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」 北朝鮮から見た「帰国運動」

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長崎大学教育学部社会科学論叢 第61号 33‑42‑(2002)

北朝鮮か ら見た 「 帰国運動」

一 呉 基 完 ・元 「在 日同胞 帰 還 迎 接 委 員 」 に聞 く一

安部 俊二

"The Home‑coming Movement"

s

een from North Korea:

An lnterview with Mr. Oh Gi‑Wan,the Former Memt光r Of the Reception Committee for Japan's Korean Retumees

Shu∩ ji ABE

「教育 も医療 も無料 、祖国 は全て を保障す る

「北朝鮮 は地上の楽園で ある 祖国に帰れ ば どんな望み も無条件 に叶 えて くれ る」 とい う朝鮮総聯 (在 日本朝鮮人総聯合会) による キ ャンペ ー ンを信 じ、 日本での民族差別 ・貧 しく展望 のない生活か ら逃れ 、差別のない ・ 自由で豊 かな生活 を送 ろ うと、一九五九年十二 月か ら一 九八四年 までで、九万三三三九人 にのぼ る在 日朝鮮 人 (日本人配偶者 を含む) が、「社会主義祖国 」北朝鮮 (朝鮮民主主義 人民共和国)に 「永住帰国」 した。 これ を 「帰国運動 (帰国事業 ・帰還運動 ・北送事業)」

とい う。

しか し帰国運動 が始 まるころの北朝鮮 では、工業生産の増大 を目指 して発動 された 「千 里馬運動」 が社会全般 の部門で も推進 され、一 九五 九年三 月か らは 「千里馬作業班運動」

が始 まっていた。 これ らは、北朝鮮人民 を一人残 らず動 員 し、 ノルマを設 けてその労働 力 を最大限発揮 させ よ うとす る共産主義体制特有の方法で あった。「動 員体制国家

北朝鮮 に とって動員すべ き労働 力は十分 とい うことはなかった 一 九五八年 九月の在 日同胞北朝 鮮帰還奨励 の金 日成談話 を契機 に北朝鮮赤十字会 と日本赤十字社 間で交渉 がすすめ られ 、 一九五九年 八月カル カ ッタ協定 が成立 し、十二 月十五 日在 日朝鮮人九七五人 を乗せ た帰 国 船 が沼津 に到着 した。帰 国者 はただちに千里馬作業班運動 に動 員 され た。 (l)帰国者の 多 くは平壌 に職場 を希望 したが、その希望 が実現す る者 は一部で あ り、労働 力が不足 した農 村 や地方都市、炭鉱、鉱山に送 られ る者 も多か った。 (2)また主食で ある米の配給 も十分 でな く、重工業優先の国策 も一因 となって消費物 資が不足 し、帰国者 に とって不平 ・不満 の ある生活であった。 日本での民族差別 か らよ うや く逃れた帰国者 は、北朝鮮では「在胞

」 ・

「帰胞」 と新 たな差別 に苦 しめ られた。北朝鮮独 自の 「成 分 」表 で帰 国者 は、「動揺階層」

に分類 され 「監視対象」とされ、なかには思想教育の美名の もとに教化所 に送 られ る者 ・ 政治犯 と して収容所 お くりになる者 、 また虐待 ・拷問 ・公開処刑 され る者 もでた。 また 「行 方不明者」 も多数でた。 (3)これが (帰国運動 〉が もた らした 「地上の楽園」の厳 しい 「現 実」であった。

この よ うな北朝鮮 における帰 国者のおかれてい る実態 については、帰国者 たちの手紙 ・ 北朝鮮訪問者 ・元朝鮮総聯 関係者 ・帰国者の家族 ・北朝鮮か ら脱出 し亡命 した帰国者 自身

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によって明 らかに され、(4)帰国運動 につ いて も批判的な総括 がな されて きた。

た とえば一九六〇年北朝鮮 を訪問 した岡山県朝鮮人商工会の関貴星 は、一九六二年三 月 とい う早い時期 に帰国運動 についてつ ぎのよ うに記 した。

「在 日朝鮮人 を帰国せ しめる政治 目的についてここで言及す るまで もないが、その第一 の 目的 はやは り人的資源の確保で あった。・・・・い うまで もな く人的資源の確保 は労 働力の確保 である。 と同時に戦時にはその まま戦闘力の増大である、 日本 にいる六十万 人 といわれ る朝鮮人 を呼び返 そ う、 とは誰 しも目のつ けるところだ。」 (5)

朝鮮問題 ジャーナ リス ト・萩原達 は問責星の見解 に同意 しなが ら以下のよ うに述べ た。

「朝鮮戦争 でおびただ しい壮丁 を失 った北朝鮮 が、戦後の復興や建設 におお くの人手 を欲 したのは自然のな りゆきであった。 ネコの手 も借 りたい北 が在 日朝鮮人に 目をつ け たの だ。・・・このほかに もい くつかの 目的があったのであろ う。 それ については こん ごの検討にまつ として、いずれに しろ金 日成政権の陰謀によって始め られた帰国運動であっ たとい うことだ。」 (6)

また朝鮮総聯活動家 として帰国運動 に関わ った張明秀は、以下の よ うに記 した。

真の愛国者』 を世界 にアピール し、そ して総聯 に対す る北朝鮮の指導 と統制の強化 に帰国事業の本 当のね らいがあった。」 (7)

「 (

一九六〇年 四月二十二 日の)内閣命令では、帰国同胞 が持 ち帰 った各種設備 を社会 主義建設 に有効 に利用す るため、さまざまな優遇措置 を講 じるよう命 じている。つ まり、

帰国事業 を通 じて、北朝鮮側ではその政治的利益 だけでな く、経済的な利益 を得 ようと した。・・・在 日同胞の企業家 および技術者 にたいす る宣伝材料 が用意 され、社会主義 国家建設 に参加す る企業家 ・技術者の組織化が ここに始 まるので ある。 これが帰国事業 長期化の カラク リである。」 (8)

ここでは、帰国事業 が最初 は (政治的 )利益のために出発 しなが らも、半年 も経 たない うちに く経済 的 )利益 を得 る活動 に 「変化 」した とす る。 そ して萩原達 が指摘 す る

「 い

くつかの 目的」 とはなにか ?これ らの問いに答 えることは、帰 国運動 の 目的 ・歴 史 を明 らかにす ることにつなが るであろう。そのために も実際 に帰国運動 を担 った 日本 と北朝鮮 の実務担 当者 の 「証言 」は、重要 で あろ う。 そ こで、帰 国者 を 「歓迎」す る機 関 と して 一九五八年末北朝鮮政府 に設 け られた 「在 日同胞帰還迎接委員会 (在 日帰国同胞迎接委員 令)」の迎接 (歓迎 )委員であった呉基完 (OhGi‑Wan)氏 に帰国者受 け入れの実際 を中 心 にインタビュー取材 を行 った。その インタビューは、帰国運動 を中心 に韓国 ・金大 中政 権の 「太陽政策」の問題点、北朝鮮 による日本人位致問題 (新潟の横田め ぐみ さん粒致事 件 ではないが他 に 日本人位致 を聞いたことがあ ること)、北朝鮮 は 日本政府 を甘 く見てお り二〇〇一年十二 月の奄美大島沖の東 シナ海での 「不審船」 に対 して と同 じ毅然 とした 日 本政府の対応が必要であること、北朝鮮 における帰国者 に対す る 「差別」意識 ・韓国にお ける北朝鮮 か ら韓国への 「亡命者」への 「差別」意識の存在 、北朝鮮 か ら韓国への 「亡命者」

自身の意識の問題点 など広範な内容 であった。本稿では、まず呉基完氏 とい う北朝鮮の元 ・ 政府高官の北朝鮮 における軌跡 を略述 し、次 に迎接委員 としての呉基完氏の活動 を、 さら に帰国運動 が生 んだ 「日本人妻問題」、北朝鮮の将来 についての見解 を紹介 したい。二〇

〇二年一 月十四 日韓国 ソウルでの インタビューを構成 した ものである0

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安部 35 一.北朝鮮時代の呉基完氏

呉基完氏 は、一 九二八 (昭和三)年三 月十五 日に平安南道江西郡 で生 まれ た。彼の父 は、

京城 (現 、 ソウル) にあった普成専門学校 (現 、高麗大学校)商科 を卒業す ると朝鮮総督 府専売 局 に入 り判任官 と して勤 めあげ、退職の 日は高等官待遇 で あった (「一 日高等官」)。 旭 日章勲七等青色桐乗車の勲章 も受 けた。

呉氏 は、尋常小 学校 を卒業 し、平安北道 の私立 ・五山 中学 に進学 した。彼 は、中学五年生一 解放 を迎 えた年 で もある‑ の時、京城帝 国大学予科 を受験 したが不合格 だ った。合格者の 三分の二 が 日本 人に残 りの三分の一 が朝鮮 人 に割 り振 られ、朝鮮 人受験者 に とって競争率 は高か った。浪 人 しよ うと考 えて再び故郷 に帰 った。

解放 の翌年、一 九四六年 九月一 日、平壌 に創設 され た金 日成大学 に入学 した。専攻 は農 業経済学 だ った。解放直 後、北朝鮮 では政治的混乱 が あ り、そ こに労働党 が入 って きた。

朝鮮総督府 の役人 だった父 は 「親 日派」 だったがただちに労働党 に入党 し、呉氏 も入党 を 勧 め られ労働党 員 となった。 これが大学 入学 に有利 に働 いた。の ちに親 日派 を 「粛清」す る時期 もあったが、父 は労働党員 と して熱心 に頁献 していたので 「親 日派」 と して糾弾 さ れ ることを免れ た。呉氏 も「成分」は良 くなか ったので他の人 よ り勉強 し働 いた とい う。「労 働党 員 と して活躍 した。 そ こで私 は少 しは点数 を上 げたのではないか と思 う」。

一 九五〇年六 月初 め金 日成大学 を開戦の迫 った朝鮮 戦争の ために繰 り上 げ卒業 した。第

‑回卒業生のほ とん どが人民軍 に召集 され、呉氏 も政 治将校 ・大尉 とな り、第一〇五戦車 部隊 に配属 され た。朝鮮戦争 が開戦す る前一 呉氏 によれ ば一 北朝鮮 は緊張状態 にあった。

開戦前 に六 月二五 日に韓国 に侵略す ることを知 った。開戦一週間前 に呉氏 が属 した第一〇

五戦車旅 団 と第三五七歩兵師 団は全兵力 を三八度線の最前線 まで移動 した。開戦後、第一

〇五戦車旅 団 (後 、「師 団」 に昇格 ) は ソウル を最初 に 占領 した師 団 となった。約三年間 呉氏 は政治将校 ・人民軍大尉 と して従軍 した。除隊後 、軍功 を認め られて金 日成首相名の 「匡l 旗勲章第三級」が与 えられ た。 さらに、 ソ連留学生 に選ばれて カザ フス タンの アルマア タ 大学の大学院で三年間農業経済学 を学んだ。

ソ連 か ら北朝鮮 に帰 国後 、呉氏 は金一副首相 (農業担 当)の補佐官 と して配置 され た。

一 九五八年 、呉氏 は ソウル大学薬学部 を卒業 した女性 と結婚 した。朝鮮戦争の時 、北朝鮮 人民軍 が ソウル を占領 しそ この若い男女 を集 め義勇軍 を組織 したが、国連軍 に敗れて人民 軍 が後退す るとき全員 を北朝鮮 に連れて きていた。 その女性 は この頃第三三野戦病院 (後 に人民軍病院 とな る) に軍医大尉 として働 いていた。呉氏 はその病院 に行 った時出会い結 婚す る しか し北朝鮮 では南朝鮮 出身者 は 「成分」 はよ くない とされ る。 そ こに一九六二 年末 、南労党事件 の 「残党狩 り」 にあい妻 が逮捕 され連行 され た。妻 か らの便 りもまった くなか った (すで に妻が処刑 されてい ることを知 ったのは、韓国亡 命後の ことで あった)。

労働党 で その結婚 が問題 とな り、一 九六三年一 月呉氏 は補佐官 を解任 された。 その後工場 で労働 者 と して働 くことになった。「妻 も逮捕 され た。私 も逮捕 され ることにな るので は ないか。 これ は、 こち ら (北朝鮮)で死んで も南朝鮮 に行 って もよい。 ここ韓国では認 め られ ない 。 だいい ち金 日成大学 を卒業 し、 ソ連 に留学 して労働党の党 員 と して活躍 した。

こん な人が南 に来 て も認 め られ る訳 がない。だか ら北 にいて も死 ぬ しかない し、韓国に き て も死 ぬ。 ど うせ死ぬな ら生 きなが ら、 もしか した ら南 で生 きる方法 があるか もしれ ない

とい うかすかな希望 があった」。

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その 「かすかな希望」 を胸 に韓国に亡命 したのは、一九六五年九月の ことだった。 ここ韓 国では再婚 は しなかった。

北朝鮮 にい る時 、金 日成の 「成分」の とらえ方 は一面的 との考 えは もっていたが、「核心」

成分の人は信 じているとい う。呉氏 は北朝鮮 にいた時 も共産主義建設 はこんな ものではな い とい う考 えは持 っていた とい う。 これでは、百年 たって も共産主義社会の実現 はで きな い と思 った。北朝鮮の インテ リはみんなそのよ うに思 ってい るが、口にだす ことはで きな い。「主体思想」 とは 「金 日成 ・金正 日の教 えを代 々孫 々に この体制 を整 えるために必要 な主義」で ある。黄書記がその 「主体思想」 を作 った人だが、彼 も間違 っていたか ら韓国 に 「帰順」 したとい う話 を聞いた。

韓国につ いての呉氏の印象 は、あまりに も自由であることだ。ある程度の自由は必要 だ がそれ を超 えるのは問題 だ。韓国人 は一定の統制が必要だ と思 う。自由 を放 っておいては、

何 に もな らないだろう、と。

二.迎接委員 としての呉基完氏の活動

一九五八年末 に政府 に金一副首相 (兼農業相)を委員長 にす る 「在 日同胞帰還歓迎 (迎接) 委員会」 が設置 され、呉氏 は 「歓迎 (迎接)委員」 として受 け入れ実務 を担当 した。金一 副首相が二年間委員長職 にある間、呉氏 も迎接委員 を二年間務 めた。政府 か ら清津 ・輿南 などの地方 に委員 を派遣 した.委員会 は約‑00名の各分野の専門家 か ら構成 されていた。

たとえば、検疫 (植物 ・人間)、職場配置 などがあった。金一副首相 は、農業相 を兼務 し ていたので呉氏 もそこに行 って植物 ・動物の検疫 を担 当 した。帰国事業 は一九五九年十二 月中旬か ら始 まり、一 月・二 月と日本か らの帰国者が主に持 って きた果物 はみかんだった。

みかんに何 かの病原菌 がついていないか調べ るために、滑津の歓迎委員会の部屋 に検疫す る装置 を設 けた。呉氏 たちは、滑津で帰国者 を迎 えた。 また多 くの滑津市民が迎 えに動員 された。

ところで、在 日朝鮮人の 「帰国運動

は一九五八年八月Jll崎市で開かれた朝鮮総聯の集 会で帰国 を要請す る建議書 を採択 したのが始め とされ る。 これ は、南 日外相 あてに送 られ 当然の よ うに金 日成 の もとに行 く。呉氏 は、当時 を以下の よ うに回想す る。

「あの時 は、内閣の非常会議 をほ とん ど毎 日開いた。 これ をどうす るか ?と。在 日同 胞 は 日本で毎 日み じめな ・ひ もじい生活 を強い られてい る。彼 らは民族差別 を受 けなが ら、 とうてい耐 えきれな くて祖国に帰 る運動 を始めた。 これ を受 け入れ るのか ?政治的 には、受 け入れ なければな らない。人道問題 だか ら受 け入れ ざるをえない。受 け入れて も初めは数千人で終 わると思 っていた。職場 ・住 まいの問題 があり、何万人 もの人が帰 国す ることになって非常 に驚いた」。

呉氏 によれば、 この 「帰 国運動」を理解す るには、当時の政治状況 ・経済状況 そ して社 会状況 を知 る必要がある。 まず当時の政治状況であるが、一九五三年 か ら六〇年 まで 「南 労党事件」 とい う反党事件 が続 いた。中国か ら帰国 した延安派 とソ連 か ら帰国 したソ連派 の人たちが、一九五八年反金 日成運動 を起 こし、全員粛清 ・処刑 され た。「ひ どい ものだっ た」 と呉氏 は語 る。 このよ うに、帰国運動 が開始 された時期 は政治的に安定 しない状態の 時であった。

次 に経済状況 を検討す る。一九五七年いわゆる 「社会主義改造」が完成 したと宣言 した。

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安部 37

その内容 は、個 人経営 はすべて廃止す ること、農業 も集団化 したこと、都市の商工業者 に も個 人経営 をいっ さい認 めない とい うものであった。一九五七年か ら第一次経済五 力年計 画 が開始 した。それ は、 ソ連 ・中国 ・東欧の援助 に全面的に依存 した もの だった。その た め一 九五六年六 ・七 月には金 日成 が ソ連 ・東欧 を訪問、その援助 をたよ りに五 力年計画 を 開始 したが、一九五七年 ソ連 は無償援助 を打 ち切 り、以後全部有償援助 に切 り換 えた。 中 国の援助 も削減 され、東欧 諸国は、は じめか ら北朝鮮 に好印象 は持 っていなか った。その よ うな援助 が断 ち切 られ るとい う状況 は、北朝鮮経済 には決定的 ダメージとなった。 こう して経済 が最悪の状態 になった時期 に、在 日朝鮮 人の帰 国問題 が持 ち上 がったの だった。

最後 に当時の社会状況 がある。政治的な不安定状態 と経済の悪化は、北朝鮮の人民 に多 大 な心理的影響 を与 えた。人々の心理的動揺 が拡大すれば、様 々な事件 が発生す る。例 え ば殺人事件 も以前 よ りず っと増大 した。 こうした状況で在 日朝鮮 人の帰 国問題 が持 ち上が

り頭 が痛か った。

受 け入れ るか ・受 け入れ ないか ?受 け入れ るべ きだ とい う国際的な流れがある これ を 正面か ら拒絶す ることはで きない。一応 は、受 け入れ なければな らない。

受 け入れ るな らば北朝鮮の人民 に どの よ うに (宣伝 )す るの か とい う問題 が発生す る。

そ こで彼 らを宣伝集会 に動 員 して、在 日朝鮮 人の 「帰 国同胞」 は 日本で 「乞食」みたいな 惨 めな生活 を し、 さらに民族的差別 を受 けて とうてい生 きていけない状況 にある。 そこで 社会主義祖国に帰 ろ うとしてい るのではないか。確 かに私 たち も惨 めだが、彼 らを心 か ら 暖 か く歓迎 しよ うではないか。北朝鮮では差別 はな く働 けば配給 もある。早 く帰国 して「北」

の人民の よ うに幸福 な生活 を しよ う、 と。「北」の人民 は これ らの宣伝 を素直に受 け入れ た。彼 らは、自分 たちは金 日成や労働党のおかげで恵 まれた生活 を送 ってい ると信 じ込 ん でいた。彼 らは、その宣伝 が どんなに ウソで あろ うとそれ をその まま受 け入れ ざるをえな い。比較す るもの を持 っていないのだか ら。 これ は、ナチ ・ドイツの宣伝相ゲ ッベル ズが 述べてい るよ うに、大 げ さな ウソをつ いて も心理的に受 け入れ る状態で あった。

さらに 日本 か ら帰 国す る 「同胞」の 九九パ ーセ ン トが南朝鮮 の出身で ある。 しか し彼 らは 「南」 に帰 らない。 これ も宣伝の一つの材料 となった。「南」 に帰 らず ど うして 「北

に帰 るのか ? 「南」 では、人民 は 「乞食」みたいな生活 を してい る であるな らば帰国す る人たちを受 け入れなければな らな 帰国同胞 を歓迎す るために滑津の市民二〇〇〇人 を動 員 した。呉氏 ら迎接委 員は背広 に ソ連 か ら送 られ た りっぱな外套 をきて、シル ク・ハ ッ

トをかぶ って迎 えた。一方 、沼津市民 は中国が北朝鮮 に無償援助 した綿服 を特別 に配給 を 受 け、それ を着用 していた。 当時の北 では一番立派 な服 であった。埠頭では市民 が旗 を振 りなが ら 「早 く帰 って こ

」 と叫び、船上では帰国者 たちが全員甲板 に上 がって 「金 日成 万 歳」を唱 えていた。 ところが、船 が埠頭 に近づいてその姿 がは っきりと見 えるよ うにな ると、お互 いに驚 いた。船上では 「地上の楽園ではない 。埠頭の朝鮮 人はみ じめな人ぽ っ か りだ。編 され た。 うそだ」 とい う声 が し、一方歓迎す る側で も日本か ら 「乞食」の よ う な哀れ な人が帰 って くると思 っていたのによい着物 をきて顔 には脂 っ気がある、 これ は何 かの間違 いで はないのか ?と思 ったとい う。埠頭 で歓迎の列 の先頭 にいた呉氏 は、「私 で さえも本 当にび っ くりした」 とい う。 また 「これはひ どい ことになった。今後帰国者 をど の よ うに扱わねばな らないか ?」 とい う気持 ちにな った とい う 帰国者 に とって滑津市民 の服装 はみ じめな格好で あった。彼 らは 「これ は うそだ。何 だ、 これ は。でた らめだ」 と

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タラ ップを降 りなが ら言 った とい う。 また若者 たちは 「今度の帰国船 で再び 日本 に帰 る。

これ はひ どい ところに帰 って きた」 と言 った。

呉民 ら迎接委 員は、 この よ うな帰 国者の要求 を北朝鮮政府 と して当然認め るわけにいか ない と考 えた。そこで、滑津 に一週間 滞在 させて北朝鮮人民 がほ とん ど食べ ることので き ない りん ご・み かん を食事の時 に提供す るとい う特別扱 い を したが、それに も拘 わ らず 「こ んなにひ どい扱 い を され た」 と不平 を漏 らす もの がで た とい う。一 日三食 を与 え、白米 ・ 肉の スープ ・三 か ら五つの副食 、 さらに 日本では甘 い もの を食べ るとい うことで北朝鮮 で は人手 が困難 な砂糖 を入れ た副食 を作 った とい う。帰国者 が 日本で どの よ うな生活 を して いたかわか らないのに、特別扱 い して も不平 ・不満 が出 る。呉氏 は、「こん畜生 !」 と思 っ た とい う。

危機 感 を抱 い た呉民 ら迎接委 員 は、帰 国者 に関す る朝鮮総聯 の調書 は あ ま りに も簡単 だったので一人一人 に面会 して、 日本ではどんな生活 を していたの か ・どんな家庭環境 で 育 ったのか ・財産 はどれほ どあるか ・どんな職場 で働 いたか ・北朝鮮 では どんな職場 で働 きたいかな どい ろんな質問 を した。帰国者の希望 は平壌で働 くことだった。彼 らのなかの い くらかは 日本 か ら相 当の財産 を持 って帰国 した。働 かな くて も食 えるほ どの大 きな財産 を持 って きてい た。彼 らは、それ を現金の形 で持 って きたので はなかった。彼 らは、現金 を朝鮮総聯 に差 し出 してそ こか ら 「預 か り証」 を受 け取 っていた。例 えば、現金一億 円 ・ 五千万 円の 「預 か り証」 を持 っていけば北朝鮮 のお金 で全部返済す るとい うもの だ った。

呉氏 たち迎接委員 は、その 「預 か り証」を持 って来 るよ うに言 って、 これは労働党 に提 出 して労働党 が北朝鮮の現金 で返済す るか ・他の形です るか決定す ると して、全部の 「預 か り証

を労働党 に送 った。 しか しその後党 か らは一文 も帰国者 に渡 され ることはなか った とい う。 そ して 「ここでは職 は与 えられ、配給 はあ り現金 は必要でない。 ど うして一億 と か五千万 とか必要 なのか。働 かなければ配給 もな く飢 え死 に しかない。 だか ら労働党の恩 に金 日成 の恩 に帰 さねば な らな

い」

との内容の説教 がな され たので あった。

ここで配給制度 について簡単 に触れてお きたい。配給 は一 月に二回 あった。食料 ・米以 外 は配給券 がある。例 えば肉 ・た まご ・い ろんな 日用品は配給券 を与 えて商店 に行 って配 給券 と現金 で貰 って くるシステムで ある。米の配給 は一 月二回、十五 日分づつ で あ り、他 の生活必需品 は配給券で購入す る。今 は国営商店 に行 って も商品はないがあの ころは相 当 あった とい う もちろん現在 で も闇市場 に行 けば何 で も購入で きる。呉氏 は北朝鮮 が現在 の よ うな経済状況 で も滅亡 しないの は、その政治的統制の強 さにあるとい う。北 の人民 は、

ただ食べ ることに追 われ る ロシアの革命家 レーニ ンが述べ たよ うに 「人 を統制す るには その人のの どを統制せ よ」。 これ が最 も効果の ある統 制方法 で、反対すれば食べ ることが で きないのだか ら反対で きない。

この よ うな生活 に忍耐で きない帰 国者の青年のなかには滑津 で普通の漁船 を使 って 日本 に脱 出す る計画 を立てた人がい た と言 う。 そ こには女性 も含 まれていた。 これ は自然 に摘 発 され関係者 は全 員処刑 され た。 そん な ことが あって も、 日本 にか えろ うとす る事件 は、

続 いてお きた とい う。海 か らの脱 出が困難 とい うことにな り、いったん中国 に逃 れて 日本 に行 く道 を探 そ うとす る人が多い ともい う。

北朝鮮政府 に とって、 日本か らの帰 国者 が持 って くる機械 ・原材料 な どは く経済的 )に はあ りがたいが、彼 らが どんな行動 をす るのかわか らなか った。そ こでかれ らを 「国際 ス

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安部 39

パ イ」 と してで っち上 げ ることもで きた。 この 「在 日同胞」 を信 じることがで きない、初 めか らそ うい う疑いの眼でみ る しかなかった。「他人 を信ず ることがで きない とい うの は、

つ らい ことです。「人道的」に彼 らを受 け入れ た背景 には、北朝鮮の経済問題 があった0「帰 国同胞」の財産 ・技術 が欲 しか った ことがある。政府 は、 日本が北朝鮮 よ りもず っと進歩 してい る国 との認識 はあった。 そこで、途 中で 「集団帰国運動」 を組織 した。 これ は、 日 本で工場 を所有 してい る人に、工場の機械 ・原料 とともに北朝鮮 に帰 国 させ そ して工場 を 建設 ・運営 させ支配人 と しての地位 を与 えるもので あった しか し一 ・二年後 にはその支 配人 を 「社会主義 を勉強せ よ」 と言 って解任 し、朝鮮人で工場 を経営す るよ うに した。例 えば大阪か ら大 きな帽子工場 を持 って きた ことがある 九九年間使 えるだけの原料 を持 っ て きた と聞いた。最初 はその帽子工場 はその人が支配人 と して経営 していたが、一年半後

「社会主義 を勉強 しなければな らない」 とい うことで支配 人は解任 され 、金 日成の名で帽 子 は不要 だ として軍帽工場 に強制的に転換 させ た こともあった。

帰国者 を 「労働 力」 と しては、活用 しよ うとい うことはなかった とい う。 た しかに一部 エ ンジニ アや北里研究所 にいた博士 もいた し、医学博士は多か った。 そ うい う人はいたが、

全体的 に高度 な桔術 を持 った人は少 なか った。技 術 を持 った人 ・芸術 の才能 の ある人は、

北朝鮮のそれ にふ さわ しい配置 を しまたそれな りの待遇 を したがやは り 「不平 ・不満」 を い う 彼 らは、資本主義社会に住 んだひ とだか ら仕方がな 金 日成 は死ぬ前 に 「帰国同 胞のなかでなにか問題 を起 こした人は容赦 な く粉砕せ よ」 といった。 その ため帰 国者 たち はひ どい 目にあった。その よ うに金 日成の 目に うつ ったので仕 方ない 。 資本主義の腐 った 思想 をもつ人はい くら技術 を持 っていて も仕方 がない、 とされ た。

三.「日本人妻問題」

日朝国交正常化交渉で も取 り上 げ られている懸案の一つで、一部実現 した 日本人配偶者 (日本 人妻 、 日本人夫)の問題 について と りあげ る。呉氏 によれば、在 日朝鮮 人の帰 国者 とともに北朝鮮 に帰国 した約一八〇〇人の 日本人妻 と約‑00名の E]本人夫がいた。金 日 成 は 「この 日本人妻 と夫 につ いては大 目にみてやれ」 との方針で 日本国籍 を捨てない まま 朝鮮民主主義人民共和国の公民 と して扱 った。

日本人夫 につ いては、呉氏 は沼津で 「なぜ ここに帰 って きたのか ?男の恥 を知れ」と言 っ た ことがあるとい う 彼 らの なかには技術の あ る人 ・工場 の技師の資格 を持つ者 もいた。

特 に現代の コンピュー ターや先進的 な技術 を持つ人がいた とい う。 そこで金 日成政府 も日 本人夫 に対 しては大 目に見 るとい うことにな り、配給 も多かった とい う。

日本人妻 にたいす る処遇 が大 きく変化す る契機 となった事件 が、一 九六〇年頃起 きた「検 徳鉱山事件」 で あ る。「帰 国運動」 が始 まって‑年後 、金 日成 は 「現地指導 」を検徳 鉱山 でお こな った。 そ こは労働 者 が二万 か ら三万 名が働 く特級 ・優良工場 で あ り、多 くの帰 国者 とその 日本人妻 も働 いていたO金 日成 が 「現地指導」 を終 えて帰 る道 に隠れていた+

か ら二〇名の女 たちが集 まって 「首領殿」 と金 日成の前 に うつぶせ して 「私 たちは、 日本 人妻です。一度 だけで も日本 に里帰 りしたい。里帰 りして も必ず こち らに帰 って きます」。

金 日成 は微笑んで 「そ うか、それ ぐらいだった らなんで もない。 よ し、平壌 に帰 った ら必 ずお前たちの要求 を実現す る」 と約束 した。 ところが、金 日成 は平壌 に帰 ると 「何 だ、 こ

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の野郎 たち。何 で私の前 に うつぶせ して醜 い行動 を したのか。い くら日本人妻で も日本 に 帰国 させ ることはで きない。もし今度 もおな じ事件 があれば 日本人妻 とい えども処刑す る」

と言 った。 これ まで は 日本人 だか ら持別扱 い をす るとい う雰 囲気が あったが、 この事件以 降 はその扱 いはふつ うの朝鮮人帰 国者 と同 じになった。

ところで 日朝国交正常化交渉 で 日本人妻の 日本への里帰 りが一部実現 したが、 これ につ いて呉氏 は以下の よ うに分析 した。北朝鮮の立場 で も、 日本人妻の里帰 り問題 は人道的 に 考 えて も許 さなければな らない。 ところが、北朝鮮 の立場 では、 日本人 は ここに一人 もい ない ・全て北朝鮮の国籍 を持 った人 たちだ、その ために 「北」の名前 に変 えた、 日本人妻 の根拠 はない。それで も里帰 り問題 を 「人道問題」 と して取 り扱 い、二陣 にわたって里帰 りさせ た。呉氏 によれば今後絶対 に里帰 りはない ・あ りえない とい う。い くら日本人妻 が 日本で里帰 りは金正 日の恩 に よるものだ と言 って も、平壌 に帰れば北朝鮮の人民 に対 して 繰 り返 し私 は 日本 に里帰 りしたがやは り日本 は腐 った社会 だ と実感 した、ふ たたび 日本へ 里帰 りは しない、 と労働党の前 で誓 わねばな らない とい う。

四.北朝鮮の将来

それでは これか ら北朝鮮 は、どの よ うにな るの だ ろ うか ?呉氏の予測 は、明 る くないが、

北朝鮮の 「政治統制」はあまりに強いので、「北」の人民 たちはいかなる形で あれ韓国 ・日本 ・ 世界の情勢 と 「北」 の それ とを少 しで も比較 して理解す るよ うな状況 が くれば、「今 まで 我 々は編 されていた !」 とい うことに気づ くだろ う。 ところが、金正 日はそれが一番心配 だか ら外部情報 を絶つ ことに全神経 を使 ってい る。何 らかの形 で北朝鮮の人民 に世界の動 きを知 らせ ることがで きれば、 その まま北朝鮮 の崩壊 につ なが るだろ うと。 もしそれがで きなければ、ゲ ッベル ズが言 うよ うに、莫 っ赤 なウソで もその ウソを十回百回繰 り返せ ば 最後 にはそれが本 当か も しれ ない と受 け入れて しまうことにな る。「これは本 当に ウソだ。

だか ら私 たちは編 されて きた、 とい うことになれば、北 の崩壊 につ なが る」。北 の一部 の インテ リは十分 な外国の情報 を持 ってい る。呉氏 によれば政府の局長以上の幹部は、韓 国 の実状 をよ く知 ってい る。韓国の放送 も聞 くことがで きる。 これ に対 して、一般 の人 たち は韓国の放送 を聞 くことを禁止 されていて、放送 を聞いたとい う罪で処刑 され ることもあ る。 とくに、人民軍の軍人は厳禁 であ る。

おわ りに

呉基完氏への インタビューか ら<北朝鮮 か らみ た帰国運動 >につ いて三点指摘 したい。

第一 に、北 朝鮮政府 は、帰 国運動 開始前 は帰 国者 の数 は数千人 だ と予想 していたが最終 的には九万人 を超 える民族 の大移動 とな った ことで ある。 これ は北朝鮮政府 に とって予想 をは るかに超 える 「非常 に驚 く」数字で あった。特 に一九五九年末か ら六一年 までに帰国 者数 は七万 四七七九人 に達 した。 この背景 には、朝鮮総聯 による強力な帰国キ ャンペ ー ン

社 会主義虫フ想」の もと北朝鮮 の実情 を美化賛美 して伝 えたマ スコ ミ報道 、当時の 日本 社会 における在 日朝鮮人の生活苦 ・不安定 な地位 、帰 国者 の新 国家建設への参画の願 い な

どがあるよ うに考 えられ る。

第二 に、北朝鮮政府 に とって帰国運動 は、当時の北朝鮮 が置 かれていた国内的な政治的

・経済 的 ・社会的に危機 ともい える状況 を乗 り越 えるための一義的には政治的 な行動 であっ

(9)

安部 41

た。具体的 に言 えば、北朝鮮 人民 と韓国 ・日本 などの諸外国にたい して、資本主義国 ・日本 か ら帰国者 を 「人道」的に受 け入れ ることによって資本主義 に対す る社会主義の優位性 を 示す こと、同時 に帰国者の圧倒的 多数が韓国出身者で あることか ら韓国 に対す る北朝鮮の 政治的優位性 を示す ことで あった。対内的には これによって北朝鮮人民への支配 を強化 し 国内の危機 を克服す ることで あった。政治的 な宣伝の性格 が濃厚 な もので あった。 その意 味では、帰国運動 の 目的は (政治的 )で あった。言 うまで もな く帰国者 による財産 ・技術 ・ 労働 力が もた らした く経済的 )利益 は大 きか った。の ちには この く経済的 )利益の方 が重 視 され、在 日の企業家の帰国が推進 され ることになった。

第三に、北朝鮮政府 に とって 日本 か らの帰国者 は、少数の例外はあるがその大 多数 は堕 落 した資本主義社会で育 った 「信 用で きな

い」

異 分子 だ とみな され た ことで ある。「地上 の楽園」で あるはずの北朝鮮の現実 は多 くの帰国者 に失望 ・幻滅 と挫折感 を与 えた。そ こ で 当局 によ る徹底 した教化 がはか られ 「不平 ・不満」 を口にす る者 は 「国際 スパ イ」 など と して告発 、収容所送 りになった。 この背景 には北朝鮮独 自の三階層 (核心階層 ・動揺階 層 ・敵対階層 )五十一一区分による 「出身成 分」 とい う事実上の身分制度がある ここでは 帰国者の大 多数 は 「日本帰還者」 と して 「動揺階層」 に位置づ け られ 当局 による監視対象 に され、居住地 ・職業 ・教育 ・食糧配給 にいたるまで露骨 な差別的取 り扱 いを受 け、ひ と たび家族の一人が逮捕 ・処罰 され ると 「逮捕 ・投獄者家族」「処刑 ・処断者家族」 と して一 族 が さらに転落 してい く恐怖統治 システムの もとに置 かれ たのであった。

(1) 金学俊 (李英 訳)『北朝鮮五十年 史‑ 「金 日成王朝」の夢 と現実‑ 』(朝 日新聞社 ・

1997年)225‑226貢

(2) 首都の平壌 に住 めたの は、五パ ‑セ ン トもいなか った とい う。石高健次 『これで もシラを切 るのか北朝鮮一 日本人抜致続 々届 く 「生存の証」』 (光文社 ・1997年)205頁

(3) 同上 、207貢 によれば、その数 は約 九千人か ら多 くて一万八千人になるとい う。

(4) 例 えば、石田収 『北朝鮮 日本 人妻か らの手紙』 (日新報道 ・1994年)閣員星 『楽 園の夢破 れ て』 (亜紀書房 ・1997年)鄭箕海 (鄭益友 ・訳 )『帰国船 北朝鮮凍土への 旅立ち』 (文撃春秋 ・1999年)張 明秀 『北朝鮮 裏切 られ た楽土』 (講談社 ・1999年) 朴春仙 『北朝鮮 よ、銃殺 した兄 を帰せ !‑ある在 日朝鮮 人女性 による執念の告発‑』(ザ・

マサ ダ・1994年)萩原遼 『北朝鮮 に消 えた友 と私の物語』 (文撃春秋 ・1998年)な ど

(5) 開貴星 『楽園の夢破れて』 (亜紀書房 ・1997年)31頁

(6) 関貴星 ・前掲書 「解説」204貢

(7) 張 明秀 『北朝鮮 裏切 られた楽土』 (講談社 ・1999年)270頁 (8) 張 明秀 ・前掲書 ・271貢

謝 辞 :呉 基完氏への インタビューは、二〇〇二年一 月十四 日午後 ソウルで行われ た。呉 氏 には、長時間の取材 に協力いただ き心 よ りの謝意 を表 します。独裁政治の犠牲 にな られ た奥様 に心 か ら哀悼の意 を表 します。 また、呉氏 を紹介いただいたフ リー ・ジャーナ リス

ト ・萩原遼氏 に もお礼 を申 し上 げます。

(二〇〇二年三 月一 日 記)

参照

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