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改革派認識論と宗教的多元主義の問題

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(1)

著者 三宅 威仁

雑誌名 基督教研究

巻 69

号 2

ページ 1‑22

発行年 2007‑12‑12

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011751

(2)

改革派認識論と宗教的多元主義の問題 1

Reformed Epistemology and the Problem of Religious Pluralism

三宅 威仁

Takehito Miyake

キーワード

改革派認識論、宗教的多元主義、宗教的排他主義、認識的確率、認識的同等性、保証

KEY WORDS

Reformed epistemology, religious pluralism, religious exclusivism, epistemic probability, epistemic parity, warrant

要旨

 数多くの共立不可能な宗教がこの世界に存在しているという事実は、或る特定の有 神論的信念体系の排他的受容可能性にとってディフィーターとなり得るのだろうか。

宗教的多元主義からの「宗教の多元主義的状況は古典的キリスト教が真であると信ぜ られる確率を減ずる」という挑戦と、「無数の多種多様な宗教に直面しながら或る特 定の宗教的信念体系を抱き続けるのは道徳的に、或いは認識的に恣意的であり、傲慢 ですらある」という批判に対し、改革派認識論は「キリスト教の諸信念はキリスト者 にとっては、他宗教の諸信念にはない保証、即ち知識の源泉を有しているので、両者 は認識的に同等ではなく、前者を排他的に抱き続けるのは正当である」と応じる。

SUMMARY

 Can the fact that there exist a great many incompatible religions in this world make a defeater for the exclusive acceptability of a specific system of theistic beliefs? Some religious pluralists challenge exclusivists by arguing that a plurality of religions makes classical Christianity improbable or that it is morally or epistemically arbitrary or egoistic to accept a specific system of religious beliefs in the face of a plurality of diverse

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2

religions. Reformed epistemology maintains that, for Christians, Christian beliefs have warrant or a source of knowledge to which the adherents of other religions do not have access, and thus Christian beliefs and other religious beliefs are not on an epistemic par so that it is justified to hold Christian beliefs exclusively.

 プランティンガ(Alvin Plantinga)、ウォルターストーフ(Nicholas Wolterstorff)、

オールストン(William P. Alston)らのキリスト教哲学者に代表される改革派認識論 の目的は、有神論的(特に古典的キリスト教の)信念の合理的受容可能性を弁護する ことにある。そうした意図を持つ改革派認識論は、キリスト教的信念体系の認識論 的合理性を揺るがしかねない問題の一つひとつに対して反論を加えるという課題を 負っている。一般に、信念(belief、真として信ぜられている命題)の合理的受容可 能性を打ち破る条件のことを「ディフィーター」(defeater)と呼ぶが、伝統的なキ リスト教の諸信念にとってディフィーターとなる可能性を秘めている事柄としては、

例えば悪の問題、聖書の歴史批判的研究、ポストモダニズムなどが挙げられる。こ れらに加えて、宗教的多元主義(religious pluralism)もその候補となり得よう。無 数の多様な宗教がこの世界に存在しているという事実は、或る特定の有神論的信念 が、とりわけ古典的キリスト教の諸信念が真であるという確信を脅かさないのであろ うか。

 本論では宗教的多元主義が改革派認識論に対して投げ掛ける問題と、それに対する 改革派認識論の応答について考察する。まず〔〕宗教の多元主義的状況において改 革派認識論の取る立場が排他主義であることを明らかにする。次にプランティンガを 取り上げ、〔2〕ではシェレンバーグ(J. L. Schellenberg)からの、〔〕ではW.C.

スミス(Wilfred Cantwell Smith)とガッティング(Gary Gutting)からの挑戦に、彼 がどう対処しているかを紹介する。最後に〔〕宗教的多元主義に対する改革派認識 論の応答に見出される問題点を指摘する。

1.宗教的多元主義に対する改革派認識論の基本的立場:排他主義

 この世界には多種多様な宗教が無数に存在している。これを宗教の多元主義的状況 と呼ぶことにすると、ランゾ(Joseph Runzo)はこの状況に対して人間の取り得る立

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場として「無神論」(Atheism、「宗教否定主義」の意味で用いられている)「宗教的 排他主義」(Religious Exclusivism)「宗教的包括主義」(Religious Inclusivism)「宗教 的主観主義」(Religious Subjectivism)「宗教的多元主義」(Religious Pluralism)「宗 教的相対主義」(Religious Relativism)の6種を挙げている。このうち「宗教的排他 主義」は、一般に多元主義の側から付与される他称であることが多いと言われている が、改革派認識論は自らが排他主義的立場を取ることを自覚的・積極的に公言してい る。

 改革派認識論は、アメリカ合衆国に移入されたオランダ改革派6の、しかも保守的 な(彼らは「古典的な」〔classical〕という語を好むが)信仰を抱いているキリスト 教哲学者によって構築された。彼らはキリスト教の様々な命題を「字義通り」

(literally)真であると信じている。

 プランティンガの挙げている例を示すと、有神論的信念体系の中には以下の()

のような信念が、キリスト教的信念体系の中には(2)のような信念が含まれてお り、キリスト者は()や(2)を字義通り信じている、と言う(なお、「有神論的」

〔theistic〕という語はここでは「一神教的」の意味で用いられている)。

()世界は神によって造られた。神は全知全能で完全に善なる人格的存在者

(信念を抱き、目的や意図を持ち、それらを達成するために行為することができ るような存在者)である。

(2)人間は救済を必要とする。神は、神の子の受肉・生涯・贖罪死・復活に よって救済の独自な道を備えた。

 プランティンガによれば、()や(2)を字義通り信じているキリスト者は必然的 に、 こ う し た 信 念 と 論 理 的 に「 共 立 不 可 能 な 」(incompatible) 諸 信 念 を「 偽 」

(false)として否定することになる。「それが論ロジック理というものである」(that’s just

logic)(ここで、「字義通り」という語が何を意味しているのかという疑問と、「真

として信ぜられている諸信念と論理的に共立不可能な諸信念は偽として否定するのが 当然の論理的帰結である」という判断に問題がありはしないかという疑問が湧くが、

この点については以下の〔〕で論ずる)。

 こうして改革派認識論の立場が必然的に「排他主義」であることは明らかだが、し かし、これだけではまだ「排他主義」と呼ぶことはできず、そう呼ぶためには次の二 つの条件が付く、とプランティンガは言う。第一の条件は、宗教の多元主義的状況に ついて或る程度熟考したことがあること。即ち、この世界には他の様々な宗教が存在 しており、それらの信徒たちの多くが極めて知的で、道徳的に卓越し、霊的な洞察力

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も備えている、といったことについて思いを巡らせた後、なおかつ自らの宗教的信念 体系のみを真であると信じる場合に限る。そもそも他の選択肢の存在を知らなけれ ば、「排他主義」とは呼べないわけである0

 第二の条件は、或る特定の宗教的信念体系(ここで問題になっているのは保守的キ リスト教の諸信念)が真であることを例示する「実証」(demonstration)や証明する

「議論」(argument)が欠如していること。或る特定の宗教的信念体系が真である証 拠や証明が存在し、理性的な人間であれば誰でもそれを受け入れるというような場合 は、その信念体系を受け入れたからといって、「排他主義」とは呼ばない

 この点を例示するために、プランティンガはトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)やゲーデル(Kurt Gödel)を引き合いに出しているが、私なりに簡単な例 を挙げてみよう。ここに「地球は丸い」という命題と「地球は平らだ」という命題が あるとする。現在では地球が丸いことを例示する実証や証明する議論が多数ある。そ こで、そうした例証や証明を提示された後もなお「地球は平らだ」と考えている人間 は、或る主義主張を選び取ったのではなく、単に非理性的・非合理的・非論理的なだ けである。「地球は丸い」という命題と「地球は平らだ」という命題のいずれにとっ ても、大半の理性的な人間を納得させる例証や証明がない場合にのみ、どちらかの命 題を選び取って信じるということが起こり得る。同様に、いずれかの宗教の信念体系 だけが真である明々白々な例証や証明があれば、それを受け入れるのが合理的、拒否 するのは非合理的ということになる。そうした例証や証明がない場合にのみ、「排 他主義」や「包括主義」や「多元主義」などの立場を選び取ることができるのであ る2

 プランティンガの挙げている以上の二つの条件に、極めて基本的な事柄として、

オールストンの指摘している次の条件を付け加えてもよいであろう。即ち、それぞれ の宗教的信念体系は、それぞれの信仰共同体において信ぜられるに足るだけの根拠を 有 し て い る こ と。 言 い 換 え れ ば、「 有 意 味 な 内 的 正 当 化 」(significant internal

justification)が存していること。この条件によってオールストンが意味しているの

は、例えば信ずるに足る宗教的信念体系は内的整合性(首尾一貫性)を備えていなけ ればならない、といったことである。或る信念体系が論理的に支離滅裂であれば、そ うした信念体系を真であると信じること自体が既に認識論的過誤を犯していることに なるだろう

 改革派認識論はこのように排他主義を選び取るが、当然のことながら、多元主義の 立場から批判の加えられることが予想される。次に、改革派認識論の主導者であるプ ランティンガを取り上げ、彼が宗教的多元主義の何を挑戦として受け取り、それにど う答えているかについて、彼の最近の代表作である『保証されたキリスト教信仰』

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(Warranted Christian Belief)を手掛かりとして考察してみよう

 プランティンガは大きく分けると二つの問題を取り上げている。一つ目は、宗教の 多元主義的状況は或る特定の宗教的信念(古典的キリスト教)が真であると信ぜられ る確率を減ずる、という挑戦である。二つ目は、無数の多種多様な宗教に直面しなが ら或る特定の宗教的信念体系を抱き続けるのは道徳的に、或いは認識的に恣意的であ り、傲慢ですらある、という批判である。

2.宗教的多元主義は確率論的ディフィーター(probabilistic defeater)か

a.シェレンバーグの挑戦

 シェレンバーグ(J. L. Schellenberg)は、相容れない複数の宗教的信念の存在に気 付くと、或る特定の宗教的信念に対する確信が弱まる、と主張する。彼によれば、或 る認識主体Sが或る宗教的信念rの確率を他の考えられ得るどの選択肢の確率よりも 高いとみなしているとしても、その宗教的信念rは、次の場合、真だとは思われなく なる。即ち、「その信念の確率が他の相互に排他的な選択肢のそれぞれの確率を上回 る回数より、それらの選択肢の数のほうが勝っている場合である」6

 シェレンバーグの以上の理論を、具体例を補って説明してみる。例えば、或るキリ スト者が「神は三位一体である」という信念r0を抱いているとしよう。他宗教にお いてこの信念に相当する選択肢としては、

r「ヤハウェの他に神があってはならない」

r2「アッラーは唯一である」

r「悉有仏性」

といった命題が挙げられる

 今、このキリスト者がr0の確率とrの確率を比較し、r0の確率の方が勝っている と判断したとする。同様にr0の確率はr2にもrにも勝っていたとする。ここまでで

rの確率は他の選択肢のそれぞれの確率を回上回ったのであり、これをr、r、r6

…rnと続けたとする。すると、r0の確率は他の選択肢のそれぞれの確率をn回上 回ったことになるが、選択肢がn +α個存在している場合(r0の確率が他の選択肢の それぞれの確率を上回る回数よりも、他の選択肢の数の方が多い場合)、r0の真であ る確率は著しく減ぜられる、というのである。       

 或いは、シェレンバーグは単純に、次のようにも語っている。「キリスト者は自分 の信念に高い確率を付与しているであろうが、それでも、他の選択肢の確率を合算し たものが彼女の信念の確率を上回るのを妨げるほどには高くない」ということは極 めてありそうに思われる、と。

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6

 シェレンバーグのこの批判に対するプランティンガの応答を見る前に、まず確認し て お き た い の は、 こ こ で 問 題 に さ れ て い る 確 率 が「 認 識 的 確 率 」(epistemic probability)だということである。認識的確率とは、数学的確率や統計学的確率では なく、正確に定義するのは困難だが、或る理性的な主体Sが或る状況kにおいて命 題qよりもpを真であるとして信ずる場合、Sにとってkにおいてpの認識的確率は qよりも高い、と言われる9。簡単に言い換えると、信念の確からしさ・本当らしさ のことである。そして、この確率を判定するのは認識主体自身であるということも、

ここで確認しておきたい。

 シェレンバーグの上記の議論を聞くと、結局、或る宗教的信念の確率が他の選択肢 の確率の合計によって揺らぐかどうかは、自分の信念に対する確信の強さ(どれだけ 強く自分の信念に確信を抱いているか)にかかっているように思われる。自分の宗教 的信念に対する確信が強ければ、つまりその信念の認識的確率がほぼであれば、他 のいずれの選択肢の確率もほぼ0となり、後者の確率をどれだけ足してもほぼ0にし かならないからである。反対に、自分の宗教的信念に対する確信が弱ければ、他の選 択肢の確率の合算はすぐに前者の確率を上回ってしまうことだろう。プランティンガ も、それと同様のことを少し異なった言い方で述べている。即ち、彼は宗教的信念の 確信をどこから得ているか、確信の「保証」(warrant)20は何か、を問題として論じ ている。

b.プランティンガの応答21

 上述したように、信念の認識的確率を判断するのは認識主体自身なのだが、プラン ティンガはまず、認識者は或る信念の確率を何に照らし合わせて判定するのか、とい う問いを提起する。例えば、ここに「イエス・キリストは神の子である」という命題 があるとする。キリスト者が、自分が既に受け入れているキリスト教の諸信念に照ら し合わせてこの命題の確率を判定する場合、確率は常に1である。「イエスは神の子 である」という命題はキリスト教の信念体系を構成している諸命題の一つであるか ら、その認識的確率は必然的に1になる。だとすれば、シェレンバーグが問題にして いるのは、キリスト者が或るキリスト教的信念の確率を、彼女が既に受け入れている 他の(キリスト教以外の)諸信念に照らし合わせて判定する場合のことであろう。

 仮に、キリスト者の信じている全ての信念の集合から、キリスト教の諸信念だけを うまく切り離せたとする。残りの信念によって構成される下位集合に照らし合わせた とき、何らかのキリスト教的信念が真でないように思われるのは起こり得ることであ る。だが、そうだからと言って、そのキリスト教的信念の信憑性が低減するとは限ら

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ない。

 プランティンガの挙げている例を紹介してみる。或る人がトランプ・ゲームのブ リッジをしている。配られた手札を広げて見たところ、7と8が全て入っている。こ れは彼女の持っている数学的諸信念に照らし合わせた場合、殆ど起こり得ないように 思われる。しかし、そうだからと言って、彼女は「自分の手札の中にとが全て含ま れている」という信念を捨て去りはしない。なぜなら、この信念は、彼女の数学的諸 信念とは無関係に、別の根拠、即ち「全ての7と8を目の当たりにしている」という 直接的感覚に基づいて、形成されているからである。

 また、本来ならここでプランティンガが挙げるべき例を、私が彼に成り代わって述 べてみよう。例えば、或るキリスト者が「イエス・キリストは復活した」という命題 を信じているとする。しかし、彼女の信じている全信念の中からキリスト教の諸信念 だけを切り取った残りの信念、特に生物学的諸信念に照らし合わせてみた場合、この 命題が本当らしく思われる確率は著しく低くなる。一旦死んだ人間が生き返ることは 生物学的にはあり得ない。それにも拘らず、彼女はこの信念を抱くことをやめはしな い。なぜなら、この信念は、彼女の生物学的諸信念とは全く異なった「保証」を有し ているからであり、その保証とは、改革派認識論によれば、「神性の感覚」(sensus divinitatis)22であり、「聖霊の内的諭し」(internal instigation of the Holy Spirit)2で ある。「神性の感覚」とは「様々な状況においてわれわれの中に神についての諸信念 を生み出す」能力或いは認識メカニズムである。人間に生来的に備わっているこの能 力は、しかしながら、人間の罪によって損なわれた。そこで、神は聖霊によって人間 に働き掛ける。人間は聖霊の内的諭しに促されて聖書を読むとき、信仰が形成され、

神性の感覚が回復し、神についての諸信念を形成できるようになるのである。

 つまり、ここでも議論の要点は、改革派認識論の根本命題「キリスト教の諸信念は 適正に基本的であり、いかなる証拠によって基礎付けられていなくとも合理的であ る」に立ち戻ることになる。この根本命題によれば、キリスト者はキリスト教的諸信 念を、日々の経験から直接的に得る。即ち、キリスト者は一輪の花を見ても夜空の星 を見ても、「神がこれを創造された」と考える。その信念の確かさは、「私は花を見て いる」という感覚的知覚による信念と同様に強い2。その信念の強さは、たとえ他宗 教の選択肢を提示されたとしても揺らぐことはない、と改革派認識論は主張するので ある。

3.恣意性

 宗教の多元主義的状況に直面しながら或る一つの宗教を排他的に選び取ることは、

(9)

道徳的に、或いは認識的に恣意的であるのだろうか。ここで、「道徳的恣意性」

(moral arbitrariness)とは、自分とは異なった信念体系を抱く数多くの人々の存在に 気付き、かつ自分の信念体系が真であることを反対者に納得させるだけの証拠や議論 がないにも拘らず、依然として或る特定の信念体系を抱き続けることにおけるエゴイ ズムや傲慢さのことである2。また、「認識的恣意性」(epistemic arbitrariness)と は、「同じ事例を同じように取り扱う」(treat similar cases similarly)26という認識的 義務を果たさず、「同じ条件下にあるものを異なった仕方で取り扱う」という過誤を 犯すことである2

 この問題に対し、プランティンガは抽象的なレベルと具体的なレベルの両方で議論 を展開している。

a.抽象的議論

 プランティンガは宗教的多元主義者の著作の中に、排他主義に対する次のような批 判を読み取る。即ち、或る特定の宗教的信念を他の多くの人々が信じておらず、また それらの人々を説得するだけの議論もないことが分かっている場合に、その信念を信 じることは傲慢だ、という批判である。プランティンガはW. C. スミス(Wilfred Cantwell Smith)の次の言葉を引用している。

 思い遣りの欠如や規範からの逸脱といった損害なしには、世界へ出掛けて行 き、信仰深くて知的な同胞の人間に向かって「私たちは救われているが、あな たがたは呪われている」とか「私たちは神を知っていると信じており、私たち は正しい。あなたがたも神を知っていると信じているが、あなたがたは全く間 違っている」と言うことは、道徳的に可能ではない。2

 プランティンガはまたヒック(John Hick)の同様の発言も引用し、これらの宗教 的多元主義者は結局のところ、抽象的に表現すれば次のような議論を展開しているの だ、と主張する。

()もし主体Sが、他の人々が命題pを信じていないことを(そして、他の 人々にpを納得させるだけの議論を見出せないことを)知っているとすれば、S はpを信じるべきではない。29

 しかし、多元主義者のこの主張は自家撞着に陥っているとプランティンガは言う。

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9 プランティンガによれば、命題()や(2)に対する立場は次の種があるのみであ る。

①それらを信じる。

②チザム(Roderick Chisholm)の言う意味で、それらを差し控える(withhold)。

③ それらの否定(denial)を信じる。0

 宗教的多元主義者は①の立場が他宗教の信徒に「不快感を与える」(offending)と 主張している(そうプランティンガは解釈している)。そこで、①の立場を否定する 多元主義者は②か③の立場を取ることになる。しかし、③の立場を取ったとしても、

他の人々を不快にするという点では同じである。ヒックのような多元主義者は()

や(2)のような命題を、究極的な「実在」(the Real)に対する有効な応答とみなし ているのかも知れないが、字義的には偽であると考えている(プランティンガによる このヒックの解釈は正しいのであろうか。ヒックは無限で超越的な実在そのものと、

人間によって考察された限りでの実在とを区別し、それによってキリスト教の信念体 系と他宗教の信念体系が共立可能であると認めた。この点については〔〕で考察す る)。つまり、()や(2)の否定を信じていることになる。すると、③の立場を取る 多元主義者にも上記()の議論がそのまま当て嵌まる。つまり、()や(2)の否定 を信じていない人々が大勢おり、かつそうした人々に()や(2)の否定を納得させ るだけの議論がないにも拘らず、()や(2)の否定を信じ続けることは傲慢だ、と いうことになってしまうのである。こうして()の議論を振りかざして①の立場を 攻撃しながら、自らは③の立場を取っている多元主義者は、自らが()の議論に よって禁じている過誤を犯していることになる

 ③を取り得ないとすれば、宗教的多元主義者に残された立場は②ということにな る。②の立場を取る宗教的多元主義者、つまり()や(2)のような命題を信じるこ とも否定することも差し控える多元主義者のことを、プランティンガは「保留的多元 主義者」(abstemious pluralist)と呼ぶ。しかし、この立場もやはり傲慢でありエゴ イスティックである、とプランティンガは言う。「差し控える」ことは、③のように 真 っ 向 か ら「 反 対 す る 」(contradicting) こ と で は な い が、「 同 意 し な い 」

(dissenting)というやり方で、やはり①の立場の人々を批判していることになる。つ まり、差し控えるのがよいという価値判断を下しているからには、差し控えることを しない立場の人々を暗黙裡に見下げていることになる。保留的多元主義者は、()や

(2)の命題を信じている人々を「ナイーヴ」「正当化されていない」「基礎付けがな い」「最適でない」などとして非難している、とプランティンガは言うのである2

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0

 差し控えるのが正しいと判断することによって、信じることは不適切で劣ったこと として見下している――プランティンガによってそう批判された宗教的多元主義者 は、そうした価値判断そのものを差し控えようとするかも知れない。①や③の立場よ りも②の方がよいという判断そのものを差し控えるということである。しかし、そう すると、多元主義者は「単に差し控えている」だけのことになり、①や③の立場の 人々を傲慢やエゴイズムの故に批判する根拠がなくなってしまう、とプランティン ガは言う

 要するに、宗教的多元主義者が()の議論に頼って排他主義を攻撃した場合、自 身がどのような立場を取ったとしても、()の議論は自分に跳ね返ってくる。()を 信じている多元主義者は、他の多くの人々が()を信じていないことを(そして、

他の多くの人々に()を納得させるだけの議論を見出せないことを)知っている。

従って、彼は()を信じるべきではない、ということになってしまう。()の議論 によれば、どのような立場も取れなくなり、こうして()は自家撞着に陥っている ことになる。

 つまり、プランティンガは抽象的なレベルでは、例えば相対主義者が「あらゆる主 義主張は相対的である」と主張した場合に、「その主張そのものも相対的である」と 反論される、というお馴染みの論理を展開して宗教的多元主義を批判しているのであ る。

 さて、スミスやヒックの発言の意図がプランティンガの解釈の通りだとすると、プ ランティンガの応答は正しいが、そもそもプランティンガはスミスやヒックの発言を 正しく解釈しているのであろうか。むしろ、彼らの意図を曲解しているのではない か。プランティンガは、スミスやヒックやその他多くの宗教的多元主義者が「()や

(2)を信じる4 4 4ことには道徳的恣意性がある」「()や(2)を信じる4 4 4ことが他宗教の信 徒を不快にする」と主張している、と解釈している。そして、この主張は即ち「()

や(2)を信じてはいけない4 4 4 4 4 4 4 4」ということを意味し、それは即ち「()や(2)を否定 せよ=()や(2)の否定を信ぜよ」或いは「差し控えよ」ということだと解釈して いる。しかし、私の見解では、宗教的多元主義者は「()や(2)を信じることも否 定することも差し控えよ」と言っているのでも、「()や(2)を否定せよ=()や

(2)の否定を信ぜよ」と言っているのでもない。多元主義者が主張しているのは「あ なたが命題()や(2)を信じる権利と同等の権利を他宗教の信徒にも認めよ」とい うことではないか。彼らは「自分には信じる権利を認めて、他者には認めないのは、

思い遣りが欠如している、或いは規範から逸脱している」と述べているのであろう。

従って、プランティンガの解釈とは異なり、多元主義者の議論を抽象的に表現すれ ば、以下の(ʼ)になると思われる。

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(ʼ)もし主体Sが、他の人々が命題pを信じていないことを(そして、他の人々に pを納得させるだけの議論を見出せないことを)知っているとすれば、S44 p4を他の4 4 4 人々に無理強いすべきではない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

 確かに、プランティンガの言う通り、()や(2)のような命題を信じることを差 し控えよ、或いはそれらの否定を信ぜよ、と主張している宗教的多元主義者もいるだ ろうが、思慮深い多元主義者は、キリスト者がキリスト教信仰を抱くのは素晴らしい ことだが、それと同等の信仰の自由を他宗教の信徒にも認めよ、と述べているのであ る。とすると、実践的な面においては改革派認識論と宗教的多元主義の主張は重なる 部分が多い。プランティンガは神学的・歴史的・実践的な考察を回避し、あくまで認 識論的な論理の平面で思考を展開しているので、多元主義者が()のような議論を 展開していると思い込んでしまうのであろう。

b.具体的議論

 排他主義の恣意性を巡る具体的な議論として、プランティンガはガッティング

(Gary Gutting)を取り上げている。

 プランティンガはガッティングを一種の「基礎付け主義者」(foundationalist)とみ なしている。古典的基礎付け主義者は、認識主体が命題を真なる信念として受け入れ てよいのは、その命題が確かな基礎付けを有しているときに限る、と考える。彼らは さらに、「神は存在する」などの有神論的信念は「基本的」(basic)・「直接的」

(immediate)ではないので、それを受け入れるためには証拠を必要とする、と主張 した。改革派認識論はこうした基礎付け主義に激しく反対したが、宗教の多元主義 的状況に直面した今となっては、問題は(古典的議論におけるように)有神論的信念 が端的にそれだけで証拠を必要とするかどうかではなく、「他の人々が同意しないと4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 分かっているときに4 4 4 4 4 4 4 4 4、(キリスト教的信念を受け入れることにおいて――引用者補填)

正当化されるためには、証拠や議論を必要とするかどうか」(プランティンガの強 調)である。

 この問題に対し、ガッティングはまず「決定的同意」(decisive assent)と「暫定的 同意」(interim assent)を分けて考える6。命題pに対する決定的同意は、pを信じ る、或いは信じない理由をそれ以上探究するのをやめてよい場合に与えられる。暫定 的同意は、命題pをひとまず信じるものの、その真理性についてさらに探究を続け る場合に与えられる。ガッティングによれば、命題pを他の多くの人々が受け入れ

(13)

2

ないと分かっており、かつpを証明する議論がない場合に、認識主体がpに与える 権利があるのは暫定的同意のみである。他の人々が同意しないと分かっているとき に、命題pに決定的同意を与えることができるのは、pのための議論がある場合に限 る。例えば、「神的なものが存在する」という命題は、宗教体験に基づく議論がある ので、決定的同意を与えてもよい。しかし、神的なものをそれより詳細に規定しよう とする命題(「神は全知、全能、絶対善であり、天地の創造者である」など)や特殊 にキリスト教的な命題(「神はキリストにおいて人類と和解した」など)は、そのた めの議論がなく、暫定的同意しか与えられないという(以下の引用で「命題pを信 じること」とあるのは「命題pに決定的同意を与えること」の意味である)。

 命題pを信じること(私がそのための議論を持っておらず、かつ他の人々が 同意しないと分かっているときに)は恣意的である。それが恣意的であるの は、私の直観(即ち、私にとって明らかに真であるように思われること)が私 に同意しない人々の直観より正しいらしいと考えるだけの理由が全くないとい う意味においてである。pを、その真理が私の4 4直観によって支持されているとい うだけの理由で信じることは、従って、認識論的なエゴイズム4 4 4 4 4 4 4 4 4 4であり、それは 倫理的なエゴイズムのように恣意的であり、正当化され得ない(ガッティング の強調)。

 ここで「正当化」(justification)という語は「認識上の権利の範囲内にある」

(within one’s epistemic rights)という意味で用いられている。要するにガッティン グは、他の人々が同意しないキリスト教の諸信念を、そのための議論がないにも拘ら ず、自分の直観だけに基づいて受け入れることは、「知的な義務」(intellectual

obligation)9を果たしていないことになると指摘している。キリスト教の諸信念と他

宗教の諸信念が「認識的に同等」(on an epistemic par)0であるにも拘らず、前者を 受け入れることは恣意的であり、エゴイスティックでさえあり、認識的に正当化され 得ないと主張しているのである。

 以上のガッティングの議論に対するプランティンガの反論を見てみよう

 プランティンガはまず、改革派認識論の根本命題を再確認する。即ち、キリスト者 は()や(2)のような命題を、何らかの「議論」(argument)2に基づいて、その 議論の結論として受け入れているのではなく、基本的・直接的に真であると信じてい る。キリスト者が一輪の花や夜空の星を見るとき、自分の犯した罪を悔い、神の赦し を感じるとき、()や(2)のような命題が真なる信念として自ずと彼女の内に形成 されるのである。

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 さて、キリスト者である「私」は()や(2)のような命題を基本的・直接的に真 であると信じているが、他の人々にそれが真であると納得させるだけの議論は持ち合 わせていない。この場合、「私」が依然としてこれらの信念を抱き続けるとすれば、

ガッティングの言うように、「私」は認識上の権利を逸脱していることになるのか。

「私」は知的な義務を果たさず、エゴイスティックで傲慢ということになるのか。そ うではない、とプランティンガは言う。ここでプランティンガの挙げている些か複雑 な例の中から一つを簡略化して紹介してみる

 昨日、「私」の住む町でフリースランド州旗が盗まれるという事件があり、「私」に 嫌疑が掛かる。警察は証拠や証言に基づいて「私」を逮捕する。しかし、「私」は犯 行のあった時間帯にはベイカー山でハイキングをしていた。「私」は「『私』は犯行時 間帯にはベイカー山でハイキングをしていた」という信念を抱いているが、他の人々

(警察など)は「『私』は昨日、隣家からフリースランド州旗を盗んだ」という命題を 信じている。「私」にはアリバイを証明できる証拠や議論がない。それにも拘らず、

「私」が「『私』は犯行時間帯にはベイカー山でハイキングをしていた」という信念を 抱き続けるのは依然として正当であり、認識論的なエゴイズムに陥っていることには ならない。なぜなら、この信念は「私」にとっては、他の人々にはアクセスできない

(開かれていない)「知識の源泉」(source of knowledge)を有しているからであ る。即ち、この信念は「私」の「記憶」(memory)に基づいて形成されている。

「私」に「私」の記憶がなく、他の人々と認識的に同じ立場に立っており、なおかつ

「『私』は犯行時間帯にはベイカー山でハイキングをしていた」という命題を信じ続け るのであれば、「私」は認識論的にエゴイスティックということになるだろう。しか し、「私」には「私」の記憶があり、他の人々は、各自の記憶は持っているだろう が、「私」の記憶は持ち合わせていない。

 この例でプランティンガが主張しているのは、「『私』は昨日、隣家からフリースラ ンド州旗を盗んだ」という命題と「『私』は昨日、ベイカー山でハイキングをしてい た」という命題は、事件に無関係な第三者にとっては認識的に同等であるかも知れな いが、「私」にとってはそうではない、ということである。これら二つの命題は「私」

にとっては全く異なった条件下にある(後者は「記憶」という強力な根拠を有してい る)。従って、これら二つの命題を異なった仕方で取り扱うのは全く正当である。

 これと同様のことがキリスト教信仰についても当て嵌まる。ガッティングによれ ば、キリスト教の諸信念と他宗教の諸信念は、いずれかの信憑性を証明する議論がな い場合、認識的に同等であり、この状況でどちらか一方を選び取ることは恣意的であ る。しかし、キリスト者にとっては、キリスト教的信念体系と他宗教の信念体系は認 識的に同等ではない。従って、両者を異なった仕方で取り扱っても、「同じ条件下に

(15)

あるものを異なった仕方で取り扱う」という過誤を犯していることにはならない。キ リスト者にとっては()や(2)のような命題は、他宗教の諸信念にはない「保 証」、即ち知識としての確からしさの源泉、を有している。その保証とはやはり、プ ランティンガによれば、既述したように「神性の感覚」(sensus divinitatis)であり、

「聖霊の内的諭し」(internal instigation of the Holy Spirit)である。

 しかし、ここでガッティングのような批判者は、他宗教の信徒も全く同じ(「私」

の宗教的信念は「あなた」の信念にはない保証を有しているという)議論を展開する ことができるので、やはり認識的に同等だ、と反論することもできるだろう。キリス ト者は、一輪の花や夜空の星を見るとき、「イエス・キリストの父なる神がこれらを 創造した」と考えるのであろう。よろしい。同様にイスラームも一輪の花や夜空の星 を見るとき、「アッラーがこれらを創造した」と考える。このように、キリスト者が 自分の信念の確かさの根拠として用いることができる「内在的指標」(internal markers、認識者が自分の認識行為を内省して自覚的にアクセスできる証拠や現象な どのこと)と同様の内在的指標を、他宗教の信徒も主張することができる。従って、

やはり両者は認識的に同等なのだ――このようにプランティンガは批判者から提起さ れるであろう反論を先回りして述べている6

 この反論に対し、プランティンガは巧妙にも、「人種差別は悪である」といった誰 でも同意したくなるような例を挙げて、再び自説を繰り返している。「私」はこうし た命題が端的に真であると信じている。しかし、それに同意しない人々が大勢いるこ とを知っている。「私」はそうした人々を説得するだけの議論を持ち合わせていな い。しかも、そうした人々は「私」と同様の内在的指標を持っている。この場合、

「私」と反対者は認識的に同等な立場にいることになるのか。「私」が依然として「人 種差別は悪である」と信じ続ければ、エゴイスティックであり、認識的に正当化され 得ないのか。そうではない、とプランティンガは言う。

 「私」は「人種差別は悪である」という命題と「人種差別は悪ではない」という命 題が認識的に同等だとは考えない。「私」は、後者の命題を信じている人々が認識上 の過誤を犯した、十分に注意深くなかった、野心やプライドやその他のものによって 健全な認識を妨げられた、などと考える。同様にキリスト者も、自分にはアクセスで きる信念の源泉に他宗教の信徒は何らかの理由でアクセスできないでいる、と考え る。即ち、キリスト者は自分の信念を保証する源泉として、「神性の感覚」、「聖霊の 内的諭し」、「聖霊によって明かされ、聖霊によって過誤から守られた教会の教え」

(teaching by a church inspired and protected from error by the Holy Spirit)などを有 している。しかし、これらの源泉が他宗教の信徒には拒まれている、と考える。従っ て、キリスト者は自分の信じている諸命題に関しては自分が他宗教の信徒より優れた

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認識的立場に立っていると考えるのである。しかし、それにしても、なぜ多くの人々 がこうした知識の源泉にアクセスできないでいるのか。そして、その結果、この世界 には無数の宗教が存在することになるのか。その疑問に対しては、「それ自体が人類 の置かれている惨めな状況の現れ」と考えることもできるだろう。

 ここで私は思うのだが、他宗教の信徒もやはり全く同じ議論を展開することができ よう。例えば、イスラームであれば、「私は自分の信念の保証として、預言者ムハン マドを通じて啓示されたアッラーの言葉を有しているが、あなたは何らかの事情でこ の言葉にアクセスできないでいる」と主張することができよう。それはともかく、私 たちが覚えておかなければならないのは次の点である。即ち、プランティンガをはじ めとする改革派認識論者は()や(2)のような命題の内容が(現実に合致している という意味で)真であるとは主張していない。そうした命題を真として信じることが 認識論的に正当であるかどうかだけが議論されている。信念の抱き方、信念を抱くに 至った過程だけが議論されていて、内容の真偽に関しては議論されていない(もちろ ん彼らは内容が真だと信じているが)、ということである。

 さきほどのフリースランド州旗の例に立ち戻ると、「私」の記憶違いで、ハイキン グに行ったのは別の日であったということはあり得る。その場合、「『私』は昨日、ベ イカー山でハイキングをしていた」という信念の内容は、現実に合致していないとい う意味で、偽である。しかし、「私」の記憶違いであったことが「私」に明示される までは、「私」が自分の記憶に基づいてこの信念を形成するのは全く正当である。

 プランティンガは『保証されたキリスト教信仰』において、もしキリスト教が真で ある(現実に合致している)とすれば、「神性の感覚」や「聖霊の内的諭し」がキリ スト者にとって保証としての要件を満たすということを論説している。プランティン ガのこの見解が正しいとすれば、「古典的キリスト教の諸信念には、その確からしさ を保証する源泉がある」や「()や(2)のような信念を拒否する人々にはその源泉 が拒まれている」といった主張を覆すためには、キリスト教の内容そのものが偽であ ることを示す必要がある。しかし、それは最早、哲学には果たせない課題である。キ リスト教の内容が真であるか偽であるかを決めるのは信仰の事柄だからである。

4.改革派認識論の応答の問題点

 宗教的多元主義の問題は神学的・歴史的・実践的など諸種の観点から様々に議論さ れてきた。神学的には、例えば「諸宗教の多種多様な宗教体験の中核には普遍的な本 質があるか」「他宗教の中に神的なものの啓示を認めるか」「或る特定の救世主の贖罪 行為によらずに救済に与ることは可能か」といった問題が議論されてきた。現在では

(17)

6

多元主義的立場に潜む進歩史観や西洋中心主義を批判するのが一つの潮流となってい る。歴史的には、それぞれの宗教が歴史の中で社会的・文化的な影響を受けながら形 成されてきた過程が明らかにされ、また、各宗教による絶対性の主張が歴史において 引き起こしてきた破壊的行為が断罪され、寛容や愛他の精神に満ちた建設的貢献が評 価されると同時に、排他主義が前者と、多元主義が後者と必ずしも結び付くものでは ないことが指摘されてきた。実践的には、地球的規模の環境破壊や武力紛争の脅威に 晒されている現代世界において、相異なった主義主張を展開している諸文明がどのよ うにすれば共存共栄し得るか、が模索されている。

 しかし、改革派認識論者の著作にこうした議論を捜し求めても無駄である。彼らが 論じるのは認識論の平面上に展開する問題――「数多くの多様な宗教の存在に直面し ながら依然として古典的キリスト教信仰を排他主義的に抱き続けることは認識論的に 正当であるか」「宗教の多元主義的状況はキリスト教的信念形成作用の信頼性を減ず るか」9「宗教の多元主義的状況はキリスト教の諸信念の認識的確率を減ずるか」な ど――のみである。そして、これまでに見てきたように、宗教の多元主義的状況や主 張は、古典的キリスト教の排他主義的受容に対する彼らの確信を揺るがすものではな かった。

 恐らく、改革派認識論が論じる唯一の神学的問題は、オールストンの言うように、

「なぜ神は自らについてこれほど多様で共立不可能な信念体系の存在を許容している のか」「なぜ神はこれらの事柄に関する真理の主要なアウトラインだけでも万人に対 して明らかにしないのか」0というものであろう。この問題を改革派認識論が論じざ るを得ないのは、キリスト教内部の諸信念間の論理的整合性を確保するためである。

それはちょうど、一見したところ論理的整合性を脅かすかに思われた「悪の論理的問 題」に対処する必要があったのと同様である。「悪の論理的問題」に対しては「自由 意志による弁護論」が説かれたように、多元的状況を説明する理論はあるのだろう か。

 この神学的問題に対してプランティンガは、既述したように、宗教的多元主義「そ れ自体が人類の置かれている惨めな状況の現れ」2と述べていた。同様にベイシン ガー(David Basinger)も「堕罪以後、人類の多くが苦しめられている認識上の無能 力」のせいであると説明している。

 しかし、プランティンガやベイシンガーのこうした答えに対して神学的議論を試み ようとしても、撥ね返されるのみであろう。と言うのも、改革派認識論者はこうした 命題の内容が真であるとは主張していないからである。彼らのこうした発言は、この 世界に無数の宗教が存在する真の理由を解き明かそうというものではなく、「確かに この世界には無数の宗教が存在するが、……と仮定すれば(その仮説が現実に合致し

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ているという意味で真であるかどうかは分からないが)、排他主義的なキリスト教信 仰の内部に論理的整合性が確保され、この信仰を抱き続け得る」と述べているだけな のである。

 このように改革派認識論は、宗教的多元主義の神学的・歴史的・実践的などの問題 に対しては、いわば「免疫」ができている。そこで、私も議論を認識論の範囲内に限 り、先に〔〕で指摘しておいた問題に立ち戻ってみよう。即ち、プランティンガに よれば、()や(2)を字義通り信じているキリスト者は必然的に、こうした信念と 論理的に共立不可能な諸信念を偽として否定することになるというのだが、ここで、

「字義通り」という語が何を意味しているのかという疑問と、「真として信ぜられてい る諸信念と論理的に共立不可能な諸信念は偽として否定するのが当然の論理的帰結で ある」という判断に問題がありはしないかという疑問である。

 よく知られているように、ヒックは無限で超越的な実在そのもの(the Real an

sich)と、人間によって考察された限りでの実在とを区別した。彼はこの区別に

よって、キリスト教の信念体系と他宗教の信念体系が共立可能であると認めることが できたのである。

 ヒックは、カント(Immanuel Kant)による叡智界(noumenal world)と現象界

(phenomenal world)の区別に学びつつ、叡智界の実在がそれ自体としてどのような ものであるかは人間には言表不可能であり、人間の言語は専ら現象界に対応し、現象 として顕現した限りでの実在に対する人間の応答を言い表わすのみ、と考えた。叡 智界に属する実在そのものは「字義通り」には言い表わせないという主張によって、

排他主義を回避したのである。一見したところ論理的には共立不可能に思われるもの も、本来は言表不可能なものを言い表わそうとする人間の不完全な試みであり、共立 可能なのだ。例えば、「神は三位一体である」と「悉有仏性」は論理的には共立不可 能であるかも知れないが、実在に対する応答としては両方とも有効であり得る。

 こうした叡智界と現象界の二重構造を主張する哲学に対し、プランティンガは徹底 的に反対する。彼の見解では、物の「属性と概念は相関関係にある」(Properties and

concepts are correlative)6。この点、プランティンガは実在論の立場に立ち、不完全

であるかも知れないが、物事を字義通りに表現することは可能である、と考える。

 ヒックの主張には、実在そのものには人間のどのような概念も適応し得ないと読み 取れる箇所と、実在には形式的概念(formal concepts)と否定的概念(negative concepts)のみが適応し得ると解せる箇所があり、プランティンガは後者の解釈に 沿ってヒックを批判しているが、前者に関しても次のように述べている。

もしヒックが本当に、われわれの用語は一つとして実在に字義通りには適応しな

(19)

いと考えているのであれば、彼の言っていることの意味を理解するのは不可能で ある。私は「三輪車」という用語が実在には適応しないと考える。実在は三輪車 ではない。しかし、もし実在が三輪車でなければ、「三輪車ではない」は字義通 りそれに適応する。実在は非三輪車である。それは三輪車でもなければ非三輪車 でもないということはあり得ない。

また、

一般に、どのような属性Pに関しても、物は、それがPという属性を持っている ときにのみ、Pという概念に属する。物は、それがPという概念に属さないとき にのみ、非P(not-P)という概念に属する。

 さて、私は少し違った観点から(結局はヒックと同じ結論になるのかも知れない が)、この問題を論じてみたい。私たちが言語を用いるとき、必ず象徴機能を働かせ ている。外界の事物を描写する際にも(そこで話される言語は余りにも即物的なの で、気付かないことが多いが)、実は象徴を用いているのである。まして神的実在に ついて語る場合はそうであろう。

 卑近な例を挙げると、野に佇む少女を見て、「乙女は野薔薇だ」と語ったとしよ う。この場合、「野薔薇」が「乙女」に「字義通り」当て嵌まると考えると、おかし なことになる。また、別の人が(或いは同じ人でもよいが)同時に「乙女は野菊だ」

と語ったとしよう。これら二つの命題は、論理的には共立不可能である。しかし、象 徴的には両者は共立可能で、同時に正しくあり得る。しかも、これらの命題は、認識 者の主観的な捏造、即ち、発言者が無から紡ぎ出した言表ではなく、少女によって引 き起こされた反応である。イニシアティヴは少女にあるとさえ言えよう。

 プランティンガは上記の引用文の中で「私は『三輪車』という用語が実在には適応 しないと考える」と述べていた。しかし、象徴的言語においては「神は三輪車であ る」と語ることは可能である。そう語ることによって、神に対する新たな展望が開け てくるとさえ言えよう。この象徴は、例えば「神は人間が初めて乗る乗り物である。

神は人間と大地を媒介する。神は、人間が前進しようと努力すれば、少しずつ目的地 まで連れて行ってくれるが、努力しなければ、元の場所に留まったままである」と いったイメージを喚起してくれる。そして、全く同時に「神は三輪車ではない」と語 ることも可能である。この言表は「神は人間の創作物ではない。神は人間の道具では ない。神は人間と物理的な(肉体的な)接触を持たない」といったイメージを生み出 してくれる。私は思うのだが、改革派認識論者が信仰してやまないイエス自身の発話

(20)

9 行為はこのようなものではなかったか。

 「神は人格的存在である」という命題と「神は非人格的存在である」という命題に ついて考えてみよう。こうした命題を、プランティンガの言うように、神を字義通り 記述した言表とみなした場合、両者は共立不可能になる。「それが論ロジック理というものだ」

(that’s just logic)9と彼は言うことだろう。しかし、こうした命題を、神からの働き 掛けによって引き出され、象徴的言語によって言表された、人間からの応答であると 理解した場合、両者は共立可能になり、しかも、相互に神に関する豊かなイメージの 広がりを学び合うことができる。プランティンガのような命題理解は他宗教の豊かさ を学ぶ機会を自ら閉ざすことになろう。

 極めて簡単に言ってしまえば、改革派認識論が述べているのは次のようなことであ る。キリスト者は自分たちの信念を何らかの議論によって抱くに至ったのではない。

一輪の花や夜空の星を見るとき、自分の犯した罪を悔い、神の赦しを感じるとき、

()や(2)のような信念が自分たちの内部に自ずと湧き上がってくる。ちょうど木 を目の当たりにしたときに、「木がある」という信念が自ずと形成されるように。そ うした信念は余りにも確かに思われるので、他宗教の存在を示されても、その確かさ が揺らぐことはないのだ、と。

 それ故、問われるべきことは、本当にその確かさが揺らぐことはないのか、という 問いであろう。言い換えれば、宗教的排他主義と多元主義を比べた場合、どちらがよ り本当らしく思われるのか、という問いである。キリスト教的信念体系の排他主義的 な理解――()や(2)のような信念は「字義通り」真であり、こうした信念と論理 的に共立不可能な信念は偽として否定するのが必然的な論理的帰結である、といった 理解――と、多元主義的な理解――()や(2)のような信念も、他宗教の多くの信 念と同様に、究極的実在によって引き出され、象徴的言語によって言表された、人間 からの応答である、といった理解――のどちらがより確からしく思われるのか。どち らの解釈の認識的確率が高いのか60。しかし、それを決めるのは、それぞれの認識主 体であり、より正確に言えば、それぞれの主体の内部に信念を自ずと湧き上がらせる 信念形成作用であろう。

本論の執筆に当たっては平成9年度科学研究費補助金の交付を受けている。

2 「古典的キリスト教信念」(classical Christian belief)についてはAlvin Plantinga, Warranted Christian Belief, Oxford University Press, 2000, p.viifを参照のこと。改革派認識論の中心思想については拙論

「宗教的哲学としての改革派認識論——有神論的信念の認識論的地位を巡って——」、『基督教研究』

第6巻第号、200年9月、9−頁を参照のこと。

(21)

20

Alvin Plantinga, “Reason and Belief in God” in Alvin Plantinga and Nicholas Wolterstorff (eds.), Faith and Rationality: Reason and Belief in God, University of Notre Dame Press, 9, pp.2−. Plantinga, Warranted Christian Belief, pp.−.

Plantinga, Warranted Christian Belief, pp.−9.

Joseph Runzo, “God, Commitment, and Other Faiths: Pluralism vs. Relativism” in Faith and Philosophy, Vol. , No. , 9, p.6f.

6 但し、オールストンは米国監督教会に属している。

この間の事情については、拙論「宗教的哲学としての改革派認識論」を参照のこと。

Plantinga, Warranted Christian Belief, p..

9 Ibid., p..

0 Ibid., p.0.

Idem.

2 Ibid., p.0f.

William P. Alston, “Religious Diversity and Perceptual Knowledge of God” in Faith and Philosophy, Vol. , No. , 9, p..

ここでマッキー(John Mackie)の指摘した悪の論理的問題を思い起こしてみるのがよかろう。マッ キーの主張は、有神論的諸信念は論理的整合性に欠け(つまり支離滅裂であり)、従って、初めから 虚偽であり、それを信じるのは非合理的である、というものであった。拙論「改革派認識論と悪の論 理的問題」、『基督教研究』第6巻第2号、2006年月、−頁を参照のこと。

Plantinga, Warranted Christian Belief, pp.−.

6 J. L. Schellenberg, “Pluralism and Probability” in Religious Studies, Vol. , No. 2, 99, p..

実際にはヒンドゥー教や仏教には神や仏の三身論的理解が見られるが、ここでは取り上げない。

Schellenberg, “Pluralism and Probability”, p..

9 Paul Draper, “Pain and Pleasure: An Evidential Problem for Theists” in Daniel Howard-Snyder (ed.), The Evidential Argument from Evil, Indiana University Press, 996, p.2.

20 単なる真なる信念を知識にまで高めるものを「保証」(warrant)と呼ぶ。拙論「宗教的哲学としての 改革派認識論」、0−6頁を参照のこと。

2 Plantinga, Warranted Christian Belief, p.f.

22 Ibid., pp.0−6.

2 Ibid., pp.29−22.

2 拙論「宗教的哲学としての改革派認識論」を参照のこと。

2 Plantinga, Warranted Christian Belief, p.2f.

26 Ibid., p..

2 Ibid., p..

(22)

2 2 Wilfred Cantwell Smith, Religious Diversity, Harper and Row, 96, p..

29 Plantinga, Warranted Christian Belief, p.6.

0 Plantinga, Warranted Christian Belief, p..

Idem.

2 Ibid., p..

Ibid., p.f.

この間の事情については、拙論「宗教的哲学としての改革派認識論」を参照のこと。

Plantinga, Warranted Christian Belief, p..

6 Idem.

Gary Gutting, Religious Belief and Religious Skepticism, University of Notre Dame Press, 92, p.6. 引用 Plantinga, Warranted Christian Belief, p.fより。

Plantinga, Warranted Christian Belief, p..

9 Idem.

0 Ibid., pp., .

原著ではプランティンガはページにわたって詳論を展開しているが、ここでは議論の大筋だけを 追ってみる。

2 Plantinga, Warranted Christian Belief, p.9.

Ibid., p.0f.

Ibid., p..

Ibid., p..

6 Ibid., p.2.

Ibid., p..

Ibid., p.6.

9 これはオールストンが「宗教的多様性と知覚による神の知識」(“Religious Diversity and Perceptual Knowledge of God”)の中で論じている問題である。

0 Alston, “Religious Diversity and Perceptual Knowledge of God”, p..

拙論「改革派認識論と悪の論理的問題」を参照のこと。

2 Plantinga, Warranted Christian Belief, p.6.

David Basinger, “Hickʼs Religious Pluralism and ʻReformed Epistemologyʼ: A Middle Ground” in Faith and Philosophy, Vol. , No. , 9, p.26.

John Hick, The Second Christianity, SCM Press Ltd., 9, p.. なお、ヒックの宗教的多元主義に潜む 問題点は既に数多く指摘されているが、本論では取り上げない。

John Hick, An Interpretation of Religion, MacMillan Press, 99, pp.20−26.

6 Plantinga, Warranted Christian Belief, p..

(23)

22

Ibid., p..

Ibid., p..

9 Ibid., p..

60 認識論的に言えば、排他主義や多元主義と並んで宗教否定主義や包括主義や相対主義といった主義主 張のそれぞれも一つの纏まった信念体系を成し、固有の認識的確率を有している。それらのうちのど れが確からしく思われるのか。

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