北邙を詠ずる詩歌 : 漢代から南北朝末期まで
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(2) . 人文科学 ・ 北海道教育大学紀要 ( 社会科学編)第五十巻 第二号. 北郊を詠 ず る詩歌 ー漢代から南北朝末期までー. 平成十二年二月. 北郡と いう 山名 から墓地を連想す ることは容易 であ ろう 。なぜならば北部. 後. 藤. 秋. 正. 的な変化はな い。 ここでは 『 元和郡県図志』巻 五、河南道 一、河南府 、優師 県 の条 を 引 い て お こう 。. 北部山 、在県 北 二里 、西目洛陽県界東 入葦県界 。旧説 云、北郡 山是瞳山. れ るほか 、『 楽府詩集』巻 九十 四、新楽府辞 五、王建 「 北部 行 」 の題解 に 、. 旧説 に云う 、北郡 山は是 れ瞳山 の尾 にし て、乃ち衆 山 の総名 なり 、連嶺 ・. 北部 山は 、県 の北 二里 に在り 、西は洛陽県 の界より東は葦県 の界 に入る。. 之尾 、乃衆山総名 、連嶺倍 亘 四百余里 。. 「 按北部行 、言人死葬北部 、与梁甫吟 ・泰 山吟 ・嵩里行 同意 。 按 ず る に北 」(. 俗亘す ること 四百余 里。. の語は、挽歌 や送葬詩など 、もともと送葬を主 題とす る詩歌 にしば しば見 ら. 郁行 は、人 の死し て北郊 に葬ら るるを言う、梁甫吟 ・泰山吟 ・嵩里行と同意。 ). こ の文章は 、『 水経注 』巻十 六、穀水 の条 の、. ふ. ( 3v. むか. 「 郎」と は、『 説文解字』 には 、「 郡 、河南雛 陽北 、き山上邑山 ( 郎 は、河. た って東西 に続く 丘陵地帯を 、古 来、北郊と 言 い習わし てきた のであ る。. ( 2v. 、孟津県 にま たがり 、ほぼ 二百 キ ロメー ト ルにわ 優師市 ミ葦義市 ( 旧輩県 ). 水と合流した後 は伊洛水 )と黄 河 に挟ま れた地 、現在 の行政区域 で言えば 、. と いう記述を踏まえ る のであ ろう 。 いず れ にし ても 、洛陽 の北方 、洛 水 ( 伊. 塑 なり 。. ・修 亘し て、衆山を萄惣す 、洛 口より始まり 、西し て平陰を蹴 ゅ、悉く郎. 穀水 は又東 し て広莫 門 の北を運 、漢 の穀 門なり 。北 は節卓 に対う 、連嶺. 目洛 口、西蹄平陰 、悉都塑也 。. 穀水 又東進広莫 門北、漢之穀門也 。北対郡阜 、連嶺修 亘、萄惣衆 山 、始. と 指 摘 さ れ る よ う に 、 唐 代 に お い て は 楽 府 題 にも 用 いら れ て いるから であ る。 で は 、 北 部 は い つご ろ か ら 詩 歌 に詠 じ ら れ る よ う にな った の であ ろう か 。 ま た 、 ど のよ う な イ メ ー ジ を 伴 って詠 じ ら れ て いた の であ ろう か 。 以 下 、 北 ( IV. 郁 ( 郡 山、若 山などとも称す る) の語 に ついて、とりあえず は南北朝末期ま で に限 って概 観 す る こ と と す る 。. 二 ま ず 、 北 部 の位 置 に つ いて確 認 し て お こう 。 こ れ に つ い て は さ ま ざ ま な 資. 料 に記載 があり 、時代 によ って洛陽城 の位置が変 化し て いて記述 の基点 が変 わるため に、そ の位置 や方角 にも多少 の差 があ るが、当然 のことながら基本.
(3) . . 正 秋 後 藤. 云 北 部 、 砂 知 芝 山 実 。 ::: 北若 山在今 河南 河南府 、府 北十里 、山連 侶師 、. 山本名鑑 、山上 之 邑 則 作 部 、 後 人但 た村落 の名 であ ったらし い。段注 は 、「. 若山」 の山上にあ っ 南雛陽 の北 、き山 の上 の邑 なり 。)とあり 、もともとは 「. 墓域化 したと いう こと ではな いから であ る。. た西周貴族墓群が発掘され ており 、劉祉 の埋葬を契機と し てにわか に北節 が. 遡 ると 、 一九 六四年 以来 、洛陽 の北郊、北部 の南麓 では、多く の副葬品を伴 っ. る、故 に其 の家を呂 母と名づく るなり 。)と いう 記述を 引 いて いる。 さ ら に. ^ 4}. 山 は本と差と名づけ 、山上 の邑を 則ち郎と 翠 、孟津 三県 、綿 亘四百余 里。 」(. それ ではなぜ北部 が洛 陽 の墓域と し て注 目された のかと いえば 、第 一義 的. すくな. 作す 、後 人は但だ 北郡と 云 い、芝山を知 ること妙なき のみ。:::北若山は今. 北 」( 葬於北方 北首 、三代之達礼也 。之幽之故 也。 には 、『 礼記』檀弓 下に、「. ゆ. の河南 河南府 、府 の北十 里 に在り 、山は優師 、葦 、孟津 の三県 に連なり 、綿. 方 に葬り北首す るは、三代 の達礼なり。幽 に之く の故 なり 。) と あ り 、 鄭 注. の条 に は 、 湯 帝 の建 都 に つ い て次 のよ う に言 って いる 。. し て いた こと によ る。さら には、そ の眺望 の良 さも 理由として挙げられよう。 元和郡県図志 』巻 五、河南道 一、河南府 階書 』の 記載と は若干異な るが 、『 『. みやこ. 亘す ること 四百余 里。)と言う 。だとす ると 、若 山が古 名 で、 村 落 の名 が 節. が、 「 北方 は国 の北なり。)と言う よう に、洛 陽 の北方 に位置 北方 国北也 。 」( ^ 5}. だ と いう こと に な る 。. 郊 山」 と いう 別 名 このよう に九朝 の古都洛陽 の北 に位置す る北畑 には、 「 。 水経注 』巻 一五) もあ ったよう だ (『 洛陽周公所営洛邑也 、故洛話 日、我ト纏水東 、亦惟洛食 、其 城、方 七百. 仁寿 四年 、湯帝 詔楊素営東 京 、大業 二年 、新 都成 、遂徒居 、今 洛陽 ・ ::・. 一十 八里。初 、湯帝嘗登郡 山 、観伊関 、顧 日、此非龍 門邪 、目古何 因不建. 宮 是也 。其宮 北拠が 山 、南直伊 闘之 口、洛水 貫都 、有河漢之象 、東去故城. 亦惟れ洛. 都 於此 。僕射 蘇威対 日、目古非 不知 、以侯陛 下。帝大悦 、遂議都鴛 。. 二十丈 、南繋 千洛水 、北因子郊 山 、以為 天 下之湊 。 洛陽は周公 の営む所 の洛邑なり 、故 に洛語 に日う 、我 ◆纏水 の束をトす、 食むと 、其 の城は、方 七百 二十丈 、南 は洛水 に繋かり 、北は郊. 山 に 因 り 、 以 て 天 下 の湊 と 為 る 。. 新都成り 、遂 に居を徒す 、今 の洛陽宮是れなり 。其 の宮 北は郡山に拠り、. 楊 素 に 詔 し て東 京 を 営 ま し む 、 大 業 二 〔元 〕 年 、. 後 漢 書 』 にお け る北 倒的 に増え る のは後漢 に至 ってか ら であ る。 ここで、『. 南 は伊 闘 の口に直 たる、洛水. ・ ::・ 仁 寿 四 年 、腸 帝. 部 への埋葬 の記録 に ついて見 てお こう 。. れ龍 門 に非ざ るか、古 より何 ぞ困り て此 に建都 せざ るかと 。僕射 の蘇威対. 左伝』など に登場す樋 が、北部 に関す る記録 が圧 さて北郊 は 、早く には 『. 洛陽 三五)に、光武帝 劉秀 の族 兄劉敵 の子 、劉祉を 「 まず、建 武十 一年 ( 巻 一四、劉祉伝 )があ る。 これが北部 が埋葬 の北モ」 に葬 ったと いう記録 (. え て日く 、古より知られざ るには非ず 、以 て陛 下を侯 つと。帝大 いに悦び、 ここ. 四九 )には 、光武帝 に従 って王葬を 討 つのに を 見 てみよう 。建武 二十 五年 (. 後漢書 』 の記事 しかし、ほか にも 理由 は考え られ そう であ る。もう少 し 『. はか. こと 一十 八里。初 め、湯帝 嘗 て雄 山 に登り 、伊 闘を観 、顧 み て日く 、此. 都を貫き 、河漢 の象有 り 、東 に故 城を去 る. の地域と な ってゆく契機と な ったとす る説も あ観 が・決 し てそう ではな いo. 遂 に譲り て島 に都す。. あ. 巻 八十 五 、 呂 不章 列 伝 に 史記』- 記録 に見 る限り にお いても これより早く 、 『 ようやく. 度り、課 せら れ ん こと を 恐 れ 、 乃 ち 鳩 を 飲 み て死す 。)と あ って、 斐 馴 の. 自 ら 梢 侵 さ る るを. 呂不章家在河南洛陽北部、道西大家是也。民伝言 集解』は、『 皇覧』 の、「 『. 功績 があ った部長を 北き に葬 っており 、 この時 には彼 の妻 であ る光 武帝 の姉 。さらに建 武 二十 八年 (五 二 ) 巻 一六 、都騰伝 ) の劉 元も合葬 され て いる (. 呂 不章 は、「 呂 不章目度箱 侵、恐課 、乃飲鳩 而死。 」(. 呂不牽 の家は河南洛 陽 の北部 に在 呂母家。不掌妻先葬 、故其 家名呂母也 。 」(. 巻 一○上 、郭 皇 后伝 )。 ま た 、 には 、光武帝 の郭皇后を 「 北モ」 に葬 った ( 是れなり。民. 伝え て呂 母 の家と言う 。不草 の妻 先 に葬. り 、道西 の大 家.
(4) . 北祁を詠ずる詩歌. 人 の勤労 せる 噴. 南 に在り 、西 に平陰を 望 み、東南 雛 陽を去 ること十 五里 。)と いう 記 述を. 帝王世記』の、「 『 在臨平亭之南、西望平陰、東南去雛陽十五里。 臨平亭 の 」(. 陵 に葬られ て いる。原陵 の所在地 に ついて、 『 後漢書』 礼 儀志 下 の注 には 、. れた こと がわかる。光 武帝自身は 、明帝 即位後 の中元 二年 ( 五七 )三月 、原. 後漢期 におけ る北郎 は、当初 は光武帝 ゆかり の者 の代 々の墓所と し て用 いら. 郡驚 は い った ん郷里 の南陽新 野 に葬 られたが 、そ の後 「 洛陽北そ の旧峯」 に 。 こう し てみると 、記録 に見 るかぎ り 「 還葬」 され て いる ( 巻 一六 、都鷹伝 ). 恐れた段珪ら に連 れられ て洛陽東方 の小平津 に逃走す る。そ の後 、董 卓 が段. に巻き こまれ 、同年 八月、同僚を殺 され 、さら に董卓が進 軍し てく る ことを. 即位 ( 少帝 )す る。しかし、彼 は何進 ・哀 術と高官 の張譲 ・段珪らと の争 い. 平六年 (一八九 )四月 、霊帝劉宏 が崩じ 、皇子 の劉弁 (一七 三1 一九 0 )が. 謡」 にお いてであ る。 こ の 「 童謡」 の成立 には以下 のような背景があ る。中. ま つわ る感慨 はな い。 ついで北鄭 が登場す る のは、 いわ ゆる 「 霊帝末 京都童. ここでは北郊 は宮殿 が立ち並 ぶ洛 陽を見渡す場所と し て詠 じられ 、墓地 に ‐. 4人之勧労号噴. 8} ^. 光武帝 の長安遊学時代 の友 人 であり 、河 北 の平定 に功績 のあ った都謡 の孫 の. 清 一統志 』は 、こ の場所 は河南省孟津県 の西 にあ た ると 言う 。 引 いて いる。『. 珪 らを滅 ぼし、北部ま で出迎え た董卓 の手 によ って洛陽に帰還するのである。. 王非王 侯 は侯 に非ず. 王 は王 に非ず. 2遥望郭北墓 遥 か に郭 北 の墓を望む. 1駆車 上東 門 車を上東 門に駆り て. 次に 「 古詩十九首」 〈 文選』巻 二九 )を見 よう 。 其 の十 三〉 (『. ら か に 凶 兆 であ った 。. て廃 され 、翌初平 元年 には毒殺 され てしまう から、北部 に上 ると いう のは明. この 「 童謡」 は、光武帝 の陵墓 のあ る北部も 、後漢 の末期 には、皇帝 の逃 避場所 にな ってしまう ことを予言したも のとされる。少帝は九月に董卓 によ っ. 千乗万騎上北堆 千乗 万騎 北部に上る. 侯非侯. 復 た少帝 ・陳留王を劫め て小平津 に走 ぐ。)と いう 本文 の注 に引 く 『 続. 噴. 黄河 に面 した北輩 の北麓 であ る。 ここには 、永平七年 (六 四 )、 陰 皇 后も 合. 後漢書』巻八、霊帝紀 の、「 『 議 ・珪等復劫少帝 o陳留王走小平津 。」 ( 議 ・珪. つ. 葬 され て いる。後漢 のす べての皇帝 が北節 に陵墓を営 んだわけ ではな いが 、. 等. 5遼遼未 央脅嚇 遼遼とし て未だ央きず. 後漢王朝 にと って北郡 は特別な意味をも つ場所 であ った ことは容 易 に想像が. 漢書』 に見え る 「 京師童謡」と は、次 のよう なも のであ る。. ( 9). つく。 このよう にし て、後漢期 にお いて北部 が墓地とし て徐 々に強く意 識さ れ る よ う にな って い った も の であ ろう 。. 三 さて、それ では北部 が詩歌 に登場す る のは いつご ろからであ ろうか。以下、 こ れ に つ い て見 て ゆく こと にす る 。 ま ず 、 後 漢 期 の作 品 か ら 見 よ う 。. 拳案斉 眉」 の故事 で知 られ る梁鴻 (二五? ー 一0 妻 の孟光 の、 いわ ゆる 「 四? ) の 「五噴之歌」 に 「 北ゼ」 の語が見 られ る。こ の歌は、隠 居し て患 い. 何 ぞ索索た ろ. うれ. を避けようと した梁鴻 が洛 陽を通 って斉魯 の地 に赴 こうと した際 に作 ったも. 3白楊何粛粛 白楊. 0) ^ 1. のであ る。粛宗 ( 章帝 。在位七 五 ー八八 )がこれを聞 いて彼を捜 したが得 ら. 広路を爽む ああ. つ. 杏杏と し て長暮 に即く. 「 上東 門」 が洛陽城 の東 門 の中 で北側 に位置 し ている以上 、晴樹森 『 古詩. 6杏杏即長暮. 5下有陳 死人 下に陳死 の人有り. 4松柏爽広路 松柏 のぼ. 噴. 噴. 噴. れ な か った と いう 。. 1勝彼 北ぞ脅嚇 彼 の北き に勝り. 窪醜たり. 2顧覧帝京号瞳 帝京 を顧覧す れば 3宮室窪瀕今嘘 宮室.
(5) . . 案 詩所 言非漣指 、蓋洛陽 北 門外 有 箪 山 、 家墓 十九首集釈』巻 二、装注 に、「. 送応氏詩二首」 へ 其の ▽ 曹植 (一九ニーニ三二)の 「. て稽を採 るも 、或 いは精壁 の間 に飢死し、或 いは兵士 の殺す所と為 る。. 郭北 の墓」 は、北都 の墓域を指すと考え られ を謂う 。)と指摘す るよう に、「 純 美 酒を飲 み」、「 る。詩 の本旨 は 、はかな い世 の中 にあ って可能な時 には 「. 蓋 し洛 陽 の北 門外 に祁山有り 、家墓 は多 く寿 に在り 。則ち此 れ即ち北部 の墓. 3洛 陽何寂藁 洛 陽. 2遥 望洛陽山 遥 か に洛陽 の山を望む. 1歩登北さ坂 歩 み て北若 の坂を 登り. 荒廃 した洛 陽を通 った時 の作 と され る。冒頭部分を引く。. は 、建安十 六年 (二 一一)七月、曹操が馬超討伐 のために西征す るのに従 い、. 文選』巻二○) ( 『. 案ず るに詩 の言う 所 は淀く指す には非ず 、 多 在寿 。則此即謂 北部之墓炎 。 」(. と素とを被 服」 し て、歓楽 を 尽くす べき であ ることを 言う点 にあ る。しかし. 宮室. 、 ー こ. それは 「 万歳 に更ごも相 い送」 って誰も が いず れは帰す る北部 の存在 から触. 4宮室尽焼焚. 垣謄 は皆な頓僻 し. ‐. 発されたも のであ って、こ のような墓域と し て の北部 にま つわ る感慨を詠 じ. 5垣謄皆頓掘. 天 に参 る. 尽く焼焚 せら る. 何ぞ寂莫 た ろ. た最初 の詩 であ ると言え る であ ろう 。. 6荊献上参 天 荊疎 は上. こ の北節も荒廃した洛陽と南 の山並 みを眺望 でき る基点 とし て詠 じられ 、. 中平六年 (一八九 )九 月 、董卓 が洛陽 に入 って朝政を塑断す るよう にな る と 、翌初平 元年 、哀紹を盟主 とす る関東 の反董卓連合 軍が結成 される。童卓. 是 に於 いて尽く洛 陽 の人 数 百万 口を長安 に徒 さ んと し、歩騎は駆臆 し 自 ら畢圭. 客と結 ぶ少年 の場、 結客篇」 の 「 結客少年場、報怨洛北ぞ」( 曹植には 「. 飽照 「 結客少年場行」李善注引 ) 怨 みを報 ゆ洛 北 の老 )と いう 二句 の断篇 (. が残 され て いて、 これ にも 北き の語が見え て いる。. そ の後 、孟津を眺 め る台観を作 るため に魂 の明帝曹叡 が北部を整 地しよう. 三国志 』巻 二五、 辛 蹴 伝 )と い と し 、辛蹴 に諌 めら れ て結局は断念 した (『. て、更 ごも相 い踏落 し、飢餓 は冠掠 し て、積 戸は路 に盈 つ。卓 苑 中 に屯留 し、悉 く宮廟 ・官府 ・居家を焼き 、 二百里内. う こと があ ったが、 これは鏡王朝 にと って北部 が光 武帝 埋葬 の地 であ ること. あば. 又 呂布 を し て諸帝 陵 、及び公卿己 下 の家墓を発き 、其 の珍宝を収めしむ。. の呪縛 から解放され て いた ことを意味 し て いる のかも しれな い。. 1決漆 望鰐隠. 馳駆と し て玄夜陰 る. 決漆 と し て望寄隠 れ. 4擁 麹吹長音. 週を擁 し て長音を吹く. 3寒難 思天曙 寒難 は天曙を 思 い. 2馳駆玄夜陰. 票』巻 七 )があ る。. 『 芸文類 北モ客舎 詩」 ( ついで、醜 から西晋 の初期 にかけ て生き た劉伶 に 「. . . ここに記される帝陵と 家墓 のう ち には北部 にあ ったも のも当然含ま れ て い. 各 お の彊兵を擁 し て、委輸 は至らず 、群僚は飢乏す 、尚書郎以下自 ら出 で. 是 の時 、宮室 は焼尽 し、百官は荊糠を披 いて、謄壁 の間 に依 る。州郡 は. 群 僚飢乏 、尚書郎以下目 出採 稽 、或 飢死謄壁間 、或為兵士所 殺。. 是時 、宮 室焼尽 、百官披荊疎 、依精壁 間。州 郡各擁彊兵 、而委輸 不至 、. 洛陽は荒廃を 極 め て いた。 『 後漢書』巻九 、献帝紀 には次 のよう に言う 。. よう 。 のち 、建安 元年 ( 九六 )七月 、献帝 の車駕 が洛陽 に至 ったとき にも. 復 た才遺無 し。. の荒 廃 ぶりを 写実的 に描 こう と し て曹植 の詩を借 用した のであ ろう か。. 墓所とは特 には結び つかな い。ただ し、第 三句 から第 六句 ま では、先 に引 い. 於是 尽徒洛 陽人数 百万 口於長安 、歩 騎駆魔 、更相 踏籍 、飢餓冠掠 、積 戸. は これを避 け 、献帝を擁し て長安 への遷都を強行 した。 この時 に洛 陽 は徹底. 盈路。卓自屯留畢圭苑中 、悉焼宮廟官府 居家 、 二百里内 無復 才遺。 又使呂. 後漢書 』 は、洛 陽 後漢書』献帝紀 の記述と奇妙 に重 な って いる。苑嘩 『 た 『. 布 発諸帝 陵 、及公卿 己 下家墓 、収其珍宝 。. 後漢書』巻七十 二、董卓伝 には次 のよう に記され て いる。 的 に破壊 され る。『. 秋. ことごと. 藤. 正 後.
(6) . 北節を詠ずる詩歌. わた. 「 南 のかた伊 渚を踊り 、北 のかたが 丘に登 る) の句 が 南腐伊渚 、北登郎 丘」 (. 蚊蛸は豊草 に帰 り. 5蚊蛸帰豊草. 見 え て いる 。 これ も 経 由 地 と し て の北 部 を 言 う も の であ って、 墓 地 と し て の. 陳艦も て体顔を 発き. 1勝轡 丘之幅雌. 透 蓮た ろ俗阪を 升 る. 轡 丘 の幅晦 た るを勝り. 巻 八五 )があ る。 これも全文 を見 てお こう 。. . 登北郊賦」( 0? )の 「 『 芸文類衆』巻七、『 全晋文』 歴代賦薬外集』巻二○、『. さ て、西晋時期 には北部を主題と し て詠じた賦 に、張協 (二五五? ー三 一. 北 部 を 詠 じ た も の では な い。. 6枯葉散粛林 枯葉 は蕪林 に散 る 7陳艦発惇顔 巴鍬も て真心を 暢ば さんとす. ひら. 8巴欽暢真心 9紐被終 不暁 総被 は終 に暁 られず 0 1斯歎信難任. 2升遥趨之僑阪. 斯 の歎き は信 に任え 難し. 1何以除斯歎 何を以 てか斯 の歎き を除 かん 1 2 1付之与慧琴 之を付 し て諒琴と与 にせ ん. -斜 が車を峻嶺 に選 らし. 中夕 に響 く. 3週余車 於峻嶺. 長笛. 「決 漆 」 は 、 ほ のぐ ち いさ ま 。 「望 箭 」 は 、 月 の御 者 、 転 じ て 月 を 指 す 。. 6連薗巌以憲産. 5霊岳響以造 天. 伊 ・洛 は混 じり て東 流し. 連歯 は巌 とし て以 て蓬産たり. 霊岳 は惨と し て以 て天に造り. 4馴送目於四遠 ・ 柳か目を 四遠 に送 る. 「馳 駆 」 は 、 く ろぐ ろと し た さ ま 。 「 玄 夜 」 は 、 暗 い夜 。 「寒 難 」 は 、 寒 中 の. 7伊 洛混而東流. 帝 居は赫と し て以 て崇 顕す. 此れを 聞き て胸衿を消さ ん. にわ と り 。 「 豊 草 」 は 、茂 った草 。 蚊 蛸 」 は 、 か と ぬ か が 。 ま た 、 かと ぶ よ 。 「. 8帝 居赫 以崇顕. 山 川 は 渦 と し て其 れ 常 に 分 ら か な るも. 3 1長笛響中夕 4聞此消胸衿 1. 巴畝」 は、巴論と同じ。勇壮な歌舞 の名 。 陳醒」は 、長く寝かせた酒か。 「 「. 9山 川旧其常分. 万物 は化 し て 代 る転ず. はな い。しか し、それが北節 のふもと に宿 って寓 目した秋夜 の風物 に触発 さ. 場 し て いるが主要な存 在 ではな い。彼を深く歎 かせるも のの内実 は明 らか で. 節脚踊歩紙. 5於 是俳個絶嶺 1. 前 み ては 狼 山 を 塘. 脚踊 し て歩班す. 是 に於 いて絶嶺 に排個し. 3 1歎白 日之西額号 白 日 の西 に額くを歎き 4哀 世路之多塞 世路 の窪 み多 き を哀 しむ 1. うかが. を. 総被」 は 、総泡と 同じく 、 貧 者 の粗 末 な 衣 劉邦が楽 人 に習わせたと いう 。「. 0 1万物化而代転. れ た も の であ る こと は 間 違 いな い。 鹿 車 に 乗 って 一壷 の酒 を 携 え 、 い つど こ. 7 1前 晴 狼 山. 却き ては大晒を闘う. かたむ. 人生 の危浅 な るを悼む. かわるがわ. 服 であ り 、 こ こ は 自 身 を 言 う の であ ろう 。 「 胸 衿 」 は 、 む ね のう ち 。. 何 ぞ天地 の窮め難き. こ の詩 の制 作 時 期 は は っき り し な いが 、 あ る いは 彼 が 建 威 参 軍 であ った こ. 1 1何 天地之難窮 2悼 人生 之危浅 1. 酒徳頒」 があり 、酒 にま つわ る逸話 で知られ ろのも のであ ろう か。彼 には 「. で死んでも そ の場 に埋葬 でき るよう に、従者 に鋪を担がせ、「 其遣形骸如此。 」. 8却闘大蛭 1. 東 のかた虎牢 を眺 め. 陳 艦」 は登 る 。 こ の詩 に も 、 憂 え や つれ た 顔 を ほ こ ろば せ る も のと し て の 「. 晋書 』巻 四九 、本伝 )と 評され る劉伶 ( 其 の形骸を遣 るる こと此 の如 し。)(『. 9東眺虎牢 1. み. にも こ のよ う な 苦 悩 を のぞ か せ る 一面 が あ った こと は 承 知 し て お いて よ か ろ. 0 2西 院 熊 耳. 邪 め に天際 に亘 り. キ. 兄秀才公穆 入軍贈詩十九首」 に答え た 五句 の う 。また 、謎喜 の、兄謎康 の 「. れ邪 亘 天 際 -. ・ 西 のか た 熊 耳 を 脱 む ( MV. 秀才答四首」詩 へ 其の四〉 ( 棲康集』巻 一)に 、 みの断篇が残る 「 魯迅輯校 『.
(7) . . 秋 正 後 藤. 身を 雲寛 に遊ばすが似 し. 千切 に臨 み て備 し て看 れば. 諒 に撃形 の紀し難き. 葬た ろ舷 眼は以 てき昧 なり. 離州 ぐ万里を極む. 文 選』巻 二三) には 、 そ のよう な 要 の ▽ -(『 其′ く張載 の 「 七哀詩 二首」 へ. 「 登北部賦」が鳥敵的 に北部 周辺 の景物を 描写し て いる のに対 し て、 次 に引. と いう のはそ の通り であ ろう 。ただ し、同じく北都を主題と し て いながら 、. 険悪局勢的憂患、恵帝末、張載 ・張協皆棄官帰隠、正説明他僻対世事確有. 2芽極万里 2. 長風を撫 し て以 て延停 し. 素 は見られず 、陵墓 が廃壇と化す描写 に重点 が置か れ ており 、表 現も 平易 で. ・. 3非舷 眼以そ昧 2 4諒撃形之難紀 2. 天を 凌ぎ て副を挙げ んことを想う. 兄 の張載 の 「 七哀詩」と発想 が似 て いる 制作 時期 の先後 関係 は不明だが 、、. 主張も 明確 であ る。 何ぞ塁塁た ろ 北若 1北若何 塁塁. 3借問誰家墳 借問す誰が家 の墳ぞと. ‐. 深刻清醒的認識。. 5臨千初而傭看 2 6似遊身 千雲寛 2. 冠蓋 の悠悠 たろ を晴. ‐. 7撫 長風以延特 2 8 2想凌 天而挙副. ごと. 9階 冠蓋之悠悠 2. 商旅 の樹ぜ接するを観る. 皆な 云う漢 の世主 と. 四五有り. 丘嬢 は 肢 随. 4皆云漢世主. 恭 ・文は遥 か に相 い望 み. 2高 陵有 四五 高陵. 墳 瞳 は隈 畳と し て. 5恭文遥相望. つばさ. 0観商旅之接梅 3 爾 し て乃ち地勢 の窓 隆 た ろ. 秦 のごと く布き 星 のごと く鷺な る. ′. 1爾 乃地勢宏 隆 3. 松林 は穆映 し て以 て横列 し. 2丘 壌 肢 陶 3 3墳 瞳 隈 畳 3. 4茶布星羅 3. 原陵 は惨と し て胸膜たり 6原陵惨撫廉 ‐ 季世 喪 乱起 こり. 9段壌 過 一杯. 壌を 毅 つこと 一杯 に過ぎ. 7季世喪 乱起. ゞ.. 玄木 は捜夢と し て河を振 るわす. 五陵 の鬼 我 た るを望む ・. 8賊盗如猫虎 賊盗 ‐励虎 の如 し. 5松林惨映以横 列 3 6玄木捜参而振桐 3 7 3壮漢氏之所営 8望 五陵 之鬼我 3 喪 乱起 り て郷を啓き. 漢氏 の営む所を壮 んと し. 9喪 乱起而啓壌 3. 0億 竪登而作歌 偉 竪登り て歌を作 す 4 黒龍 江教育出版 社 、 一九 九 八 ) は こ の賦 に ついて、王琳 『 六朝辞賦史 』 ( 『 登北き賦 』是 一篇 即景汗情的作 品。 :::作者 千登臨之際 、面対永恒 的. 5 1蒙寵荊蘇生. 姐周塘 無遺堵. 蒙寵と し て荊疎生じ. 周塘 に遺堵無 し. 0 1便房啓幽 戸 便房 に幽 戸を啓 く 1珠禅 離玉体 珠 押 は玉体を離 れ 1 ・ 2 珍宝 は副虜 せら る 1珍宝 見割虜 . 3園寝化為堀 園寝 は化 し て櫨 と為り 1. 天地 、不禁 発出人生危浅 、世路多難的感慨 、:::。賦 的後 面描写丘墳 景象. 。 概要を述 べ つつ、次 のよう に指摘 し て いる ( 引用句 は省略 ). 。這是対 人生危 浅 、世路多 難的具体描述。作者着力 千残破衰蝋的 説、・ ::・. 8 1蕪機 不復掃 蕪稼も復 た掃 わず 9 1額 瞳並墾 発 ・額 瞳は並 びに 墾発 せられ. 6 1践選 登童 騒 膜運 には童豊登 ろ あなほ 7狐免窟其 中 狐免は其 の中 に窟り 1. 描写、筆調及建構的境界大致与其兄張載的 『 七哀詩』第 一首相同、載詩説 。:::賦 的後面部 分正是対前面感歎世事 、人生危浅的補叙。這種感 慨 ・ ::・. 的産生、又不僅僅為目賭古人丘墳而発、也包括対西晋元康以降動蕩不安的.
(8) . 北畑を詠ずる詩歌. 0萌隷営農圃 萌隷 は農圃を営む 2 1昔為 万乗 君 昔 は万乗 の君為り しも 2. 場所 でもあ った のであ る。‐ ただ し、北部 が祖霊 に別れを告げ る場所 でもあ っ. 後漢書』巻七 三、公孫 た こと はこれより早く 、 『 三国志』巻 八、公孫蹟伝 (『. 日、昔為 人子 、今為人臣 、当詣 日南 。 日南薄気 、或恐 不還 、与先人辞 於此 。 再拝懐慨而起 、時見莫 不欧款 。 ( 」- ーー劉 の日南 に徒されんとす るに及び 、覆 いの 米肉を 具え 、北き の上 に先 人を祭り 、簾を挙げ祝り て日く 、昔は人 の子為. 及劉徒 日南 、讃具米肉 、於北き上祭先人 、挙筋祝 墳伝 にも )に見え る 「:ー・. 「 在位 一〇六 ー 一二五)の恭 陵と霊帝 ( 在位 一六 恭文」 は、後 漢 の安帝 (. る も 、 今 は 人 の臣 為 り 、 当 に 日南 に詣 る べし D日南 に療気あり 、或 いは還ら. 2今為 丘山土 今 は丘山 の土と為 る 2 3感彼薙 門言 彼 の薙 門 の言 に感 じ 2 - 懐槍と し て往古 を哀 しむ 原陵」 は 、光武帝 ( 七 1 一八九 )の文 陵 。「 在位 二五 ー五七 ) の陵墓 。「 薙門. ざ ら んことを恐 る、先 人と此 に辞すと。再拝し僚慨し て起 っ、時 に見 るも の. 4懐槍哀往古 2. の言」と は、『 張載 「 桓 子新論』琴道篇 ( 七哀詩」李善注 引 ) に見 え る 、 孟. 文選』巻二六)では、河陽県 ( 『 1登城春南 顧 2. 凱風は微絹 を揚 ぐ. 城に登り て春 み て南 顧す れば. 河南省孟県 の西 )から 、南 の洛陽を 眺望 し て いる。 (. 河陽県作 二首」 へ また、藩岳 「 其の 0. 駄獄せざ る莫 し。)と いう 記事 がす でに示し て いる。. ( 病かに. ひそ. 嘗君 に語 った薙 門周 の、「 痢悲 、千秋 万歳後 、墳墓生荊藤 、 狐 兎 穴 其 中 、樵. 児牧豊、脚燭而歌其上、行入見之倭槍、孟嘗君之尊貴如何成此乎 あなほ. 豊、脚腐し て其 の上 に歌 い、行人. 2凱風揚微絹 2. 悲 しむ 、千秋万歳 の後 、墳墓 に荊疎を生 じ、狐免 は其 の中 に穴り 、樵児 ・牧 何 にし て此れを成 さ んや。)と いう 言葉を踏まえ て いる 。 西 晋末 の混 乱期 を. 之を見 て棲憤 たらば 、孟嘗 君 の尊貴も如. 生きた張載と張協 にと っては実感 であ った であ ろう薙門周 の言葉 が 、 二人 の. 岳 の心境 にお いては長く連な る北郡山 が 、河腸県と洛陽と の間を隔 てる大き. 「 箸真」 は、山 の高 いさま 。洛陽は距離的 にはそれほど遠く はな いが、播. 5誰謂晋京 遠 誰 か謂わ ん晋京 は遠 しと 2 6室週身実遼 室は週きも身 は実 に遼 かなり 2. 3洪 流何浩蕩 洪流 何 ぞ浩蕩 た る 2 4倍き惨害難 情若 惨と し て壱寡 たり 2. 作 品 の発 想 の源 泉 と な って いる こと は 間 違 いな い。. こ のほか の北部 の描 写が見られ る西晋期 の詩を ここで概観 し てお こう 。藩. 岳 ( 二四七ー三〇0)の 「 北き送別王世胃詩」五章 ( 『 芸文類票』巻 二九 ) は、 いず れも 八句 からな る端 正な 四言詩 であ る。第 五章 の前半 は次 のよう に 詠じら れ る。. な障壁 にな って いる。したが って 〈 其 の二〉 にお いても北部 は 「 崇 ぞ 」 (そ. びえ た つ北郊山 )と いう表 現とな って現れ て いる。. 既 に揚がり. 四轡 , 既 に整 う. 9引領望京室 領を引し て京室を望 めば. 朱鍍 既揚 朱鍍 四轡 既 整 わか. 駕 し て言 に筏行 し. 0 1南 路在伐河 南路は伐桐 に在り はる. うなじ のぱ. 駕言鎌行. 離 れをゼ嶺 に告ぐ. 2 1崇若響嵯峨 崇ぞは惨と し て嵯 峨 たり ・ .石崇-(二四九 ー三〇0 ) の 「 思帰引」 ( 『 芸文類衆』巻 四 二)は、宮仕え の. n大 夏緬無 翻 大夏は緬 かに し て翻 る無く. み. 告離さ嶺. 王堪 、字 は世胃 は 、藩岳 の いと こにあた る。 『 世説新 語 』 賞 誉 篇 の劉孝 標 送り て北部 に至り て別 れ 、 詩 を 作 り て日. 束縛 から脱 し て河腸金谷 にあ る別荘 に帰りた いと の願望を詠ずるも のであり、. 岳 集』 には、「 堪為成 都 王軍司馬 、岳送至北部 別、作詩日、::も」 注 に引く 『 … … 。)と あ って 、作 詩 の背 景 が わ か る 。 北 郊 の 山 麓 は 送 別 の宴 を 開 く. ( 堪 成都王 の軍司馬と為 り 、岳 く.
(9) . . 秋 正 後 藤. から洛陽 の復 興は緒 に つく。文帝曹 杢が即位した黄初 元年 (二二0 )十 二月. 6} { 1. こ の時 、洛 陽は長安 ・護 ・許昌 ・郡 ととも に五都 の 一と なり 、中都と称 され. 第 五 ・六句 の 「 経若阜 、済河梁」 ( き阜を経 、河梁 を済 る )と いう 描 写も 、. 文館詞林』巻 一五七) の第 『 贈欧陽建」詩四章 ( 曹癒 す・ ー三〇八)の 「. ることとな った 。そ の後も魂 が移民政策をと った こともあ って人 口は増大 し. には洛 陽宮 が営ま れ、同月曹 杢が行幸 し て翌 二年 正月 には洛 陽 に遷都す る。. 詩経』小雅 ・正月 の 老」 の語が見え るが、 これは 『 二章 にも墓地とし ての 「. てゆく 。青龍 三年 (二三五 )には 、明帝曹叡 が臣下 の諌 言を無視 し て洛 陽宮. 単 に帰路 にあ る経過 地を 言う 。. 「 詔天蓋高」 ( 謂う 天は蓋 し高 しと )と いう表 現を踏襲 したも のであ る。 1義閥 三益 諌め には離撃を替 る. 義 には三益を開き. 三八)には卑 弥呼 の使者 の難升米ら が朝献を求 め て洛 陽 に至 った 。洛陽 は魂 魂志 』巻 二十 一、 の末期 には 、繁栄を極 める大都会 にな って いた のであ る。 『. を修築 し 、昭陽殿 ・太極 殿 ・総章観を造築 し て いる。そ の後 、景初 二年 (二. 2誠替離掌 側り諌 言を想 い. 河南 ヂ内掌帝都 、外 統 京 畿 、 兼 古 六 郷 億蝦伝 の斐 注 に引く 『 博子』 には、「. ひと. 3側想諌言 蘭券を 同じくせ ん ことを願う. 載ち其 の墳を越 ゆ. の土を兼 ぬ。其 の民 は異方 にし て雑 居 し、豪 門 ・大族 、商買 ・胡循多 し、天. 河南 の予は内 は帝都を掌 り、外 は京畿を統 べ、古 の六郷六遂 而姦之所生 。 」(. 六遂之士。其民異方雑居、多豪 門大 族 、商買胡額 、天下四方 会 、利之所素 、. 4願同蘭券. 5謂若蓋高 謂う老は蓋し高しと 6載 越其墳 境を渉り て登朝 す. すなわ. 7渉境 登朝. 下. 「 苦」 の語 が見え るが 、動乱 の世 にあ って、季節 の推 移 に心 動 か さ れ つ つ紡. 時興」詩 ( 全 一八句。『 文選』巻三0)にも 鹿謁 ( 二八四ー三五○)の 「. 若山」 河間王司馬顎 の部将 であ る張方が洛陽 に迫 ったとき には帝 みず から 「. 三○三 )九月 、 て破壊が繰り返 されたから であ る。恵帝 司馬衷 の大安 二年 (. 晋期 に入 っても 繁栄は続く が、長続きはしなか った。 いわゆる八王 の乱 によ っ. 四方 より会 し、利 の衆ま る所 にし て、姦 の生ず る所な り 。) と 言う 。 西. 8信惟恵君 信 に惟 れ恵君. 復す る場所と し て の北部を 言うも のであ る。. に布陣す るほど であ った。 こ の時 は結 局、張方 は洛 陽城 に入 って清明 ・開陽. めぐ. 1蜜馨円象 運 馨馨と し て円象運り. 4海 原来索蓬. 3忽忽歳 云暮. 2悠悠方儀廓. 北 のかたきと河とを欺え. 原 に海び て蕪蓋を来 る. 忽忽と し て歳 云 に暮れ んとし. 悠悠と し て方儀廓 いなり. 洛 陽 に侵入し、十 一月 に恵帝を長安 に連行す る際 には、 「醜 晋 己 来 之積 、掃 醜晋巳来 の積 、地を掃 って遣す無 し。)と いう 有 様 だ った 。 恵 地紐遺 棄 。 」(. 七月 に建武 、十 一月 に再び永安 、十 二月 に永 興と改 元 )八月 には張方 が再度. 三〇四。正月に永安、 の二門を焼き 、死者 は万をも って数え た。翌建 武 元年 (. おお. 5北臓若与 河. 三〇六 )六月 に東 海王司馬越 によ って洛 陽 に連 れ戻 され、十 帝 は光購 元年 (. が殺され て八王 の乱 は 一応 の終息 を みる。しかし 、次 の司馬越 に擁 立された. の. 6南臨伊与洛 南 のかた伊と洛と に臨む 先 に洛 陽が後漢末期 の相次ぐ戦乱 によ ってほと んど灰燈 に帰 した ことを述. 懐帝司馬搬 の代 にな ると 、同奴 など北方諸 民族 の侵入が開始 され る。 いわ ゆ. 一月 に死去す る。 こ の間十月 には成都 王司馬頴 が殺 され 、十 二月 には司馬額 べた。それ では醜か ら西晋時期 にかけ ての洛 陽はど のよう な情況 におかれ て. 三 る永嘉 の乱 であ る。す でに中原 一帯 は大混乱 に陥 って いたが 、永嘉 五年 (. ″) {. 一 -)六月 、前越を建 てて いた南同奴族 の劉淵 の子 の劉曜、部将 の呼延髪と. いた の であ ろう か 。 こ こ で 、 そ の点 に つ い て確 認 し て お こう 。. 、曹操 が漢中から洛陽 に帰 還 し て建 始 殿 を 建 て て 建安 二十 四年 (二 一九 ). QU.
(10) . 北都を詠ずる詩歌. 王弥 ・呼 延曇克宣陽 門、入南宮 、升 太 極 前 殿 、 縦 兵大 五年 六月 の条 には、「. 資 治通鑑』巻 八十 七 、 晋 紀 の永 嘉 の時 、死者は三万余人 に及んだと いう 。 『. て洛 陽 に侵入し、宮廟を焼き 、陵墓を暴くなど掠奪を ほし いまま にした。 こ. 後適を建 てた掲族 の石動 、それ に反乱を起 こし て いた漢族 の王弥らが前後 し. 原陵 にはあ んずが実 って いた のであ る。あ んず の核中 の肉 は薬用にな るから、. た朱齢 石 であ る。朱超 石が北部 から荒廃 した洛 陽を遠望 した時 に、光武帝 の. て いた ことを評価し て いる。兄と は 、三歳年長 で左将 軍と し てとも に従 軍し. 難も 、兄弟並び に尺糠 に閑う 。)と言 い、武将 であり な が ら書 簡 文 にす ぐ れ. に陣没す る。本伝中 には 、「 跳出目 将家 、兄弟並 閑尺鷹 。」 ( 将 家 よ り 出づ と. . 掠 、悉収宮 人 ・珍宝 。:::土民死者 三万余 人。遂発掘諸陵 、焚宮廟 、宮府皆. これを 兄に送 ったも のであ ろう 。 いず れにし ても この書簡 は、南朝 人 の東晋. 宣陽門 に克ち 、南宮 に入り 、太極 の前殿 に升り 、兵を. 王弥 ・呼延髪 尽。 」(. 末期 におけ る北郡 の目撃証言と言え るであ ろう 。 r. 0) ( 2. 全宋詩』 中 には偉亮 ( こ のほか、『 三七 四 ー四二六 ) の 「 従 征 詩 」 (『 芸文. 縦 にし て大 いに掠 め-悉く宮 人 ・珍宝を収む。 :::土民 の死者 三万余人。 皆な尽く。)と 言う 。 太 子 の司馬. 類票』巻 五九 )の八句 の断篇 にも 例が見られ る。しかし、 こ の詩も 劉宋時期. 遂 に諸陵を発掘 し て、宮廟を焚き 、官府 詮らは劉曜 によ って殺 され、懐帝 は前適 の根拠地 であ る平陽 ( 山西省臨扮県). に 入 って か ら の詩 で は な く 、 劉 格 の北 伐 に従 った 時 のも の であ る 。. 徒を西楚 に息 わしめ. に連 れ去 られ 、洛陽 は再び ほと んど灰燈 に帰した のであ る。. . 1息 徒西楚. 2件樟旧郷 樟を旧郷 に伴 っ. 西晋は永嘉七年 ( 三 一三 )四月 、懐帝 の子、懲帝 司馬郡 が長安 で即位し、 三 一六 )十 一月、慰帝 が劉曜 に降伏 し、 辛う じ て命脈を保 つが、建興 四年 (. 6星言啓行. 5烈烈群師. 星 いでて言 に啓行す. 烈烈た ろ群師. 四. ここに滅亡す る。翌年 三月 、濃 邪王司馬春 が建康 で即位 し て建武と改 元し、. 7汎舟掩 河 汎舟. 3止猶岳 立 止ま れば 猶お岳 のごと く立ち. 東晋 が成 立す る。それ では晋朝 の南渡以後 、北郎 はど のよう に詠 じられ て い. 8林馬登き. 馬 に 株 いき に登 る. 河を掩 い. 4動則雲期 動けば則ち 雲 のごとく 翻 る. る の であ ろう か 。. 劉格 の大 軍が昼 夜兼行 し て、北部 から洛陽を攻略す ると いう のであ る。. . 三八ニー四 一八)の 「 詩歌ではな いが、朱超石 ( 与兄書」( 『 芸文類衆』巻. 陶淵明 ( 三六五ー四 二七 ) の、劉宋 にな ってから の作品とされる 「 擬古詩. 九首」 へ 其 の四〉 ( 『 靖節先生集』巻四)にも北郊 の語が見える。 1追逼百尺楼 逼逼たり 百尺 の楼. 核を. 北きに登 登北き遠眺、衆美都尽。光武墳辺杏甚美、今奉送核。 七)は、「 」( すベ. 宋書 』巻 四十 八 の本伝 によ る 奉送す 。)と 北部 に言 及し て いる。朱超石は、『. 2分明望 四荒. り て遠く 眺む れば 、衆美都 て尽く 。光武 の墳辺 の杏 は甚だ美なり 、今. と 、初 め桓謙 の行参 軍とな ったが 、後 に劉格 の参 軍となり、そ の後 、義塵十. 3暮作帰 雲宅 暮 れ には帰雲 の宅と作り. 5山河満 目中 山河 目中 に満ち 〆 6平原独荘花 平原 ・ 独 り花荘 たり. 分明 に四荒を望む. 二年 (四 一六 )には、当時中原を支 配し て いた後秦 王朝を北伐 し て洛陽と長. 4朝為飛鳥堂 朝 には飛鳥 の堂と為 る . 安を回復 す るのに前鋒とし て従 った。先遣 軍は十 一月 には洛陽を陥落させる。 この時 に劉格 は西晋 の陵墓を修復 させ、翌年 五月 には ここに謁し て いる。劉 格が建康 にも ど ったあと洛陽と長安 は再び大混乱 に陥り 、朱超 石は兄ととも. OJ.
(11) . . 秋 正 後 藤. 松柏. 人 の伐 ると ころと為り. 相与 に北部 に還 る. 一旦 .百歳 の後. 8憤慨争 此場 /懐慨 し て此 の場を争う. 7古時功名 士 古時. 互 いに低 昂す. 張載 の七哀詩 に、北き 一里。 」(. 七哀詩1北若何塁塁o郭縁生述異記、北若城、北さ嶺也、去洛陽大夏門不盈. 玉台新詠 嚢 注 』 は 、 「張 載 と 、詠 じられ る。 こ の 「 北芝」 に ついて呉兆宜 『. 塾恋横橋於清清 横橋を清清に恋う. 2典千 里之光貴 3 3別北き於濁河 3. 紅茶 稽郡之南尉. 北若 に濁河 に別れー. 稽郡 の南尉を 悉 く し. こと が あ った こ と に つ い て は のち にも 触 れ よ う 。. 時 建康 及び そ の周辺 の地名を しば しば長安 と洛 陽 のそれ になぞらえ て言う. がー こ の詩 におけ る洛陽と は、実 は沈約 が離れ てきた建康 のこと であ る。当. 城は 、北き嶺 なり 、洛陽大夏 門を去 る こと 一里 に盈たず と 。)と 言 って いる. 何 ぞ塁塁たろと 。郭縁生 の述異記 に、北越. 千里 の光貴 な るを 典 る. つかさど. 9 一日吉 歳後. 高墳 遺主無く. 功名 の土. 0 1相与還北部 1松柏為 人伐 1 額基. 2 1高墳 互低昂 3 1類基無遣主 4遊魂在何方 -遊魂 -何 れ の方 にか在 る 1 5 1栄華誠 足貴 栄華 は誠 に貴 ぶに足 るも 6 1亦復 可憐傷 亦復 た憐 れみ傷 む べし 北部 」 に帰 るこ ・一篇 は功名心 に駆 られ て地を争 った男たちも 、 いずれ は 「. 府論 』夫巻 、調声 、斉梁 調詩 )にも 、用例があ る。. . 文鏡秘 『 其 の二〉 ( 四八二?・ 傷徐主簿」詩三首 へ 何遜 ( 1五二二? )の 「. 帯 の地を争 った特定 の人物を指 す のでな い以上 、北畑 は墓地 一般を指す ので. 5 -旦辞東序 二 一旦 束 序を辞 し. 功名 の土」 は 、洛陽 一 とを思えば傷ま しくな る、と言う のだ が、 こ の詩 の 「 漢語大 詞典 』,の 「 ① 山名 。節山 。 北節」 の項 は、「 」と し あ ろう 。ちな み に 『. 6千秋 送北部. ふ ま. 北郊 に送 る. ② 借指墓 地或墳墓。 たあと 、「 」 とし て、陶淵明 のこ の詩を用例と し て引 いて. 7客簾難有楽 客蕪 楽しむこと有りと難も .. 千秋. いる。ここで初 め て北部 は特定 の地域 ではなく 、墓所 一般を象徴す る語と し. 擬古 詩九首」 へ 其 の四〉と 同じく 、墓 地を指す 。 こ の北郊も 、陶淵明 「. 8隣笛遂還傷 隣 笛 遂に還た傷む. 応 詔 楽 遊 苑鏡 呂 僧 珍 詩 」 の用例が見出 せ る。沈約 (四四 一ー五 一三 ) の 「. 情祁」 田飲拒」( 朱罪 ( 『 芸文類衆』巻七二二 には 「 四 七七-五四九)の 「. て用 いられた こと にな る。そ の後 、斉詩 に用例 は見られず 、梁詩 に いく つか 全 二〇句 。 『 文選』巻 二○ )は、武帝講街 の天監 四年 ( 五○ 五 )十 月、北麓 (. の語があ る。前半部分を 引 こう 。. 風林 の粛 慧た ろ に属り. 2面清洛分背情郁 清洛に面 い情祁を背 にす. むか. 田宇を京 の陽 に卜 し. みなみ. の侵略 に抗 し て爾宏を主 将とす る宋 軍が北伐す る のを見送 って戦 果を期待 す. 1ト 田字 号京之陽. 3属風林之粛悪. 寒 野 の蒼荘た ろ に修う. 鵬 は紛紛と L て渠散 し. 鴻 は冥冥と し て遠く翻 る 、 6鴻 冥冥而遠期 . 朱 罪 は権要 の地位 にあ ること 三十余 年 、侯 景 の帰 順 の受 諾を 武帝蒲 宿 に勧. 5鵬 紛紛而票散. あた. 罪を伐 つき山 の曲 ・. 4値寒 野之蒼荘. あわ. 民を 弔れむ伊水 の灘 - 将 に告成 の礼 に陪 せんとす. . るも のであり 、北部 は北嬢 の支 配す る洛陽 の象徴とし て詠 じられ て いる。 7伐罪若山曲 1 8 1弔民伊水爆 9将陪告成礼 1. 0待此未抽警 此れを待ち て未だ警を抽 かず 2 、東陽 郡 ( 四九 四 ) 断江省金 華 県 )-の太 守 であ っ ま た、沈約 が隆昌 元年 ( 玉台新詠』巻九 )には、 たとき の作と される 「八詠 ‐解侃去朝市」 詩 (『. 0 1.
(12) . 北部を詠ずる詩歌. たが、 一貫し て藷綱 に仕え 、中大 通三年 (五三 一)四月に昭明太子粛統が死. たとき に法曹とな って以降 、 一時母 の喪 に服するために職を離れたことはあ っ. たと いう 人物 であ る。また、著修と善書 でも知られる。 『梁 書 』 巻 三十 八 、. 去 し て五月 に講綱が太 子とな ると太 子洗馬となり 、太清 中 ( 五四七 ー五四九 ). れ い と が反乱を起 こすと 、「 漸 憤 」 のあ ま り 病 死 し め、 ′危倶 さ て た おり侯景 昇及諸子目潮溝列宅至青渓 、其中有台池翫 好 、 毎 暇 日与 賓 客 遊 本伝 には 、「. には中庶 子▲ 出新林」詩 の冒頭 か ら第 四句 ま で ・兼通事舎 人 にな って いる。「. かし、劉孝威 は粛綱が太 子とな る以前 、そ の任 地 の変 更 にとも な って移動 し. には、洛 陽と長安 近辺 の風物を傭敵したか のよう な描写がな され て いる。し. { “}. 罪及び諸子 潮溝より宅を列ね て青渓 に至 る、 霧 。四方 所鏡 、財貨充積 。 」(. た経験 はあ っても 北朝 に使 いしたと いう記録はな いから、こ の詩も新 林 から. おく. 其 の中 に台池有り て翫好 し、暇日毎 に賓客と遊 ぶ。四方 の鏡 る所 、財貨 は充 「 は建康 城内 に掘られた水 路。「 青 渓 」 は建 康 城外 の 積す 。)と言う 。′ 潮溝」- 東南を流れ て秦准河 に注ぐ 川 であり 、大邸宅を列ねた朱 罪 一族 の権勢 のほど. の建康 の眺望を洛 陽と 長安近 辺 の景物 に仮託したも のであ ることは明白 であ 出新林」 詩は第七句 から十句ま でが実景 であ り 、第 十 一 ・十 る。ただ し、「. がう かがわれよう 。第 一・二句 は、建康を洛 陽 に喰えたも のであり 、彼 の邸 鍾山 )を指 し て いる。 建 康 宅 の位置を言う 。「 情部」 は、ここでは紫金山 (. 二句 は、この詩 が空想 の産物だと いう ことを示唆 し て いる のであ ろう 。. . と そ の周辺 の地名を華 北、特 に洛陽及び長安付近 の地名 に置き換え て詠ず る. ー五五0? ) の 「 劉孝威 の同僚 でもあ った庚 肩吾 今 ・ 和衛尉新 論侯 巡城 口. 文苑英華』巻二四0)には 「 号詩」( 『 芸文類緊』巻二八、『 横芝」 の語が見. .. 出新林」詩 ( ? ー五四九)の 「 『 芸文類衆』巻 二八)を見よ 次に劉孝威 (. え る・衛尉新檎侯と は 、諸傭 の子 であ る索嘆 ( 索映とも ) のこと。文 帝と註. 趣向 は南朝 詩 にしば しば見 られ樋が ・朱罪 の詩も そ の 一 例と言え るo -. う 。詩題 に いう新林 は新 林浦 。建康 城 の西南 、牛頭山 のふもと にあ って長江. された索 順之 の孫 にあ た る 。 『 南 史 』 巻 五十二 の本 伝 によれば 、 普 通 二年. 1若山砥洛邑 函谷 より秦京を望む. 若山より洛邑を眠 .. 仰和衛尉新 景 に ついて詳細は明らか ではな い樋 ・こ の詩 には簡文帝篇綱 に 「. そ の後 、給事 黄 門侍郎 ・衛尉卿 ・広州刺史を 歴任 し、官 に卒 した。作 詩 の背. ( 五二 一)には広 信県侯 に封 じられ 、まも なく新 論県侯 に改 封 さ れ て いる。. 6) ^ 2. に臨む 軍事 と交 通 の要地 であり 、侯 景 の乱 にお いては戦場 にも な った。. 2函谷望秦京 遥か に承露 の掌を分 かち. み. 3遥分承露掌. 檎侯巡城口号詩」、王篤に 「 芸文類票』 和衛尉新檎侯巡城口号詩」(いずれも 『. 文苑英華』巻 二四 0 )と いう 同詠 があり 、前者 の冒頭 には 、「 帝京 巻 二八、『. 遠く長安 の城を見 る - 己 に識る べし. 風雨 の中、層閥 煙霞 に浮かぶ)とあ るから、. 風 雨中 、層閥煙霞浮」 ( 帝京. あらわ. 必ず情を労す るを. 4遠見長安城. ち. 遊士. 5故郷己可識 故郷 6遊士必労情. 1維 城寄右戚 維城 右戚 に寄 せ. まか. 粛瑛 が建康 城内を巡視 し て いる様子を詠 じたも のであ ることは確 か であ る。. 風息 み て涌川平らかなり. 2巡警属勤 王 巡警. 7霧罷前林見 霧罷り て前林見れ 8風息 涌川平. 坐 るに暮潮 の落 つるを観 ‐. ゆびさ. 北に眺 め て横芝を指す 〜 ・ :- . 、・,. 9露椀落金気 露糎 金気落 ち. 4北眺指横ぞ. 3南 晴通溺岸 南 に湖岸 に通づ るを 暗. 勤 王 に属う. したが. 9坐観暮潮落. 徒 に御風 の軽きを想う. 0漸見夕煙生 ′漸く夕煙 の生ず るを見 る 1 1無由 一羽化 一たび 羽化す るに由無 し 1 2徒想御風軽 1. 五〇六)から八年 にかけ て晋安王であ っ 劉孝威 は 、簡文帝粛 綱が天監 五年 (. 1 1.
(13) . . 秋 正 後 藤. ひと. 始 め て郡 山 の北 に往き. 4惟娯意 不同 催 娯 意 同しからず 5始往 郎 山北. 柳か平陵 の東を践む. 新涼上 る. 文苑英華』巻三 簡文帝索綱 ( 五〇三 ー五五 一)の 「 其 の六〉 (『 七励」 へ 6柳践平陵東. 徒 に解く千金 の剣. 風寮. 五 -)には 、「公 子」 の語 に託し て北嬢 の支配 下にあ る中 原を 回復 し よう と. 7徒解千金剣. 終 に恨む九泉 の空 しきを. 0 1風寮上新涼. す る意志を 開陳す る部分があり 、そ こにも 北部 の語があ る。. 8終恨九泉空. 騰三泉 之官漫 、戴 五旗之瓢揚 、引玉車於西瞳、鴫金鼓於 北部 、拭龍泉之. 日は尽く荒郊 の外. n何言愁寂莫. 日暮. 何ぞ言わ ん愁 いて寂莫 た ろを 白楊 の風. 2日暮白 楊風 1. 0 1煙生松柏 中 煙 は生ず松柏 の中. 9 自尽荒 郊外. 雄剣、埜 醜国之宝刀。 て. 三泉 の宮 漫 た ろを騰げ 、五旗 の瓢揚 た るを戴 く 、玉車を 西隣 に引き 、金 ぬぐ. 鼓を北部 に鳴 らす 、龍泉 の雄剣を拭 い、嬢 国 の宝 刀を後 らさ ん。 陳詩 におけ る用例と し ては唯 一、張正見 「 従永 陽王遊虎 丘 山」 詩 (『 芸文. 1槍波壮骸島 洛邑. 槍波 祭き に鎮す. 謬島 に壮 んに. にも 立ち寄 ったかも しれな い。 こ の詩、無常感はうかがわれ ても仏教臭はま っ. によると 、季札 は魯 、斉 、鄭 、衛 、晋 の順 に訪 問 し て いるか ら、北離と平陵. 漢 の昭帝 の陵墓 。 『 漢書』巻 七 、昭帝紀 の臣蹟注 に、「 平陵在長安西北七十里。 」 史記』巻 三十 一、 呉 大 伯 世家 ( 平陵 は長安 の西北七十里 に在り 。)と 言う 。『. 平陵」 は、 詩 題 に言う徐 君 の墓 は潤州 ( 江蘇省宿 遷県 の東南 )にあ った。「. 3未若弦山麗 未だ薮 の山 の麗しく. 送劉中書葬」腕 ( たく感 じられな いoついで・王褒 「 芸文類票』巻三四・ 『. 崇若」 の語が見え て いる のみであ る。冒頭部分を引く 。 類票』巻 八 )に 「. 4箸真 檀水 郷 箸真と し て水 郷を檀む るに若 かず. 2洛邑鎮崇き. 地霊 は少室 に俸しく. 『 文苑英華 』巻 三〇 五)にも 、北部 の語 が見え ており 、 明 ら か に北周 の地 で. ひと. 5地霊倖少 室 塗銀は大行 に象たり. 延陵. 1昔 別傷南浦. 今帰り て北部 に去く. 昔別れしとき南浦 に傷 み ゆ. 2今帰去 北部. 書生 は空 しく夢を託 し. 塵昏くし て野 日黄ばむ. う 。もち ろん北が は北朝 にお いても墓 所と し て用 いられ て いる。北嬢 の文成. 北部 に関す る記事 が散見す る。以 下 これら に ついて順を追 って概観 し てお こ. 晴書 』 『 たく歴史 の舞台 に登場しな いわけ ではな い。『 魂書 』 『 北 史 』 等 には. 以上 のよう に北朝詩 におけ る用例は少な いが、北朝 にお いて北部 の地がま っ. 6塵昏 野日黄. 5塞近 辺雲黒 塞近くし て辺雲黒く. 4久客毎 思郷 久客 は毎 に郷を思う. つね. 3書 生空 託夢. 没 した劉播 (五 一〇 1五六 八 )の墓所を指 し て いる。. 6塗薮象大 行. 江蘇省蘇州市 の西北 )を 北部とくら べ、そ の壮麗 こ の詩 は蘇州 の虎 丘山 ( な さまを誇 張 し て描 写したも のであ る。. 五 最後 に北朝 におけ る用例 に ついて見 てお こう 。ただ し、北朝詩 の用例はき. わめて少な い。北周の無名法師の 「 文苑英華』巻三〇六) 過徐君墓」詩 ( 『 には 「 館山」 の語があ る。 1延陵上国返. 道を軽げ て徐 公を訪 ぬ. 上国 に返 るに. 2柱道訪徐 公. 死生. 命忽ち異なり. 3死生命忽 異. 2 1.
(14) . 北部を詠ずる詩歌. 親書』巻九 、粛宗 ( 北部 に定 めると いう ので あ る。また 、『 孝 明帝 元調 )紀. 山西省大 同市 の東 北 )から洛陽 への遷都 にともな って移動 した人 々の墓所を. とも に 皆 な恒 ・代 に就坐す るを得ず 。)と いう 言葉 があ る。恒 州 及 び代 都 (. り て 不得就埜恒 ・代 。 遷洛 の人 、叢れより厭 の後 、悉 く骸を郎嶺 に帰す べし、 」(. 遷洛之人 、自裁厭後 、悉 可帰 骸が 嶺 、皆 (『 醜書』巻 二○、元譜伝 )には、「. 帝拓 蹟潜 の孫 の元請 が大 和十九年 ( 四九 五)に亡くな ったとき の孝文帝 の詔. 預 や李沖 ら の墓所 があ ると いう 理由 でここに土地を購 入し て いる (『鏡書 』. また、偉永 (四三四 ー五 一六 )は、為 政者 の意向とは関わりなく、北部 に杜. 大 武帝 元裏 )は北郁 で狩猟 に興じ ていた。 を 企 てて露 見 したとき には 、世宗 (. 言 い、威 陽王元蒋 の別塞があ った。また 、景明 二年 ( 五〇 一)に元祷が謀反. に昇り 、因り て詩を賦 し以 て懐 いを序 せしむ。)と言う 。 洪 池 は鴻 池 肢 と も. 賦詩以序懐 。 高祖 」(. 巻十九中 、任 城王元雲伝 には、「 高祖 至北郎 、遂幸 洪池 、 命 澄侍 昇 竜 舟 、 因. 北部 に至り 、遂 に洪池 に幸 す 、澄 に命 じ て侍 し て竜舟. の神 亀元年 ( 五 一八 )十 二月 の詔 には、「 民生有終 、下帰 兆 域 、京 邑隠 賑 、. 。 巻 七○、偉永伝 ). 遂買左右 地数傾 、遺勅 子叔偉 日、此吾之永宅也 。. 永嘗 登北部 、ーー有終蔦之志 。遠慕杜預 、近好李沖 ・王粛 、欲葬附其墓、. . □盈億万 、貴蔑倣悪 、未有定所 、為 民父母 、尤宜存他。今 制乾繍 山以 西、擬 為九 原。 民生 終 わ る有り 、下り て兆域 に帰す 、京邑 は隠賑 にし て、 口 」( . 億 万 に盈 つ、貴蔑 の悪 る倣 、未だ定所有 らず 、民 の父母 の為 に、尤も宜 しく. 沖 ・王粛を好 み、其 の墓 に葬 附せ んと欲 し、遂 に左右 の地数 傾を 買う 、子. 終 馬 の志 有 り 。 遠 く は 杜 預 を 慕 い、 近 く は 李 嘗 て北 郊 に 登 り 、 ・ ::・. 騰 山 に ついては不詳だ が、洛陽 の人 口 の増加 にとも な い、貴賎 の別なく北部. の叔偉 に遺勅 し て日く、此 れ吾 の永宅なりとo. 永. 墓地 )と定 めたと いう のであ ろう 。また 、高宗文成帝 の皇后 悪氏 の を九 原 (. こ のよう な北郊 の地も洛陽攻防 の要地 であ っただけに、しばしば戦場とな っ. 乾臓 山以西を制し て、擬 し て九 原と為す と 。)と 言う 。 乾. 兄 であり 、三人 の娘を高祖 ( 孝文帝 元宏。在位 四七 一ー四九九 ) の後宮 に入. 晴書 』から 二 つの記事を引 いてお こう 。まず 、『 た。『 晴書』巻 三十九 、費栄. 存触す べし。今. れた懸服 す ・ 1四九 五)は外戚とし て権勢を振 る い、各 地 に寺院を建 立し て. 定伝には、「 後従太祖与斉人戦於北き、周師不利。栄定与汝南公字文神慶帥. 太祖 に従 いて斉 人と 北ぞ に戦 い、周師. 醜 書 』 巻 八十 おり 、そ のうち の北郊寺 には高祖も しばしば参詣 し て いる。 『. . 精騎 二千遭 撃之 、斉師 乃却 。 後 」(. 乃. 三上、懸無伝 には次 のよう に言う 。. ひき. ち却 く。)と いう 記事 が見え る。階 の湯帝 が遼東 に遠征 し たと き に は 、 楊玄. 汝南 公宇文神 慶と精騎 二千を帥 いて之を逆墜 し、斉 師. 処 、写 一十六部 一切経。:::而在諸州営塔寺多在高山秀阜 、傷殺人牛 。:・. 感 が反乱を起 こした 。こ の時 にも北郊 が戦場 にな った (『 晴 書 』 巻 七 ○ 、楊. 利あ らず 。栄定. ・ :其北部寺碑文 、中書侍郎賀元寿 之詞。高祖頻 登北郊寺 、親読碑文 、称為. 、湯帝 の江南行幸中 に起 こ った 。また 、晴末 の大業十 二年 ( 玄感伝 ) 六 一六). 無為 政不能 仁厚 、而信仏法 、目出家財 、在諸州鎮建仏図精舎 、合七十 二. 佳作 。. 。 晴書』巻 八五、段 達伝 ) 李密 の反乱 の際 にも 、北龍 は戦場 にな って いる (『. これより先 、亡国 ののち長安 に連行 された陳 の後主叔宝 は、晴 の文帝 の東巡. 願 の政を為す や仁厚 な る能わず 、而 るに仏法 を信ず 、自ら家財を出だし、 諸州 に在り て仏図精舎を鎮建す ること 、合 し て七十 二処 、 一十六部 の 一切. に従 い 「 芝山」 に登 って侍飲 した時 、五言 四句 の詩を作 って晴 の統治 と洛 陽. . 経を 写す。:::而 し て諸州 に在り て塔寺を営む こと多 く高山秀阜 に在 り 、. の壮麗さを讃え 、上表 し て封禅す ることを請う て いる。 みずか. 人牛を傷殺す 。ー:宣ハ の北部寺 の碑文は、中書侍郎買 元寿 の詞なり 。高祖 頻り に北部寺 に登り 、親 ら碑文を読 み、称 し て佳作と為す 。 こ れ ら と は 別 に 、 北 部 は 遊 宴 の場 であ り 、 狩 猟 の場 でも あ った 。 『醜 書 』.
(15) . . 正 秋 後 藤. 。俗諺説 「 詩 「 生在蘇杭、死葬北郎」。都山又是古代帝王 北部家墓高嵯峨」. これま で北部を主題と し て詠 じ 、また北部 に言及した多 く の作品を見 てき. 北部瀞」。登阜遠望 、伊洛 二川之勝 、尽収眼底 、傍晩時 分 、 方家 灯 火 、 如. 人居朝市未解愁、請君暫向 古時樹木森列、蒼翠如雲。唐代詩人張籍云、「. 六. た。北部は詩人たち にさまざ まな感 慨を 抱かせた。まず北部 が詩歌 に定着し. 同天上繁星 。. 理想中的埋骨処所。其最高峰為翠雲峰、在今市区正北、上有唐玄元皇帝廟。. て ゆ く 契 機 と な った のは 、 梁 鴻 の 「五 嘘 之 歌 」 であ った ろう 。 ま た 、 北 部 は. 「 登き済河 、痕若発隊 。 苦 に登り河を潜 れば 、嘘と して隊を発くが若し。) 」(. ひら. 文 選』巻 四二 、応壕 「 3 段注が指摘 す るよう に、『 与 従弟 君 苗 君 胃書 」 の. あ ったし 、戦乱 によ る破壊と 再生を 繰り 返す洛陽を眺望する基点 でもあ った。. 説文解字』 は、「 き 、洛 北大阜也。 若 は、 」( の句 に付 された李善注 に引く 『. もと より埋葬 の地 ではあ った が 、旅 の途次 の通過点 、も しくは別 れ の場 でも また 、北部 に、 こ の世 に生を享けた誰も が いず れは帰着す る墓地と し ての象. 洛北 の大阜なり。)に作 る。. 4 現在も優師市 の北部 には祁嶺と いう集落 があ る。. 徴的なイ メージを付与 した のは陶淵明 であ った。 これは祖先 の墳墓 の地 でも あ る北部を容易 に目 にす る こと のできな い南朝 の人士であ ったれば こそ の表. 5. 6 例えば 、昭公 二二年 の条 に、「 夏 四月 、王 田北山 、使 公 卿 皆 従 。」 ( 夏四. 山 の尾 、 一名 は平逢山 、亦郊 山と名 づく 。)と言う 。. 北部山は是れ瞳 北部山是瞳山之尾 、 一名 平逢山 、亦名郊 山。 引 いて、 「 」(. 元和郡国志』を 太平御覧 』巻 四七 、地部七 、郡 山 の条 に、『 こ のほか 、『. 現 であ ったかも しれな い。 こ のよう な南朝 の人士 の華 北 の地に対する億慢 は、 建康 周辺 の山を 北部 になぞらえ て表 現す る こととも結び ついて い った。さら に、張載 の 「 登北部賦」 の存在も忘れることができな い。 七哀 詩」 や張協 の 「 これら の作 品は 、墓地とし て の北郊を冷静 に見 つめ 、それぞれ の詩人 の人生. 月 、王. 北山 に田し、公卿を し て皆 な従わ しむ 。)とあ り 、杜 預 の注 に 、. 観を 的確 に投影 し て いたか ら であ る。. 「 北山 、洛 北ぞ也 。 北山は 、洛 の北きなり 。)と言う 。 」(. と言う 。 中国歴史文化名 城叢書 8 前掲 『. 王侯 ・公卿 多く此 に葬 る。). 中 国歴 こ のほか に、後漢 の皇帝 の陵墓 は北部 の山頂部 にもあ る。前掲 『. 史文化名城叢書 洛陽』 の 「 東漢 三皇陵」 の項を引 いておく。 、漢章 帝 ( 、漢和帝 ( 。 劉荘 。顕節陵 ) 即漢明帝 ( 劉恒。敬 陵 ) ‐劉肇 慎陵 ) 的寝陵 、位 千今洛 陽市東 、象荘村 正北的雄 山嶺 上。此処地勢高峻 、視 野開. 9. 形墓 家、高約 一五米 、周長 四八七米 ー窺 峨蛸抜 、雄 運壮観 。 」と 言う 。. 西南 、北臨黄河 、南依雄 山 。陵園坐 北朝南 、四周有 囲培護 。陵園中心為 円. 、坐落千今洛陽市孟津県鉄謝村 、俗称 『 、亦称 『 漢陵』 原陵』 称 『 劉秀墳』. 洛陽』 の 「 漢光武帝陵」 の項 では 、 「本. たあと に、「 其後 王侯公卿多葬此 。 其 の後 」(. 後 漢 書 』 の記事 を 引 い 7 例えば 『 清 一統志』河南府 、北部 山 の条 には、 『. .それ では、唐代 にお いて南 北朝期ま で の北郎を詠 ず る詩歌はど のよう に意 識され 、ど のよう な展開 の様 相を見せ てゆく のであ ろう か、 これ に ついては 機会を改 め て概観す ることと した い。. 洋一 1 以 下、原文 に用 いられ る表記 は変え な いが、通常 の記述 にお いては現在 通行 の北部と いう名称を 用 いることとす る。 中 国建 中 国歴史文 化名 城叢 書 洛 陽 』 ( 2 繋承賢 ・韓忠厚 ・蔓喜 元主編 『 は 、郎山を次 のよう に説明 し て いる。 築 工業出版社 、 一九九○ )’ 又名 北越 、横臥 千洛陽北側 、為崎 山支脈 。東西綿 亘 一九 〇公里 、海抜 二 郡山是洛陽北面的 天然屠障 、也是 軍事 上的戦略 要地 。白 居易 五〇米左右 。-. 4 1.
(16) . 北都を詠ずる詩歌. 闘 、南対 方安大 山、北向九曲黄河 、東 晴京都宮 間、 ‐西顧翠峰渥塑 、為埋骨. を詠 ず る風潮があ ったこと がう かがわれ る。ちな み に、程章 燦 『 魂晋南 北. 目に分類 し 、そ の三と し て 「弔古 述先的歴史題材占有相当比例。西晋賦家. 朝賦史』( 江蘇古籍出版社、 一九九二)は西晋の賦 の題材 の新趣向を四項. 『 北堂書紗』巻 一〇六・ 『 太平御覧』巻 一五八など 楽府詩集 』巻 八五 、『. 正寝的響響佳城 。三皇 陵由北向南縦列連成1 一線 。 0 1. 大都経歴太康盛世、但随後八王之乱、和中原板蕩、対他僧的生活和心霊的. 充満歴史 的槍桑和人生的沈重 。:::北郊山臨近西晋京城洛陽 、漢挑以来王. ・. 1 『三国志』巻 六、董卓伝 に引く 『 献帝春秋 』 は、「 走北き」 に作 る。 2 北畑はかなり広大な地域 にわた るから へ魂 の陵墓も北部 にあ った こと に 1. 全晋文』巻五十 一億成 『 侯貴族多葬在那里。登臨北部 ( 『 登苦賦 、巻八十. に収録されるが、『 後漢書』巻 八三・逸民伝 によ った。. は変 わりはな いむただ し、後漢 の陵墓と は位 置を異 にす る。許鎖学」張宝. 、令入憂思叢生、「 五張載 『 登北越賦』) 何天地之難窮、悼人生危浅 、歎白 し、「 張載」 は、「 張協」 の誤り 。. 。 日之西頗 号、哀世路之多寡」 ( 張載 『 登北ぜ賦』) 」 と指摘 し て いる。ただ. 震擾更大 。:::強烈的憂患意 識給這些歴史 題材抹 上濃厚的興亡感慨色彩 、. 剣主編 『 河洛定鼎地』人中国人民大学出版社 、一 一九九 四 )は、 醜晋帝后 之陵 、多 埋葬 千今洛陽市優 師県境内 的首腸山 。首 陽山、位 千 漢魂故城的北面 、 東西綿 延三十余 里 、是郎山的最高処 、因日出先照、故名 ▼ 首 陽山。在漢嬢時期 、首 腸山也吃指 城北的郡 山。首陽山的毎 個山頭又有 具. 「 醜晋南北朝時期洛陽的興衰」( 中国人民大学書報資料社 「 復印報刊資料醜. 6 『 楽府詩集』巻 五八 による。▼ 芸阜」 に作 る。 『 芸文類衆』巻 四 二は 「 1 7 記述 にあ た っては、前掲 『 中国歴史文 化名 城叢書 ・洛 陽 』、 及 び 程 建 波 1. 体 山名 、伯夷 4叔斉廟在繁 子山頂 、原郡 山之顔 、山南為沖積台地 、北高南 低 。這 一帯 北枕輩 山、南望伊 ・洛 、依 山臨氷 、是」 片極開聞的平地 、為墓. 晋南北朝晴唐史」 一九 八五 ・六所収 )などを参 照した。. 9 永嘉 の乱以後も洛 陽はしば しば 戦火 に見舞われ、後晋 、東晋 、前秦 、北 1 醜と支 配者を変え て いる。- こ の間、何度 か修復 が試 みられたが、安定と繁 栄を取り戻す のは、四九 四年 、北嬢 の孝文帝元宏 が平 城 ( 山西省大 同市 ). 洛陽 に至り 、晋 の五陵 に謁す 。)とあ る。. 九 、 一九九九 )に、きわ め て示唆 に富む指摘 があ る。 4 この詩 に ついて、松本幸 男 「 裕康 の贈答詩 に ついて ( 「 上と ( 学林」 五、 1. から遷都 し 、金塘 城を修復 し宮殿等を再建 し てから のち のこと であ る。 五. 晋 五陵 。 帝 」(. 8 『 宋書』巻 二、武帝本紀 中 に、「 修復 晋 五陵 、置守衛 。」 ( 晋 の五陵 を 修 1 復し へ守衛を置く 。)とあり 、 『 南史』巻 一、朱本紀上 に、 「帝 至 洛 陽 、 謁. 葬理想的風水宝地Q曹嬢陵区和西晋陵区就選在這 一帯。曹醜陵区和西晋陵 区相郷 、西与東漢陵区蹴連 。 と指摘し て いる。曹叡が台観を築 こうと した のは、 同じ北部 であり ても文 帝曹 杢 の首 陽陵があ る首陽山より は西方 の地域 であ った ろう 。. 一九 八五)は、疑山 喜の 『 答』詩 の いわ ゆる第 四首 は こ の太 僕 厩 の令 に就. 焔 こ の詩 に ついて、大上正美 「 劉伶論ー 生と文学 の位相」^「 青山語文」 二. いて か ら の作 ら し い。 ・ ::・『 南 腐 伊 渚 、 北 登 が 丘 』 と いう 二句 は 明 ら か に. が殺された時 に、死体 は 「 北き」 に捨 てられたと いう 記事 が あ る 。 『 南斉 書 』 には、「 虜法 、謀 反者 不得葬 、棄 戸北きo 虜 の法 に、 謀 反 者 は 葬 る 」( 、 瀕書 』巻 二 一上 、 元祷 伝 に は 、 「同 を得ず 、戸を北芝 に棄 つ。)とあり 、『. L て、宣 武帝 が年少 であ った のに乗 じ て紙逆を はか った成陽 王元嬉 〔 蕗〕. 〇 一年 には孝文帝 のあとを継 いだ宣武帝 元格 が洛 陽城を大幅 に拡張 し て い る。ま た 、『 南斉書』巻 五七 、醜虜伝 には 、景明 二年 (五○ ; の こと と. 仕官後 の消息 を伝え るも のであ ろう 。 」と言う 。 5 引用は基本 的 に 『 芸文類衆』-に拠 ったが、『 全晋文』を 歴代賦桑外集』・『 1 参 照し て改 めた箇所 があ る。なお、『 歴代賦桑外集』 には 、 張 協 「登北郊. 賦」のほか、張衡 「 家賦」、億成 「 登郁賦」、陸機 「 感丘 〔 郡〕賦」、陸機 「 大暮 〔 墓 〕賦」などが収録 され て いて、. 西晋時代 には賦 にお いても 墓 地. 5 1.
(17) . . 正 藤 秋 後. 同謀 の詠斬 せられし者数 十人 、潜 か に 謀詠斬者数十 人、潜塵祷於 北畑 。 」( 祷を北部 に窪 む。)と言う 。 0 こ のほか 、『 従武帝平間 中 従征詩」 より荘重 な 「 芸文類衆』巻 五九 に、「 2. 合し て新林 に屯す 。)とあ る。. 7. 妾家 『 玉台新詠』巻八) の冒頭 に 「 奉和湘東王応令冬暁」詩 ( 劉孝威 「 2. 妾 が家 は洛城 に辺 し 、慣 れ識 る暁 鐘 の声 ) の句 が 辺洛城、慣識暁鐘声」 (. 大蒐徐方 旅族は首路 し. 揚 城 に鞠旅し 徐方 に大蒐す. 及び 、孝威. 崇さ」 の語が見え る。全文 は以 下 の通り。 詩」を載せ ており 、「 鞠旅揚城 元戎啓行 樟を洪河 に狽 め 轡を崇き に統 ぶ. 洛 城」も 単 に大 都会を指す 。 あ る。 この 「 8 『 及侯 景冠乱 、孝威於 梁書』巻 四 一、劉孝威伝 は 、彼 の最期 に ついて 「 2 侯 景 の冠 乱す る に 囲城得出 、随司州刺史柳仲礼 西上、至安 陸 、遇疾卒 。 」(. 旅族首路 統轡崇き. 元戎 は啓行す. 張糧洪河. に至り 、疾 に遇 いて卒す。)と言う 。したが って、侯景 の包 囲 から脱出後 、. さら に新林 から出発す るとき の感慨を詠 じた詩 であ る可能性も あ る。. 囲城より出づ るを得 、司州刺史柳仲礼 に随 って西上し 、安陸. 先秦漢醜晋南 北朝詩 』宋詩巻 一の 詩題 の 「 闘中」 に ついては、途欽 立 『 握」 に作 る。『 古詩紀』 に従 った。 「 芸文 類緊』は 「 樟」を 『. 関中」 が正し い。 案語 に言う 通り 、「 れ. 9 『 南史 』巻 八○ 、侯 景伝 に、侯景が叛 いて建康城を攻 めた時 のこととし 2 て、「 初 、景至都 、便唱云、武帝 己曇駕 。錐 城内亦 以為 然 。 簡 文 慮 人情 有. 変 、乃請 上輿駕巡城 :::。 初 め、景 の都 に至 るや、便ち 唱え て云う 、武 」(. 2 例えば翼 斌 『 其の 上海古籍出版社 、 一九九 六 ) は 、 〈 陶淵明集校範 』 ( 2 拠詩 中 『:::』等 感 慨 槍 桑 之 語 、 擬 九〉を除く他 の制作時期 に ついて、「. 人情 の変 有ら ん 帝. 1 3. 。 注9 1参 照. 5参 照。 0 拙稿 「『 送葬詩』論 (一ヒ。注 2 3. れば 、これら の詩 は台 城包 囲下 の緊迫 した中 で作 られた こと にな る。. にま つわ る 記 事 が 見 え て いる 。 こ の時 の 「巡 城 」 に索 嘆 も 従 って いた と す. こと を 慮 り 、 乃 ち 上 に奥 駕 し て巡 城 せ ん こ と を 請 う :::。) と いう 「巡 城 」. 。簡文 己 に髪駕すと。城内と 難も亦以 て然りと為す-. 、古譜 四二二) 古九首当作於晋宋易代後。梁譜将此詩繋於永初三年壬戎 ( 。王揺注 拠黄文 燥 陶 詩 析 義 、 謂 本 詩 四 二○ ) ・選繋年繁於永 初元年庚申 ( 」と 言う 。 当作於永初 二年辛酉 (四 二 二 。按、王注大致 可従 。 四九七 )とす る。す ると こ の詩 は南斉末 期 の作と いう こと にな る。. 漫興九絶」 へ 其の八〉 の 『 黄氏集千家註杜工部詩史補遺』巻 一所載 の 「. 一四. 3 李斉伯 『 斉 魯書社 、 一九八九 )は 、徐 主 簿 を徐 伯 珍 (四 何 遜集校注』 ( 2. 4 2. 注 は 、若 干 の異同はあ るが第九 ・一〇句 を引 いて 「田飯引」 に作 る。. 2 この記事 に ついて 『 後 従周文与 斉 人戦 於 北 き 。 周 師 北史』巻 六 一は、「 3 」 に作 ってお り 、 こ の 「周 不利 、栄定与汝南 公宇文神慶帥精騎撃却斉師。. 校勘記』 斉人」「 文」「 斉師」 の語について、張元済 →張森楢 の 『 周師」「. 5 例えば建康 周辺 の湖水 は、長安 の昆明池 に職え られ ること があ った。拙 2. 『 中国中世の哀傷文学』研文出版、 一九九八所収) 二こ ( 稿 蟹送葬詩』論 (. に議論 があ る。当 否は別と し て、 ここでは西醜と東醜 、ま た北周と北斉 の 3 3. 抗争 にお いて、北節 がしば しば戦場 にな った ことを確 認し ておき た い。 『 南史』巻 一○、陳本紀 下。. 江州 参 照。また 、建康を 洛陽 に喰え る例も しば しば見 られ る。劉孝標 の 「 芸文類票』巻 二八 )などはそ の 一例 であ る。 還入石頭」詩 (『 6 『 新林浦在江寧県 西 嘉慶重修 一統志』巻 七 三、江寧府 一、山川 の条 に 「 2 南。斉永明 五年 、起新林苑 。梁太清 二年 、侯景之叛 、章燦 .柳仲礼等赴援、 援 け に赴き 、軍を. 新林浦 は江寧 県 の西南 に在り。斉 の永 明五年 、新林苑を起 合軍屯新林 。 」( こす 。梁 の太清 二年 、侯 景 の叛く や、章燦 ・柳仲 礼等. だ 0 .
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