駒澤大學佛教學部論集 第四十六號 平成二十七年十月 一一一
古
澗
世
泉
に
対
す
る
関
心
鎌 倉 中 期 に 南 宋 の 江 南 禅 林 か ら 日 本 に 渡 来 し た 宋 僧 の 一 人 と し て 臨 済 宗 大 慧 派 の 古 澗 世 泉 ( 生 没 年 未 詳 ) と い う 禅 者 の 存 在 が 希 有 に し て 知 ら れ て い る 。 道 号 の 古 澗 と 法 諱 の 世 泉 と い う 名 称 の 由 来 は 「 古 澗 寒 泉 」 の 語 に 因 む も の で あ り )( ( 、 山 間 の 古 澗 か ら 流 れ 出 る 冷 た い 泉 水 を 意 味 し よ う 。 当 時 、 南 宋 後 期 か ら 元 代 に か け て 江 南 禅 林 で 道 号 に 「 澗 」 な い し 「 磵 」 の 字 を 用 い る 禅 者 は か な り 見 ら れ 、 大 慧 派 の 北 磵 居 簡 ( 敬 叟 、 一 一 六 四 ─ 一 二 四 六 ) は 名 高 い が 、 そ の ほ か に も 大 慧 派 に 玉 澗 光 瑩 ・ 雪 磵 □ 森 ・ 別 澗 □ 源 ・ 南 磵 似 藻 が お り 、 松 源 派 に 日 本 に 渡 来 し た 西 澗 子 曇 ( 大 通 禅 師 、 一 二 四 九 ― 一 三 〇 六 ) が お り 、 曹 源 派 に 玉 澗 □ 璁 、 破 庵 派 に 月 磵 文 明 ・ 南 澗 □ 泉 ・ 東 澗 道 洵 が 存 し て い る )( ( 。 一 方 、 南 宋 後 期 か ら 元 代 に 法 諱 の 下 字 に 「 泉 」 の 字 を 用 い て い る 江 南 禅 者 は そ れ ほ ど お ら ず 、 楊 岐 派 に 高 原 祖 泉 ( 高 源 と も 、 ? ─ 一 二 二 九 ) が あ り 、 破 庵 派 に 南 澗 □ 泉 が 存 し て い る 程 度 で あ る 。 江 南 禅 林 よ り 南 宋 末 期 に 日 本 に 渡 来 し た 宋 僧 と い え ば 、 松 源 派 ( 大 覚 派 祖 ) の 蘭 渓 道 隆 ( 大 覚 禅 師 、 一 二 一 三 ─ 一 二 七 八 ) と 破 庵 派 ( 宗 覚 派 祖 ) の 兀 庵 普 寧 ( 宗 覚 禅 師 、 一 一 九 八 ? ─ 一 二 七 六 ) と 松 源 派 ( 仏 源 派 祖 ) の 大 休 正 念 ( 仏 源 禅 師 、 一 二 一 五 ─ 一 二 八 九 ) な ど が 著 名 で あ る が 、 こ う し た 宋 僧 ら に 比 し て 、 こ れ ま で 世 泉 の 存 在 は ほ と ん ど 世 に 注 目 さ れ て い な い 。 そ の 要 因 と し て は 、 伝 記 記 事 が 全 く 存 せ ず 、 世 泉 の 具 体 的 な 足 取 り が ほ と ん ど 不 明 で あ る こ と 、 彼 が 鎌 倉 の 禅 刹 に 住 持 し た 形 跡 が 見 ら れ な い こ と 、 日 本 に 滞 在 し て い た の が か な り 短 期 に 限 ら れ て い た と 見 ら れ る こ と 、 南 宋 に 帰 国 し た 後 の 消 息 が 断 片 的 に し か 辿 れ な い こ と 、 こ う し た 点 が 挙 げ ら れ よ う 。 中 国 や 日 本 で 撰 述 さ れ た 禅 宗 燈 史 に は 世 泉 の 名 は 一 切 記 さ れ て お ら ず 、 辛 う じ て 破 庵 派 ( 仏 光 派 祖 ) の 無 学 祖 元 ( 子 元 、 仏 光 国 師 、 一 二 二 六 ─ 一 二 八 六 ) と の 関 わ り か ら 、 そ の 埋 も れ た 足 跡 が 窺 わ れ る に す ぎ な い 。宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡
蘭渓道隆・無学祖元と関わり鎌倉と大都を結んだ禅者
佐
藤
秀
孝
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一二 そ も そ も 古 澗 世 泉 と い う 禅 者 の 存 在 に と り わ け 注 目 し た の は 玉 村 竹 二 氏 で あ り 、 玉 村 竹 二 『 日 本 禅 宗 史 論 集 上 』 ( 思 文 閣 出 版 刊 ) に 「 宋 僧 泉 古 澗 に つ い て 」 と 題 す る 短 編 の 論 文 が 載 せ ら れ て お り 、 同 じ く 玉 村 竹 二 『 五 山 禅 僧 伝 記 集 成 』 ( 講 談 社 刊 ) に は 「 古 澗 世 泉 ( こ か ん せ せ ん ) 」 と し て 項 目 を 立 て 、 そ の 事 跡 を つ ぎ の よ う に 書 き ま と め て い る )( ( 。 臨 済 宗 大 慧 派 。 法 諱 は 世 泉 、 道 号 は 古 澗 。 宋 僧 。 法 を 大 川 普 済 に 嗣 ぐ 。 嘗 て 日 本 に 来 朝 、 北 條 時 頼 と 交 渉 が あ り 、 北 條 時 宗 に も 期 待 さ れ た 。 一 旦 帰 宋 し 、 開 寿 寺 に 於 て 、 無 学 祖 元 と 邂 逅 し 、 時 頼 の 崇 仏 の 篤 実 な る 事 を 無 学 に 語 り 、 後 日 無 学 の 来 朝 の 機 縁 を 作 っ た 。 そ の 際 無 学 に 再 び 日 本 へ 渡 航 す る 予 定 だ と 語 っ て い る が 、 果 し て そ れ が 実 現 し た か 否 か は 不 明 で あ る 。 の ち 南 山 士 雲 が 円 覚 寺 住 持 の 任 に 在 っ た 文 保 年 間 ( 一 三 一 七 ─ 一 三 一 八 ) に 宋 ? の 章 敬 寺 の 西 堂 ( 他 の 寺 の 前 住 に し て 、 そ の 寺 に 身 を 寄 せ て い る 人 ) の 古 澗 と い う 僧 が 来 朝 し て 同 寺 を 訪 れ 、 南 山 は 之 を 謝 す る 上 堂 を 行 な っ て い る が 、 こ れ が 果 し て 同 一 人 で あ る か 否 か 疑 わ し い 。 無 学 が 存 生 中 、 既 に 古 澗 を 故 人 と し て 追 憶 し て い る か ら で あ る 。 開 慶 ・ 景 定 ・ 咸 淳 ( 一 二 五 九 ─ 一 二 七 四 ) 頃 の 人 で あ る 。 〔 参 考 文 献 〕 仏 光 円 満 常 照 国 師 語 録 仏 祖 正 伝 宗 派 図 南 山 和 尚 語 録 玉 村 氏 は 記 事 こ そ 簡 略 な が ら 、 無 学 祖 元 の 『 仏 光 国 師 語 録 』 と 南 北 朝 後 期 の 『 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』 に 基 づ い て 古 澗 世 泉 の 事 跡 を 考 察 し て お り 、 世 泉 を 大 慧 派 の 大 川 普 済 ( 一 一 七 九 ─ 一 二 五 三 ) の 法 を 嗣 い だ 高 弟 と し 、 後 に 日 本 に 渡 来 し て 北 条 時 頼 や 北 条 時 宗 と 関 わ り を 持 ち 、 南 宋 に 帰 国 し て 無 学 祖 元 が 来 日 す る 機 縁 の 一 つ を 作 っ た 禅 者 と し て そ の 存 在 に 注 目 し て い る 。 一 方 、 聖 一 派 の 南 山 士 雲 ( 一 二 五 四 ─ 一 三 三 五 ) の 『 南 山 和 尚 語 録 』「 南 山 和 尚 住 相 陽 瑞 鹿 山 円 覚 禅 寺 語 録 」 に 「 謝 二大 宋 章 敬 西 堂 古 澗 和 尚 到 一上 堂 」 と し て 載 る 同 じ く 渡 来 僧 の 古 澗 西 堂 に つ い て 、 玉 村 氏 は 時 代 的 に 古 澗 世 泉 と は 全 く の 別 人 で あ ろ う と 推 測 し て い る 。 士 雲 が 鎌 倉 の 円 覚 寺 に 住 持 し た の は 文 保 元 年 ( 元 の 延 祐 四 年 、 一 三 一 七 ) の こ と で あ り 、 古 澗 世 泉 が 鎌 倉 に 滞 在 し て い た と き か ら 五 〇 年 以 上 を 隔 て て い る か ら 、 当 然 、 別 人 と 解 す る べ き で あ ろ う 。 ち な み に 士 雲 と 関 わ っ た 渡 来 僧 の 古 澗 が か つ て 西 堂 を 勤 め て い た 章 敬 寺 と は 、 西 安 府 ( 陝 西 省 ) 長 安 県 の 長 安 城 東 門 に 存 し た 章 敬 禅 寺 の こ と を 指 し て お り 、 こ の 寺 は 唐 代 に 馬 祖 下 の 章 敬 懐 暉 ( 大 覚 禅 師 、 大 宣 教 禅 師 、 七 五 四 ─ 八 一 五 ) が 住 持 し た 寺 院 と し て 知 ら れ 、 元 代 中 期 に 日 本 に 渡 来 し た と 見 ら れ る 章 敬 寺 の 古 澗 西 堂 に つ い て も 、 そ の 事 跡 に 関 し て は 古 澗 世 泉 と 同 じ よ う に 興 味 深 い も の を 覚 え る )( ( 。 た だ し 、 こ の 古 澗 西 堂 に つ い て は 果 し て そ の 後 も 日 本 に 留 ま っ た の か 、 元 朝 に 帰 国 し た の か も 定 か で な い 。 こ の ほ か に も 中 世 後 期 に 活 躍 し た 曹 洞 禅 者 に 、 峨 山 下 太 源 派 の 太 容 梵 清 ( ? ─ 一 四 二 七 ) の 法 を 嗣 い だ 古 澗 仁 泉 ( 一 三 七 九 ─
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一三 一 四 五 八 ) と い う 人 が 存 し て お り )( ( 、 道 号 ・ 法 諱 と も 類 似 し て い る が 、 こ こ に い う 古 澗 世 泉 と は 約 二 世 紀 近 い 開 き が あ る 。
大
川
普
済
へ
の
参
学
大 慧 派 の 渡 来 僧 で あ る 古 澗 世 泉 に 関 し て は 、 中 国 ・ 日 本 の 禅 宗 燈 史 に そ の 名 が 見 ら れ な い が 、 わ ず か に 日 本 に 残 る 若 干 の 宗 派 図 に 名 の み が 伝 え ら れ て い る 。 世 田 谷 区 上 野 毛 の 五 島 美 術 館 ・ 大 東 急 記 念 文 庫 に 所 蔵 さ れ る 北 朝 の 永 徳 二 年 ( 一 三 八 二 ) に 刊 行 さ れ た 『 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』 に よ れ ば 「 霊 隠 大 川 普 済 」 の 法 嗣 に 「 雪 竇 石 門 □ 来 」「 雪 竇 少 埜 炳 同 」「 護 聖 鉄 壁 法 通 」「 萬 寿 鉄 舩 用 楫 」「 保 福 指 堂 了 一 」「 妙 勝 樵 屋 □ 仙 」「 普 慈 足 翁 □ 麟 」「 在 菴 □ 仍 」「 古 澗 世 泉 」「 開 元 仏 日 禾 上 」「 育 王 東 叟 元 愷 」 と い う 一 一 人 の 名 が 載 せ ら れ て お り 、 右 か ら 八 番 目 に 古 澗 世 泉 の 名 が 収 め ら れ て い る 。 ま た 世 泉 の 前 に は 後 に 触 れ る 「 普 慈 足 翁 □ 麟 」 の 名 も 存 し て い る 。 江 戸 初 期 の 寛 文 八 年 ( 一 六 六 八 ) に 刊 行 さ れ た 『 正 誤 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』 三 に お い て も 「 霊 隠 大 川 普 済 」 の 法 嗣 と し て 「 萬 寿 鉄 舩 用 楫 」「 開 元 仏 日 和 尚 」「 雪 竇 野 翁 炳 同 」「 雪 竇 石 門 善 来 」「 育 王 東 叟 元 愷 」「 妙 勝 樵 屋 □ 僊 」「 普 慈 足 翁 □ 麟 」「 護 聖 鉄 壁 法 通 」「 在 菴 □ 仍 」「 保 福 指 堂 了 一 」「 古 澗 世 泉 」 と い う 一 一 人 の 名 が 存 し て お り 、 右 か ら 最 後 に 古 澗 世 泉 の 名 が 収 め ら れ 、 や は り 「 普 慈 足 翁 □ 麟 」 の 名 も 存 し て い る 。 ま た 『 伝 燈 歴 世 譜 』 中 の 「 大 慧 下 世 譜 」 に お い て も 「 杭 州 霊 隠 大 川 普 済 」 の 法 嗣 と し て 「 四 明 天 童 □ □ 善 来 」「 四 明 育 王 東 叟 元 愷 」「 萬 寿 鉄 船 用 楫 」「 開 元 □ □ 仏 日 」「 妙 勝 樵 屋 □ 仙 」「 普 慈 足 翁 □ 麟 」「 護 聖 鉄 壁 法 通 」「 保 福 指 堂 了 一 」「 在 菴 □ 仍 」「 古 澗 世 泉 」「 四 明 雪 竇 野 翁 炳 同 」 と い う 一 一 人 の 名 が 記 さ れ て お り 、 右 か ら 一 〇 番 目 に 古 澗 世 泉 の 名 が 存 し 、 や は り 「 普 慈 足 翁 □ 麟 」 の 名 も 存 し て い る )( ( 。 こ の よ う に 『 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』『 正 誤 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』『 伝 燈 歴 世 譜 』 に よ れ ば 、 古 澗 世 泉 は 大 慧 派 の 大 川 普 済 の 法 を 嗣 い だ 門 人 の 一 人 と さ れ て お り 、 こ の 人 は 道 号 を 古 澗 と 称 し 、 法 諱 が 世 泉 で あ っ た こ と が 知 ら れ る 。 楊 岐 派 ( 大 慧 派 祖 ) の 大 慧 宗 杲 ( 妙 喜 、 大 慧 普 覚 禅 師 、 一 〇 八 九 ─ 一 一 六 三 ) か ら 世 泉 に 至 る 直 系 の 師 資 関 係 を 示 す な ら ば 、 つ ぎ の ご と く で あ る 。 大 慧 宗 杲 ─ 拙 庵 徳 光 ─ 浙 翁 如 琰 ─ 大 川 普 済 ─ 古 澗 世 泉 た だ し 、 い ず れ の 宗 派 図 も 世 泉 の 住 持 地 に つ い て は 何 も 記 し て い な い こ と か ら 、 世 泉 は 普 済 に 嗣 法 し た も の の 、 生 涯 に わ た り 禅 寺 の 住 持 に 就 く こ と が な く 世 を 終 え た も の で あ ろ う か 、 あ る い は 世 泉 の 住 職 し た 寺 院 名 が 日 本 禅 林 に 知 ら れ な か っ た も の で あ ろ う 。 一 方 、 大 川 普 済 の 語 録 で あ る 『 大 川 和 尚 語 録 』 (『 霊 隠 大 川 禅 師 語 録 』 と も ) 一 巻 を 閲 覧 し て も 、 世 泉 に 関 す る よ う な宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一四 記 事 は 一 切 見 ら れ な い 。『 物 初 賸 語 』 巻 二 四 「 行 状 」 に 所 収 さ れ る 大 慧 派 の 物 初 大 観 ( 一 二 〇 一 ─ 一 二 六 八 ) が 撰 し た 「 大 川 禅 師 行 状 」 (『 大 川 和 尚 語 録 』 巻 末 で は 「 霊 隠 大 川 禅 師 行 状 」 と あ る ) に お い て も 、 普 済 の 法 嗣 に 関 し て は 単 に 「 弟 子 七 十 餘 人 、 嗣 法 者 出 相 先 後 」 と あ る の み で 、 世 泉 を 含 め て 具 体 的 な 法 嗣 の 名 は 列 記 さ れ て い な い 。 世 泉 が 本 師 と 仰 い だ 大 川 普 済 は 、 明 州 奉 化 県 の 張 氏 の 出 身 で あ り 、 同 県 香 林 院 の 文 憲 に 依 っ て 出 家 し た 後 、 明 州 府 城 の 湖 心 律 寺 で 戒 律 を 学 び 、 台 州 ( 浙 江 省 ) 天 台 県 の 天 台 山 に 上 っ て 天 台 学 を 究 め て い る 。 さ ら に 普 済 は 禅 門 に 帰 し て 台 州 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 で 大 慧 派 の 荷 屋 蘊 常 ( 常 不 軽 ) の も と に 投 じ て お り 、 大 慧 派 の 無 用 浄 全 ( 越 州 翁 大 木 、 一 一 三 七 ─ 一 二 〇 七 ) や 拙 庵 徳 光 ( 東 庵 、 仏 照 禅 師 、 一 一 二 一 ─ 一 二 〇 三 ) ら に 参 学 し た 後 、 徳 光 の 高 弟 で あ る 浙 翁 如 琰 ( 仏 心 禅 師 、 一 一 五 一 ─ 一 二 二 五 ) の も と で 印 可 を 得 て い る 。 普 済 は 浄 全 の 高 弟 で あ る 笑 翁 妙 堪 ( 一 一 七 七 ─ 一 二 四 八 ) の 後 席 を 継 い で 嘉 定 一 〇 年 ( 一 二 一 七 ) に 明 州 定 海 県 の 妙 勝 禅 寺 に 開 堂 出 世 し て お り 、 つ い で 明 州 昌 国 県 の 普 陀 山 観 音 宝 陀 禅 寺 や 明 州 奉 化 県 の 大 中 岳 林 禅 寺 ( 布 袋 道 場 ) お よ び 嘉 興 府 嘉 興 県 ( 嘉 禾 ) の 天 寧 報 恩 光 孝 禅 寺 な ど を 歴 住 し 、 妙 堪 が 開 山 と な っ た 明 州 鄞 県 の 大 慈 山 教 忠 報 国 禅 寺 ( 甲 刹 ) に も 住 持 し て い る 。 さ ら に 越 州 ( 浙 江 省 ) 山 陰 県 の 蘭 亭 天 章 禅 寺 を 経 て 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 寺 と 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 と い う 五 山 に 陞 住 し 、 宝 祐 元 年 ( 一 二 五 三 ) 正 月 に 世 寿 七 五 歳 で 示 寂 し て い る 。 一 般 に 普 済 は 霊 隠 寺 の 住 持 と し て 『 五 燈 会 元 』 二 〇 巻 を 編 集 し た 禅 者 の ご と く 解 さ れ て い る が 、 霊 隠 寺 の 普 済 の も と で 『 五 燈 会 元 』 を 実 地 に 編 集 し た の は 、 松 源 派 の 滅 翁 文 礼 ( 天 目 樵 者 、 一 一 六 七 ─ 一 二 五 〇 ) の 法 を 嗣 い だ 雪 蓬 慧 明 ( 友 雲 、 一 二 二 六 ─ ? ) と い う 禅 者 で あ り 、 こ の 人 は 松 源 派 の 虚 堂 智 愚 ( 息 耕 叟 、 一 一 八 五 ─ 一 二 六 九 ) な ど に も 参 学 し 、 同 世 代 の 破 庵 派 の 無 学 祖 元 ら と も 交 友 を 結 ん で い る )( ( 。 あ る い は 世 泉 は 霊 隠 寺 の 普 済 の も と で 首 座 の 慧 明 と も 旧 知 の 仲 で あ っ た の か も 知 れ な い 。
世
泉
と
同
門
の
禅
者
た
ち
つ ぎ に 世 泉 と 同 じ く 大 川 普 済 の 法 を 嗣 い だ 同 門 の 禅 者 た ち に つ い て 、 一 通 り 整 理 し て お く こ と に し た い 。 史 料 を 通 し て 普 済 の 法 を 嗣 い だ と さ れ る 禅 者 は 先 の ご と く 一 〇 人 な い し 一 一 人 の 名 が 伝 え ら れ て い る 。 石 門 善 来 は 明 州 奉 化 県 の 雪 竇 山 資 聖 禅 寺 や 明 州 鄞 県 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 に 住 持 し て い る が 、『 増 集 続 伝 燈 録 』 巻 三 に 「 四 明 天 童 石 門 来 禅 師 」 の 章 が 存 す る も の の 、『 扶 桑 五 山 記 』 一 「 天 童 住 持 位 次 」 に 名 が 存 し な い な ど 、 定 か で な い 面 が 多 い 。『 物 初 賸宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一五 語 』 巻 一 八 「 疏 」 に 「 来 石 門 薦 二 母 道 場 一門 榜 」 が 存 し て い る 。 善 来 の 法 嗣 に は 奉 化 県 の 棲 真 禅 寺 に 住 し た 古 帆 □ 遠 が お り 、 『 江 湖 風 月 集 』 巻 下 に 「 四 明 古 帆 遠 和 尚 」 の 項 が 存 し 、「 達 磨 」 の 偈 頌 を 収 め て い る 。 野 翁 炳 同 ( 少 埜 ・ 少 野 、 一 二 二 三 ─ 一 三 〇 二 ) は 『 増 集 続 伝 燈 録 』 巻 三 に 「 四 明 雪 竇 野 翁 炳 同 禅 師 」 の 章 が 存 し て い る が 、 記 事 は わ ず か に す ぎ な い 。 幸 い に こ の 人 に 関 し て は 『 牟 氏 陵 陽 集 』 巻 二 四 「 墓 誌 」 に 「 野 翁 禅 師 塔 銘 」 が 残 さ れ て お り 、 そ の 詳 し い 事 跡 が 知 ら れ る 。 炳 同 は 越 州 ( 浙 江 省 ) 新 昌 県 の 張 氏 の 出 身 で あ り 、 郷 里 の 大 明 寺 で 大 轟 を 受 業 師 と し て 出 家 し 、 天 童 山 の 癡 絶 道 冲 や 径 山 の 無 準 師 範 に 参 学 し た 後 、 霊 隠 寺 の 普 済 の も と に 投 じ て 法 を 嗣 い で い る )( ( 。 そ の 後 、 明 州 象 山 県 の 瑞 雲 峰 延 寿 禅 寺 や 鄞 県 の 杖 錫 山 延 勝 禅 院 、 常 州 ( 江 蘇 省 ) 無 錫 県 の 褒 忠 顕 報 華 蔵 禅 寺 な ど に 住 持 し 、 晩 年 に 明 州 奉 化 県 の 雪 竇 山 を 主 っ て い る 。『 物 初 賸 語 』 巻 二 〇 「 疏 」 に は 「 同 少 埜 住 二延 寿 一 諸 山 疏 」 が 収 め ら れ て お り 、 陳 著 ( 字 は 子 微 、 本 堂 先 生 、 一 二 一 四 ─ 一 二 九 七 ) の 『 本 堂 集 』 巻 八 一 「 書 簡 」 に は 「 答 二杖 錫 寺 主 僧 炳 同 一 」 と 「 与 二 雪 竇 寺 主 僧 炳 同 一 」 が 存 し て い る 。 ま た 『 本 堂 集 』 巻 四 六 「 題 跋 」 に は 「 題 二炳 同 上 人 古 杭 風 景 図 一」 が 存 し て い る か ら 、 炳 同 は 画 僧 と し て も 知 ら れ た も の ら し い 。「 野 翁 禅 師 塔 銘 」 に よ れ ば 、 炳 同 は 大 徳 六 年 ( 一 三 〇 二 ) 八 月 に 世 寿 八 〇 歳 で 示 寂 し て い る 。『 仏 光 国 師 語 録 』 巻 九 「 跋 」 に は 「 送 二雲 渓 一 歌 并 序 、 諸 老 題 跋 附 」 が 収 め ら れ て お り 、 開 慶 元 年 ( 一 二 五 九 ) 三 月 晦 日 に 越 州 の 炳 同 が 無 学 祖 元 の 「 送 雲 渓 歌 」 に 寄 せ た 跋 が 載 せ ら れ て い る 。 同 じ く 『 仏 光 国 師 語 録 』 巻 二 「 往 来 偈 頌 」 に も 祖 元 が 詠 じ た 「 寄 三少 野 主 二 等 慈 席 一」 の 偈 頌 が 残 さ れ て い る 。 ま た 田 山 方 南 編 『 続 禅 林 墨 蹟 』 上 の 九 〇 に は 、 元 の 至 元 三 一 年 ( 一 二 九 四 ) 五 月 に 雪 竇 山 ( 乳 峰 ) の 炳 同 が 揮 毫 し た 墨 蹟 が 収 め ら れ て い る 。 炳 同 の 法 嗣 に は 奉 化 県 の 大 中 岳 林 禅 寺 ( 布 袋 道 場 ) に 住 し た 水 南 景 湘 が い る 。 東 叟 元 愷 は 『 増 集 続 伝 燈 録 』 巻 三 「 目 録 」 に 普 済 の 法 嗣 と し て 「 蒋 山 東 叟 愷 禅 師 〈 無 伝 〉」 と 名 の み が 載 せ ら れ て い る 。 元 愷 は 『 大 川 和 尚 語 録 』 一 巻 を 編 纂 し た 門 人 で あ り 、『 大 川 和 尚 語 録 』「 住 嘉 興 府 報 恩 光 孝 禅 寺 語 録 」 に 「 愷 長 老 出 二世 精 厳 一 引 座 」 が 収 め ら れ て お り 、 普 済 が 嘉 興 府 嘉 禾 の 天 寧 報 恩 光 孝 禅 寺 に 住 持 し て い た と き に 同 じ 嘉 興 府 秀 水 県 の 精 厳 禅 寺 ( 古 く 霊 光 寺 ) に 出 世 開 堂 し て い る 。『 増 集 続 伝 燈 録 』 に よ れ ば 、 建 康 府 ( 南 京 ) 上 元 県 の 蒋 山 太 平 興 国 禅 寺 に 住 持 し て い る 。 ま た 『 扶 桑 五 山 記 』 一 「 育 王 住 持 位 次 」 に よ れ ば 、 元 愷 は 明 州 鄞 県 の 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 に も 住 持 し て お り 、 第 四 六 世 に 名 を 連 ね て い る 。 「 一 山 国 師 行 状 」 に よ れ ば 、 曹 源 派 の 一 山 一 寧 が 阿 育 王 山 で 元 愷 に 参 学 し て 知 客 を 勤 め て い る 。『 扶 桑 五 山 記 』 一 「 浄 慈 住 持 位 次 」 に よ れ ば 、 元 愷 は 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 禅 寺 の 第 四 八 世 に も 遷 住 し て い る 。
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一六 鉄 舩 用 楫 は 普 済 が 示 寂 し て 後 、 明 州 鄞 県 の 大 慈 山 教 忠 報 国 禅 寺 に 赴 い て 物 初 大 観 に 普 済 の 行 状 を 依 頼 し て お り 、 こ れ を 受 け て 大 観 は 宝 祐 四 年 ( 一 二 五 六 ) 正 月 に 「 大 川 禅 師 行 状 」 を 状 し て い る 。 用 楫 が 住 持 し た 万 寿 と は 、 お そ ら く 蘇 州 呉 県 に 存 し た 万 寿 報 恩 光 孝 禅 寺 の こ と か 、 明 州 府 城 の 天 寧 報 恩 光 孝 禅 寺 ( 万 寿 寺 ) の い ず れ か を 指 す で あ ろ う 。『 物 初 賸 語 』 巻 二 〇 「 疏 」 に 「 楫 鉄 船 出 二 世 洪 祐 一 江 湖 疏 」 を 収 め て お り 、『 仏 光 国 師 語 録 』 巻 八 「 偈 頌 」 に は 「 悼 二 鉄 船 和 尚 一 」 と 題 し た 偈 頌 が 存 し て い る か ら 、 祖 元 が 日 本 に 渡 来 す る 以 前 に 用 楫 は 示 寂 し た も の で あ ろ う 。 鉄 壁 法 通 は 普 済 の 法 を 嗣 い だ 後 、 護 聖 に 住 持 し た と さ れ る が 、 護 聖 と は 明 州 鄞 県 の 大 梅 山 護 聖 禅 寺 の こ と を 指 し て い る も の と 見 ら れ る 。 指 堂 了 一 も 普 済 の 法 を 嗣 い だ 後 、 保 福 に 住 持 し た と さ れ る が 、 保 福 と は 明 州 鄞 県 の 大 梅 山 保 福 禅 院 の こ と を 指 し て い る も の と 見 ら れ る 。 法 通 と 了 一 の 両 者 は 唐 代 に 馬 祖 下 の 大 梅 法 常 ( 七 五 二 ─ 八 三 九 ) が 住 持 し た 大 梅 山 の 二 禅 刹 で そ れ ぞ れ 化 導 を 敷 い た こ と が 知 ら れ る 。 樵 屋 □ 仙 ( □ 僊 と も ) に つ い て は 法 諱 の 上 字 が 定 か で な い が 、『 大 川 和 尚 語 録 』「 偈 頌 」 に 「 樵 屋 」 の 道 号 頌 が 存 し て い る か ら 、 普 済 の 法 を 嗣 い だ 高 弟 で あ っ た こ と が 確 か め ら れ る 。 樵 屋 □ 仙 が 住 持 し た 妙 勝 と は 、 本 師 普 済 が か つ て 開 堂 出 世 し た 明 州 定 海 県 の 妙 勝 禅 院 の こ と で あ ろ う 。 仏 日 和 尚 に つ い て は 法 諱 二 字 と も 定 か で な く 、 仏 日 と い う の も 道 号 な の か 勅 賜 号 な の か も 判 明 し な い 。 ま た 住 持 し た 開 元 に つ い て は 蘇 州 呉 県 の 開 元 禅 寺 を 指 す と 見 ら れ る が 、 開 元 寺 は 諸 州 に 存 し て い る こ と か ら 断 定 し 得 な い 。 在 菴 □ 仍 に つ い て は 法 諱 の 上 字 が 定 か で な く 、 住 持 地 に つ い て も 記 さ れ て い な い が 、『 大 川 和 尚 語 録 』「 偈 頌 」 に 「 在 庵 」 の 道 号 頌 が 存 し 、『 仏 光 国 師 語 録 』 巻 二 「 往 来 偈 頌 」 に も 「 寄 二在 菴 一」 が 収 め ら れ て い る か ら 、 祖 元 と も 交 流 が 存 し た こ と が 知 ら れ 、 お そ ら く 諸 刹 に 住 持 す る こ と な く 世 を 終 え た も の で あ ろ う 。 こ の よ う に 世 泉 と 同 門 に 当 た る 大 川 門 下 の 諸 禅 者 は 、 多 く 明 州 慶 元 府 ( 元 代 に は 慶 元 路 ) 管 内 の 禅 刹 に 住 持 し て い る こ と が 判 明 し 、 と く に 善 来 が 天 童 山 ( 五 山 第 三 位 ) に 、 元 愷 が 阿 育 王 山 ( 五 山 第 五 位 ) に 、 善 来 と 炳 同 が 雪 竇 山 ( 十 刹 第 五 位 ) に そ れ ぞ れ 陞 住 し て 化 導 を 敷 い て お り 、 彼 ら は 南 宋 末 元 初 の 江 南 禅 林 に お い て そ れ な り の 立 場 に あ っ た こ と が 窺 わ れ る 。 お そ ら く 世 泉 の 場 合 も 、 日 本 に 渡 航 し て 余 分 な 歳 月 を 過 ご さ な か っ た な ら ば 、 彼 ら 同 門 の 禅 者 ら と 同 じ よ う に 明 州 慶 元 府 内 の 禅 寺 な ど を 順 当 に 陞 住 し て い た は ず で あ ろ う 。
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一七
普
慈
寺
の
足
翁
徳
麟
に
つ
い
て
す で に 触 れ た ご と く 『 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』『 正 誤 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』『 伝 燈 歴 世 譜 』 に は 先 に 触 れ た 法 嗣 の ほ か に 「 霊 隠 大 川 普 済 」 の 法 嗣 と し て 「 普 慈 足 翁 □ 麟 」 の 名 が 載 せ ら れ て い る 。 し か し な が ら 、 こ の 足 翁 □ 麟 と い う 禅 者 に 関 し て は 普 済 の 法 嗣 で は な く 、 同 じ 大 慧 派 の 無 際 了 派 ( 一 一 四 九 ― 一 二 二 四 ) の 法 を 嗣 い だ 高 弟 と 解 す る 方 が 妥 当 と 見 ら れ る 。 こ の 禅 者 に 関 し て は 、 後 段 で 世 泉 や 無 学 祖 元 と の 関 わ り で も 問 題 と な る こ と か ら 、 若 干 な が ら 紙 面 を 借 り て 別 個 に 論 じ て お き た い 。 後 代 の 中 国 禅 宗 燈 史 で あ る 『 続 燈 正 統 』 巻 一 二 「 目 録 」 や 『 祖 燈 大 統 』 巻 七 四 「 目 録 」 に は 、 天 童 山 の 無 際 了 派 の 法 嗣 と し て 「 足 翁 麟 禅 師 」 の 名 が 存 し 、 日 本 で 室 町 中 期 に 編 集 さ れ た 『 仏 祖 宗 派 図 』 に も 「 天 童 無 際 了 派 」 の 法 嗣 と し て 「 足 翁 □ 麟 」 の 名 が 記 さ れ て い る 。 幸 い に も こ の 人 に 関 し て は 、 元 初 の 文 人 と し て 名 高 い 戴 表 元 ( 字 は 帥 初 、 剡 源 先 生 、 一 二 四 四 ─ 一 三 一 〇 ) の 『 剡 源 戴 先 生 文 集 』 巻 四 「 記 」 に 「 西 原 菴 記 」 が 存 し )( ( 、 そ こ に 大 慧 派 の 足 翁 徳 麟 ( 一 一 九 九 ─ 一 二 七 一 ) と し て 詳 し い 事 跡 が 語 ら れ て い る 。 徳 麟 は 明 州 奉 化 県 剡 源 の 許 氏 の 出 身 で あ り 、 慶 元 五 年 ( 一 一 九 九 ) に 出 生 し て お り 、 一 四 歳 で 郷 里 の 古 刹 で あ る 奉 化 県 西 南 七 〇 里 の 西 峯 円 覚 禅 寺 に 投 じ て 得 度 し て い る 。 長 じ て 諸 方 に 歴 遊 し て 参 学 に 努 め た 徳 麟 は 鄞 県 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 に 上 山 し て 無 際 了 派 に 参 学 し 、 つ い に そ の 法 を 嗣 い で い る 。 同 時 期 に は 日 本 か ら 道 元 が 天 童 山 に 到 っ て 了 派 に 参 学 し て い る こ と か ら 、 徳 麟 は 道 元 と も 面 識 を 持 っ て い た 可 能 性 が 高 い 。 徳 麟 と 同 門 に 当 た る 雪 窓 祖 日 は 了 派 が 示 寂 し た 後 も 天 童 山 に 留 ま り 、 曹 洞 宗 の 長 翁 如 浄 に 参 随 し て 侍 者 を 勤 め 、 道 元 と も 親 し く 交 友 関 係 を 結 ん で い る 。 一 方 、 い く つ か の 史 料 が 徳 麟 を 大 川 普 済 の 法 嗣 と 伝 え て い る こ と か ら 、 お そ ら く 徳 麟 は 了 派 が 示 寂 し た 後 、 普 済 に も 参 学 す る 機 会 に 恵 ま れ た も の と 見 ら れ 、 そ の た め 一 に 普 済 の 法 を 嗣 い だ か の ご と く 解 さ れ た の で あ ろ う 。 そ の 後 、 徳 麟 は 明 州 慈 渓 県 の 龍 山 禅 寺 に 開 堂 出 世 し 、 住 持 す る こ と 三 年 に し て 同 じ 慈 渓 県 西 南 二 五 里 の 蘆 山 開 寿 普 光 禅 寺 に 遷 住 し て い る 。 さ ら に 六 年 し て 明 州 昌 国 県 北 五 里 の 龍 峰 普 慈 禅 寺 ( 普 慈 院 ) に 法 兄 の 雪 窓 祖 日 の 後 席 を 継 ぐ か た ち で 入 寺 し 、 八 年 間 に わ た っ て 伽 藍 を 一 新 し た と さ れ る 。『 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』 や 『 正 誤 仏 祖 正 伝 宗 派 図 』 三 に は 大 川 普 済 の 法 嗣 と し な が ら も 「 普 慈 足 翁 麟 」 と あ っ て 、 普 慈 寺 に と っ て 徳 麟 の 活 動 は 特 筆 さ れ て い た こ と が 窺 わ れ る 。 さ ら に 徳 麟 は 明 州 奉 化 県 東 北 五 里宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一八 の 大 中 岳 林 禅 寺 ( 布 袋 道 場 ) に 遷 住 し 、 三 年 後 に は 昌 国 県 北 六 〇 里 の 九 峰 山 吉 祥 禅 院 ( 小 天 童 ) に 入 寺 し て い る 。 そ の 四 年 後 に は 慶 元 府 主 で 尚 書 の 余 晦 ( 字 は 古 愚 か ) の 請 を 受 け て 再 び 岳 林 寺 に 住 持 し 、 わ ず か 一 年 に し て 退 住 し て い る 。 つ い で 鄞 県 東 五 〇 里 の 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 が 住 持 を 欠 い た た め 、 徳 麟 は 阿 育 王 山 に 入 寺 し た と 伝 え ら れ る が 、『 扶 桑 五 山 記 』 一 「 育 王 住 持 位 次 」 や 『 明 州 阿 育 王 山 続 志 』 巻 六 「 先 覚 攷 」 に は 、 南 宋 末 期 の 住 持 者 の 中 に 徳 麟 の 名 は 載 せ ら れ て い な い )(( ( 。 徳 麟 の 活 動 地 は 概 ね 明 州 内 に 限 ら れ て い た が 、 晩 年 に 至 っ て 明 州 を 出 て 鎮 江 府 ( 江 蘇 省 ) 丹 徒 県 東 北 九 里 の 焦 山 定 慧 禅 寺 の 住 持 を 勤 め て お り 、 四 年 を 経 て 咸 淳 七 年 ( 一 二 七 一 ) 一 一 月 二 八 日 に 筆 を 求 め て 遺 偈 を 書 し 、 世 寿 七 三 歳 に し て 逝 去 し た と さ れ る 。 徳 麟 は 示 寂 に 臨 ん で 遺 書 を 松 源 派 の 虚 舟 普 度 ( 一 一 九 九 ─ 一 二 八 〇 ) の も と に 呈 し て お り 、『 虚 舟 和 尚 語 録 』「 臨 安 府 霊 隠 景 徳 禅 寺 語 録 」 に は 「 焦 山 足 翁 和 尚 遺 書 至 上 堂 」 が 収 め ら れ て い る 。 徳 麟 が 示 寂 し た 後 、 門 人 の 介 文 が 鎮 江 の 焦 山 か ら 遺 骨 を 捧 げ て 明 州 に 帰 り 、 余 晦 の 妻 魏 氏 と と も に 奉 化 県 の 禽 孝 郷 銅 山 西 に 存 し た 西 原 に 納 骨 し た と さ れ 、 さ ら に 介 文 は 同 門 の 清 萃 や 介 逸 と と も に 墓 塔 を 建 て 、 西 原 庵 を 創 建 し て い る 。『 足 翁 和 尚 語 録 』 が 編 集 刊 行 さ れ た と 伝 え ら れ る が 、 残 念 な が ら 現 今 に 残 さ れ て い な い 。 こ の 足 翁 徳 麟 が 果 し て 世 泉 と 関 わ っ た の か 否 か に つ い て は 後 段 で 検 討 を 試 み る こ と に し た い 。
世
泉
の
出
生
年
時
に
関
す
る
推
定
と こ ろ で 、 古 澗 世 泉 に 関 し て は 出 身 地 や 俗 姓 は 勿 論 の こ と 、 生 没 年 に 関 し て も 全 く 不 明 で あ り 、 こ れ ら を 知 る 術 は い ま の と こ ろ 存 し な い 。 し か し な が ら 、 こ こ で は 世 泉 に つ い て 諸 史 料 を 駆 使 し て 一 応 の 推 測 を な し て お く こ と に し た い 。 世 泉 の 本 師 で あ る 大 川 普 済 は 、 淳 煕 六 年 ( 一 一 七 九 ) に 明 州 奉 化 県 六 詔 の 張 氏 に 生 ま れ て お り 、 大 慧 派 の 浙 翁 如 琰 ( 仏 心 禅 師 、 一 一 五 一 ─ 一 二 二 五 ) の 法 を 嗣 い で い る 。 南 宋 後 期 の 江 南 禅 林 は 、 大 き く 蜀 地 ( 四 川 省 ) の 出 身 で あ る 蜀 僧 と 、 地 元 浙 江 の 出 身 で あ る 浙 僧 と い う 二 大 勢 力 を 中 心 に 維 持 さ れ て い た と い っ て よ い 。 世 泉 に つ い て は 出 身 が 不 明 で あ る が 、 如 琰 ・ 普 済 と も に 浙 僧 で あ る こ と か ら 、 お そ ら く 世 泉 自 身 も 同 じ く 浙 江 出 身 の 浙 僧 で あ っ た 可 能 性 が 高 い で あ ろ う 。 つ ぎ に 世 泉 の 出 生 年 時 に 関 し て 、 可 能 な 範 囲 で 考 察 を な し て お く こ と に し た い 。 普 済 が 示 寂 し た の は 宝 祐 元 年 ( 日 本 の 建 長 五 年 、 一 二 五 三 ) 一 月 の こ と で あ り 、 そ の 後 、 一 〇 年 ほ ど を 経 て 世 泉 は 日 本 に 赴 い た も の と 見 ら れ る 。 世 泉 の 年 齢 を 推 定 す る 上 で 重 要 な の は 、 無 学 祖 元 が 「 太 守 元 帥 請 為 最 明 寺 殿 忌 辰 普 説 」 に お い て 、 開 寿 寺 で 世 泉 に 戯 む れ た こ と ば と し て 「 儞 若 去 、宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一一九 我 同 行 」 と 述 べ て い る 点 に 注 目 し た い 。 こ れ は 世 泉 が 再 び 日 本 に 赴 く こ と が あ る な ら ば 、 祖 元 も そ れ に 同 行 し た い と 述 べ た こ と ば で あ る が 、 表 現 の 仕 方 が 年 長 者 に 対 す る も の と い う よ り 、 ほ ぼ 同 世 代 の 道 友 に 対 す る 言 い 回 し と な っ て い る 。 祖 元 が 「 儞 、 若 し 去 か ば 、 我 れ 同 じ く 行 か ん 」 と 述 べ て い る 表 記 か ら す る と 、 祖 元 に と っ て 世 泉 は ほ ぼ 同 輩 で あ っ た か 、 僅 か な が ら 先 輩 格 に 当 た る 程 度 の 禅 者 で あ っ た と 見 ら れ る 。 も し 、 世 泉 が 祖 元 よ り 一 〇 歳 以 上 の 年 長 者 で あ っ た な ら ば 、 お そ ら く 祖 元 は 世 泉 に 対 し て 「 兄 若 去 、 我 同 行 」 と か 「 師 若 去 、 我 同 行 」 と い っ た 表 現 を 用 い た は ず で あ ろ う 。 祖 元 は 宝 慶 二 年 ( 一 二 二 六 ) に 明 州 鄞 県 の 許 氏 に 生 ま れ て い る か ら 、 お そ ら く 世 泉 は 祖 元 よ り 若 干 な が ら 年 長 で 、 嘉 定 年 間 ( 一 二 〇 八 ─ 一 二 二 四 ) の 末 頃 か ら 宝 慶 年 間 ( 一 二 二 五 ─ 一 二 二 七 ) の 頃 に 出 生 し て い る も の と 推 測 さ れ る 。 こ の 推 測 に よ れ ば 、 世 泉 は 本 師 普 済 が 宝 祐 元 年 に 示 寂 し た 時 点 で 、 三 〇 歳 前 後 に 達 し て い た 計 算 に な り 、 普 済 に と っ て 世 泉 は 比 較 的 晩 年 の 法 嗣 で あ っ た と 見 ら れ る 。
大
川
普
済
と
日
本
僧
大 川 普 済 は 無 準 師 範 や 癡 絶 道 冲 ・ 笑 翁 妙 堪 ら と ほ ぼ 同 世 代 で あ り 、 当 時 は 入 宋 す る 日 本 僧 が し だ い に 増 加 し て い く 時 期 に 当 た っ て い る 。 と り わ け 杭 州 餘 杭 県 の 径 山 興 聖 万 寿 禅 寺 に 在 っ た 無 準 師 範 の も と に は 多 く の 日 本 僧 が 来 参 し て い る わ け で あ る が 、 普 済 に 関 し て は 日 本 と の 関 係 で あ ま り 見 る べ き も の が 存 し て い な い 。 そ ん な 中 で わ ず か に 『 大 川 和 尚 語 録 』「 偈 頌 」 に 、 送 二 日 本 国 僧 一。 壁 観 胡 僧 入 二 大 梁 一、 単 二 伝 必 死 活 人 方 一、 至 レ 今 此 術 遍 二 天 下 一、 航 レ 海 梯 レ 山 空 自 忙 。 大 舶 浮 空 駕 レ 浪 来 、 頂 門 有 レ 眼 未 二 曾 開 一、 南 山 虎 口 翻 レ 身 出 、 日 本 生 二 成 一 禍 胎 一。 と い う 二 首 の 偈 頌 が 収 め ら れ て お り 、 普 済 が 門 下 に 参 学 し た 日 本 僧 の た め に 二 首 の 偈 頌 を 書 き 与 え て い る こ と が 知 ら れ る 。 と く に 二 番 目 の 偈 頌 に て 「 南 山 の 虎 口 、 身 を 翻 し て 出 で 、 日 本 に 一 つ の 禍 胎 を 生 成 す 」 の 語 句 が 見 ら れ る こ と か ら 、 普 済 が 南 山 す な わ ち 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 禅 寺 に 住 持 し て い た 頃 に 日 本 僧 が 会 下 に 来 参 し 、 そ の 日 本 僧 が 帰 国 す る の に 対 し 、 普 済 が 餞 別 の 偈 頌 を 付 与 し て い る も の ら し い 。 こ の と き の 日 本 僧 が 具 体 的 に 如 何 な る 禅 者 で あ っ た の か は 定 か で な い が 、 第 一 首 に 「 壁 観 の 胡 僧 、 大 梁 に 入 り 、 必 ず 活 人 を 死 な す 方 を 単 伝 す 」 と あ る か ら 、 そ の 日 本 僧 は 普 済 の も と で 達 磨 単 伝 の 法 を 嗣 い だ 高 弟 で あ っ た と も 解 さ れ る 。 世 泉 が 浄 慈 寺 や 霊 隠 寺 な ど で 晩 年 の 普 済 に 参 学 し て い た と す る と 、 こ の と き 日 本 僧 と の 間 で 最宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二〇 初 の 接 触 が な さ れ た と 見 る こ と が で き よ う 。 少 な く と も 普 済 の も と に は 日 本 僧 が 参 学 し て い た の で あ り 、 そ の 人 物 は 日 本 に 帰 国 し て い た こ と が 知 ら れ る こ と か ら 、 当 時 、 普 済 の 存 在 は 日 本 禅 林 に そ れ な り に 知 ら れ て い た こ と に な ろ う 。 普 済 が 示 寂 し た の は 宝 祐 元 年 一 月 の こ と で あ り 、 そ れ よ り 日 本 に 到 る ま で 一 〇 年 近 い 歳 月 を 世 泉 は 浙 江 の 禅 刹 で 著 名 な 禅 匠 の 会 下 に 投 じ て 主 要 な 職 位 を 歴 任 し て い た も の と 推 測 さ れ る 。 し か も 世 泉 は そ れ ま で も 単 に 普 済 の 会 下 の み に 留 ま っ て い た の で な く 、 他 の 禅 者 の も と に も 参 学 し て い た と 推 測 さ れ る 。 後 に 触 れ る ご と く 世 泉 は 江 南 禅 林 で 松 源 派 の 蘭 渓 道 隆 と 同 参 と し て 法 友 関 係 に あ っ た と 見 ら れ 、 道 隆 が 参 学 し た 松 源 派 の 無 明 慧 性 、 破 庵 派 の 無 準 師 範 、 曹 源 派 の 癡 絶 道 冲 、 大 慧 派 の 北 磵 居 簡 な ど 何 れ か の 禅 者 の 会 下 で 世 泉 は 同 じ よ う に 参 学 に 努 め 、 道 隆 と 同 参 と し て 交 流 し 、 両 者 の 間 に 道 交 が 存 し た こ と に な ろ う 。 こ の 点 、 興 味 深 い の は 「 野 翁 禅 師 塔 銘 」 に よ れ ば 、 世 泉 と 同 門 に 当 た る 野 翁 炳 同 の 場 合 も 、 出 家 受 具 し て 後 、 天 童 山 で 癡 絶 道 冲 に 随 侍 し 、 径 山 で 無 準 師 範 に 相 見 し 、 そ の 後 に 霊 隠 寺 の 大 川 普 済 の も と に 投 じ て 省 悟 し て い る )(( ( 。 世 泉 は 炳 同 と 同 世 代 と 見 ら れ 、 同 じ よ う な 参 学 経 路 を 辿 っ て い る の で は な い か と 推 測 さ れ る か ら 、 天 童 山 の 道 冲 の も と な ど で 年 長 の 道 隆 と 接 点 が 存 し た も の で は な か ろ う か 。
無
学
祖
元
の
普
説
つ ぎ に 古 澗 世 泉 と い う 禅 者 の 動 静 を 知 る 上 で 基 本 と な る 無 学 祖 元 が 語 る 普 説 の 内 容 を 紹 介 し て お き た い 。『 仏 光 国 師 語 録 』 巻 六 「 普 説 」 の 第 一 番 目 に 「 太 守 元 帥 請 為 最 明 寺 殿 忌 辰 普 説 」 が 収 め ら れ て い る が 、 祖 元 は そ の 中 の 一 節 で 、 復 云 、 老 僧 雖 下 在 二 大 唐 一 与 二 日 本 兄 弟 一 同 住 者 多 上、 亦 不 二 曾 相 交 一。 但 知 レ 有 二 大 国 仏 法 之 盛 一、 亦 不 レ 問 二 子 細 一。 十 五 六 年 前 、 泉 古 澗 帰 二 自 本 国 一、 開 寿 相 会 。 他 方 従 レ 此 回 、 備 言 、 最 明 寺 殿 棄 二 捨 世 栄 一、 身 披 二 法 服 一。 後 臨 二 入 寂 之 時 一、 儼 然 坐 脱 。 且 言 、 大 将 軍 待 二 我 再 回 一。 某 称 、 彼 処 王 臣 、 崇 二 重 仏 法 一 如 レ 此 、 何 不 二 再 去 一。 那 時 、 夔 足 翁 住 二 開 寿 一、 深 夜 大 雪 。 吾 因 戯 語 曰 、 儞 若 去 、 我 同 行 。 時 鏡 知 客 亦 在 レ 彼 。 泉 古 澗 已 入 滅 許 時 了 。 今 日 思 量 如 二 昨 日 一 相 似 。 昨 到 二 最 明 寺 殿 捐 館 之 地 一、 復 思 二 泉 古 澗 面 目 語 言 一、 歴 歴 如 レ 在 、 無 二 一 毫 子 間 隔 一。 今 日 最 明 寺 殿 遠 忌 之 辰 、 太 守 挙 二 此 一 念 一。 最 明 寺 殿 面 目 、 亦 無 二 些 子 間 隔 一。 詰 二 其 踪 由 一、 又 無 二 形 跡 一。( 中 略 ) 与 下 老 僧 思 二 量 泉 古 澗 一 底 時 節 上、 太 守 思 二 量 最 明 寺 殿 一 底 時 節 、 与 下 善 財 歴 二 遍 一 百 餘 城 一 入 中 弥 勒 楼 閣 上、 於 二 一 念 間 一 有 二 何 差 別 一。 と い う 古 澗 世 泉 に 関 す る き わ め て 興 味 深 い 事 実 を 語 っ て い る 。 こ こ に 述 べ ら れ て い る 内 容 は 、 祖 元 の 来 日 に も 関 わ る 重 要 な 機宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二一 縁 で あ っ た と 見 ら れ る こ と か ら 、 は じ め に 内 容 の 主 な 部 分 を 書 き 下 し て み る こ と に し た い 。 老 僧 、 大 唐 に 在 り て 日 本 の 兄 弟 と 同 じ く 住 す る こ と 多 し と 雖 も 、 亦 た 曾 て 相 い 交 わ ら ず 。 但 だ 大 国 仏 法 の 盛 ん な る こ と 有 る を 知 る の み に し て 、 亦 た 子 細 を 問 わ ず 。 十 五 六 年 前 、 泉 古 澗 、 本 国 よ り 帰 り 、 開 寿 に て 相 い 会 う 。 他 、 方 に 此 れ よ り 回 り 、 備 さ に 言 く 、「 最 明 寺 殿 は 世 栄 を 棄 捨 し 、 身 に 法 服 を 披 う 。 後 に 入 寂 の 時 に 臨 ん で 、 厳 然 と し て 坐 脱 す 」 と 。 且 つ 言 く 、「 大 将 軍 、 我 れ の 再 び 回 る を 待 つ 」 と 。 某 称 う 、「 彼 の 処 の 王 臣 、 仏 法 を 崇 重 す る こ と 此 の 如 く な ら ば 、 何 ぞ 再 び 去 か ざ る 」 と 。 那 の 時 、 夔 足 翁 、 開 寿 に 住 し 、 深 夜 、 大 雪 と な る 。 吾 れ 因 み に 戯 れ て 語 り て 曰 く 、「 儞 、 若 し 去 か ば 、 我 れ 同 じ く 行 か ん 」 と 。 時 に 鏡 知 客 、 亦 た 彼 に 在 り 。 泉 古 澗 、 已 に 入 滅 し て 許 時 に し 了 わ る 。 今 日 、 思 量 す る に 昨 日 の 如 く に 相 い 似 た り 。 昨 、 最 明 寺 殿 捐 けん 館 かん の 地 に 到 り 、 復 た 泉 古 澗 の 面 目 ・ 語 言 を 思 う に 、 歴 歴 と し て 在 る が 如 く 、 一 毫 子 の 間 隔 無 し 。 今 日 、 最 明 寺 殿 遠 忌 の 辰 、 太 守 、 此 の 一 念 を 挙 す 。 最 明 寺 殿 の 面 目 、 亦 た 些 子 の 間 隔 無 し 。( 中 略 ) 老 僧 が 泉 古 澗 を 思 量 す る 底 の 時 節 、 太 守 が 最 明 寺 殿 を 思 量 す る 底 の 時 節 と 、 善 財 が 一 百 餘 城 を 歴 遍 し 、 弥 勒 の 楼 閣 に 入 る と は 、 一 念 の 間 に 於 い て 、 何 の 差 別 か 有 ら ん 。 祖 元 は 径 山 の 無 準 師 範 の も と な ど で 参 学 し て い た 折 か ら 日 本 僧 と 修 行 を 共 に す る こ と が 多 か っ た が 、 彼 ら と 親 し く 交 遊 す る こ と が な か っ た も の ら し い 。 日 本 で 仏 法 が 盛 ん で あ る こ と は 知 っ て い た が 、 詳 細 を 問 う こ と は な か っ た と い う 。 そ ん な 祖 元 が 日 本 に 関 心 を 寄 せ る 動 機 と な っ た の が 日 本 か ら 帰 国 し た 世 泉 の こ と ば で あ っ た と さ れ る 。 祖 元 が 語 る こ の 僅 か な 一 文 か ら 、 古 澗 世 泉 が 南 宋 か ら 日 本 に 渡 来 し た 宋 僧 で あ っ た こ と 、 世 泉 が 日 本 で 体 感 し た 執 権 北 条 時 頼 の 最 期 を 語 っ て い る こ と 、 世 泉 と 当 代 の 征 夷 大 将 軍 と の 関 わ り も 知 ら れ る こ と 、 南 宋 に 帰 国 し た 世 泉 が 開 寿 寺 に 寓 居 し て い た こ と 、 開 寿 寺 の 住 持 が 足 翁 □ 夔 と い う 禅 者 で あ っ た こ と 、 開 寿 寺 で 祖 元 が 世 泉 と 逢 っ た こ と 、 祖 元 と と も に 知 客 の 梵 光 一 鏡 も そ の 場 に 同 席 し て い た こ と 、 な ぜ か 祖 元 が 世 泉 の 面 目 や 語 言 を こ と さ ら 思 慕 し て い る こ と な ど が 知 ら れ る の で あ り 、 い ず れ も き わ め て 興 味 深 い 内 容 と な っ て い る 。 祖 元 は 日 本 か ら 帰 国 し た 世 泉 と 懇 話 す る ま で 日 本 に 対 す る 関 心 は 殆 ん ど な か っ た こ と を 述 懐 し て い る わ け で あ る が 、 日 本 に 渡 来 す る 以 前 か ら 日 本 の こ と は 聞 き 知 っ て い た の で あ り 、 と く に 祖 元 が 径 山 の 無 準 師 範 の 席 下 に 在 っ て 参 禅 学 道 し て い た と き に は 、 円 爾 ( 辨 円 、 聖 一 国 師 、 一 二 〇 二 ─ 一 二 八 〇 ) を 始 め と し て 神 子 栄 尊 ( 口 光 、 一 一 九 五 ─ 一 二 七 二 ) ・ 一 翁 院 豪 ( 円 明 弘 演 禅 師 、 一 二 一 〇 ─ 一 二 八 一 ) ・ 妙 見 堂 道 祐 ( 一 二 〇 一 ─ 一 二 五 六 ) ・ 性 才 法 心 ( 法 身 、 真 壁 平 四 郎 、 ? ─ 一 二 七 二 ) な ど 多 く の 日 本 僧 と 肩 を 並
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二二 べ て 修 行 し て い た わ け で あ る 。 と こ ろ が 、 そ の 頃 の 祖 元 は 日 本 僧 と 互 い に 付 き 合 う こ と も な く 、 た だ 日 本 が 仏 教 の 盛 ん な 国 で あ る 程 度 し か 認 識 し て い な か っ た と さ れ る 。 そ ん な 日 本 に 対 す る 祖 元 の 曖 昧 な 理 解 を 一 変 せ し め た の が 、 日 本 か ら 帰 国 し た 世 泉 と の 出 会 い で あ っ て 、 祖 元 に 日 本 と い う 国 を 強 く 意 識 せ し め た 因 縁 と し て 世 泉 の 存 在 は き わ め て 重 要 な も の が 存 し た の で あ り 、 そ の 面 で も 「 太 守 元 帥 請 為 最 明 寺 殿 忌 辰 普 説 」 に 語 ら れ る 内 容 は 特 筆 す べ き も の が あ ろ う 。 太 守 元 帥 と は 鎌 倉 幕 府 の 第 八 代 執 権 で あ る 北 条 時 宗 ( 法 光 寺 殿 道 杲 、 一 二 五 一 ─ 一 二 八 四 ) の こ と で あ り 、 最 明 寺 殿 と は い う ま で も な く 時 宗 の 父 で 第 五 代 執 権 の 北 条 時 頼 の こ と を 指 し て い る 。 こ の 普 説 が な さ れ た 明 確 な 年 時 は 定 か で な い が 、 祖 元 が 元 の 至 元 一 六 年 ( 日 本 の 弘 安 二 年 、 一 二 七 九 ) 六 月 に 日 本 に 渡 来 し て 八 月 に 鎌 倉 建 長 寺 に 住 持 し て よ り 、 北 条 時 宗 が 弘 安 七 年 ( 一 二 八 四 ) 四 月 に 逝 去 す る ま で の 六 年 間 に な さ れ た も の で あ る こ と は 疑 い な い 。 し か も 『 仏 光 国 師 語 録 』 の 「 普 説 」 の 配 列 や 内 容 か ら す る と 、 こ の 普 説 は 祖 元 が 渡 来 し て ま も な い 時 期 に 行 な わ れ た も の と 見 て よ い で あ ろ う 。 最 明 寺 殿 す な わ ち 北 条 時 頼 が 逝 去 し た の は 弘 長 三 年 ( 南 宋 の 景 定 四 年 、 一 二 六 三 ) 一 一 月 二 二 日 の こ と で あ る か ら 、 時 頼 の 十 七 回 忌 の 忌 日 に な さ れ た 普 説 と 解 す れ ば 、 来 日 し た 直 後 の 弘 安 二 年 一 一 月 二 二 日 に 祖 元 が 時 宗 の 請 を 受 け て 行 な っ た 可 能 性 が 高 い 。
日
本
に
渡
来
し
た
世
泉
先 の 祖 元 が 「 太 守 元 帥 請 為 最 明 寺 殿 忌 辰 普 説 」 に 語 る と こ ろ に よ れ ば 、 世 泉 が 南 宋 後 期 に 日 本 に 渡 来 し た 宋 僧 で あ っ た 事 実 は 動 か な い 。 し か し な が ら 、 こ れ ま で 渡 来 僧 で あ る 世 泉 の 存 在 は 日 本 禅 宗 史 上 に 全 く 知 ら れ な か っ た の で あ り 、 そ の 面 で 世 泉 は 歴 史 に 埋 没 し た 渡 来 僧 で あ っ た と い っ て よ い 。 で は 、 世 泉 は 果 し て 何 の た め に 日 本 に 渡 来 し た の で あ ろ う か 、 ま た 渡 来 し た 時 期 は い つ で あ っ た の だ ろ う か 。 推 測 の 域 を 出 な い 面 が 多 い も の の 、 一 通 り 考 察 を な し て お き た い 。 少 な く と も 鎌 倉 幕 府 の 第 五 代 執 権 で あ っ た 北 条 時 頼 が 日 本 の 弘 長 三 年 一 一 月 に 逝 去 し た 前 後 の 頃 に 、 世 泉 は 日 本 の 鎌 倉 に 滞 在 し て い た こ と が 知 ら れ る 。 同 じ 頃 に 破 庵 派 の 兀 庵 普 寧 が 文 応 元 年 ( 南 宋 の 景 定 元 年 、 一 二 六 〇 ) に 来 日 を 果 た し て い る が 、 果 し て 普 寧 が 日 本 に 到 っ た の と 同 じ と き に 世 泉 も 渡 来 し た も の で あ ろ う か 。 し か も 日 本 に 渡 来 し た 後 、 再 び 南 宋 に 帰 国 し て い る 点 で も 世 泉 は 普 寧 と 同 じ よ う な 経 歴 を 持 っ て い る 人 と い っ て よ い 。 し か し な が ら 、 厳 密 に 普 寧 と 同 時 に 渡 来 し た の か と い う と 、 実 際 に は 世 泉 は 普 寧 と は 別 行 動 を 取 り 、 若 干 な が ら 遅 れ て 日 本 に 到 っ た と 解 す る の が 正 し い よ う に 見 ら れ る 。 あ る い は か宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二三 つ て 大 川 普 済 に 参 学 し た 同 門 の 日 本 僧 が そ の 間 に 介 在 し 、 普 寧 が 渡 来 し た の と は 別 個 に 、 海 を 隔 て て 世 泉 に 渡 来 を 促 す よ う な 情 況 が 存 し た の か も 知 れ な い 。 し か も 世 泉 は 渡 来 し て 京 都 を 経 由 し て 時 期 を 隔 て ず に 鎌 倉 の 時 頼 の も と に 到 っ て い る ら し い こ と か ら 、 お そ ら く 初 め か ら 時 頼 の 招 請 を 受 け る か た ち で 日 本 に 到 っ て い る も の と 推 測 さ れ る 。 し か し な が ら 、 普 寧 と 世 泉 で 決 定 的 に 相 違 し て い る の は 、 普 寧 の 場 合 は 鎌 倉 に 到 っ て ま も な く 建 長 寺 の 第 二 代 住 持 に 拝 請 さ れ て い る の に 対 し 、 世 泉 の 場 合 は 日 本 国 内 の 禅 寺 で 住 持 を 勤 め た と い う 記 事 が 伝 え ら れ て い な い こ と で あ ろ う 。 こ う し た 情 況 を 踏 ま え る と 、 世 泉 は 普 寧 に 比 べ て 年 齢 も い ま だ 若 く 、 日 本 に 滞 在 し て い た 期 間 が そ れ ほ ど 長 く な く 、 か な り 特 別 の 事 情 に 基 づ く 短 期 滞 在 に 限 ら れ て い た の で は な い か と 解 さ れ る 。 大 川 普 済 が 示 寂 し て す で に 一 〇 年 の 歳 月 が 経 過 し て い る か ら 、 世 泉 が 普 済 の 最 晩 年 に 法 を 嗣 い だ 弟 子 で あ っ た と 見 て も 、 こ の と き す で に 少 な く と も 三 〇 代 半 ば 頃 に は 達 し て い た 計 算 に な ろ う 。
蘭
渓
道
隆
と
同
参
の
泉
蔵
主
と こ ろ で 、 日 本 に 渡 来 し た 世 泉 の 動 向 を 知 る 上 で 最 初 に 注 目 さ れ る の が 、 山 城 ( 京 都 府 ) の 東 山 建 仁 禅 寺 ( 建 寧 寺 ) の 住 持 と な っ て い た 蘭 渓 道 隆 の も と に 泉 蔵 主 と い う 渡 来 僧 が や っ て 来 て い る 事 実 で あ ろ う 。 覆 宋 版 『 蘭 渓 和 尚 語 録 』 巻 上 「 山 城 州 北 京 東 山 建 寧 禅 寺 蘭 渓 和 尚 語 録 」 に 、 泉 蔵 主 至 上 堂 。 挙 、 興 化 因 同 参 纔 上 二 法 堂 一。 化 便 喝 。 僧 亦 喝 。 化 行 三 両 歩 又 喝 。 僧 亦 喝 、 復 近 前 。 化 拈 レ 棒 。 僧 又 喝 。 化 云 、 儞 看 、 這 瞎 漢 猶 作 レ 主 在 。 僧 擬 議 。 化 便 打 。 師 云 、 諸 方 尽 道 、 興 化 棒 頭 有 レ 眼 、 喝 下 無 レ 私 。 殊 不 レ 知 、 已 被 二 同 参 折 倒 了 一 也 。 至 レ 今 未 レ 有 二 一 人 扶 持 得 起 一。 建 寧 幸 値 二 同 参 到 来 一、 真 偽 曲 折 、 難 レ 逃 二 明 鑒 一。 然 於 二 其 中 一 有 二 一 禍 事 一。 諸 人 面 前 只 得 二 吐 露 一。 召 二 大 衆 一、 睡 虎 眼 開 、 各 宜 二 照 顧 一。 と い う 上 堂 が 伝 え ら れ て い る 。 こ の 上 堂 は □ 泉 と い う 蔵 主 が 東 山 建 寧 禅 寺 す な わ ち 建 仁 寺 の 道 隆 の も と に 到 っ た 際 に 、 道 隆 が 泉 蔵 主 を か つ て の 同 参 と し て 待 遇 し た 上 堂 に ほ か な ら な い )(( ( 。 い ま 、 こ れ を 書 き 下 し て み る な ら 、 つ ぎ の ご と く な ろ う 。 泉 蔵 主 至 る 上 堂 。 挙 す 、 興 化 、 因 み に 同 参 、 纔 か に 法 堂 に 上 る 。 化 便 ち 喝 す 。 僧 も 亦 た 喝 す 。 化 、 行 く こ と 三 両 歩 し て 又 た 喝 す 。 僧 亦 た 喝 し 、 復 た 近 前 す 。 化 、 棒 を 拈 ず 。 僧 又 た 喝 す 。 化 云 く 、「 儞 看 よ 、 這 の 瞎 漢 、 猶 お 主 と 作 れ り 」 と 。 僧 、 擬 議 す 。 化 便 ち 打 つ 。 師 云 く 、「 諸 方 尽 く 道 う 、『 興 化 、 棒 頭 に 眼 有 り て 、 喝 下 に 私 無 し 』 と 。 殊 に 知 ら ず 、 已 に 同 参 に 折 倒 し 了 わ ら る こ と を 。 今 に 至 る ま で 、 未 だ 一 人 と し て 扶 持 し 得 て 起 つ る 有 ら ず 。 建 寧 、 幸 い に 同 参 の 到 来 す る に 値 う 、 真 偽 曲 折 、 明 鑒 を 逃 れ 難 し 。 然 も 其 の 中 に 於 い て 一 禍 事宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二四 有 り 。 諸 人 が 面 前 に 只 だ 吐 露 す る を 得 ん 」 と 。 大 衆 を 召 し て 「 睡 虎 、 眼 開 く 、 各 お の 宜 し く 照 顧 す べ し 」 と 。 こ こ に い う 泉 蔵 主 は 道 隆 と か つ て 同 参 で あ っ た と さ れ 、 後 段 で 道 隆 は 「 建 寧 、 幸 い に 同 参 の 到 来 す る に 値 う 」 と 述 べ て い る 。 こ の と き 道 隆 は 臨 済 下 の 興 化 存 奬 ( 広 済 大 師 、 八 三 〇 ─ 八 八 八 ) が か つ て 同 参 で あ っ た 僧 と 交 わ し た 問 答 商 量 を 取 り 上 げ 、 遠 来 の 泉 蔵 主 を 持 て 成 し て い る 。 興 化 存 奬 と 同 参 の 僧 と の 問 答 は 『 宗 門 聯 燈 会 要 』 巻 一 〇 「 魏 府 興 化 存 奬 禅 師 」 の 章 に 、 師 見 同 参 来 、 纔 上 二 法 堂 一。 師 便 喝 。 僧 亦 喝 。 行 三 両 歩 、 師 又 喝 。 僧 亦 喝 、 須 臾 近 前 。 師 拈 レ 棒 。 僧 又 喝 。 師 云 、 儞 看 、 這 瞎 漢 猶 作 レ 主 在 。 僧 擬 議 。 師 便 打 。 直 打 下 二 法 堂 一。 と し て 載 せ ら れ て お り 、 道 隆 は 自 ら を 興 化 存 奬 に 準 え 、 泉 蔵 主 を 同 参 の 僧 に 譬 え て お り )(( ( 、 し か も 「 已 に 同 参 に 折 倒 し 了 わ ら る 」 と 述 べ て 存 奬 が 同 参 の 僧 に し て や ら れ た と 解 し て い る 。 道 隆 が 修 行 時 代 に 同 参 で あ っ た 禅 者 と な る と 、 明 ら か に 泉 蔵 主 は 南 宋 か ら 渡 来 し た 宋 僧 で あ っ た こ と に な る が 、 こ の 場 合 、 同 参 と は 必 ず し も 同 じ 本 師 に 嗣 法 し た 同 門 と い う 意 で は な く 、 お そ ら く 参 学 期 に 同 じ 禅 刹 で 共 に 修 行 し た 仏 道 の 仲 間 、 す な わ ち 単 な る 同 学 の 法 友 の 意 で あ ろ う 。 道 隆 は 江 南 禅 林 に 在 る 頃 に 松 源 派 の 無 明 慧 性 に 嗣 法 し て い る が 、 そ の ほ か 道 隆 が 参 学 し た 禅 者 と し て 破 庵 派 の 無 準 師 範 と 曹 源 派 の 癡 絶 道 冲 と 大 慧 派 の 北 磵 居 簡 ( 敬 叟 、 一 一 六 四 ─ 一 二 四 六 ) の 名 が 知 ら れ る か ら 、 そ の 間 に 道 隆 は 泉 蔵 主 と 修 行 を 共 に す る 機 会 が 存 し た も の で あ ろ う 。 道 隆 は 涪 州 ( 四 川 省 ) 出 身 の 蜀 僧 で あ り 、 南 宋 禅 林 で 修 行 し た 後 、 淳 祐 六 年 ( 一 二 四 六 ) に 門 人 の 義 翁 紹 仁 ・ 龍 江 応 宣 ら と と も に 日 本 に 渡 来 し て い る 。 そ の 道 隆 と 同 参 で あ れ ば 、 泉 蔵 主 も ま た 南 宋 禅 林 か ら 海 を 越 え て 日 本 禅 林 に 赴 い た 禅 者 で あ っ た と 解 す る べ き で あ ろ う 。 し か も 泉 蔵 主 は 道 隆 が 京 都 東 山 の 建 寧 寺 す な わ ち 建 仁 寺 に 住 持 し て い た と き に 席 下 に や っ て 来 た こ と が 知 ら れ る か ら 、 こ の 人 は 南 宋 の 景 定 年 間 ( 一 二 六 〇 ─ 一 二 六 四 ) の 中 頃 に 日 本 に 渡 来 し た 禅 者 で あ っ た も の と 見 ら れ 、 情 況 的 に は 兀 庵 普 寧 が 鎌 倉 建 長 寺 の 蘭 渓 道 隆 の も と に 到 っ た の が 文 応 元 年 ( 南 宋 の 景 定 元 年 、 一 二 六 〇 ) の 冬 頃 で あ る か ら 、 泉 蔵 主 は 普 寧 に 随 伴 し て 渡 来 し た と 見 る よ り 、 若 干 遅 れ て 独 自 に 来 朝 し た 禅 者 で あ っ た と 推 測 さ れ る 。 道 隆 が 建 仁 寺 の 住 持 を 勤 め て い た の は 弘 長 二 年 ( 南 宋 の 景 定 三 年 、 一 二 六 二 ) 春 か ら の こ と で あ り 、 こ の 上 堂 は 弘 長 二 年 七 月 一 五 日 の 「 解 制 上 堂 」 の つ ぎ に 載 せ ら れ て い る )(( ( 。 し た が っ て 、 こ の と き 泉 蔵 主 が 何 ら か の 目 的 で 日 本 に 到 り 、 初 め に 京 都 建 仁 寺 の 道 隆 の も と を 訪 れ た と す る と 、 彼 が 日 本 の 九 州 博 多 に 渡 来 し た の は 景 定 二 年 の 末 か 景 定 三 年 の 冒 頭 の 頃 で あ っ た と 解 さ れ る 。 こ の 泉 蔵 主 が 世 泉 そ の 人 だ と す る と 、 彼 は 道 隆 よ り は 若 干 の 後 輩 で 、 し か も 天 童 山 な ど 浙 江 の 禅 林 で か つ て 道 隆 と 同 参 で
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二五 あ っ た こ と に な り 、 京 都 建 仁 寺 に 立 ち 寄 っ て 道 隆 と の 旧 交 を 温 め た こ と に な ろ う 。 道 隆 は 松 源 派 の 無 明 慧 性 に 参 学 嗣 法 し て い る が 、 そ の 前 後 に 大 慧 派 の 北 磵 居 簡 や 破 庵 派 の 無 準 師 範 あ る い は 曹 源 派 の 癡 絶 道 冲 に 参 学 し た こ と が 伝 え ら れ て い る か ら 、 そ の い ず れ か の 会 下 で 道 隆 は 世 泉 と 同 参 と し て 道 交 を 結 ん で い た も の で あ ろ う 。 ま た 世 泉 に 付 さ れ た 蔵 主 の 肩 書 き は 、 南 宋 禅 林 で こ の 人 が 勤 め て い た 役 職 に 因 ん で い る と 見 て よ く 、 世 泉 は お そ ら く 五 山 十 刹 な ど の 大 刹 で 職 位 と し て 西 序 ( 西 班 ) の 頭 首 位 を 歴 任 し て 蔵 主 の 職 位 に 就 き 、 蔵 主 職 の 肩 書 き の ま ま 日 本 に 渡 来 し た も の で あ ろ う 。 こ の と き 道 隆 は す で に 日 本 に 渡 来 し て 一 五 年 の 歳 月 を 経 て 五 〇 歳 に 達 し て い る 。 泉 蔵 主 が 世 泉 そ の 人 で あ り 、 か つ 道 隆 と 同 参 で あ っ た と す れ ば 、 本 師 普 済 が 示 寂 し て か ら で も 一 〇 年 を 経 て い る こ と か ら 、 こ の と き 世 泉 は 少 な く と も す で に 三 〇 歳 代 後 半 に 達 し て い た 計 算 に な り 、 宝 慶 二 年 ( 一 二 二 六 ) に 生 ま れ た 無 学 祖 元 と 同 世 代 か 、 そ れ よ り 若 干 の 先 輩 格 で あ っ た と 見 ら れ る 。
北
条
時
頼
の
逝
去
と
世
泉
京 都 東 山 建 仁 寺 ( 建 寧 寺 ) で 蘭 渓 道 隆 と 旧 交 を 温 め た 泉 蔵 主 す な わ ち 世 泉 は 、 ま も な く 関 東 に 下 っ て 鎌 倉 の 地 に 辿 り 着 い て い る 。 無 学 祖 元 の 「 太 守 元 帥 請 為 最 明 寺 殿 忌 辰 普 説 」 に よ れ ば 、 帰 国 し た 世 泉 が 祖 元 に 語 っ た こ と ば と し て 「 備 言 、 最 明 寺 殿 棄 二捨 世 栄 一、 身 披 二 法 服 一。 後 臨 二入 寂 之 時 一、 厳 然 坐 脱 」 と あ る か ら 、 後 に 世 泉 は 自 ら が 鎌 倉 で 見 聞 し た 北 条 時 頼 の 最 期 を つ ぶ さ に 祖 元 に 語 っ て い る 。 こ の こ と か ら 世 泉 は 鎌 倉 で 実 際 に 時 頼 が 逝 去 す る 場 に 立 ち 会 う こ と が で き た か 、 少 な く と も 時 頼 の 最 期 の さ ま を 明 確 に 知 り 得 る 立 場 に あ っ た こ と に な ろ う )(( ( 。 世 泉 は 鎌 倉 で 出 家 姿 と な っ た 晩 年 の 時 頼 の 人 と な り に も 感 銘 を 受 け て お り 、 時 頼 が 入 寂 に 際 し て 結 跏 趺 坐 し て 坐 脱 し た あ り よ う も 直 に 知 っ て い た こ と に な ろ う 。『 吾 妻 鏡 』 第 四 六 の 康 元 元 年 ( 一 二 五 六 ) 一 一 月 二 三 日 の 条 に よ れ ば 、 時 頼 は 鎌 倉 山 之 内 の 最 明 禅 寺 に お い て 蘭 渓 道 隆 を 受 業 師 と し て 落 髪 し 、 覚 了 房 道 崇 と 名 乗 っ て 法 服 を 身 に 纏 っ て い る 。 そ の 後 、 時 頼 は 渡 来 僧 の 兀 庵 普 寧 を 建 長 寺 に 入 寺 せ し め 、 そ の も と に 投 じ て 参 禅 学 道 に 努 め 、 弘 長 二 年 ( 一 二 六 二 ) 一 〇 月 一 六 日 に 悟 道 し 、 普 寧 か ら 印 可 証 明 を 得 て い る 。 そ の 後 、 鎌 倉 に 到 っ た 世 泉 が 最 晩 年 の 時 頼 を 目 の 当 た り に し た と す れ ば 、 法 衣 を 着 て 袈 裟 を 掛 け 、 ま さ に 悟 道 し た 禅 者 と し て の 時 頼 を 拝 し て い た こ と に な り 、 そ の 姿 は 世 泉 に と っ て き わ め て 印 象 的 な も の で あ っ た と 見 て よ い だ ろ う 。「 備 さ に 言 う 」 と は 、 日 本 で 自 ら が 見 聞 し て き た 時 頼 の あ り さ ま を 事 細 か に 伝 え た 意 で あ ろ う 。 世 泉 が 鎌 倉 に や っ て 来 た 当 時 、 時 頼 は 普 寧 の み で な く 、 ほ か に も 宋 僧 に 来 朝 を 促 し て い た も の宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二六 で は な か ろ う か 。 時 頼 の 意 向 を 受 け て 、 普 寧 の 場 合 は 蘭 渓 道 隆 や 円 爾 が 間 に 立 っ て 招 聘 し て い る が 、 世 泉 の 場 合 も お そ ら く 時 頼 の 意 向 を 受 け 、 か つ て 同 参 で あ っ た 道 隆 の ほ か 、 入 宋 し て 大 川 普 済 に 参 学 し た 同 門 の 日 本 僧 が 間 に 立 っ て 招 聘 し 、 こ れ を 受 け て 日 本 へ の 渡 航 に 踏 み 切 っ て い る も の で は な か ろ う か 。 そ ん な 時 頼 が 逝 去 し た の は 弘 長 三 年 ( 一 二 六 三 ) 一 一 月 二 二 日 の こ と で あ り 、 こ の と き 時 頼 は 大 慧 派 の 笑 翁 妙 堪 の 「 業 鏡 高 懸 、 七 十 二 年 、 一 槌 撃 碎 、 大 道 坦 然 」 と い う 遺 偈 を 踏 ま え て い た も の ら し く 、 年 齢 の 箇 所 を 除 い て ほ と ん ど 同 内 容 の 遺 偈 を 自 ら 揮 毫 し て 示 寂 し た と さ れ る 。『 吾 妻 鏡 』 第 五 一 の 弘 長 三 年 一 一 月 の 「 廿 二 日 己 亥 」 の 条 に は 、 戌 尅 、 入 道 正 五 位 下 行 相 模 守 平 朝 臣 時 頼 〈 御 法 名 道 崇 、 御 年 三 十 七 〉 於 二 最 明 寺 北 亭 一 卒 去 。 御 臨 終 之 儀 、 着 二 衣 袈 裟 一、 上 二 縄 床 一 令 二 座 禅 一 給 、 聊 無 二 動 揺 之 気 一。 頌 云 、 業 鏡 高 懸 、 三 十 七 年 、 一 槌 打 碎 、 大 道 坦 然 。 弘 長 三 年 十 一 月 廿 二 日 、 道 崇 珍 重 、 云 云 。 平 生 之 間 、 以 二 武 略 一 而 輔 レ 君 、 施 二 仁 義 一 而 撫 レ 民 。 然 間 、 達 二 天 意 一、 協 二 人 望 一。 終 焉 之 尅 、 叉 手 結 レ 印 、 口 唱 レ 頌 而 現 二 即 身 成 仏 瑞 相 一。 本 自 権 化 再 来 也 。 誰 論 レ 之 哉 。 道 俗 貴 賎 、 成 レ 群 奉 レ 拝 レ 之 。 と あ り 、 北 条 時 頼 の 最 期 の さ ま が 克 明 に 記 載 さ れ て い る 。 ま た 『 鎌 倉 年 代 記 』 の 裏 書 に も 「 弘 長 三 年 」 の 記 事 と し て 、 今 年 〈 弘 長 三 〉( 中 略 ) 十 一 月 廿 二 日 、 最 明 寺 入 道 卒 。 辞 世 頌 曰 、 業 鏡 高 懸 、 三 十 七 年 、 一 杵 打 碎 、 大 道 坦 然 。 と 記 さ れ て お り 、 こ こ で は 「 一 槌 」 で は な く 「 一 杵 」 と な っ て い る 。 時 頼 は 一 一 月 二 二 日 の 戌 刻 ( 午 後 八 時 頃 ) に 鎌 倉 山 之 内 の 最 明 寺 北 亭 で 世 寿 三 七 歳 の 若 さ で 逝 去 し て い る 。 臨 終 に 臨 ん で 時 頼 は 搭 袈 裟 し て 縄 床 ( 禅 椅 ) に 上 っ て 結 跏 趺 坐 し 、 聊 か も 動 揺 す る 気 配 が な か っ た と さ れ る 。 さ ら に 時 頼 は 禅 僧 の 最 期 に 倣 っ て 遺 偈 す な わ ち 辞 世 頌 と し て 、 業 鏡 高 く 懸 ぐ 、 三 十 七 年 。 一 槌 ( 一 杵 ) に 打 碎 し 、 大 道 坦 然 た り 。 と い う 四 言 四 句 を 述 べ た と さ れ る 。 し か も 終 焉 ( 臨 終 ) の と き に は 叉 手 し て 法 界 定 印 を 結 び 、 口 で 先 の 辞 世 頌 を 唱 え 、 即 身 成 仏 の 瑞 相 を 現 じ て 逝 去 し た と 伝 え ら れ る 。 こ の 場 合 の 即 身 成 仏 の 瑞 相 と は 、 禅 宗 に い う 坐 禅 の 姿 の ま ま 坐 脱 し た 意 と 見 ら れ 、 時 頼 が 南 宋 禅 者 と 同 じ よ う な 最 期 を 理 想 と し て い た こ と を 述 べ た も の で あ ろ う )(( ( 。 こ こ で 問 題 な の は 、 大 慧 派 の 物 初 大 観 が 撰 し た 「 笑 翁 禅 師 行 状 」 や 同 じ く 大 慧 派 の 無 文 道 璨 ( 柳 塘 、 一 二 一 四 ― 一 二 七 一 ) が
宋僧古澗世泉の帰国とその軌跡(佐藤) 一二七 撰 し た 「 育 王 笑 翁 禅 師 行 状 」 に よ れ ば 、 時 頼 が 末 期 に 唱 え た 辞 世 頌 が 大 慧 派 の 笑 翁 妙 堪 の 遺 偈 と ほ ぼ 同 文 な こ と で あ る )(( ( 。 こ れ は お そ ら く 晩 年 の 時 頼 が 日 頃 か ら 南 宋 禅 者 で あ る 妙 堪 の 古 道 を 慕 う 面 が 強 か っ た た め 、 逝 去 に 臨 ん で 自 然 と 妙 堪 の 遺 偈 が 脳 裏 を 過 っ て こ れ を 揮 毫 し 、 ま た 口 に 唱 え た と 解 す れ ば 、 そ れ ほ ど 違 和 感 は な い で あ ろ う 。 禅 僧 や 在 俗 居 士 が 師 匠 や 尊 崇 す る 禅 者 の こ と ば を そ の ま ま 受 け て 語 句 を 発 す る こ と は 何 ら 問 題 は な く 、 ま し て 臨 終 に 臨 ん で の こ と ば で あ る 点 を 考 慮 す れ ば 、 自 ら の 思 考 能 力 も 低 下 し て い た た め に 、 憧 れ の 禅 僧 の こ と ば を そ の ま ま 自 己 の 最 後 の こ と ば と し て 転 化 せ し め て い る と 解 す れ ば よ い で あ ろ う 。 し か し 、 当 然 の こ と な が ら 、 妙 堪 の 遺 偈 は 妙 堪 が 示 寂 し た 後 に 何 者 か に よ っ て 日 本 に 伝 え ら れ 、 し か も 時 頼 の も と に 齎 さ れ て い た 事 実 を 考 慮 し な け れ ば な ら な い 。 こ の 点 で も 注 目 さ れ る の が 大 慧 派 の 普 済 の 法 を 嗣 い だ 世 泉 の 存 在 な の で あ る 。 妙 堪 と 普 済 や 世 泉 は 同 じ 大 慧 派 に 属 す る 禅 者 で あ り 、 そ の 嗣 法 関 係 を 物 初 大 観 や 無 文 道 璨 を も 加 え て 系 統 図 に 示 す な ら ば 、 大 慧 宗 杲 ─ 拙 庵 徳 光 ─ 浙 翁 如 琰 ─ 大 川 普 済 ─ 古 澗 世 泉 └ 北 磵 居 簡 ─ 物 初 大 観 └ 無 用 浄 全 ─ 笑 翁 妙 堪 ─ 無 文 道 璨 と い う こ と に な る 。 妙 堪 は 大 慧 下 の 無 用 浄 全 の 高 弟 で あ り 、 普 済 は 大 慧 下 の 拙 庵 徳 光 の 法 孫 に 当 た っ て い る 。 と く に 妙 堪 と 普 済 は 同 じ 大 慧 派 の 禅 者 と し て 同 時 期 を 生 き て お り 、 普 済 は 天 童 山 の 無 用 浄 全 に も 参 学 し た 経 験 が 存 し て い る 。 ま た 普 済 は 妙 堪 の 後 席 を 継 い で 定 海 県 の 妙 勝 禅 寺 や 鄞 県 の 大 慈 山 教 忠 報 国 禅 寺 に 住 持 し て い る か ら 、 当 然 の こ と な が ら 、 妙 堪 と 普 済 の 二 人 は 深 い 道 交 関 係 で 結 ば れ て い た は ず で あ り 、 世 泉 に と っ て も 妙 堪 は 法 伯 の ご と き 存 在 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 さ ら に 普 済 は 『 大 川 和 尚 語 録 』 (『 霊 隠 大 川 禅 師 語 録 』 と も ) の 「 跋 」 に 「 跋 二笑 翁 和 尚 語 録 一」 を 残 し て お り 、 妙 堪 が 示 寂 し て か ら 編 集 刊 行 さ れ た 『 笑 翁 和 尚 語 録 』 に 親 し く 跋 文 を 寄 せ て い る )(( ( 。『 笑 翁 和 尚 語 録 』 は 世 泉 に と っ て も 本 師 普 済 が 跋 文 を 付 し た ゆ か り の 語 録 で あ っ た こ と が 知 ら れ 、 そ こ に は 物 初 大 観 が 撰 し た 「 笑 翁 禅 師 行 状 」 か 無 文 道 璨 が 撰 し た 「 育 王 笑 翁 禅 師 行 状 」 の い ず れ か の 伝 記 史 料 が 収 め ら れ て い た も の と 見 ら れ る 。 さ ら に 推 測 を 加 え る な ら ば 、 お そ ら く 『 笑 翁 和 尚 語 録 』 の 校 勘 も 普 済 に よ っ て な さ れ た 可 能 性 が 高 い で あ ろ う し 、 世 泉 自 身 も 妙 堪 に 参 学 し た 経 験 が 存 し た の か も 知 れ な い 。 逝 去 に 臨 ん だ 時 頼 が 縄 牀 ( 禅 椅 ) に 寄 り 掛 か っ て 坐 禅 し 、 妙 堪 の 遺 偈 を 意 識 し た か た ち で 自 ら 遺 偈 を 揮 毫 し て 示 寂 し た 背 景