類 談 二 室 有 ↓ 而 俗 講 者 、 . 叉 不 2 能 演 − −

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有之議↓徒以 v ν 俗 濫 ニ 布 施 − 而 己 を言って、俗講が普通の講説。如き淳一有の理を談ぜ歩、温俗的な民衆に歓迎されるが如き E 布施が多く集まるが 如き講演をなして居たと言ふことは、多少胡一ヱ省の悌教操ひの記事ではあらうが、.か L ることが一般の俗議中に なかった、とは保誰し得ない

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恐らくか L る傾向を帯びた俗語も多かワたととであらうと思はれる。例へぽ先に 27 支那に於ける傍教の民衆敬化 ‘t

(28)

首本側敬単協曾年報ハ第十二年以 七 回 28 も油ぺたて遊化償と思はれる唐盆州浮恵寺恵寛の如き、,諸寺が棋を諦じて講演をすれぽ﹁施物は山積するに至る﹂ ・ と 宮 は れ 、 . と の 施 物 が 寺 院 経 済 白 一 部 と 怒 る と す れ ば 、 . 俗 講 の 場 合 も 亦 か L ることを想像することが出来る。 一程寺院に在って寺塔の増築修賓とか、或は大法舎とかの場合は、多く構越の布施に倹ったが、動化借の在っ て地方を巡敬して基金を募集したものである

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或は修覆寡財の法 A W が開催されて E 人々から布施を受けたもので あ る

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例へぽ国仁 D ﹃巡臨記﹄を見ると、楊州開元寺の栴檀瑞像闘を修覆せんがために、その募財の講経を孝感 寺に於いて約一ヶ月程開催して居る P ︵ 特 一 ド 珊 同 町 ⋮ ︶ 市 し て と の 時 は 金 剛 経 を 講 じ 、 そ の 募 財 額 一 は 一 寓 買 と 言 は れて居り、毎日参轄する者多数とある

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とれらも亦俗講の一種と見てもよいであらう

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叉説法師と呼ぽれた唐京 ⑮ 師の費巌は京邑諸寺塔建立、修覆寡財む潟に荷ぜられて説法をして居る。兎に角か L る経済的目的の講経、或は 法令説法等は盛んに行はれたものであって見れぽ E その講経の内容は最も平易に、在俗白人 A D 歓迎さる L も の でなけねばならなかった e 胡三省の批評も強ち否定し去ることは出来ない@ 叉既に諸氏によって引用されて居る唐の鵡嘆の﹃国語録﹄巻固に於ける文淑借 D 批評に、伎の説法は経論に依 託 し て 、 浬 識 齢 襲 D 事を説くが故に、愚夫冶婦はその説法を柴んで聞き、聴者常に寺舎に満ち充ち、謄糟崇#唱して 居ると慨嘆して居るのは、との文献が伎の武宗時の俗諦借文献と同人なるぞ否ぞの問題はあるが、そのことは別 とし℃も、営時の説法師の態度内容には、,か h る批評を受くベき一面があったことを物語って居ると共に、一般 の 在 俗 に 封 す る 説 法 に は 、 . 多 分 に か L る傾向おりしととを想像することが出来る

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そはか L る﹁淫識榔襲﹂なる 文字によって批議すべきものではなく、遇俗的に子易に因縁説話を雑へて説く在俗に針する説法は、,立減なる公 的なる従来の諦経に劃する考を以て望んだ場合には E 如何にも堕落した低級なも@に感 4 1 る乙とであらう

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そ れ

(29)

が偶 K 伸教に劃して飴 h y好意を有せざる人 A が ζ れを聞いたとすれば、 ζ L に営然か L る批評を下す理由が存在 するものと見ねばならぬ e 絶ってとの意味に於いてとの文淑なるものは、.伎の名聾ある俗講俗文献と同一人であ るかも知れぬ。尚乙@乙とは充分検討せねぽならぬ Q 以上に於いて俗講は講経の進展せるものであり、勅による俗講は僧形式的な、聴衆が自然限定されるぞうた内 容であったと見るが、一般の俗語は相常深く民衆と接鯛せるものであったことを越べたが、更にとの一般の俗諦 とも掃すべきニコ函例を掲げること L する Q 誰でもが例に懇げる宋銭日却の﹃南部新書﹄成容に﹁長安の戯場は多 ︿諮患に集る o 小なるは車内龍に在り、其の共は薦幅と永欝なり﹂と言ヲて、それに観いて 尼講盛ユ子保唐↓名徳楽 ν − と あ る e 尼講とは如何なる意味か判然しないが、或は文字通り尼の講経と解してよい。兎に角保唐寺 D 講 演 に は名徳借が喪って、常に名講演を以て有名であったらしい。保唐寺は陪開皇二年李敬遣の建立で E 菩提寺と稽せ ち れ た が 、 大 中 六 年 ︵ 胡 胡 入 ︶ に 保 唐 寺 と 改 め ら れ て 居 る ︵ 制 服 志 ︶ e 又﹁酉陽雑翌日開集﹂のき空間によれぽ、菩提 寺には滞土饗などの饗相圃多く、且つ一克和宋俗語借文淑装む費相圃あるととを越ベて居る。とれによって菩提寺 町ち保磨寺と俗講との閥係を知るべく、.上掲の名徳借の棄り来ったのは俗講のことであった

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叉 と の 保 唐 中 一 寸 の 説 法 に 就 い て は 共 D 如き記事がある o 即 ち 唐 の 孫 築 白 勺 北 里 志 ﹂ ︵ 閉 山 端 信 ︶ に 平康昼間諸妓所居之喪也︵中略可諸妓以 v ν 震 ν 、 毎 三 甫 簡 保 唐 寺 有 = 講 席 − 多 以 = 月 之 八 日 − 相 牽 率 聴 意 、 . 皆 納 ニ 其 一 般 母 一 一 締 ﹁ 然 後 能 出 2 於星↓其於=他魔﹁必因 ν 而 遊 、 或 約 = 人 興 同 行 司 則 錆 = 下 稗 − 納 = 資 於 骸 骨 ﹁ 故 保 厨 寺 毎 一 一 一 八 日 、 士 女 極 多 、 葦 有 ν = 於 諸 妓 − 也 @ !l9 安郊に於ける例駄の民衆軟化 七 五

(30)

百 本 悌 教 即 時 平 協 品 開 年 報 ハ 第 十 ニ 年 ﹀ 七 六

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とある。妓女の町である子康旦と保唐寺と密接な閥係ありしもので、.保唐寺の講席には大勢。妓女が乙れを轄を に 来 た が 、 ζ れは多く月の八の日、即ち八日、十八日、二十八日のコ一同聞かれたもので、このためにこの臼の議 席には一般 D 士女も非常に多く参轄したむこれは諸妓が大勢来て居るが震でもあった詳であらう。 との記事に見る保唐寺の講席は全く程度の低き俗講であったゃうである。妓女なるものに到しても理解され借 る説法であって見れぽ、その説法の内容が如何なるものか略と相像するととが出来る。乙む記事は俗講の例とし て、叉寺院と妓女との交渉あるものとして、興味ある資料であり、色々の問題を呈出するものであるむ 又唐の段成式の﹃酉陽雑姐績集﹄巻二によれば、上都の借太遣なる者、能く仁王経を講じたが、開元の初めに 奉化牒京蓮村︵漸江省︶に於いて、仁王経を講じて迭に村寺に止 h y 、雨夏を此躍で詮ったとあるから、村寺を中心 として民衆釘乎白仁王粧が講ぜられて居たもので、或はこれも俗講と稿してもよいであらうむかくの如く俗講と ほ明示してないが、﹁俗人に封する詩経﹂と息はれる幾多の例讃を翠ぐることが出来るむが併しこれらが果して 悉く俗謡と稀すベぎものであるか否か、何不明なものもあらうが、開催白目的が民衆にある講経であったとすれ ぽ、これを俗語と見ては何らの誤はない。只乙む場合、粛合、.法令等に於ける唱謀、戒は化俗法師の説法と匝別 されねばならぬことである@

俗講を唱導との相違

前数節に於いて越べ来れるが如く、一粧品回大衆を目的とする悌教え化は、色々な形式に於いて行はれて来たが、 同じ民衆釘象の説法であり乍ら、上越の俗講と唱導とは相違することに注意せねばならぬ。恒令そ

ρ

方法結果が

(31)

同一なる場合があり、後には殆んど混同されて匝別がなくなったやうな場令があったであらうが、兎に角乙の雨 者はその形式及び成立に於いて確然たる匝別が認められる。 唱導は従来越べ来ったが如く、全く専門的な布教家であり、妙聾とか排とか才とかをその傑件としたもので、 後章に越べる諸種の唱導文を種本として、とれをむしろ諦したものである U 勿論経論を内容とはして居るであら うが、因縁を雑へ韓鳴を説き、世事に般託して法を説く態度であった。諸種の法舎に請ぜられて、一座の説訟を なすものであり、地方を巡姐して教化するものであった。唱道師は説法師となり、,化俗法仰とな

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、遊化借とな る も の で あ る 。 一方俗講は全く形式を具にして居るもので、純然たる講経の系統に属するもので、講経から覆講へ、更に俗語 左進展するものと見てよい G 勿論これは時間的のみ D 説明ではなく、俗講が聞かれても E 覆講の制度が依然とし て行はれたが、俗講にはか L る寝講の講経より分離して滴立したものであると解してもよい程である o 従って ﹁俗に劃する謡経甲であり遇俗なる平易なる講演とは言ひ乍ら、何れも法華、浬襲、華殿、般若、.金剛、仁王英 他の難解な経典を講越するもので、それも唱導の如き一座或は短時日のものではなく、全経由刊を講越し終るもの であって見れば、その内容に於いて大いに異りありと雪一口はねぽならぬ。唱導に於いては唱導師。作成した、.偉統 的の唱導文があったが、俗講は経論が中心である Q 勿論前に越ベたるが如く俗講借文獄の如く、又一般寺院白俗 語の如く全く、唱導と直別なき肢態に超なったと思はれる節もあるが、然し飽く迄も雨者は区別されねぽならぬ。 81 さてか L る俗講の内容に就いては、上記の向建及び那波博士の研境中に詳越されて居るが E との中に於て余。 ⑬ 意見と多少相具する所がある。即ち博士の研皆んによれば、か L る俗語に於いては、温俗的に平易に講錯するとは 支郊に於ける例数の民衆数化 七 七

(32)

四 本 傍 敬 血 中 協 曾 年 報 ︵ 第 −

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二 年 ︶ 七 八 32' 言へ、法華、華巌 h 浬撰等の宏濯なるものなる故、大衆の退屈し倦むところあるが錨に E これを防ぎ庶民大衆を 惹きつけん ζ とを芳集して即ち、欝経の合間々々に一二十分間程づっ飴興的。催物が行はれた ρ それは因縁談

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カ タ リ ウ タ U 欝説ぞ、悌徳讃摸吟一訴が一回目紫に伴はれて面白く行はれ、とれによって民衆の疲を取越しの JL 俗講が謹められた。 而してとの飴興的の催物は勿論講師の場所ではなく、俗語には講座と別に唱経座と稽する催物専門の座があって と L にてとれを行ふものであると一一一日はれるのである。市してとれが南宋時代に盛んに華人が演じた説経、談粧。 淵源をなすものであらうとされて居るものであるむ との博士の解緯は向達氏の意見と同じぞうであり甚だ興味あるものであり E 俗講に封する解明を一・歩進むるも のであるが、然し乍ら俗語が果してかLる形式のものであったか否か、頗る疑問である@博士が俗講乞かLる解 轄に導いた根本的資料は共のものであるやうである。唐の蘇鵠の﹃社陽雑編﹄巻下に 上 ︵ 敵 宗 ︶ 敬 ユ 天 竺 教 寸 ︹ 戚 遇 ︺ 十 二 年 冬 、 製 ニ 二 高 座 − 賜 ニ 新 安 閣 寺 ↓ 一 日 講 座 、 一 日 唱 経 座 、 各 高 ニ 丈 、 研 抗 措 潟 ν 品 目 以 ν漆塗レ之、組問金銀涜コ龍鳳花木之形↓編覆コ共上↓叉置コ小方座↓前陳−経築﹁次設ニ呑盆寸四隅立コ金頴 伽 ﹁ 高 一 一 一 丈 、 時 遭 欄 艦 、 無 ν − 一 悉 具 前 ﹁ 繍 錦 樵 持 、 精 巧 奇 絶 冠 ニ 子 一 時 ﹁ 即 設 − 一 高 人 組 側 ﹁ 勅 コ 大 徳 倫 撤 首 み 坤 ュ 講 論 − 一 式 え 唱経座に起因する

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即 ち と の 記 事 は 、 帝 が 威 通 十 一 三 千 五 月 ︵ 団 . 4 入︶の春座俗講に使用すべく E 講座、唱鰹座のニ座左前年

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十二月に賜ったものであり、この唱経座と稀すものは、後世北宋南宋時代に瓦子。 勾欄にて華人が興行物’

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て演出する、談経、読経を一名唱経とも稀するから、と L に 一 言 ふ 明 粧 座 は こ の 唱 経 @ 淵顕をたすもので、.飴興的催物をなす座であると説明されたものである@ − と あ る こ の 講 座

(33)

さ て こ L に 於 い て こ の 解 樺 に 疑 問 を 慢 ︿ こ と は 、 . ζ 白唱経座が如何にして俗講と閥係して居るかである Q 上 記 の記事に於いてはこれは何ら俗講に闘するものではない。俗語とは無関係である o 絶ってこの唱経座も何ら俗語 に闘したものでない。上記の文からは何ら特に俗講を暗示するぞうなものは受け取れない。寓人粛を設けた大徳 傍撤首に勅して講論をなさしめたと言ふことも、決して特に俗講を意味するものでもない e 縫って俗講に際して 唱経座に於いて催物をなしたと言ふが如きことは考へ得られない。 然し一歩 b L 進めて新安岡寺に於いても、俗講が開催されたことであらうから、この唱経座が俗講に於いても使 用されたものとして考へても E 唱経座が果して後世の唱経の淵誠をなすものであったか否か。とれは恐らく否定 ざ る べ き で あ ら う 。 一種悌敬の講艇の場合には普通ニ高座が設けられて居るもので、敢て俗講にのみ設けられたものではない。然 かもとの唱経とは興行的催物の唱経ではなく、.講経に於ける一種の重要なる佼割を持つ、所謂鰹題を唱へる儀式 である。唱経とは講越せんとする経典。経題を唱へ上げることである@現在我が園に於いて天台宗やその他に於 い て 講 経 合 の 場 令 に は 、 . 同 ヒ く か L る儀式が行はれて居るが、今乙れを唐代の講躍の場合を考へて見ても同様で ある。国仁の﹃入唐巡樽記﹄巻こに於ける山東省赤山院の﹁新羅一日韓経儀式﹂に 講師都議二人入堂、犬衆先入列 ν 坐、講師讃師入堂之台、犬衆岡管稽ユ嘆悌名↓其講師登ニ北座↓都講登=甫座” 了 、 讃 伸 便 止 、 時 有 お 下 座 一 借 − 有 v党、一式何於此経等一行偶也、作鷲了、骨 h f 一 壮 一 秒 砂 町 町 引 所 間 骨 骨 一 於 砂 、 子 炉 有 屈 曲 ↓ 唱 経 之 合 、 大 衆 コ 一 遍 散 花 、 . 毎 散 花 時 各 有 レ 所 レ 碩 、 唱 粧 了 、 更 短 音 唱 2 鰹 題 目 ﹁ 講 師 関 = 経 目 ↓ = 一 門 分 別 強 エ 経 大 意 ﹁ 揮 − 一 経 題 目 − 寛 云 h R 33 支那に於ける悌歎の民家激化 セ ホι

参照

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