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ハインリッヒ・ブリンガーとチューリッヒ改革派教会の対外政策

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Academic year: 2021

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銭のやり取りは、罰金ではなく税金とみなされてい たことになる1)。元々アールガウ地方の隣のチュー リッヒにおいては、婚姻裁判所規則(Zürcherische Ehegerichtsordnung)で、社会的にも信仰上も非の打ちどころのない少なくとも 2 人の証人の 前でなければ婚約は成立しないとして、いわゆる秘密婚が禁止されている。未成年者(成人は 満19 歳から)は両親もしくは後見人の同意が必要とされており、既に 14 世紀中頃には秘密婚 はスイス諸都市では禁じられていたことになる。一方、カトリック教会のカノン法下では当事 者同士の合意に基づく秘密婚は認められており、ここに婚姻に関して、スイスや南西ドイツの スイス・アレマン法域の概念とカノン法上の規程に齟齬が生じることになった。前者において は、婚姻は花嫁の売買の慣習から派生したという事実と関係があり、花嫁の同意は本人に対し て確認をとるべきものではなく、家族(両親)の判断が最も重要な要素であった2)。このような 2つの法域が衝突するなかで、「揺りかご税」のような概念が独り歩きするのもごく自然な成り 行きであろう。「揺りかご税」の恩恵もあってブレムガルテンに戻った2 人は 5 人の息子を授 かるが、本書の主人公はその中で最後に生まれた男子である。後日日記の中でブリンガーは、 幼くして2 度生死をさまよったと記している。ペストに罹った時が最初の危機で、その後彼は、 事故による首からの大量出血で命を失うところであった。ブリンガーはこのような災難から無 事帰還した経験から、自分にはこの世で重要な使命が託されていると意識し始めたのではない

1) Oskar Vasella, Reform und Reformation in der Schweiz (Münster, 1958), pp. 30-31.

2) Walther Köhler, Zürcher Ehegericht und Genfer Konsistorium (Leipzig, 1932 & 1942), I, 73; Thomas

Max Safley, Let No Man Put Asunder, The Control of Marriage in the German Southwest: A

Comparative Study, 1550-1600 (Kirksville, 1984), pp. 13-14. 但し、父親の同意のない婚姻の無効性がカ

ノン法に明記されているとの指摘もある。具体的には『ローマ法大全』(Corpus Juris Civilis)の中の『法

学提要』(Institutiones)を参照。Ibid., p. 12.

ロイス川に沿って発展したブレムガルテン

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かと推察される3) 教育はブリンガー家にとって最も重要な位置を占めていたため、まだ5 歳に満たない段階で、 ブリンガーは地元のラテン語学校に入学し、文法、修辞、論理の三学科、いわゆるトリヴィウ ム(trivium)を習得し、またラテン語による読み書きと会話の訓練を受ける。その後 12 歳に なるとブリンガーは、ネーデルラントとの国境に近いドイツのニーダーライン地方にあるエメ リッヒ・アム・ライン(Emmerich am Rhein)の聖マルティン・ラテン語学校に入学する。こ の町でブリンガーは、兄と一緒にコルネリウス・ホラントの下で暮らすことになる。父からは エメリッヒ滞在中の3 年間で 33 ギルダーの送金を受けたが、この金額は家賃と学費を支払う には十分であったが、食費には事欠くこととなる。ブリンガーの日記によれば、父はブリンガー に托鉢をすすめたようで、それは父に更なる支援の余力がなかったわけではなく、物を乞う者 の空腹と心情をブリンガーに理解させるためであった。およそ殆どのラテン語学校がそうで あったが、聖マルティン・ラテン語学校も宗教を重視し、校則は特に厳しく違反者には容赦な く罰が科された。この頃ブリンガーは、11 世紀にケルンのブルーノによって創始されたカルト ジオ会への入会を考えていた節がある。聖マルティン・ラテン語学校は共同生活兄弟団(Brüder vom gemeinsamen Leben)によって運営されていたわけではないが、同学校の教師の多くは 同兄弟団のデヴォツィオ・モデルナ(Devotio Moderna)の伝統の影響を強く受けていた4)。兄 弟団は、『キリストに倣いて』(De imitatione Christi)の著者トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis)やフランドル地方にある女子修道会ベギン会にも通じ、エラスムスやルターも幼少 期に兄弟団で学んでいた。祈祷、禁欲、瞑想を重んじて、個人の魂の救済を追及したグループ である。 続いてブリンガーは、14 歳の時にヴィア・アンティクア(via antiqua、古い道)の牙城ケル ン大学に入学し、「内なる道」としてのデヴォツィオ・モデルナに傾倒する一方で、教父哲学の 教育で知られるモンタヌム学生寮(Montanerburse)に入寮し、多くの教父の教えに触れてい る。そして、1522 年春には試験を受けて合格し、修士の課程を終えている。「ドイツのローマ」 とも称されたケルンにブリンガーが滞在したのは、ちょうどルターの宗教改革が始まり、1521 年のウォルムスでの帝国議会において、ルターの言説が異端と宣言されて彼が教会から破門さ れた頃である。即ちブリンガーは、ドイツ宗教改革運動の混乱の真っただ中にいたことになる。 正式に神学を学んだわけではなかったが、ケルンでの滞在期間中に、ブリンガーはドミニコ会 のトマス・アクィナスの教えやその他のギリシャ及びラテン両教会の教父神学に触れることと

3) Patrik Müller, Heinrich Bullinger: Reformator, Kirchenpolitiker, Historiker (Zürich, 2004), pp. 14-16.

ブリンガーは後に妻と12 人の子供のうちの 3 人をペストで失うこととなる。‘Auf Bullingers Spuren durch

Bremgarten’, Neue Zürcher Zeitung (2 Sept. 2004) (https://www.nzz.ch/article9TFYN-1.301209).

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ペルのシトー修道会院長ウォルフガング・ヨーネル(Wolfgang Joner)の誘いで、同修道院付 属学校の校長に就任する。もちろん、ミサへの出席等の修道士としての誓約を免除されること が条件であった。時はちょうど、その後のチューリッヒ教会にとって極めて重要な意義を持つ こととなる第1 回チューリッヒ討論会が始まる頃で、チューリッヒにおける宗教改革の進展と 歩調を合わせるように、ブリンガーが中心となってカッペルの改革が進められることとなる。 カッペルは後に2度にわたってカトリックとプロテスタントの戦いの場となるが、普段はのど かな田園と丘陵に囲まれ、遠くにグラールス・アルプスの山並みを見ることができる。今日で は、当時カトリック側に立ったツークの町からのアクセスが良いが、れっきとしたチューリッ ヒ州の村である。1999 年に同修道院では「チューリッヒのピエトロ・マルティーレ・ヴェル ミーリ」と題する2 泊 3 日のシンポジウムが開催され筆者も参加したが、現在この建物(Kloster Kappel)は、チューリッヒ州改革派教会の宿泊を兼ねた研修施設となっている。この地におい てブリンガーは、日曜以外は午前中に1 時間、午後は 4 時間教壇に立っていた。午前中のクラ スには、修道僧の他に一般聴衆も参加し、ブリンガーはメランヒトンの神学総覧である『ロキ・ コンムネス』(Loci Communes)等を解説し、さらにアウグスティヌス、クリソストムス、エ ラスムス、メランヒトン等の解説書を頼りに福音書の講義を行っていた。午後は、幅広い教養 教育が講じられ、ウェルギリウス等の古典、文法や弁証法が教えられた。このような講義はブ リンガーにとっても、神学者として或いは宗教改革者としての素地を養うのに良い機会となっ た。彼は 1525 年の「ローマ人への手紙」の講解に当たっては、オリゲネス、ミラノ司教アン ブロシウス、新約聖書注解を著したフェオフィラクト等のギリシャ教父やラテン教父の他、エ ラスムスやメランヒトンの注解をも参考にしている。この講解が、後にチューリッヒでプロフェ ツァイと呼ばれた神学講義のモデルになったとも言われる。ブリンガーはこれらの注解を鵜呑 みにするのではなく、自身の批評を交えて解釈している6) カッペルでのこのような講義は、小規模ながらその後チューリッヒで本格的に実施される神 学講義プロフェツァイを彷彿とさせるが、ブリンガーにとってカッペルでの6 年間は、その後 ブレムガルテンとチューリッヒでの 46 年間の教会改革の準備期間でもあった。カッペルでの 活動期間中、ブリンガーはたびたびチューリッヒに出かけ、ツヴィングリやレオ・ユート、バー ゼルの宗教改革者ヨハネス・エコランパディウス(Johannes Oecolampadius)に会って語ら い、コンラッド・ペリカンからはヘブル語の授業を受けている。さらに、1525 年にチューリッ ヒで開かれたアナバプテストとの討論会や1528 年のベルン討論会(Berner Disputation 又は Berner Religionsgespräch)に出席し、特にベルンにおいては、ブリンガーはストラスブール

6) William Peter Stephens, The Theology of Heinrich Bullinger (Göttingen, 2019), eds., Jim West & Joe

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のマルティン・ブツァーやウォルフガン グ・カピト、討論会の主役の1 人でザンク ト・ガレンの改革者ヨアヒム・ヴァディア ン等と親交を持ったと伝えられる。ブリン ガーにとっては、スイス宗教改革の表舞台 登壇の契機となった討論会であったと言 えよう。ベルン討論会はチューリッヒとツ ヴィングリにとっても、スイス宗教改革運 動の主役に躍り出る良い機会となった7) ブリンガーは、福音を受け入れたケルン 時代から聖書と聖餐について強い関心を 抱いていたが、カッペルの修道院付属学校 に赴任してからもこの2 つのテーマに関心 を抱き続けていたようである。ブリンガー は人文主義の顕学であったが、聖書に忠実 に福音宣教をする宗教改革者としての側 面も彼にとっては大きな比重を占めてい た。人文主義と福音宣教という2つの異なる要素は、矛盾することなくブリンガーの人と神学 の中で調和を維持していた。単純化して今日の大学教育で例えれば、専門科目と教養科目の見 事な融合と表現できる。人文主義の学識を聖書研究に生かしたこの時期の事例としては、ブリ ンガーの学習指導書である『学問入門』(Studiorum ratio)を挙げることができる。カッペル 近くのツークで聖職者及び宗教改革者として活躍したヴェルナー・シタイナーの要請で執筆さ れたこの書は、ブリンガー死後の1594 年になってツヴィングリの孫によってチューリッヒで 出版されている。この著書は学習法に関する基礎的、総合的概要書であり、最も生産的な勉学 のためにはどのように1 日の計画を立てるかといった実践的な助言も与えていた。また、言語、 哲学、歴史、科学等のあらゆる学問に対する案内があり、しかもそれらは、人格形成のみなら ず聖書の解釈にとっても必須であるとされている。ツヴィングリは 1526 年にチューリッヒ宗 教改革の教育プログラムに関する小冊子『小教本』(Lehrbüchlein)を書いているが、講話体で 書かれ教育方法論としての意味を持つブリンガーのこの著書は、彼のその後のチューリッヒで の教育カリキュラム、教材、教育目標の設定に大きく影響を及ぼし、さらにはツヴィングリに

7) Bruce Gordon, The Swiss Reformation (Manchester & New York, 2002), pp. 106-107.

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よって創設された「チューリッヒ学校」のその後の性格を決定づけた8)。即ち、ブリンガーがそ の発展に寄与する「チューリッヒ学校」の教育プログラムの基礎は、彼のカッペル修道院学校 での研究と教育実践の中で作られたと言って過言ではない。ツヴィングリが創設するプロフェ ツァイが始まる2 年前に、スイス初の改革派神学教育の基礎と「チューリッヒ学校」のモデル が作られていたことになる。 6 年間のカッペル時代、ブリンガーは説教や講義の他に執筆活動を活発に行っている。執筆 にあたっての彼の指針は、聖書とキリストの中心性であり、マタイによる福音書17 章 5 節の キリストのみに耳を傾けるという姿勢であった。この原則に基づいて、ブリンガーはあらゆる 教会や神学の問題に対応しようとしたのである。この時期特に彼が力を注いだのが、ミサ及び 聖餐の問題に関するカトリック教会との対決である。ブリンガーにとって聖餐とは、キリスト の死の記念であり、さらにはキリストの死に感謝するために信者達が集まることであった。ま た、聖餐は犠牲ではなく、キリストの血と肉を食することでもなく、パンと葡萄酒は象徴的に 理解されるべきものである。キリストはパンと葡萄酒に霊的に存在するのみで、実在するわけ ではない。このようなブリンガーの考察は、彼とツヴィングリを結びつけ、1524 年 9 月に両者 が会ったときにはこの問題を討議しているが、ブリンガーはこのような聖餐論に独自にたどり

8) Stephens, The Theology of Heinrich Bullinger, p. 24; Fritz Büsser, Wurzeln der Reformation in Zürich:

Zum 500. Geburtstag des Reformators Huldrych Zwingli (Leiden, 1985), pp. 207-208.

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着いている。神はまずアブラハムとイスラエルの民と、そしてその後にすべての民と契約を結 び、キリストの犠牲は、そのすべての人々との契約のしるしである。この犠牲は一回限りのも のであり、それ故にミサの必要性は否定される。また、ミサではパンと葡萄酒が神として崇め られ、公然たる偶像崇拝もミサから生じる。ツヴィングリの心穏やかな後継者というブリンガー のイメージは、ミサがローマ教会のあらゆる悪習の元凶であると強く主張する彼の姿を見ると、 修 正 さ れ る べ き で あ る 。 ブ リ ン ガ ー は こ の よ う な 契 約 神 学 (Föderaltheologie 或 い は Bundestheologie)を、彼の神学の中心の 1 つに据えることになる9) ところで、カッペル時代にブリンガーは先述のアンナと結婚を果たすが、その後アンナは疫 病で亡くなる1564 年までブリンガーを支え続けている。ブリンガーは、妻を伴って 1529 年か ら故郷ブレムガルテンで説教者となるが、町では宗教改革を支持するグループと反対派との間 で論争が続いていた。ブリンガーは、彼の父の後継者としてツヴィングリによってブレムガル テンに派遣されたジャーヴァス・シュラーと協力して故郷での改革運動を推進する10)。しかし、 1531 年 10 月にカッペルにおいてカトリック勢力が勝利しツヴィングリが戦死すると、ブリン ガーを取り巻く状況は厳しさを増す。ブレ ムガルテンを含むアールガウ州は、第2 次 カッペル戦争後カトリックの勢力が強く なり、結局ブリンガーはブレムガルテンを 離れチューリッヒに逃げ込むことになる。 しかし、当時チューリッヒでもプロテスタ ント指導者を取り巻く環境は厳しく、彼ら には市民による公開処刑の可能性も危惧 されていたと言われる。プロテスタント指 導者達のカトリック教会に対する好戦的 な説教が、結果的にチューリッヒにカト リック勢力との交戦という災いをもたら したと信じる市民によって、ツヴィングリ の関係者達は命を狙われる恐怖を感じて いた。チューリッヒ教会は、宗教改革開始 以降で最大の危機を迎えていたのである。 市政府も、牧師が政治的な説教によって

9) Müller, Heinrich Bullinger, pp. 23-24.

10) Emil Egli, hrsg., Heinrich Bullinger Diarium (Basel, 1904), 17: 1-19.

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チューリッヒの政治案件に介入することを二度と許さないとの立場を決めていた。その意味で は、チューリッヒから離れたブレムガルテンの地でカッペル戦役の直前の時期を過ごしたブリ ンガーは、ベルン、バーゼル、アッペンツェルからも招聘の誘いがあるほどの能力に加え、好 戦的な説教を行ったツヴィングリと距離があったと見なされ、ツヴィングリの後継者として厭 戦機運漂うチューリッヒに迎えるにはこの上ない人材であった。ブリンガー自身、彼がツヴィ ングリの後継者に選ばれた理由の一つに、カッペル戦争前の1531 年夏に誓約同盟の会議に参 加した代表達を前にした説教で、平和と団結を呼びかけ戦争によって計り知れない損失がもた らされることに対して警告を発したことを挙げている11) 2. チューリッヒ教会改革初期のブリンガー:市政府との協働と第 1 スイス信条 1531 年末にチューリッヒ教会の指導者(Antistes)に就任すると、ブリンガーはフラウミュ ンスター聖堂のハインリッヒ・エンゲルハルトやザンクト・ペーター教会のレオ・ユート等の 牧師達とともに市長ハインリッヒ・ヴァルダーに呼び出され、市政府の布告「カッペル高札」 (Kappeler Briefes)の第 4 条に基づき、戦争の主たる責任者である牧師を市政府の管轄下に 置き、彼らをすべての政治案件から遠ざけると告げられる。「カッペル高札」は、このような市 政府による教会支配と将来にわたって住民の意思に反し戦争を行わないことを誓っている。市 政府が意図したのは、チューリッヒ教会を市政府の組織の中に従属するものとして位置づけ、 市参事会が教区の管轄を担うことを規定することであった。一方ブリンガーは、上記の教会の 政治介入を禁止する市政府の見解は尊重しつつも、牧師が神の言葉を説教する自由については 一歩も譲る気持ちはなかった。市政府は、ブリンガーが政治的事項に対して介入しないことを 約し、さらに教会による市政府批判が度を超えた時には市政府による異議申し立てを認めたこ とで、ブリンガーの立場を基本的に承認している12)。その後ブリンガーのチューリッヒ教会と 市政府の関係は、両者が協力して宗教改革を推進していくという官憲的宗教改革(Magisterial Reformation)に基づき基本的に協調関係を維持していくが、時に両者の間で微妙な緊張を迎 えることもあった13)。官憲的宗教改革の対極には、世俗の権力教会支配はもちろんのこと両者

11) J.J. Hottinger und H.H. Vögeli, hrsg., Heinrich Bullingers Reformationsgeschichte (Frauenfeld,

1838-1840), III, 292f; Fritz Büsser, Heinrich Bullinger (1504-1575) Leben, Werk und Wirkung (Zürich, 2004) Band I, 94-95.

12) Hans Ulrich Bächtold, Heinrich Bullinger vor dem Rat: Zur Gestaltung und Verwaltung des Zürcher

Staatswesens in den Jahren 1531 bis 1575 (Bern und Frankfurt am Main, 1982), pp. 15-18; Andreas

Mühling, ‘Heinrich Bullinger as Church Politician’, in Bruce Gordon and Emidio Campi, eds., Architect of Reformation: An Introduction to Heinrich Bullinger, 1504-1575 (Grand Rapids, 2004), pp. 247-249.

13) 市政府との緊張関係の原因の一つは、チューリッヒ教会内に官憲と一体となった改革に消極的なレオ・

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の積極的協力をも否定する宗教改革急進派(Radical Reformation)があるが、チューリッヒに おいては、アナバプテスト論争がこの2 つの宗教改革を推し進める方法の違いと両者の対立が もたらした軋轢を象徴している。 このように、ツヴィングリ死後の1530 年代は、ブリンガーにとってはチューリッヒ教会再 建のための困難な仕事に直面した時期であった。チューリッヒ同様不安定な状況に追い込まれ ていたバーゼルやベルンといった他のスイス改革派諸都市との関係を再構築し、混乱の続く宗 教改革運動においてチューリッヒ教会の立ち位置を確立するために彼は尽力した。そのために ブリンガーが目指したのが、共通の信仰告白に基づくスイス改革派教会の一致協力であった。 その結果1536 年にバーゼルで起草され合意されたのが、ブリンガーも共同執筆者の 1 人となっ た第1 スイス信条(Confessio Helvetica Prior、第 2 バーゼル信条とも呼ばれる)である。ス イス改革派教会の一致を求めた第1 スイス信条の背景には、同じ頃にストラスブールの改革派 指導者ブツァーやカピト等とルター派のルター、メランヒトン、ヨハネス・ブーゲンハーゲン 等の間で持たれていた協議の影響があった。1534 年にカッセルでの会談で始まったこの協議 は、2 年後にはヴィッテンベルクに会談の場を移し、その結果両者は、メランヒトンが起草し たヴィッテンベルク協定(Wittenberger Konkordie)に合意する14)。プロテスタント教会の合 意と一致を実現させるために尽力したブツァーであったが、この協定で彼は、聖餐のパンと葡 萄酒の中にキリストの現在を説くルターの軍門に下った感がある。聖餐のパンと葡萄酒はキリ ストのまことの体と血であり、単に敬虔な者にだけでなく、受ける者の信仰の有無にかかわら ずキリストの体が与えられるという(manducatio indignorum)ルターの主張にブツァーは同 意したことになる。ルター派のもう1 つの教えであるキリスト遍在説(Ubiquitätslehre)につ いては、この協定では明確にされなかったが、聖餐の場でのキリストの客観的現在を、聖餐に 与る者の信仰の有無とは無関係であると合意した時点で、ブツァーの希求したルター派と改革 派の合意は表面上成立したが、この点に関してブツァーはスイス改革派教会の強い反発を受け ることとなる。そのような批判は、第1 スイス信条成立に向けての議論の過程でも顕著に見ら れた。 ルター派とチューリッヒ教会との間に横たわる聖餐論に関する相違は大きく、1525 年頃か ら表出するようになるこの対立は、神聖ローマ帝国と対峙するプロテスタント同盟を成立させ ようとするヘッセン方伯フィリップの仲介で 1529 年 10 月初めに開催されたマーブルク宗教

Heinrich Bullinger’s End-Times Agenda (Göttingen, 2019), pp. 51-57.

14) ブツァーはブリンガーに対してルター派との会談への参加を促すが、ブリンガーのルター派に対する不

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会議(Marburger Religionsgespräch)でのルター・ツヴィングリ会談でも解消しなかった。両 者は殆どの項目で合意しながらも、聖餐における「これわが体なり」とのイエスの言葉をめぐ るルターの実在説(キリストはパンとともに現臨するとする共在説)とツヴィングリの象徴説 の意見の相違は折り合うことができず、その後もブツァーが両者の仲介の役柄を担うも対立は 続いていく15)。さらに、このような仲裁の役割を担うブツァーに対して、チューリッヒ教会が 抱く疑念も徐々に膨れ上がることとなる。マーブルクでルター派との合意に至ることができな かった現実は、チューリッヒにおけるツヴィングリの対外政策をめぐる政治的立場の弱体化に 繋がった。さらに、他の宗教改革都市でも見られたように、個人の生活に対する教会の監視は 多くのチューリッヒ市民に不評であり、スイス国内のカトリック諸州との関係悪化に見られる 教会主導の一方的な外交政策は、カッペルの戦いの敗戦と教会指導者ツヴィングリの戦死後の チューリッヒ教会に批判が集中する要因となった16)。そのようなチューリッヒの状況とある程 度の距離を置き、ブレムガルテンで牧会に励んでいたブリンガーは、霊的及び教会政治上の能 力を兼ね備えた最適なツヴィングリ後継者であった。優れた神学者であるとともに、ブリンガー は教育者及び牧会者として卓越した力を発揮していく。 ブリンガーと同じようにツヴィングリも、エラスムスを尊敬するフマニスト(人文主義者) として知られる。彼の残された蔵書が示すように、ツヴィングリは多くの分野に知的関心を抱 き学問の探求を続ける知識人であったと同時に、心の中核部分に神の言葉に仕え牧会に従事す る強い意志を持ち合わせていた。この2 つは互いに齟齬をきたすことなく、ツヴィングリの心 の中では比較的容易に調整がなされている。ルターは神の義の解釈をめぐって内面的葛藤に陥 り、その結果ついに「信仰の義」の理解に到達することができたが、ツヴィングリには人文主 義と信仰の間の葛藤の痕跡は見られない。彼はいわゆる「スイス・フマニスム」(schweizerische Humanismus)の伝統に属し、歴史、哲学、自然科学等あらゆる学問の古典に接し、それらの 学びを神の言葉の宣教に結び付けることに何の違和感も覚えていなかった。ツヴィングリに とっては、人間の理性を重んじるフマニスムは神への奉仕と宗教改革への橋渡しをするもので、 両者に齟齬が生じると思われる場合には彼は迷わず後者を優先している。幼少期から音楽に親 しみ楽器を奏したと伝えられるツヴィングリが、説教を中心とした礼拝を重んじ、教会音楽の 必要性を認めず、オルガンも賛美歌も禁止したことはその一例である。また、エラスムスの教 えに反して予定説を唱えたのは、聖書の中で使徒パウロが明瞭にそのことを教えているとツ ヴィングリが理解したからである。ブリンガーにはツヴィングリほどの割り切りの良さはない

15) 会談の詳細は Walther Köhler, Das Marburger Religionsgespräch 1529 (Leipzig, 1929)を参照。 16) Hans J. Hillerbrand, ed., The Reformation: A Narrative History Related by Contemporary Observers

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が、フマニスムはブリンガーにとっても聖書の理解と信仰の大きな助けとなるものであったこ とは強調されてよい。一方、二王国論に基づき長い間カトリックの為政者に対する抵抗や武力 行使を認めなかったルターや、争いを好まず平和主義者であったエラスムス、同じくスイス改 革派教会の一致を目指す中で仲裁的立場を貫いたブリンガーとは違い、プロテスタント信仰の ためには戦争をも辞さないツヴィングリの態度は一体どこに由来するのであろうか。ローラン ド・ベイントンはそのようなツヴィングリの好戦的態度は、スイス人としての愛国心に由来す るとしている17)。ツヴィングリの愛国心の核心にはスイス誓約同盟(Eidgenossenschaft)があ り、誓約同盟によって生み出される国民的感情は、16 世紀のスイス・フマニスムにもつながる 現象であった。ブリンガーにはツヴィングリに見られるこのような愛国心の感情の高揚はない が、その理由としては、ブリンガーには国際的なバランス感覚や外交術が備わっていたことが 指摘されよう。 1531 年 12 月にブリンガーがチューリッヒで説教者としての活動を始めると、しばらくして 妻のアンナも娘のアンナとマルガレータを連れて同市に到着する。彼らはグロスミュンスター 聖堂の前に建つ「緑の城」(zum grünen Schloss)に居を構えるが、6 年後にはその隣の家に 引っ越している。ブリンガーのチューリッヒにおける44 年間は、彼の家とグロスミュンスター 聖堂、市参事会の本拠である市政府の3 か所を行き来し、歩いて数分の狭い範囲を活動域とす る生活であった。彼は短期間チューリッヒを離れることはあったが、人生の殆どをチューリッ ヒで過ごしている。それにもかかわらず、彼がスイス国内はもちろんのこと、ヨーロッパの宗 教改革者、為政者や諸侯とも頻繁に交信を持ち影響を行使できたことは驚きである。27 歳で チューリッヒに赴任したブリンガーにとって最大の課題は、チューリッヒの宗教改革を安定さ せることとチューリッヒ教会自体の改革であった。カッペルでの敗戦後の混乱の中で、教会が 市政府の案件に干渉しないことを約束し、他方で教会の説教の自由の保障を得ることで、教会 と市政府の間で信頼関係を確立することは容易ではなかった。そこでブリンガーは1532 年 1 月28 日に「預言者の職務について」(Vom Amt des Propheten, De prophetae officio)のテー マで教会指導者としての基本方針を述べ、預言者としての第1 の職務は牧師として神の言葉を 解釈することであると言明する18)。同年 6 月にブリンガーは、教会に対し「軽微な事項」(即 ち、非政治的事柄)のみ説教等で扱うことを求めた市参事会に対し、聖書が命じるところに反 する悪行に対してはそれを指摘することが説教者の「預言者としての義務」であるとして市参 事会に警告を発している。このように、チューリッヒ教会の指導者に就いた当初からブリンガー

17) Roland H. Bainton, The Reformation of the Sixteenth Century (Boston, 1956), pp. 80-81.

18) Daniël Timmerman, Heinrich Bullinger on Prophecy and the Prophetic Office (1523-1538) (Göttingen,

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から見れば、アナバプテストの諸要求は改革というよりは革命に近いものであり、宗教改革都 市の基盤を根底から覆す危険性を帯びていた。1523 年のチューリッヒ討論会以降、そして特に 1525 年の討論会では、急進派はツヴィングリの改革の速度を超えての迅速な改革の要求を チューリッヒ教会や市当局に突きつけ、新約聖書の言葉に基づく新たな共同体の形成を求めて いる。そこでは、神の言葉が語られ、幼児洗礼ではなく信仰の告白による洗礼(成人洗礼)や 私的な聖餐式が施行された。より進歩的立場を取る急進改革派の牧師達は、このような私的な 共同体である聖書研究会を開催し、聖書にその根拠がないとして幼児洗礼に反対の立場を表明 している。そして、ウィリアム・ロイブリン(William Reublin)はそのような集まりをチュー リッヒ近郊のヴィティコンで、クラウス・ホッティンガー(Klaus Hottinger)やヨハネス・ブ ロートリ(Johannes Brotli)はツォリコンでそれぞれ立ち上げている21)。ロイブリンは急進的 な改革運動を進めたためにバーゼルから追放され、ヴィティコンに落ち着いたのであったが、 通常であればチューリッヒ教会によって任命される牧師をヴィティコンの会衆は自分達で選出 している。このような牧師の選出権に加え、アナバプテストの要求は十分の一税の支払い免除 にまで及んでいる。ツヴィングリは『ローマ人への手紙』13 章に基づき、キリスト教都市にお ける市政府は神により付与された権威を保持しており、そのような世俗政府に抗することは神 に逆らうことと同じであるとの理解であり、税の取り立てもそのような市政府の権限の範疇に 属するものと考えていた22)。アナバプテストの急進的改革はこのような地域共同体に根差して おり、共同体的宗教改革(Gemeindereformation)と称することもでき、チューリッヒの官憲 的宗教改革の対極に位置づけることもできよう。 ところでロイブリンは1525 年に、ライン川に面してスイスと国境を接する南ドイツの町ヴァ ル ツ フ ー ト を 訪 れ 、 当 地 で 聖 職 者 を 務 め る バ ル タ ザ ー ル ・ フ ー プ マ イ ヤ ー (Balthasar Hubmaier)に聖書の教えに反する幼児洗礼の不当性を説き、ロイブリンに賛同したフープマ イヤーは彼の教区の信徒 30 人とともにロイブリンから成人洗礼を受けている。その後フープ マイヤー自身も 300 人に洗礼を施し、スイス兄弟団に教会の全会衆が加わった最初の事例と なった。フープマイヤーは、ドイツのフライブルク大学やインゴルシュタット大学の学位を持 つ知識人で実力者であった。彼はヴァルツフートからの追放後、チューリッヒ経由でモラヴィ 21) スイスにおけるアナバプティズムの発展の神学的基盤を築くカステルベルガー聖書研究グループ (Castelberger Lesekreis)は、このような私的聖書研究会の代表的なものである。チューリッヒの書店主 であり、スイス東部のグラウビュンデンで説教者としても従事したアンドレアス・カステルベルガー (Andreas Castelberger)が、この聖書研究グループの主催者となった。規模は小さいながらもこの聖書 研究グループには、ツヴィングリやブリンガーが整備しようとした神学校で後にチューリッヒ大学神学部 となるプロフェツァイと呼ばれる聖書研究グループに類似した側面もある。

22) 詳細は、C. Arnold Snyder, ‘The Birth and Evolution of Swiss Anabaptism 1520-1530’, Mennonite

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アのニコルスブルク(現ミクロフ)に至り、アナバプティズムの中欧への勢力拡大に貢献した が当地で火刑に処されている。アナバプテストは当局によって火刑に処されるか、石を付けて 川に沈められる溺殺に処されるか、斬首になる場合もあった。溺殺の代表例が、その殉教の様 子を描いたハインリッヒ・トマンの絵でも知られるが、チューリッヒ市街を流れるリマト川で チューリッヒ市当局によって溺殺されたフェリクス・マンツである。チューリッヒにおいて最 後に処刑されたアナバプテストはハンス・ランディス(Hans Landis)であり、マンツと同じ 場所での溺殺であったとも斬首であったとも伝えられている23)。現在チューリッヒ中央駅近く のリマト河畔には、マンツの溺殺場所に碑が置かれているが、マンツと並んでランディスの名 も碑に彫られている。チューリッヒ市当局によるアナバプテスト弾圧が顕著に見られるのは 1525 年からである。しかし、このような溺殺の場所が、官憲的宗教改革で指導的地位にあった チューリッヒであったがために注目を集めるが、アナバプテスト殉教者の数がチューリッヒを 凌駕する諸都市や地域はヨーロッパにいくつも存在した。アナバプテスト問題でチューリッヒ に注目が集まるのは、アナバプテスト運動の起源をグレーベルやマンツを中心としたスイス兄 弟団の運動、そしてその中心地たるチューリッヒに求める学者が多いことが一因である。そし てチューリッヒを起点に同運動は、ドイツやオランダ、さらには中東欧に拡散していったと考 えられる。もちろんこれには異論もあり、アナバプテスト運動のチューリッヒ起源説を否定し、

23) ハンス・ランディスについては、James W. Lowry, et al, Hans Landis: Swiss Anabaptist Martyr in

Seventeenth Century Documents (Millersburg, 2003)を参照。

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同運動の燃える火はヨーロッパの数か所で発火したとする見解も傾聴に値する24)。ただ、チュー リッヒを中心としたアナバプテスト運動が、敵対するツヴィングリや彼の後継者ブリンガーほ どのレベルではないが、きちっとした神学思想を伴って展開されていたことには注目すべきで ある。グレーベルやマンツは言うに及ばず、フープマイヤーも神学的素養で注目され、さらに は彼らの信仰告白である「シュライトハイム信仰告白」(Schleitheimer Artikel)は、官憲的宗 教改革の立場に立つチューリッヒ教会に対して、急進派独自の神学的枠組みを提供することと なった。この信仰告白成立の背景には、アナバプテスト指導者の処刑や追放が増えたことによ り、彼らにとっては当局からの迫害のみならず、一般信徒間及び地域間の分裂を阻止すること が喫緊の課題となっていた現実がある。このような状況下、ミヒャエル・ザトラーにより起草 され1527 年 2 月にシャフハウゼン近くのシュライトハイムで採択されたこの信仰告白は、前 書きと洗礼、破門、聖餐、牧師、剣等の7 項目から成り、スイス・アナバプテストのコンセン サスを図ると同時に、彼らの運動の神学基盤を確かなものとする意味合いがあった25) ブリンガーがツヴィングリを支援してアナバプテストとの論争に関与し始めた1525 年は、 その前年にドイツ南部やアルザスで起こった農民反乱がトーマス・ミュンツァーの指導下で拡 大し、農奴制の廃止要求や現存する権力や秩序の破壊に至り、反乱がスイスのいくつかのカン トンにも飛び火する状況であった。ちょうどカントンで広まった農民の不満が、アナバプテス トの教えに共鳴したと解釈してよいであろう。その後もアナバプテストとの抗争は終焉を迎え ず、ツヴィングリの死後も、ブリンガーはアナバプテスト問題に継続して対応する必要があっ た。教会と政治が一緒になって宗教改革を進めていく体制に対するアナバプテストの挑戦を排 除する必要があったが、その流れの中でブリンガーが最初に対峙しなければならなかった人物 はカスパー・シヴェンクフェルト(Kasper Schwenckfeld)であった。シヴェンクフェルトは、 幼児洗礼を否定するも急進派とは一線を画し、官憲的宗教改革とアナバプテスト運動の中間を 模索する人物であった。彼は、当初はルターの宗教改革と官憲的宗教改革の理解者であったが、 その後ルターと聖餐論等の意見の違いから袂を分かち、当時宗教的に寛容な町として知られた ストラスブールに1529 年から 1534 年まで滞在していた。この期間は、シヴェンクフェルトの 他にメルキオール・ホフマン等の急進派がストラスブールに流れ込む一方で、マルティン・ ビューサーが市政府と協力して教会の秩序ある改革に従事していた頃であった。シヴェンク フェルトのスイスの教会への影響は大きく、同時に彼自身も過去にツヴィングリをはじめスイ

24) James M. Stayer, et al., ‘From Monogenesis to Polygenesis: the historical discussion of Anabaptist

origins’, Mennonite Quarterly Review, vol. 49, no. 2 (April 1975), pp. 83-121.

25) シュライトハイム信仰告白については、Arnold Snyder, ‘The Schleitheim Articles in Light of the

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ス教会から神学上様々な影響を受けてきた。シヴェンクフェルトは聖餐においても洗礼におい ても、形式にとらわれず物事を内面化、精神化する傾向があった。外面的な行為によって恩寵 は与えられないとして、スイス教会の幼児洗礼や政教一致の政治体制に反対すると同時に、一 方ではアナバプテストの成人洗礼も外的シンボルにこだわり過ぎるとして拒否の態度を貫いて いる。彼は、個人の信仰、自己規律、自己救済(その意味でルターの「信仰による義」の概念 に異議を唱えた)といった個人の内面を強調し、「キリスト教世界」(corpus christianorum) といった概念のように教会を政治や社会との関係と結びつける考え方には同調しない。シヴェ ンクフェルトにとっては、集団のアイデンティティよりは信者個人が重要であり、信仰者の集 合体としての教会、況してや世俗政府と結びついた教会に対しては根底から拒否する立場を貫 いた26)。彼にとって洗礼とは、組織や機関の行為ではなく、あくまでキリスト信仰を告白する 個人的行為であった。自己と神との関係を注視し、極端なまで信仰を個人の問題として捉える シヴェンクフェルトの考え方は、多くの誠実な信徒にとっては魅力的な教説であった。目に見 えない教会を唱え、真実は内なる属性にあるとして外的な事柄は重視されなかった。そのため 個人の高い倫理感が要求され、アナバプテストが行った外的な宣教の努力は不必要とされた。 逆に、このようにそれぞれの集まりが小さく静かな運動であったために、彼の周りには自己の 信仰の内面を注視する多くの支持者が集まったとも考えられる27) カッペル戦争後、チューリッヒ教会指導者の1 人レオ・ユートがシヴェンクフェルトの影響 下に入るに至り、ブリンガーはこの人物の存在の危険性を認識する。ユートもシヴェンクフェ ルトも、中世後期のドイツ神秘主義や人間の内面に目を向け禁欲の中で自己認識を深めること を目指すデヴォツィオ・モデルナの精神性に関心を持ち、またその運動から生まれたトマス・ ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に心酔していった。シヴェンクフェルトの考え方は、官 憲的宗教改革を標榜するチューリッヒやスイス改革派諸都市にとって非常に危険な思想であっ た。その危険性は、三位一体説を否定しさらにはジュネーヴの権力体制を批判してカルヴァン により火刑に処されたミシェル・セルヴェ(Michel Servet)を擁護したセバスティアン・カス テリオ(Sebastian Castellio)が、政教分離を唱えるシヴェンクフェルト主義者であったこと からも理解できる。ストラスブール滞在を終えるとシヴェンクフェルトは南ドイツ各地を訪れ、 そこでも多くの支持者を得ることになる。多くの宗教改革指導者のモラル重視の説教よりは、 シヴェンクフェルトの霊性を重んじた牧会的説教に魅かれる聴衆は多かった。人格にも優れ博

26) R. Emmet McLaughlin, Casper Schwenckfeld: Reluctant Radical: His Life to 1540

(New Haven and London, 1986), pp. 126-136; George Huntston Williams, The Radical Reformation (Philadelphia, 1962), pp. 255-259. ‘Reluctant Radical’とは官憲的宗教改革を批判しながらも急進派にも 与しなかったシヴェンクフェルトの中間的立ち位置や態度を表すのには絶妙な表現である。

27) Donald F. Durnbaugh, The Believers’ Church: The History and Character of Radical Protestantism

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識であった彼はあらゆる階層の人々に好かれ、招かれた先で家族的な聖書研究祈祷会を開いて おり、このような秘密集会が南ドイツでは拡散している。コンスタンツの宗教改革者アンブロ シウス・ブラウラー(Ambrosius Blarer)やブリンガーは、彼の影響が南ドイツにとどまらず スイスにも拡散して教会の分裂に繋がるのではと危惧していた28)。シヴェンクフェルトはスイ ス誓約同盟内に一度も居住したことがなく、スイス改革派教会の一員でないにもかかわらず、 教会政治や文字による信仰告白よりは魂にやさしく語りかける彼の説教や教えに一部スイス人 も傾倒していったと言えよう。ブリンガーは特にキリスト論においてシヴェンクフェルトの「誤 謬」を論駁しようとしているが、それはブリンガーの危機感の表れと言って過言ではない29) 一方ブリンガーは、スイスのアナバプテストの起源についての完全史の執筆を手掛けている。 まず1531 年に『アナバプテストの恥知らずの冒涜について』(Von dem unverschämten Frevel

der Widertäufer)を刊行し、アナバプテスト問題に揺れる教会の指導者達に同書を送付してい る30)。さらに1560 年には『アナバプテストの起源』(Der Widertöufferen Ursprung)を執筆 して、アナバプテストの起源がチューリッヒ宗教改革であるとの言説を否定している。チュー リッヒ近郊のツォリコンやヴィティコンでのアナバプテストの聖書集会の活動はあったが、ツ ヴィングリ主義、或いはチューリッヒ教会自体が異端によって汚されていたという見解に対し ては強く否定する必要があり、ブリンガーはニカイアやカルケドン等初期の公会議の信条やイ レナエウスやテルトゥリアヌス等の教父の教えを改革派神学と結びつけることで、チューリッ ヒ教会の信仰の正当性を主張した。例えば、上記『アナバプテストの起源』は、イレナエウス の『異端反駁』を参考に執筆していることは明らかである。ブリンガーは、古代教会の信条の 中にはキリスト教信仰の永遠の真理が具現化されており、初期キリスト教の教義形成をあるが ままに受け入れることが、一般信徒の教化には必要であると考えていた31) 4. ブリンガーのルター派及びジュネーヴへの対応 話題をルター派との関係に戻すと、1540 年代にはチューリッヒはルター派との和解に関心 を失っていた。ルターがツヴィングリ神学に対し浴びせる罵声は激しかったが、1544 年に書か れたルターの『聖餐に関する短い告白』(Kurzes Bekenntnis vom heiligen Sakrament)は、 最終的にツヴィングリ主義者との関係を絶とうとする試みであった。マーブルク宗教会議で聖

28) Yasukazu Morita, ‘Bullinger und Schwenckfeld’ in Ulrich Gäbler und Erland Herkenrath, hrsg.,

Heinrich Bullinger 1504-1575 Gesammelte Aufsätze zum 400. Todestag (Zürich, 1975), II, 144-145.

29) Gordon, The Swiss Reformation, pp. 210-216.

30) J. Staedtke, hrsg., Heinrich Bullinger Werke (Zürich, 1972), I/1, 28, p. 18.

31) Mark Taplin, The Italian Reformers and the Zurich Church, c. 1540-1620 (London & New York, 2016),

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餐論は別として両者がある程度の合意に至ったのは、ツヴィングリ側が譲歩をしたからである。 その後、ツヴィングリのカッペル戦争での戦死と、聖餐論においてツヴィングリの考えに比較 的近いバーゼルの改革者エコランパディウスのその直後の死は、ルターから見ればスイス改革 派の誤謬に対する神の審判が下ったことを意味していた。そのような批判に対してブリンガー は翌年ルターに反論するが、その内容は両者の神学上の理解の相違に関するものではなく、相 手を侮辱するようなルターの態度に対する批判であった。ブリンガーは、神がルターを通じて なされたことを世界が評価していること、チューリッヒもルターの業績を認めてきたことに触 れるが、ルターが同じキリスト者を中傷する態度については、教会間の慈愛の繋がりを断つも のとして強く批判している。聖餐論においてツヴィングリ主義に対するルター派の批判が強ま る中で、ブリンガーは、聖餐の場でのキリストの現在についてお互いの意見が違うことを認め 合い、互いを尊敬し合って共存することがどうしてできないのか疑問に思っていた32)。真の教 会の印として平和と協調の重要性を強調するエラスムス的発想をブリンガーが保持していたこ との証左である。一方、1530 年にメランヒトンが執筆したアウグスブルク信仰告白を 1540 年 及び 1542 年にメランヒトン自身がやや柔軟な表現で部分修正した改定版(Confession Augustana Variata)をも、ブリンガーは受け入れを拒否している。 アウグスブルク信仰告白第10 条の主の晩餐に関しては、1530 年の原版(Invariata)にあっ たdistribuantur(distributed)や vere adsint(truly present)といった言葉がなくなり、代 わって改訂版にはvere exhibeantur(truly exhibited)が使用されている。改定内容に関する 解釈は色々あるものの、当時のルター派内外で起きたVariata に対する反応から判断すると、 メランヒトンがスイス改革派、特にカルヴァンとの合意に向けて一致点を模索する中で、やや 穏健な方向に舵を切って改定版を作成したと解釈して良さそうである。スイス改革派が嫌悪す るdistribuantur が削除され、彼らにとって受け入れやすい exhibeantur に変更されたと一般 には理解されている33)。これによって、キリストの体と血に「ふさわしくない者も与る」 manducatio indignorum(或いは、不信心者が与る manducatio impiorum とも称される)を 回避することができると、スイス改革派の神学者達は理解したであろう。実際、カルヴァンは 1540 年の改定内容に同意し署名している。実はカルヴァンは、どのようにキリストの体が我々 によって食されるか、その方法に議論を集中するのではなく、聖餐時に我々が御霊を通じ且つ 信仰を通してキリストの体と血とに与る事実に注目すべきであるとしている。彼にとっては、 パンと葡萄酒は霊的食物であり、主の晩餐とは恩寵を運ぶ手段であった。一方、表層的な合意

32) Andreas Mühling, Heinrich Bullingers europäische Kirchenpolitik (Bern, 2001), pp. 76-78; Gordon,

The Swiss Reformation, pp. 173-174.

33) Philip Schaff, The Creeds of Christendom (New York, 1919), I, 241 & III, 13; Karl Gottlieb

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に懐疑的であったブリンガーにとっては、メランヒトンの改定版でさえもチューリッヒが抱く ルター派への疑念を十分に晴らす内容ではなかった。実際、カルヴァンが標榜するプロテスタ ントの一致協力体制が確立されえるかどうかは、ブリンガーがこのアウグスブルク信仰告白の 改定版を受け入れることができるかどうかにかかっていたとも考えられるが、メランヒトンの 改定版は、その後本家のルター派によって否定されることとなる。 ところで、カルヴァンはファレルの説得に応じてジュネーヴの宗教改革に協力することにな り、1537 年には「ジュネーヴ教会規則」(Ordonnances ecclésiastiques)を市議会に提出し、 さらに「ジュネーヴ教会教理問答」を作成するが、改革のスピードに反発する市当局と対立し翌 年追放処分を受ける。そこでカルヴァンが逗留することになったのがストラスブールである34) ブツァーの影響もありカルヴァンがルター派も包括したエキュメニズムに目覚めるのは、この アルザスの宗教改革都市に滞在した3 年間の期間である。カルヴァンがブツァーに同行してフ ランクフルト、アグノー、ウォルムス、レーゲンスブルクでの会議に参加したことや、1540 年 にカルヴァンが出版した『主の晩餐に関する小論文』(Petit Traité sur la Cène)は、彼のエ キュメニズムへの傾斜を示唆するものである。以後 10 年間程カルヴァンは、プロテスタント 諸派の一致協力を実現するために、ブリンガーを孤立させないように配慮を続ける一方で、ブ ツァーに対し不信を抱くチューリッヒ教会からストラスブールの宗教改革指導者を守ろうと努 力する35)。ブリンガーがブツァーに対し否定的評価を下すようになった一因としては、イング ランド国教会の急進改革派であるジョン・フーパ―(John Hooper)のような「イングランド のチューリッヒ閥」(Anglo-Zurichers)から届く手紙の影響も大きかったと思われる。手紙の 中で彼らは、エドワード 6 世期に大主教クランマーによってイングランドに招聘されたブ ツァーをこき下ろし、イングランドの真の宗教改革の邪魔になる人物としてブツァーを描いて いる36)。ブツァー自身はルター派が唱えるキリストの遍在説を否定しているが、フーパーによっ てブツァーが遍在説支持者だとの噂を広められたことをブツァーは非難すると同時に、そのよ うなフーパーの意見を鵜呑みにしているとしてブリンガーをも批判している。このように「イ ングランドのチューリッヒ閥」の情報に頼るブリンガーは、エドワード6 世期やエリザベス 1 世期のイングランド宗教改革についての正確でバランスの取れた情報が得られていなかった可 能性が高い。いずれにせよ、1544 年に出されたルターの『聖餐に関する短い告白』がエキュメ ニズムの盛り上がりに水を差した側面はあったが、1540 年代半ばは、超教派の神学的合意に向 34) 久米あつみ『人類の知的遺産 カルヴァン』講談社、143-154 頁。

35) Jules Bonnet, ed., Letters of John Calvin (New York, 1972), I, 114, 171.

36) Hastings Robinson, ed., Original Letters relative to the English Reformation (Cambridge, 1846-7), I,

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けての関心が再度高まった時期であった。 同じ頃カルヴァンも、これまでも試みられたが実現しなかったプロテスタント各派の教理に 関する意見の一致の可能性を探ろうとしていた。当然のことながら、そのためにはスイス改革 派とルター派間の和解が必要であったが、当時の状況から判断すると、そのことは聖餐論にお けるルター派とツヴィングリ派の対立には一旦蓋をすることを意味していた。そこで、ブリン ガー自身はそれほど乗り気ではなかったが、まずはスイス改革派の教理の統一を図るために、 一連の交渉がカルヴァンとブリンガーの間で開始された。両者の間での書簡の交換やカルヴァ ンがチューリッヒに出向いての直接のやり取りの結果、1549 年 5 月に「チューリッヒ一致信 条」(Consensus Tigurinus)が合意される37)。カルヴァンのブリンガーへの積極的アプローチ の結果、ツヴィングリの時代とは違ってブリンガーには合意に向けての柔軟性があった。聖餐 論をはじめとする教理に関しては、ブリンガーにとって自身が尊敬するツヴィングリの重石は 軽くはなかったはずであるが、合意はカルヴァンの考えに近いところでまとめられている。聖 餐についても、第10 章で、見るべきはパンや葡萄酒といった「しるし」(signa)そのものでは なく、そこに付与された約束に注目すべきで、そこでは我々は信仰によってキリストに与るこ とができるとしている。さらに第12 章では、聖礼典自体に価値があるのではなく、聖礼典は聖 霊によって神がご自身の恩寵を我々に示す手段であると定めている。パンと葡萄酒が単なる「し るし」でないことをブリンガーが認めていたことは、1548 年 6 月のカルヴィンのブリンガー 宛書簡でも明らかである。この手紙の中でカルヴァンは、「地上でパンと葡萄酒によって認識す る時には、キリストを享受するために我々の心が天に引き上げられなければならないこと、こ の世のパンと葡萄酒を超えてキリストを探し求めるとキリストは天にあって我々と共にあるこ と、即ち『しるし』は決して中身のないものではないこと」をブリンガーと確認している38) ここで鍵となるのは、どのようにしてmanducatio indignorum を回避しつつ、ツヴィング リ流の空虚な記念論をも避け、聖餐におけるキリストの真の現在を保証することができるかと いう問題であった。それに対する答えが、スルスム・コルダ(sursum corda、心を持ち上げる) の考えである。スルスム・コルダは今日でも一部で聖餐(ミサ)の祈りの初めの対話の言葉と して使われるが、ここでは、信者の信仰に応えて聖霊が仲介者となり、信者の心を天に引き上 37) カルヴァンは 1547 年 2 月、48 年 5 月、そして「チューリッヒ一致信条」の合意に至った 49 年 5 月と

3 度 に わ た っ て チ ュ ー リ ッ ヒ を 訪 れ て い る 。 こ の 合 意 は Consensio mutua in re sacramentaria

ministrorum Tigurinae ecclesiae et D. Ioannis Calvini, ministri Genevensis ecclesiae, iam nunc ab ipsis

authoribus editaの表題で、1551 年にジュネーヴとチューリッヒで出版されている。Emidio Campi und

Ruedi Reich, hrsg., Consensus Tigurinus (1549) Die Einigung zwischen Heinrich Bullinger und

Johannes Calvin über das Abendmahl (Zürich, 2009), pp. 125-142, 381-386 (Chronologie des

Austausches zwischen Bullinger und Calvin).

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げて、聖餐において真に顕示されたキリストを享受できることを意味する。この理解は、キリ ストの人性は天にあるとするチューリッヒの立場にも対応している。実はブリンガーは既に 1532 年の段階で、聖餐におけるキリストの存在は、実質的なものではなく純粋に比喩的なもの であるとの考え方(sacramentarian view)を放棄し、聖礼典の順守はその実際的効力故に必 要であるとするサクラメント重視主義の立場(sacramentalism)に賛同している39)。スルスム・ コルダ論については、同じく改革派のア・ラスコやヴェルミーリも同意を表明している40) 結局、チューリッヒ一致信条では、両者が合意に至らなかった部分には触れず、カルヴァン とブリンガーの間の友好信頼関係を前面に出して、ツヴィングリ時代と違った新しい枠組みに 向けて足を踏み入れたと考えてよい。その意味では、神学上、教理上の違いをすべて克服した 合意ではないが、スイス改革派を代表するジュネーヴとチューリッヒの教会の間で妥協が成立 したことを内外に向けて宣言した事象であった。合意成立の過程において、ヌシャテルの宗教 改革者ギヨーム・ファレル(Guillaume Farel)が関与したが、他のスイス改革派諸都市は合意 に至る過程を知らされていなかったため蚊帳の外に置かれたと感じた都市もあった41)。そのた め一致信条は、ザンクト・ガレン、シャフハウゼン、グラウビュンデン、ヌシャテルの賛同は 得られたが、ジュネーヴとの間に様々な問題を抱えていたベルンやバーゼルの反発を招いた。 またドイツでは、メランヒトンの理解は得られたものの、ヨアヒム・ヴェストファル(Joachim Westphal)のような純正ルター派(Gnesiolutheraner)の神学者からは、一致信条はチューリッ ヒの考え方に支配された文書であると強い批判を浴びた42)。チューリッヒ一致信条は、政治的 事情によってベルン等からの疑念の表出はあったにせよ、ブツァーをはじめ多くの改革者をド イツ国外に追いやった1548 年のアウグスブルク仮信条協定(Augsburger Interim)に対する ブリンガーの神学的、政治的分析結果を反映したものと理解でき、さらに聖餐論において改革 派教会の一致の基礎が敷かれ点で、「スイス的解決」(schweizerische Lösung)と呼ぶに相応し い合意であった43)

39) B.J. Kidd, ed., Documents Illustrative of the Continental Reformation (Oxford, 1911), p. 651.

40) ア・ラスコはブリンガーとペリカン宛書簡で、「聖霊を仲介者とし信仰によって我々

の心は天に引き上げられることに私は同意し告白する。」と表明している。George Cornelius Gorham, ed.,

Gleanings of a Few Scattered Ears, during the Period of the Reformation in England and of the Times

Immediately Succeeding AD 1533 to 1588 (Cambridge, 1857), p. 32. ヴェルミーリも著書『ロキ・コンム

ネス(神学要覧)』(Loci Communes)の中で、聖餐の有効性における聖霊の働きの重要性に言及しスルス

ム・コルダ論を支持している。Peter Martyr Vermigli, Loci Communes (London, 1583), 1068-71.

41) ファレルは、ストラスブールへ向かう途中ジュネーヴに宿泊したカルヴァンを、ジュネーヴの宗教改革

に協力するようかなり強引に説得したことで知られる。G. Baum, E. Cunitz, E. Reuss, eds., Ioannis

Calvini Opera quae supersunt omnia (Berlin, 1863-1900), Tome 31, 23-6 (Corpus Reformatorum edition).

42) Gary W. Jenkins, Calvin’s Tormentors (Grand Rapids, 2018), p. 133.

43) Thomas Maissen, ‘Die Eidgenossen und das Augsburger Interim: Zu einem unbekannten Gutachten

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ニウスの本来の神学はストラスブールのブツァーに近いもので、信条においては、ルター派も 含めたプロテスタント各派の統一を願っており、スイス改革派諸教会の不信を買うこともあっ た。しかし、ミコニウスはツヴィングリの同労者であったこともあり、ブリンガーによる評価 は決して低くはなかった。 ところが、ベルンでツヴィングリ主義者との論争に敗れたズィーモン・ズルツァー(Simon Sulzer)がバーゼルに移り住むと状況は一変する。ズルツァーが離脱に追い込まれたベルンの 教会は、ツヴィングリとも親しくブリンガーとカルヴァン主義者の仲を取り持ったベルヒトル ト・ハラー(Berchtold Haller)によって長らく治められていた。カッペル戦争後、ブリンガー がチューリッヒで担った対外及び対市政府との難しい舵取りを、ハラーは同労者のフランツ・ コルブ(Franz Kolb)と共にベルンで行ったと言ってよい。心優しいハラーはブリンガーへの 手紙の中で、アナバプテスト問題で市政府との間に齟齬があることを認めている。処刑も含め た厳罰を求める市政府に対しハラーは、社会的騒乱へと導く者以外については穏健な対応の必 要性を訴えている。ツヴィングリやブリンガーの時代のチューリッヒと同様に、結局はベルン においてもアナバプテストに対する厳罰は回避できなかったが、アナバプテストに対する基本 的考えがハラーとブリンガーは近かったと言えよう45)。ハラーの死後、ベルンで教会指導者と なったズルツァーは、神学的には過去に学んだ地であるストラスブールとの関係に傾斜する。 このようなズルツァーが1552 年にペストで亡くなったミコニウスを継いでバーゼルで行った 30 年に及ぶ教会統治は、ブリンガーとカルヴァンによるチューリッヒ一致信条の路線からは距 離を置き、ルター派とスイス改革派の和解の可能性を探るストラスブールのブツァーやカピト に近接することになる。バーゼルのブツァーへの傾斜は、既に1530 年代、40 年代のミコニウ スの時代から見られたものであったが、ズルツァーの時代により顕著になった。ズルツァーが ヴィッテンベルク協定に同意していたことを考えると、彼の神学がブツァーやメランヒトンに 極めて近かったと解釈できる。一部ではズルツァーをルター派と断じる声もあったが、実際は ルター派とスイス改革派の中間を行く彼は、1560 年代を通じてブツァーを神学上の案内役と して尊敬していた46) ズルツァーがバーゼルに移った頃、入れ替わりにアウグスブルクからベルンの町に移り住ん 「しるし」とするなどツヴィングリ神学を彷彿させるが、聖餐におけるキリストとの霊的交わりをも強調 している。『信条集』前篇、新教出版社、288-289 頁。

45) ハ ラ ー の ブ リ ン ガ ー 宛 書 簡 は 、 Ulrich Gäbler et al., hrsg., Heinrich Bullinger Werke, 2. Abt.:

Briefwechsel (Zürich, 1982), Bd. 2, pp. 236-238 に掲載。ハラーについては、Global Anabaptist Mennonite

Encyclopedia Online の ‘Berchtold Haller’を参照。

46) Amy Nelson Burnett, Teaching the Reformation: Ministers and their Message in Basel, 1529-1629

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だのはウォルフガング・ムスクルス(Wolfgang Musculus)であった。彼もヴィッテンベルク 協定を支持した過去を持つが、ルターはかつてムスクルスをツヴィングリ主義者と見なしてい た。しかし実際は、彼自身の神学はチューリッヒとルター派の中間に立つものであった。ズル ツァーと異なり、ムスクルスにはブリンガーの後ろ盾があり、実際ベルンがムスクルスを受け 入れる際には、ブリンガーのベルン市参事会に対する強力な推薦があった。ムスクルスとチュー リッヒを繋ぐもう一つの共通の概念は、両者の官憲的宗教改革に対する考え方である。説教の 自由を主張しながらも、教会が世俗の諸問題や市当局の政務に干渉せず、教会と市政府の相互 理解を打ち立てようとする姿は、ジュネーヴには見られない光景であった。教会が世俗社会の 諸問題についても主導権を握ることを標榜し、教会事項に関する世俗権力の役割についてムス クルスと論争を演じたカルヴァンにとっては、世俗権力から独立した権威を教会が持つことを 放棄したようなムスクルスやチューリッヒの官憲的宗教改革は理解に苦しむ考え方であった。 ムスクルスの見解は、ブリンガーの後継者となるルドルフ・グヴァルター((Rudolf Gwalther)) に大きな影響を与えている47) ところで、ブツァーやルター派に傾くズルツァーの他にも、バーゼルにはチューリッヒ一致信 条に疑惑の目を向ける分子が存在した。そのような反発は、チューリッヒに対してというより は主にカルヴァンに向けてのものであった。ミシェル・セルヴェを擁護しカルヴァンを批判し たカステリオやイタリア人亡命者のチェリオ・セコンド・クリオ-ネ等急進的な思想家がバー ゼル大学で教鞭をとり、自由な研究教育環境を醸成するとともに、彼らは教義に対するカルヴァ ン流の厳格な形式主義には強い反発を抱いていた。彼らは、セルヴェに対しカルヴァンが下し た厳格な処罰に対し、或いは二重予定説に対して疑念を表明して1551 年にジュネーヴから市 外追放となったジェローム・ボルセック(Jérome-Hermès Bolsec)をめぐる論争でカルヴァン 批判を繰り広げた。二重予定説については、ズルツァーもカルヴァン批判の列に加わっている。 後述するように、二重予定説は 1560 年初めにチューリッヒにおいても大きな論争となった。 さらに、1562 年になるとズルツァーとブリンガーの関係悪化が見られる。エコランパディウス が作り上げた改革派教会の伝統をズルツァーが徐々にルター派に近づけようとしているとの疑 念がブリンガーやカルヴァンにはあった。一方、ブリンガー神学が第1 バーゼル信条に一致し ないとの指摘もバーゼルから上がり、さらに聖餐におけるキリストの現在をブリンガーやツ ヴィングリ主義者は拒否していると彼らは感じていた。このような批判に対しては、ブリンガー がツヴィングリの象徴説に戻ったというよりは、バーゼルの教会がエコランパディウスの改革 派神学から徐々に離れストラスブール或いはルター派に傾斜したため両者の距離が拡大したと

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