• 検索結果がありません。

興 福寺小子房 関係文書につい て 歴 史 研 究 室

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "興 福寺小子房 関係文書につい て 歴 史 研 究 室"

Copied!
3
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

興 福寺小子房 関係文書につい て

歴 史 研 究 室

興 副 寺所 蔵典籍 占 文 書 調 査 に 際 し て,興 拓ドな上│刪 潮が小子 房 に関す る平安 時代 中 期の2通の 申状 の 写し が 発見 さ れ た。こ の2 通は と もに 第44函に収納 さ れてい る( 第105 ・ 106号)。1 通は 治 安 2年(1022)  2 月13日(第105号),今1通は康平2年(1059)7 月 2日( 第1〔〕6号)の 日付を 持 つ が, その 筆 跡 な ら び に 料 紙 の 紙 質 は 同 一 で あり, 1人のFで同時 に 書 写 さ れた も のと考 え ら れ る 。なお そ の 書 風・ 紙 質によりその,!::写の時期は 江戸時 代 中期 頃と 推 定さ れ る。2 通と も に,

文 面 に 多 くの 朱XFの 正 方 形 が描か れてい る が,こ れ はその卍文 に 捺 さ れて い た 朱方印の位置を 示 す ものであ ろ う。七大 寺中で「」二階 僧 房」と呼ばれ る 僧 房をも つ の は興 柵 寺 の みで ある。 し た がってそ の印 文 は 写されてい ない か,おそら くは 「興 副 寺印」で あ っ たろ う。なお袖 に「興 福/寺 印」の朱 方 印 が 各1顆捺 さ れてい るが,こ の 印 は 新 し いもので ,明 治 年 間 頃 に 捺 さ れ た も のと 考え ら れ,そ の正文 に捺 さ れ て い た 朱印 と は無│則 系の も のであ る。こ の2 通の 文 書 は 時 代の降 った 江戸 時代 中 期の 写し であ る が,原木の忠 実な 臨 摸 本であ り, その雰幽気を か なりよ く今 に 伝えてい る よ うで ある。その 木 文 は学界 未紹 介 の も のであ り,ま た 僧房小子房に関 する 文 ぶ:として 内容 的 に も き わめて稀 な 史料で ある た め,後世の写 しでは あ るが こ こ にその全 文 を 紹 介 す る と と もに,そ の内 容 について説明を加えたい 。

治 安2年 の 僧徇 照 巾状写には 「詰小子 房事/在上階馬 道 以東第二房」, 康平2年 の法師 澄 賢 申状 写に は「請上限 馬 逆以 東第 二小子 房」と あり,と もに同じ小子 房第二 畄 に対 す る 政 所 証 判 を 詰うた も ので あ る。 僧 均 照 申状写 の 右 端 に は 斜に捺さ れ た 朱 方 印 の 左半部 が 写 さ れてい る が, これ は 紙 継目に 捺さ れ た 印 であ り, この 文書 の原 木 は辿券であったこ とを 示 す ものであ る。法 師 澄賢巾状町に は 紙 継目 印 と考えられ る 印 彫は見られ な い。ま た 僧徇 照 巾状写は「 大師 大 僧 都 御 充 文」に 対 す る安堵,法師澄 賢巾状 写 は 「舎 弟噌教元 」の 譲 与 に 対 す る安堵を請うた もので , 人物 につい て は 両 通 と もに 直接関辿す る と こ ろはな い。治 安2年 よ り 康平2年 までは 37年 の 隔りが あり, この間に 少 く と も他に1通以 上の 文,IFが あ っ たと考え る の が111然 で あろ う。し た が って この2通 の申状 写はもと 数 通 以 上 が 迚 芬とな ってい た も のであ った か,何時 し か 散佚し, 江戸時代に入 ってもなお 伝 存 し て い たこの2通( 或は心 こも今少しく伝っていたかも知 れない)が占 写 され,今 に残され た も ので ある。

この2通はと もに 奥に鬨陥寺 別 当・権別 ヅI.  ̄ミ綱連署 の政所 証判 が 加え られて い るが,その I'l ■#部分は後 區の 臨 摸 で あ ることと 扣まって 判,涜困難なとこ ろが多い 。 し かし 別肖 ・権 別 当 に つ いてはy 興 福寺 別当次 第j によ って拑定 か可能 とな る。僧 徇照巾状 写 に 見え る別当 は第21代 林愎 大 酊丿都 で あ ろ う。r 閧 髷寺別当次 第j によ れば, 林懐は長 和5年(1016)  5 月 任 興 福 寺 別 当,寛 仁元年(1017)  3 月 大 僧 都,万 方2年(L026)  4 月卒と い う。しかし 口酬 貼li任』に よれ ば林懐 が 柚 大 僧都から大f州 邵に転じたの は治 安3年12月 で あり,両占 のⅢ]に は 矛盾 がある。し

−13 一

(2)

奈 良 国立 文 化 財 研 究 所年 報

か し僧 仙 丿 照 申状写 には 「別 当大僧都 (自署 影 ) 」とあ り,も し 「権」の書き落 しがな いな らば,

『興福 寺別当次 第 』 の方が正 しいもの と考 えられ る。

次 に治安 2年 時の興福寺権別 当は扶公 であるが ,この文 占に見える権 別当の 自署影 は扶 公と は程遠 い字形 を して いる。 しか しこの文書 は後代 の臨摸 であ り,臨摸の際 にその 形を十分 に摸 す ことが出来 なかった ことによるの ではなか ろうか 。 『 興福 寺 別当次第 』 によれ ば,扶公 は万 寿 2年に林懐 没後 をうけて興福寺 別当に任ぜ られ ている。 この間長和 3年任権少僧都 ,治安元 年10 月任権大僧 都 ,別 当となった後の 万方 4年に大僧都 を辞退 した という。一方 「 僧 綱補 任 」 においては,扶公 は治安元年権大僧都 に任 ぜ られ たが ,万力 3年の条になる と大僧都 と見 えて お り,しかも翌々 年の 長元元年 (1028 )条 には12 月に権大僧都 を辞 退 した とあって矛 盾 してい る。 しか しこの 両游 を併せ見る と,いずれ にせよ扶公が大僧都 になったの は別当補任の 万寿 2 年 以後の ことのよ うで ある 。ところかf 阻ld 照 申状写 にはす でに治安 2年に 「刪別 当大僧都 」と あ り,両書 と異 なっている。或は この巾状写が正 しいか とも考 えられるが ,臨摸の際 「権大僧 都 」の 「権 」 を誤って書 き落 した ことも考 えられ ,いずれ をとるべ きかの結論は保 留 した い。

権 寺 主 威 儀 師︵ 草 名 彫 ︶ ○ 第44 函

︶︑ 方 ズ サ 写 文 印 顆︵ 影11 印 第 10 6号 ・o 横43 ︑ 糎 5 ・ 継31 ︑ 糎

政 所 件 房 依 有 譲 状 与 判 如 件 之 別 当 権 大 僧 都﹁ 円 縁 ﹂ 上 座 大 威 儀 師︵ 草 名 影 ︶ 寺 主 威 儀 師 寺 主 大 法 師﹁ 口 明 ﹂ 都 維 那 法 師 権 都 維 那 法 師﹁ 勝 範 ﹂ 目 代 威 儀 師 康 平 二 年 七 月 二 日 ︵ 衍字 力︶ ﹁ 康 ﹂ 法 師 沿 賢 蜥 寺 主 大 法 師︵ 花 押 影 ︶ ○ 第44 函 第 105 号 ︑ 縦31 ・ 5 糎 ︑ 咲43 ・ 5 刊 ︑ 朱 方 印 彫13 顆︵ 印 文 写 サ .ス ︶︑ 愬 僧 澄 賢 申 状 写︵ 康 平 二 年 七 月 二 日 ︶ 謹 言 請 上 膊 馬 逆 以 東 第 二 小 子 .腸 右 住 居 者 舎 弟 仙 教 元 所 治 與 也 仍 政 所 御 判 所 請 如 件

― 14   ―

依 請 行 之 別 当 大 僧 都︵ 自 署 影 ︶ 枷 別 当 大 僧 都︵ 自 署 影 ︶ 上 座 威 儀 師 枷 寺 主 威 儀 師﹁ 口 安 ﹂ 寺 主 威 儀 師︵ 花 押 影 ︶ 目 代 法 師 権 都 祁7維 那こ那

法 法 師 師

¬‑ 、

? 囮

右 件 房 依 大 師 大僧 都御 充文 為 常 住 修学 績 政所 證判 永為 後代 公 験 仍所 請 如 件 治 安 二 乍 二 月十 三 日 僧 徇照 政 所 田 僧 洵 照 申 状 写︵ 治 安一一 乍二 月 卜 謹 言 請 小 子 房 事 在 上 階 馬 道 以 東 第 二 房

日 口

(3)

興 福 寺 小 子 房 関係 文= 部 こ つ い て

この 2 通の 申 状写 を見る と , 平安 時 代 中 頃 におい て は ,僧 房 ・小 子房の各房の11E 僧 は圃定化 し , 一 つの 権 利 と見倣 さ れ る ように な って いた 。 そ し てそ れ は 師 弟 ・肉 親等の 間 で譲与の 対 象 と 考 え ら れ てい た こと を示 して いる 。 ただ し その 譲 与 に 際 し て は ,別 li 以 下の政所証 判 に よ る 承認 が 必 要 とされ て い た 。 古 くは11TI 畠 売券 にお い ても 厂 解 」 式 の 文 占か出 され , 奥 に邵 司等の allE 判 を 得 ているが ,こ の 巾 状 も 同様 の手 続 をとって いる 。 僧房の譲与 に際 してはこの よ うに 厳 格 な手 続がか な り後 まで とられ て い た もの で あ ろう 。

興福寺の僧 房 はまず元耀 2 年 (878 )4 月に焼 け , つ い で 延長 3 年(925)  11 月 に下階 僧 房 馬道 以東が焼 け た が (貞 信 公記 ) , こ の 時は他 の 僧 房 は 無事 で あった 。 しか し永 承 元 年CI  046)  12 月 の大火 に際 しては 巾 ・東 ・ 西金堂 そ の他 の諦伽 眺 と共に 三 而僧房 も焼失 して し まった (扶桑 略 記 他 ) 。 そ の 後の 僧 房 の造 営 時 期 は 明 か で な いが , 寺 僧 の止nE す る場 所 でもあ り , その 再建 は 比岐 的 早 い時期 になされた もの であろう 。 と こ ろ か 虞 ヽ ド 3年 (1060 )5 月 には 再 び火 災に よ り , 朿金 堂 ・ 南 円堂 等 僅 か を除き , 金堂 ・ 講堂 ・ 西金 堂 以下 とと も に僧 房も焼失 して しまっ た ( 虞 平記 ) 。

こ の よ うに興柵 寺 僧 房 は 度々 火災 にあ っ ているが ,治 安 2 年の 時の 小 子房は永 承元年の 火災 以前の もの で あ り ,康 平2年 の 時の 小 子房 は 永 承 元 年 以 後 再 建のもの であ る 。 し か しこ の 小 子 房 も , 翌康平 3 年には焼 久 して し ま っ た 。 その後 も 三 而僧 房 は しば しば火難に あっている が,

そ の 再建後の規模 は常 に お おむね 以 前 の もの を 跡 襲 し て いるよ う で あ り ,治 安 2年 ・ 康 平 2 年 に見える 小 子房東 第 二房の 位yl い広 さ 等 は ともに大 きく異なる と こ ろはな かったで あろう 。

( 田 巾  稔 )

興晢寺講堂 以北建物配置 図 (*印は小子房 馬道東第 二 房 )

― 15   ―

参照

関連したドキュメント

 局所々見:右膝隅部外側に栂揃頭大の腫脹があ

いない」と述べている。(『韓国文学の比較文学的研究』、

定義 3.2 [Euler の関数の定義 2] Those quantities that depend on others in this way, namely, those that undergo a change when others change, are called functions of these

    その後,同計画書並びに原子力安全・保安院からの指示文書「原子力発電 所再循環配管に係る点検・検査結果の調査について」 (平成 14・09・20

柏崎刈羽原子力発電所6号及び7号炉においては, 「実用発電用原子炉及びその附 属施設の位置、構造及び設備の基準に関する規則」 (以下,

KK67-0012 改02 資料番号. 柏崎刈羽原子力発電所6号及び7号炉審査資料

人類研究部人類史研究グループ グループ長 篠田 謙一 人類研究部人類史研究グループ 研究主幹 海部 陽介 人類研究部人類史研究グループ 研究員

人類研究部長 篠田 謙一 人類研究部人類史研究グループ グループ長 海部 陽介 人類研究部人類史研究グループ 研究主幹 河野