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中央学術研究所紀要 第43号 115釋果暉「安世高訳『佛説大安般守意經』の訳注研究(2)」

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Academic year: 2021

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全文

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1.はじめに

 本稿は先に刊行した安世高訳『仏説大安般守意經』の訳注研究⑴に続くものである。 前稿の意味上の科段分けとして、【pp.163c L15 20】の段は、ブッダが安般守意の修道 法を説く縁起を述べ、【pp.163c L20 164a L9】の段は、安、般、守意のそれぞれを解釈 し、【pp.164a L9 24】の段は、「守意」に関してさらに詳しく解釈する。そのうち、 【pp.164a L13 15】の段は、「十黠」、「四諦」および「三十七品経」の語を挙げ、全経 の主旨を提示している。  本稿は、前稿の「守意」の最後部分【pp.164a L17 24】を訳注するほか、次の三つ の段落を訳注する。  【pp.164a L24 164b L17】――六事の譬え、六事と四諦、五陰との組み合わせ。  【pp.164b L18 L29】――六事と三十七品経との組み合わせ。  【pp.164c L1 L17】――十息と十不善との組み合わせ。  訳注研究は、まず、テキストを提示し、同テキストの内容に沿って書き下し文をし てから、現代語訳をする。最後に、テキストの重要な箇所を注釈する。つまり、訳注 は、【テキスト】【書き下し文】【現代語訳】【注釈】の四部分にする。

〈本稿の底本について〉

 本稿のテキストでは改めて『大正蔵』の『仏説大安般守意経』を底本にして現存す

釋   果 暉

1.はじめに 〈本稿の底本について〉 〈凡 例〉 2.訳注(『大正蔵』第15巻、No.602、pp.164a L17 pp.164c L17) 3.まとめ 〈参考文献〉

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る各大蔵経の版と対校することにする。校訂本テキストは、『金蔵』『高麗蔵』『宮本』 『宋本』『元本』『明本』『磧砂蔵』『南蔵』『嘉興蔵』の各大蔵経刊本によるものにする。1 Ⓐ『金蔵』2(1139 1173) Ⓑ『高麗蔵』3(1236 1250) Ⓒ『宮本』4(1113 1172又は1104 1148、宮内庁書陵部所蔵本) Ⓓ『宋本』5(1239、増上寺所蔵本) Ⓔ『元本』6(1277 1290又は1209 1286、増上寺所蔵本) Ⓕ『明本』7(1410 1440) Ⓖ『磧砂蔵』8(1231 1322又は1225 1350) Ⓗ『南蔵』9(1412 1417、山東省済南図書館所蔵本) Ⓘ『嘉興蔵』10(1589 1676、駒澤大学所蔵本) Ⓙ『洪武南蔵』11(1372 1399) Ⓚ『鉄眼蔵』12(1669 1678、上越教育大学所蔵本) Ⓛ『七寺一切経』13 Ⓜ元の『磧砂蔵』14 Ⓝ『清蔵』15(1735 1738) Ⓞ『縮刻蔵』16(1881 1885、国会図書館所蔵本) Ⓟ『卍正蔵経』17(1706 1710)

〈凡 例〉

⑴  本稿は、『大正蔵』第15巻(No.602)所収のものを底本とした。テキストの提示 は、『大正蔵』に準じるが、適当な句点を補った。なお、テキストの見出し部分に付 した頁数などの表記は、『大正蔵』の該当箇所を示す。  例、【テキスト】(pp.164a L17 24) ⑵  【テキスト】【書き下し文】には、旧字体そのままを使い、その以外のところは、 新字体を用いた。 ⑶ 本稿校訂本の略符は、次のごとくである。    『宋本』『元本』『明本』の三本    『宋本』    『元本』    『明本』    『金蔵』    『高麗蔵』

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   『宮本』    『磧砂蔵』    『南蔵』    『嘉興蔵』    また、校訂番号も『大正蔵』に準じたが、筆者が加えたものに元『大正蔵』の前 後校訂番号の間に前番号数の後にハイフン“ ”と“1”からの記号を加えて付け る。  例、【pp.164a L17 24】    ⑤守+意 (『大正蔵』⑤の校訂番号)    ④ 〔爲〕− (筆者の加えたもの) ⑷  各段落の【テキスト】中にある重要な用語、語句を注釈し、注番号は該当語、語 句の最後に付け、注は本稿最後の【注釈】の部分にまとめる。また、テキストを注 釈する箇所を見出しにするため、同箇所に下線を付ける。ただし、一つの注の番号 には複数の箇所を注釈する場合もある。なお全段落の趣旨を説明する場合、下線を 付けない。  例、【テキスト】(pp.164a L17 24)    四樂19    【注釈】    19『論語』「樂以忘憂」。また…… ⑸  本稿は、専門用語あるいは重要語句を提示する場合、鍵括弧「 」を付ける。語 句を補い、意味の補足、語句の言い換えなどは丸括弧( )を用いた。さらに、複 数の同類語を並べる場合、語と語のあいだに黒い丸(黒点)“・”を付ける。また、 同一用語の漢語同義語があり、さらに梵語、パーリ語もある場合、同用語の直後の 括弧内に並べる。  例、【テキスト】(pp.164a L24 164b L17)    【書き下し文】    「數・隨・止」の是れを外と爲す。  例、【テキスト】(pp.164b L18 L29)    【現代語訳】    数息は四意止(四念処/四念住)に…

2.訳 注

【テキスト】(pp.164a L17 24) 守意。意從因緣生。當緣因緣莫著。是④ 爲守意也。守意有三輩。一者守令不得生。

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二者已生當疾滅。三者事已行。當從後悔計億萬劫不復作也。守與意各自異。護十方一 切覺。對不犯是爲⑤守。覺彼無爲18是爲⑥意。是守意也。守意中有四樂。19一者知要樂。 二者知法樂。三者爲知⑦止樂。四者爲知可20樂。是爲四樂。   ④ 〔爲〕−  ⑤守+意  ⑥〔意是〕−  ⑦止=上 【書き下し文】 守意とは、意は因緣より生ずる。當に因緣に緣じて著すべからず。是れを守意と爲す なり。守意に三輩あり。一は守って生を得せしめず。二は已に生ずれば、當に疾く滅 すべし。三は事已に行ずれば當に後悔に從うて億萬劫に復た作さざるを計すなり。守 と意とはおのおの自ら異なり。十方の一切覺を護り、対して犯さざる是れを守と爲す。 彼の無爲を覺る、是れを意と爲す。是れ守意なり。守意の中に四樂あり。一は要樂を 知る。二は法樂を知る。三は止樂を知ると爲す。四は可樂を知ると爲す。是れを四樂 と爲す。 【現代語訳】 守意とは、意が物事の因と縁より生じることで、これらの因と縁に依拠し対応しなが らも、それに執着すべきではない。これは守意の真意でもある。守意には三つの類別 がある。一つは意念を守って生じ得させないこと。二つは、すでに意が生じたら、直 ちにそれを滅すべきこと。三つは、意が起こったのみならず、身と口との行為もすで に行ってしまったら、まさにそのとき、懺悔することによって、自らその得失のこと を真剣に計り、その後に決して億萬劫のような長年を超しても二度としないように願 を立てるべきこと。守と意とはそれぞれ各自の意味が異なっている。十方のあらゆる 仏性の有るものを守って、それらに対して罪を犯さない。これこそ守のことである。 十方の一切の物事は結局滅尽のものになることを知り、これこそ意のことである。こ のような守と意との二つのことを合わせて守意となるのである。守意の中には四つの 喜びがある。一つは修行に関する要領を知る喜びである。二つは仏法を理解する喜び である。三つは三昧における功徳、役割を理解する喜びである。四つは道に対する信 心を自覚する喜びである。これらは四つの喜びである。 【テキスト】(pp.164a L24 164b L17) 法爲行。得爲道。守意六事爲有内外。數隨止是爲外。觀還淨是爲内21。隨道也。何以 故。念息相隨止觀還淨欲習意近道22故。離是六事便隨世間也。數息爲遮意。相隨爲⑦ 23意。止爲定意。觀爲離意。還爲一意。24淨爲守意。用人不能制意故行此六事耳。 何以故數息。用意亂故。何以故不得。用不識(苦)25故。何以故不得禪。26用不棄習盡 證行道27故也。數息爲地。相隨爲犁。止爲⑧軛。觀爲種。還爲⑧ 雨。淨爲行。28如是

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六事乃隨道也。數息斷外。相隨斷内。29止爲止罪。行觀卻意。不受世間⑧ 爲還。念 斷爲淨也。意亂當數息。意定當相隨。意斷當行止。得道意當觀。不向五陰當還。無所 有當爲淨也。多事當數息。少事當相隨。家中意盡30當行止。畏世間當觀。不欲世間爲 還。念斷爲淨也。何以故數息。不欲隨五陰故。何以故相隨。欲知五陰故。何以故⑨止。 欲觀五陰故。何以故觀陰。欲知身本故。何以故知身本。欲棄苦故。何以故爲還。厭生 死故。何以故爲淨。分別五陰不受故。31便隨黠慧八種道。得⑩別32爲得所願也。行息時 爲隨數。相隨時爲隨念。止時爲隨定。觀時爲隨淨。還時爲隨意。淨時爲隨道亦爲隨行 也。     ⑦ =斂  ⑧軛=犖 ,撈 ,橯 ,  ⑧ 雨= 兩  ⑧ 〔爲〕−  ⑨止=正  ⑩別=莂 【書き下し文】 法を行と爲す。得を道と爲す。守意の六事は内外あるとなす。「數・隨・止」の是れを 外と爲す。「觀・還・淨」の是れを内と爲す。道に隨うなり。何を以ての故なるや。 「(數)息・相隨・止・觀・還・淨」を念じて意を習わんと欲せば、道に近き故に。是 の六事を離れれば便ち世間に隨うなり。數息を遮意と爲す。相隨を斂意と爲す。止を 定意と爲す。觀を離意と爲す。還を一意と爲す。淨を守意と爲す。人は意を制すあた はざるが故に此の六事を行ずるを用いるのみ。何を以ての故に息を數えるや。意の亂 れるを用っての故に。何を以ての故に得ざるや。(苦を)識らざるを用っての故に。何 を以ての故に禪を得せざるや。棄習・盡證・行道をせざるを用っての故なり。數息を 地と爲す。相隨を犁と爲す。止を軛と爲す。觀を種と爲す。還を雨と爲す。淨を行と 爲す。是の如き六事乃ち道に隨うなり。數息は外を斷じ、相隨は内を斷ず。止は罪を 止む。觀を行じて意を却く。世間を受せざるを還と爲す。念を斷じて淨と爲すなり。 意は亂れば當に數息すべし。意は定まれば當に相隨すべし。意は斷てば當に止を行ず べし。道の意を得れば當に觀ずるべし。五陰に向かわずんば、當に還るべし。所有を 無くせば當に淨と爲すなり。多事なれば當に數息すべし。少事なれば當に相隨すべし。 家中意は盡きれば當に止を行ずべし。世間を畏れれば當に觀ずるべし。世間を欲せざ るを還と爲す。念を斷ずとは淨と爲すなり。何を以ての故に數息するや。五陰に隨う ことを欲せざるが故に。何を以ての故に相隨するや。五陰を知らんと欲するが故に。 何を以ての故に止なるや。五陰を觀ぜんと欲するが故に。何を以ての故に陰を觀ずる や。身の本を知らんと欲するが故に。何を以ての故に身の本を知るや。苦を棄てんと 欲するが故に。何を以ての故に還と爲すや。生死を厭うが故に。何以ての故に淨と爲 すや。五陰を分別して受せざるが故に。便ち黠慧なる八種道に隨う。得莂を所願を得 ると爲すなり。息を行ずる時は數に隨うと爲す。相隨する時は念に隨うと爲す。止ま る時は定に隨うと爲す。觀ずる時は淨に隨うと爲す。還る時は意に隨うと爲す。淨め

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る時は道に隨うと爲し、また行に隨うと爲すなり。 【現代語訳】 (仏法はただ言葉の存在、あるいは知的なものだけではなく、)法を実践することが要 求されている。それを修得することこそ道のことである。安般守意における六事(六 つの段階の修道法)には内面的と外面的なものがある。数息、相随、止の三つは、外 面(世間とは共通)的なもので、観、還、浄の三つは内面(仏教特有)的なものであ る。これらの六つの修道法のすべては道に随順するのである。それは何のゆえに「数 息、相随、止、観、還、浄」の六つを念ずるか。自ら意を訓練し、道に近づくからで ある。逆に、この六事を離れれば、すなわち世間のものに追従してしまうのである。 息を数えるのは、散乱の妄念を遮断するためである。相続する息に随うのは緩いここ ろを引き締めるためである。意念を定めた箇所に集中するのはこころを単一の対象に 定住するためである。五陰の心身を観察するのは、偽りのこころを離れるためである。 五陰のものを元のあるべき本質に取り戻すためには、一心の禅定に入ることを要する。 意を清めるのは守意をするためである。修行者は、自らの意念をコントロールするこ とができないので、このような六事を修行するのである。何故に数息を修行するのか? 意念が散乱しているからである。何故に息を数えることができないのだろうか?未だ 四諦の苦(苦の果)を認識していないから。何故に禅定のことを得られないのか?そ の理由は、四諦の習(苦の因)を捨てなく、尽(苦の滅)を悟らなく、道(苦滅の行) を行わないからである。安般守意における六つのこと(数息相随止観還浄)のそれぞ れは、畑を耕す作業に譬えることができる。数息は土地で、相随は土壌を耕す犁で、 止は牛馬にかける軛で、観は畑に蒔ける種で、還は降り雨で、浄はそれぞれを実行す る行である。このような六事は真の道にしたがうことである。数息を実行することは 外面的――身体、環境からの妄想を取り除くこと。相随を修習することは、内面的―― こころのから妄念を断じること。止を修行するのはさまざまな罪を犯すことを止める ためである。観を行うのは意念を取り除くこと。世間の物事を受けないのは還の真義 である。執着の意念を断じるのは浄の役割である。意念が乱れれば、数息を実行する べきである。意念が安定すれば相随を修習すべきである。偽りの意念を断つなら、止 を行うべきである。道を得るなら、五陰を観察するべきである。五陰に向かわないな ら、まさに還を修めるべきである。無所有にするのは、浄を行うことである。意念が たくさん生じれば数息を実行するべきである。意念が少なければ相随をするべきであ る。いろんな貪欲・執着に囚らわれる意念を滅尽するには、止を行うべきである。五 陰の世間を畏れれば、それを観察すべきである。五陰の世間を欲しくないなら、還を 修めるべきである。意念をすべて断つのは、浄を行うことである。なぜ数息を修習す るなのか?それは五陰の世間に随うことを欲しくないからである。なぜ相随をするの

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か?それは五陰の本質を知りたいから。なぜ止をするなのか?五陰の本質を観察した いから。なぜ五陰を観察するなのか?人身の本当のありかたを認識したいから。なぜ 身の本質を認識するなのか?苦を捨てたいから。なぜ還を修めるなのか?生死を厭う から。なぜ浄を修めるなのか。五陰それぞれの本質をきちんと観察分別し、さらにそ れらを受けないから。これはすなわち智慧となる八正道に随順する。最終的に、授記 を得ることができ、願うことをすべて得ることができるのである。息を数える時に大 事なのは、数に随うことである。相随する時に、その要は、息に随い専念することで ある。止を修める時に、その肝要は意念を定めた箇所に注ぐことである。観察する時 に、重要なのは、清らかな心を持って五陰それぞれの本質を確実に分別することであ る。還を修習するときに、大切なのは、意を本来のありかたに返り戻ることである。 浄を修習するときに、最も肝心なのは、道に随順し、安般の行を成就することである。 【テキスト】(pp.164b L18 L29) 數息爲四意止。相隨爲四意斷。止爲四神足念。觀爲五根五力。還爲七覺意。淨爲八行33 也。得息不相隨不爲守意。得相隨不止不爲守意。得止不觀不爲守意。得觀不還不爲守 意。得還不淨不爲守意。得淨復淨乃爲守意也。已念息惡不生。復數者爲共遮意。不隨 六衰34故。行相隨爲欲離六衰。行止爲欲卻六衰。行觀爲欲斷六衰。行還⑩ 爲欲不受 六衰。行淨爲欲滅六衰。已滅盡便隨道也。數息欲遮意。息中有長短。當復遮是長短意 也。何以故守意。欲止惡故。惡亦可守亦不可守。何以故。惡已盡不當復守也。    ⑩ 爲欲不=不欲 【書き下し文】 數息を四意止と爲す。相隨を四意斷と爲す。止を四神足念と爲す。觀を五根・五力と 爲す。還を七覺意と爲す。淨を八行と爲すなり。息を得ても相隨をせずば守意と爲さ ず。相隨を得ても止をせずば守意と爲さず。止を得ても觀をせずば守意と爲さず。觀 を得ても還をせずば守意と爲さず。還を得ても淨をせずば守意と爲さず。淨を得て復 た淨ずるは乃ち守意と爲すなり。已に息を念ずれば惡に生ぜず。復た數とは共に意を 遮す。六衰に隨わざるが故に。相隨を行ずるには六衰を離れんと欲す。止を行ずるに は六衰を卻(しりぞ)けんと欲す。觀を行ずるには六衰を斷たんと欲す。還を行ずる には六衰を受けざらんと欲す。淨を行ずるには六衰を滅せんと欲す。已に滅し盡せば 便ち道に隨うなり。數息は意を遮せんと欲す。息の中に長短あり。當に復た是の長短 の意を遮すなり。何を以ての故に守意するや。惡を止めんと欲するが故に。惡は亦た 守るべし。亦た守るべからず。何を以ての故なるや。惡は已に盡せば當に復た守るべ からざるなり。

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【現代語訳】 數・隨・止・觀・還・淨のそれぞれは、三十七品経における七科の六組のそれぞれと 組み合わせることができる。つまり、数息は四意止(四念処/四念住)と、相随は四意 断(四正勤)と、止は四神足(欲、勤、心、観の四神足)と、観は五根(信、進、念、 定、慧の五根)及び五力(信、進、念、定、慧の五力)と、還は七覚意(念、択法、 精進、喜、軽安、定、捨の七菩提分)と、浄は八行(正見、正思惟、正語、正業、正 命、正精進、正念、正定の八正道)と組み合わせることができる。數・隨・止・觀・ 還・淨という六事を修習するときに、注意すべきのは、一々の段階を得てから、その ままその段階にとどまるべきのではことなく、直ちにその段階自体を乗り越え、次の 段階を修習しなければならないのである。これは、安般守意を修習する原則でもある。 つまり、すでに第一の数息の段階を修得したら、そのままとどまり、次の相随の段階 に入って行わなければ、安般守意を習得できない。同様に、すでに第二の相随の段階 を修得したら、止の段階を行わなければ、安般守意の修習とならない。止を得ても、 観の段階を行わなければ、安般守意を習得できない。観察することを得ても、還を行 わなければ、安般守意の修習とならない。還を得ても、浄を行わなければ本当の安般 守意ではない。要するに、浄の段階を得たら、さらに浄を極めるべきである。これこ そ安般守意の修習が得られるのである。すでに数え息を念じたなら、悪念が起こるこ とはない。また、ふたたび息を数えるのは、共にそれぞれの妄念を遮断するためであ り、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)に随わないからである。相随を行うことは、六 根を離れたいためである。止を行うことは、六根を取り除きたいため。観を行うこと は、六根を断じたいため。還を行うのは、六根を受けさせたくないため。浄を行うこ とは、六根を滅尽したいため。六根を滅尽すれば直ちに道に入ることになる。数息は さまざまな意念を遮断し、こころを集中したいためである。数え息の最初の段階には 息に対する長、短の感知があり、心の落ち着きが深まり次第、当然にこの長、短の感 知を抜き超えたわけである。なぜ、意を守らなければならないか。惡の意念を止めた いからである。惡の意を守って防ぐべきと、守って防がなくてもいいとの両方の場合 がある。何故かといえば、惡の意念は、すでに滅ぼしてしまったので、また再びそれ を守って防ぐべきではないのである。 【テキスト】(pp.164c L1 L17) 數息有三事。一者當坐行。35二者見色當念非常不淨。三者當曉瞋恚⑪疑36嫉⑫念37過去 也。數息亂者當識因緣所從起。當知是内意。38一息亂者是外意過。息從外入故。二息亂 者⑬是内意過。息從中出故。三五七九屬外意。四六八十屬内意。嫉瞋恚*疑是三意在 内。殺盜婬兩舌惡口妄言綺語。是七意及餘事屬外39也。得息爲外。不得息爲内。息從意 生。念息合爲一數。息至盡數爲一。亦非一。意在外。息未盡故。譬如數錢。意在五數

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爲一也。數息所以先數入者。外有七惡。内有三惡。用少不能勝多⑭故先數入也。數息 不得者失其本意故。本意謂非常苦空非身。40失是意墮顛倒故。亦爲失師。師41者初坐時。 第一42入息得身安。便次第行。爲失其本意故不得息也。數息意常當念非常苦空非身。計 息出亦滅入亦滅。已知是得道疾。當持非常恐意。得是意即得息也。     ⑪疑=癡 * ⑫念=令  ⑬〔是〕−  ⑭故− ,故+名 【書き下し文】 數息に三事あり、一には當に坐して行ずべし。二には色を見れば當に非常・不淨を念 ずべし。三には當に瞋恚・癡・嫉を曉(あきら)めて過ちを去らしむるべきなり。數 息が亂れれば當に因緣の從起する所を識るべし。當に是れを内意(と外意による因縁) と知るべし。一の息が亂れれば、是れ外意の過なり。息は外より入るが故に。二の息 が亂れれば、是れを内意の過なり。息は中より出すが故に。三・五・七・九(の息) は外意に屬す。四・六・八・十(の息)は内意に屬す。嫉・瞋恚・癡の是の三の意は 内に在り。殺・盜・婬・兩舌・惡口・妄言・綺語の是の七意及び餘事は外に屬すなり。 息を得するを外と爲す。息を得ぜざるを内と爲す。息は意より生ず。念と息と合して 一となして數う。息は盡に至れば數えて一とし、亦た非一と爲す。意は外に在り息は 未だ盡せざるが故に。譬えば錢を数えるが如し。意は五に在り、數えて一と爲すなり。 數息は先に入るを数える所以とは、外に七惡あり。内に三惡あり。少は多に勝れるに あたわざるを用っての故に、先に入を數えるなり。數息を得ずとは、其の本意を失う が故に。本意は謂く非常・苦・空・非身なり。是の意を失い顛倒に墮するが故に。亦 た師を失うと爲す。師とは初めて坐す時、第一に入息して身の安を得れば、便ち次第 に行ずる。其の本意を失うと爲すが故に息を得ざるなり。數息の意は常に當に非常・ 苦・空・非身を念ずべし。息は出て亦た滅し、入りて亦た滅すと計る。已に是れを知 れば、疾く道を得る。當に非常の恐れの意を持すべし。是の意を得れば即ち息を得す るなり。 【現代語訳】 数息には三つのことがある。一つ目は坐禅と経行を行うべきである。二つ目はいろい ろな貪る色を見たら、直ちにそれらが非常、不浄のものと念ずるべきである。三つ目 はいかり、愚痴、嫉みなどの煩悩を発覚し、これらの過ちを取り除くべきである。数 息を数え間違えれば、当にその乱れの発生する原因はどちらから発生するかをきっち んと認識すべきである。当にそれらがこころの内部と外部との両方から発生する場合 があることを知るべきである。一の数え息(入り息)が乱れれば、これはこころの外 部の過ちに因る。なぜなら、息が外部より体内に入るからである。二の数え息(出息)

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が乱れれば、これはこころの内部の過ちに因る。なぜなら、息が体内より出るからで ある。それと同様に、三、五、七、九の単数の数え息は外部の意念に属して、四、六、 八、十の双数の数え息は内部の意念に属する。嫉み、いかり、愚痴の三つの意念は内 部に属する。殺、盜、婬、兩舌、惡口、妄言、綺語の七つ及びその他の意念は外部に 属する。息を感じる(得られる)ときに、息が外部から(体内へ入る)のである。息 を感じない(得られない)ときに、息が内部から(体外へ出る)のである。息が意念 の働きによって生じる。意念と息とを合わせ、一つのものとして数えるべきである。 息が消えるまでは、一として数える。また一として数えない場合もある。一として数 えない場合は、意念が外部に在り、あるいは息が未だ(外部から体内へ)尽くし消え ていない場合である。譬えば錢を数えると同じように、意念は五銖の銭を一つの単位 として数えることにする。数え息をするにとき、先に入り息を数えるのは、外部に七 つの悪があり、内部に三つの悪がある。内部の少ない悪は外部の多くの悪に勝てない から、先に入り息を数えるのである。数え息を習得できないのは、安般修行の趣意を 失ったからである。安般修行の趣意とは、非常・苦・空・非身のことである。このよ うな意を失って四顛倒に堕ちるからである。これは、また安般の段取りを失ったので ある。安般の段取りとは初めて坐禅する時に、一つ目は数え息に入り、心身の安定を 得れば、そのまま修習の次第に入っていくべきのである。しかし、安般修行の趣意を 失ったから、いくら修習しても、安般の修習ができないのである。数え息を修習する とき、当然常に非常、苦、空、非身(無我)を念ずるべきである。息を観察し、出息 も入り息も結局消え滅ぼしてしまうのである。すでにこのようなことを知れば、はや く道を習得できる。当に非常(苦、空、非身)などに対して非常に恐れの心を持つべ きである。このようなこころを得れば、すなわち安般の修習を修得することができる。

3.まとめ

 本稿の内容は、主に数息相随止観還浄と四諦、五陰、六根、十不善、三十七道品と の組み合わせを論じ、つまり、安般の六事と仏教教義の法数との結びつきを展開して いる。道安の言うように、安世高は阿毘達磨を専攻し、訳経には座禅の行と仏教の法 数をよく組合せとしている。本稿の研究からは、このような特徴がよく見られている。 もちろん、この方式の論述は、『阿含口解十二因緣經』と同様に、あるテキストからの 直訳ではなく、より自由な、現場的な解釈でもあると思われる。 〈参考文献〉  主要テキスト

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Arabinda Barua(ed.), Pet4akopadesa, Pali Text Society, London 1982. PSSB(=Suttatthasamuccayabhūmi= The Chapter 6 of Pet4akopadesa) 『大正新修大蔵経』は『大正蔵』と略。 『長阿含・十上経』(『大正蔵』第1巻、No.1、第10經) 『長阿含十報法經』(『大正蔵』第1巻、No.13) 『普法義經』(『大正蔵』第1巻、No.98) 『雑阿含經』(『大正蔵』第2巻、No.99) 『雑阿含二十七經』(『大正蔵』第2巻、No.101) 『增壹阿含經』(『大正蔵』第2巻、No.125) 『七處三觀經』(『大正蔵』第2巻、No.150A) 『光讚經』(『大正蔵』第8巻、No.222) 『佛説大安般守意經』(『大正蔵』第15巻、No.602) 『陰持入經』(『大正蔵』第15巻、No.603) 『修行道地經』(『大正蔵』第15巻、No.606) 『道地經』(『大正蔵』第15巻、No.607) 『無極寶三昧經』(『大正蔵』第15巻、No.636) 『阿含口解十二因緣經』(『大正蔵』第25巻、No.1508) 『阿毘曇五法行經』(『大正蔵』第28巻、No.1557) 『 舍論』(『大正蔵』第29巻、No.1558) 『出三蔵記集』(『大正蔵』第55巻、No.2145) 『佛説大安般守意經』(高麗蔵) 同経(『趙城金蔵』、または『金蔵』と略) 同経(『毘盧蔵』、または『宮本』と略) 同経(『資福蔵』、または『宋本』と略) 同経(『普寧蔵』、または『元本』と略) 同経(『永楽北蔵』、または『明本』と略) 同経(宋の『磧砂大蔵経』、または『磧砂蔵』と略) 同経(『永楽南蔵』、または『南蔵』と略) 同経(『嘉興蔵』、すなわち『径山蔵』) 金 剛寺版『安般守意経』(=『新出安般経』)写本テキストは、 TEXT と略(『金剛寺 一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』、pp.188 194または L61 288) 金 剛寺版『仏説解十二門経』写本テキストは、 TEXTと略(『金剛寺一切経の基礎的 研究と新出仏典の研究』、pp.197 203または L366 587)

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 研究書・研究論文など

Shi Guo Huei‘The Textual Formation of the Newly Discovered Anban Shouyi Jing’, 中華佛 學學報Chung-Hwa Buddhist Journal(Taipei, 2008, 21:140)

荒牧典俊 ・小南一郎訳 出三蔵記集・法苑珠林(大乗仏典、中国・日本篇第3巻)、中 央公論社、1993年、p.52。 落合俊典 編『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』、国際仏教学大学院大学、 2004年、pp.1 3及び183 228。 釋果暉  「安世高訳『佛説大安般守意經』の訳注研究⑴」、『中央学術研究所紀要』第 42号、2013年、p.42及び52。 デレアヌ フロリン(Deleanu, Florin)、「新発見の安世高訳『安般守意経』金剛寺本」、 『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』、2004年、p.31。 湯用彤  『漢魏兩晉南北朝佛教史』上冊、台湾商務印書館、台北、1991年(1938第一 刷)、p.63。 羅竹風編『漢語大詞典』、漢語大詞典出版社、上海、1986年。 ――――――――――――― 【注釈】 1  各テキストのさらなる説明は、安世高訳『佛説大安般守意經』の訳注研究⑴、『中 央学術研究所紀要』第42号、2013年、p.42に参考する。 2  別名は『趙城蔵』、『趙城金蔵』で、1933年に山西省趙城県霍山広勝寺で発見され、 北京版(1984 )『中華大蔵經』(No.869、第36冊、pp.105 125)に収録されている。 現存する『金蔵』の『仏説大安般守意経』は上巻のみである。 3 『仏説大安般守意経』は K806、第20冊、pp.477 492である。 4 宋の『毘盧蔵』(別名福州東禅寺・開元寺版)である。 5 宋の『資福蔵』(別名南宋版一切経、後思渓版)である。 6 元の『普寧蔵』である。 7  明の『永楽北蔵』(『大明北蔵』)である。『仏説大安般守意経』第66冊、pp.1 45 である。『大正蔵』の対校版としての『明版』は実は『黄檗版』である。本稿におけ る『仏説大安般守意経』のテキストの部分の『明本』は、『大明北蔵』を設定する。 確かに『大明北蔵』は『黄檗版』より、『宋本』『元本』に近いものである。その他 の『大正蔵』からの引用中の、対校本としての『明本』は『大正蔵』の『明本』に 従う。 8  宋の『磧砂大蔵経』である。『仏説大安般守意経』はNo.825、第20冊、pp.48 57で ある。 9 明の『永楽南蔵』(『大明南蔵』)である。 10 明の『径山蔵』(万暦版の『方冊蔵経』)である。

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11 『仏説大安般守意経』は No.106、pp.78 116である。 12 『黄檗版』である。『仏説大安般守意経』の卷冊次は93 1である。 13  『七寺一切経』版の『仏説大安般守意経』はその内容から、おそらく宋代の大蔵経 から写された写経であると推定される。『七寺一切経』は平安時代末期の写経である (落合俊典「七寺一切経と古逸経典」『仏教史学研究』第33巻2号、1990年、pp.117 139。 14  台北版『中華大蔵經』に所蔵されている。『仏説大安般守意経』はpp.16746 16755 である。 15  『乾隆蔵』(清勅版の『龍蔵』)である。『仏説大安般守意経』は No.677、第55冊、 pp.343 372である。 16 『大日本校訂大蔵経』である。『仏説大安般守意経』は第138冊、pp.68 77である。 17  『大日本校訂蔵経』(『卍字正蔵』)である。『仏説大安般守意経』は No.683、第26 冊、pp.831 848である。 18  「無為」は本来道家の用語であるが、安世高は、それを仏教の「涅槃/nirvān4a」と して訳した。 19  『論語』には「樂以忘憂」の用語があった。また、『増壹阿含經』には文中と類似 する「四楽」の語が見られるが、本経とは直接の関係がない。「若凡夫之人不聞此四 流者。則不獲四樂。云何爲四。所謂休息樂。正覺樂。沙門樂。涅槃樂。」(『大正蔵』 第2巻、p.672c)。 20  「可」は、信の意味である。『阿毘曇五法行經』に「信為何等。可意。」の文(『大 正蔵』第28巻、p.999b3)、『普法義經』に「已聞法如上說,便生信可意」の文(『大 正蔵』第1巻、p.922c20)、『七處三觀經』に「信者有三行,令從行信淨可。」(『大正 蔵』第2巻、p.881c24)の文があった。また、『新出安般経』に「微隨可」「中相隨 可」「隨名為可」( TEXT、L90;104;109)の語もあった。拙論‘The Textual For-mation of the Newly Discovered Anban Shouyi Jing’Chung-Hwa Buddhist Journal(2008, 21:140)に参考する。 21  「數隨止是爲外。觀還淨是爲内」という前三の「數隨止」は、「奢摩他」に収め、 後三の「觀還淨」は、毘鉢舍那に収める。この文の意味は、『 舍論』の「依已修成 滿勝奢摩他。為毘鉢舍那修四念住。」(『大正蔵』第29巻、p.118c20 21)の文の意味 とは、同趣旨であるといえよう。つまり、定そのものは、外道あるいは世間にもあ り、仏教の特有なものではない。慧のみ仏教の特有なものである。 22  こちらの「習意近道」は、仏教修道法の立場を示しているが、『論語・陽貨篇』の 「性相近習相遠」という本体論の見方とは一致しない点がある。 23  ただし、「 」の字の右上――「几」の部は、高麗蔵と金蔵は「口」の部に取り替 え、特殊な異体字となっている。

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24  この箇所に「還爲一意」とあるが、同経に「止為一意」(『大正蔵』第15巻、p.165a29; 165b18)という解釈も見られる。『阿毘曇五法行經』では四諦の尽(滅/nirodha)に ついて「外尽」と「内尽」との両類を次のように述べている。「何以故。生死未滅? 為非一意。何以故。非一意?為不墮禪棄故。…是名為外盡。」(『大正蔵』第28巻、 p.998b28 c1)。「內盡為何等。意墮守。已墮守餘意不得生。…已罪盡便盡無有。是名 為內盡。」(『大正蔵』第28巻、p.998、c1 4))。この二つの文から、一意(禅定)に よって暫定的に「生死」を滅するが、守意(知恵)によって根本的に「生死」を滅 することができるという理解は妥当であろう。つまり、「還爲一意」を「禅定」、「淨 爲守意」を「知恵」として読むことがよいか。また、「還爲一意」と」「止為一意」 との区別は、前者は、四禅の禅定(dhyāna)として理解し、後者は、前者より広い 意味の定(samādhi)を理解することがよいであろう。 25  「不識」の後に「苦」の字を加えべきか。というのは、そのあとに「不棄習盡證行 道」の文があるからである。また、同経(『大正蔵』第15巻、pp.168c25 169a4)に 「識苦(知苦)、棄習(斷習)、知盡(盡證)、行道(念道)」という複数の四聖諦の用 語が見られる。 26  こちらの「得禪」の禅は、禅定の禅として捉えるべきであり、後期の禅宗の禅で はない。本経にもう一箇所の「得禅」も見られる。「謂得禪是因為力」(『大正蔵』第 15巻、p.168c14)。本来、仏教の戒定慧という三学でいえば、四禅は定に属し、四諦 は慧に属するべきである。このような禅(四禅)と数(四諦)とを組み合わせて作 られた「禅数」の存在は、安世高訳経の特徴と伺える。注39に参考する。 27  「棄習盡證行道」は『陰持入經』の「更爲習斷。爲盡自證爲行道滿。」(『大正蔵』 第15巻、p.179b20)からの引用であると見られる。 28  劉宋求那跋陀羅訳の『雑阿含経』にある「信心爲種子 苦行爲時雨 智慧爲時 (犁)軛 慚愧心爲轅 正念自守護 是則善御者」という偈頌(『大正蔵』第2巻、 p.27a26 28)は、この段の文中にある「地・犁・軛・種・雨」における六事の譬え と類似するところがある。安世高は『雑阿含経二十七経』一巻を訳していたことか ら、恐らく彼は、『雑阿含経』の譬えを引用していたと推定される。 29  このような「數息斷外。相隨斷内」の主張は、安般の呼吸法と関連している。本 経のほかの段落には、詳細に論じている。「數息斷外。相隨斷內。數從外入為斷外。 亦欲離外因緣。數從中出。為欲離內因緣。」(『大正蔵』第15巻、p.165b25 27) 30  「家中意盡當行止」の「家中意盡」は、もとより六事の「数」の解釈文であり、本 経のほかの箇所の「家中意欲盡者。謂六情爲意家。貪愛萬物。皆爲意家也。」(166c10 12)に示したように、「家中意欲盡」の文が出てくる。もとより、この段の「家中 意」は、『新出安般経』の「数」の解釈文である「數屬二事。一爲計出入息,二爲舍 家中念。」( TEXT、L65 66)の「家中念」の語とは、同義語ではないかと伺える。

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31  この段で大切なところは、「何以故數息。不欲『隨五陰』…『知五陰』…『觀五 陰』…『分別五陰』…」という五陰と六事(数息、相随、止、観、還、浄)との組 み合わせである。安世高は一巻、七つの章の『道地經』(『大正蔵』第15巻、No.607) を訳し、その中の四つの章は五陰を主題としている――「知五陰慧章、隨應相具章、 五陰分別現止章、五種成敗章」、竺法護の『修行道地經』(『大正蔵』第15巻、No.606) では「五陰本品、五陰相品、分別五陰品、五陰成敗品」といている。安世高は五陰 を重視する上でこのような組み合わせをしたと見られる。 32  「得別」は、本経のほかの文(『大正蔵』第15巻、p.171c14)にもあり、「得別爲證 得爲知也。」と記する。また、竺法護訳の『無極寶三昧經』の「菩 云何得致無所從 生法忍。佛言。有六法得致之。一者知天及人當得佛者。未得莂者我當往莂之。不與 十方天下人共知之。二者大千刹中。若善男子善女人。當得佛未得莂者我往莂之。不 與十方天下人共知之。」(15巻、pp.508c28 509a4)にも出てくる。意味は授記である。 33  「數息爲四意止。相隨爲四意斷。止爲四神足念。觀爲五根五力還爲七覺意。淨爲八 行」の文は、『新出安般経』の文末の「師云。數息爲四意止。相隨爲四意斷。止爲四 神足。觀爲五根五力。還(爲)七覺意。淨爲八道行。」( TEXT L278 280)からの 引用とみられる。このような六事と三十七道品との組み合わせは、安世高本人の解 釈であると見られる。デレアヌ フロリン「新発見の安世高訳『安般守意経』金剛寺 本」、『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』(2004、p.31)は「師云」から の文は、本文とは異なった性格を持っていると主張している。筆者は、『新出安般 経』の本文は訳文であるのに対し、「師云」からの文は安世高による口訳の文である と指摘したい。 34  「六衰」は、安世高の複数の訳経に見出される。『道地經』の「是身爲譬如空聚。 常中細六衰」(『大正蔵』第15巻、p.236b12)の文は、同本異訳の『修行道地經』で は「是身如空聚。六情所居」(『大正蔵』第15巻、p.219b14)となる。さらに『光讚 經』の「眼耳鼻舌身意六情。所受所生痛痒所合。悉爲自然無合無散。(『大正蔵』第 8巻、p.206c9 10)」の文から見ると、竺法護訳の「六情」は、眼耳鼻舌身意の六根 であるとわかる。さらに『七處三觀經』の「比丘能自守為守六衰。」(『大正蔵』第2 巻、p.879c11)」の文とその対応するパーリの原文の“rakkhati cakkhundriyam4 rak-khati manindriyam4 Evam4 kho, bhikkhave, bhikkhu rakkhitā hoti.(A. Ⅴ .140 Sotasuttam4, An4 guttara-Nikāya, ⅲ, p.163, L19 28)”を比較することができるからみると、「六衰」 の「衰」は indriya を指すと判る。『七處三觀經』の「何等為三觀。識亦有七事。得 五陰成六衰。觀身為一色。觀五陰為二。觀六衰為三。故言三觀。」(『大正蔵』第2 巻、p.876c1 3)の文に示しているように、「得五陰成六衰」の語が見られる。本経 の「亦謂不隨五陰六入。息與意相隨也」(『大正蔵』第15巻、p.166c13)の文から、 「五陰六入」の語がある。したがって「六衰」は「六入」の同義語であり、すなわち

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「六根」のことである。六根は、つねに六塵に執着するので、安般の修行はそれを遮 断しなければならない。 35  「坐行」は、座禅と経行を指す。安世高訳の『長阿含十報法經』の「第五八法。可 減。八瞢瞢種不精進道…第六八法。行增道。八精進方便道…」(『大正蔵』第1巻、 pp.237b3 238a18)に複数の「坐行」、「行坐」の語が見られ、この文と対応する『長 阿含・十上経』の「八滅法…八精進…」ではすべて「坐禪、經行」としている(『大 正蔵』第1巻、p.55a7 c5)。拙論安世高訳『仏説大安般守意経』の訳注研究⑴の【注 釈30】(中央学術研究所紀要 第42号、p.52)に参考する。 36  「瞋恚疑嫉」の「疑」は の諸校訂版のように、「癡」に訂正するべき である。本経の二箇所――「殺盜婬兩舌惡口妄言綺語嫉妬瞋恚癡。應外十息。」(『大 正蔵』第15巻、pp.165c24 25)、「不嫉瞋恚癡。是為助意也。」(15、p.167a25 26)お よび『仏説解十二門経』の二箇所――「不墮嫉瞋恚癡是爲三善」( TEXT、L516)、 「但有貪婬瞋恚愚癡嫉妬有何等好」( TEXT、L565 566)の用例も見られる。 37  前後の文脈から、「念」よりも「令」を捉えるべきか。 の諸校訂版 はみな「令」としている。 38 前後の文脈から、「内意」を「内外意」に訂正すべき。 39  「出息・入息」と「内三悪・外七悪」との組み合わせは、いうまでもなく、格義的 な解釈である。しかし、道安の「安般注序」に論じているように「其所出經。禪數 最悉。」(『大正蔵』第55巻、p.43c20)、安世高または彼の門人は安般呼吸法の「禅」 ――十息を借りって阿毘達磨の「法数」――十不善を紹介する意図があるのではな いかと伺える。「禅数」についての解釈はさまざまであるが、湯用彤の「禅定法数」 (1991、p.63)と荒牧典俊の「禅定修行道体系の哲学」(1993、p.52)とが、妥当であ る。 40  「非常苦空非身」の語は、『新出安般経』の「若從正起非常者苦者空者非身者。當 從是已斷」( TEXT、L237 238)及び『陰持入經』(「從慧知爲何等。爲非常苦空非 身。是爲從慧知。」(T15、p.173b23 24))にも出てくる。『陰持入經』と対応するパーリ 文の“Tesam4 kā pariññā? Aniccam4 dukkham4 saññā anattā ti iti esā etesam4 pariññā.”(Pet4

ako-padesa, p.113, L24 25)からは、その原語のAniccam4 dukkham4 saññā anattāが見出され る。

41  『漢語大詞典』22.順應。《莊子・秋水》:“蓋師是而無非,師治而無亂乎?”陸德明 釋文:“師,順也。”漢揚雄《太玄・窮》:“師在心也。”茫望注:“師,循也。”つま り、ここの「師」は、「手順」「順番」「段取り」の意味を取るべきである。

参照

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9.事故のほとんどは、知識不足と不注意に起因することを忘れない。実験

〔付記〕

1人暮らし 高齢者世帯 子世帯と同居 独身の子と同居 長期入所施設 一時施設 入院中 その他

PCIJ,  series  A/B;  Permanent  Court  of  International  Justice,  Judgments,  Orders  and  Advisory  Opinions . PCIJ,  series  B;  Permanent  Court  of 

内科検診(入所利用者)尿検査 寝具衣類の日光消毒 ハチ、アリの発生に注意 感冒予防(全利用者、職員)

トン その他 記入欄 案内情報のわかりやすさ ①高齢者 ②肢体不自由者 (車いす使用者) ③肢体不自由者 (車いす使用者以外)

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  安倍小水麿願経とは ︑﹁ 無災殃而不肖 ︑無福楽而不成者 ︑般若之金言 ︑真空之妙典 ︑被称諸仏之父母 ︑聖賢之師範 也