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秦系詩

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(1)

一 言

の詩人である秦系には、劉長卿をはじめ、錢

物、皎然、戴叔倫などといった詩人との 、韋應 に詩の た。とりわけ、「五言長 來があっ 」の名を得た劉長卿とは、

詩の唱和を行っていたことが知られている。高『 に には、韋應物の「 詩品彙』 (1)

澹」、劉長卿の「閑曠」、錢

「 士元の

として加えて、これらを「中 贍」など、當時を代表する詩人の列に、秦系を「山林」

の再

」として、高い

與えている。秦系に對するこのような 價を 秦系の五言詩が ものである。 劉長卿と同樣に五言詩に優れると見なされていたことによる 價はおおむね、彼が

價を受けてきたのは、劉長卿との關

の とによる。計有功『 ほか、同時代の韋應物に稱讃の言辭があったとされているこ

詩紀事』は、劉長卿「五言長

柄に續いて、 」の話 のように

べている。

韋答系云、「知掩山

三十秋、魚須

碧棄床頭。莫

(『 方在郡、五言今日爲君休。」蓋系以五言得名、久矣。 謝公 詩紀事』卷二八) (2

「韋答系」は韋應物の「答秦十四校書」詩のことである。『

詩紀事』は、韋應物が「五言今日君が爲に休えん」と たた

べ、秦系に對して「今日、君の優れた五言詩を見て、その出來映えを稱讃するのだ」との發言があったとして、秦系の五言詩が當時から高く

價されていたと考えている。

秦系詩

韋應物との唱和詩を中心として

土谷彰男

(2)

また、胡震亨『

統籤』も同樣に、劉長卿の「五言長

に加えて、韋應物が大いに稱讃していることを 」

べたうえで、

にように、その根據がこの句にあることを示している。

韋應物亦深推

之。有「五

(『 爲君休」之句。

統籤』卷二六八) (3

ここで目されるのが、引用句の

「五 用である。これは本來、

とあるべきところだが、爲君休」この

て圖らずも、劉長卿と秦系が同一 用によっ とが明確に示されることとなった。このように、詩話 にされ、韋應物の言う「五言」が「秦系の五言詩」であるこ されていることが明らか

いては確實に、韋應物が秦系の五言詩に高い にお 筆 そこで問題となるが、韋應物の言う「五言」の解釋である。 考えているのである。 價を與えたと

はかつて「中

初期における蘇州文壇の形

下、先論1と呼ぶ)において、韋應物のこの詩を 一考察文學理論の展開と五言古體詩について」(以 (4) についての 韋應物と秦系の り上げた。

州刺史の任にあって文會における に詩の唱和が行われていた頃、韋應物は蘇

な地位を占め、秦系 はそれに參與した一人であった。拙論では、當時の

韋應物を中心に蘇州文壇が形 況から、

されていたことを論じ、その 件のひとつとして、五言古體詩が積極

今日爲君休」の箇 ことを指摘した。そして、その傍證として、韋應物の「五言 に用いられていた 標準詩型とする に目し、そのうえで、「五言古體詩を と九頁) 識が彼らのなかで共有されていた」(五四 べた。つまり、韋應物は秦系の七言

ずるべく、「五言今日君が爲に休めん」と 句の作に應 この「五言」は「韋應物の五言古體詩 べたのであって、

一方、さきの『 ある。 」であると考えたので

五「言」は「秦系の五言詩 詩紀事』などに見られたように、この

を指すものであった。」後に詳

するが、秦系は、五言律詩を得意とした劉長卿と竝び、同じく五言律詩に優れた詩人と考えられている。したがって、詩話

などの 價史の 點からすれば、この「五言」は「秦

」を指すことになる。『韋應物集校

』(上

出版

、一九九八年十二

といった現行の)

對して「秦系は五言詩に長じていた」と (5) 釋書がこの語に 應物が秦系の五言詩を を加えるのも、韋 價したとする、このような

價史の 點を蹈襲したものである。

秦系詩評考(土谷)

(3)

このように見てみると、なるほど、韋應物の作に言う「五言」は、「秦

しかし、作品の背景には蘇州文壇が展開されていたことに 」と見なされて然るべきではある。

意を拂うならば、この「五言」は、「韋應物の五言古體詩

學を理解することにおいて、韋應物の 當時の蘇州文壇の實態を明らかにするのみならず、秦系の文 を指していると解釋できるのではないだろうか。このことは、 」

點が必

ることを示している。そこで本稿では、まず秦系の詩 とされてい にし、それを手がかりとして、秦系の詩歌とその いて整理したうえで、韋應物の言う「五言」の解釋を明らか につ なる理解のもとにあるべきかということについて檢討したい。 價が如何

二 「 五言長

」と秦系

『新

書』卷一九六・隱

これは、纂官の一人であった呂 傳には秦系の傳記が見えるが、 (6)

卿によって新たに收 (7)

れたと言われる。そのうち、秦系に對する詩 さ 秦系とほぼ同時期の については、

輿の言

を引用して、

のように

べている。

與劉長卿善、以詩相

答。權 輿曰「長卿自以爲五言長

、 系用

師攻之、雖老

壯。」

この

輿の言は、彼の

した「秦

て、同時代の詩人の眼を る。この「唱和詩序」は、秦系という人物とその詩風につい 詩序」(以下、「唱和詩序」と呼ぶ)より出ることが分かってい 君校書與劉隨州唱和 して示されており、秦系の詩

考察するうえで重 を な 料となる。いまその

文を

る。 げ

儒有秦公

、當天寳理

之世興麗、則鼓

多故、 名於當時。

!"身

#。越部山水、佐其

$機。圓冠野

%、 自放、宅遐心於事外、得佳句於物表、不知 &然

'纓丹轂之爲貴

。幾四十年、方帥時賢、軾閭懸榻。昔鄭公

之號。秦君麗句、創里亭之名。 、有瀝門 (風騷 、多 中天下無事、大君好文。公 )嚮仰。貞元 舊游、多在顯列。伯

徒、爭爲 *文舉之 七年春、始與予 拜、時動靜不滯於一方矣。 +首、而迦陽大夫、公之章先聞。故有書府典校之 ,於南徐。白頭初命、色無

-忤。知名

.

久、故其相得甚歡。因謂予曰、「今業六義以

稱 唱酬徃復」、亦 、必當 )以極其思慮、較其

/敗。而文以時之、聞 中國詩文論叢第二十七集

(4)

人序而申之、悉索笈中、得數十

、皆文場之重名。

見、校以故敵。故隨州劉君長卿 敵且 宜敘。 荅之卷、惜其長徃、謂予 夫、彼 東守、嘗自以爲五言長

、而公 攻堅 用伍竒師、

衆、雖老

壯、未嘗頓鋒。詞或

而 深、

乍 而 。 珮之 越相激、

組 之玄

相發。竒采

爭爲 、

驅。至於室家離合之義、朋友切磋之

之以正。凡 、咏言其傷折

(『文 干首、各見于詞云。

』卷七一六) (8

かの有名な「五言長

」の謂いは、この

自ら以爲らく五言長 輿の「長卿は および「五言長 たり」より出るが、この「唱和詩序」、

『五言長 これまで考察がなされてきた。高橋良行氏は、「劉長卿札記 」については、特にその實態と關して、

』の

!價をめぐって」(『愛知淑

第六號、一九八〇年)のなかで、この「五言長 大學論集』

詩を得意とした劉長卿の自負心の表れであって、「自 」が、五言律 贊によるもの」(九三頁)と "・自

#べ、「五言律詩に

型式兩面にわたる可能性と、その作品 $在する題材・

いがたい愛好となって、多作という形で反映した」(一〇〇頁) %への自信が、曰く言 と指摘する。このように、先行

には和詩序」「伍奇師を用て堅を攻め衆を 「一方、秦系については、師を用て之を攻む」、また「唱 を得意としていたことが明らかにされている。 (9) &究において、劉長卿は五律

いずれも劉長卿の「長 つ」とあるが、

よって、唱和 と見てよいだろう。唱和集の序文などでは、この種の比喩に 」の謂いに呼應した比喩表現である 示す場合がある '同士がいわば「好敵手」の關係にあることを さらに、その ていることが、まず了解される。 から、ここでは、そういった關係性が示され (

$實を檢討しようとするならば、

輿の

!

語を兩

'の唱和の實態に

らず、その もっとも、秦系と劉長卿の唱和集は、はやくに散佚して傳わ )して檢討されなければなるまい。

$容を知るすべは失われている。斷片を劉長卿の うち五 に求めるならば、秦系に唱和した詩は計六篇が見え、その *

+三篇はすべて寄

作、ほか七 の作、五律二篇はいずれも答酬の +一篇は寄

の作である。ちなみに、秦系の集

な唱和の は、劉長卿に寄せた七律一篇が見えるのみである。このよう で ,

-況は、劉長卿の「五言長

「衆多」(攻堅 」が「堅固」にして である樣からほど衆)

樣子たとされる秦系のを垣 .く、それに立ち向かっ

/見ることも

0しい。あるいは、

秦系詩評考(土谷)

(5)

劉長卿の「五言長

」に對し、秦系は「

師」、「

かい、劉長卿とは などと、正攻法ではなく「からめ手」によってこれに立ち向 伍奇師」

なった新奇な

とが想像される。高橋氏は 想や手法を用いていたこ いわば一分 書において、「秦系の詩は、

頁)、また、「表現の緻密な完 によるゲリラ戰法で攻を挑」んだもの(九六

して、秦系の詩は、より寡作ながら、時として人の意表を 度の高い劉長卿の五言詩に對

いた名作を持つ、と解することも可能であるかもしれない」(同)と指摘している

むしろここで確 。

律詩に優れた詩人であるということが、詩話 すべきは、秦系は劉長卿と同じく、五言

などの

においてはすでに定 價史 方回『瀛奎律髓』(卷四八・仙 した見方となっていることである。元・

律の作 には、劉長卿と秦系の五)

され、その方回

は自ら五言長 には「史に稱すらく、劉長卿

と號し、秦系は

以て高きと爲す似き ごと 師を以て之を攻むと。系を と なり。今竝びに二人の詩を此に刋す」

べられている。「五言長

長卿と竝んで五律に秀でた詩人であると 」を示したうえで、秦系は劉

かりか、あまつさえ當時は劉長卿より めており、それば

價が上回る

といった

識があったことが了解されるのである。

三詩 話

における秦系の五言

そこで詩話

における秦系

詩話 について見てみよう。

には、秦系傳に載せる

輿の言

で、韋應物の「答秦十四校書」詩による言 を引用したうえ 詩に優れていたことを示す傍證として を、秦系が五言 のような記 げるものが多い。こ は、

で見た①『

記 詩紀事』、これと同樣の を襲う②『

詩話』(卷二)のほか、③胡仔『

隱叢話』がある。そこには、のように 溪漁

べられている。

「寄韋使君」詩云、「久臥雲

!已息機、

"衫忽

#狎 書」詩云、「知掩山 詩興到來無一事、郡中今有謝元暉。」韋應物「答秦十四校 $飛、

%三十秋、魚鬚

&碧棄牀頭、莫

方在郡、五言今日爲君休。」系能詩、與劉長卿善、以詩相 '謝公 (答。權

)輿曰、「長卿自以爲五言長

、系用

雖老 師攻之、

(『 *壯」。故應物有「五言今日爲君休」之句、葢謂此也。

溪漁隱叢話』後集卷一六

+

このほか、

で觸れたように、④胡震亨『

は、引用句の ,統籤』で

-用によって「秦系の五言詩」が明示され、ま 中國詩文論叢第二十七集

(6)

た、⑤方回『瀛奎律髓』では、秦系は劉長卿と竝んで五言律詩に優れていたとの

であるが、これらと一線を畫すのが、⑥劉克 以上は、韋應物が秦系の五言詩を稱讃したと解釋するもの 識が示されていた。

の記 『後村詩話』

である。そこでは、秦系傳にみえる

せず、韋應物の作のみを 輿の言を引用 げ、

のように

べる。

韋蘇州與系詩云、「知掩山三十秋、魚須

碧棄牆頭、莫

謝公方在郡、五言今日爲君休。」韋公五言獨

(『後村詩話』新集卷四 憐才下士如此。 一世、而

「韋公の五言、一世を獨

では す」と、韋應物の五言詩が當時

流であったことが

三十八篇 『秦隱君集』無論、秦系の作品は、五言詩ばかりではない。 えていたことが了解されよう。 今日は君のことを考えて、作るのを止めておこう」として捉 「韋應物の五言詩」ではとし、「自分が得意の五言古詩は、 べられており、「五言」を、ここ によれば、五言詩は、律詩十五篇、

一篇の計十八篇であり、ほかすべてが七言詩であって、とり 句二篇、排律 わけ七言

句十二篇の多きに至っては五律の數に

ただ、詩話に ある。 ぐほどで らず、そのほとんどが五言律詩の作品であることは、 された作品は、この數字の多寡とは關わ

たが、とりわけ、③胡仔『 れてよい。これについては、さきには『瀛奎律髓』を見てき 意さ 秦系の五律四篇に對し「閑 溪漁隱叢話』(後集卷一六)には、

有味」、また、⑥劉克

詩話』(新集卷四)には、五律五篇に對し「 『後村 趣

た 然」といっ

語が與えられていることが

これらの 意される。

語について、

輿「唱和詩序」には、

うに見えていた。 のよ

詞或

而旨深、

乍 而 。 珮之

越相激、

之玄相發。奇采

!"、爭爲

#驅。

「詞或いは

にして旨の深きこと、乍ち たちま

づきて

に き

いす」と

「 べるのは、秦系詩の措辭に對して、また、

珮の 越たること相い激するが

きは、組

て相い發するに の玄にし いす」と

ものであろう。 べるのは、その表現に對しての

秦系詩評考(土谷)

(7)

また、秦系を考察するうえで重

な 李昭 料と見られる、北宋・

「跋秦系詩

」は、

のように

べている。

系、辭意

、諷而不怨、有古詩人之風。一時與

、錢 、韋應物、劉長卿、鮑防、耿

、皆知名士。獨權

愛之、非 輿深

謂大

希聲、大味必淡

(『樂靜集』卷五 歟。

この兩

の 釋は、秦系の文學に對する

論を 況、あるいは總 べたものではあるものの、『

溪漁隱叢話』の「閑

有味」や『後村詩話』の「

然」といった

語に ものであることは見 なる の されてはならない。なぜなら、これら 語は、「

空」や「流暢」の語をもって代表される中

の詩風に聯絡し

、とりわけ大

その中心にあったことがつとに指摘されている 文學においては、五言律詩が

秦系が「閑 からである。

有味」「

然」などといった

ことは、正しく彼が五言律詩に優れていたという を得ていた いたものであり、この點において、秦系は典型 識に基づ な大

であると見なしうるのである。 詩人

四 韋應物における秦系詩

ここまで考察を

のは、詩話 」を指すと解釋されてきた詩の「五言」が「秦系の五言律詩 めてきたように、韋應物「答秦十四校書」

!の が、秦系と韋應物の唱和の實態に "容を蹈襲するものであったからである。だ

物の五言古體詩」と理解するのが、より が「蘇州文壇の五言古體詩」、すなわち、「韋應 #するならば、この「五言」

おいて重 この蘇州文壇について、とくに、五言古體詩がこの文壇に れる。 $切であると考えら よび、「中 %されていた事實については、すでに先論1、お

蘇州文壇の理論形

&における

文學 '況の文學とその (について

本稿では、それに 」において論じたが、(以下、先論2と呼ぶ) )

*干の考察を補いながら、この兩

詩について、分析を の唱和 徐泗濠 秦系は、貞元六年~七年(七九〇~七九一)ごろにかけて、 めていきたい。

+度使の張建封の辟に應じて校書

,を拜し、故

州から任地に向かう -の越 韋應物との .中、蘇州を經由すると、刺史であった 元四年末に左司 /において詩のやり取りを行った。韋應物は、貞 ,中から蘇州刺史に轉出したが、

01に在り 中國詩文論叢第二十七集

(8)

し頃は

宗の公讌にて詩を賦すなど、宮

人と詩の を持ち、また、蘇州では官舍を開いて文會を催し、多くの詩 詩人としての側面 たる韋應物の知 も持ち合わせていた。秦系にとってこの度の訪問は、大詩人 來を重ねていたように、地方官詩人としての側面 を得る

好の機會だったに

韋應物にとってこの高 いない。一方、

して、雙方の 身の歸隱志向に叶うものであったはずである。これを機と たる隱士と親交を深めることは、自 には詩の

韋應物の二篇 來が始まったが、現存するのは、

、秦系の一篇のみである。

事奉

久臥雲 中韋使君秦系 已息機久しく雲

に臥して已に機息み 袍忽

狎 飛

袍忽として

れば狎

(『秦隱君集』不分卷) 郡中今有り郡中今有謝玄暉謝玄暉 詩興到來無一事詩興到り來りて一事無し 飛ぶ

答秦十四校書韋應物知掩山

三十秋山

魚鬚 を掩じて三十秋なるを知る 碧棄床頭魚鬚と

碧と床頭

に棄つ

謝公方在郡

(『韋應物集校 五言今日爲君休五言今日君が爲に休めん う莫かれ謝公方に郡に在りと

』卷五・答酬

秦系の作について、第一、二句では、隱棲から出仕に至った自身の

を く。「

袍」は官

系が辟召に應じた校書 を指すが、ここでは、秦

のことであり、

當する。「狎 官では正九品に相 官 になつく鳥。ここでは、秦系が隱士としての生き方を止めて 」は『列子』に典故の見える語であり、隱士 に就くことになったために、狎

は秦系を

去るのである。つまり「狎 惡して飛び とを言うのである。續く第三、四句では、その 飛ぶ」とは、秦系が仕官するこ

て韋應物と邂逅するに 、蘇州に れなくなったと び、詩興が沸きこり機心に捕らわ

!べる。「謝玄暉」は南

齊の宣

た謝 "太守であっ たる謝 #であり、ここでは、韋應物をその大詩人(字は玄暉)

#に見立て、その文

$を言

の、隱士たる高 韋應物の作はこの秦系の作を承け、第一、二句では、秦系 %いだ。

な を し、秦系自ら稱すところの「東 き出す。かつては薛嵩の辟召を辭

&

經たこと、その '客」として三十年余りを 、笏(魚鬚)や珮玉(

碧)に象

(される

秦系詩評考(土谷)

(9)

官界に對して執

を見せなかったことが

三、四句では、自身を謝 べられている。第 に見立てたことに

系より 遜を示し、秦

られた七言

あえて用いずに詩を作ったと 句に應ずるべく、得意の五言古體詩を である。 ここで問題になるのが、韋應物の作に見える第四句の解釋 べているのである。

において見てきたように、詩話

の そこで、韋應物の作に見えるこの「五言」を、兩 休えん」と讀まれてきたことになる。 たた の「休」字は「美=讃美」の意となり、「五言今日君が爲に に優れると見なされてきた。したがって、その場合、この句 ば、韋應物が秦系の五言詩を稱讃したゆえに、秦系は五言詩 釋によれ

の實態から分析するにあたり、特にその の唱和

點について、

二點に亘って整理しておきたい。 の

①兩

いずれもが謝

について言

②韋應物の文會は五言古體詩型が中心であるなかで、兩 する。

いずれもが七言

句の詩型に據る。

秦系の作では、蘇州刺史たる韋應物を宣

太守の謝

立てた。これはつまり、爲政 に見

として地方長官の立場にある のような こと、かつ、詩人として高名な人物であることにおいて、こ

傳には、到洽が宣 想が働いているのである。『梁書』卷二七・到洽

太守であった謝

の知 て、「謝 を得た話柄とし の文章、一時に

好し、日びに引きて與に談論す」とあり、知 んなり。洽に見えて深く相い賞

理想 を得た文士の な がここから見て取れる。

詩において謝

への言 は、相手を稱讃、ないしは激

するものとして、いわば

な常套表現として散見されるが、秦系の作が韋應物の知 を得るためのものなればこそ、その詩中に韋應物を謝

だが、韋應物の文會における詩の應酬を 重ね合わせたのは、至極當然のことであった。 に に

謝 察すると、

に對し、秦系の場合とは少しく

なる、ある共

した

識があったことが見いだせる。このことについては、先論2においてすでに觸れるところではあるが、ここでは、その

識を確

するにあたり、まず、韋應物「

宣 路 見ておきたい。 事」詩を

江上宣

郡江上宣

獨舟 の郡

到時獨舟

雲林謝家宅雲林謝家の宅 く到るの時 中國詩文論叢第二十七集

(10)

山水 亭祠山水

綱紀多閑日綱紀閑日多く 亭の祠 游得賦詩

游して詩を賦し得たり 門且盡醉

(『韋應物集校 此別數年期此の別數年の期 門且く醉を盡くさん

』卷四・

別)

この作は、路

事という人物が宣

へ向かうのを

ものであるが、一讀して明らかなように、一貫して謝への 別する 想が働いている。ここで

何なる人物として捉えていたかが象 意すべきは、韋應物が謝を如 がある。これはつまり、ての謝 して、また、頚聯には公務の閑暇を得て詩を賦す郡太守とし ある。すなわち、頷聯には隱棲を志向し山水を賞でる詩人と に表れていることで

安定 隱と出仕の兩面において こういった謝像の な均衡を保つ謝の像であると言ってよいだろう。

識は、謝への仰

影 れるのみならず、韋應物の創作活動、ひいては處世態度にも として詩中に表 を ぼすものであった。先行

謝の影 究では、韋應物に對する はとりわけ、「郡齋雨中與

讌集)をはじめとした「郡齋詩 文士燕集」詩(卷一・

」と呼ばれる一

の作品に

められることが指摘されており、また、蒋寅氏は、大

における謝の受容において、出仕にありながら 詩人 を得る「吏隱 隱の境地 いる。ただ、大 」といった處世態度が深く關わることを論じて

詩人に謝の影

ば、蒋寅氏の を讀み取ろうとするなら

げる作例が顯

とんどが に示しているように、そのほ の大 體詩型によったものであること、これに對し、そ 詩人の一人と目される韋應物の「郡齋雨中與

集」詩が長篇の五言古體詩型に據るものであることは、 文士燕 されてよい。なぜなら、作品の影 意 べきは、謝の「直中書省」詩(『謝宣 關係の點から考慮される

集校

「高齋 』卷三)や 事」詩などに見られる、(同)

隱と出仕の

盾の衝 の矛

は、五言古體詩の

理性や議論性を據り

るからである。この點において、韋應物と謝の關 としてい が く もっとも、韋應物に對して謝が められなければなるまい。

だ、韋應物の文會において中心作となる「郡齋雨中與 場合のように、郡太守を念頭に置くからにほかならない。た 想されるのは、秦系の

燕集」詩を見てみると、饒州への左 文士

!上にあった

「酬本部韋左司」詩(『 "況が しているが、これらの作から謝に對する、ある共 #$をもってこれに應酬詩』卷二六四)

%した

秦系詩評考(土谷)

(11)

識を探ることができる。兩

の作において、

の表現が

されよう。 意

歡體自輕

意欲凌風 歡びて體自ら輕く

意は風を凌ぎて

(韋應物「郡齋雨中與 けんと欲す

文士燕集」)

安得

風翰安くんぞ

( 肅肅天京肅肅として天京にたらんや 風の翰を得て つばさ

況「酬本部韋左司」)

韋應物の「意は風を凌ぎて

けんと欲す」を承けて、

は「安くんぞ 況 風の翰を得て」と

べるが、これは、謝

「直中書省」詩に見える、

である。 の部分を典據とするのは明らか 安得凌風翰安くんぞ風を凌ぐの翰 つばさを得て聊恣山泉賞聊か山泉の賞を恣ままにせん(謝

「直中書省

」) これは、謝

が中書

であったとき、役

作である。宮殿の景色を美稱をもって文 に宿直した際の いで天空を したのち、風を凌 け、山水を思うがまま樂しみたいと結ぶ。

にあった謝 官

の、ひたすらなる自然への憧憬

がそこに

れる。一方、韋應物の作では、自身の「 めら 」(

(肉體)、「意」(意志)の充實において、「出仕と 、「體」) 隱」の二

を乘り越える

がそこに

められ、現

點まで推し の自己を肯定する地 らも、謝 められている。つまり、同種の表現を用いなが

においては、願

韋應物においては、實現されるものへと踏み の表出にとどまっていたものが、

一方、 んだのである。

況は、謝

の本來の趣意を

案した。左

の ある自身の不 上に を、韋應物が未だ歸

と重ね合わせ、いずれもが を果たせずにいること を吐露している。つまり、「出仕と にるべき身であるとの思い 隱」のベクトルを「歸 と左 」のそれにトレースしたのである。このように、兩 の作には、こういった表現のねらいこそ

!え、そこには謝

に對し一貫して、「出仕と

みの存在が共 隱」といった、儼然たる枠組

"して 識されていたことは、見

一方、秦系は雲霞に臥し狎 らない。 #されてはな

$を逐う布衣の隱士であって、 中國詩文論叢第二十七集

(12)

秦系自身が「中年曾て

す」(「春日 しば辟あるも、病多くして復た遲回 居三首」其三)、あるいは「

年喧を い、常に五千言を事とす」(「常山 くるの思 張正則

と事」)

うに、時の勢からすすんで身を べるよ

ざけ、官界の

ことを頑なに 人になる んでいた。このことからすれば、韋應物や

況に見られたような、「出仕と

隱」の衝

など くもなかった。秦系に謝 こりうべ 像を探ろうとするならば、郡

あり、かつ文會の座 で し得ず、あるいは、劉長卿の詩に見られるような典型 である一點においてよりほかに見いだ

な謝

像とさしたる相

はなかっただろう。劉長卿に、「玄暉

りて理 おさむるを佐け、郡齋

使君留 りなるを聞き到らん」(「奉和趙給事 李 州舍人

謝舍人別駕之什」、『

り、また、謝 詩』卷一四八)とあ の「窗中

岫を列し、庭際喬木俯す」(「郡

高齋閑坐答呂方曹」、『謝宣

集校 有り郡齋窗裏の岫、 』卷三)を典據として「惟 空しく對す謝玄暉」(「

州」、『 柳使君赴袁 詩』卷一五一)と

秦系が「郡中今有り謝玄暉」と る。 べられているのが、それであ たとしても、それに應えて韋應物が「 べたのが阿諛從の言だっ に在りと」と、謝 !う莫かれ謝公方に郡 との引き合わせを言下に打ち

"そうとし たのは、一面、大詩人に比された韋應物の

#遜が ものの、より重 $められる

%なことは、そこに、「(筆

&

韋應物が)一個の文人として詩を賦し、相互に水

うとするのが、郡齋燕集の新しさであった 'な關係を取り結ぼ ろの、蘇州文壇の出現を確 」と指摘するとこ (

こそ、韋應物が、「五言今日君が爲に休えん」と たた $することにある。そうであれば

系の五言詩に稱讃の言辭を べて、秦

ったとする詩話

詩から文 文を指し示す語であると見なしうるのであろうか。韋應物の そもそも、韋應物の作に言う「五言」の語が、相手方の詩 の文壇の本質と乖離するものではなかったか。 )の解釋は、こ

*を言 +ぐ表現を

,べてみると、「嘉

「高文」(三例)、「 *」、(三例)

-.

*」、「麗 るいは、「 、「金玉聲」篇」といった美稱による表現、あ(以上、各一例) *」、「佳詠」、「高詞」、「金玉 確 興るが如し」などといった形容や比喩を多用していることが *に酬いらるるに當に芬絢たるべし」、「篇翰雲の に展開このように、蘇州文壇の 極解されるのである。了いことが低めては性す蓋然 てもまた、この「五言」によって「秦系の五言詩」を指し示 を賞贊することには當たらないと言ってよい。この點におい $しうる。の語をもって先方の詩文「五言」したがって、

/して了解されるべきは、

秦系詩評考(土谷)

(13)

韋應物が

べる「五言」は、「韋應物の五言詩

「韋應物の五言古體詩 すなわち」、

壇で重 る。その五言古體詩こそが、韋應物を中心としたこの蘇州文 のことを指しているということであ」

韋應物にはこのほかにも、同じ七言 された詩型であった。

句の作である「

ごろ、潤州一)(現在の江蘇 系赴潤州」詩がある。これは、貞元六~七年(七九〇~七九 秦 に赴く秦系を江)

ある。 別した詩で

作新婚鑷白髯

不知方伯 更欲攜君虎丘寺更に君を虎丘寺に攜えんことを欲するも 衫長長懷舊卷映に舊卷を懷くも衫映ず つね ごろ新婚と作りて白髯を鑷き

征帆知らず方伯の征帆を

(『韋應物集校 むを 』卷四・

別)

第一句と第二句は對句を作り、秦系は白髮の老爺にして再婚を果たしたばかりであり、長き詩業に比して仕官

ことが もない

べられている。「

た 卷」は、これまで書きためてき 作のこと。「衫」は官

見た秦系「 を言うが、ここでは、さきに 事奉 中韋使君」詩の第二句「

袍忽として

れば狎

あることを示す。以下、虎丘寺に共に 飛ぶ」と同じように、秦系が出仕したばかりで

先の長官が君の到 れ立ちたいが、赴任 を待ち

ここで んでいるだろうと結ぶ。

目されるのは、第二句に「長懷舊卷」と

系の詩業に言 べ、秦 る第一句に續いて、七言詩特有の輕妙な筆 していることである。この部分は、對句とな

「君の長年に亘る詩業に比べ、この度官 を見せており、

より重 る。これによって、韋應物は秦系に對してその詩業の側面を る詩業の重みに對して僅かなものでしかないことを示してい まばゆく照り映えている」と、仕官という大事が、長きに亘 を身に纏った君は していたことが了解されるのである。このような

識は當然、雙方が詩を唱和してきた來

のであったはずである。秦系が韋應物の知 に照會されるべきも

を得るべく

た「 っ

事奉 書」詩において、秦系の作に應じて七言 中韋使君」詩に對し、韋應物は「答秦十四校

する見解は形 應じた。ここから始まる雙方の詩の唱和によって、秦系に對 句を用いてこれに が七言 されてきた。こういった點において、この作

句の型式によって

くない。つまり、韋應物において、秦系は七言 り立つことの意味は決して小さ

することが念頭に置かれていたのではないだろうか。韋應物 句を得意と 中國詩文論叢第二十七集

(14)

が「答秦十四校書」詩で、得意の五言古體詩ではなく七言

句を用いたと

この見方を補 る。 べた理由が、ここにあると考えられるのであ 詩を見ておきたい。 するものとして、皎然「題秦系山人麗句亭」

獨將詩

領 生獨り詩

を將て

但看 生を領し

山不愛名但だ

亂床 滿院の竹聲滿院竹聲堪愈疾愈ます疾きに堪え 山を看るのみにして名を愛めず もと

片足 亂床の

(『 をるるに足る

詩』卷八一七)

詩題の「麗句亭」は、天寶末年、秦系が安祿山の

兵を

けて

溪に隱棲した頃に

れた際、亭にこの詩を書き付けた。賈晉 いたものである。皎然はそこを訪

『皎然年譜

(七八三)建中四年 』では、

門弟を のこととする。詩には、秦系は多くの えるものの、彼自身は恬淡としていたことが

れ、以下、麗句亭の風景が詠み べら 第一句に見える「詩 まれる。

」は、詩經から續く詩歌の正統

典範のことであるが、彼の な

した詩論書である『詩式』にし ばしば見られるように、皎然においては詩歌

の正統性を

張する際に用いられる語である。皎然は韋應物に宛てた「答蘇州韋應物

中」詩(『

のなかで、詩』卷八一五)

「詩 頭

殆ど淪缺せり、庸

騷の韻を 互いに相い傾く。忽として風

、我が夙昔の

に會す」と、韋應物と詩歌

が一 したことを明らかにし、加えて、自身の詩歌

五言古體詩に應じて示している を韋應物の

。このように、「詩

の使用が皎然においてその詩歌 」の語 門弟を從えている」と ば、皎然が秦系に對し「君だけが詩歌の正統をもって多くの を示す尺度計であるとすれ よいだろう。この點において、この作が七言 て肯定されるもの、受け入れられるものとしてあったと見て べたのも、秦系の詩歌は皎然にとっ

句から 系が七言 つことは、さきの韋應物の作が容易に想されるように、秦 り立 句を得意とする詩人であるとの

!識が あったと見るべきではないだろうか。 "提として

五結 語

秦系に對する詩

#は、劉長卿の「五言長

にある。このような見方は、詩話という獨特な領域のなかで で、五言律詩に優れた詩人と見なされてきたことがその根底 $」に呼應する形

秦系詩評考(土谷)

(15)

共鳴し合いながら

古體詩型を基 壇が展開するなかで、秦系はそれに參與し、この文壇が五言 にはならないはずである。一方、韋應物を中心とした蘇州文 學の一面を映し出しはいるものの、それがすべてということ おいて、五律に優れる詩人としての秦系像は、確かに彼の文 幅されてきたものと見てよい。この點に の七言 單にこの文壇の存在が明らかにされたことのみならず、秦系 とすることを引き出して見せた。このことは、

句の作品が、彼自身の文學を形

うに、秦系の詩歌とその詩 一定の意味を有するものであることを示していよう。このよ することにおいて ぜなら、この兩 在はともかく、韋應物の存在も閑却されるべきではない。な を檢討するならば、劉長卿の存

はいずれも中

がら、彼らの詩風は相互にまったくなる 期を代表する詩人でありな れているからである。大 ことが明らかにさ

和文學の嚆矢となる韋應物との の余韻の中に生きた劉長卿と、元 の相が集

るのが、この秦系に對する詩 に表れてい であったと言えよう。

(1)高 】

『 詩品彙』總敍(文淵閣四庫

書)に「大

則有韋蘇州之 貞元中、

澹、劉隨州之

曠、錢

贍、皇甫之冲秀、 秦公

之山林、李從一之臺閣、此中

之再

(2)計有功『 也」とある。

詩紀事』(上

古 出版 、一九八七年七

(3)胡震亨『 )。

統籤』(上

古 出版 、二〇〇三年四

(4)『松浦友久 )。

士 悼記念中國古典文學論集』(

〇〇六年三 文出版、二

(5)このほか、 )。

!"

#『中國文學家大辭典

(中 五代卷』

$書局、一九九二年九

(6)秦系、字は公 物の作を引用して秦系は五言詩に優れるとしている。 )の「秦系」の項目には、韋應 。號は東

五三)、科 興)の人。開元十三年(七二五)ごろの生。天寶十二年(七 %客。越州會稽(現在の浙江紹

&に應ずるも

の '第しなかった。天寶末年、安祿山

&兵を (けて )溪(

)山のこと。現在の紹興

曹蛾江の上流付 *州あたり、

+)に隱棲する。大

薛嵩の奏により右衞 五年(七七〇)ごろ、

任に就かなかった。大 ,府倉曹參軍に召されるが、病と稱して し、彼と詩を 離婚により謗りを受けたため、劉長卿の滯在する睦州に流寓 十三年(七七八)ごろ、妻謝氏との 和している。大唱 んに唱和した。また、湖州の皎然を訪れ詩を 十四年(七七九)ごろ、泉州(現在の

-

建泉州)に客寓し、南安の九日山に爐を結び、『老子

.』を 徐泗濠 /す。貞元六年(七九〇)から七年(七九一)ごろにかけて、

0度使の張建封の招聘を受け任地に向かう

に逗留し、蘇州刺史の韋應物と詩を唱和した。本稿で 1中、蘇州 げる、秦系「 2り上 3事奉

4中韋使君」詩、韋應物「答秦十四校 中國詩文論叢第二十七集

(16)

書」詩、同「

の時はまた、戴叔倫から 秦系赴潤州」詩は、このころの作である。こ

別の詩を

在の江蘇 られている。潤州(現 江)を

した際、

張建封が卒すると、泉州南安に が作られた。書與劉隨州唱和詩序」貞元十六年(八〇〇)、 輿と邂逅し、「秦君校 ごろ、卒。傳は『新 った。永貞元年(八〇五)

書』卷一九六。專論として趙昌

系考」(『中 「秦 文史論叢』一九八四年第四輯、上

古 出版 の李昭 があり、本傳に對して補正がなされている。このほか、北宋 ) による「跋秦系詩」は、秦系の來

で貴重な を考察するうえ 料と見られる。これについては、

( れたい。なお、本稿に 20)を參照さ

(明銅活字本『 宋・南安本の系統と見られる『秦隱君集』一卷・詩三十八篇 り上げる秦系の作品については、北

五十家詩集』

收、上

古 出版 八一年八 、一九 )を底本とする。この本については、

(7)呂 されたい。 を參照 卿、字は縉叔、泉州晉江(現在の

は『宋史』卷三三一。『新 建泉州)の人。傳 書』世系表の

(『蘇魏公文集』卷六五)によれば、「 あったことが知られているが、北宋・蘇頌「呂舍人文集序」 纂に最も功が 縉叔 卿、在

謂陸 史書、

、秦系、

僭 辟命、窮不仕、宜列隱

うに、『 !」とあるよ

"

書』に傳を殘さなかった秦系に對し、呂

これを『新 卿が 書』隱

!傳に 李昭 り入れたという。さらに、北宋・

「跋秦系詩」(『樂靜集』卷五、後

參照)によれば、 「比有客自泉南來歸、出系詩三十六篇、號秦隱君集。

(呂 縉叔

卿)序其本末、與傳粗合」、とあり、また、南宋・

#$

珪『

系作、 %碎事』(卷四下)は、「隱君亭/在泉州南安縣、爲秦 卿撰記。圖經(出典不明)」とあるように、

卿が秦系の詩集を撰したことを明らかにしている。これらは、陳振孫『直齋書

ことに相當しよう。陳振孫は宋 %解題』(卷一九)に言うところの南安本の

佚)から &求『寶刻叢章』(三十卷、

『 !詩二篇を補い、三十八篇とした。以上の流れが、

五十家詩集本』

別のものとして、 收の『秦隱君集』であろう。これとは '・瞿庸『鐵琴銅劍樓

(書目 に言うところの『秦隱君詩集』一卷は、胡震亨『 %』(卷一九)

によれば、南宋・紹興年 )統籤』

*の南安

刻本と見られ、『 +管學事であった張端の )統籤』、および『

(8)李 の流れを承けたものと見られる。 ,詩』四十篇はこ -等 『文 ./ 』(中 書局、一九六六年五

本稿では、『 )。なお、 之文集』(四部叢刊)、および

文を參照し、 01高橋氏論

(9)先行 2干の校勘を施してある。

をめぐって 3究として、このほか、同氏による「劉長卿詩の表現

4價史 5側面から」(『中國文學

一九八二年十二 3究』第八期、 )、また、蒋寅『大

6詩人 3究』上

(中 書局、一九九五年八

)がある。蒋寅氏はまた、『大

人 6詩

3究』上

・「第三章方外詩人創作論」・「二、隱士詩人 5正 7

秦系」(中

書局、一九九五年八

)のなかで、

秦系詩評考(土谷)

(17)

秦系は當時から五言律詩に優れると見られていたことを指摘する。(

10)この種の比喩表現の特

あった元 ることである。その例として、白居易とその「文友詩敵」で は、唱和の場を戰場に見立ててい の

(朱金 たことが知られているが、白居易はその序文「因繼集重序」 には、『元白唱和因繼集』十七卷(佚)があっ 『白居易集箋校』卷六九、上

古 出版 八年十二)に「夫れ文は 、一九八 を戰いなり」と

居易はほかにも、劉禹錫との べている。白 に『劉白

(佚。『劉白唱和集』卷三)があったが、その 洛寄和卷』一卷 纂 を た「與劉蘇州書」(同卷六八)に「詩敵の勍なる べ 、 非ざれば誰ぞ。 得に 後の相答、彼此一に非ず。彼れ

にして

つべく無しと雖も、此れ亦た利に非されば行われず」と

( ている。 べ 11)『 詩』、および『劉長卿詩

年箋 』(中

( 九六年七)による。 書局、一九 12)

(6)および(7)

の『秦隱君集』(

( 詩集本)による。 五十家 13)あるいは、律詩(長

)の劉長卿に對して、秦系は

( 句

品中、七言 師)を用いていたと想像することもできよう。秦系の作

句の作例數は五言律詩のそれに

占めているからである。秦系の七言 ぐほど多數を おいて後に 句については、本論に

べる。 (

14)方回『瀛奎律髓彙

』下(上

古 出版

( )。 、一九八六年四 15)劉長卿「

洪師不

!」詩(『

秦系「題女 詩』卷一四七)、および、

( "士居」詩。

このほかにも、胡應 16)秦系が劉長卿よりも優れると見られていたことについて、

#『詩藪』

$卷四・

%體上・五言(中 書局、一九五九年十)に「秦系『流水

&

門』(筆 院、春風與閉

「山中

'張正則

事」詩)、小見幽楚、此外 無足采。

人謂 種の見方は、「 (劉長卿、時論不足憑如此」とある。この )*輿のこの序文(筆

「唱和詩序」のこと)を想定する以外、他にはない」(

( 九六頁)とされる。 高橋氏論文・

17)胡仔『

+溪漁隱叢話』(人民文學出版

( 、一九六二年六)。

18)

文治 ,『宋詩話

篇』第八冊(江蘇古

出版

( 九八年十二)。 、一九 19)

(6)、および(7)

の『秦隱君集』(

( 家本)。 五十詩 20)李昭

-、字は

.季、鉅野(現在の山東

は濟南の人とするが、四庫 /野)の人。『宋史』

書提 0により

1りとされる。元 2年 (一〇八六―一〇九四)の

3士。

を齊しくし、蘇軾の知 4くして晁補之と名 は『樂靜集』三十卷。「跋秦系詩」は、その !を得た。傳は『宋史』卷三四七。集

呂 $容によると、

5卿の序になる『秦隱君集』三十六

の跋文であるらしく、 中國詩文論叢第二十七集

(18)

『新 書』本傳を引用し、秦系の傳記や作品について

校勘を施するほか、その詩風について 干の

( べている。

21)李昭

『樂靜集』(四庫

書珍本初集・集部・別集

( )。

22)胡應

『詩藪』篇卷四に、「大

中 以 、稍厭

漸趨澹淨、故五七言律 、 空流暢、時有可

( 」とある。

23)蒋寅『大

詩風』(上

古 出版 、一九九二年八

( 八章體式與語言」。 )「第 24)『早稻田大學文學

究科紀

田大學大學院文學 』第五二輯・第二分冊(早稻 究科、二〇〇七年二

( )。

25)『

才子傳校箋』卷三・「秦系」(中

書局、一九八七年五 、項目執筆

は儲仲君)は「三首」とするが、『

卷一九〇「韋應物」に見える「酬秦 詩』

を、陳 君徐少府春日見寄」詩 君氏は『

詩續拾』卷一八・「戴叔倫」(『

補 詩

』中 書局、一九九二年十

( 叔倫の作とする。 收)のなかで、これを戴

26)韋應物集の

本論においてさきに言 本はこの語を「床頭」とするが、あるいは、

るように「牆頭」に作るほうが、意味が した『後村詩話』の引用句に見られ

( りやすい。

27)陶

・王友『韋應物集校

!』(上

古 出版 八年十二 、一九九

( 底本とした。 )。本稿における韋應物の作については、これを 28)葛曉

"『山水田園詩

#究』・「第九章山水田園詩

#$余

%」(

&

'大學出版

、一九九三年一

)、蒋寅『大

詩人

究』・「五自

(一家體卓爲百代之宗韋應物」(中

一九九五年八 書局、

)、および、赤井

學院大學 )久「郡齋詩について」(國

*文學會々報、一九九六年、のち『中

詩壇の

創文 究』

、二〇〇四年十

( 收)。 29)蒋寅「吏隱:謝與大

詩人」(『中

一九九二年十二 文史論叢』第五十輯、

)、『大 詩風』「第三章時代

$偶像大 詩風與謝」(上

古 出版 井 、一九九二年)。このほか、赤 )久「中

報』第三十九輯、一九九三年、のち、『中 における『吏隱』について」(『國學院中國學會

詩壇の

文 究』創

、二〇〇四年十

( 收)に詳しい。

30)謝

+『謝宣

,集校

!』(上 古 出版 、二〇〇一年四

( )。

31)興膳宏「謝詩の抒

三 -」(『東方學』第三十九輯、一九七〇年

( )。

32)松原

.「大 詩の 樣式の超克韋應物離別詩考」(『中國離別 (立』

文出版、二〇〇三年六

( 頁。 )。引用文は、三一八 33)賈晉

『皎然年譜』(厦門大學出版

、一九九二年八

( )。

( 34)詳しくは、先論1を參照されたい。

35)劉長卿と韋應物の相

/を論じたものとして、赤井

長卿詩論長州縣尉時の左 )久「劉 誌』第一〇一卷第五號、二〇〇〇年、のち、『中 0を中心に」、(『國學院雜

詩壇の

究』創文

、二〇〇四年十

收)がある。

秦系詩評考(土谷)

参照

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