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(1)

南朝における南北人問題

|南朝の成立|

税 序

 筆者は︑﹁東新における南北人問題iその社会的考察−﹂︵﹁史学雑誌︵77の10︶﹂︶

なる小論において︑東晋時代に渡江南下した北人達が︑江南の地に

おちつくにつれて二人化し︑二代︑三代とつづく間に︑江南の地を

第二の故郷と考え︑次第に南人化すると共に︑元来江南にいた人々

との間に︑同郷人としての親密さも生まれてきたであろう︑従って

そこには最早東晋初頭にみられた南︑石人の政治的︑社会的対立も

解消しつつあったであろうと推論しておいた︒

 若しこの推論に大過なしとすれば︑南朝においては︑西晋から東

晋初頭にみられたた如き南︑証人の政治的対立︵畑猶鞭鞍蛎蜘難禰灘三

夕難鋤離取調︶は殆ど消滅していたであろうし︑恩人とか北人とかい

う言葉すらも恐らくはなくなったであろう︑たとえあったとしても︑

東晋初頭にみた如き政治的︑社会的対立をあらわすものとは違った

意味に用いられたに相違ない︑といえるのではなかろうか︒即ち︑

西晋から東晋にかけては︑政治的︑社会的対立を背景にもつ二人︑

北畑が考えられたのに対し︑ 南朝ではそのような対立的な意味の

南︑北人は姿を消し︑たとえそのような言葉があったとしても︑恐

らくは別の意味をもっていたであろうと思われる︒守屋美都雄氏は

このような状態を︑俵詰の﹁南人化﹂︵﹁南人と北人﹂亜論叢第六輯︶︵東︶という言葉であ らわし︑東晋末に北魏に入った太原の王慧龍が︑北魏の人々から南人といわれ︑自らも亦巨人と称したことを指摘されている︒元来︑

﹁北俵と呼ばるべき過江の旧姓﹂︵全上︶であった太原王氏の一人であ

る王慧龍が︑巨人と呼ばれ且つ自らも南人と称したことは︑たしか

に北人の南人化には違いない︒しかし︑県人︑北目という言葉は︑

少くとも西晋から東司初頭にかけては︑同人は呉の境域に本籍をも

つもの︑北人は魏︑平呉前の西晋の境域に本籍をもつものと考えら

れている︵越智重明氏﹁魏晋南朝の政治と社会﹂第二編⁝第二章団・日にoo︶︒従って︑東晋時代に北入の匠人化

が行われたとすれば︑南朝では最早門人はいなくなった筈であり︑

いな︑ 一人のみならず南進すらもいなくなった筈である︒ 何故な

ら︑ 対立的に考えた場合のみ︑ 内人とか球人とかはありうるわけで︑若し南朝において北人がなくなったとすれば︑江南に存在する

のは上人のみ︑というよりも︑江南に土著する人々のみが存在して

いた筈だからである︒ もし以上の如くであれば︑ 東下末から南朝にかけてみられる平

人︑北人の語はどういう意味をもつものであろうか︒果して︑西晋

から東晋初頭にみられる如き意味には用いられていないといえるの

であろうか︒若し︑そういえるとすると︑或は筆者が推察する︑南

人︑北人の東晋初頭的対立は解消した︑とする考えも成立し得ると

いえるのではなかろうか︒その場合︑その解消は一体何を意味する

       一

(2)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第咽九号

ものであろうか等の疑問がわいてくる︒以下それらの諸点について

考察してみよう︒

    01

 さて︑東晋末から南朝にかけて南人︑北人の語がどう用いられた

か︑それがどのような意味をもつのかを考える前に︑所謂﹁前人の

南入渠﹂について確めておきたい︒その具体例については︑既に守屋

氏の指摘された王民龍の場合があるのではあるが︵守屋氏﹁落人と北入︵東亜論叢第六輯︶﹂︶︑

今ここに顔之推の例を引いて説明を加えておきたい︒

 顔実接は北聖書︵45顔之推伝︶によれば︑瑛邪臨折人とある如く

元来は北方出身の︑所謂僑姓であるが︑その九世祖顔含の時に江南

に渡って東寺元帝に仕えた︵晋禽88顔含伝参照︶︒ しかし︑之推の頃には全く江

南の人になりきっていたことは︑戸〆が仕えた南朝の梁の滅亡後︑

捕えられて北朝に仕え︑階の開演十年頃著したという﹁顔氏家訓﹂

﹁吾今回旅︒言言浮雲︒寛未知何郷是吾動地︒唯当気絶︒便埋之 (匠結梹x那学報第一号︶参照︶の中に︑

耳︒﹂︵終制篇第二十︶とか︑ ﹁吾近為︵北斉︶黄門郎︒ 己妻収退︒ 当時霧

旅︒灌罹誘藷︒思為此計︒僅未透影︒﹂︵鳶足篇第十三︶などといっているが

ここで霧旅というのは︑自らを南の人と考え︑北朝にあるのを覇旅

としたと考えねばなるまい︒従って︑何処の地に果て︑何処の地に

葬られるのか︑誠にたよりない身だと感じたのだと思われる︒前述

の王慧龍も亦北上にあって︑ ﹁自分は領主の南人である﹂へ雛舐文︶

といっているが︑これと顔之推の考えたところは全く同じであった

といえよう︒このように︑元来過江の面輔たる所謂直人の子孫であ

りながら︑これらの人々には北人の意識はなく︑全く自らを二人と

考えていたわけで︑従って︑濃餅の故郷は︑北画書︵45︶のその伝

に︑        二

﹁曾撰観世生賦︒文致清書︒其詞日︒⁝...経長千三掩抑︹籔編︺︒展

白下以流連︹聯蝦璽職︺深燕雀之餓思︒成桑梓之遣虜︒﹂とみえる

ところによれば︑ 白下即ち建郵の地と観ぜられていたにちがいな

い︒というのは︑靖侯は東銀え帝に仕えた顔含︵晋轡88顔含伝︶のことであり︑

之推はその前世の孫であるが︑之推の父や母は江陵の寓居地に葬ら

れたようで︑ それは︑ ﹁先君先夫人皆未零墨翰墨山︒ 旅野江陵東

部︒﹂隅蛎漿灘酒︶とみえるところで明らかであろう︒即ち︑彼の祖

父︑顔含の七世説までは建学に葬られた筈であり︑父母も当然建鄭

の地に葬らるべきであったのに︑ 旅路の江陵に葬らねばならず︑

﹁値本朝倫没︒流離如此︒﹂︵同上︶と歎き悲しまざるを得なかったわ

けである︒ということは︑之推は自らを完全に厚情の人と考え︑そ

こが故郷であると考えたわけで︑最早そこには︑東晋初頭にみた所

謂北人乃至はその子孫という考えは︑全く存在しなかったといわね

ばなるまい︒

 ところが︑同じ顔氏家訓の中に︑宛も上述したところと︑ 一見矛

盾するかの如き記録がある︒それは渉務篇︵第十一︶に︑

﹁江南朝士︒因晋中興而渡江︒本誌鵜旅︒至今八九世︒未有力田︒

悉資俸禄而食止︒仮令有者︒皆信憧僕︒為之未課目観起一擾土︑転

一株苗︒不知置月落下︑幾月計収︒安識世間鯨卸量︒﹂とあるもの

である︒この記事をとり上げて︑東晋における群来漢人の置土思慕

の感情は︑ 重代の後に至っても抜けきらなかったとする意見があ

る︵灘舐文.︒ なるほどこれによれば︑ ﹁北方から江南にきて東晋朝

に仕えた人々は︑元来江南は一時身をよせる場所にすぎないとした

から︑八︑九世たった現在︵書落︶にいたっても︑大方の人々は田

地の経営に熱心でなく︑俸禄で生計をたてているにすぎぬ﹂といっているようである︒上の記事を︑このように解すると︑北来人にと

(3)

っては江南の地は︑数代たってもなお寓居地と思われたと解してよ

さそうである︒そう考えると︑顔之推が江南の人になり切ったとす

る上述の意見とは矛盾しそうである︒しかし筆者は︑この記事を︑

﹁江南をいつまでも寓居地と考えた﹂という風に解することには反対である︒何故ならこの記事は︑実は農業を重んずべきことを説い

たもので︑いつまでも北土思慕の感情から抜け切れず︑江南を寓居

地とする︑ ということを強調したものとは考えられないからであ

る︒即ち︑この記事の前の記述をみるに︑

﹁古人欲知稼稿之翰墨︒斯蓋貴細務本之道也︒夫食為民天︒翠雲食

不生 ︒⁝⁝安可軽農事而貴末業哉︒ ︵江南朝士云々︒︶﹂となっているので︑従って︑江南朝士以下の記述は︑北から渡江した朝士

達の子孫の中には︑農をいやしむ不心得者が多いことを指摘したに

すぎぬものである︒その故にこそ︑この記事のつづきには﹁︵安識

世間細務乎︒︶故治官則不了︒営家則不辮︒細越閑燗酒也︒﹂と記しているので︑そのような玉帳の情態では官を治めることも︑家を

営むことも不可能であろうと指弾しているわけである︒即ちこの記

事では︑いつまでも北畑を思慕することを口実に農を省みぬ不心得者もいるが︑そんなことでは官も家も治めることは出来難いとする

もので︑決して上述の顔之推の態度と矛盾するものではない︒顔耳

翼は﹁江南朝士﹂と彼がいうところの︑東組初頭以来北方から江南

にやってきた入々が抱いたと同じ思い︑旅人であるという思いを︑

北朝に渡って抱いたわけであり︑彼にとって江南の地こそは故郷で

あったのである︒

    ⇔

 以上の如く︑北人の南人化をたしかめ得たとする時︑果して東晋

初頭的︑対立的意味の南人︑母人の区別は消滅したであろうか︒実

際に南朝においては︑玉人︑北人はどのような意味に用いられてい

  南朝における南北人問題︵南朝の成立︶ ︵矢野︶ たであろうか︒ いま︑南朝において用いられたその意味を大別してみるに︑ω 東嶺初頭以来用いられた︑所謂南人︑公人を意味する場合︒② 江南の人︑河北の人の意に用いられた場合︒但し︑その中に︑ ω 南朝の人︑北朝の人の意味︑即ち南北における政治権力の対   立の中に考えられた場合と︑ @ 単に地理的に江南の人間︑河北の人間の意味に用いられた場   合︑とがあったと思われる︒以下︑それらについての具体例を挙げながら説明を加えてみよう︒ωの場合 宋書︵81︶顧観之伝によれば︑ ﹁嘗於太祖坐︒群民左人物︒言及顧栄︒衷淑格子之日︒卿南人怯儒︒豊辮作賊︒號之正忌日︒卿劇毒以忠義血肥︒淑有悦色︒﹂とあり︑南玉書︵33︶張家伝によれば︑

﹁︵上︶欲用︵張︶垂耳右僕射︒以問王卿︒倹日︒南士由来少居此

等︒楮渕即座︒啓上日︒倹年少或不尽憶︒江尊爵陸玩︑顧和︒西南

人也︒ 倹日︒ 晋氏毒口不可以為准則︒上乃止︒−:−緒善言素望甚

重︒太祖深加州異︒僕射王揺々人日︒北士申寛落掌︒過江津有人︒

不知陳伸弓︑春望理博過之不耳︒﹂とあり︑更に南浜書︵44︶沈文

運伝によれば︑ ﹁世祖歩車山廊︒ 南士無規射︒多歴年所︒ 文季対

日︒南風不競︒ 非復一日︒⁝⁝兄子智略有剛気︒ 昇明末為相国西

曹︒太祖賞之︒及即位謂王倹日︒ 南士中有沈昭略︒ 何職処之︒倹

日︒臣已有擬奏︒転前軍将軍︒上不欲違︒可其奏︒﹂とある︒

 これらの記事は南朝宋︑斉時代のものであるが︑そこにみえる南

人︑志士︑北士という如きは︑東晋初頭にみられた︑政治的︑社会

的対立を背景としての︑南人︑北士であることは明かであるかに思

われる︒これらの中︑粛呈書︵35︶平緒伝と︑同書︵44︶沈文民伝

       三

(4)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第哨九号

は︑奇しくも同じく尚書騎射を問題としている︒両者共に南士にし

て尚書僕射となるのはまれであるとして︑隠士を﹁段下にあるもの

としてきめつけているのである︒では︑南士をそのように押えよう

としたものは誰かというに︑ いうまでもなく北野たる王倹であっ

た︒それは︑同じく北士たる楮渕のとりなしも︑天子の好意も拒絶

するほどのきびしい抑圧であったといえよう︒このきびしい︑北士による南町抑圧について︑越智重明氏は︑ ﹁個人的な感情の対立な

どからではなく︑皇帝が江東豪族諸氏の主領たちをその貴族的教養

の高さを以て重挙することに対する貴族側の脅威−対立感のたまた

まの露呈と解さねばなるまい︒﹂︵﹁南朝の貴族と豪族︵史淵第六十九輯︶﹂︶とされている︒こ

こに貴族側とあるのは︑所謂黒人系貴族を意味しているのである︒

このように解するならば︑ 東宝初頭以降にみた素人と里人の対立

は︑依然として南朝にもひきつづき存在したということになろう︒

ωの㊥の場合︒

 南人を江南の人︑北人を江北の入という意に用いながらも︑江南と江北に違った政権があり︑その対立の場においての南人︑北人と

いう場合︑即ち︑南人目南朝の人︑北人㍑北朝の人と考えられたと

解すべき場合があった︒いまそれらの且ハ体的な例についてみる前に

当時南と北に︑南朝と北朝という対立政権があったことについて一

言しておきたい︒

 南朝という言葉は︑所謂南北朝が始まってから用いられたものか

というに︑必ずしもそうではない︒例えば︑道書︵71︶孫皆伝をみ

るに︑ ﹁遷広武将軍︑安豊内史︒以迎繋駕之功︒封警士県公︒元年遣甘卓討重罪於寿陽︒ 恵乃率衆応卓︒酸敗走︒ 鷹母屋鋭為安豊太

守︒恵権留至境︒鋭以他事収恵︒下人推之︒恵既非南朝所授︒常慮

幽間︒因此大催︒﹂とみえる︒これによってみるに︑孫恵は間接政

権によって安豊内史に任ぜられていたが︑当時鎮東大将軍として江

南にいた元詰︵晋書6元帝紀︶に任命せられたと思われる安豊太守何鋭と対立

し︑捕えられるはめになったという︒この時の元帝勢力が南朝と表

現されているわけである︒この時は︑いうまでもなく零墨は未だ帝

位にはついていないから︑後に帝位についた時を投影して南朝と記

したものであろう︒

 しかしこの場合は︑西晋朝廷に対する江南政権という意味であろうから︑同じく晋政権のうち︑北にあった西崎朝に対して南の方の朝という意味で南朝といったものと考うべきであろう︒従って︑こ

の南朝は︑晋政権の中での北に対する南の朝であって︑北の朝と南

の朝とが別の政権として対立するという考えに立つものではない︒

ということは︑我々が問題としている︑河北と江南に相対立する政

権としての北朝︑南朝というものとは違ったものであるといわねば

ならぬ︒ では︑江南・河北に対立する政権としての南朝・北朝の用法はど

うであったろうか︒北史︵001︶序伝によれば︑ ﹁然北朝自魏以還︒

南朝従宋以降︒運行迭変︒時俗汚隆︒﹂とあり︑ここでは明かに︑

北朝と南朝とは河北と江南に別々に存在する政権であり︑且ハ体的に

は北国︑宋を含むものとしてとらえられている︒ 更に︑北史︵001︶

序奏によれば︑ ﹁従貞観以来︒屡吻史局︒不擾愚輩︒私為修撰︒起

魏登国元年︒尽階義寧二年︒凡三代二百四十四年︒兼自東魏天平元

年︒尽至聖化二年︒又四十四年︒行事総編︒為本紀十二巻︑列伝八十八巻︒謂之北山︒又起宋永初元年︒尽陳夕明三年︒四代一百七十

年︒為本紀十巻︑列伝七十巻︒謂之南史︒凡八代合為二書一百八十

巻︒以還司馬遷史記︒﹂とみえる︒ここにいう南史︑北国は明かに

南朝の歴史︑ 北朝の歴史であるが︑ それは北魏と宋とに始まる八

代︑雪掻︑北周︑北斉︑階︑宋︑南斉︑梁︑陳をさしていること明

かである︒即ち︑具体的にはこのような個々の王朝であるが︑江南

(5)

と河北を対立するものとしてみた時は︑南朝と北朝として考えられ

ていたといえるであろう︒

 更に︑南斉書︵57︶の帯芝伝をみるに︑以上のような考察を裏書

きする記事がみえる︒即ち︑﹁毎使至︒宏︵北魏孝文帝−筆者註︶親相応接︒申以

合壁︒甚鞍置人︒常常其臣下日︒江南多好臣︒偽侍臣単元凱対日︒

江南多好臣︒歳一贈主︒江北無好臣︒而百年一罪︒宏大暫出︒⁝⁝

先哲︒八年北使顔幼明︑劉思籔反命︒偽南部尚書李思沖詞︒二国之

和義在庇民︒如聞南朝大造舟車︒欲侵准油︒﹂とある︒ここに斉人とあるのは︑南朝斉王朝の人の意であろうから︑一つ一つの国とし

ては宋とか斉とかいったに相違ないが︑南方の政権として北の政権

に対比する時は︑南朝と称したといえるであろう︒

 これに対して︑断書︵42︶柳霞伝には北朝とみえる︒即ち︑ ﹁自

晋氏南遷︒臣宗族蓋寡︒従祖太尉︑世父儀同︑従父司空︑話劇位望

隆重︒遂障碍金陵︒平治先皇︒独守墳栢︒常誠愚意︒使不離此志︒

ムユ襲陽言入北朝︒云々︒﹂とある︒柳樽は元来河東郡解県の出身で

あるが︑柳霞の曾祖卓の時裏陽に移住した︵周書︵42柳霞伝︶︶︒ところが霞の

祖先のある人々は南朝に仕えて主位に至り︑金陵に居住するに至っ

たが︑一方霞の一家は︑男爵にあって祖先伝来の墳栢を守護せしめられてきたが︑今や裏書の地は北朝に井合されるに至ったというの

であろう︒この場合も︑南朝政権と北朝政権とを対立するものとし

て考えていること明かであろう︒

 このように︑宋朝以降において用いられた南朝或は北朝という表現は︑江南と河北とに相対立する政権を意味し︑南朝︑北朝はそれ

ぞれ一つのまとまりとして考えられていたことを示すものであろ

︾つ︒ ただここで注意しておくべきは︑この南朝︑北朝は別の言葉で表現されることも多かったということである︒いまそれらの例につい

  南朝における南北人問題︵南朝の成立︶ ︵矢野︶ てみるに︑宋書︵59︶層累伝によるに︑

﹁︵李︶孝伯又日︒君南土膏梁︒ 何為著雇︒虚血著此︒ 使将士云

何︒暢日︒膏梁之言︒誠為多悦︒但遠里武︒受命統軍︒戎陣之間︒

不平緩服︒孝伯又日︒長史︑我是中州人︒即処北国︒自製華風︒相

去歩武︒不得致尽︒辺皆港北人︒聴我占者︒長耳当忍冬我︒孝蕃昌

日︒永昌王魏主従弟︒自復常語長安︒今領精騎百万︒直属准南︒寿.春久閉門自営︒不敢相禦︒向送劉康祖頭︒彼之所見︒王玄護甚是所

悉︒亦是常才耳︒南国何意躍如此任使︒以薫習敗︒⁝⁝暢日︒知永

昌己過准南︒康祖為其所破︒比有信使︒ 無業消息︒ 王廿里南土偏

将︒不謂為才︒但以︹其北︶人︹故︺為前駆引導耳ρ﹂ ︵都雛瑚平癒褥︶

とみえる︒この中には︑南土︑南国︑北国など︑南朝︑北朝とは異った表現がみえるが︑さて︑これらはどのような意味をもっている

のであろうか︒南朝︑北朝とは無関係なのであろうか︒

 いま前述判読伝の内容についてみるに︑ 爆雷伯が張暢をさして

﹁君焦土膏梁﹂といい︑張暢が王業護をさして﹁南土偏将﹂といっ

た時︑それは江南の膏梁︑江南の偏将といえないことはないが︑ζ

の場台の南土とか江南とかは︑単に地理的な意味での江南ではなく江南政権︑即ち南朝と解さねばならぬであろう︒何故なら酒豪は王

警護をさして北人といっているが︑それは王玄護が太原王氏に属す

る︵蛛実態︶からで︑ 元来彼は所謂北人︵の子孫︶というべきである

からであろう︒然るにその王玄護が又﹁江南偏将﹂ともいわれてい

るわけで︑それはどうしても江南を地理的に解すべきではなく︑南

朝政権の賢将と解さねば矛盾することを示すものであろう︒勿論張暢伝にみるも一つの北界は︑単に河北の入の意かと考える︒たとえ

若し︑王玄護の場合も︑同じく単に地理的な意味に用いられた尋人

だと考えたとしても︑ ﹁江南偏将﹂はやはり﹁南朝の偏将﹂と考え

ねばなるまい︒というのは︑単なる﹁南方の偏将﹂という概念はあ

       五

(6)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第咽九号

り得ないわけで︑何等かの南の政権に属する偏将としか考え得られ

ぬからである︒

 では︑南国とか北国とかはどうであろうか︒ここの︑ ﹁南国書意

作如着任使︒以致奔敗︒﹂という記事をみれば︑南国というのは南

方政権︑具体的には宋朝をさすと解する外はないであろう︒南国を

同じような意に用いた例は︑南史︵16︶毛修之伝に︑ ﹁後覚修之俘

干魏︒亦見寵︒ ︵毛︶修之問朱修之︒ 南国当権者為誰︒ 答云殴空

費︒﹂とみえるものがある︒ ﹁南国当権者﹂とあるときの南国は︑

どうみても南朝をさしたものとする外はなかろう︵羅馴参軍︒ 若し

そうだとすれば︑北国という表現に北朝の意があるとしても無理で

はあるまい︒ここでは︑ ﹁我是申州人︒久処北国︒﹂とみえる︒申

州人というのは︑ 二胡出身たる李孝伯︵訳書へ53︶李孝伯伝︶自身の言葉である

が︑その意味は江北の人とか河北の人というもので︑全く地理的な

内容の言葉だといえる︒例えば︑藩法︵95︶索虜伝に﹁明年四月剋

之︒聖王有中州︒自称日魏﹂とあるのは︑北魏が北支那を占有した

時のことであり︑聖書︵58︶周処伝記の条に︑ ﹁紀宗族彊盛︒人情

所帰︒⁝⁝墨池中州人士︒ 佐佑王業︒ 而紀撃手為不得調︒内懐怨望︒﹂とあるのは同伝翻の条に︑ ﹁時儀国区無心守之士︒ 避乱来

者︒多摩顕位︒駕御道人︒韓人頗怨︒﹂とあるのを参照すれば︑中

州人士は東晋初頭の所謂北人にあたるわけで︑北支那の人々を指し

ているわけである︒ 従って︑ 至孝伯が自らを申州の人といったの

は︑全く地理的な意味で︑北支那の人の意に用いたものと考えてよ

かろう︒ ところでその中州の人が︑ ﹁久しく北国に処る﹂という

時︑ 北国という言葉は単に地理的な︑ 北の国という意ではあるま

い︒中州の人︑即ち北支那の人という表現に対して用いられた﹁北

国﹂である以上︑どうしても北朝という意にとるべきであろう︒

 以上によって︑盛土︑南国︑北国は︑少くともここでは︑南朝︑

北朝の意であるとしてよいであろう︒このような用例は北朝史書に

もみられるところで︑例えば︑北斉書︵33︶徐之才伝に︑ ﹁芝之人

君︒⁝⁝楊焙.以其南土黒人︒不堪典秘書︒﹂とみえ︑或は周七宗慷

伝に︑ ﹁及江陵平︒與王褒墨入周︒太祖以訳名雲南土︒甚礼之︒﹂

とある南土も︑両者が共に政治的背景をもって語られていると見え

るところにより︑単に江南の地と解するよりも︑南朝と解した方が

適当であると思われる︒更に同書︵41︶座禅伝によれば︑ ﹁時給逸

出朝廷通好︒南北流寓之士︒各許還其旧国︒﹂とみえるが︑この南北の旧国とは︑南国と北国︑即ち南朝と北朝の意であると思われ︑

それは千引周雪柳霞伝に﹁自晋氏南遷︒臣宗族野比︒従祖大尉︑世

父儀同︑従父司空︑蛙以野望隆重︒遂満干金陵︒三智先臣︑独守墳

栢︒常誠臣等︒使不戦此志︒ムユ章魚既入北朝︒﹂とあるところによっても明かなところであろう︒

 以上の如く考えうるとすれば︑南人︑北砂の中には︑南朝人︑北

朝人を意味するものもあった筈である︒上述した徐之才伝の南土の

人︑厘信濃の南北︵流寓︶黒鳥というのもそうであろうが︑更に例

えば︑魏書︵38︶王慧龍伝をみるに︑ ﹁世祖初即位︒成謂︑論人不宜委以師旅之任︒遂停前出︒⁝⁝︵慧龍︶臨画再試曹鄭各日︒吾霧

旅婦人︒領導旧業︒三聖朝殊特之慈︒得在艶場効命︒⁝⁝時制︑南

人入国者︒皆葬桑乾︒曄具申遺志︒詔許之︒﹂とあるが︑この場合

最初と最後の南人は北朝側からみたものであり︑中の聖人は慧龍が

自らを指した言葉である︒これら三つの南人を︑すべて南方の人︑

江南の人と解しても別に不都合はない︒けれども王慧龍自らが国人

と称した時︑そこには︑北朝においては何等の処遇をうけられなく

ても致方のない南人であるのに︑特別の慈をうけたとしているとこ

ろで明かな如く︑中の南人は政治的意味を含ませて用いてあること

からみて︑寧ろ南朝の人と解した方が適当ではなかろうか︒或は又

(7)

陳書︵21︶王固伝に︑ ﹁又宴於昆墨池︒ 魏人以南人当魚︒ 大自署

網︒嵩置佛法呪之︒遂一鱗不得︒﹂とある場合︑二人が魏国の人で

ある以上︑ それに対する南元は︑ 南朝の人ととるのが妥当であろ

ナつ︒ 或は又︑孟母︵35︶暴富伝をみるに︑商人︑南賊︑北国という表

現がみられる︒即ち︑ ﹁導通︒⁝⁝今国家亦未能一挙而定江南︒宜

遣人弔祭︒存其孤弱︑伽霊告災︒⁝⁝太宗大怒︒盲従罵言︒遂遣契

斤南伐︒⁝⁝滞日︒請先攻城︒子日︒南人長言冷温︒符氏攻裏陽︒

経年不抜︒ 夫以大国之力攻其小城︒ 若不時剋︒挫損軍勢︒・⁝浩日︒⁝⁝又高車號町名騎︒非不可臣而畜也︒夫以南人追之則患其軽

愚︒於国兵則不然︒何者彼能遠走︒我亦能洋弓︒與之進退︒非難制

也︒⁝⁝或有冷罵者︒ 今呉暑寒憲︒ 隊舎之北伐︒−:.・後有南賊之

患︒浩日︒不然︒今年不催千旦則無禦南賊︒自国家井西国以来︒門

人恐催︒書冊動衆︒以衛豊北︒⁝⁝大軍既還︒盗賊寛不能動︒如浩

所量︒⁝⁝後冠軍将軍安皇軍十四墨摺︒因説南賊都響云︒義隆勅其

諸将︒若北国挙動︒先其必至︒径前入河︒﹂︑とある︒この申に用い

られた南勢︑人置︑北国という表現は︑全部が南︑北両政治勢力の対立関係において用いられているものであるから︑この場合の南人

は南朝の人と解するのが適当と思われる︒ このように考えれば︑南人︑北人の中には南朝人︑北朝人の意に

用いられた場合もあったと思われる︒

ωの@の場合︒

 次に︑単に地理的な江南の人︑河北の人の意に用いられた南人︑

北人についてみるに︑この場合は極めて多く︑当時の一般的用法で

あったようである︒

 いま顔氏家訓をみるに︑多くの野人︑北人という語を見出すが︑

殆んど単純な江南の人︑河北の人の意であると考えられる︒例えば

  南朝における南北人問題︵南朝の成立︶ ︵矢野︶  ﹁業人賓至不迎︒相見捧手捕不揖︒ 送客下席而巳︒ 党人迎送娩門

門︒相見則揖︒芝之道也︒吾善旧恩揖︒﹂︵風操篇第六︶とか︑ ﹁軽微者四

重追慕銭為挺︒以石為射︒以襲為羨︒以是為舐︒北野以庶為戌︒以

如為儒︒以紫為姉︒以治為押︒﹂︵音辞篇第十八︶とか︑ ﹁河北士人︒皆墨刑

祖父母為家公家母︒江南田間亦言忌︒以家代外︒非吾所識︒⁝⁝河

北士人錐三二十世猶呼為従量従叔︒ 目無帝嘗専一中土人日︒ 卿北

道︒何故不知有族︒﹂︵風操篇第六︶などと見える︒これらは野南人と北野

との風俗︑習慣のちがいを記している︒ここで︑河北と江南とが対

比的に用いられていることからみて︑庫入というのは江南の人︑船

人というのは河北の人のことだと考えて間違いない︒

  一般的にいって︑このような用法は極めて多かったようで︑例え

ば︑ 北朝関係史料の例では︑ 北斉書︵33︶瀟退学に︑ ﹁︵退︶子慨︑深沈有礼楽︒善好学︒轟轟隷書︒南士中野長者︒﹂とあり︑魏

書︵71︶夏善道遷伝に︑ ﹁初︵夏侯︶央與悪人調馬︑慶道︑江文遙

等終日丁重︒酎飲競際︒恒相照日︒人生誓事︒何殊朝露︒坐上相半

先後之心耳︒﹂とあるのは︑先述した如く︑宛も王慧龍が北魏の人

々から南端といわれたものと同じで︑同様に江南の人︑江南の士人の意にとってさしつかえないであろう︒更に︑魏書︵45︶毛修之伝

に︑ ﹁修之能為南人飲食︒手答煎調︒多所適意︒﹂とあるのは︑顔

・氏家訓にみえるものと同様︑習慣に関するものであり︑江南の人と

みるべきものであろう︒

 他方南朝関係史料についてみるに︑宋書︵65︶杜購伝に︑ ﹁晩度

北人︒朝廷常以愴燕遇之︒黒蓋人才可施︒毎為清掴所隔︒ ︵杜︶坦

長箱慨然︒﹂とみえ︑南史︵16︶王玄護伝に︑ ﹁三元景︑垣護之︒

拉錐北人︒而玄護独受老愴之目︒凡諸称謂四方書三業鳶尾︒﹂とあ

るが︑前者に関しては︑同じく宋書杜膜伝に︑ ﹁︵杜︶坦日︒請以

臣言之︒臣本中心高族︒⁝⁝直以南度不早︒便以荒篭賜隔︒⁝⁝聖

       七

(8)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号

朝錐復抜群︒臣恐未必能也︒﹂とあるのを参照すれば︑晩度北人と

は︑南度早からざる北人の意で︑ 東菊初頭にみられた︑ 江南無人

︵南人︶と対立する所謂痴人とは異るといえよう︒即ち︑この場合

は単なる江北出身の人の意にとってよいのではあるまいか︒

 次の王六輝の記事については︑宍書︵76︶心墨墨筆に﹁耳蝉押侮

撃臣︒随其状貌貰年比類︒多潮曇謂之羊︒顔師伯鉄歯號置型︒劉秀

之倹吝︒呼為老齢︒黄門侍郎宗山巡体肥︒拝起不便︒毎至集会︒陣所賜與︒欲其際謝苗齢以為歓笑︒又刻木作霊里馬光禄勲叔心像︒送

其家騰事︒﹂という記事がある︒この記事にみる︑孝聖帝が撃臣を

侮蔑し︑ からかったことの一つとして︑ 車引記事について考える

に︑ ﹁柳元景︑垣護之︑王玄鶴は共々に北側であるのに︑零本護の

みがひとり老億という軽蔑の評をうけた﹂という意であろう︒これ

ら三人の中︑王玄護のみが老愴と評されたという時︑本来ならば三

人とも老愴と評さるべきであるのに︑という意がかくされている筈

である︒すると杜趣意によって明かな如く︑これら三人は︑共に晩

度の北人として遇された人々であったわけである︒即ち︑これら三

人を北人という時︑それは単なる江北の人の意にとってさしつかえ

あるまい︒ 或は又︑陳書︵53︶戚虚伝に︑ ﹁呉盛塩官人也︒⁝⁝就国子博士

気疲方︒質儀礼義︒懐方隼人︒自証携儀礼︑礼記章︒﹂とあるのも︑単なる河北の人の意にとってよいと思われる︒ 以上︑南朝における南人・心素の意味を明かにする為に︑南.北

両朝関係史料を利用してきたのであるが︑北朝においては︑南朝において全く見られない意味に用いられた例があるので一言しておき

たい︒例えば︑魏書︵311︶官氏志をみるに︑

﹁太和十九年重日︒代人諸経︒先無姓族︒錐功賢之胤︒混然未分︒

⁝⁝高空公下庄︑領軍将軍元撮︑中将軍広陽王嘉︑尚書陸瑳等︒詳

定翌翌姓︒務令平均︒﹂とみえている︒この場合の北人は明かに代

人を指しているので︑決して北支那の漢人とか︑北朝の人という意

味ではない︒このような例は︑資治通鑑︵011︶隆安二年秋七月の条

にも﹁初太原今旦挙兵建安︒南北画人︒猛然従之︒︹鯉が捕鰍㈱馳螺来︺

蘭蛇遣其兄子道導奇︒奇撃滅之︒﹂とみえ︑ 又同書︵521︶元嘉二十

七年夏四月の条にも︑ ﹁︵崔︶墨書魏之先世︒ 事皆野実︒ 列於雲

路︒往来見者︒成以題言︒北人里不急悉︒︻醐欝健脚革篭従︺﹂とみえ

ている︒この湾入・華人に対して︑胡三省は鮮卑族出身者と北支那

の漢人とをあてているが︑いま寸書︵聖慕容盛載記や︑魏書︵35︶

崔達筆によって︑同じ事件についての記述をみても︑此人・南人と

いう文字は見えない︒例えば︑慕容盛空中には︑ ﹁三悪容奇聚衆子建仁︒将寒蘭汗︒百姓翁然適宜︒﹂とあるのみであって︑軒並はこ

の﹁百姓﹂を︑ ﹁南北之人﹂として表わしたわけである︒しかし︑

通患がこう書き換えたことは何かよるところがあってのことと思わ

れる︒というのは︑前述官面影にみた如く︑代人を翁人とする用法

が当時存在していたことが明かであるからである︒

 こうみてくると︑北朝においては南朝にみられない北人の特殊な

用法があったわけである︒ところが︑自らを南人と考えた顔之推は

平氏家訓︵帰心篇第十六︶の中で︑ ﹁胡人見錦︒不信有虫食樹︑吐緕忘年︒昔

在江南︒不信有千人藍帳︒及来河北︒不信有二万繋船︒皆実験也︒﹂

といっている︒このように︑南人にとっては江南の人と河北の人し

かなかったのであって︑北荒より来った人々は胡人といわれたものであろう︒けれども北朝では︑胡人も亦北人と表現されることがあ

ったようである︒

 さて︑以上のように︑南朝において使用されている直人・組立の

意味は︑第一には︑東晋初頭以降にみられた︑政治的・社会的対立

(9)

状態における南人・北人と︑第二には︑江南の人と河北の人を指す

一その場合︑政治的背景を考える場合と︑単なる地理的区別という

場合とがあった︒iという二つに大別できそうである︒そうすると

筆者が序の中で述べたような︑南朝における為人の消滅どころでは

なく︑東晋時代に比べて︑反って仁人・北人の意味が複雑になって

きたとさえいえるようである︒ここにおいてか︑も一度東晋時代に

おける︑南部北人の用法について振返る必要がありそうである︒

 さて東晋時代においては︑従来とり上げられた如き︑所謂東窯初

頭的一政治的︑.社会的に対立する南︑北人という一用法以外の南︑

北人についての用法はなかったのであろうか︒若しあるとすれば︑

それを含めた東晋時代における南人︑属人の用法と︑南朝における南人︑得人の用法との間にはどのような変化があったであろうか︒

それらを考察することによって︑東晋朝から南朝への政治的︑社会

的変化の一端を伺うことができるのではあるまいか︒

 今まで東晋初頭以降に関して用いた愚人︑北人という表現は︑既

に序の申で述べたように︑江南に本貫をもっていた人と︑江北に本

貫をもっていた人︵乃至はその子孫︶との政治的︑社会的対立とい

う形で考えられていた︒このような理解は︑当時の政治情勢に即して考える時は︑当然のことであったとしてよかろう︒しかし実は︑

単に地理的な意味をもつのみの満人︑北人という用法も︑そのころ

になかったわけではない︒例えば︑晋書︵57︶吾彦伝に︑既に南

人︑聖人の政治的対立のきびしくなりつつあった平首後の雲影時代

︵鯉簿重星㌦獣の縫間題﹂︶のことではあるが︑﹁長沙孝廉サ虞謂︵陸︶子等日︒⁝⁝卿以︵吾︶士則答卑小有不善︒殿之無己︒吾恐南人皆将

臨監︒卿便独坐也︒於是⁝機等意始解︒﹂とある︒ここにみる芸人は

北人達の間に僅かに入りこもうとした愚人の団結を呼びかけたもの

であるから︑所謂対立する南人︑北人という解釈よりも︑単に江南

  南朝における南北人問題︵南朝の成立︶ ︵矢野︶ の地から河北の政治社会にでてきた人々︑という単なる地理的な意味のものと解すべきではなかろうか︒或は又︑晋書︵87︶涼武昭王伝に︑﹁及玄盛東遷︒皆々潮干酒泉︒今戸人五千算置会稽郡︒中州人五千戸置広夏郡︒﹂とあるが︑前述した如く︑中州人というのは北支那の人の意であるから︑これに対置された南人は︑地理的な意味の江南の人︑南支那の人の意であるとしなければなるまい︒ 次に岳人については︑晋書︵67︶郡蓼伝に︑ ﹁臣所由錯雑︒率多北人︒或逼皇朝︒或是新附︒百姓懐土︒皆有帰本定心︒﹂とみえるが︑この北人は北方出身の人々をさすと考えてよく︑単なる地理的な意味のものといえるであろう︒又︑世説新語︵文学第四︶によってみるに﹁二季諺語孫安国云︒痴人学問︒渕綜広博︒孫良日︒証人学問︒清通簡要︒支道林聞之日︒聖賢固面忘言︒自諸人以還︒山人看書画顕処斜月︒南人学問如釜中窺日︒﹂とあり︑同書︵任誕第二十三︶の劉注に︑ ﹁続晋陽秋日︒蓑山松善音楽︒北人旧六斎行路難︒曲弦頗疎︐質︒山松好之︒﹂とある場合の翌年︑真人は︑地理的区分としての南人︑学人と考えてよいのではなかろうか︒ところで︑そのような南人︑北人の考え方は︑例えば魏志︵28︶諸葛詳伝に︑﹁三年正月︒誕︑欽︑盗等大為攻具︒昼夜五六日︒攻南囲︒欲三囲而出︒⁝⁝城内珠玉端︒降出者数万口︒野上尽出北方人省食︑與呉人堅守︒﹂とあるところによれば︑尋人︑北方の人として表現きれている︒この場合︑ ﹁聖人﹂は呉国の人の意であろうが︑ ﹁北方人﹂は北支那の人の意と考うべきであろうから︑士人とか尋人とかは︑元来南の方の人︑北の方の人という地理的名辞として︑どの時代にも存在していたと考えてよいのではなかろうか︵蜀志13李恢伝参照︶︒ こう考えてみると︑東予時代の南人︑北人の用法にも︑ω門閥社会において︑政治的︑社会的対立関係にあった外人と北人︒㈲単に地理的な区別を示すのみの南人と北人︑ の二つがあったことにな

      九

(10)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号

る︒これを︑前述した南朝における南人︑有人の用法と比較してみ

ると︑東晋︑南朝何れにも︑地理的区別を示すのみの南人︑尋人が

みえる︒このことは︑このような地理的区分による称呼は︑前にも

推定した如く︑何時の時代にも行われた用法であることを示すと共

に︑このような地理的用法こそ最も基本的な用法であることを示す

ものではあるまいか︒守屋氏が﹁南人と至人﹂︵﹁東亜論叢﹂︵第六輯︶所収︶の中で︑

﹁聖人︑北人は南北朝ごろの史籍によく使われる言葉であって︑畢

寛︑江南人と江北人の謂ひに外ならない︒﹂ ︵担㎝⊂D︶とされている

のは︑これこそ最も基本的な意味であるとされていると解してよか

ろう︒従って︑その他の用法は︑この江南の人︑河北の人という考

の上に︑当時の政治的︑或は社会的情勢が加味されて用いられた︑

いわば歴史的︑特殊的用法であることが察せられるであろう︒

 そこで︑いまここで問題となるのは︑東晋初頭以降に用いられた

政治的︑社会的対立にあった南人︑基壇の用法が︑北人が南入化したと思われる南朝においても依然として見出されるという点と︑南

朝時代には︑東山朝にはみられなかった南朝人︑北朝人の用法がみられるという点と︑この二つをどう考えるかということであろう︒

 さて︑東晋時代において︑所謂東晋初頭的用法が︑宛も南人︑北

面の全用法であるかの如き観を呈し︑寧ろ基本的用法と思われる地

理的用法はあまり目立たないという事実は︑江南の政権︑即ち東晋朝の初頭における蔵人︑北人の政治的︑社会的対立が︑極めて厳し

かったという当時の政情によるものであろう︒ところが南朝におい

ては︑北朝政権と南朝政権との封立を前提としての︑南朝人と北朝

人という考え方が生まれてきているわけである︒そのような︑江南

の土地に一つのまとまりとして︑江北政権に対立する南朝政権を考

えた場合︑たとえ南朝において︑依然として東晋初頭江南人︑北人

の用法が行なわれていたとしても︑果してそれは︑以前と同じ意味 一〇

をもつものとして捉えてよいのであろうか︒このような︑南朝にお

いて行なわれている﹁矛盾するかにみえる二つの用法﹂について︑

今から具体的に考えてみよう︒

 既に指摘した如く︑ 東晋末になると︑ 守屋氏の所謂朝事の南無

化が行なわれ︑ 元来浮人と称すべき人々が︑ 自らを南人と考えた

(前

・v︵東亜論叢第六輯︶︶が︑筆者も亦小論含岩畳勝議舞鰍中暑縣社︶を発表して︑江南に遷った北人達の子孫は︑本貫を南に移して完全な堅人

となっていったであろうとした︒このような思人の南海化は︑例え

ば越智氏が指摘された所謂南人と北人の︵子孫の一︵辮羅じ︶︶婚姻

にも現われている︒即ち氏によれば︑南朝においては︑ ﹁このよう

にみてくると︑南北人︵上層部︶間の通婚には必ずしも﹃在地豪族間であること﹂のわくを必要とせず︑﹃非貴族間であること﹄の枠

こそ絶対的なものであったと断定されるのである︒この事実を︑貴

族が江東豪族︵に代表される南人︶と少なくとも原則的に三面しな

いという事実とあわせ考えると︑南朝における南北人︵上層部︶間

の不通婚とは︑貴族が江東豪族︵諸氏の主領たち︶との間に自らの

政治的優越性を絶対的に保つためにとった対策の一つにすぎぬと解

してよかろう︒﹂︵﹁南朝の胃族と豪族︵史淵第六十九輯︶﹂︶とされている︒これによって明か

な如く︑貴族即ち北方系一流貴族と江東門閥との間にこそ不通婚は

あったにしても︑それ以外の非貴族即ち非一流貴族の間では︑南人と優人の ︵子孫の︶通婚に︑ ﹁世人が奇異の感を示したとはいい

⁝難い﹂︵胴︶のであって︑それは一般尋常のことであったとされてい

る︒ということは︑少なくとも一流門閥と考えられる北方系貴族を

除いた︑所謂南人と北畑との︵子孫の︶間には自由な通婚︑即ち社

会的融和があったということになろう︒この限りに於いては︑越智

氏の見解は守屋氏や筆者の見解とも同一線上にあるといえよう︒

 しかしながら︑北方系一流門閥と︑江南門閥との間に原則的に不

(11)

通事があるという事実について︑それは北方系貴族と江東門閥との

政治的対立︑北方系貴族が自らの政治的優越を確保する姿勢に由来

すると越智氏は解される︒とすれば︑このような不通婚の現象は︑

表面的には社会的現象であるかの如く見えながらも︑実は政治的な南北対立に附随するものにすぎず︑南朝においては︑所謂南人︑北

人︵の子孫︶の対立関係は︑政治的なものが根本であったといえそ

うである︒ 若し以上の如く考えられるとすると︑南朝にみる憂人と北人︵の

子孫︶の対立は︑宛も一見した時には東晋初頭以降にみた︑南人と

北人の政治的︑社会的対立と全く同じであるかのように見えるとし

ても︑決して同じものとはいえない︒例えば前評した張緒と王倹の

場合についてみるに︑北人系貴族王倹が江東門閥張緒を抑えたこと

について︑越智氏が︑ ﹁倹が斉太祖による緒の尚書右僕射任命に反

対したのは︑個人的な感情の対立などからではなく︑皇帝が江東豪

族諸氏の主領たちをその貴族的教養の高さを以て重結することに対

する貴族側の脅威一対立感のたまたまの露呈と解さねばなるまい︒﹂

︵同上︶とされているのをみれば︑正にこれは︑社会的対立はないにもかかわらず︑政治的には対立するという姿勢であり︑換言すれば︑

一流貴族が巳に迫る二流貴族に対決する姿勢であるというべきであ

ろう︒それは︑前引南届書︵44︶沈文責伝にみる︑薬量略に対する天子と王倹の態度の相違にも伺えるようである︒そのような対決の

姿勢の結果として︑ ﹁南無無調射︑多歴年所︒﹂とか︑ ﹁南風不

競︒非復一日︒﹂︵何れも南斉書︵44沈文書伝︶︶という有様となったのだと思われ

る︒即ち︑この対立は︑言葉の上では南無︑北士の対立という形をとっていても︑現実的には一流貴族が︑迫り来る二流貴族に対して

一定の距離をおく為にとった手段の一つであったと解してよいであ

ろう︒

南朝における南北人問題︵南朝の成立︶ ︵矢野︶  このような考えは︑筆者が先に発表した︑ ﹁東女における南北人対立問題−その政治的考察﹂︵﹁東洋史研究︵26の3︶﹂︶︑ 及び﹁その社会的考察﹂

(「j学碓誌﹂︵77の10︶︶の両論で展開した如き︑東晋一代の間に︑所謂南︑北人の

政治的対立も︑社会的対立も解消しつつあったという見解に立つな

らば︑当然の帰結として出てくる考えであろう︒筆者はこのように

南朝にみえる政治的対立は︑南士︑北士の対立という形をとってい

る場合でも︑執権グループとそれに迫るグループとの政治的対立で

あったと考える︒

    ㈲

 以上のような考えにたって︑前引した杜墨書︵宋書65︶の記事をも一

度振返ってみたい︒そこには﹁晩学北人︒朝廷書写愴志州之︒錐復

人才可施︒猛毒清馬所隔︒﹂とか︑ ﹁直以南度等式︒ 信管荒聖賜

隔︒﹂とかの記述があった︒これに関連した記事として︑資治通鑑

︵421︶元嘉二十三年秋七月の条によれば︑ ﹁時江東︒ 王謝雷族方盛︒傷人晩渡者︒朝廷愚身愴菱蟹之︒﹂とみえるが︑その胡注には

﹁哲人呼北人為壁上︒言其自荒外来也︒﹂とあり︑南方の人々が北

支那の人々を田舎者として軽蔑して槍荒と呼んだとしているようで

ある︒この受注が正しいことは︑墨書︵58︶周処伝記の条に︑ ﹁将卒︒謂子四日︒殺聖者薙髪︒子能復之︒乃吾子也︒同人謂中州人日

億︒故云耳︒﹂とか︑ 墨書︵77︶陸皇猷に︑ ﹁玩嘗詣︵王︶導食

酪︒因而千畑︒興導寧日︒僕錐夢人︒幾為倫鬼︒﹂とか︑早書︵92︶

左思伝に︑ ﹁︵陸機︶興弟雲書展︒此問有億父︒欲作三都賦︒須其

成︒当以覆酒甕耳︒﹂とかみえる如く︑億とは江南人が北方人を呼

ぶ名称であったが︑ 元来愴には︑ ﹁いやしいもの﹂︑ ﹁いなかも

の﹂の意があること︑晋書︵80︶王献之伝に︑瑛邪出身の主献之が

呉郡の墨金彊の名園に案内も乞わずに入りこんだ時︑辟彊がこれを

非難して︑ ﹁傲主入非礼也︒以貴驕士非道也︒失是二者︒不足歯之

      八一

(12)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一九号

億也︒﹂といったという記事がみえることによって明かであろう︒

従って杜騨伝や資治通鑑の記事によれば︑晩度の北開は朝廷及び有

力門閥からは億として軽蔑の態度で迎えられたことになる︒そのこ

とは︑逸書︵84︶楊栓期伝に︑ ﹁弘農華陰人︒⁝⁝自由︒ 門戸承

籍︒江表土比︒有其門地比王殉者︒猶悉恨︒而時人以其晩過湿︒婚

堂守類︒毎排抑之︒恒慷慨切歯︒悪因事際以逞其志︒﹂というとこ

ろでも裏付けられよう︒即ち東晋末以降︑河北から江を渡って訳し

た人々は︑たとえ自らは中華の高族と考えていても︑南方の朝廷︑その周辺の有力門閥からは︑北支那の愴として蔑視されたというこ

とになろう︒即ち︑同じく愴といっても︑東嶺初期のものは所謂南

人が北人を排斥してそう呼んだにすぎぬが︑東晋末から南朝にかけ

ての愴は︑ 南方の政権や︑ 早く南渡した所謂北人︵の子孫︶によ

る︑嘆く南渡してきた人々に対する軽蔑の称であったといえる︒ ここまで考えてきた時︑このような南朝の政権︑南朝の門閥社会

第二次門閥社会は︑東晋初頭の政権︑西晋以来の門閥社会11第一

次門閥社会とは︑全く異ったものだということに気づくであろう︒

東晋初頭政権は︑北方から渡江した人々を中心とし︑江南の人々をもかかえ込み︑所謂南人︑北人の協力︑妥協の上に成立した︒とこ

ろがここにみる南朝政権は︑北支那から江を渡ってやってくる人々を︑自らとは異質的なものとする態度をとっている︒即ち︑南朝政

権は︑北人政権でもなければ︑南人政権でもなく︑正に南朝政権で

あったので︑東晋政権が政治的には寧ろ同人を中心としつつ確立さ

れていったのとは異っているのである︒ 先に︑南人︑北人を調査して︑東晋時代とは違って南朝の人︑北

朝の人という意味を考え︑江南が一つのまとまりであり︑河北が一

つのまとまりであるという意識の存在を見出したのは︑正しくこの

南朝政権の成立を示すものといえよう︒ 一二

 以上のように考えてくると︑東晋末以降︑南朝政権︑南朝門閥社

会︑第二次門閥社会が成立し︑それは東晋初頭的母人︑北人の対立

を解消した形であったに相違なく︑北支那の人々︑北朝政権に対し

て︑封鎖的な世界を形成していたといえよう︒従って︑その封鎖的

世界の申で︑妙義初頭的南︑北対立の形が残っているとしても︑そ

れはただ南︑北対立に形をかりた︑政治権力をめぐる︑一流対二流

の対立︑第二次門閥社会内の階層的対立であったたと解すべきでは

なかろうか︒

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