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写真ワークショップの中での学び

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Academic year: 2021

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写真ワークショップの中での学び

笹川 貴吏子

1.はじめに

2017 9 9 日、10 日に長崎県対馬市で「写真ワークショップと地域創生」が行われ

た。本企画は、2016年度に結ばれた立教大学 ESD研究所と長崎県対馬市との覚書に基づく 研究連携の一環として実施された。本稿では、まず、本企画の趣旨や当日の様子について 概観し、ワークショップを通じて確認された経験や知見を共有した上で、地域の場所論的 構造を観察した際に見られる学びについて考察を行う。

2.「写真ワークショップと地域創生」概要 2.1 本ワークショップの趣旨

本企画は、地域内外からの参加者で対馬市内の地域を散策し、写真撮影および写真集制 作を行うワークショップである。写真というメディアを活用することで、景観としての〈場 所〉を意識化し、さらに〈対馬〉という特定の場所・空間・風景が、どのような要素によ って組成され、機能しているかを参加者が実践的に探ることを目的としている。また、本 ワークショップでは、上記の作業をふまえて「地域振興と風景の再発見」と題する講演と 討議も行い、景観としての地域の構造分析および地域創生のための議論についても深めた

(野田・宮嶋・笹川 2017)。

2.2 本ワークショップの内容

本ワークショップは、対馬市民から 4名、主催者側から4名の計8名の参加者で実施さ れた。講師は、写真家の宮嶋康彦氏、本学名誉教授の野田研一氏が務め、ワークショップ 一日目は主に写真撮影及び作品選択を行った。

はじめに、対馬市交流センターにて本企画の趣旨を野田氏より説明いただき、その後地 域散策に移った。まず、内山峠にてアカハラダカの渡りを観察した。生憎、当日のコンデ ィションや装備不足のため、私たちは渡りの現場に立ち会うことはできなかった。しかし、

短い時間ながらも鳥たちの渡りを待つことで、改めてここが大陸と日本をつなぐ国境離島 であることを実感した。筆者自身についていえば、対馬を訪れるのは今回が5 度目であっ たが、対馬では地域で過ごす際に国境や大陸を感じる瞬間が数多くある。アカハラダカの 渡りも同様に、筆者にここではない他の場との連続性を意識させてくれるものだった。

次に、龍た て良山 原生林にて最初の撮影を行った。龍良山原生林は、対馬独自の天道信仰の 聖地として立ち入りが禁じられ、千古斧の入ったことのない原始の照葉樹林として、国の 天然記念物に指定されている(一般社団法人対馬観光物産協会 2018)。森の中は、木漏れ 日が差し込み、ところどころで光が可視化されていた。石を抱き込んだ木や、落雷による 倒木、幹の立派な巨木など、一つ一つの木々の表情がとても印象的であった。

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原始林での撮影を終えた後は、鮎戻し自然公園にて昼食を撮り、昼食後は浅藻の八丁角 へ向かった。八丁角は、古来より天道信仰の聖地として知られる場で、島内出身の参加者 の方によると、地域の人でもなかなか訪れることのない場なのだという。厳かな雰囲気の 中、鳥居をくぐって進んでいくと、それまで落ち葉だった地面が、丸石の敷かれた地面へ と変わる。講師の宮嶋氏から、そこが聖域の境界であることを教わり、私たちは靴を脱い で裸足で丸石の上を進んだ。この丸石の敷かれた道は、定期的な清掃の後が見受けられ、

現在も祈りの場として利用されていることが窺えた。少し先 へ進むと、ピラミッドのよう に石の積まれた塔が現れた。神秘的な雰囲気で、対馬の地域に根付く信仰の姿に奥深さを 感じた。

その後、赤米の神事や亀卜 で知られる豆酘 地区へ移動し、豆酘に伝わる「はぎとうじん

1」を地域の方に見せていただいた。また、豆酘の地域の港も訪れた。対馬ならではのコヤ

2や住宅地を抜け、赤米の田んぼへと向かい、最後に多久頭 た ま神社を訪れた。

写真撮影終了後は、対馬市交流センター会議室に戻り、講師による「風景写真」をめぐ る講義を受講し、自作品の選定作業を行った。作品選びでは、当日参加者自らが撮影した 作品の中から5つの作品を写真集収録用として選定した。選定された作品を基 に、翌日午 前中にプレゼンテーションを行った。

ワークショップ二日目は、午前中に参加者が自作品に「タイトル」と「キャプション」

を付ける作業を行った。その後、上述したように、参加者全員の作品をパワーポイントで 一本化し、一人ずつ、その写真に纏わるエピソードやタイトル、キャプションに込めた想 いをプレゼンテーションの形式で発表した。前日の地域散策を振り返る機会となっただけ でなく、参加者それぞれの関心を知ることができ、他者の目を借りて改めて地域と出会い 直すような時間となった。

午後は、選定された作品を収録した写真集を制作するための実践講座を宮嶋氏に実施して いただいた。最後に、本ワークショップを通じて、参加者全員による、対馬に対する内と 外の視点が混在した一冊の写真集『対馬風』(非売品)が完成した。

本ワークショップでの撮影から写真集制作に至る一連のプロセスを通じ、参加者は、写 真というメディアが「風景」を「よりよく見る」方法であることを自覚するとともに、何 気ない場所や事物が「風景」となる不思議な感覚を具体的に学び、地域を異化しつつ眺め る新しいアプローチを実践することができた。写真集制作を目標として設定する本ワーク ショップでは、アートとしての写真を意識化することが、記録やスナップショットとは本 質的に異なる、「風景へのまなざし」の現実化に寄与することを確認した(野田・宮嶋・笹

1 はぎとうじんとは、豆酘地区に伝わるハギレを縫い合わせてつくった衣装のことである。豆酘地区には、そ

の昔、鶴王という美女が、宮仕えのために都へ召し出されることになった際に、老いた母親を一人残していく 悲しみから、都へ上る日に自害したという伝説が残されている。鶴王の願いが、今後地域から美しい娘が生ま れないようにというものだったことから、豆酘地区では、村の娘たちが目立たぬようみすぼらしく見せるため に、はぎとうじんをまとうようになったという言われがある(一般社団法人長崎県観光連盟・長崎県文化観光 国際部観光振興課 2009)。

2 対馬には「コヤ」と呼ばれる高床式の木造倉庫が数多くある。家財や貴重品、食糧などが貯蔵されている。

コヤは防災対策のため、母屋から離され、群をなして設置されている。対馬全体に分布しているわけではな く、対馬の中でも農地多い西岸に偏在している。瓦の使用が禁止されていた江戸期にその屋根素材として平た い石が使われ、石屋根とよばれる。対馬の地形や地質、気象をはじめとする特異な自然環境に影響を受け、ま たそれらを利用しながら生活する人々の生産様式・生活様式の中で培われてきたコヤの文化景観は対馬の特徴 のひとつである(対馬市 2015)。

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川 2017)。

3.「写真ワークショップと地域創生」に見る学び

ここまで、本ワークショップ当日の様子を概観し、ワークショップで確認された経験や 知見について記してきた。続いて、本ワークショップに見られる学びについて考察を行い たい。

本報告書に収録されている野田の「対馬市における写真ワークショップと地域創生 」で は、本企画の目的が、主に現象学的地理学において展開されている場所論の観点から、当 該地域の場所意識やその構成要素と組成を定性的に調査することであると記されている。

本ワークショップが依拠する現象学的地理学の理論では、場所の概念の中に「場所の感覚」

(sense of place)が含まれており、「場所の感覚」に内包される場所概念とは、「知覚上 のまとまり」、「直接経験と意識」、「人間が自らの存在を了解するための手段」、「実在的あ るいは生きられた空間」、「アイデンティティの源泉」である。

上述したような「場所の感覚」を持つ地域の中で、私たちは写真というメディアを通じ て「風景」として場と出会い直すとき、何を学ぶのだろうか。場と結びついた学びについ て、前平(2008)は「ローカルな知」という概念をもって示唆に富んだ説明をしている。

前平はローカルな知を以下のように定義している。

「学校教育で伝達される知識や技術のように外部からもたらされる知識と異なり、

ローカルな知は、時間的、空間的に限定された文脈のなかでのみ意味を持つ、「そのと きその場の特定の事情の知識」であり、人々の生きる状況に依存してのみ意味を持ち うる知であり、文化的資本や人的資本という機能主義的な概念では説明できない、何 ものにも還元できない知として存在している」(前平 2008: 10)

加えて前平は、以下のように続ける。

「学ぶことは、本来、「どこでもないどこか」で学ぶのではなく、また「どこでもい

いどこか」で学ぶというのでもない。とりわけ、おとなの学習者の学ぶプロセスは、

学ぶコンテクスト=空間(ローカル)と密接に結びついている。そこでは、生まれ、

育ち、暮らし、学ぶ空間としての地域(ローカル)が重要になってくるのは言うまで もない。(略)学ぶことは、私の身体を抜きにして語ることは不可能である。そこには、

学んでいるのは、「だれでもないだれか」ではなく、また「だれでもいいだれか」でも ない、他ならぬ「わたし」だというわたしの固

有性(セルフ・アイデンティティ)の 存在抜きにはローカルな知は語れないのである。そのような自覚が意識化されたとき、

「わたし」は、これまでの「普遍的な」知をアンラーンする(これまで学んできたこ とを捨てる)ことになるだろう。」(前平 2008: 10)

上述した前平のローカルな知に関する定義は、本ワークショップにおける「場所の感覚」

とも重なる。これらをもとに、本ワークショップにみられる学びを考えると、それは一般

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的な「科学の知」や制度化された知とは異なる種類の知であることが窺える。前平(2008)

が述べる「アンラーン」とは、G.C.スピヴァクの「unlearn」のことであるが、この「unlearn」

を「学び捨てる」と翻訳した本橋は、以下のように説明している。

「あらゆることに関して自分が学び知ってきたことは自らの特権のおかげであり、

またその知識自体が特徴であることを認めること。そのことと同時に、それが自らの 損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ることで、

その知の特権を自分で解体する」(本橋 2005: 415-416)

また、前平は次のように述べる。

「近代学校の装置は、もともと、被教育者たる子どもへの外部からの「普遍的な」知 識注入を主たる機能にしているために、知識伝達の「場」(ローカル)そのものにさほど 関心を示さない。そこで伝達される知それ自体が、知が生み出され、育まれた文脈=場 から抽象化されて成立しているために、そのような知を学ぶにあたって、被教育者の生 活や歴史や経験が無用であるのと同様に、教える空間=教室は、教えるという一元的な 機能に効率よく特化された空間で十分なのである。」(前平 2008: 9)

以上に鑑みると、私たちが従来身を投じてきた教育においては「場所の感覚 」は重視さ れていなかったことが窺える。また、そのような環境の中で、知らず知らずのうちに、私 たちは何かを損失していると考えることもできるだろう。この、損失のひずみはどのよう な形で私たちの前に立ち現れるのだろうか。地域創生の文脈において、 筆者の問題意識と 照らし合わせて考えてみたい。

筆者は、以前から農山村3の地域づくりに携わる中で、現場で感じる「地域の不在」ある いは「地域との乖離」について問題意識を抱いてきた(笹川 2017)。小田切(2014)は、

今日の農山村が抱える問題を、「人」、「土地」、「むら」の三 つの空洞化という表現で表して おり、それらの空洞化の根底に「誇りの空洞化」があることを指摘している。小田切(2014)

の言う「誇りの空洞化」とは、地域について「こんな田舎には何もない」と口にしてしま う住民の中の諦めや、自分たちの暮らす地域への無関心と言い表すことができる。筆者が 抱いている問題意識もその意味では同じであり、また、そのような「地域の不在」は地域 内だけではなく、地域外においても同様にいえる事であると考えている(笹川 2017)。

上述した今日の農山村が直面する問題は、「遅れた」農村をいかにして近代 化するかとい う開発思想に起因しているといえるが、そのような思想をもとにつく られた開発戦略は西 洋起源の近代科学に基づくものであるということに鑑みると(西川 1989)、ここに開発と

3 小田切(2009, 2014)は「農山村」について、地方部の都市的な地域を除くその他の地域を「農山村」と

し、その中でも特に山がちな地域を「中山間地域」と定義している。また、ここでの「農山村」には農村は 含まれるが、平地農村と比較して、地形的、地理的には相対的に条件不利といわれる地域を表している。農 林統計の区分でいえば、「中山間地域」と概ね重なる概念であるが、それのみに限らずより幅広く何らかの 条件不利性を持つ地域を表現する総称として用いている。したがって、離島や遠隔地の平地農村や漁村など も対象としている。

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教育の関係性を垣間見ることができる。ともすれば、地域づくりにおいては、持続可能性 を見据えた新たな価値観を身に付けるだけでなく、上述したような「unlearn」のように、

私たちの現在の見方を再考するような学びのあり方も求められているのではないだろうか。

4.まとめ

本ワークショップでは、アート作品としての写真撮影を目標化することにより、参加者 は何気ない地域の景物が「風景」として再定義される実践を経験した。「風景」を「よりよ く見る」方法、あるいは「よりよく見る」まなざしが創り出す「風景」の発見により、地 域の事物や景観がたんに観光写真的な価値にとどまらない地域の多様な価値に根ざしてい ることを認識するに至った。また、参加者は地域を「風景」として「よりよく見る」こと を実践的に学ぶと同時に、それらの「風景」のありかたを通じて地域の歴史や文化、さら には地域コミュニティの現状そのものを認識することが可能 となったことが窺えた(野田・

宮嶋・笹川 2017)。

本稿では、上記の結果について「場所の感覚」と「ローカルな知」の関連性から、本企 画における学びについて考察を試みた。本ワークショップにおける学びとは、当該地域の

「場所の感覚」に根差した学びであり、それは「地域を知る」という単なる知識の獲得に 止まるものではなく、これまでの知を再考するような性質を持つものであるといえよう。

そして、地域創生と教育の関係性を考える上では、このような学びが今後ますます求めら れるに違いない。

【謝辞】

本ワークショップへご参加いただいた対馬市の地域の皆様には、二日間を通じて「内」

の視点からの対馬を教えていただきました。また、対馬市市民協働・交通対策課 前田剛 氏、講師の宮島康彦先生、野田研一先生にも本企画を通じて大変貴重な機会をいただきま した。お世話になった皆様に心より御礼申し上げます。

【参考文献】

一般社団法人長崎県観光連盟・長崎県文化観光国際部観光振興課 , 2009,「美女塚 はぎ とうじん」,ながさき旅ネット(2018 3 14日取得,http://tomocchi.nagasaki- tabinet.com/post-1036/).

一般社団法人対馬観光物産協会,2018,「対馬のトレッキング―龍良山」,一般社団法人 対 馬 観 光 物 産 協 会 ホ ー ム ペ ー ジ (2018 3 9 日 取 得 ,http://www.tsushima- net.org/feature/trekking03_04.php).

西川潤,1989,「内発的発展論の起源と今日的意義」鶴見和子・川田侃(編)『内発的発展 論』東京大学出版会,3-41 .

野田研一・宮島康彦・笹川貴吏子,2017,「写真ワークショップと地域創生」対馬市『対馬 学へようこそ―対馬学フォーラム2017』対馬市,60.

(6)

前平泰志,2008,「序 〈ローカルな知〉の可能性」日本社会教育学会編『ローカルな知の 可能性―もうひとつの生涯学習を求めて』東洋館出版社,9-23.

G.C.Spivak, 1999,

A Critique of Post-Colonial Reason: Toward a History of the Vanishing Present

, Harvard University Press, (=2003,上村忠男・本橋哲也訳

『ポストコロニアル理性批判──消え去りゆく現在の歴史のために』月曜社.)

小田切徳美,2009,『農山村再生―「限界集落』問題を超えて』岩波書店.

――,2014,『農山村は消滅しない』岩波書店.

笹川貴吏子,2016,「地域おこし協力隊卒業生は語る④ 地域の現場から立ち上がる関係性 の学び―地域内外でのつながりの回復を目指して」『地方行政』時事通信社,第 10693 号:8-11.

笹川貴吏子,2017,「地域における「第3の学びの場」の役割とその意義―対馬市こども 未来塾での学生実習を通じて」立教大学ESD研究所『立教大学ESD研究所と長崎県対 馬市とのESD研究連携に関する報告書(2016年度)』立教大学ESD研究所,79-84.

対馬市,2015,『学生実習の手引き―対馬の歩き方』対馬市.

(ささかわ・きりこ 立教大学大学院社会学研究科博士後期課程/同ESD研究所RA)

参照

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