南北朝時代の博多警固番役

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Kyushu University Institutional Repository

南北朝時代の博多警固番役

佐伯, 弘次

九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門 : 教授 : 日本中世史

https://doi.org/10.15017/13877

出版情報:史淵. 146, pp.17-40, 2009-03-01. 九州大学大学院人文科学研究院 バージョン:

権利関係:

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南 北 朝 時 代 の 博 多 警 固 番 役

佐 伯 弘 次

は じめ に 鎌倉

時代 後期

︑蒙 古襲 来を 契機 とし て︑ 鎌倉 幕府 は様 々な 防御 策を 実施 した

︒そ の一 つが

︑異 国警 固番 役の 創 設で ある

︒こ の制 度は

︑文 永の 役の 直前 に開 始さ れ︑ 文永 の役 後に 整備 され たこ とが 知ら れて いる

︒鎌 倉幕 府滅 亡後 もこ の番 役は 継続 され たと され るが

︑そ の理 解は 妥当 であ ろう か︒ 蒙古 襲来 を契 機と して

︑鎌 倉幕 府の 政治 体制 は︑ 北条 氏得 宗に よる 専制 政治 が進 行す るこ とが 指摘 され るが

︑ 九州 にお いて は︑ 鎮西 特殊 合議 訴訟 機関

・鎮 西談 義所

・鎮 西惣 奉行 所等 が次 々に 設置 され

︑十 三世 紀末 の鎮 西探 題の 設置 に至 る︒ この うち

︑鎮 西惣 奉行 所と 鎮西 探題 はい ずれ も北 条氏 が長 官に 任命 され てお り︑ 九州 にお ける 得宗 専制 化の 指標 とも なっ てい る︒ 以上 の諸 機関 は︑ いず れも 博多 に設 置さ れ︑ 鎌倉 後期 にお ける 大宰 府か ら博 多へ とい う九 州の 政治 的中 心の 移動 を象 徴し てい る︒ 鎮西 探題 の設 置に よっ て︑ 博多 は九 州に おけ る政 治と 裁判 の中 心と なり

︑い わば 政治 都市 化し たと いえ る︒ し かし

︑鎮 西探 題関 係史 料は

︑裁 判や 神領 興行

︑異 国警 固等 の史 料は 大量 に残 って いる が︑ 都市 史を 物語 る史 料に

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乏し い︒ いっ ぽう で博 多遺 跡群 から は鎮 西探 題の 明確 な遺 構も まだ 発見 され てお らず

︑都 市博 多に おけ る鎮 西探 題の 位置 づけ は︑ まだ 明確 とな って いな い状 況で ある

︒ 鎮西 探題 の設 置や 鎌倉 幕府

鎮西 探題 の滅 亡︑ 建武 政権 や室 町幕 府の 成立 によ って

︑都 市博 多が どの よう に変 化す るの かを 検討 する 必要 があ る︒ また

︑博 多は 貿易 港で あり

︑か つ外 交や 異国 警固 の拠 点で もあ るた め︑ これ ら一 連の 出来 事に よっ て博 多が

︑外 交・ 貿易 上︑ どの よう に変 化す るの かも 検討 課題 であ る︒ 本稿 では

︑多 くの 蓄積 があ る鎌 倉時 代の 異国 警固 番役 研究 を基 礎と しな がら

︑そ れが 南北 朝時 代に どの よう に 継承 され るの かを 視野 にお き︑

﹁博 多警 固番 役﹂ とい う南 北朝 時代 に頻 出す る課 役の 実態 につ いて 検討 する

︒ 一

鎌倉

・南 北 朝時 代の 異 国警 固 番役

︵一

鎌倉 時代 の異 国警 固番 役 鎌倉 時代 の異 国警 固番 役に 関し ては

︑多 くの 研究 があ る︒ とく に相 田二

1

郎氏

︑川 添昭

2

二氏 の研 究は 重要 で︑ 今 日の 異国 警固 番役 理解 の基 礎と なっ てい る︒ 両氏 の研 究を もと に︑ 現時 点で 明ら かに なっ てい る異 国警 固番 役の 概要 につ いて まず 確認 し︑ 検討 の前 提と した い︒ 蒙古 襲来 に備 えて

︑筑 前国

・長 門国 など の要 害を 交代 で警 備す る役 であ る異 国警 固番 役は

︑石 築地

︵元 寇防 塁︶ を築 造・ 修築 する 石築 地役 も含 んで いる

︒こ の課 役は

︑御 家人 の他

︑荘 園公 領の 住人 にも 賦課 され た︒ 文永 の役 直前 の文 永八 年︵ 一二 七一

︶九 月︑ 鎌倉 幕府 は九 州に 所領 を持 つ御 家人 に対 して

︑九 州の 所領 に下 向 し︑ 異国 の防 御と 領内 悪党 の鎮 圧を 行う よう に命 じた

︒こ れは

︑そ の直 前に 高麗 の反 乱軍 三別 抄の 使者 が来 日し

︑ 食糧 支援 や連 帯を 要請 し︑ 蒙古 の襲 来を 警告 した こと を契 機と する と えら れる

︒翌 九年 二月

︑豊 後守 護大 友頼

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泰が 野上 氏に 対し て︑ 筑前

・肥 前の 要害 を警 固す るよ うに との 幕府 の命 令を 伝え た︒ これ が異 国警 固番 役の 始ま りと され てい る︒ 文永 の役 直後 の建 治元 年︵ 一二 七五

︶二 月︑ 異国 警固 は整 備さ れ︑ 一年 の春 夏秋 冬各 三ヶ 月宛 を九 州各 国が 分 担し て順 次番 役を 勤め ると いう 制度 に改 めら れた

︒さ らに 翌建 治二 年に 石築 地が 博多 湾沿 岸に 築造 され る︒ この 石築 地築 造は

︑国 ごと に担 当地 域が 指定 され たた め︑ 異国 警固 番役 も石 築地 築造 地域 を担 当す るこ とに なっ た︒ この 分担 地と 分担 国の 関係 は緊 密と なり

︑今 津が 大隅 守護 領に

︑香 椎が 豊後 守護

︵大 友氏

︶領 にな るな ど︑ 分担 地が 分担 国の 守護 領化 する 傾向 が見 られ た︒ 嘉元 二年

︵一 三〇 四︶ には

︑九 州を 五番 に分 け︑ 各番 それ ぞれ 一年 間を 通し て勤 務す ると いう 制度 に変 更さ れ た︒ 同じ ころ

︑所 領が 乏し い者 の異 国警 固番 役が 免除 され た︒ 文永 の役 から 二十 年以 上た って

︑元 の再 襲来 もな いこ とか ら︑ 勤務 が緩 和さ れた ので あろ う︒ 異国 警固 番役 を勤 める と︑ 守護

・守 護代 等の 守護 関係 者が

︑覆

3

状と いう 勤務 完了 証明 書を 発給 した

︒九 州各 地に 多数 の覆 勘状 が残 って いる が︑ 文永 九年 から 延慶 三年

︵一 三一

〇︶ まで のも のが 残存 する

︒延 慶三 年よ り以 後の 覆勘 状が なぜ 残ら ない のか につ いて は︑ 今後 の検 討課 題で ある

︒ 異国 警固 番役 は御 家人 以外 の武 士も 勤務 し︑ 覆勘 状を 発給 され たの で︑ 覆勘 状を 根拠 に御 家人 身分 を争 う相 論 がよ く起 こっ た︒

︵二

南北 朝時 代の 異国 警固 番役 史料 の再 検討 異国 警固 番役 は︑ 南北 朝時 代に も行 われ たと

えら れて いる

︒﹃ 注解 元寇 防塁 編年 史料

﹄所 収の 南北 朝期 の史 料 につ いて 検討 を加 えて いき たい

︒﹃ 注解 元寇 防塁 編年 史料

﹄は

︑南 北朝 期の 異国 警固 番役 に関 して 以下 のよ うに 記

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して

4

る︒ 鎌倉 幕府 が倒 れた あと

︑建 武政 権下 でも

︑ひ きつ づい て異 国警 固に 関す る任 務が 九州 に課 せら れた

︒青 方 文書 によ ると

︑建 武二 年︵ 一三 三五

︶四 月二 十七 日︑ 肥前 守護 使が 肥前 国五 島西 浦目 青方 の分 の石 築地 用途 六十 文を 受け 取っ てお り︑ 建武 政権 下で も︑ 前代 同様

︑石 築地 の補 修を つづ けて いた もの と解 され る︒ 室町 幕府 も鎌 倉幕 府・ 建武 政権 のあ とを うけ

︑九 州の 武士 たち に石 築地 の補 修を 課し てい た︒ 大友 文書 がそ のこ とを 示し てい る︒ 建武 五年

︵一 三三 八︶ 閏七 月一 日︑ 足利 直義 は︑ 大友 頼泰

・武 藤頼 尚に 命じ て石 築地 役負 担者 に石 築地 の修 理を 行わ せた が︑ この 命令 はな かな かき きい れら れず

︑足 利尊 氏は

﹁難 渋の 輩に 至り ては

︑ 罪科 に処 せん

﹂と いっ てい る︒ 建武 三年

︵一 三三 六︶

︑一 色範 氏︵ 法名

︑道 猷︶ が九 州幕 府軍 の総 管領 に任 じ て九 州の 経営 に従 うが

︑管 下の 武士 に警 固関 係の 諸番 役を 課し てい る︒ その うち

︑博 多警 固番 役︑ ある いは 単に 番役 と称 せら れて いる もの など は︑ 前述 の大 友文 書な どを

えあ わせ ると

︑異 国警 固番 役で あっ たか も 知れ ない が︑ 今は 確証 を得 ない

︒︵ 中略

︶ 一色 範氏 の子 直氏 が貞 和二 年︵ 一三 四六

︶の 八月 ごろ

︑鎮 西管 領︵ 九州 探題

︶と して 九州 に下 った のを 機 に︑ 室町 幕府 は︑ 九州 統治 に関 する 諸問 題を 整理 し︑ 事書 とし て直 氏に 示し た︒ その 中に

﹁異 賊防 禦構 え以 下の 事﹂ があ り︑ 先規 のと おり 処理 せよ と命 じて いる

︒こ れが

︑単 に前 幕府 の規 式を 追う とい う形 式的 なも ので はな かっ たこ とは

︑前 の大 友文 書の 事実 に徴 して 明ら かで ある

︒ま た︑ この 貞和 二年 令が 鎮西 管領 を執 行の 最高 責任 者と して いる のに は︑ 鎌倉 幕府 によ って 行な われ た︑ 異国 防禦 をて こと する 九州 統治 を今 ここ に再 生さ せよ うと いう 政策 的意 図が 伏在 して いた と えら れる

︒し かし

︑前 代で はそ れは 確か に有 効で あっ たが

︑南 北朝 前期 のこ の段 階で 現実 化す るに は︑ 対象 その もの が形 骸化 して おり

︑政 治的 条件 にも 欠け てい た︒ 九州 の武 士た ちに 異国 警固 の諸 役を 実現 し継 続さ せる こと は︑ まず 不可 能で あっ た︒ 貞和 四年 以後

︑異

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国警 固に 関す る確 かな 事実 は認 めら れな い︒ とい うこ とは

︑そ の事 実が なく なっ てい った とい うこ とを 意味 しよ う︒ つま り石 築地 は︑ 南北 朝中 期以 後︑ 放置 され たま ま︑ しだ いに 砂中 に埋 もれ てい き︑ そう でな いも のは 漸次 崩壊 して いっ た︒

﹂ 建武 政権 や室 町幕 府も 石築 地の 補修 を行 い︑ 異国 警固 関係 の諸 役を 課し たが

︑南 北朝 時代 では 鎌倉 時代 のよ う に︑ 異国 警固 の諸 役を 実現 し︑ 継続 させ るこ とは 不可 能で あり

︑貞 和四 年︵ 一三 四八

︶以 後︑ それ は行 われ なか っ たと する ので ある

︒博 多警 固番 役に 関し ては

︑異 国警 固番 役の 可能 性が ある が︑ 確証 を得 ない とす る︒ 以下

︑﹃ 注解 元寇 防塁 編年 史料

﹄に 収録 され てい る南 北朝 期の 異国 警固 関係 史料 を検 討し よう

ひぜ んの

に五

西

にし うら め

あ□ かた の ぶ

んの

いし つい ぢ

よ□ とう 六十 文う けと り候 了︑ よて うけ とり 如 件︑

建武 二年 四月 二十 七日

ごの 御

使

つか い五 郎三 郎︵ 花押

︶ や

く人 もち まろ の代

5

花押 建武 二年

︵一 三三 五︶ 二月 二十 七日

︑肥 前守 護使 五郎 三郎 らが

︑肥 前国 五島 西浦 目青 方の 分の 石築 地用 途六 十 文を 受け 取っ たこ とを 記し た請 取状 であ る︒ 本文 書は

︑建 武政 権期 に︑ 代銭 納化 した 石築 地役

石築 地用 途を 肥 前守 護が 徴収 した こと を示 す史 料で ある

︒鎌 倉幕 府滅 亡後 も︑ 石築 地役 を代 銭納 する こと を︑ 従来 から 同役 を勤 仕し てき た御 家人 が当 然の こと と え︑ 負担 した こと を物 語っ てい る︒ しか し︑ この 文書 は︑ 肥前 守護 によ る石 築地 用途 の徴 収の 事実 を示 す史 料で はあ って も︑ 石築 地の 修築 を示 す史 料で はな いこ とに も留 意す べき であ る︒ この 史料 から は︑ 石築 地の 修築 まで を明 確に する こと はで きな い︒ 南北 朝初 期の 大友 文書 には

︑次 の二 通の 石築 地修 理関 係の 文書 が あ6

る︒

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当御 代鎮 西後 見事

﹂ 鎮西 警固 石築 地事

︑有 破損 之間

︑大 宰少 弐頼 尚相 共︑ 早仰 本役 人︑ 今年 中可 修理 之由

︑可 触催 之︑ 若有 難渋 之輩 者︑ 就注 進交 名︑ 可処 罪科 之状 如件

︑ 建武 五年 後七 月一 日

頭殿 御

判 大友

式部 丞殿

前﹂ 鎮西 要害 石築 地修 固事

︑両 度被 仰訖

︑早 太宰 少弐 頼尚 相共

︑守 本役 所︑ 可加 催促

︑至 難渋 之輩 者︑ 為処 于罪 科︑ 可注 申之 状如 件︑ 康永 元年 五月 三日

判 大友

式部 丞殿 前者 の足 利直 義御 教書 案は

︑建 武五 年︵ 一三 三八

︶閏 七月 一日

︑足 利直 義が 大友 氏泰 に対 して

︑﹁ 鎮西 警固 石築 地﹂ が破 損し たの で︑ 少弐 頼尚 とと もに 修理 を加 える よう に催 促さ せた 文書 であ る︒ 後者 の足 利尊 氏御 判御 教書 案は

︑康 永元 年︵ 一三 四二

︶五 月三 日︑ 足利 尊氏 が大 友氏 泰に 対し て︑

﹁鎮 西要 害石 築地

﹂の 修固 を︑ 少弐 頼尚 と とも に催 促を 加え るよ うに 命じ た文 書で ある

︒一 見す ると

︑成 立期 の室 町幕 府が

︑石 築地 の修 理を 大友 氏泰

・少 弐頼 尚と いう 九州 の有 力守 護に 命じ た文 書で あり

︑幕 府が 異国 警固 に大 きな 関心 を持 ち︑ 実際 に石 築地 の修 理を 命じ たが

︑﹁ 難渋 の輩

﹂が おり

︑修 理が 順調 にい かな かっ たこ とを 示し てい る︒ また 大友 氏と 少弐 氏︵ 武藤 氏︶ は︑ 蒙古 襲来 前後 の鎮 西奉 行で もあ り︑ 蒙古 合戦 の指 揮や 蒙古 合戦 恩賞 地の 配分 に大 きな 役割 を果 たし た守 護で あり

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南北 朝初 期に おい ても

︑こ うし た両 氏の 役割 が継 続し てい るよ うに も見 える

︒し かし

︑当 時は すで に鎮 西管 領︵ 九 州探 題︶ が博 多に 設置 され てお り︑ 大宰 府の 少弐 氏や 豊後 の大 友氏 に頼 らず とも

︑直 属の 鎮西 管領 一色 氏に 指示 すれ ば事 足り たは ずで ある

︒両 文書 がい ずれ も案 文で ある こと もあ って

︑疑 問が 残る とこ ろで ある

︒ この 両通 は︑ 大友 文書 の﹁ 鎌倉 代々 御教 書﹂ 計二 十一 通の 中の 文書 であ る︒ この 一連 の案 文

具書 案は

︑一 部 に大 友文 書に 現存 する 正文 を写 した もの もあ るが

︑多 くは 偽文 書で あり

︑具 書案 全体 の目 的は

︑大 友本 宗家 が豊 後一 国の 守護 に押 し込 めら れる とい う屈 辱的 な状 況か ら脱 出し て︑ 豊後 以外 の領 域に おけ る権 限を 回復 する こと にあ った こと

︑延 文四 年︵ 一三 五九

︶八 月の 筑後 川合 戦の 直後

︑大 友氏 時が

︑失 われ た権 限を 回復 すべ く幕 府に 訴え を提 起し

︑そ の訴 状に これ ら具 書案 が副 えら れた こと が指 摘さ れて

7

いる

︒こ の両 通の 文書 も︑ 大友 氏が 少弐 氏と とも に石 築地 役催 促と いう 重要 事項 を南 北朝 初期 に司 って いた こと を主 張す るた めに 作成 され た偽 文書 と理 解さ れる

︒ 貞和 二年

︵一 三四 六︶ 十二 月七 日︑ 足利 直義 は鎮 西管 領一 色直 氏に 対し て︑

﹁鎮 西事 々書

﹂を 送

8

った

︒こ の文 書 に付 随し て︑

﹁鎮 西沙 汰条 々﹂ 三か 条が 残っ てい る︒ その 第三 条に 次の よう な条 文が ある

︒ 一 異賊 防禦 構以 下事

︑ 任先 規可 致計 沙汰 矣 これ は︑

﹁異 賊防 禦構

﹂す なわ ち石 築地 を先 規に 任せ て取 り仕 切る よう に命 じた 条文 であ る︒ 一色 直氏 は︑ 貞和 二年 八月 ごろ

︑鎮 西管 領に 就任 して おり

︑同 時に 博多 全体 が鎮 西管 領在 所に 指定 さ

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れた

︒し たが って この

﹁鎮 西 沙汰 条々

﹂は

︑鎮 西管 領に 就任 した 一色 直氏 に対 する 室町 幕府 から の指 示で あっ たが

︑具 体的 には

︑石 築地 の修 築の 監督 を命 じた もの であ る︒ した がっ て︑ 本条 から

︑室 町幕 府が 広義 の異 国警 固を 念頭 に置 いて おり

︑そ の責 任者 を鎮 西管 領と

えて いた こと がわ かる

︒た だし

︑一 色直 氏が この 条々 を守 護管 国な いし 九州 一円 に遵 行し た

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史料 はな いし

︑実 際に 石築 地の 修築 を行 った こと を証 明す る覆 勘状 のよ うな 文書 も存 在し ない

︒﹁ 博多 警固 番役

﹂ の勤 仕を 示す 史料 は多 数存 在す るが

︑後 述の よう に︑ これ らは 鎌倉 時代 の異 国警 固番 役と は全 く異 なる もの であ る︒ 初期 の室 町幕 府は

︑異 国警 固に 関心 があ り︑ その 監督 を鎮 西管 領に 指示 した が︑ 実際 に勤 仕さ れた 形跡 はな いと

えて おき たい

︒ 室町 時代 に至 って も︑ 次の よう な石 築地 関係 史料 が存 在す る︒ 肥後 国石 築地 料所 筑前 国山 門庄 事︑ 所預 置也

︑早 守先 例︑ 可有 其沙 汰状 如件

︑ 応永 十一 年十 一月 六日

右兵 衛佐

花押 阿蘇

大宮

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殿 応永 十一 年︵ 一四

〇四

︶十 一月 六日

︑九 州探 題渋 川満 頼が 阿蘇 大宮 司惟 村に 対し て︑ 肥後 国石 築地 料所 であ る 筑前 国山 門庄 を預 け置 いた 文書 であ る︒ 山門 庄は 早良 郡に ある 荘園 であ るが

︑こ の文 書で は肥 後国 石築 地料 所と 表現 され てい る︒ 石築 地料 所と は石 築地 の築 造や 修理 にか かる 費用 を負 担す るた めの 所領 と えら れる

︒肥 後国 の石 築地 分担 地は 早良 郡生 松原 であ り︑ 山門 庄は その 近隣 にあ たる

︒生 松原 の石 築地 築造

・修 理の ため の料 所が 近隣 に設 定さ れて いた もの と えら れる

︒ この 文書 が物 語る のは

︑石 築地 築造

・修 理の ため の所 領が

︑阿 蘇惟 村に 預け 置か れた こと であ り︑ 実際 に当 時︑ 石築 地の 修築 がな され てい たこ とを 物語 るも ので はな い︒ 室町 幕府 は︑ 異国 警固 を重 要な 事項 と え︑ 鎮西 管領 にそ の監 督を 命じ たの であ るが

︑南 北朝

・室 町期 を通 じ て︑ 鎮西 管領

・九 州探 題が それ を武 士た ちに 指示 した り︑ 武士 たち が異 国警 固番 役の 勤仕 や石 築地 の築 造を 実際 に行 った こと を示 す史 料は ない こと を確 認し てお きた い︒

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二 南北 朝時 代 の博 多警 固 番役

︵一

博多 警固 番役 関係 文書 の三 類型 本節 では

︑南 北朝 時代 の博 多警 固番 役に 関す る史 料を 検討 し︑ これ が異 国警 固番 役と 同じ 課役 であ るの か否 か を検 討す る︒ 典型 的な 博多 警固 番役 の史 料を 示そ う︒ 博多 警固 番役 事︑ 任被 仰下 之旨

︑肥 前国 龍造 寺孫 六入 道

実善

︑自 去潤 七月 十一 日至 于同 八月 十日

︑三 十ヶ 日 令勤 仕候 訖︑ 以此 旨可 御披 露候

︑恐 惶謹 言︑ 建武 五年 八月

沙弥 実善 進上

御奉 行所

﹁承 候了

沙弥

︵花

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押︶ 建武 五年

︵一 三三 八︶ 閏七 月十 一日 から 八月 十日 まで

︑博 多警 固番 役を 三十 日間 勤仕 した 肥前 の龍 造寺 家房 が︑ 終了 時に 鎮西 管領 に提 出し た注 進状 であ る︒ これ は書 止に

﹁以 此旨 可御 披露 候﹂ とい う文 言が ある とお り︑ 披露 状で あり

︑提 出後

︑鎮 西管 領の 侍所 小俣 道剰 は﹁ 承候 了﹂ と証 判を 加え てい る︒

﹁任 被仰 下之 旨﹂ とあ るこ とか ら︑ 上か らの 指示 によ って 番役 を勤 仕し てい るこ とが わか る︒ この 注進 状形 式の 博多 警固 番役 関係 の文 書を A形 式と する こ ︒ れに 対し

︑次 のよ うな 文書 もあ る︒ 博多 警固 番役 三十 ヶ日 被勤 仕候 訖︑ 仍之 状如 件︑

七月 八日

正栄

︵花 押︶ 松浦 青方

四 郎12

殿

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この 文書 は︑ 暦応 二年

︵一 三三 九︶ 七月 八日

︑小 俣道 剰が 青方 高直 が﹁ 博多 警固 番役

﹂を 三十 日勤 仕し たこ と を証 明し た覆 勘状 であ る︒ 異国 警固 番役 覆勘 状が 守護 もし くは その 関係 者が 発給 する のに 対し

︑本 文書 は鎮 西管 領の 侍所 が発 給し てい るこ とが 相違 して いる

︒こ の文 書が 警固 番役 覆勘 状の 終見 であ ると

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う︒ こう した 覆勘 状 形式 の博 多警 固番 役文 書を

︑B 形式 とす る︒ A・ Bの 番役 を勤 仕し たこ とを 証明 する 文書 以外 に︑ 上級 権力 が番 役勤 仕を 命じ た文 書も ある

︒ 博多 警固 事︑

□□

□令 結番

︑可 被

□□

□忠 勤者

︑可 注進

□□

□︑ 仍執 達如 件︑ 暦応 二年 五月 十五 日

沙弥

︵花 押︶ 深堀

太郎 入

14

道殿 この 文書 は︑ 暦応 二年 五月 十五 日︑ 鎮西 管領 一色 範氏 が︑ 深堀 時通 に博 多警 固を 命じ た軍 勢催 促状 であ る︒ 先 にの べた 上か らの 指示 とは

︑こ うし た催 促状 を示 すと

えら れる

︒こ の軍 勢催 促状 形式 の博 多警 固関 係文 書を C 形式 とす る︒ この 他︑ 次の よう な文 書も ある

︒ 凶徒 蜂起 之由 風聞 之間

︑肥 前国 深堀

郎五 郎

参博 多中 河︑ 令付 御着 到候 了︑ 以此 旨可 有御 披露 候︑ 恐惶 謹言 建 ︑ 武三 年七 月十 七日

平時 広 進上

御奉 行所

﹁承 候了

15

花押

︶﹂ これ は建 武三 年七 月十 七日

︑深 堀時 広が 博多 中河 に馳 せ参 じた こと を述 べた 着到 状で あり

︑佐 竹重 義が 証判 を 加え てい る︒ これ は︑ 博多 警固 番役 を勤 仕し た史 料で はな いが

︑実 態と して は博 多警 固番 役の 勤仕 につ なが るも

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ので ある

︒ この 博多 警固 番役 と関 連し て︑

﹁聖 福寺 総門

﹂宿 直︑

﹁箱 崎内 夜廻

﹂︑

﹁箱 崎前 浜灯 炉堂

﹂辻 固・ 宿直

︑﹁ 博多 談議 所辻 固﹂ など 多様 な番 役勤 仕の 史料 が

16

ある

︒こ れら も博 多警 固番 役と 密接 に関 連す るも のと

えら れる ため

︑広 義の 博多 警固 番役 関係 の勤 仕と 位置 づけ たい

︒ これ らA

〜C の文 書形 式の 相互 の関 係に つい て︑ 後掲 表一

〜三 をも とに 述べ よう

︒例 えば

︑建 武三 年六 月十 日︑ 佐竹 重義 は深 堀時 通に 対し て︑ 箱崎 内夜 廻一 夜の 勤仕 を命 じた

︵C 形式

︶︒ これ に対 して

︑深 堀時 通は 箱崎 内夜 廻 一夜 を勤 め︑ 六月 十一 日︑ 勤仕 した 旨を 記し た注 進状 を書 き︑ 佐竹 重義 が証 判を 加え てい る︵ A形 式︶

︒ま た︑ 暦 応二 年五 月十 五日

︑一 色範 氏は 深堀 時通 に対 して

︑博 多警 固に つき

︑一 族等 が結 番し

︑博 多に 在津 する よう に命 じた

︵C 形式

︶︒ これ に対 して 深堀 時通 は︑ 六月 三日

︑二 十日 間の 博多 警固 を勤 めた こと を述 べた 注進 状を 作成 し︑ 一色 範氏 が証 判を 加え た︵ A形 式︶

︒こ れら の史 料的 な相 互の 連関 から

︑そ れぞ れの 形式 の文 書は 無関 係に 存在 し たも ので はな く︑ 緊密 に関 係し 合っ てい ると いえ る︒ 催促 状と 番役 勤仕 注進 状・ 覆勘 状と の関 係で ある から

︑当 然の こと であ る︒ 関係 史料 とし ては

︑A 形式 が圧 倒的 に多 く︑ それ にC 形式 が続 く︒ B形 式は 一例 のみ であ る︒ 鎌倉 時代 的な 覆 勘状 は︑ 博多 警固 番役 の勤 仕を 証明 する 文書 とし ては 例外 的な 存在 であ った

︒こ れも 博多 警固 番役 が異 国警 固番 役と は別 系統 であ るこ とを 暗示 して いる

︵二

時期 区分 とそ の内 容 広義 の博 多警 固番 役に 関す る史 料を 収集 する と︑ 大き く三 時期 に分 かれ るこ とが 判明 する

︒第 一期 は︑ 建武 三 年五 月〜 八月 の四 か月 であ る︒ この 時期 は︑ 建武 三年 三月 の筑 前多 々良 川合 戦で 足利 尊氏 が勝 利を 収め た直 後で

(13)

あり

︑鎮 西管 領の 設置 直後 にあ たる

︒第 二の 時期 は︑ 建武 五年

︵暦 応元

︶六 月〜 暦応 二年 十一 月の 一年 六か 月間 であ る︒ 一色 範氏 は︑ 暦応 元年 九月 に菊 池氏 討伐 のた め筑 後に 出陣 して いる よう に︑ 九州 南朝 の鎮 圧が 大き な政 治的 課題 であ った

︒第 三の 時期 は︑ 貞和 四年

︵一 三四 八︶ の三 月〜 五月 の三 か月 間で ある

︒貞 和二 年︵ 一三 四六

︶ 八月 ごろ 一色 直氏 は鎮 西管 領に 任命 され るが

︑貞 和四 年八 月に は︑ 南朝 追討 のた めに 筑後

・肥 後に 発向 し︑ 征西 将軍 の軍 と戦 って いる

︒第 三期 は︑ 鎮西 管領 就任 の約 一年 後に あた り︑ 南朝 軍追 討戦 の直 前に 相当 する

︒ 次に 時期 ごと の特 徴に つい て見 てい きた い︒

①建 武三 年五 月〜 八月 この 時期 の広 義の 博多 警固 番役 関係 史料 を一 覧表 にし たの が︑

17

一で ある

︒ 表一

南北 朝時 代の 博多 警固 番役

︵一

︶ 年 月 日

勤 仕 者

国 名 勤 仕 内容

期 間

形 式 文 書番 号 建 武 三・ 五

・ 一

〇 武 雄 大 宮 司代 員 門 肥 前 聖 福 寺総 門 一 夜 宿直 一 夜

A 一色 範 氏

① 六一

〇 建 武 三・ 六

・ 一

〇 深 堀 時 通

肥 前 箱 崎 内夜 廻

一 夜

C 佐竹 重 義

① 六二 六 建 武 三・ 六

・ 一 一 深 堀 時 通

肥 前 箱 崎 内夜 廻

一 夜

A 佐竹 重 義

① 六二 七 建 武 三・ 六

・ 三

〇 小 代 義 宗

肥 後 惣 門 警固

一 夜

A 佐竹 重 義

① 六二 八 建 武 三・ 六

・ 三

〇 深 堀 時 通

肥 前 箱 崎 前浜 灯 炉 堂 辻固 一 夜

C 佐竹 重 義

① 六四 二 建 武 三・ 七

・ 一 深 堀 時 通

肥 前 箱 崎 前浜 灯 炉 堂 宿直

A 佐竹 重 義

① 六六 五 建 武 三・ 七

・ 一 深 堀 時 広

肥 前 筥 崎 前浜 灯 炉 堂 宿直

A 佐竹 重 義

① 六六 六 建 武 三・ 七

・ 七 武 雄 女 大 宮司 代 通 幸 肥 前 筥 崎 若宮 後 辻 固

A 佐竹 重 義

① 六七

〇 建 武 三・ 七

・ 一 一 深 堀 時 通

肥 前 博 多 談義 所 辻 固

A 佐竹 重 義

① 六七 九 建 武 三・ 七

・ 一 一 深 堀 時 広

肥 前 博 多 談義 所 辻 固

A 佐竹 重 義

① 六八

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(14)

建 武 三・ 七

・ 一 七 榊 貞 康

肥 前 博 多 聖福 寺 惣 門 宿直 一 日 一 夜 A 佐竹 重 義

① 六八 七 建 武 三・ 八

・ 一 八 龍 造 寺 家 親

肥 前 惣 門 警固

一 日 一 夜 A 合志 幸 隆

① 七二 二 建武

三年 五月 十日 から 同年 八月 十八 日に 及ぶ 十二 例で ある

︑勤 務内 容は

︑聖 福寺 総門 警固

︵五 月十 日︶

︑箱 崎内 夜廻

︵六 月十 日〜 十一 日︶

︑︵ 聖福 寺か

︶惣 門警 固︵ 六月 三十 日︶

︑箱 崎前 浜灯 炉堂 辻固

・宿 直︵ 六月 三十 日〜 七月 一日

︶︑ 筥崎 若宮 後辻 固︵ 七月 七日

︶︑ 博多 談議 所辻 固︵ 七月 十一 日︶

︑聖 福寺 惣門 宿直

・警 固︵ 七月 十七 日〜 八月 十八 日︶ と推 移す る︒ 勤仕 の期 間は

︑一 夜な いし 一日 一夜 であ り︑ 極め て短 期間 のも ので あっ た︒ 聖福 寺は 異国 警固 番役 とは 関係 がな いの で︑ 聖福 寺の 総門

︵惣 門︶ 警固

・宿 直は 異国 警固 番役 では なく

︑当 時︑ 聖福 寺の 塔頭 直指 庵に 寄宿 して

18

いた 鎮西 管領 一色 氏の 身辺 警備 と える のが 妥当 であ る︒ 為御 座之 警固

︑箱 崎内 夜廻 事︑ 催一 族︑ 一夜

可可 被致 其役 之由

︑依 仰状 如件

︑ 建武 三 六月 十日

実之

︵花 押︶

重義

︵花 押︶ 深堀

孫太 郎入

19

道殿 佐竹 重義 らが 深堀 時通 に宛 てた 箱崎 内夜 廻の 催促 状で ある

︒佐 竹重 義は 鎮西 管領 一色 氏の 侍所 であ るか ら︑ 本 文書 の発 給主 体は 一色 範氏 であ る︒ した がっ て︑ 冒頭 の﹁ 御座 之警 固﹂ は一 色氏 の居 所の 警固 であ る︒ 箱崎 にお ける 夜廻 りや 前浜 灯炉 堂辻 固・ 宿直 や博 多談 議所 の辻 固も 一色 氏の 身辺 警備 であ ると

えら れる

︒一 色範 氏は 聖 福寺 に寄 宿し なが ら︑ 箱崎 の灯 炉堂 や筥 崎宮

︵若 宮︶

︑博 多談 議所 とい った 宗教 施設 を頻 繁に 訪問 して いた こと も 判明 する

︒こ れは 範氏 の信 仰の あり 方を 示す もの であ るが

︑こ れら 一連 の史 料か ら範 氏の 身辺 警護 を日 夜行 う武

(15)

士た ちの 姿が 浮か び上 がっ てく る︒ ここ で深 堀時 通一 人に つい て検 討す ると

︑六 月十 日に 鎮西 管領 から 箱崎 夜廻 の一 夜勤 仕を 命じ られ

︑実 際に 勤 仕し た︒ 六月 三十 日に は︑ 佐竹 重義 から 箱崎 前浜 灯炉 堂辻 固の 一夜 の宿 直を 命じ られ

︑実 際に 勤仕 した

︒そ の後

︑ 時通 は︑ 博多 談議 所辻 固の 宿直 を命 じら れ︑ 勤仕 した

︵七 月十 日か

︶︒ この よう に︑ 個別 の番 役勤 仕命 令は

︑一 夜 ない し一 日一 夜で あっ たが

︑少 なく とも 六月 十日 から 七月 十一 日ま では

︑鎮 西管 領周 辺に あっ たも のと 推定 され る︒ 期間 は約 一月 に相 当す る︒

②建 武五 年六 月〜 暦応 二年 十一 月 第二 期に おけ る広 義の 博多 警固 番役 関係 史料 を整 理し たの が︑ 表二 であ る︒ 表二

南北 朝時 代の 博多 警固 番役

︵二

︶ 年 月 日

勤 仕 者

国名 勤 仕 内 容

期 間

形 式 文 書 番号 建 武 五・ 六

・ 一 一 福 田 兼 益

肥前 博 多 三 十日 御 番 警 固 三

〇 日

⑦ 六 九九 三 建 武 五・ 六

・ 一 五 福 田 理 慶

肥前 博 多 三 十日 御 番 警 固 三

〇 日

⑦ 六 九九 四 建 武 五・ 七

・ 一 二 深 堀 時 通

肥前 参 津

︑ 勤仕 番 役

〇 日

① 一 二〇 一 建 武 五・ 七

・ 一 二 深 堀 時 通

肥前 参 津

︑ 勤仕 番 役

〇 日

A 小 俣道 剰

① 一 二〇 二 建 武 五・ 七

・ 一 二 深 堀 政 綱

肥前 参 津

︑ 勤仕 番 役

〇 日

A 小 俣道 剰

① 一 二〇 三 建 武 五・ 八

・ 一 一 今 村 高 秀

肥前 博 多 警 固番 役

一 月

① 一 二二 八 建 武 五・ 八

龍 造 寺 家 房

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

A 小 俣道 剰

① 一 二三 九 暦 応 二・ 二

・ 二

〇 原 田 種 貞

筑前 博 多 津 警固 番 役

一 一 日

② 一 三〇 九 暦 応 二・ 四

・ 一 六

肥前 博 多 警 固番 役

一 月

② 一 三二 六

(16)

暦 応 二・ 五

・ 五 福 田 理 慶

肥前 三 ケ 日 夜御 侍 番 役

⑦ 七

〇〇 七 暦 応 二・ 五

・ 五 福 田 兼 益

肥前 御 侍 番 役

⑦ 七

〇〇 八 暦 応 二・ 五

・ 五 福 田 兼 氏

肥前 御 侍 番 役

⑦ 七

〇〇 九 暦 応 二・ 五

・ 一 五 福 田 理 慶

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

⑦ 七

〇一 一 暦 応 二・ 五

・ 一 五 福 田 兼 益

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

⑦ 七

〇一 二 暦 応 二・ 五

・ 一 五 深 堀 時 通

肥前 博 多 警 固

C 一 色範 氏

② 一 三四

〇 暦 応 二・ 五

・ 二 一 深 堀 時 通

肥前 御 侍 番 役

三 日 夜

頼員

② 一 三四 三 暦 応 二・ 五

深 堀 時 通

肥前 御 侍 番

四 日

頼員

② 一 三四 七 暦 応 二・ 五

深 堀 時 広

肥前 御 侍 番

四 日

頼員

② 一 三四 八 暦 応 二・ 六

・ 三 深 堀 時 通

肥前 博 多 警 固

〇 日

A 一 色範 氏

② 一 三五 一 暦 応 二・ 六

・ 三 深 堀 時 広

肥前 博 多 警 固

〇 日

A 一 色範 氏

② 一 三五 二 暦 応 二・ 六

・ 一 一 深 堀 時 通

肥前 参 津

︑ 勤仕 番 役

〇 日

A 小 俣道 剰

② 一 三五 三 暦 応 二・ 六

・ 一 一 深 堀 政 綱

肥前 参 津

︑ 勤仕 番 役

〇 日

A 小 俣道 剰

② 一 三五 四 暦 応 二・ 七

・ 八 青 方 高 直

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

B 小 俣道 剰

② 一 三六 一 暦 応 二・ 七

・ 一 五 今 村 高 広

肥前 御 侍 番 役

三 日 三 夜 A 一 色範 氏

② 一 三六 五 暦 応 二・ 七

・ 一 八 今 村 高 広

肥前 博 多 警 固

二 一 日

A 一 色範 氏

② 一 三六 七 暦 応 二・ 八

・ 一 福 田 理 慶

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

⑦ 七

〇一 三 暦 応 二・ 八

・ 一 福 田 兼 秀

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

⑦ 七

〇一 四 暦 応 二・ 九

・ 三 龍 造 寺 季 利

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

A 小 俣道 剰

② 一 三九 七 暦 応 二・ 九

・ 八 龍 造 寺 季 利

肥前 博 多 警 固番 役

〇 日

A 一 色範 氏

② 一 四〇 一 暦 応 二・ 九

・ 一 七 武 雄 大 宮 司代 通 幸 肥前 博 多 警 固

〇 日

A 一 色範 氏

② 一 四〇 二 暦 応 二・ 一 一

・ 七 福 田 兼 益

肥前 御 侍 番 役

三 日 夜

⑦ 七

〇一 六 暦 応 二・ 一 一・ 二

〇 原 田 種 貞

筑前 博 多 津 警固 番 役

一 一 日

② 一 四三

このページの表の送りをかえてます

(17)

建武 五年 から 翌暦 応二 年に わた るこ とも ある が︑ 事例 が増 え︑ 三十 二例 に及 ぶ︒ この 時期 が博 多警 固番 役の 最 盛期 であ ると いえ る︒ 表の 日付 を見 ると

︑建 武五 年︵ 暦応 元︶ 六月

〜十 一月 と暦 応二 年二 月〜 十一 月に 分か れる

︒ 鎮西 管領 一色 氏が 博多 にい なけ れば あり 得な い番 役で ある から

︑比 較的 平穏 な時 期で あり

︑か つ警 固す べき 理由 があ った こと にな る︒ 警固 すべ き理 由と は︑ 南朝 軍の 攻撃 に他 なら ない ため

︑南 朝と も対 立し なが ら︑ 小康 状態 を保 った 時期 に相 当す ると いえ る︒ この 時期 の番 役な いし 警固 はい ずれ も博 多の 内部 での 勤仕 であ った こと が特 徴的 であ る︒ 第一 期の よう な箱 﨑で の勤 仕は ない

︒ 第二 期に なる と︑

﹁博 多警 固番 役﹂ とい う名 称が 登場 する

︒し かも 日数 も三 十日 か二 十日 がほ とん どで

︑制 度的 な整 備が

えら れる

︒中 に﹁ 三日 夜﹂

﹁四 日﹂

﹁三 日三 夜﹂ とい った 短期 間の 番役 勤仕 があ る︒ これ は全 て﹁ 御侍 番 役﹂

﹁御 侍番

﹂と 記さ れて いる

︒一 見す ると

︑﹁ 博多 警固 番役

﹂と いう 長期 の番 役と

﹁御 侍番 役﹂ とい う短 期の 番役 があ った かの ごと き印 象を 受け る︒ 暦応 二年 の深 堀時 通の 事例 を検 討し よう

︒同 年五 月十 五日

︑一 色範 氏は 深堀 時通 に対 して

︑博 多警 固を 一族 で 結番 し︑ 博多 に在 津し て忠 勤を 致す よう に命 じた

︒こ れに 対し て時 通は

︑五 月二 十一 日ま で三 日間 の御 侍番 役を 勤め た︒ 六月 三日 には

︑博 多警 固を 五月 十三 日〜 六月 三日 まで の二 十日 間勤 仕し たこ とを 注進 し︑ さら に六 月十 一日 には

︑五 月十 日〜 六月 十日 まで の三 十日 間の 番役 を勤 仕し たこ とを 注進 して いる

︒こ れら を総 合す ると

︑五 月十 日〜 六月 十日 の三 十日 間の 博多 警固 と五 月十 九日

〜五 月二 十一 日の 三日 間の 御侍 番役 は時 期的 に重 複し てい るこ とが わか る︒ つま り御 侍番 役は 博多 警固 番役 に包 摂さ れる もの であ った こと にな る︒ 御侍 番役 とは

︑鎮 西管 領の 側に

候す る番 役と

えら れる

︒夜 の勤 務が ある ので

︑第 一期 の宿 直と 共通 する もの であ ろう

︒こ れ以 降︑ 時通 はこ の年 の番 役を 勤仕 して いな い︒ つま り一 か月 の博 多警 固番 役が あり

︑そ の期 間中 に鎮 西管 領に 昼夜 近侍 して 警備 する 御侍 番役 が三 日〜 四日 賦課 され たの であ る︒ 第二 期の 博多 警固 番役 は︑ 二十 日〜 三十 日の 博多 警固

(18)

番役 とそ の中 に包 摂さ れる 短期 の御 侍番 役と の二 重構 造で あっ たと いう こと がで きる

③貞 和四 年三 月〜 五月 第三 期の 貞和 四年 三月

〜五 月の 博多 警固 番役 関係 の史 料を 一覧 表に した のが

︑表 三で ある

︒ 表三

南北 朝時 代の 博多 警固 番役

︵三

︶ 年 月 日

勤 仕 者

国名 勤 仕 内 容

期 間

形 式 文 書 番号 貞 和 四・ 三

・ 一 二 武 雄 大 宮 司代 道 厚 肥前 博 多 警 固番 役

一 四 日

③ 二 四五 三 貞 和 四・ 三

・ 一 二 橘 薩 摩 公 行

肥前 博 多 警 固結 番

一 四 日

③ 二 四五 四 貞 和 四・ 五

・ 三 深 堀 時 明

肥前 博 多 櫛 田宮 社 頭 警 固

C 一 色直 氏

③ 二 四七 一 第三 期の 事例 は三 例の みで あり

︑勤 仕の 実態 は乏 しい とい わざ るを 得な い︒ 武雄 大宮 司代 道厚 と橘 薩摩 公行 の 場合 は︑ いず れも 御教 書を 成し 下さ れた ため

︑勤 仕し たと 述べ てい る︒ この 御教 書は 鎮西 管領 のも のと

えら れ るの で︑ 証判 者は 不明 であ るが

︑鎮 西管 領関 係者 であ ると 推定 され る︒ この 鎮西 管領 から の命 令↓ 博多 在津

・番 役勤 仕↓ 番役 勤仕 注進 状の 作成

↓証 判と いう 一連 の番 役勤 仕の あり 方は

︑第 二期 と同 じで ある

︒た だし 勤仕 者が 少な く︑ 鎮西 管領 の御 教書 に応 じな かっ た武 士が 多数 いた こと を推 測せ しめ る︒ 筑前 国博 多櫛 田神 人等 有 訴之 企︑ 早可 被警 固社 頭也

︑仍 執達 如件

︑ 貞和 四年 五月 三日

宮内 少輔

︵花 押︶ 深堀

郎五

20

郎殿 この 文書 は︑ 一色 直氏 が深 堀時 明に 対し

︑博 多櫛 田神 人ら が 訴の 企て があ るた め︑ 社頭 警固 を命 じた もの で ある

︒鎮 西管 領の 警固 とい う博 多警 固番 役か らす ると

︑こ の警 固は 別の 場所 であ り︑ 博多 警固 番役 の範 疇に は入

(19)

らな い︒ しか し︑ この 文書 の前 提と して

︑深 堀時 明の 博多 への 参向

︑な いし 滞在 があ り︑ 博多 へ滞 在し て番 役を 勤め るこ とは

︑博 多警 固番 役と 変わ らな い︒ この 文書 で直 氏は

︑時 明に 博多 への 参向 を命 じて はお らず

︑時 明は すで に博 多警 固番 役等 で博 多滞 在中 であ った と えら れる

︒し たが って この 櫛田 宮社 頭警 固は

︑博 多警 固番 役の 延長 上に あっ たと 位置 づけ られ る︒

︵三

催促 者・ 証判 者 次に 番役 の催 促者 と注 進状 への 証判 者に つい て検 討す る︒ 前者 と後 者は

︑催 促状 を受 けて 番役 勤仕 が実 施さ れ るこ とか ら︑ 同一 人か もし くは その 関係 者で ある のが 原則 であ ろう

︒ 催促 者と して は︑ 佐竹 重義

・実 之・ 一色 範氏

・頼 員・ 一色 直氏 が確 認さ れる

︒一 色範 氏・ 直氏 父子 はい ずれ も 鎮西 管領 であ り︑ 佐竹 重義 は鎮 西管 領の 侍所 であ った こと は前 述の 通り であ る︒ 佐竹 と連 署し てい る実 之は 宰府 監代 であ る︒ 大宰 府機 構が 鎮西 管領 によ って 掌握 と利 用が なさ れた こと が指 摘さ れて

21

いる

︒頼 員は 不明 であ るが

︑ 一色 範氏 が博 多在 津と 博多 警固 の実 施を 深堀 時通 に命 じた 直後 の暦 応二 年五 月二 十一 日︑ 頼員 が同 人に 御侍 番役 の勤 仕を 命じ

︑四 日勤 仕し た時 通の 注進 状に 頼員 が証 判を 加え てい る︒ この こと から

︑鎮 西管 領配 下の 人物 であ るこ とは 間違 いな い︒ 証判 者と して は︑ 一色 範氏

・佐 竹重 義・ 合志 幸隆

・今 川頼 貞︵ カ︶

・小 俣道 剰・ 頼員 が確 認さ れる

︒合 志幸 隆は

︑ 建武 三年 七月 二十 日︑ 博多 松原 口に 馳せ 参じ た龍 造寺 家親 の着 到状 に証 判を

22

加え

︑同 年八 月一 八日 の龍 造寺 家親 惣門 警固 注進 状に 証判 を加 えて いる

︵表 一︶

︒し たが って 合志 は鎮 西管 領関 係者 と えら れる

︒今 川頼 貞は

︑鎮 西 管領 一色 氏の 周辺 で活 動し た今 川氏 の一 族で あろ う︒ 小俣 道剰 は︑ 一色 氏の 同族 で︑ 鎮西 管領 の侍 所で あっ た23

︒ 以上 のこ とか ら︑ 番役 催促 者・ 証判 者は 鎮西 管領 と侍 所な らび にそ れら の関 係者 であ った とい うこ とが でき る︒

(20)

︵四

番役 勤仕 者 次に 番役 を勤 仕し た武 士た ちに つい て検 討し たい

︒表 一〜 三か ら︑ 博多 警固 番役 を勤 仕し た武 士は 武雄 大宮 司・ 深堀 氏・ 龍造 寺氏

・福 田氏

・今 村氏 など 何度 も勤 仕し てい る武 士が いる こと が特 徴的 であ る︒ 彼ら は九 州に おけ る鎮 西管 領一 色氏 に求 心的 な国 人で ある と同 時に

︑そ の奉 公衆 的な 位置 づけ であ った のか もし れな い︒ 国別 で述 べる と︑ 肥前 国人 が圧 倒的 に多 く︑ 筑前 国人 三例 二氏

︑肥 後国 人一 例の 他は 全て 肥前 国人 であ った

︒ これ は︑ 鎌倉 時代 の異 国警 固番 役を 九州 一円 の武 士が 勤仕 した こと と対 照的 であ る︒ また 松浦 党諸 氏は 青方 氏以 外に は確 認さ れず

︑肥 前国 全体 の国 人が 勤仕 した もの では なか った

︒む しろ 肥前 の特 定の 国人 に限 定さ れる 傾向 が看 取さ れる

︒ 鎌倉 時代 には

︑永 仁五 年︵ 一二 九七

︶以 降︑ 肥前 国守 護職 が鎮 西探 題兼 補に

24

る︒ これ 以降

︑鎮 西探 題と 肥前 国御 家人 の関 係は

︑異 国警 固番 役の 催促

|勤 仕等 で密 接で あっ たと

えら れる

︒南 北朝 時代 にな ると

︑豊 後大 友 氏が 肥前 守護 に任 じら れ

25

たが

︑大 友氏 の肥 前守 護は 康永 元年

︵一 三四 二︶ を下 限と し︑ 鎮西 管領 一色 範氏 が康 永 二年 以降

︑肥 前守 護に 任じ られ

︑子 の直 氏に 継承 され たと 指摘 され て

26

いる

︒鎮 西探 題の 肥前 国守 護兼 補は

︑一 時 の中 断後

︑鎮 西管 領一 色範 氏に 継承 され たと いう こと がで きる

︒ 本稿 で検 討し た第 三期 は︑ 一色 直氏 は肥 前守 護で あっ たこ とか ら︑ 守護 と管 国国 人と の関 係が 番役 勤仕 の前 提 とし て想 定さ れる ので ある が︑ 第三 期は むし ろ博 多警 固番 役勤 仕の 衰退 期で あり

︑初 期の 第一 期︑ 盛行 期の 第二 期に おい ては

︑一 色氏 は肥 前守 護に は補 任さ れて いな かっ たこ とを 確認 しな くて はな らな い︒ した がっ て肥 前国 人の 鎮西 管領 への 博多 警固 番役 勤仕 は守 護| 国人 とい う制 度的 な支 配関 係で 説明 する こと はで きな い︒ ここ では

︑ 前代 の九 州統 括者 と肥 前国 との 密接 な関 係が

︑南 北朝 時代 に入 り︑ 守護 職が 他氏 に移 って も継 続し てい たの では ない かと いう 想定 をし てお きた い︒

(21)

お わり に 以上

︑南 北朝 初期 の広 義の 博多 警固 番役 につ いて 検討 した

︒博 多警 固番 役は

︑従 来か ら指 摘さ れる よう な鎌 倉 後期 の異 国警 固番 役と 同一 のも ので はな く︑ 新た に博 多に 設置 され た鎮 西管 領︵ 九州 探題

︶を 警備 する 番役 であ っ たと いう のが 本稿 の主 旨で ある

︒大 きな 流れ とし ては

︑異 国警 固か ら博 多警 固へ とい う変 化を 読み 取る こと がで きる

︒博 多を 異国 から 防禦 する 異国 警固

︵対 蒙古

︶の 段階 から

︑国 内の 対抗 勢力 から 防御 する 博多 警固

︵対 南朝

︶ の段 階に 大き く変 化し たこ とが 指摘 でき る︒ 蒙古 襲来 から 半世 紀経 過し

︑国 際的 な緊 張が 緩和 され

︑襲 来の 記憶 も薄 くな り︑ いっ ぽう で日 元貿 易が 活発 に展 開す ると いう 国際 情勢 の変 化と

︑鎌 倉幕 府の 滅亡 から 南北 朝の 内乱 とい う国 内の 政治 情勢 の転 換が その 背景 にあ る︒ 鎮西 管領 が︑ 前代 に引 き続 き博 多に 設置 され たこ とに よっ て︑ 博多 の政 治・ 軍事 的な 重要 性が 継続 した こと も指 摘し てお きた い︒ 最後 に︑ この 博多 警固 番役 の系 譜と

︑後 世へ の影 響に つい て述 べて

︑本 稿を しめ くく りた い︒ 博多 警固 番役 が 異国 警固 番役 の後 身で はな いこ とを 述べ たが

︑で は鎌 倉時 代の どの よう な番 役の 系譜 を引 くの かと いう 問題 であ る︒ 鎌倉 幕府 を警 備す る鎌 倉番 役が 御家 人役 の基 本で あり

︑西 国の 御家 人た ちに は京 都御 所を 警備 する 京都 大番 役が 課さ れた こと はよ く知 られ てい る︒ 文永 の役 の直 前に 蒙古 との 緊張 が高 まる と︑ 九州 の武 士た ちは 京都 大番 役で はな く︑ 異国 警固 番役 を勤 仕す るよ うに なっ た︒ 南北 朝時 代の 博多 警固 番役 は︑ 形態 的に は鎌 倉番 役や 京都 大番 役に 似て いる

︒そ れら の変 形で ある 異国 警固 番役 とも 系譜 的に はつ なが って いる

︒し かし

︑鎌 倉後 期に 鎮西 探題 を警 備す る御 家人 役の 存在 は明 らか にな って いな い︒ この 問題 を える うえ で次 の史 料は 注目 され る︒ 筥崎 社放 生会

辻国 事︑ 被参 勤了

︑仍 執達 如件

︑ 元亨 二年 八月 二十 一日

政国

(22)

福田

郎 殿27

元亨 二年

︵一 三二 二︶ 八月 二十 一日

︑政 国が 肥前 の福 田兼 重に よる 筥崎 社放 生会 辻固 の勤 仕を 記し た文 書で あ る︒ 発給 者の 政国 は︑ 最後 の鎮 西探 題北 条英 時の 被官 で肥 前守 護代 の周 防政 国で

28

る︒ した がっ て本 文書 は︑ 覆 勘状 に似 た周 防政 国の 書下 であ る︒ この 他︑ 福田 氏は

︑嘉 暦三 年︵ 一三 二八

︶︑ 元徳 三年

︵一 三三 一︶ にも 筥崎 宮 放生 会辻 固を 行っ て

29

いる

︒元 徳三 年七 月に 福田 兼信 は︑ 関東 御教 書に 任せ て筥 崎宮 八月 放生 会辻 固を 勤仕 する よ うに 命じ られ て い30

る︒ 鎌倉 幕府 の命 令に よっ て肥 前国 御家 人が 勤仕 した 筥崎 社放 生会 辻固 を南 北朝 期の 博多 警固 番役 に類 似し た課 役と 位置 づけ てお きた い︒ それ では

︑第 三期 以後 に博 多警 固番 役は どの よう にな るの かを 検討 する

︒南 北朝 後半 のの 今川 了俊 の時 期に は︑ 九州 の武 士た ちが 博多 警固 番役 を勤 仕し た史 料は ない

︒室 町時 代前 期に 次の よう な二 通の 史料 があ る︒

﹁承 候了

花押

﹂ 肥前 国彼 杵庄 南方 一揆 中︑ 以番 立探 題御 上洛 御留 守博 多結 番事

︑ 深堀 遠江 入道 沙弥

清宗 勤仕 畢︑ 仍早 下給 御判

︑而 為備 後代 之亀 鏡︑ 粗言 上如 件︑ 応永 十九 年十 一月 二十

31

一日

﹁承 候了

花押

﹂ 肥前 国彼 杵庄 南方 一揆 中︑ 以番 立探 題御 上洛 御留 守博 多結 番事

︑ 高浜 但馬 守時 澄勤 仕畢

︑仍 早下 給御 判︑ 而為 備後 代之 亀鏡

︑粗 言上 如件

︑ 応永 十九 年十 一月 二十

32

一日 この 二通 の文 書は

︑応 永十 九年

︵一 四一 二︶ 十一 月︑ 九州 探題 渋川 満頼 が上 洛し た際

︑肥 前の 深堀 氏の 一族 深

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参照

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